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愛知県時計製造企業組合員(明治四十年九月現在)
愛知県でもそうそうたるメンバーが揃って時計作りに

組長:
副組長:林市兵衛
評議員:尾張時計梶A明治時計梶A高野小太郎、山田鉄治郎、加藤周三郎、小野信次郎、水谷次郎、神谷鶴次郎、安井角左衛門、長谷川与吉、佐藤信太郎、佐藤時計合資会社、水野光太郎、
渡辺国太郎、広瀬朝照、青山勝三郎、吉田耕三、今津菊次郎、杉山吉雄、田中実、小谷才次郎、
野沢一松、本多善吉、梶浦良助(以上)。

関西では明治二十二年「大阪時計製造会社」がはじめ
同社が作る時計は、当時明治大帝に献上した記録が残っている

《明治二十二年》 関西方面における時計製造の初期を記録した「大阪時計製造会社」は、明治二十二年十二月、当時の大阪の時計業者二十一名の出資者で設立された記録がある。
この会社は、資本金二十万円の有限会社で、大阪市の桃谷に時計工場を設け、高木市兵衛氏により設立したものである。同社が作る時計は、当時明治大帝に献上した記録が残っている。
「大阪時計製造会社」は、社長に土生正秦氏を配して営業所は大阪の高麗橋に置いている。
翌明治二十三年に大阪の西成郡川崎村ニー七へ本社を移転した。この時の使用職工数は、三十五名で掛時計の製造を開始し、七月に株式会社に組織を改めている。当時の同社の役員陣は、次の通り。
▽社長:士生正泰、
▽取締役:石原久之助、生駒権七、ダブリュー・オーキン、ピー・アール・チャンキー、エルジュー・シイルグィスター、イー・ヴィグートマン。
かくして同社は、明治三十年に到り技師長のピーエッチ・ウィラー氏のみを残して、外人達の全員が退職することになった。その後、田村金太郎氏が技師長を引受けてから、明治三十三年に資本金を十五万円に減額、三十五年に同社を解散するに至った。
石原製作所は、この時、什器一切ぐるみを金十万円で引き受けて、懐中時計の製造に踏み切ることになったと同社の伝記に記録されている。

日本時計工業の始めの頃
明冶十年に名古屋の林時計店、明治二十二年に「大阪時計製造会社」

《明治八年》 日本において時計の製造を始めた頃の経路は、横浜の時計商館の手を経て外国製の時計が輸入され始めてからのことはいろいろな文献にも示されている。
明治八年、東京・麻布に水車を使って時計の製造を始めた「金元時計製作所」というのが、時計を企業家した最初であると伝えられている(金石時計商編)。その後、これを模倣したものがもう一軒出来たが、これも共共失敗に帰している。
次いで明冶十年、名古屋の林時計店(林市兵ヱ氏)が生れており、これに続いて大阪に石原系の「大阪時計製造会社」が、明治二十二年に出現している。これが本邦の時計工業としての草創時代であろう。
このあと、明治二十五年に今の精工舎を生んだ服部金太郎翁が、隆隆心苦して東京・本所の石原町に掛時計工場を造って発足したのが偉大な日本の時計工業史発達の初歩である。

それ以後、下記の時計を製造した経営者の名があげられる。
▽明治十八年:岡崎(水谷駒次郎)、
▽明治二十年:名古屋時盛舎(林市兵衛)、
▽明治二十二年:大阪時計製造株式会社、姫路(播陽時計会社)、
▽明治二十四年:京都時計製造会社(大沢善助、後の大沢商会)、
▽明治二十五年:名古屋・水野時計製作所(現在の愛知時計株式会社の前身)、大阪・渋谷時計製作所、東京・精工舎(服部金太郎)、
▽明治二十六年:名古屋・名古屋時計製造合資会社、遐欠員会社、名古屋・山田鉄次郎、大阪・江久保時計製造所。

日本の時計業が創世した時代
享保二年、小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっている

明治、大正、昭和の三世代にまたがる時計界の史跡を収録しようと思い、そもそもその時計が日本に渡来したのは何時の頃であったのか。
その由来を知るために、あらゆる文献を紐解くのであるが、明らかに記されたものは見当らなかった。享保二年、小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっているところから推して、案外古い時代に時計というものが渡来しているのだということだけは想像出来る。
日本に初めて貿易商館が出来たのは、夊久二年頃で、日本で時計を取扱った最古の商館だというファーブル・ブラント商会を嚆矢とし、次いでコロン商会が開館したと伝えるものもある。また、慶応三年に横浜町通りに時計台が建設されていたというのが、明冶四年版の「新版異人双六」に時計の絵が描かれていることから見て、時計は古くから輪入されたものだという印象が持てる。
本篇では、横浜港が開港したのは、安政六年六月であるから、この頃百一戸の閑村であった横浜町に出来た貿易商館群が、生糸やお茶、機械類に混ざって時計を輸入するようになったその頃からの記録に止めたい。
別頃、池内氏の遺書の中に記されていた明治初期頃の業者の動きの関係から、当時の時計界というものの片燐などが明らかにされたことになる。
それによると、明治十年に横浜の区長であった島田豊寛という人の命により、明治三年から大田町に時計業を始めていた若松冶助氏が初めて「時計商組合」というのを作っている。
この頃、横浜港の貿易商館を通じて、時計の取引をしたものは合わせて三十余名であったと記されており、その業者の中には、東京居住者の名も挙げられているのから推して、時計組合というものの発祥が、この時であるのかも知れないと思える。

平野光雄氏が出版した「東京時計産業功労者たち」と題した書が最も古い
日本の時計業者に関する解説書

《明治十七年》 本邦時計界創設時代に亘る当代記録については、八宮町の小林伝次郎氏の生立ちを最古のものとし、明冶初代に入ってからの金田市平衛、竹内治右衛門、京屋伊和造、小野太一、大野徳三郎、小島房次郎、吉沼又右衛門、それに服部金太郎翁につながる古き記録を追って、いろいろ書きつづられ書簡を見るが、その中で各種の文献から拾い集めたものを以て記録した「東京時計産業功労者たち」と題して出版した平野光雄氏のまとめたものが、この種類では最も精細をつくしている。
#明治十七年版墨摺り、「東京高名時計商繁盛鏡」出版人浅草・安倍川町の広瀬光太郎氏(上野図書館蔵)

明治時代の『東京時計商繁昌鏡』
上野図書館の所蔵、帝都時計界の昔を偲ばせる貴重な資料である

《明治十七年》 これは明治十七年九月十七日の御届書として作られた木版刷りによる当時の東京時計商の全貌を現わしたものである。出版人は、当時浅草の阿部川町百五番地の広瀬光太郎氏と署名されている。これによると時計業界の最古老舗として、伝統を輝やかしい八官町の小林時計店がその勧進元の王様格であるのが知られていた。番付中の時計王といわれた服部金太郎翁の名が最下位にあるは、今昔の感甚だ深きものがある。この表は、上野図書館の所蔵、帝都時計界の昔を偲ばせる貴重な資料である。

明治二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った
明治二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った

《明治十四年》 時計王の服部金太郎翁の若かりし頃の活躍した記録は、前述の秘録により一部明らかになったので、服部時計店の生い立ちの頃の情況を既存の文献から拾って簡単に取りまとめることにする。
服部金太郎翁の父喜三郎氏は、名古屋の生れで、維新前に出京、京橋采女町に住み、古道具屋を営んでいたが、かつて借家したことがないというから生活上困窮したというような事例はないようだ。金太郎少年は十三歳から十五歳まで八官町の辻屋という唐物屋に奉公して信用されたが、時計業を志して日本橋上槙町の亀田時計店に奉公し、時計の修繕技術を習おうと努めた
がチャンスを得られず転じて十七歳から十九歳まで下谷の坂田時計店に奉公を続け修繕技術の習得に熱心を傾けた。その頃は物資が殊の外資重扱いされていた時代であったので修繕に努める夜半の灯油代にも神経を使ったものであるという。この坂田時計店は経営に失敗して金太郎翁が十九歳の折に閉店した。その時翁は、主人の困窮に同情して二年間で蓄めた七円の金をそっくりそのまま主人に提供して感謝されたという逸話がある。
それから時計類の買取りをやりながら、これを修繕して売るという腕に覚えのある商売を続けていたので自然に蓄えも増え、東京・京橋采女町に小さな時計店を開業したのが始まりで、これが大服部時計店の創生時代に繋がったのである。時に明治十四年。
従って、これから後の金太郎翁は、昼夜の別なく、不眠不休、文宇通り縦横無尽の活躍を続けて来た途中で、前記遺言書に盛られた若かりし頃の翁の当時の活躍ぶりが記されたのであろう。たまたま銀座へ進出する好機を得たので、業務は隆昌、遂に明治二十三年に到り時計製造の第一歩を染めることになり、同二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った
のである。これが服部金太郎翁が歩んで来た経路であり、日本時計界を代表する大精工舎が生れた概況でもある。
写真は、今の和光(銀座四丁目角)のところにあった明治時代における銀座四丁目の服部時計店。

明治初期時代の業者の活動と若かりし頃の服部金太郎翁の活躍
故池内氏の遺書の中から

《明冶十八年》 私は兄(父の亊)の店に見習奉公し、横浜では、兄は時計商の率先者(指導者の意?)と申しても宣敷、諸商館と取引致し卸売又は小売もしていた。その頃は、夜はランプを使用しており、明冶十八年には汽車が始めて開通した時代だ。それまで吉田橋(可ねの橋)際に高島屋と申す馬車屋が出来ており、横浜と神奈川との間を往復せるもの。このころ関内の太町一丁目角に町会所と申す役所が出来て、連瓦石を使用した西洋風の建物にて始めて瓦がついた。此建物の廻りには、角桐の瓦斯を日曜祭日に点ざいしたので見物人が集りたり。当時の区長は、島田豊寛氏(島田三郎の養父)で、戸長は小野光日京氏なり。明治九年より十年にわたり、当時の陸軍大将であった西郷降盛が征韓論を唱え議論が噛み合わず、ために鹿児島に退き兵をあげたが、昭和十年九月、城山に於て遂に戦没す。
此の時、東京の警視庁にて巡査をつのり(徴募巡査という)横浜市より乗船して戦地へ向け出発した。それについての時計が必需品となり、東京で買えぬ時は横浜で買い取る事にしていたので、諸多の人は宿屋に押かけたものだ。
私は十三才の時だったので時計と附属品をカバンに入れて宿屋へ商売に出かけていった。売れて売れて品物が間に合わないほどで、一個残らず売って帰店したところ御馳走ということになり、実に面白かった。此の時は横浜での時計商況は、どこの時計商館も売切れと相成り、仲間中をあさりまわって買取り、当時は懐中時計にて竜頭巻はなく鍵時計ばかりなり。銀側片硝子十六、十七型にて卸し売り値段、一個十五円内外の上物機械流金中彫アンクルしたほど、その値段は二十円より参拾円位まで。付属品は主に銀鎖、磁石、銀のカギ付合せ金、普通物では三十円、上物で四、五十円位あり、割合に高価なる物が売行旺盛となったので、兄は太田町四丁目にて袋物商の小売を南仲適り三丁目、その頃の取引所近所で時計卸部を開店した。
此仲通りに銀貨ドル相場取引所が出来、仲間店が多く、毎日ロンドン相場が立ち、外国商館との取引者は支払う物故自然思惑売買を致し、そのために料理屋、待合などは何れの町も大繁盛となり、そんなことから兄は東京・日本橋の横山町三丁目へ支店を開設した。卸部だったので、地方からの客が多く、私はその支店の支配人として毋と共に同町に転勤することになった。ここは問屋町なるため、夕刻には何れの店も閉鎖致し、店員は風呂に行き、小僧達は手習いなどを致させてから午後の十時には寝床につかせたものだ。夜遅くは閉鎖後のお客は来ないため、寝床について居るのが通常だった。
ある夜の十時過ぎに表戸をトントンたたく音がしたので私が目覚めて戸を開けて見れば、そのお客はなんと服部金太郎翁であった。同氏は、其当時は京橋采女町に店を持ち、未だ小資本だったために毎日仲間を廻り歩いて売買していたので、少しでも資金が集まれば、直に私の店に来て、成るべく見切品を見つけては買取り、十二時過ぎになると自分で両国で客待している人力車を連れて荷物と共に自分も乗り、采女町へ帰店するのだった。店の直前にそば屋があり、此の店が夜分おそくまで営業しているので、この店で腹ごしらいをして帰店してから帳合せを済ませて寝に付くと云う勉強ぶりである。
此の十一時過ぎにトントン叩く音のするのは四、五日間も続き、激しい時は毎晩と申しても宜敷く、私は雇人が起きないので必ず自分が応対する事にしていた。品物の仕入は横浜の本店よりは掛時計で、支店よりは現金で値切りながら仕入れる式。見切り時計を買い取って、東京の小売仲間をかけ廻ることに兄も感心していた。
この頃の服部さんは、まだ商館館との直接取引が出来るようになっていなかったので大喜びで、ますます商売に励まれていたようだった。当時の服部金太郎翁は三十九歳。私の父も三十九歳、勝之助が二十二歳であった。
ところが明治十八年にいたり、アメリカのドル相場に大変動が起きて、ドル相場一円二十銭のものが一挙に二円まで値上がってしまった。この時たまたま全国的に悪疫病が流行したので、この結果到るところに貸倒れが続出することになり、そのため兄も諸所の商館に支払う額が倍近くにもふくれ上ってしまい融資につかえることになった。兄は元来が潔癖な人柄であったところから、本・支店を剛鎖してまで債務の決済につとめることにした。そのため商売は脱落する憂目を見ることになった。兄は妻子と妻の母を佯い、また私も実母と共にまず横浜へ立戻ることにした。そして古物商を営み、兄の手助けをすることに決めた。それについての善後策を協議した結果、これまで折角培って来たところの全国のお得意先全部を取まとめて服部金太郎
氏にゆづることに決めたのである。そんなことから当時服部時計店の支配人だった松田啓次郎氏は明けて昭和十九年に服部時計店に入店した。そんな事情から服部さんの商勢は伸びて、店舗を銀座四丁目の中部に移耘することにし、業務の拡張を計った関係で、その後は一流商館とも直取引が出来るようになり、兄ともども喜びあったものである。
この当時幸いのことに横浜にあったワーゲン商会の主人公は兄を非常に信用してくれていたので、月二回にわたり、入荷する武者印の懐中時計を全部、兄に委託してくれることが決まったのである。この武者印時計は、当時の時計店にはなくてはならない存在として大切にされていたものである。
大阪、神戸方面のお得意先などは、武者時計を仕入れるために、わざわざ神戸からの船便を利用して横浜港まで先を争って仕入れにやって来たほどである。
それだけに服部さんもこの頃、この時計を多量に仕入れられていた。これで兄も一息つけることになったので、私も東京市中の得意先廻りをして中に、明治二十三年に松田啓太郎氏が独立する心組みを持っていたのでそれに代って私が服部さんの希望を入れて、明治二十三年四月に入店することになったものである。その服部さんは、翌二十四年には本所石原町に小規模な掛時計の製造所を建設し、わずか三十名そこそこの使用人により操業することになったのであるが、あとの進展から遂に世界に財たらしめる今日の大精工舎を建設するに到った。その間の努力に対して最大の敬意を表したい。
(註)この遺書の写しは、当の若松治之助氏が健在な昭和三十五年の頃、私の指定を訪れて、自分の持つ古い業界事情についてまとめたものを提供して、後日何らかの役に立つであろうからと被見させてもらった時写し取っておいたものである。若松さんからは、他にもいろいろ詳しい当時の事情を聴きとっている。写真は服部金太郎翁が勅選議員だった頃の雄姿である。

交換市場の開設
「弘時会」や「開時会」の二つがあった

《明治初期》 かくして時計組合というものが出来てからは、毎月二回の時計の交換市暘が開かれることになった。その一つは、「弘時会」といって、日本橋西仲通りの事務所で開市した。
この外に「開時会」というのがあり、これはその都度貸席の亀尾で開くことになっており、神田明神境内の「開花」という貸席で催していた「開花の市」なるものがあった。
但しこのころから商業人の種類には、市場取引を通じて売買するものと、また別に、横浜の商館畑からの仕入品だけに限った売買取引を常としていたものに分れていたようである。
次に故池内の遺書から転記した若松治之助によるその写しを記載し、明治初期時代の業界状況を知る一片の資料に供しょう。

明治初期時代の時計商組合員(昭和三年以降)
時計の小売業が大半で、メーカー卸のメンバーが

《明治初期》【横浜】若松治助(時計商)、小島房太郎(時計商)、金森桝吉(タバン)、小笠原文五郎(時計商)、河北直次郎(懐中時計商)、渡辺謙次郎(仲卸)、伊勢梅(タバン)、【東京】小林伝次郎(時計商)、京屋伊和造(時計商)、宮田藤左ヱ門(時計商)、金田市兵衛(時計商)、高野周吉(時計商)、高木大次郎(時計卸商)、関岡由兵衛(時計卸商)、玉屋菊次郎(時計卸商)、大野徳三郎(時計卸商)、金田友七(時計卸商)、村井友七(時計商)、小笠原近友(時計商)、伊勢半(時計商)、近常商店(時計材料)、竹内治右エ門(時計商)、京屋支店(時計卸商)、小林支店(時計卸商)、吉沢又右衛門(時計商)、田中仁吉(時計商)、若松支店(時計卸商)、天賞堂(江沢金五郎(時計卸商)、服部時計店(時計卸商)、伊勢惣(時計商)、熊谷惣太郎(時計商)、有賀利助(時計商)、松浦玉甫(時計商)、松田啓太郎(時計商)、橋都万吉(時計商)、精工舎(時計製造)、東京モリ時計工場(時計製造)、中江幾次郎(時計商)、吉川時計店(時計商)、吉田庄五郎(時計商)、直江房吉(時計商)、中村芳方(時計商)、島村寛叶(時計商)、島村助治(時計商)、米川工治郎(時計商)、福田藤吉(時計商)、亀田平次郎(時計商)、梅屋(時計商)、鈴木源治郎(時計商)、亀田平吉(時計商)、中山直正(時計商)。

前述したようにこの当時は、時計を取扱う専門業者というものが少なかったので、時計類を取扱う範囲の時計、袋物、小間物の三業者を集めて明冶十年に時計組合を作ったのがそもそもの始めである。
組合設立の最初は、三十五、六名位だと記しているが、故人である池内氏の控え帳に記されているメンバーは五十一名に増えているのを見れば、その後に増えたものを含めたメンバーではないかとの想像が出来る。
【註】池内さんは、この当時から時計組合の事務的処理に当っておられ、故人の遺書により明治時代の情況を説明してくれたその人で、立正堂の若松時計店に在って大正十二年の関東大震災当時は、当主若松冶之助氏と共に関西巡回から、修理品の工具材料を鉄道を使ったり、徒歩で持ち帰り、これらを多方面の時計業者に提供した一人である。従ってこの当時も、なお横浜時計商組合の復興に精出して努めていた事実を私は熟知している。



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