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舶来時計が正規なルートで市場に流入することになった
舶来時計OSSの払下げ入札で

《昭和二十六年》 前述のような時計界としての意向を盛った陳情書を当局に提出したからということでもあるまいが、昭和二十六年六月に、突如OSSの特設品全部を指名入札により公売する旨を発表した。そしてこの報告は、上野所在の古物防犯協力会にももたらされた。
そこで白石憲二防犯協力会長以下有志が、会場に当てられていた京橋の明治屋三階のOSSのオフィスにおいて実施された入札会に参加した。
私らも一割の入札保証書を担保して競落の仲間入りをしたのだ。このときの払下げの実現で舶来時計としては、始めて日本の時計業界に正式に入籍することになったものである。だから、この日の入札の事実は、それによる収入利益よりも、舶来時計が正規なルートで市場に流入するという事の方が、また一段と大きな収穫になった点が頷かれる。
かくして明治屋に展示されたOSSの払い下時計は、大体二千八百個位あったのではなかったかと思う。この時計が結局は小売店の望むところに配られて、それがヤミ事件の起る場合、どのようにカバーする役目に効用があったかは、当時を想い出して業界の利益事件として回顧することがある。
然も昭和二十六年から二十七年頃に至っては、ヤミ時計品に対する取締当局の検察眼は、ますます厳重になって来ており、時計界としても、この当時が最大のヤミ事件を生んだものではないかとこの当時のいろいろな事が想い出される。

ヤミ取引の内幕とヤミの経路
香港から一包み三千万円が一回分として来るのが原則的

《昭和二十六年》 一体、ヤミという形体はどのようにして作られていたのかについて、少しこの辺の状況など一片を記してみよう。
昭和二十六年頃における商況というのは、一切がヤミ取引であった。つまり、人が欲しがる生活用品が足りないのだから、結論としてはヤミ以外にないことになる。
価格は、自然的に釣りあげられることになる。だから、自然とヤミ値を生むことになる。従ってこの当時の生活状態は、そう安楽なものではなかったが、ヤミを作りうるような特需社会では、一応景気は良くなっていたようである。
ところで、この時代のヤミ品の流れ具合などを振り返って見ると、先ず最初は、空から横田空軍基地経由のものもあったが、ヤミ畑の面が盛んになって来た頃からは、自由港であった香港を経由するものの方が多かったようである。香港からの密輸品のルートについて、私のところへ持込んで来たある人(名は秘す)からの交渉の一片を記すと、
ヤミのルートは、香港から一包み三千万円とこが一回分として送られて来るのが原則的になっていたようだ。船の運送の関係であろうか、この当時は時計だけではなかったもので、薬品でも綿布類でも購買力のあると見込んだものは総てこのようなルートと方法によって持込まれたものである。
私のところへ持ち込んで来た人の話では、オメガ、インターナチョナル、ナルダン等の時計類。それに南京虫も混ぜて一梱価格三千万円也であった。取引の橋渡しをしただけで、その一割を報酬に呉れるということだったが、私は新聞を出版している関係で、その紹介を断然ことわった。考えて見れば、宛ら垂涎三千丈というような甘い話であったのである。だから、志を別にしたものは、この頃の状勢にのって、盛んにヤミ品の取扱いをやったものである。
一回の手数料三百万円だから、これが月に六回位は反復することになっていたので、一ヵ月も経てば、その間の手数料の収入だけで優にヤミの仕入資金に充当することが出来たものである。だから若しこの頃、そのヤミなるものに本格的に手を染めていたとせんか、今は何十億円かを貯めこんだ長者組の中に入れられていたかも知れないということになる。

ヤミ時計検挙事件当時の秋嘆場など
小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物数百個単位というものもあった程

《昭和二十六年》 ヤミ時計のもっとも盛んであった昭和二十六・七年頃の時計界は、何処でもここでもというほど盛んにヤミの取引が続けられていた。小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物(南京虫)を合せて一種類数百個単位というものもあった程だ。従って警察の眼も、この点に注がれたものである。
然し商人という性格は、例えそれが悪いことであると承知していても、自分以外の同業が儲けているのを見て見ぬふりは出来ないものと見える。よほどの成長人でない限り、昭和二十七年の秋頃、東京市内の大どころに警視庁第二課発の捜査網が突然布かれた。その状況が新聞に出て、その店は一応閉めるという騒ぎを演じたのだが。そして、「今後ヤミ品は一切取扱いません」という一筋の念書を当局に入れて済ませることにはなったものの、この調査中の数カ月間は、内心ビクビクの情況で押し通したものだったという。もちろん事件の表面だったその小売店の主人公は、雲がくれという寸法である。この事件の取調べに当った警視庁のN主任は、経済係のS某といってその後時計業者とはだいぶ馴染が交わされるようになったようである。
この時の事件に関連した供給者側には、東京在住の大手筋が殆ど加わっていたようである。
従って取調べが進むのにつれて、摘出された時計の数は、なんと数十万個にも及んだようだったから、ヤミ事件としては、大変大きく且つ珍らしいものであったようでもある。
結局、八ヵ月間を費して一件書類は検事局送りとなったのであるが、その以前に係刑事が検事局にこの事件の取調べ経過を内申したところ、係刑事連があべこべに脅されたとして憤慨していた光景があり、その事実を本人から聞かされて笑えない一幕を感じたことがあり、正に珍事であったようだ。
ヤミ事件を摘発して、そのヤミ品のアリバイが明確であるのにもかかわらず、検察当局からお叱りを受けたということそれ自体は、取調べの根本にミスがあったからだということになる。係主任刑事の告白によると、ヤミルートは一応明らかに摘出することが出来た。勿論、数量と金額も合い、又それによる利潤計算も明かに算出されたのではあるが、ヤミ品の供給者である杲氏が事件開始の直前に死亡していることにより、これによって事件の全体が見えなくなったというもの。つまりヤミ品であるかないか、又そのルートが如何なる方法によるものかどうかの点を明かにすべき立場の人(証言すべき人)が死という事実によって、総ては清算されなくなったのである。係刑事のN某は、顔を青ざめて怒つて見たが致し方なく、事件はそのまま白紙となり、その中の一部だけが送局されたに過ぎなかったようである。この問題は、戦後を通じてヤミ事件中最大のものであったようである。「泰山鳴動して鼠一匹」という結果になって終ったというもので、戦後のこの種事件では特記すべき一節である。

ヤミ事件に隠れた惡策の種々相
金塊争奪事件

《昭和二十一年》 終戦後の騷勁といったら、ヤミ物資をハサンでの事件以外はあるまい。
そのヤミ事件の中に巣喰う悪逆な事件の種々を事実に基いたものから後世のために断片的ながら以下記しておこう。
金塊争奪事件がその一つである。ある金塊の持主からその処分を依託された。昭和二十一年の頃のこと、取引場所は、山の手の西地区に当る場所、持参した人は、主役の責任を負う年輩者に若手二人が付き、案外おんぼろのようなクタシーで乗っけた。ところが、約束の時間になったら買手組の相手側は、二人連れで約束の取引場所に現われた。もち論、取引に必要なトランクを持参して来ている。そこで、両者間の取引開始の挨拶が済むと、それから買取り側では現金、現物提供右側は、金塊のそれをそれぞれ披露しなくてはならない段階になった。そこで、現品提供者側では買手側の風体からして一種の疑惑を持った。朝鮮の人であることと、その他に、万が一、持参したトランクの中の現金に如何わしい所作をしてはいないか等の点である。そのような疑惑を頭の中に描きつつ、目はランランと相手の態度を見守っていた時、そのトランクの蓋が開かれた。そのとたん目に映ったものは、百円札の束がズラリと並んで入れてあったのである。なんとなく怪しいと睨んだ瞬間、手早くその札束のくくりをぶった切ったのである。
案にたがわず、中身は新聞紙の重ね束であった。この時すでに室内は、電気も消えて乱闘の場と化した。改めエンジンをかけっぱなしで用意していた車に乗って、逃げた事件である。この車に乗り遅れたが最後、現品はおろか、命までも無くなっていたことになる。ことろが幸いにも、この三人は車の中で顔を見合せたという。かくて乱闘寸前のヤミ物資取引の危険は、このようにして双方無傷の中で済んだのである。済まなかったのは、金塊なる現品を委託した影の人に対しての問題である。依頼された某老人は、その人の前で平身低頭して、申し開きしたのである。大きな騒ぎになった割には、あっさりした引き際であったのだが、金儲けのためのヤミ行為は、品物だけがヤミではない、という教訓がこの事件の味噌である。

日本堂の出資金三十万円と肩を並べて服部時計店が同額の三十万円を出資
時計会館の建設にまつわる当時の状勢

時計組合本部の移動時代

《昭和二十二年》 昭和二十二年五月の総会で、戦前から時計組合長として組合事業に貢献してきた野村菊次郎氏にとって代わり、関誠平氏の理事長時代に移った。この東京時計小売組合にも新しい息き吹きが巡ってきたようだ。
取りあえず関誠平理事長は、戦後の時計組合理事長としての指揮棒を握ったことになる。勿論、関氏の後ろ盾の役を努め、敵将としてねらった野村菊次郎理事長と山岡猪之助副理事長らの首をはねた功労者の金山金重盛氏は、副理事長の座を占めることになった。(註、昭和二十二年協同組合法の定めるところにより、柬京時計眼鏡小売協同組合の呼称は、第三五○号により登録されている、当時の組合員千百二十名)。 そして、新役員に変ってから神田・小川町の白馬山の二階にあった組合事務所は、引き上げることになった。移転先は、銀座五丁目六番地の裏通りに位するビルの一室で、「バー小港」と向い合いにあったもの。この当時の借室の敷金など一切は、副理事長になった金山重盛氏が担当していたので、その後の整理話のことも続けられていたようである。
こうしている中に、関誠平氏の発意によったものか、時計会館の建設に関することがプラン化されるに到ったのである。時計会館の建設企画は、当初は八十万円の予算であったように伝えられている。そしてそのプランによる建設概要は次のようであったという。
@ 敷地の約五十坪(新富町の現在の場所)を、十五万円で買取る旨、出資者に説明している。
A 建築費用、二十五坪の二階建、約五十坪の経費と雑費合せて計七十五万円。
大まかには、上のようなプランによって、出資者側に目算したメーカーの服部時計店、シチズン時計を始め、その他卸商と銀座界隈に実在する小売店有志者の協力を仰いだようである。
そしてそのプランに基き、服部時計店を始めシチズン時計等、目星しい先々を飛廻ったのであるが、それよりも真っ先にこの建設プランについて協力を求めたのが、この当時銀座のドまん中に開店した日本堂時計店に対してであった。日本堂の佐川久一社長は、この話に対して、「万一、この時計会館建設の資金がまとまらなかった場合は、私(佐川氏)が一切を引き受ける」と言って、一種のハッパをかけたそうである。
この間いろいろな話から、これに勢いを得た関誠平氏と組合書記長の青山君が同道して廻って歩いた結論は、「どうにも資金が集らないから、時計会館の建設計画はお終にしなければならない」と昭和二十三年の秋ごろ、日本堂を訪れて佐川社長に最後的な状況報告をしたという。これに対して佐川久一日本堂社長は、次のようにいい再度二人の尻を叩いてやったといっている。
関誠平理事長と青山組合書記長が「時計メーカー方面の協力がないというのなら、新興の日本堂一人で出資するが、それでいいか」とメーカー陣を説きまわっていたという。
そうした結果、当時の日本堂は、何としてもまだかけ出したばかりのホントウの新興小売店であり、その小売店の出資によって、万が一、時計会館そのものが建設されたとしたら、将来どんなことを持かけられるかわからない、として日本堂の出資金三十万円と肩を並べて服部時計店が同額の三十万円、以下シチズン時計などその他卸商社からの出資金によって、現に新富町に所在する時計会館が出来上ることになったのだという。これが時計会館建設についての経過であり、この問の事情が明白になっているようだ。
然し、その時計会館は、現在東京時計組合対中央時計宝飾品協同組合の争いとなり、法廷に持出して係争の具に供されんとしつつある情勢のようであるなど甚だ遺憾事である。写真上は、昭和22年当時「東京時眼小売協同組合」が神田錦町に事務所を置いた時の記念スナップ。

商工協同組合法に基き、名称を「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた
野村菊次郎、山岡猪之助、金山重盛、河内録幤氏らが理事長に

《昭和二十二年》 東京時計組合の事務所は、戦災の時まで台東区の東黒門町にあったが戦後は一時、文京区小石川の野村菊次郎の自宅に置いていた。戦時中は、統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の三団体が統合した東京時計商工同業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)、そして東京時計眼鏡小売統制組合を設立し、組合の総出資数、八十五口、組合員千四百四名、理事長・野村菊次郎、山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、中山文次郎監事、関口鹿十郎、内田亀楽の役員陣で、組合事務所を神田・小川町の白馬山時計店に移した。然し、白馬山の二階事務所が余りに狭かったので神保町の西神田倶楽部の前に移転した。
昭和二十二年、商工協同組合法に基き、名称を「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。組合員千百二十名で理事長は関誠平、常任理事千葉豊、金山重盛、中山文次郎氏の外、理事十一名、監事三名、このとき組合事務所を東京都中央区銀座五丁目六番地に移した。昭和二十四年五月、新富町三の八番地所在の時計会館が完成したので、組合事務所を移転した。
昭和二十五年、中小企業等協同組合法により改組移行した。役員は、金山重盛理事長、常任理事に内田亀楽、後藤安平、河内録幣、森浦知作。昭和二十七年の役員改選により、金山重盛理事長時代が出現した。昭和二十七年の改選の結果、山岡猪之助、佐川久一の両氏が当選し、常任理事制を採り任期を折半したが、九月に山岡猪之助氏理事長を専任し、この年に貴金属品に関する物品税の陳情運動を起こし、活躍したが、メーカー側の反対する陳情が奏効して結果において消費税は店頭課税となった。
昭郛二十九年の総会で役員を再選して、山岡理事長が留任、同三十二年にも再選重任したが、昭和三十二年三月山岡氏が病に倒れ、辞任したので、木村副理事長が代って昇格理事長に就任、二期を引ついでいた。
次いで、昭和三十七年の改選期には、河内録幤氏が大沢氏に勝ち、同三十九年に再選現在に及んでいる。昭和三十七年の五月が改選期に当り漆原氏と争っている。写真下は、昭和二十四年当時、終戦後の業界の取引機関に活用した「古物品交換市場・七福会」のメンバー。竹内、永井、藤田、出口、赤沢、堀内、赤沢、大平、越光氏ら。

昭和二十四年、芝の美術倶楽部に宝飾関係者約百人が集って結成を決めた
捜査に協力する建前から「警袒庁管下犯罪捜査協力会」なる機関を設立した

《昭和二十四年》 昭和二十四年ともなった頃の国内の情況は、一般的にはようやく落ついて来た感じとなった。然し、物資面の取引は、依然としてヤミ時代が存続していた。だが各業界ともに、新時代への息き吹きが見られるようになった。その頃の時計、宝飾業界の情況はというと、時計は依然国産品の供給が少量で不足していたため、舶来品時代が続いていた。それだけに、まだまだヤミ時代であったといえる。
そんなこんなで業界内の空気は、時計畑の人も、貴金属を扱う面の人達も、相通ずるものがあるようになっていた。従って、この頃は交換市場を通して取引するのが業界の大勢であった。
この頃の市場は、各所で開かれるようになっていた。東京では、時計関係では上野公園の梅川亭で開催される「上野会」を始め、「高円寺会」、「五反田会」、「五の日会」、浅草の「七の日会」、貴金属関係では、上野の「台東会」、三田の「ヒジリ会」、それに芝の「貴石倶楽部」というダイヤ専門の連中の会までが定期的に催されるようになっていた。
警視庁当局の警視の取締に関する眼識(にらみ)も、この頃からこの業界畑に向けられるようになって来た。そして特に、犯罪捜査上の関係から、その必要を痛感されて来た被害品の発見には、欠くことの出来ない贓品に対ずる鑑識眼の智識培養の点で、講習会の開催などについても協力方を要求されて来た。
そこで、この捜査に協力するという建前から「警袒庁管下犯罪捜査協力会」なる機関を設立することにした。
昭和二十四年の中頃、芝の美術倶楽部に宝飾関係者約百人が集って、この種団体の結成を決めたのである。この席上には、本庁の古老刑事である石渡氏がやって来て、取締事項について説明した。勿論、協力会の会長には、貴金属畑で古参株の長尾喜一氏が就任、常務理事には小倉和助氏と弛謁常任理事に小倉和助氏と私(藤井勇二)の二人が担当することに決め、当局との協力体制に備えることにしたのである。
だからこれから後の警視庁捜査課の人事関係には、第一(殺し)、第二(保安)、第三(窃盗)等、各課長以下歴代の担当者といろんな面談の機会が作られたのである。かくして協力会の事業が仲展していく中で、当時の会長である長尾喜一氏は、交換会の創始時代を描いた『交換会の沿革大要』なる一書を編纂した。業界の史蹟中には、「時計貴金属業界の歩
み」として貴重な記録であるもので、次にその内容に付いて記してみる。

長尾氏が残した『交換会の沿革大要』
会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートした

《明治四十年》 東京・芝高輪南町居住の今は故人となった長尾喜一氏が記録したその沿革史の概要は次の如くである。
明冶三十八年の日ロ戦争で大勝したあとのことで、当時ロシヤから分取った汽船ロゼッタ号という船が芝浦にあって料理屋を営んでいた。このロゼッタ号を会場に当てていた「京浜時計睦会」は、その発足当時から今尚続いている。
「オーイ、藤田君、日本は凄いな、とうとうロシヤをやっつけたからな」野島どうだ。「戦争も終って気分も落ちついたから、有志を集めて市場でも開こうではないか」と話し合ったのが明治四十年、野島、藤田の両氏が野島氏の自宅で茶花話から花が咲いたのをきっかけに持ち上がった話である。
そしてその結果、会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートしたと記してある。故人となった藤田栄吉氏は、当時二十八才、野島氏は三十三才の青壮年の二人であり、これが「京浜睦会」の発足当時の姿である。
この時集められた業者は、人形町の大場、銀座の平野、寺内、池の端の吉田庄五郎(先代)、紺良雄(三井号)、佐橋(道具)、沖田、小野嘉助、(小野金兄)、草深、中村時、川口徳蔵(質屋)、市岡の松本吉五節、金子福造、金子新蔵、上野の野村菊次郎の諸氏。
かくて「京浜時計睦会」開設一年が過ぎた頃、会場を神田雉子町の金清楼に移し、会員にタタミ町の諏訪喜之松、福井泰二の諸氏を加えて当時の睦会を続けた。戦後の経済情況による変化があって、再度の会場の変更となり、神田明神境内の「開華楼」に再び席を移すことになった。
この当時の商品交換市場というのは、この「京浜時計睦会」の他にはなく、京浜睦会こそが業界最大唯一の商品取引機関であったという。執筆中に、この頃の古い当時を想い出して、時計卸業者の金栄社の荒木虎次郎社長が自己の想い出の記録として寄せた記録があるので、次にこれを記して事実の裏づけに供しよう。

“開華の市”など市が盛んになった
商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は、温泉旅館で開催という“命の洗濯も

《明治四十年》 「京浜時計睦会」は、神田雉子町の金清楼で始まり、都合で神田明神境内の開華楼に移した。当時私が会の帳場を任されることになり、京浜時計睦会は「開華の市」と呼ばれていた。
開催日は、毎月八日と二十一日の二回、代金の決済は翌月勘定。歩合は、二歩(金潰しのものなどは一歩)。売買方法は、箱に一品づつ入れて入札する「箱回し方式」、椀に買値を書いて中盆に投げる「椀ぶ瀬方式」、そして形勢に依って増値をすることも出来るので、出席順で何点ずつかを売買するという規定もあった。
中盆というのは、売買の支配格で品ものにも明るく有力者でもあることで藤田栄吉さんが主として引請けていた。スケ(助)には、弟の藤田大蔵さん、後に故人となった長尾さんが引請けたこともある。
顔ぶれは、横浜方面として若松冶之助、三田彦作、野島清次郎、藤田栄吉の諸氏で、平野峯三、大場菊次郎、吉田庄五郎、福井泰二、松本吉五郎、鈴木卯吉、野村菊次郎、中村時蔵、草深喜之氏の諸氏などは古参の方で、外に村松(富)、金子(福)、寺内(孝)、佐野(権)、矢島(源)、上岡(市)、永井(平)、米井(仙)、紺(良)、藤田(大)、福田(荘)、岩田、金田さんなどで、明治四十三年の三百回記念の当時は、正会員は三十名たらずであった。
荷出しの都合で、特殊な売り物である場合は、特に有力な業者に案内状を出した。地方では、越後の鶴巻さんなどが出席したことがある。
この後で、金森、三直、小野金、長尾、諏訪、八森、田川、平沢、深野、伊藤(茂)、関根、熊田、講さんなどの入会があり、新陳代謝もあったが、相当なメンバー揃いで交換会の市としては「開華の市」が特別有力だった。この頃、開華楼への支払は、お仕着せ一本付でひとり金二円、お茶代と女中代として二十円。私(帳場)の手当は、二円で歩合の余りが入る。遠出一泊の開催も年に四、五回はありました。
この外に、蛎売町の「川五の市」というのもあり有力だった。これは川五(小倉)単独の市で、質屋から買出して集めたものを随時開催したものです。その内あちこちに市が出来、本郷の日の出時計店の階上でも月に二回ほど開催したものです。
「十二日会」は、その当時、時計商組合長の平野峯三氏が幹事長、槙町の森川さんが副幹事長で、会員はすべて京浜の有志、大賞堂の槙野、伊勢伊の秦、大西錦綾堂、中央堂の江川、八丁堀の鈴木と新橋の鈴木、大沢商会からは岡田、唐沢、溝口老さんなどが集り、会場は、築地の「てっきん楼」に決めて、毎月十二日開催した。商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は、温泉旅館で開催という“命の洗濯”も兼ねるということだった。私が受け持った「開華の市」の帳場は、震災前に阿川さんのせがれに代って貰い、勇退したが、「十二日会」の方は震災で解散するまでつとめていたのが記録として残っている。

精工舎の復興と高島さんが活躍した時代
時計界では最古参で人さばきとその手際の良かった人

《昭和二十三年》 戦争のため服部精工株式会社(服部時計店)に改称していた服部時計店の太平町工場は、昭和二十年三月九日の空襲で惜しくも焼失したが、その復興は昭和二十一年に操業を開始している。そして三月には、目覚ましコロナを売出した。引続いて、八インチの輻振掛時計「スリゲル掛時計」、シャッターに片側ビー置時計を生産し、昭和二十年の年末には、月産二万五千個に達していた。この年に服部玄三社長が退き、服部正次現社長が就任、新しい展開に入ったのである。
精工舎は、占領軍に賠償施設の指定をうけていたが、昭和二十三年には全面的に解除されたので、爾来「ニューコロナ」、「小型目覚コメット」等の生産を開始した。昭和二十四年には、「六尺定規時計」、「十三インチトーマス」の生産をも開始するようになった。
この間、昭和二十三年九月、台風による浸水騒ぎもあったが、太平町とは別に腕時計の生産は昭和二十一年から諏訪工場で生産品を出すことにこぎつけて、女持と男持の両種が売出されることになった。だが数量的には、まだまだ需要のほんの一部にだけ間に合う程度のものであった。従ってこの頃の時計のヤミ価格は、舶来品では無制限であると共に国産時計一個当り千円の価格が常識的につけられていたようである。つまり一般的な日常物資と等しく、時計の場合もヤミ値段でなければ買えないものとお客筋は考えていたようである。そのお陰で、メーカー筋への支払はとても潤沢であり、助かったというのがメーカー側のいう本音であったようだ。今でもこの当時の情況など思い出すことがある。従って、ヤミ時代が最も盛んであった昭和二十四、五、六年頃が、ヤミ品の頂上ではなかったかと思う。だから、この頃の服部時計店の卸部は、小売業者の来店でその接待に寧日追われていたという状況であった。
当時の卸部担当者は、時計界では最古参でお馴染みの高島勇三郎氏であり、人さばきに馴れており、その手際の良かったこの高島さんを通じて、服部時計店の人気は高まる一方であった。ただし、服部時計店と大沢商会だけは、この当時でもヤミ値による販売は絶対に採らなかったので有名であった。この時代に業界で活躍していた国産腕時計は、セイコーとシチズンの二ブランドだけ。



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