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腕時計側の金のペコ側出現の時代
価格が安いというのが魅力で何所でも引っぱり凧

《大正年代》 大正年代における一般的な景気は、平均してあまり芳しいものではなかったように覚えている。特に、日独戦争後の不景気と、それに大震災という打ち続いた悪い材料を背負った当時であるから、景気の良かろうはずがないことになる。だがしかし、世の中というものは、“世が乱れて忠臣出ず、家貧しうして孝心現れる”例えの如く、商業陣営の中でも日進月歩を通じて、常に新しい物の出現があるものである。いうなれば、それらは進歩の類に列することにもなるかも知れない。
時計業界おいてもこの頃、その例に洩れないものがあった。それは、大正時代の不景気と大震災という惨苦を舐めあとだけに商業陣営を張っている面では、何とかして新商品の出現がないものかを期待していた時代であった。
そのころ突如として打出してきたが、単価のきわめて低い金の腕時計側の発売であった。発売元は、京橋・小田原町にカザリ工場を営んでいた新本秀吉商店というのであった。その新本商店というのは、元来がカザリ職人で、“細工物には妙手の吉”といわれていただけに、新規な物作りは特殊の器用さがあったと噂されていたのである。俗にいって頭が良いという一言につきるのであった。新本商店から金側の極安物が新製品として登場したのである。
この頃の業界の状況は、腕時計が流行している時代でもあり、特に金側という品質については、金そのものが東洋人の趣味的にも愛好品として重く扱われていた時代であった。だから金側というものは、時計そのものを保護する役目を司るという立場の点で、ある程度の厚味を持たさなければならないものとされていた。従って、当時、金そのものは、社会的にも信用を得ていた服部時計店のツバメ印や、山崎商店のホシS印を始め、その他有名商標入りの金側製品が市販品の対象にされていたのである。だから腕時計側用の金の付目方としては、十型の場合は、一個につき少なくとも七分から八分、目付の多いのになると一匁を上回るものなどがあり、注文品の常としていたような状況であった。そこへ突如として出現した薄い金のペコ側は、何と一個の付目方が、せいぜい四分五厘位という低い目付のために業界筋では驚いた。そうして素晴らしい技巧品だと最初の内は、褒めたたえていたのだが、しかしその市販価格が目付の少ない関係でとても売り昜いというのが魅力となった。そうしたことから、品物は何所でも引っぱり凧といった具合に繁昌していた。

売れに売れた金のペコ側にも終焉が来た
劣等品の出現は業界のために不利益なものである

《大正年代》 この頃、私の肝入れで設立した東京都内所在の時計貴金属卸店のセールスマンから成る「東交会」という会が既存していた。その東交会の会員に新本商店のセールスマンの清水君というのがいた。常に高級品を持ち歩いていた清水君の売り先は、銀座の一流店ほか、日本橋、浅草など極少数の一流店しか回っていなかった。
その頃人気だった金ペコ側は、如何に安いからと言って銀座辺りの一流どころへは持っ
て行けず、また注文もされなかった状態であった。しかし、物の流行というものは、勢いを持つもので、その金のペコ側の取扱いが日を追うごとに売れるようになり、銀座方面の一流時計店でも取扱かわざるをえないような破目になってきた。
それが売出してからたった二週間か三週間位が経った頃のことだと記憶している。そうした結果、当の清水君がそれからは連日、このペコ側の時計を専門に取扱うようになった。持ち廻って歩くための手提げカバンの中味はぺコ側だけ。しかも朝九時からの仕事始めの時から一、二時間を経ただけで全部売り切れという好調ぶりを見せていた。それが毎日の連続というのだから、売れに売れたと言わざるを得ない。
こんな状況でペコ側に対する人気は全国的に広がっていった。東京の時計卸業者間でも、次第にこの金のペコ側の供給が行なわれるようになった。ところが、この金のペコ側の出現について一つの問題が台頭して来た。それは、金側時計そのものの商品的価値は、時計の機械を側そのものが保護する役目を持つものであるのに、ペコ側を取り付けた場合、側そのものがペコペコしているために、機械を保護するという役目はおろか、側それ自体が側そのものを完全に保持していくことさえ寧ろ危険であるということが分かった。これら劣等品の出現は業界に不利益なものであり、阻止すべきであるという声が大きくなり始めた。次第にペコ側防止の声がだんだん高まるのに伴って、このぺコ側が安いから売り昜いというのを目安にして扱う店と、店の信用を標榜して高級品以外は取扱わないとする業者とが相対立する傾向を見せることになってきた。時計界の情勢は、ようやくそれらの論議を中心に混とん足る空気を醸しだして来た。

粗悪な金側時計を排撃した時代
日刊紙に十八金製のペコ側金時計の広告を掲載して全国で成功を納める

《大正年代》 もの事について万が一、絶好のチャンスという場に出合ったり、ぶつか
ったりした場合は、それを捕えて生かすことにベストをつくさなければならない。こういう気持は、これから伸びていこうという気概に富んでいる人であれば、誰でも考えていることであろう。その意味では、本紙が大正十五年に創刊してから、それらのチャンスの場にぶつかった場合に十分生かすことが出来た例がある。
大正年代における時計業界は、引続いた不景気風に晒されて来ていたものだ。それに大正十二年の大震災という不測の災禍の場に遭遇したのだから、業者の中には、何らかのチャンス来ればという気概を持って待機の姿勢でいたものが多かったように見受けられた。従って、この頃の時計界の状況は、懐中時計の利用時代から転じて、腕時計を使用する大衆の眼が次第に移りつつあったころだけに、金側に対する品質上の選択の場でも、頗る的に批判が高かったものである。そこへ突如として、十八金製のペコ側が登場してきたのである。
それが安いからというので、これをオトリ商品として他店との競争上の安売の目玉商品として扱われるようになってきたのだのだから困ったものだ。遂にペコ側に対して粗悪品排撃という情勢さえ生かすようになったのである。このようなことは、業界内部の関係として処理しえても、需要家である大衆に向って公然と安売りを始めるということになるので、時計店という看板の手前からでも、どうもやりにくいという場面もあり、逡巡したものであったようだ。このような情勢に合わせて業者側では、進んでペコ側を求めようとしない空気が漂い始めたので、ベコ側の売行きにも影響し、時には品止まりとの場面も出来るように変ったようである。そのような関係で、常日頃から通信販売の策戦に妙味を持っていた日本貴金属時計新聞社の社長福田正風氏のところへ新本氏本人がやってきて話し合った結果、このペコ側をつけた金側の腕時計の「大安売りデー」を展開することにした。場所が新聞社のすぐ前にある日米ビルの軒下空き地二十間程の広さを借りて、これに紅白の帳幕を張りめぐらしての大廉売所を作りあげたのである。時事、毎日、報知等の当時の日刊紙に大々的に広告を打ち出したので、安売りデ―のその日の早朝から、お客が大勢押し寄せ大変な賑わいを呈した。
所が、その場で写した写真を広告を掲載した日刊新聞の紙上ニュースの一種として掲載したことと、この状況を新聞がさらに煽った関係で、この種の廉売は売れに売れたものである。
そこでこのような状況の続くものを見て地元の京橋と日本橋の時計業者は珍しく大いに憤怒した。その結果、植野、秦、大町、石井、森川、川名の地元の組合代表と、日本橋の古川支部長らが打揃って日本貴金属新聞社を訪れ、業者側に与える迫害行為をなじり、即時停止するよう厳重に抗議を申し入れたのである。その上、組合側では、その夜緊急会議を開いて同紙に対する不買決議まで行った情報がもたらされた。
このような業界情勢が現われてきたので、東京市内とその近郊での安売り合戦は、しばらくの問停止せざるを得なくなったたようだ。大正十五年の夏以後は、地方への進出を企画して、郡山、福島。仙台、青森地方を経て、遂には北海道を目がけて廉売団の綴込みを策した情報が入手されたのである。
従って、この方面に対する防御活動は、業界の声援をバックにしたので頗る活発なものと見られるようになった。安売り隊の動きは、大正十九年夏頃から始まっていた。そしてその安売戦法は、その土地の地方新聞に広告を掲載してから、“安い、安い金時計を”
とあおった揚句、お客がその時計を買う姿を写真に写して、これを日刊新聞の社会面に掲載して気勢をあおるという寸法だからたまらない。これがこの頃の素人衆を射落すもっとも効果的の処法であったようである。

本紙はこの廉売に反対、北海道の各支部から集まり緊急会議を招集した
集まった人の顔ぶれは、懐かしい人ばかり

《大正年代》 私か発行していた新聞の趣旨は、「新聞は業界の公器であるから業界を毒するがごとき行為には断固反対の姿勢を執る」という建前をとっていたので、業者側の味方になって、これらの大廉売に対して大反論をすることになった。廉売団のニュースは、既に仙台地方を終っていたので、このあとの進入コースとして函館、室蘭、小樽、札幌、釧路、旭川等の主要都市をねらっているような情報がもたらされた。
それに対処するためということから、私は東北地方の仙台において行なったぺコ側廉売団の暴れ方などの状況を調べながら青森から函館市に渡って先ず、函館の時計界を訪れ、対策第一歩の相談をした。
函館の組合長は金久商店の主人加藤さんであったが、この函館というところは、この頃も組合が二派に分れていて、一つにまとまるということが至難な情勢にあったものだ。やむなく、その次の室蘭に飛んで大賞堂の藤浪さんに話をしたところ、藤浪さんは大いにハツスルしたものだ。寺島、西村の幹部を呼んで、この間の状況報告に基づいて、早速廉売団の防御対策を講ずることになり、土地の新聞社側に急いで連絡して、その場合の防御措置防などについての方法を取った。
そして一段と対策を強化する意味から、全北海道地区の団結を固めてはどうかということに意見が合意したので、早居対策推進本部を作るため、札幌市に出向き緊急会議を召集することにしたのである。
私は一足先に札幌に向い、相良さんを通して梅沢、小阿瀬、吉永、高木氏らの組合幹部と会談した。札幌では、当時中野時計店の職場長であった佐々木源助氏が組合側のタクトをとっていたので佐々木氏の自宅に各地の代表が集まって協議した。然る上で市内の料亭「元東」に於て発起人会を開催する段取りまでに急展開を見たのであるが、この頃の各地区代表の活躍ぶりは実に涙ぐましいばかりであった。この当時、札幌に集まった各地代表の主なる顔ぶれは、次のようなメンバーであったと覚えている。
【札幌】佐々木、高木、小阿瀬、本田、吉永、相原、【小樽】岩永、保坂、【釧路】梶浦、金安、早川、【室蘭】寺島、藤兼、西村、【旭川】星野、大滝、芥川、成沢、【岩見沢】堀、【根室】三浦。

廉売阻止の為に北海道時計商工組合連合会なる団体を創立した
連合会役員が服部時計店を訪れ、国産腕時計の供給を受ける快挙に

《大正年代》 かくて北海道時計商工組合連合会なる名袮のもとで、越えて、翌昭和二年の五月に創立総会を挙行したのである。このような結果、一大廉売団の侵入はその当時、全道の何れにも姿を見せないまま終結したようだった。そのあと形を変え、地方の日刊新聞の事業部という名に変え、新たな方策で八型、十型の腕時計の安売りを始めて来た。
この場合にも、第二次的対策が立てられた。そして、その対策に必要な国産腕時計の仕入れの為に、北海道連合会長の岩永氏と共に、旭川の星野、大滝、札幌の鹿島、釧路の梶浦氏らが上京して、私と協議したことを覚えている。
その結果、一団が服部時計店を訪れて、当時の高島さんの配慮のお陰で腕時計の供給を受けたことがあり、当時、団体配給という建前であったことなど、今でもその当時のことが思いだされる。



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