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スイス・ラドー腕時計日本輸入総代理店 酒田時計貿易株式会社
昭和三+九年度、舶来時計界宿願の市場占拠率第一位を占めた

本社=東京都台東区東上野一丁目十九の六。
ラドー東京オフィス=東京都台東区東上野一丁目十九の十。
サービスセンター=電話:(八三三)二八〇一代表。
支社=大阪市南区鰻谷仲之町四の一(二ュー長堀ビル)
資本金=三、六〇〇万円(四十一年二月一日現在)
代表取締役社長 酒田武敏

社歴=創業は、昭和二十三年二月、有限会社酒田時計店として発足。昭和三十年十二月株式会社に改組。昭和三十三年四月、予ねて折触中のシユラップ・アンド・カンパニーとスイス製ラドー腕時計に関し、日本総代理店契約を結ぶ。同年十月、初めて日本時計市場にラドー腕時計の真価を問い、そのユーニークな品質をもって市場にアピールした。以後同社は「王者の風格ラドー」腕時計の輸入卸の専門経営を志し、今日に至る。
概況=ラドー腕時計が一挙にその知名度をあげ得たのは、昭和三十七年に実施した広告キャンペーン「ラドー・ファミリー・コンサルタント」に負うところが大きい。当時ラドー腕時計は、その特異なデザインと、稀に見る高精度により高級スイス製腕時計としての評価はあったが、ユーザーにアピールするには至らなかった。しかしながら、商品モニターとして文字通り嚆矢を極めたこのキャンペーンの実施により、“王者の風格ラドー”の名声は全国に高まった。即ち昭和三十八年から三十九年に亘る両年度の平均伸び率(約五十%=消費者購入数量)は、その間の事情を如実に物語っている。とりわけラドーにとって記念すべきことは、昭和三+九年度に於いて、舶来時計界宿願の市場占拠率第一位を占めたことである。それは恰も新旧交替の厳しさにもたとえられよう輸入歴六年有余のラドーが堂々と戦前派を押え、四分の一の市場を占拠し得たことは、やはり特筆すべき事柄であろう。次いで四十年も更に躍進した。対流通作戦、対消費者作戦等の新戦略が、ことごとく寄与し、その市場占拠率は前年を上回り、三分の一強となった。しかしながら、ラドーに課せられた命題は、更に続く。より多くの消費者により、良いラドーを供給するという偉大なるテーマである。
経営理念=ラドーの顧客はつまるところ消費者である。したがって消費者に応えられざる経営はないと考える。そのためには、先ず精度の良いラドーを創ることであり、そして完全サービスを提供することである。もちろん現行のラドーパーフェクトサービス(品質保証、動産総合保険、交通事故傷害保険)が時代に応じて更に発展することは当然である。経営姿勢は、常にメーカーとしての思想に立ち、専門経営を旨とする。精力を分散することなく、力を集中することこそ大きな成果を得られるからである。しかしながら戦力の養成はエスカレーションしていた。日々の実績を積み重ね、一歩一歩慎重に歩をすすめる構えである。ここでは無理、無謀な経営はない。もちろん新しいものに対する追求は見逃さない。新手一生、先手必勝の信念の下、会得したアイデアは、販売、広告、人事、商品等あらゆる分野に応用する。それが経営の魅力であり、発展の礎であると信じる。

昭和四十年当時の日東貿易株式会社 川上一男社長
輸入実績は業界最上位にランクされている

東京都中央区銀座西五丁目三番(対鶴館ビル四階)
電話(五七二)三五四一 代表
取締役社長=川上一男
資本金二千万円
営業内容=時計の輸入及びダイヤモンドの輸入卸・販売

社歴=同社は、戦後輸入時計の外貨割当許可と同時に昭和二十九年九月十日、資本金二千万円をもって創立され時計類の輸入を主たる業務とした新鋭型の輸入商社である。
輸入時計の全盛期には、縦横に活躍したヘラルド・トレーデイングコーポレーションの当時の立役者であるジョ−ジ・ブロック氏やスイス時計界でも世界的に有名なレオ・ボッパー氏らとの親交深いだけにスイス時計業界における同社の信頼度は特筆すべきものがあり、加えて日本総代理店として同社が輸入している主なブランド名は、エニカをはじめ、シー
マ、グルエン、オレオール、ジュべニア、インビクタ、モリスなど各種に及んでおり、特にエニカ、シーマ等は業界を席巻した感があった。また最近の社会的情態の変化を予見してダイヤモンドなど天然石の輸入を自由化と同時にいち早く開始し、イスラエル、ベルギー及びアメリカを主力とし、ロンドン、イタリー等広範囲にわたり同社の特色を遺憾なく発揮し、その輸入実績は業界最上位にランクされている。
これらは、貿易自由化後の日本国内の情勢の変化に対応した措置であり、輸入商社の柔軟性を発揮したものとして注目された。
ダイヤモンド並びにその製品の販売は、従来の時計業界に新規開拓を求め、なお正札制度確立等新鮮な措置をとったところに新風を送っている。
加えて同社の専務取締役には、川上社長との戦友であった大森力明氏を置き、ために経営陣営においても信頼性に富み、川上社長と大森専務がひく強力な組織による運営は将来共に期待されている。

昭和四十年当時の小野金商店 小野正男社長
日本輸入時計卸商業協同組合理事長

東京都台東区上野二丁目十三番二号
電話(八三四)四三一一代表
取締役社長=小野正男
資本金=六百五十万円
略歴=明治の末年、先代小野金次郎が浅草で中古品を主体とした時計、貴金属、宝石の卸商を経営、事業も順調に発展して使用人も十数人になったが、昭和十五年戦争激化に伴い、一時休業のやむなきに立ちいたった。現社長は、先代の長男で慶大を卒業後一時家業に従事しましたが、店の休業と共に東宝映画株式会社に勤務中、外地に出征、昭和二十一年内地復員と共に、既に昭和二十年三一月の大空襲にて戦災死した父の道志を継いで家業を再興、昭和二十三年株式会社小野金商店として法人組織に改め、店舗も上野の現在地に移して今日に到っている。
取扱商品は舶米時計全般に及び、現在日本輸入時計卸商業協同組合理事長の要職にあり、又先代からの経験を生かして、ダイヤ、ヒスイ、オパール等宝石類及貴金属製品等の在庫を豊富に揃え、堅実な卸商として、業界にその名声知られている。此の問、昭和二十九年に約一ヶ月にわたり、遠く欧州、米国業界の実情視察に赴き、その見聞を広めて常に業界の第一線で活躍している卸商である。

当時は異色の時計メーカー 株式会社コパル
時計及びカメラ用シャッター、他精密機器の製作販売

時計事業部=東京都豊島区池袋東一丁目
代表取締役=笠井正人
電話:984-2561
資本金=六億円

取扱品種=時計及びカメラ用シャッター、他精密機器の製作販売。
略歴=昭和二十三年、カメラ用シャッターおよびセルフタイマーの製造を開始。昭和二十四年五月、資本金六十万円の株式会社に改組。生産販売の増加にともない数次にわたる増資を重ね、昭和二十九年、板橋区志村に地下一階、地上三階の木社工場を完成。昭和三十六年、関係会社コロナ工業株式会社を発足。昭和三十七年、郡山市に敷地五万坪を購入して郡山工場を設立。昭和三十九年、資本金を六億円に増資。昭和四十年二月、長年にわたる研究開発の結果、国産で初めての文字時計、「キャスロン101」を発表。漸新なデザインと標準時計なみの時刻の正確さは、業界から注目をあびた。続いて九月に「キャスロン301」を、十月には生産の合理化により「キャスロン201」を破格的な値段にて発表。明けて昭和四十一年二月、チーク材に北欧風のオイル仕上げをほどこした「キャスロン501」を発表、その豪華な風格とデザインは、時計愛好家から驚嘆の目で迎えられた。
このようにコパルは、カメラ用シャッターを作る精密技術を基礎として次々と流行の卜ップをゆくグッドデザインの文字時計、キャスロンシーズを発表した。

昭和四十年当時の株式会社日笠商店 日笠上社長
各種舶来時計、貴金属ダイヤモンド卸
 
東京都台東区東上野一丁目二十番一号
電話(八三四)三五一一〜四番
取締役社長=日笠上
業種=各種舶来時計、貴金属ダイヤモンド卸

略歴=戦前、千束町の小野金商店に務めてから昭和十二年に独立、兵隊としてシベリヤに転戦、二十二年復員と同時に、文京区の下谷光月町に業務を再開、続いて現在地に移り、発展している。京橋店は次弟その次弟大氏は当社の専務の任にある。

日笠商店京橋店 日笠光輝社長

東京都中央区八重洲五丁目三番
電話=(二八一)三三八九・〇四〇八・八三二四番
取締役社長=日笠光輝

業種=各種舶来時計、貴金属指輪ダイヤモンド卸
略歴=日笠商店の本店にあって兄の業務を手助けしていたあと、昭和三十年七月に独立、現在盛業中である。

ジェコー株式会社
独創的な製品を生み出しました時計メーカー

本社=東京都中央区日本橋室町二―四
電話(270)0631代表
目黒研究所、玉川工場、行田工場、大阪支店、名古屋営業所、福岡営業所
創業=昭和二十二年二月、資木金二億六千万円
営業品目=音さ時計(掛、置、目覚まし)、自動巻、電池時計(掛、置)、RC時計、自動車時計、小型直流モーター、テープレコーダー、シェバー、その他各種計器。
会社概況=昭和二十二年創立以米、常に新しいものに取り組み、時流に合った、市場性のある製品の開発を志して来た当社は、そのたゆみない研究により、数々の独創的な製品を生み出しました。
昭和二十七年には、モーターの常識を破る独創的な特殊小型モーターの開発に成功し、時計の歴史をゼンマイからモーター式電池時計へと変え、簡便精巧な大衆時計の推進力としました。
更に、昭和二十九年には自動車時計の生産、販売を開始し、性能と完備したアフターサービスにより市場を独占した。
昭型二十三年には、行田工場、三十六年には玉川工場を開設、六千万円に増額、東京第二市場に株式を公開した。そして昭和三十八年には、時計の革命といわれながら実現することの出来なかった音さ時計時を磁気脱進機構との結合により製品化し、この企業化に成功、時計界の夢を実現した。
当社の製品は、ことごとく文字通り独創的なアイデアと独自の研究により生み出されたものであり、その保有する特許実案は国内外を合せ百数十種類に及んでいる点、技術に生きる会社として常に若々しい創造と躍進を志している。

有限会社 黒木計器製作所
電池時計、親子時計、べルタイマー、交流時計専門製作所

代表取締役 黒木久義
本社=東京都品川区二葉一丁目三番二七号
電話(七八二)二二六八番

業種=電池時計、親子時計、べルタイマー、交流時計専門製作所
沿革=大正十五年、雄工社在に入社、電池時計の製造と研究を始めた。昭和十二年に独立、気象台用地震時計を製造、昭和十六年、(有)緑明測器製作所設立、地震計、落下傘時限時計、操縦適正試験器、プラニメーター、パントグラフを製造している。
二十四年、光星舎設立に協力、電池時計の製造と研究を進め、特許発明二十点余。昭和三十五年七月、(有)黒木製作所を設立現在に到る。画期的な時計として回転式子時計(特許出願)及交流リモコン大型時計など(特許出願)を発明、生産販売をしている」。
製品種目 親時計、子時計、秒子時計、報時子時計、塔時計、世界時計、ベルタイマー、チャイムブザー、サイレン報時装置、大型交流リモコン時計、特殊タイマー、各種電源装置、配電盤、その他時計機構利用の特殊装置の製作に応ず。

三愛貿易株式会社
スイス製時計、チタス日本総代理店

本社=東京都台東区上野三−十八−十一号
電話=八三二−五七七七番
代表取締役=田村正雄
資本金=二百万円

業種=スイス製時計、チタス日本総代理店、輸入業務の他、雑貨類の輸出業務。
「チタス」の沿革=一八九二年設立したチタス・エ・ソルビル会社の製品。「チタス」というスイス腕時計の名は、日本市場ではそう有名ではありません。然し歴史の示す通り、欧米市場では、確固たる名声を保持しており、日本でも戦前帝国海軍の軍繿に不可欠の備品として使用された「ソルビル」クロノメーターは、この会社の製品でした。同様にこの標準時計は、日本の三鷹にある天文台にも常備されており、古い伝統と精密時計界の過去の栄光に安住しておるのみでなく、一九五九年、バーゼルの時計見木市においては「チタス」の完全電子時計「ソル卜ロニック」は、機械式機構、歯車、文字板、剣を時計から取除いた画期的電子時計として、原子時計に次ぐ精度を有し、廿一世紀時代の時計として業界に話題を提供したのであります。この時計は、目下、置き時計段階ですが、時計の段閼です
がこれを今後小型化して行き、そして腕時計化して行くことを「チタス」工場では、研究をしております。然し通常の自動巻きカレンダー付腕時計においても「チタス」は紳士用、婦人用共にヨーロッパの洗練されたデザインを採り入れ、品質の良い時計として定評があります。総括的にスイス時計工業と日本時計工業の差異を大きく述べれば、国産品メーカーが、企業の形態上マスプロに走らざるを得ないのに反して、スイスのそれは嗜好的にメーカーの好みと伝統に生きて少量生産をしているのが好みに合った選択というべきでありましょう。

株式会社べンラス商会(旧上原商店)
ベンラス」「ナルダン」を軸として、輸入時計に一段の飛躍を期していく

代表取締役 上原不二夫
東京都中央区銀座西八の九 第五秀和ビル
電話:五七一 三三五八番

略歴=弊社は、「ベンラス」時計の日本総代理店として「上原商事株式会社」を発展的に解消し、「べンラス」本社の要請に基づき設立された会社。
主取扱品は勿諭「べンラス」であるが、これは新日本時計を発売元として販路を設けており、併し「べンラス」以外に弊社代表取締役である上原個人が代理権者である「ナルダン」、「エベル」、「チトニー」をも取り扱っており、更に時計付属品の輸出、宝石、装身具類などの輸入、販売を行っている。
「ベンラス」に関しては「三年問無条件保証」を謳っており、そのアフターサ―ビスの完璧を期しており、画期的なサービスとして業界の絶賛を博している。
有名ぶらんどである「ナルダン」は、創業百二十五年の歴史を持つ伝統に輝く時計であり、その高度な精密技術、歴史の積み重ねから生まれたイブシ銀のような渋いデザインは、高級時計愛好者が最も愛するものである。而も「ナルダン」は自らに古きを良しとせず、技術的にもデザイン的にも古き者のみが持つ良さに、絶えず新しい息吹きを加え、独特の重厚な近代性を持つ風格のある時計となっている。戦前から「ナルダン」といえば、高級時計の代名詞のように歌われていたが、今や一層その感が深くなっている。当社は「ベンラス」「ナルダン」を軸として、輸入時計に一段の飛躍を期していく。

昭和四十一年度の物品税改訂に尽力した株式会社日本堂時計店佐川久一社長
全時連会長に就任して以来の佐川久一氏の活動は極めて多大なものがある

東京都中央区銀座五丁目
電話(五七一)五五一一
取締役社長=佐川久一

略歴=時計貴金属小売業の佐川社長は、秋田県の出身、幼少期に秋田の時計店に見習いに出て精励、その後日本堂名をもって開業している。上京してから目黒、大森地区を経て昭和二十年の戦災のあと現在の銀座に進出することになったのである。ことに処して果敢実践の性格を持つ佐川社長は、それからフルに勇気を奮い、諸般の進運に努めた。その現われは、先ず自店の敷地を裏通りにまで貫通させることを願った。そのためには想像もつかない高額な代価を払って、この間の障害など一挙に取除いた。
かくて店舗の形体思うようになるや、次には業界への一大飛躍を期して突貫した。昭和二十七年の頃の東京組合理事長に対する奮闘は、正に業界歴史に残るものがある。
更にまた昭和三十四年に全時連会長に就任して以来の氏の活動は極めて顕著、業者達を全国連そのものに魅力を持たせるための大集会を実行した。その結果は、全国地区の巡回大会開催を規制して遂に全時連の名を天下に知らしめたのである。
全時連傘下業者の総数は、三万軒を超えて、衆議院議員が各地方選出代議士連をも魅了し、業界の秩序を保持是正し、更に貴金属宝石に関する物品税の改訂を目がけて奮起し、一大業者運動の展開は正に業界史中特筆すべきであり、昭和四十一年度実施の物品税改訂は、貴金属と宝石類オール一万五千円まで免税する実効をあげたのである。
特に、また、昭和四十一年一月から実施した時計修理技術者に対する国家試験の施行については、画期的な現況を生み、全時連なくてはならない時代を顕現せしめ等、時代の変遷と共に佐川全時連会長の名声はいよいよ盤石な体制へと固まっていったのである。
然して日木堂の業績は、総敷地百六十坪の上に四階建店舗を築き、宛ら時計資金属品のデパートの観を呈しており、日本はおろか世界的にも堂々たる名声を輝かしている。
佐川社長と共に長男も相前後して欧州各国の業界視察を行い、営業上にかかる見聞を広くしている。公職は全時連会長の外、全宝連、全眼商工連会長の地位にあり、性格は常に明朗活達である。



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