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近常時代の東京の時計材料界
銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた

《昭和初期》 東京の時計材料界は、明治時代からの材料界の元勲である三十間堀の近常が輸入商の王座としての誇りを持っていた。このほか、銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた。
昭和の初期時代、東京市内にあった時計材料店は小川静、山内材料店,榊原材料店、小島商店、小峰材料店、五味材料店、大田材料店、馬場喜一郎、八田商店、松下商店、伊藤材料店、吉田昌一、上岡実、海野幸保、松本吉五郎、中村徳松、高橋井五郎、小松沢国之助、足立治郎吉、荒木虎次郎、木村健吉、水谷平吉、南岡正躬、宮島伊三郎、清水幸、岩永商店などがある。写真は、腕時計の付属商工組合の新年会。

昭和5年のころ、時計材料卸界が廉売合戦で想像を絶する混乱ぶり
3都連合会の代表が「業界損失防止案」を作り話がついた

《昭和5年》 時計材料卸の五味商店と小峰商店の対立劇は、他地区の同業者にまで広まっていた。昭和5年ごろの時計材料界は、廉売合戦でその混乱ぶりが想像を絶するものがあった。そこで昭和7年7月、東京時計原料組合と関西時計材料組合、名古屋時計材料商組合の3都連合会の代表が集まって、時局収拾の為に話し合った結果、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行に移す声明で話がついた。

昭和7年、3都市時計原料商組合は「業界損失防止案」を可決
東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和7年》 当時は為替の変動や財界の極度の不況により、業者間の競争が激化し、破壊的な相場の広告が出現するなど、3都市時計原料商組合は緊急会議を開き「業界損失防止案」なるものを決議した。
東京の五味材料店と小峰材料店が対立抗争劇は、昭和7年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。
当時は、為替の変動が甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。
全国の業者に発令した内容は、
@ 定価表は、一般的に普及した商品及び再低価格品の価格を時の相場により、協定した建値以下で販売することを禁ずる。
A 本会員は、商道徳を重んじ、他人に迷惑を及ぼすような挑戦的な宣伝、または、虚偽の広告を行ったものを不徳行為と見なし罰する。
B 業界を攪乱するがごとき不当廉売をするものに商品を供給するものにまで、取引の停止を求める。この三項目に違反した者には警告を発し、改められない場合は連合会決議により売買の取引停止とする。賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった。会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものとする。

昭和三十一年、「全国時計附属品卸組合連合会」を設立
組合員の相互便利機関として毎月一日を定例日に展示会を開催

《昭和三十一年》 腕時計バンド業者を集めた卸業組合は、二団体存在している。前述した仮称「美装組合」、いうなれば大卸商団体となり、「東京時計バンド装身具卸商業組合」は、小売店向けの卸商団体である。この二団体が歩み寄り一本してきた時代の組合状況は、昭和二十二年、涌井増太郎氏の発案で組合の復活を計り、初代理事長には、この涌井増太郎氏が就任した。以降理事長は、村井寅吉、安藤喜男、長谷川恵章、遠藤僖一、村井寅吉、今田正雄氏の順に理事長職を全うしている。ところが組合員の中には、商品の供給するものの「睦会」と、それを受け入れる卸サイドの業者があり、時により利害が相反することが度々あった。その利害を調整する意味から、昭和三十一年、ついに両者が分裂して独立した組織を立ち上げた。方や「東京時計バンド卸組合」と「東京時計バンド装身具卸商業組合」では、全国業者の一本化を図ることになり、東京組合を主体に、名古屋、大阪の同業団体に呼び掛けて「全国時計附属品卸組合連合会」を設立、業界諸般の指導改善に寄与することに努めた。この他、組合員の相互便利機関として毎月一日を定例日に指定し、商品展示会を開催、業績を上げている。

多くのブランドが乱立、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった
意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した

《昭和三十七年》 時計バンドの需要が高まるようになったころの付属品業界は、本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、上野・下谷の木村大資、浅草・鳥越の井村松五郎、浅草・山野の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、浅草・寿町の中野新助、本所・両国の石田国三郎、赤坂・新町の平岩商店があげられる。この中でブランドとして宣伝に努めたのが、ヤナギバンドの山福、ホマレバンドの谷口、軍人バンドの大熊、矢印の丹羽、地球印の平岩などで、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった。そこへ、意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した。
皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品に

時計用バンドは、その当時時計のケースがパリス側で作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられていた。このリボン釻のもパテントが付けられていたことから、意匠問題や構造問題から来たらしい。
昭和の時代になって初めて革バンドが使われるようなった。皮革バンドのメーカーでの最古参は、池上彰治氏。皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品になり、コードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップだったと思う。
戦争中は、国産の製品オンリーだったのが、リボン類に続いて皮革製品が主力になった。終戦後は、アメリカ製の金属バンド(S式)の流入により、取引が旺盛を極めた。それに準じて、国産のS式バンドが流行り出だした結果、伸縮可能なパーフェクトバンドのパテント問題が起こり、ドイツのロジェ社との間で係争を繰り広げた。エバー式パテントで受けて立った「東京時計附属装身具商工協同組合」が勝訴して平静化した。
この間販売戦線では、消費者に直接販売するマルマンが出現、バンド業界は波瀾めいた動きを見せ始めた。
昭和三十七、八年頃から、金融界の新しい政策の影響で、バンド業界の受けた打撃は大きく、業界筋では一部倒産などの憂き目を見た向きもあり、堅実な業者のみが残存しているのが実態である。



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