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平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問
各自に腕時計を一個づつお土産としてプレゼントされた

《昭和三十八年㉕》 モバード時計会社には、時々日本にやって来たことのある顔見知りのアルマンド・デデシャムという人がいて、心よく一行を迎え入れてくれた。食事をしていってくれと懇願されたが、一時間以上待たなければならないために、止む無く挨拶だけで辞去した。
その次には、平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問した。この会社では、私達一行を迎えるための歓迎の用意が整っていて、同社の社長始め一族が顔を揃えて迎えてくれた。日本とスイスの国旗を交差して記念写真を撮影、シャンパンやブランディで歓談、友好を深めた。帰りのお土産として、各自に腕時計を一個づつ提供してもらった光栄に浴した。
その次は、管理関係が完備している時計の工場内の設備と組み立て方式の見学をして、次のロックル時計博物館の見学に入った。この博物館は、昔ドクサ時計会社の社長が個人的に所有していたものを寄贈してロックル博物館ということにしたのだという当時の話を、案内してくれた係の人の説明によって分ったのである。
この博物館に陳列されてあるコレクション(古い時代の時計)を見てみると、時計の発祥時代のものは、日本のものとも案外変るところがないものだという感じがした。写真は、モンディア時計会社で組立作業を見学する一行。

我等一行はスイス北端のブレビンへと急いだ
ピアジェ時計の真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業を見た

《昭和三十八年㉖》 ブレビンというところは、スイスの北端という場所にあり、とても寒さに厳しいところだと聞かされていた。現地に入ったら、なるほど本当に寒いとうなずくことが出来た。
一行の車は正午過ぎに着いた。ホテル「デュビール」で中食をとっていた時、隣の室では、シーマ時計の社長さんが食事しているところだと聞いた。それほどさようにこの町は、時計関係者がかなり多いときいた。
ブレビンは、海面千六百メートルの高台にある。寒さ対策としてブランディで寒さをしのいだ。
ここのホテルに迎えにやって来てくれたピアジェ時計会社の社長の自動車は素晴らしかった。丁度テレビの漫画で見るような二百七十キロの超スピードが出せるカッコいい車だった。日本の車なんか問題にならなかったほどかっこよかった。
その超スピードぶりをわれら一行の眼の前で見せてくれたのである。
更に四、五十分もしてからスイスのシベリヤと称するブレビッのピアジェ時計会社に着いた。ここの工場は、そう大きくないが工程としては、真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業が行なわれており、堂々とした時計工場組織である。そして出来上る製品は、超高級品の部類の時計である。
ピアジェ時計会社の製品をよく見ると時計というよりは、宝飾品と言った方がピッタとくるような気がするのである。
工場内の各部を回ってから、この会社の社歴について説明を聞いた。ピアジェの現社長は創業して六代目に当り、ここに勤めている従業員は、親代々がここの工場に勤めているそうだ。スイスというお国柄がよく表れているような気がした。
このピアジェ時計の作り方を見ても、その一面が知られるように、高級時計のつくり方は、統一性をもった作り方ではなく、個々の美点を生かした特長がある製品が大きな魅力となって作られるのが特長である。それら個々の製品が力となって伸びていってもいいのではないかと考えた位である。
このピアジェ工場を見学して辞去したのは夕刻の六時をすぎていたから、表は既に夕暮れになっていた。それからは、我等一行が待つジュネーブ入りを敢行することになったのである。
従って車は、百六十キロのハイスピードで疾走し、午後の九時すぎた頃には三百五十キロにも及ぶスイス縦断疾走を行って目的地のジュネーブに到着した。写真は、ジュネーブのセネバ湖畔で筆者。

湖の都、ジュネーブを見物
折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学

《昭和三十八年㉗》 ジュネーブに着いたのは、午後の九時を過ぎていた。早速、中華料理店で腹ごしらえをして、ホテル「アングレター」に入った。ジュネーブでは、ユニバーサルとロレックスなどの時計会社の見学を予定していたのであったが、翌日の五日は生憎と土曜日とあって、スイスでは土、日曜日の二日間は休日になっている。そのためここでの時計工場の見学は中止となった。その代わりに折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学することにした。
ユニバーサル時計会社のシェーラー社長とは、電話で連絡をとり、常設会場の宝飾品フェアで会見することにした。翌朝の食事をしたあと、この会場に集まったのである。ところがユニバーサル社のシェーラー社長が約束の時間より少しおくれたので、この間会場内でカメラ撮影をしたことから係の人達とトラブルを起した頃、シェーラー社長がやって来たのでことなく済んだ。ユニバーサルのシェーラー社長と会談した際に、スイスという国は仕事の面では案外のんびりしているものだという印象を持った。
かくしてこのあとジュネーブの各方面を散策して、湖畔の静かな姿にひたるなどして快適に過ごしたあとは、いよいよこれからあとのコースは、工場見学がなくなったので観光本位ということになった次第である。
ジュネーブは五日夕刻に出発、八時頃空港を飛立ったのだが、この空港で買ったブランディのナポレオンが一本七ドル九〇セントであったのだから、ヨーロッパの中では一番安かったことになる。(パリでは九ドル)。写真は、ベニスの海上交通機関。

ミラノ、ベニスに遊ぶ
水の都べニスの交通整理は、水上で指揮をとっている

《昭和三十八年㉘》 ミラノへは午後十時を少し過ぎていたのでホテル「トーイック」に着いたのは遅かった。ここは一泊しか滞在が予定されていないので、荷物をホテルにおくとそのまま夜のミラノ観光に出かけて行った。
有名なドームを始め、いろんな物を見て回った挙句、最後にビールなど飲んでホテルへ帰ったのが朝の四時頃。我等の一行は強心、且つ健脚揃いだということになる。
ベニスに入ったのは、六日の日曜日である。ミラノは十時頃出発ということになっていたので、買物を希望する人達は、朝早くから何くれとなく飛歩いて、十二時三十分には機上の人となっていた。向かうところはベニスである。
べニスには、一時間足らずで着いた。空港の傍の海岸をモーターボートでホテルへ運ばれるというコースであるから、最初から遊楽コースのベニスなどが想像された。ここのホテルは水辺に添って建ててある「パーク」という名称である。
我等の一行と共にアメリカからの観光組も混っており、賑やかだった。べニスは水の都というだけあって、ここでの交通整理は、水上で指揮をとっている。船が右から左から交叉する場所には、 陸上における交通整理のポリスセンターがあって、日本の場合と同じように、赤、青の灯火で交通整理をしているのを見て、珍景の一つに見えた。
やがて夕刻ともなれば、川面を漕いでいくゴンドラの中で、奏でるベニスの船唄が流れてくる。想像にまさる情緒たっぷりなものが感じられたのである。
この情景に浴さんものと観光客は群れを成して集まってくるのは、またベニスならでは見られぬ光景でもある。
ベニスから海上少し離れた場所にドーモがある。このドーモのためにひっきりなしに乗合船がこのベニスから出ている。我等一行が、ここに着いたのは日曜日だったから、船は常に満員という盛況ぶりであった。それを押してドーモ行きを決行することにした。その満員の船の中でも若い入達は、同伴の女性にチュッチュッと音を立ててキスしている。その様はいかに馴れごとになっているからとはいうものの、余りいい図のものとは受け入れなく感じた。このキッスのことについて、その夜ホテルに帰ってから考えて
みたが、ヨーロッパという国では、永い間馴らされてきた伝統的な表現行事として、通常例のように扱かわれているが、このよう極端な行動の表われ方は、キスをする以外の場合でも、個人的な性格をむき出しにして、物ごどを押し進めるものであるという原則的の測定が出来たのである。
このドーモから更に、二時間ばかり行くと、ニースという歓楽郷があり、ここでは天国というような極楽の場でもあると聞かされたのだが、残念ながら行けなかった。写真は、古都ローマの古墳は、現在でも残っている。

事蹟の多いのに驚く古都ローマへ
ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院・広場など多彩な名所

《昭和三十八年㉙》 次の観光先はローマである。ローマヘは十二月七日の午後一時半ごろ、「マリンステランド」という指定のホテルに落ちついた。その日は、あいにくの雨の日であった。それでも観光はプラン通り進めることにした。
ローマは、二千七百年も前の紀元前七百五十三年に建国されたと伝えられ、古歴の都だけに空港から市街へ出るまでの沿道にさえ、既に史跡らしい様々なものが並べられているので、ローマそのものの古さが象徴されているのに先ず驚く。
ローマはイタリアの政治、文化の中心地だけでなく、カトリックの総本山であるバチカンの所在地として観光客を迎えるので有名である。
ここの通貨は「リラ」と称し、一ドルが六百二十五リラ、一リラは邦貨で約五十八円である。先ずドルとの両替はホテルの両替屋で交換したら、一万円が一万千五百リラで交換された。一行の中の一人が素早く買物をしたその時の円との交換計算は、邦貨一万円が一万四千リラの計算であった。従って、余りに違い過ぎるではないかということから、ローマのイタリア国立までいって交換をしようということになり、銀行で交換してみたら邦貨の一万円が一万二千リラになった。結局は、時間の無駄であったことと笑った仕末である。だがローマの人は、油断もスキもなりませんぞということを聞かされていたので、敢で経験のために自ら、実験してみたのである。
観光コースは、ローマ国立博物館ボルゲーゼ公園、人民広場、聖天使場、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院、サンピエトロ広場、カタコンベ、カラカラ浴場跡、バンデオン、エマヌエル記念塔、バリベテル広場、トレヴィの泉、スペイン広場、フォロマーノ等の順に回って見て回った。歴史は積っているだけに事蹟の多いのに驚くだけだった。
この中で特に古代歴史を持つ代表的なものでは、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院などがあげられる。即ちその内容は、ヴァチカン帝国は、ムッソリーニ政府の世代に法王庁との間にラテラーノ協約が妥結せられて以来、ヴァチカン帝国として独立主権国となったもの。国といっても領土はヴァチカン宮とサンピエトロ寺院とその付属地を含むわずか○・四四平方キロ、人口約千五百人である。だがこの中で貨幣、切手などを発行し、テレビ放送局も持ち、新聞も発行しているというのが特徴であり注目される。
サンピエトロ大寺院は、世界カトリック教会の最大、最豪華な教会で、ルネサンスからバロックにかけての芸術の総決算にも似た成果を誇っており、もとこの辺一帯はネロ皇帝の競技場であり、ここに教会が三百十九年に完成、三百二十六年に献堂式が行なわれたと言われている。十五世紀中頃になって崩壊の恐れが生じたので改築計画が立てられ、二百年近い歳月を費やして完成した。写真は、レストラントウキョウで乾杯する一行。

古都ローマの古墳は今でもこのように残されている
二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、無事帰国した

《昭和三十八年㉚》 現在の教会はこの再建された新教会で、直経四十二メートル、高さ百三十二メートルの威容を誇る大ドームはミケランジェロの設計に基くものである。内側の装飾はすべてモザイクで、堂内は大体近世諸法王の墓や記念像で飾られている。入口右の最初の祭壇にミケランジェロの大理石像「ピニタ」があり、中央祭壇のドームは、ベルニーニの一六三三年の傑作と言われている。
ローマ市中を観光する中で、一番注意したいのは、道の角点に気をつけることである。ローマの交通路は、中心点から放射的に出来ているのだから、歩いてゆけば五分位で行ける場所でも、車の場合は回り方によっては数十分を要するような構造になっている。
また、土産物などを買う場合でも、ガイドマンの案内する店はガイドへの謝礼額を含まれているものと見えて、相当高価になっているのに気がつく。彼らへの割戻し制があるからだという。我等一行を案内した場合の例でも、カメオなどの指輪、ペンダント類を買ってみてハキリした。ガイドマンがわざわざ案内してくれたその土産店で買求めた品物よりも、表通りの堂々としたショップでの価格の方が安い値段で正札されている現実にぶつかっだのだから、この点の事実が証明された感じだ。
このローマには三日間滞在したので、第二次世界大戦終戦時のころに、当時の伊太利国首相のムッソリーニが敗戦の責めにあって惨殺されたという人民広場を見たときには、ヨーロッパという古代歴史の中に埋まれゆく痛ましい時代の足跡を残したものだと感動させられるものが心中湧いた。それから且つてのオリンピ″ク競技場の跡など見て廻ったその晩は、特にローマの味に浸ろうではないかということで、特別晩餮会のプランを立てて貰った。ヨーロッパでの夕食時は、どこの場合でも大体午後八時頃からが通例になっているようであるが、われわれは馴れていないせいか、そう遅くまでは待てないので早くして貰った。それでも七時からということで案内されたローマのトーキョーというレストランに行って見た。ここではイタリア料理を出してくれた。食事をする部屋はワインの空ビンを積み重ねた廊下を通っていく奥まったレッガ作りの古風を型どった一室であった。料理の味は特に美味しいとは思はなかったが、それでもイタリア料理というだけに、そこにやって来ていたテーブルのメンバーたちは、何れも楽しそうに食卓を囲み歓談している光景に接することが出来たのでこれが何よりの御馳走だと思って昧わった。
かくして奏でるメロデーに合わせて室内の誰もが自由にステップを踏んで楽しそうに踊り始めたので、その情景をあとに、ローマそのものの印象を刻みながらこのレストランを辞去した。いよいよ明日はローマにお別れを告げることになるのだから、夜のローマを探究しようと語りながら歩いた。ローマでは、夜の十二時を過ぎた頃はまだ宵の囗であるようだ。何処の喫茶店でも、テラスにステージを突き出して、そこに集まっている沢山の客に歌と音楽などを奏でて聞かしていた。その情景は文字通りローマならではのリズム感に浸っている感じが持てた。
ローマの観光が終ってホテルのロビーで少憩しているときのことだが、そこで一人の日本人青年に会った。聞いてみたところ、南アのダイヤモンド鉱山で働いているのだそうだが、勤務のあとの保養休暇のためこのローマにやって来たのだといっていた。ローマは、欧州地方での保養地であるからだ。
我等TBS視察団の一行は、ローマの空港を飛立ってから途中カイロ、カルカッタ、バンコック等の各国の空港を中継したのである。どこもここも空港での休憩中の暑かったのには参った。
約七時間位を要して最後の地点香港に寄港したのである。香港は、世界三大景勝地の中に数えられるというのだけあって、空から見た香港は実に素晴らかった。
かくて一日を休息、この間、九竜、ビクトリヤ本島など観光、そのあとそれぞれ好みの土産品を買うために自由行動にした。香港の名物に取りあげられている宝石類は、安かった時代は過ぎ去っていたということに留意すべき時に来ていた。(注)香港の視察旅行は、前回の東南アジア視察として記してあるため省略する。二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、昭和三十八年十一日羽田空港に無事帰国した。写真は、霊峰富士山の姿を望む機内の筆者・藤井勇二。

昭和三十九年に打出した政府施策の金融引き締めの打撃
到るところに廉売、乱売という事態が発生した

《昭和三十九年》 昭和三十九年度の政府予算は、三兆三千億円を突破するという依然たる超膨大型予算ではあった。政府の金融指導部の任にある日銀当局は、この年から金融の引きしめ政策を打出した。そして金利引上げといった策をも打つことにしたのである。だからこの日銀政策によって打撃を蒙ったのは企業者であった。基本的な資本力を持たない企業筋は、貸出し防止という銀行側の警戒的新方針のため、俄然窮乏の状態に転化する向さえ現われたのである。遂にこの年から大、中、小企業者の各方面に倒産数字を現示するようになり、それが昭和四十年に到っても引き続き増加の傾向を見せていたのだ。いわゆる池田内閣時代のインフレの尻ぬぐい経済政策が旆行されたということになったのである。従って昭和四十年度に入ってからの消費景気は、極喘に生産者筋を恐慌せしめたのは事実である。
だから時計業界においても、これらによる結果の悪現象が見られていた。つまり、生産品の消化に障害となったのだから、滞貨品の処分的販売時代がやって来たという情勢に立到ったのである。その結果の現象は、到るところに廉売、乱売という事態が発しており、この点で地域によってはもの凄いまでに業者間のあつれきなどがあり、案ぜしめられたものであった。

スーパーマーケットやデスカウンターなど新しい販売店が出現
昭和三十九年の頃 安売り合戦が最高潮に

《昭和三十九年》 景気が悪くなって来たから物を売って利益を上げ、それによって不景気を補おうというねらいから、商品を安く提供するという方法に変って来たことは必然のことだ。それが、それぞれの方面で同じようなコースをとるものが現れて来た結果、またその上をいこうとするところに、競争の激化が生れることになったのである。
時計業界の場合は、二割引き販売が平常のものというようにいうに「安売り合戦」という形で登場してきた。
このような時代に突如飛び出して来たのは、既に十数年の間の低価格戦略という実績をもつ「スーパーマーケット」や「デスカウンター」というような新しい販売店が出現、これらの店では二割、三割引き販売は常道のように宣伝されており、問題をかもしたのであったが、このことは時代の生んだ止むをえない状態であったのであろうか、それらの安売りよりも更に恐威となったのは、滞貨商品の投げ売りによる弊害から来た激烈な割り引き販売であった。市価の五割引き販売を公然と実施しているのだから措置なしというもの、時代の悪性化をはらんでいる向さえあった時代となったのである。

時計卸企業間で多彩な招待旅行が盛んに
海外への招待プランを考えている企業が増えて来た

《昭和三十九年》 景気の悪い時代にはサービスを増して販売を伸ばそうという企画がはやった。兎に角、販売とそのサービス方法が大型化してきた。時代感覚が一転してサービス招待に組まれる温泉招待などの方法は古い、という見方からであろうが、昭和三十九年四月から貿易の自由化が始まり、時計の卸商社らは、販売店を海外へ招待するプランを考えている企業が増えて来た。
招待先は、香港に始まり、東南アジア、ヨーロッパ、ハワイといったコース。更にヨーロッパを巡回した後、アメリカにまで足を伸ばすという超大型招待までも現れた。時計界もロケットの打ち上げ時代に適合した宇宙への招待という線に近づいたような気がする。

科学躍進時代に並ぶ時計界の現況
音叉時計など多彩な計器類が登場

《昭和三十九年》 戦争の結果が生んだ科学の進歩については今更いうまでもないが、関東の大火のあとの街造りが華やかになるのと等しく、人を殺す兵器などに研究を積んだ結果の科学力は非常な進歩を遂げるものだ。そしてその現実は昭和三十九年度において既に米ソ両国間の競争場裡に入っているロケット打上げという宇宙到達時代の出現により正に脅威となった。ソ連打上げのロケットは、ついに月世界に到達し、米国のそれとの競争力が注目されている時代である。そのような科学上の進歩の一片として、時計界にも電子時計の時代が出現して来た。
時計に関する科学的機能を持たせたものの経路をたぐってみると、乾電地応用時計、直流交流式応用電気時計、トランジスター時計、水晶体応用時計、音叉時計、電子時計というような種類で辿って来ている。然し電子腕時計の中で国産品としてはシチズンがこの三月から三万二千円で発売を開始したので、国産二大メーカーを称する時代の将来のこの面の競争が注目の焦点となっている。音叉時計は、ジェコーから、電子時計と呼称するものは、ブローバ、ハミルトンなどがあり、この先どんな新種のものが飛出してくることか、それにまた研究心を深くしているスイス時計界のこれらに対する成果がどう打出されるかに期待と望みがかけられているというのか現況である。



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