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KLMのジェット機はアイスランド空港に着いた
アムステルダムの街は、赤、青など色とりどりの草花を飾ってあった

《昭和三十八年B》 私はこの時、北極圏を飛ぶ時の空の状景は、またとない絶景のものがあると聞かされたことを思い浮べて窓外の空を仰いで見た。すると空を二分した中央とおぼしき所から右側の方は黒く夜を示し、空いっぱいに星がキラビヤカに輝いているのが見えた。その反対側の空は夕暮の光景で、太陽が地平線に没した頃の景観をこの上空にまで照し映しているのである。前もって聞いていた通り、昼と夜の交叉した空の模様を描き見せてくれたのだと感じた次第である。この間眠気醒しのブランディを片手に、星が輝く夜空を眺めていたその時の気持ちを考えると、いまだに懐かしさが湧いてくる。そのすがすがしい空模様もやがては消え失せて、そのあとは真っ暗闇の中をジェット機は轟音を立ててひとり哭っ走っていたのだが、海の上を走る頃ともなれば、視界に入る範囲は悉くが白水が流れているが如くにも見えたので、一寸注意心を呼んで見直してみた。あるいは雲の切れ間かとも思ってみたが、時間から推してみても北極圏に入っているのだから、海中に浮く氷塊の流れなどが雲間を扠いて眼に映ったのだろうとも観察したのである。
この時の感想を“機上より”というハガキ便で東京・上野の野村時計店の野村康雄社長に投函しておいたので、帰国してから話題にしたことがある。
やがてKLMのジェット機はアイスランド空港に着いた。飛行機は給油と整備のため乗客は休憩することになり、空港内の待合室で待機したのである。ここは軍関係の航空基地らしく戦闘機の散在しているのが見られた。天候は生憎の雨である。待合室から窓外を眺めると遥か彼方にエスキモーの部落があるのだという説明を聞かせてくれたが、格別出て見ようというほどの魅力も感じなかった。空港の辺りは閑散としていた。空港内
の売店(酒保)では、酒、タバコ、香水、時計、眼鏡に雑貨などいろいろな物が陳列されており、アンカレッジの場合と変らないとも思った。ここで土産用に「夜間飛行」という香水を買求めたところ税金を課した伝票を切ったので、ノータックスだと言って計算直しを求めて支払ったのだが、これが羽田を飛び出してから最初の外国での買物をした訳である。
待合室で塔乗者全員に食事を出してくれたが、悉くがセルフサービスになっていた。これも初めてやらされたテストということになったのだ。やがて、三時問も待ってから飛行機の整備がついたとみえて、塔乗のアナウンスがあり、七、八十人を乗せた飛行機はオランダのアムステルダムを目がけて飛んで行くことになった。
かくして、アムステルダムに近ずくにつれて天気は晴朗となる。飛行機は午後三時過ぎ頃、ヨーロッパの玄関というアムステルダムのスキポール空港に到着した。初めて見るヨーロッパの印象は、先ずは何よりも吾らの眼に映ったのは、何処の家でも揃って草花を美しく飾ってあることに気が付いたのである。それに空港でのサービスもなかなか行届いており、日本人のKLM駐在員が何かと物やさしく指示してくれたのには感謝し、かつ欧州に入る玄関での第一印象が良かったことになる。
空港から出てくる通路の柱などには、日本文字で「日本人の皆様ようこそいらっしゃいました」と書いた立札を掲げて歓迎の意を表示してある。何というサービスの行き届いたことであろうと感心した。
ホテルまでのバスの中から見るアムステルダムの街の光景は、舗装整備が完全になっており、道路とその洽道に立並ぶアパート群との釣り合いがうまくミックスしているのを見て、なるほどという感じを持った。
更にまた、何処のアパートの窓にも赤、青など、色とりどりの草花を飾ってあるのがヨーロッパというところの家庭様式を思わせた第一印象である。ホテルは「アポロ」といった。このアムステルダムには二泊することにプランがなっていた。写真は、雨中のアイスランド空港。

オランダ人は、日本人に対して親しみを深くして親近感が持てた
アムステルダムでの感慨

《昭和三十八年C》 早速、観光コースに入った。アムステルダムはオランダの首都、ヨーロッパの玄関として名高く、所内には有名な博物館があった。この国立博物館は午後五時まで参観出来ることになっており、そこには、レンプラントの傑作「夜警」を始め、フランス、ハルスヤン、ステエレ、ヨッハン、フェルメール等の著名な画伯が描いた絵が沢山あり、市立博物館には近代美術の名作を数多く集めているので有名である。
コレクションの中には、ゴッホのすばらしい作品が多いことでも有名になっている。
一行のために来てくれたガイドは、家庭の主婦で、その後ご主人が、予定の時間になったら車でホテルまで迎えにやって来た。その時の光景など見て、ヨーロッパの家庭環境の一部がのぞかれ、親しみを感じた次第。街を散歩していた時、アムステルダムの土地の子供が自転車に乗って遊んでいる道すがら、我等一行に向って「ジャパニーズ」と声高く叫んで手を振って迎えてくれた。オランダ人は、日本人に対してはオリンピックの競技を通じて子供に到るまで、親しみを深くしていてくれるのだと思うと何となく親近感が持てた。写真は、アムステルダムの景色。

簡単に女性に手を出すと応じ難い事態になるという
アムステルダムのご婦人連は遊んでいてもいい土地柄のようだ

《昭和三十八年D》 だがそれとは別に、真昼のホテルや街路際の喫茶店で、ご婦人連がのんびり遊んでいるのには少し驚きの感じを抱いた。異国の情緒の一コマとして感じさせられたわけだが、男性だけが働いて、ご婦人連は遊んでいてもいい土地柄であるという実態が読めたのである。
一行の中で英語の解る通訳を雇ったところやって来たのが紀州の温泉境で有名な「久一」という旅館の安問さんという長男坊であった。ヨーロッパに来てから三年になり、いろいろ遊び且つ勉強しているのだという説明であった。その人の話でヨーロッパにおける女性との交際関係について詳しい事情を知ることが出来た。
異国における望郷の恋しさから、ともすればその国の女性と落ちあう事があるというが、然しヨーロッパの国の中には、男性を絶対的に鉄しばりにしてしまう憲法を持つ国があるということだ。だから簡単に女性に手を出すと応じ難い事態になるというのである。写真はアッシャーダイヤモンド会社でダイヤモンドを研磨しているところ。

天皇が皇太子の当時、アッシャーダイヤモンド工場を見学
手記した皇太子のサインを二百万ドルで売ってくれという人が

《昭和三十八年E》 アムステルダムにおける風物では、置物になる風車の形などは特有のものだが、世界の人に愛重されるダイヤモンドの生産については特別興味を持つものである。
我等一行の見学プランの中には、このダイヤモンド工場のアッシャー、ガッサムの両工場を見ることが計画されていた。第二日目の日、先ずアッシャー・ダイヤモンド社の工場を訪問した。予め持参した本社のステートメントをアッシャー社の社長に渡して工場内の参観が許されたのである。アッシャー社では、社長のL,IaaAUER氏が直接応対してくれて詳しく説明してくれた。そして一同が記帳したあと、工場内を見学したのであるが、ダイヤモンドの加工工程を順次見て回っていく中に、特に注意深く感じたのは、女性も男性も共に年数の積んだ熟練工が職場に多く揃っていたということであった。
ここを訪問した世界の有名人が記帳した中に、日本の天皇が皇太子の当時、まだ現代の皇太子がダイヤモンドを目に近ずけてルーペでダイヤモンドを見ている光景が写真帳に綴られているのを見せられ、感嘆した。日本の天皇が、このアッシャー社のサイン帳に手記したそのサインだけを二百万ドルで売ってくれという人がありますよ、とアッシャーの社長さんは笑いながら説明してくれた。
次いでアムステルダムで第二のダイヤモンド工場だというカッサム会社を訪れた。社長のT,J.W.BARONVAM氏は、一行に親しくいろいろ説明してくれたあと、日本とダイヤモンドの取引について懇談したいとし、オリンピックの時に日本に行くからその時詳しい話をしたいと述べていた。ここの会社でべアー商会の上野専務がダイヤモンドを好んでいたので、私がダイヤモンドの品選びをして上げたのであるが、価格はそう高くはなかったが、そう安くもなかったような気がする。
私がルーペで見て選定した純白無キズ物正味五カラットのダイヤモンドは、邦貨換算で八百五十万円の値段を出していた。正に品質最高のものであったので欲しかったが、銭子の関係で断念せざるを得なかっだのは心残りに感じた。写真は日本の皇太子殿下が、且て訪欧した際に訪問した時のアッシャー社における見学中のスナップ。

アムステルダム広場の記念塔に対する感慨
我等一行がホテルへ帰ったのは午前三時に近かった

《昭和三十八年F》 アムステルダムでの見学を終えてその日の夕刻から有志者で夜の散策をすることにした。集まったところはアムステルダムの中心地だといわれるダム・スクエアー、そこに第二次世界大戦に没した将兵の記念碑があった。
この碑は、ナチス党員に惨殺された当時のユダヤ族の悲惨な状景を描き残したものだと感じられるものがあり、何となく見るだけでも息苦しさを感じさせられたのである。これがヨーロッパにおける民族的意識の中の一つであるのかも知れないという感じが持たれた。
それからあとは、夜のアムステルダムの雰囲気に特別浸るコースをとることになり、日本人は特に興味を持つという川べりの夜の情景を探訪することにした。古本屋に行けば好みの特別物の絵などを見せてくれる。ナイトクラブでは、五人も六人もの女性が肌をあらわにして寄り沿ってくる。一行がビールを注文したとたんに中二階のしとねが、風もないのに揺れていたという事態なども現出する場所など、日本を離れてからまだ三日しか経ってないのであるが若い連中の中には、一つの哀愁感にさえ迫られていたようである。
アムステルダムの夜は、パリの一部に似たようなところもあり、またハンブルグに似たところもあって、若い人達には興味の持てる特殊な場所であったようだ。諸々をさまよってから我等一行がホテルへ帰ったのは午前三時に近かったようである。
写真は、アムステルダムの広場にある戦争記念碑。

ロンドン滞在は三泊の日程
ヨーロッパは、お酒よりも水やジュースの方が高い

《昭和三十八年G》 アムステルダムで案外のんびりした気持で過ごすことが出来た一行は、アムステルダムのスキポール空港から次のコースのロンドンに直行した。
ロンドンのヒースロー空港に降り立った時は、日本の羽田空港などとは違って諸事整備されているのを直感した。飛行機の着陸地点からはバスで空港のハウスまで運んでくれるように施設されている。旅行社のイーストマンという人がガイドとしてやって来て、案外如才ない応待ぶりに一同気をよくした。その晩はホテルに荷物を届けてから特別晩餐会を開こうではないかということに話が決まった。夕刻七時頃からビクトリヤロードのそばにある中華料理店に集まった。ヨーロッパでは中華料理が高級の部類になっているようだ。
この時はイーストマン氏が予め注文しておいてくれたものだと見えて、いろいろな盛り込み式の前菜料理など沢山出してくれた。それにビールだ、ウイスキーだ、ブランディなどと飲物を豊富に出してくれた。ここでタップリ食事をした後は、奥の部屋で中華料理を食べるというコースであった。お腹は事前に採ったサロンの場で既に満腹という状態になってしまったわけである。だがこの時の料理はうまかった。
やがていろいろ歓談し、お酒もしこたま飲んだということで、そのあとはナイトクラブでショーなど見物しようではないかということになり、イーストマン氏の案内で一夜の遊楽コースを辿ることにした。
ショーを見物してからナイトクラブで少時間過ごしてホテルへ帰着したのが一時を少し過ぎていた頃だと思う。これから、それぞれお風呂を使ってそのあとはワイシャツなどの洗濯というのが旅行中の日程になっているのだから、消灯時間は人によって異なるが、大体朝の二時を過ぎた頃になるのが通例であった。
ロンドンのホテルは、ウエストミンスター寺院に近いスター・エリメッとかいってバッキンガム宮殿の近くにあり静かだった。古いホテルだが昔から有名だそうで泊り客などは相当国際的にも高度な人たちが宿泊していたようだ。
食堂で我等一行が食事をしたのを見て、ここのホテルのコック長が「ジャパニーズなかなか行儀か宜しい」と賞めてくれた。足を投げ出して威張り散らした格好でウイスキーなど飲んでいる黒人部類の行儀に比べると違うからというようである。
だが日本人の中でも一概には点数がつけられないものもある。
ここで珍妙な話を紹介しておく。我等一行の中には酒を好むものと、好まないものがいて、それらは常にジュースまたはコカコーラなど飲むのが通例としていた。そこで前夜のロンドンの夜を楽しんだ割勘の場になったときに、一人当り約八千五百円(邦価)の割り勘となり、これを特別支出したのである。ところが酒を飲まない連中の一同が申し合わせて団長なる私に対して次のように申し入れてきた。「今後は酒類を飲むものと飲まないものの勘定は別々にして扱ってもらいたい」というのである。私は平均した計算による不合理を理由に申入れて来たのだと察したので、そのまま卒直に申入れを受け入れることにした。その結果、一同に伝えて、「今後は飲物に関する限り各自腹で各自が支払いする」ということに申し渡したのである。
ところ、結末はどうなったかというと、ビール一杯の値段はチップを含めて百二十円、ジュースまたはコカコーラ一本チップ共で二百八十円というわけ。ヨーロッパでは、どこでもチップは一割五分以上を要することになっており、ブランディで百五十円か精々、二百円といったら高値の方である。酒より水の方が高かったのである。
私は、このホテルのサロンで食亊のあとゆっくりグラスの酒をなめていたことがある。その時、A、B、Cという特別のものらしいのを飲んでみたのだが、それでも二百五十円であったのだからヨーロッパでの酒類は甘くして且つ安い価格だと思った。写真は、雨天の日のロンドンのテームズ河畔に立つ筆者と一行。

世界の観光客がバッギンガム宮殿を訪れた
業界関係のある業種の視察も行った

《昭和三十八年H》 ホテルから五分位歩いて行くとバッキンガム宮殿がある。私は朝と夜を問わずこの宮殿を中心にした静かな雰囲気を一人で味わってみたのである。
バッキンガム宮殿における儀伏兵の交替式は、毎日午前十一時三十分から行われるので、この時間を目がけて世界中から集まってくる観光客で宮殿前の広場は大変な賑わい方である。おもちゃの兵隊というのが、この場の光景をいうのであったのだから観光バスのコースには、この交替時間の観光を必ず折込んでいるのが常識となっていた。
市内観光の場では、有名なテームズ河のほとりで第一の展望をしてからロンドン塔、ウエストミンスター寺院、博物館、ビクトリヤロード、ピカデリーロードなどの繁華衙を順次見物していったのであるが、我等一行の中には、時計とその付属品、眼鏡関係などの業者が入っていたので、それぞれ関係のある業種の視察を行った。
それぞれの業種につながる状態など視察する必要があるので、随時勝手にガイドを雇って個別に視察を行ったのである。
だから、それぞれ方面別に視察した人から、その日の行動の情報を聞き取ることにも努めなければならなかった。業界視察という任務を帯びた私の旅行中の努力は、人より数倍を要するものだという実感がこのとき湧いて出た。
従って人が遊んでいる時にも私は目的に関する資料を求めることにしたのである。だから朝七時には遅くも起床した。そして一日中活動したあとの夜ともなればナイトクラブの雰囲気の探訪のことなどもコースの中に取入れなければならないことになるので、ホテルに帰るのは大体午前二時から三時頃になる日が続いた。だから健康にも満点でなければこのような目的の旅行はやっていけないことになる。
私はこの点を特に気にしてかかることにしていたので、酒の量を控えて行動することにした。ロンドン滞在中に感じたことは、英国のいわゆる紳士な行動ということについて実際に見学したような気がした。そして時計関係では、オメガの宣伝がどこの国へ行った場合でも、同じもので特に眼につくようになっていたのが感じさせられた。写真は、バッキンガム宮殿の儀兵士の交代風景。

デンマークのコペンハーゲンへ
レストランはサービスに徹しているような感慨に打たれた

《昭和三十八年I》 ロンドンの空港からデンマークのコペンハーゲン行を待つ間が三、四時間もあったので、空港のロビーでいろいろな人と出会う機会があった。日本の外務省の役人らしい連中数人がパリの国際会議に出席する為に、ここの空港ロビーで我等の一行と一緒に待つ結果となった。
外国の旅先で同胞と出合うことは、何となく懐かしさを感じるものだ。
やがて飛行機の用意が整ってコペンハーゲン行となった。その結果、コペンハーゲンのカストラップ空港についてから指定のホテル「コダン」に到るまでの道程は、意外と短かったので、時間の都合でホテルまでの途中から、そのままショップなどのぞいて見て歩いたのだが、案外新しいセンスを持った経営ぶりに注目されたのである。
一行の中には、特別に気をひかされたものがあったようであり、探訪に役立ったようである。このコペンハーゲンでは、ホテルの六階がレストランになっており、晩飯をこのレストランで食してみたが、日の丸の小旗を各テーブルに立てるなどして歓迎してくれた。外国のレストランはサービスに徹しているような感慨に打たれた。 
コペンハーゲンでは、交換円を「クローネ」と呼ぶ。観光コースは、市庁舎博物館クリスチャンボルグ宮殿、アマリエンボルグ宮殿、可愛い人魚像、ローゼンボルグ城、ストローケット、コーゲンスニトフ広場、トルバアルセン博物館などがあり、静かな町である。
大体海に面しているだけに船乗り客が夜の頃ともなれば、ナイトクラブなど漁っている姿は、横浜の日本橋付近の感じなど思わせるものがあった。
ここで一つのエピソードがあった。上山とかいったコンダククーが、一行の中の三人ほどで、とある高級ナイトクラブで遊んだときのことである。三人のうちの二人を帰してから自分一人だけが残って踊っていた間に五百USドルを抜き取らたという事件である。ヨーロッパだからといって鼻の下を伸ばしてはいられないという実感の間題を提供した次第。この外にもう一つ、ここのホテルのホステスが夜の八時を過ぎたころになったら別人のような美人に変って外をながめてタバコを吹かしていたのに気をとられた。楽しいケースもあるという巻。写真は、コペンハーゲン空港の時計売り場。

西独のハンブルグ空港では掛・置時計などの新型が陳列されていた
腕時計は、勿論スイスものオンリーであった

《昭和三十八年J》 コペンハーゲンを朝七時四十五分、空港を飛立つというのだから出発の日のこの朝は早かった。一路ハンブルグというコースである。コペンハーゲンの空港では、掛・置時計などの新型が陳列されていた。腕時計は、勿論スイスものオンリーであった。だが腕時計のバンドつきケースの取換用の品物が販売されていたのを見て、矢張りヨーロッパのデザインは一歩先んじているものがあると感じさせられた。
日本では、ごく最近になってそのようなデザインのものを打出すべく、業者間で試作品などを造っていることもあるようである。こんな感想を残してハンブルグ行の機上の人となり、おいしい朝の食事が思い出した。
ホテルは湖に近いアスターという便利なところである。ハンブルグでは業界関係の視察プランが特別なかったので、ゆっくり観光コースを進めることにした。バスを使って見て歩いた中では、富裕階級の住んでいたという戦争前の状態など聞かされたが、この時のガイドは大学生の女性で、戦争以前の住居など細かく説明してくれた。その時、急に「在りし日のヒットラーのことについての感想を聞かして頂けませんか」と尋ねたところ、「忘れようと努めている事なので、それを聞くのは無理ですよ」と少し強い口調で断わられた。私はこの時の彼女の態度を見て、一種の感激を覚えた。だがそのあとでそのガイドマン嬢は「西ベルリンと東ベルリンの対照を現実に見て、自由主義と共産主義のあり方を批判して貰いたい」と訴えていたのが、今だに印象に残っている。
ハンブルグに着いてから日本料理を喫したいような気がしたので「花月」という料亭に行って見た。料亭といっても椅子席である。暫らくぶりで魚のさしみと湯どうふとほうれん草のお浸しという料理にありつけた。何とはなしに東京の感じを思い出すことが出来た。
観光バスで観て回ったあと、このコースでは決ってどの団体の場合でも連れて行くことになっているという、リババンという昔の浅草のような歓楽街のところに行ってみた。ミュージックホールやナイトクラブの順路でショーなど見たのである。ここのショーはヨーロッパ中を練り回っている連中が演出しているのだから、上等であり有名だと聞かされた。
我等一行が入場したこの日の観客はザット四、五百人もいたであろうか。その中からアメリカ、アジア、アフリカ等の各国人の名を呼んで、その中の一入ずつを舞台に誘い上げてダンスを踊らせるという趣向をやるのだから、なかなか気の利いたショーを見せたことになる。その時、我々の組を指して、日本人からも一人ということになり、黒田君が勇敢に躍り上って踊ったので、大喝采を博したことを思い出した。ヨーロッパの芸能人の眼は鋭いものだという感じがした。
この夜、有志で歓楽街での延長戦をやってみることにした。ハンブルグでは、有名なテレホン喫茶というのを探訪したいが、という二人の申し出があったので、用意を十分にしてという打合わせに基いて、彼等はこのテレホン喫茶の中に消えて行った。
私等はいろいろと回ってみた揚句、キャバレー、ムーランルージュというクラブに入ってみた。ここは、今の日本の喫茶店のようにドアーマンがいて、サービスがいいように見えるがそれは外面だけ。中に入ったトタンに汗が出るほど人がいっぱいで、身動きも出来ない程だった。その人ごみの中、半裸に近い美女ホステスがいて、お决りのビールを配って歩くのである。どうもチップの出ない方には行かないらしい。それもお馴染みの方が先ということになるらしく、キャバレー式のやり方である。この辺りは柬京やヨーロッパも同じというケースの感じがした。ただ映画で見るような外国人を交えた酒場の情景が眼の辺りに展開するというのが、ここでの見せ場のようである。
ハンブルグで理髪をやってみたが、ザット日本円の二百円。だがこれは頭髪をバリカンで刈り取ったあと、ハサミで仕上げただけで顔剃りも洗顔もしない。つまり、やりっ放しの料金である。
ハンブルグでは、映画館で見るバーなどに親しむ目的で五人程の仲間と組んで飮んで歩いてみた。昼間からの事だったが、映画の画面と事実がピッタリ、テーブルの上でトランプを楽しみながら、ビールのコップをあけるという寸法でバーにも行って見た。コニカ(CONIKAI)とかいうバーだったが、六時からというのに我等の一行は四時三十分頃にそこの店へ入りこんでしまったのである。ホステス一人が店内の用事を済ませたあとの時だったらしいので、宜しいか?と聞いてみたら「飲むだけならいい」というので入った。
彼女は我等が飲みながら聞くのに答えて、ヨーロッパの飲み歩きの説明をしてくれた。「スペインに行ったら、モテますよ」というのであった。スペインは、確か、女性との関係が出来た場合は、許可なしでは国外への脱出が不可能なのかも知れない?という国情をこの時思い出して笑った。書き落とすところだったが、テレホン喫茶での事件の経過のこと。詳しい内容はあと回しとして、一人二万円だというのを値切って納得したという報告に接した次第。写真は、ハンブルグのバー(コニカ)でホステス相手に飲みながら語りあう一行のスナップ。

ベルリンの巨大な空港ハウス
東ベルリンでヒットラーが自爆した丘に草が生えている遺跡

《昭和三十八年K》 西ベルリンの空港は飛行機が着陸の姿勢となる頃は、その下降路のすぐそばにまでアパート群が林立しているので、一寸感覚を間違えたのではないかと思えるほどの感じがするところだ。
西ベルリンは、東ベルリンに囲まれているような地形だから、空港から降りたら飛行機以外では他に脱出不可能ということになっている地形だ。
我等一行を乗せた飛行機は、そのテニヤン空港に着陸すると機体そのまま空港のハワスの中に吸い込まれるように運びこまれた。米国式の真に巨大な設計ぶりを思わせるものがある。
ホテルは、西ベルリンのメーンストリーの中央位置にある「ロッキシー」と呼ばれるハウスである。ここに着いた時、旅行社から出迎えに来てくれた人は、かってはドイツの軍人さんだったように見えた。バスがホテルに着くまでの短い間ではあったが、沿道に立ち並ぶビルやショップについて、戦争の為に蒙った被害の光景など細々と説明してくれた。日本人びいきの人のようであり、特別の親しみが持てたので、その日のうちに西ベルリンの貴金属、時計、眼鏡界に関する実情を視察することにした。
旅行社のガイドは、貴金属店について、白系ロシア人の店に案内してくれた。そのガイドは、この店へ入る前に「店の名前を読んで笑ってはいけないよ」と予め説明してくれたのだが、よく見ると「〇MANKOSKY」と書いた表札が出されていた。これらの点は国が違っても同様の意味に共通するものかしら、と苦笑した思い出があった。
写真(上)〇MANKOSKYショップで手製の時計ベルトを見ている熊谷、上野の両氏。



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