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商標権譲受で雪の中旭川行き
東洋時計のマークである「TOYO」商標の譲受けの為

《昭和十二年》 話は少しズレるが、昭和十二年二月十二日のことである。北海道の旭川
市というところは全道を通じて北面に位するので、冬は酷寒の地ということになっているだけに寒さとたら頗る厳しい所だ。私はその酷冬の二月十二日に旭川市の明治屋本店に辿りついた。明台屋は人も知る北海道の時計界では最も古参に属する小売店であり、卸商店でもある。私が所用で辿りついた時は、当時のご主人は佐藤音次さんであり、すこぶる元気な人だった。その健康さと来たら、その寒い最中でも風呂に入ってからは、素肌に手拭を引っかけただけで堂々としていたほどであるから驚く。元気そのものであった。その音次さんの話だと、明店屋は、明冶六年に道庁吏員として開拓団のI人となり、旭川に渡来したもので、その機会に土地を得たものだとの説明である。
従って、それから延びた明冶屋のこと『土地は何所までが自分所有のものであるかは、終戦後の固定資産税調査が行われた結束で初めて判明した』というほどである。その明治屋の元当主音次さんが亡くなられてから現当主の門冶氏が引き継がれているのだが業務中現在は時計が大体主の商材のようである。
その明冶屋さんは、元来物ごとに明細をつくす型の人だけに、その商標類に関することでは、とてもではないが他の想像も訐さないほど沢山の所有権持っている。その中に東洋時計のマークである「TOYO」なるものが、日本文宇とローマ字の何れからでも他の食い込みは許さいないよう明細に登録権を所持しているのである。
私は昭和十一年の暮、押し詰まってから吉日時計店に呼ばれ、当時の支配人であった佐藤健三氏(現佐藤時計店社長)から、その権利の譲り受けの交渉役を頼まれたのである。それによって酷寒の二月十二日に旭川市の明治屋に辿りついたのであるが、始めて見た冬の旭川は雪に埋もれていた。そして道路の中央に雪で作った門を通り歩くように出米でいたのに驚いた。もっとも旭川まで到る函館からの汽車の中でもストーブがあって、それにマキや石炭を投げこんで室内を温めていたのを見て驚いたのである。そのような事情で、佐藤門治さんに対して、吉田時計店からトーヨーなる商標権の譲受けを頼まれた所以を話したのだが、一向に聞き入れてはくれなかった。明冶屋さんはこの外にも、自転車、お酒、時計など、いろいろな種類の商標権を持っていた。だがそれをお金に代えて喜ぶような性格の持ち主ではないのであるから、当然この場合の譲りうけの話について、断ったのは当然のことであったろうと思う。
終戦後に於いてもオリエント時計会社から、再度に亘りこの交渉のダメ押しをしたことがあるが失敗に終っている。

シチズン時計の起死回生に努めた中島与三郎氏の功績
その間の努力と功績は特記する必要がある

《昭和十年》 我が国の腕時計工業が歩んできた過去を振り返ってみると、時計工業そのものに選別をつけた服部時計店の精工舎と雖も易易たるもので、今日の地歩を占めたのではないようだ。
型・デザインにと改良を積み重ねていった中にも、とりわけ性能の完成度という点については進歩を築く上に一段と苦心と努力が払われていたであろうことは、十分想像が出来る。
従ってシチズン時計の場合も同様に、再建は容易でなかったわけである。シチズン時計が今日の隆盛
を招くに到ったその間の努力と成功へのコースの中には、いろいろ他の詮索を許さない苦労もあったであろうが、取りわけ尚工合時計研究所時代から、そのまま埃にまみれて埋もれ放しになっていた生産技術のそれを起死回生に努めたその間の努力と功績は特記する必要がある。
シチズン時計を再生復活させたその功労者は、中島与三郎初代社長である。昭和十年に但しくも八十四才を以て天寿されたその後で、シチズン時計が発行した中島与三郎伝(福田某氏の内容を一読した)が、故人中島氏の個人的生い立ちなどが十分に盛られており、シチズン時計の再起に及んだ場合のものも認められてはいるが、苦心を払った当時の心境を記してないのを見て私は残念に思った。この機会に、特に在りし日の中島与三郎氏が、シチズン時計の再生復活を終生の事業とし、奮起した当時の経路について少しく記すことにする。

日本橋大伝馬町に所在した村松本店の卷
貴金属業界秘話その一

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰かれなしに何か潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。このことは業者全部に該当する言葉ではないかも知れないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものを二、三紹介してみよう。
☆村松本店の卷=日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和の時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であった。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は何所へ出しても通りが良かった。
村松万三郎代表の下に青木という支配人がおり、性格温厚であったが一角の筋が通っていて格式を重んじた人だった。この青木さんが他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があった。話から推測したところでは、支払いの期限についての事のようだった。万が一にもそんな筈はないのだが、と思っだのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだから驚いた。温情らしく持ち掛けて品物を大束に売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞ、というのがここでの第一幕。

次に精工舎が辿った生産状況とは。
腕時計の生産年別概況昭和

昭和二十年度。再出発、昭和二十五年度:四十五万個、昭和三十年度:百二十八万個、昭和三十五年度:三百六十九万個、昭和三十七年度:五百七十万個、昭和三十九年度:七百四十四万三千個。

クロックの生産年別概況

昭和二十一年度:十二万個、昭和二十五年度:八十九万個、昭和三十年度:百七十七万個、昭和三十五年度:二百七十五万個、昭和三十七年度:二百八十一万個、昭和三十九年度:四百四万二千個。

四百人を超える技術者の放流
本紙が「時計の修理職人」の斡旋を無料で行っていた時代

《昭和十二年》 私の商品興信新闊社の方針は、新聞事業が本来であるという信条であったのを、どこかの欄で書いたが、戦前における当社は、新聞紙上に紙上紹介欄を設け、時計の修理職人の肩書と就職の斡旋を無料で行っていた。そのため人によっては、私自身が採用テストを行った上で、希望の時計店へ直接差向けたものもある。「お陰様でいい職人が参りました」と喜ばれたものである。その紹介が何年も続いたのだからザット四百人にも余ることになっただろう。私が必要に応じて地方に出向いたことがある。すると店にいる店員や技術者連の顔がほころびて、やがて店先へ出て来て、「藤井社長、その節はありがとうございました」と礼を言われたことが少なくなかった。そんな事があったので、斡旋者数を数えてみたらザット四百」人は超えたろうという結論に辿ったのである。然し、昭和十二、三年頃から、「徴用だ、出征だ」ということで、それらの人達の行方については皆目不明であっただけに、健在でありうる数が果していくら存するかなど、休息時のはなしの種になる程度のものであった。

蓄音器業界と時計店の連鎖時代
銀座の三光堂は、日本の蓄音器業界の草分け的存在として有名だった

《昭和十年》 現在の時計店がその兼業にメガネ類の販売を取り入れているように戦争前の時計業界にこのメガネの兼業を推進して見たが、どうしても営業上の網にはかからなかったものである。メガネ界に対する国民的な文化意識が欠けていたとみたのかも知れない。否、メガネを必要とする程に文化性が到っていなかったからでもあろうか。
兎に角、今のメガネを兼業しているように、当時はこれに代って蓄音器、レコードの兼業店が頗る多かったものだ。それだけに編集の面でも、蓄音器版なるページを設けて、蓄音器業界の情報を発信していた。また蓄音器の業者数も全国で三千余軒もあったのだから、時計店の兼業の方が多あかった。蓄音器とレコードの宣伝効果という点からも、専門業者のこともさりながら、購読者への効用を考えると、時計業界関係の蓄音器業界における兼業勢力はなかなか重要視されたものである。
本紙の「商品興信新聞」は、この意味でも創刊以来蓄音器業界に喰込み、大いに気を吐いたものである。その当時のレコード会社の種類は、ビクター、コロンビア、テイチク、ポリドール、キングなど。それ以前からの古いものには、ツバメ印の日東レコード、ワシ印のニッポノホン(日蓄)等があり、当時の蓄音器業界は賑やかだった。
洋譜では、スタンダードレコードなども発売されていたと思った。従って毎月の新譜発売に備えた各社の試聴会の開催などは、北京料理店か有名なレストラン等で開かれ、ごちそうが盛沢山出され、会社側のサービスはなかなかのものであった。
銀座の三光堂は、松本常次郎さんの経営で、そこに関さんという支配人がおり、支店が浅草の並木町にもあった。この銀座の三光堂は、日本の蓄音器業界の草分け的存在として有名だった。その二階にツバメ印の日東蓄音器の吹込所が設けられていた。当時の蓄音器界は、日蓄に対立していた日東蓄音器の勢力が大きかったとして有名であった。その支配人に米山さんという人がおり、文芸部長に山下という小柄な人が元気で、且ユーモアのある人として活躍していたものだ。その後支配人になって小売店を巡回する際にも一つの山下式アイデアを持ったひょうきんに富んだ人で有名だった。
その山下さんのあとには、松村亀吉さんという人がいた。紳士的な人だけに信望が厚かった。銀座にはこの三光堂と並んで十字屋(倉田)、山野楽器店があり、十字屋の主人である倉田さんは、蓄音器組合の組合長をしていた。
山野氏も昭和十年頃に一度就任したことがある。山野さんはビクターのジョバーとして、又ロータリー倶楽部員でもあり気品のある人だった。更に新しいアイデアをもつなど、期待された人だった。
従って組合の行政面においても一つの企画が持たれていた。日東と対立していた日本蓄音器は、米国系の資本で賄っていたので、ワシ印を表徴していた。従って代表のJ・R・ゲアリイ社長は、東京芝浦電気鰍フ社長でもあり、バタ臭い方針がとられていた。
この頃業界の状勢は、ひと頃の日東勢力がだんだん低下して行った時代であり、その反対に資本力にものをいわせた日蓄の伸び方が素睛らしかった。
蓄音器業界は、支配人制であって日東側の勢力は、人物的にも日東の米山専務対松村日蓄の支配人という構図がとられ、対立のもようを見せていた。その勢力の一コマを上げると業者組合が何かの催しをする際にはお伺いを立てると、その系統的色彩の如何によって寄付金額に差がついたものだ。然もその差のつけ方がはなはだしくきつかったという。またそうハッキリするところに当時の蓄音器業界の商業努力を表示することにもなり、興味が持てた。
私達のスポンサー目当ての職業分野は、日蓄、日東ともにその文芸部の勢力次第で処理されていたものだ。後に伸展して宣伝部は独立することになったが、当時はレコードを作る文芸部が全社の主輪となっていたのであるから、会社内の勢力は常に文芸部長によって左右されていたものだといえる。日蓄の松村武重氏は、通訳を兼ねて入社し、文芸部長になったのだから、入社後は一気に勢力を強めた人だった。

日蓄のスト騒動と当時の内紛
日蓄王国は松村支配人の勢力下に収まった

《昭和十年》 当時蓄社に突如、ストライキが持上ったことがあった。このストには、文芸部の動きが非常なものだった。川崎のコロンビアが当時の日蓄社の工場であり、私たちはこの工場に参観もし、案内もされていた。
文芸部は、赤坂の霊南坂にあったが、ストライキがあり川崎工場に移転した。文芸部の松村氏はその上にいたアウィンという米国の支配人との折合いかつかず、いろいろ内紛が勃発したようだ。
然し内容は、完全に勢力の争奪戦であったのである。だからこの当時のストライキは、日刊紙上にも大きく報道されて興味をもたれたものだ。
社長のゲアリィ氏が解決を急いだ結果、支配人のアウィンの強引力と松村営業部長の権勢力が、ついにハカリにかけられる段階に立到った。このため、業界新聞連でもいずれかにコビを売るものが現れ、米国人のアウィン側に偏って一頁の全面広告を貰ったものがいて、批判を買ったものである。
私は日本人の松村部長と共鳴するところが多かったので、結局は勝利する側に組することになった。かくして、日蓄王国は松村支配人の勢力下に収まったというのは、蓄音器業界の歴史を顧みるのに、持に面白く説明されて可なりとするものである。
この頃、私と行動を共にしていたことのある堀恒夫氏らは、その当時の社長であった佐籐房浪氏と共にそれぞれ別れて、現在なお蓄音機業界で活躍を続けているようだ。

精工舎の三笠号を発売した時代
約三分一位は蓄音器を兼業していた

《昭和十年》 当時の時計界は前述したように、眼鏡類を現に兼業しているときのように、約三分一位は蓄音器を兼業していたものだ。それだけに、時計界王者の貫禄を持つ精工舎でさえも三笠号という新作を売出していた。
時計の卸商社は全国の地区で取り扱っていたが、東京では十字堂を本拠にしていた。それほど時計界と蓄音器店の繋がりは深かったものだ。銀座西八丁目に現在宝飾店を閧いている八千代商会は、戦前は芝囗に同称号で蓄音器店を営んでいた。蓄音器業界では古くからの歴史を持つ有名店である。
小売界の平和な信条の下に生きる人、松崎平治氏とは、たまたま当時の想い出など語らい合った機会があるが、何日も変らないので信頼も厚く、親しけさであると松崎さんは述懐する。

荒木さんが語る「往時の蓄界器業界の情況」
コロンビアは銀座の天賞堂、ビクターは山下商会が取り扱う

《昭和十年》 現在の時計店が眼鏡を売っているように、四十年前の時計店では蓄音器を売る店が多くあった。私が時計業界入りをした日の山時計店では、コロンビアの十一枚ラッパで客を呼んだものです。
コロンビアは、銀座の天賞堂が特約店で、ビクターは山下商会が扱い、象印レコードは三光堂が輸入元だった。
地球印のコロンビアレコードは、芳付伊太郎の勧進帳や娘道成の特盤である吉原〆治の端唄や民謡などが多くを占め、呂昇の義太大、錦心の琵琶、納所文子の童謡、奈良丸の浪花節、小さんの落語などが多く収められていた。
象印のライロホンは、楽遊の小松嵐や、雲右衛門の義士伝ものは素晴しく売れました。洋楽ものは、ビクターにも稀れです。
コロンビアが蓄音器株式会社として銀座に出現したころ「黄金時代」と標題して、大仏さまが蓄音器に耳を傾けた表紙画のパンフレットを出版し、鵞印として針音の少ない両面盤で、小売一円二十銭で売出しました。
次いでビクターも日本で吹込むようになってから、一貫作業を始め日本ビクター会社となり、銀座の十字堂、山野楽器店、上野の十字堂を特約発売元として売出したものです。
復写盤は、至極簡単に出来ますので、帝蓄はヒコ‐キ印、それにオリエント印というのが関西からやってきて、十字堂では鳳凰印でいずれも両面盤で、一枚二十五銭、後で複写盤は、版権問題が起りましたが、いろいろなレベルの複写磐は、相当永い間反乱しました。
日蓄を退社した米山さんが、延寿の清本三千歳など十二面に吹込み、その吹込料が六千円というの突飛な値段として当時の話題となったものです。
その富士山印は、線香花火的に終り、大和音映という会社が三本足の鳥印のレッテルで吹込みを準備したままで姿を見せませんでした。其後、キングレコードが生まれたのであります。フイルム式長時問レコードも出来ましたが、戦時中のため消えてしまいました。
蓄針は、ビクターから輸入された飛行船印二百本入一缶二十銭売りのほかは、国産では大蓄のナポレオン印が柱広告までして売行一番でした。その代りニセ物針が出て、それがグングン勢力を延ばし、蓄音器業界を賑わしたものです。次いてタングステン針、宝石針などと進歩の速度が増して参りました。この当時は九枚ラッパ、十一枚ラッパなどの器械は過去のものとなり、無ラッパ物が歓迎されて来て、日蓄のユーホン、服部の三笠号、ユタカホンは十字堂から最初に売り出されたのでありました。
この頃、蓄音器の時間貸というものがありまして、学校のクラス会などにも利用され、レコードニ、三打をつけて二時間ぐらいで五円の賃貸でした。この蓄音器のむかし、円筒形のろうかんレコードで縁日や夜店で、べっ甲飴、虎丸の浪花節をイヤホーンで聞いた方もおありでしょう。古い話です。
上野広小路の十字堂さんは、蓄音器専門の卸小売店で、ご主人の橋倉新五郎さんは、永年蓄音器業界の組合長に推挙された徳望家でありました。私が氏を敬愛した動機は、開華の市で竹町の村松富洽さんの話を聞いたのがきっかけとなったのであります。
橋倉さんは現品を引き取って見てから、その価値がその引きとった時の価値以上のものがあったので、それだけの分をその店じまいの店主に追加して払いをしたという話が残されていたのに感じたのであります。
商人魂としては、あまり感服すべき事柄ではないかも知れませんが、氏の心情を知る私には頭が下がる尊さを感じたのであります。
私が日の出時計店勤めの合間に、十堂卸部内報の編集などを手伝っていました。板倉さんは、浅草から広小路に移り、間囗は狹いが鉄筋三階建てビルで地下室に店員同様仕出し屋の并当飯に甘んじていたという稀れに見る勤険な方でありました。お子さんは、娘さん二人で婿さんに恵まれなかったために、戦後程無く十字堂の名は消えてしまったのが返す返すも残念に存じます。

ダイヤモンドの十割という重税を撤廃したときの経過
原清、三輪、水渓、沢本氏らに頼まれダイヤの十割課税撤廃運動に加担

《昭和十一年》 この頃の貴金属業界の景気は、時計界とは不可分の関係にあるもので、余り良いとはいえなかった時代である。だから技術の練磨だ、デザインの改良だという面に研究心を伸ばしていただけでは業者側か常にねらいのポイントにしているダイヤについての動き貝合は、依然として鈍かった。
昭和十一年になってダイヤモンドに対する十割という課税は重税であり、悪税であるから撤廃を目掛けて撤廃運動を起そうではないかとの声が上がって来た。このダイヤモンドに対する十割という課税は、大正十一年の当時、浜口内閣総理大臣が不景気のために緊縮財政として打ち出したものであり、ゼスチュア的産物として決められたものである。
ところが、満州事変が起きたりして世情はその後いろいろ変化しているのに独り貴金属宝石界では、十年一日の如く変化がないというところに不満が台頭してきたのであろう。またこの間にダイヤモンドに関する国際的大密輸事件もあったりして、世間を騒がせたりしたのであるから、これに対する運動を積極的にやろうと動いた。
それだけにこの運動は、元の衆議院議員という経歴を持った山崎亀吉氏に依頼した程度で、あまり進んでいなかったようである。この頃の山崎さんは、銀座の山崎商店を手放して日本橋馬喰町の角、金忠商店により添ったところに建てたビルに引移っていた。
そうこうする中に数力月が経って、春の通常国会が開会されることになったので、資金として二百万円もの大金を集めていた三、四人の首脳陣はダイヤモンドの十割課税撤廃運動の成果に何とかメドをつけなければならない時期に願いを込めていたようである。
一般業者筋では、この運動についての情況と動き方については既に知っているらしく、囗かさない向きの連中からは、ゼニがなくなって止めた古議員ぐらいに頼っていてどうしてラチが明くものか、ということをそろそろ表面切っていい出している向が現われていた頃だったので、撤廃運動の推進本部になっていた原清、三輪、水渓、沢本らの御本人達は穏やかではなかったようだ。ある日の夕方、私の社に三輪さんから「知恵を借りたいから雀荘まで来てほしい」と電話があり、出かけてみた。
すると沢本平四郎さんの常宿になっているこの孔雀壮に三輪さんが沢本さんと話をしていた。そこへ私が入って三人で徳利を運ばせた。
そこへ隣に住んでいた原清さんが加わり四人で話し合いを進めた。その席上、三輪さんが口を切って、「どうだ藤井君、君も聞いていようが、ダイヤモンドの十割撤廃運動の件で当局への陳情を進めているのだが、山崎君ではラチがあかないで困っている。運動資金は集めてしまったし、万一の暘合は責任を問われかねない。何かいい考えはないか」と聞かれた。三輪さんは、私が八年前にアメリカへ特派員として送った三木武夫氏がその頃衆議院議員の座を占めていることを知っていたからだと思った。
それにまた、私はこの頃まだ「輪出金属雑貨工組」の事業上の推進を計っていた時期だったので、かなり忙しかったが、「然しこの三人が顔を揃えて頓むといわれたのでは断わるわけにも行くまいし、またこのことが業界のためになるのなら、やるしかないと心に決めた。「兎に角、やってみましょう」と返事をしたのである。



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