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東京時計組合が皇軍慰問に、時計修理班を特派
職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた

《昭和十七年》 さらにこの頃、東京時計組合の役員内には、職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた。たしかの梶山平三郎副組長の提唱だったと記憶するが、当時の組合事務所になっていた台東区東黒門町十九番地(現小峰材料店のところで野村組長の家屋)の事務所の楼上で役員会を開かれた時だった。この提案の結果によって、当時の三十六支部の、支部長からそれぞれ希望者を募集することになった。その結果、北支派遣軍慰問班と中支派遣軍慰問班が陸軍省関係の軍属となり、十人が班の編成人頭に指定されたと思う。これに続いて、海軍省の南方派遣軍慰問団も作られることになった。
これの編成には、当時芝支部長の任にあった金山重盛氏が当たった。牛込支部長の金子房太郎氏との接衙ということになったが、金子支部長の代役に奔走した高橋勝吉氏(練馬支部)が活躍した。かくて北支、中支派遣軍時計修理班慰問団の一行は、業者からの見送りをうけて勇躍奉公の任務に就いた後、金山氏を隊長とする南方派遣軍時計修理班の慰問団一行が次の十氏で編成、昭和十七年の九月八日に横須賀港を出発した。
◇隊長:金山重盛(中央支部)、◇副隊長:石川好雄(芝支部)、福田勉、市川彦左衛門、加藤(三田支部)、平塚専夫、清野豊吉(調布支部)、高橋勝治、野沢久次郎(三越修理部長)、熊谷。
一行は昭和十七年九月八日、横須賀港を運送船で出発した。慰問地は、サイパン、ラバール、トラック島を中心に活動した。サイパンまでは七日を要して到着したが、このサイパンの船中で演芸会を開演中、平塚氏は惜しくも病死した。この遺骨を持って一行は、修理班の奉仕に努め回ったものである。
ラバールには昭和十七年十月二十一日、当時猛烈な空襲にあったとき到着した。転じてトラック島には、その月の二十五日に到着したが、この頃は南方面は空中戦で華々しい戦局が報じられていた頃だったので、人心は少しくおじけづいていたようだったと班中の高橋氏は当時を追憶している。
この頃、テニヤン島のクエゼリン環礁の特派員から四十人乗りの潜行艇を持って修理班の転属を要請してきた。そこで、このクエゼリン島に出向くかどうかについて班員の意見がまとまらなかったので、遂に出向くように要望された金山隊長に高橋班員が強い抗議を行なったことになり、遂にケンカ騒動を起したことがある。然しそのクエゼリン島は間もなく全員玉砕したという報告を受け、胸を撫でおろしたそうだ。かくして、一行は昭和十七年十一月二十八日に、横浜港に無事帰港した。

民間所有のダイヤモンド買上品につき陳情したときの経過
輸出に向け外貨獲得の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動を

《昭和十七年》 昭和十八年ともなった頃は、戦争は益々たけなわとなり、大本営の報道官発表で東条英機陸相が内閣総理大臣になった直後であったから更に戦争への熱度が高まったように思えた。
この頃の業界関係は、廃品回収事業も各方面の努力で最高潮を過ぎたようにも思えた時である。組合としての陳情行も、既にこの頃の戦局を眼の前にしては、何がどうなるうと最早進むべき道は一つしかないといったように思えた状勢下であったようである。いうなれば業界関係は総じて「私しや川原の枯れススキ」とでもいった流行歌風調の時代ともなっていたのである。もっとも、この頃は業界の新聞陣営もご多分に漏れずというところ、当局命令で株式組織に改めた時計光学新聞(この頃山木君は退社)と私の社(時計蓄音器興信新聞)の二つだけしか存在していないという淋しい状況であった。
だが、状況をたぐって見ると、この頃関連業界中特に一沫の寂しさを感じていたのはダイヤモンドの取扱い業者であった。昭和十二年当時から、表同きの商取引はやれなくなっていた。その上、戦争状況がだんだんたけなわという状勢に転化して来たので、ダイヤモンドに関する限りは手も足も出ないという状況である。そこで、この頃二、三の有志者間で相談した結果打出したのは、ダイヤモンドの民間所有量の買上げ品を外貨獲得の面へ振向けようという案である。たしか昭和十七年の秋頃のことだと思う。
ある時、三輪真珠工業の三輪豊照社長から私の社に電話があり、ダイヤモンドの買い上げ運動について相談したいから協力してくれというのであった。私の新聞社は、昭和十五年に当局命令によって資本金三万円の株式会社に組織替えをしており、その株主七十五人程の中の一人に三輪さんが加盟していたのだから、それの返事には一も二もなかったのである。勿論、業界のためになることでもあるからということもあり、進んで協力することに決めたのである。
この時の運動方針取決めた会場は、当時日本橋浜町河岸にあった日本橋倶楽部であったと思う。この日の会議に出席していたメンバーは、京都、大阪、名古屋方面からの一流店の顔も見えていたので、全国的な集りだという感じが持てたのだ。
議長には故人となった古川伊三郎氏が就任、正式に陳情運動に対する決議を行ったのである。その席上で私は全員に紹介され、この陳情運動の主軸に活躍する旨依嘱されたのである。それから、その後の対策進行協議のため、当時、日本橋村松町に事業所をおいてあった松本商店の松本松之助社長店の三階に陣取り、連日に亘り、根気よく陳情書作りなどいろいろと協礒したものである。
この時集ったメンバーで覚えているのは、三輪豊照(故人)巽忠春、中島栄一(故人)、伊藤繁(故人)、松本松之助、西川杲(故人)、古川伊三郎(故人)、亀田基一(故人)、水渓直吉(故人)、金田徳治(故人)諸氏であるが、この運動に対する大役を特に私に嘱託したのは、過ぐる昭和十二年の当時、ダイヤモンドの十割課税を悪税として一気に一割までに引き下げに成功した実績を買われてのことだと思う。
その時よりも今回の陳情運動の方がはるかに困難性を帯びていたのである。だが兎に角、民間所有のダイヤモンドの買上げに関する陳情書の仕上げが出来たので、これを商工省の当局側に提出すると共に、更に、買い上げたダイヤモンドの一部と、白金など高級貴金属品を含めたものをまとめて輸出に向け、外貨獲得という線の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動をこれと合せて企画したのである。
これらを吸功させるために、暮も押し詰まった昭和十八年十二月二十八日付で湯島所在の本社内に積まれた一万八千余部に上る陳情書を全国の販売業者に向けて発送、それに調印協力方を求めたのである。暮の二十八日ともいえば誰もかも忘中忘という時であったので、止むなく日頃懇意にしていた梶田久冶郎、谷田賀良俱、荒木虎次郎氏ら業界の各界代表連に立合いを請うて、その実況を写真に撮っておいたのである。これがその時のスナップ。

大東亜戦争へ突入した頃の業界
時計、貴金属、眼鏡など資材がなく、すべてが生産中止に

《昭和十六年》 昭和十六年十二月八日に大東亜戦争への突入が宣せられた。それから戦
争が拡大されるや国内の諸事全般が政府の統制命令に絶対的に服さなければならなくなった。この結果、時計、貴金属、付属品、眼鏡等の関連業界は、ともに時局対策につき腐心していたことはいうまでもない。
この頃の業界状況を大別すると、ザットと次のようなものであったといえよう。
@ 時計業界では、メーカーは戦時体制に入っているので生産関係では、資材が割当配給による制限時代であっただけに思うように時計の生産も供給も出来ない。時計の輸入品は既に全面的にストップされ、その上五十円以上の時計は販売禁止という極端な統制令によらねばらない時代となって終っていた。
従って、品物をヤミ売りするにも現品が見つからないという時代になっていたのであるから、召集によって出征する者のために贈る、銭別代りの時計の入手などは特別の方法で品を発見に努めなければならなかった。勿論、値段はヤミ値に決っている。だが品物はそうざらにはなかったものだ。
だから、この頃は古物方面の業者が案外巾をきかせていたということになる。
A 貴金属品は全面的に販売禁止。そのため、時局処理方法として昭和十四年に早くも金銀製品商運盟なるものが設立して活躍している現状である。しかし、それもある程度目的品の回収が進んで来たので、更にその収荷品の処理方法にまで及んで、一部は輸出へ、そして外貨獲得という国策的指線に向って進んだほどである。この頃、代用地金にサンプラチナが利用されていた。
B 時計バンド関係では、全く原料資材使用禁止のために営業は自然的に皆無。ただ、軍需向け受注品として許可された範囲のものだけが、製作且つ配給の線に上っていたという状況であるから、従って組合活動の如きものもなくなっていた。
C 眼鏡業界での関係も資材に関係するものはその如く禁止であった。だからこの頃から白金代用地金として貴金属界に登場してきたニッケルを素材にしたサンプラチナが活用される時代に変っていたのである。
そこでこの頃は、時局対応策に動いていた東京時計同業組合の活躍に期待されていたわけ
である。だが一面、金銀製品商連盟肝いりで設立を進めた「全国時計装身具眼鏡組合連合
会」に対する期待も持たれていたわけである。
だから事業活動はというと、軍需品製作関係以外の部門は存在皆無という状態になっていたのだから、平常時に新聞陣営の活躍などを交えた業界間の活動というものも解消されたことになる。

「九・一八事件」当時の統制違反騒ぎ
品物が点々と売買された物品に関係した総ての業者連が総検挙された

《昭和十六年》 人間というものは、自由を求めることではどういう風に決め事をしよ
うと自由であるが、余り厳格すぎるとそう何日までも永く続けられるものではない。それらを証するに足る「九・一八事件」というのは、当時の業界人の耳目をそば立てたものである。以下その頃の騒ぎを紹介しよう。
この事件は昭和十五年七月三十日に起きている。当時の事件経過を概述すると、九・一八令によって物品の販売は釘づけされていた。しかし業者側では、品薄のために古物関係のものは売り込みがあれば商人である建前上買い取ることになる。本当は、それがこの頃の統制令に違反することになっていたのである。
この当時の事件の発端は、ある人から買取った白金の古物時計を、また仲間の連中と交換した。つまり、一つの品物が転々と仲間の間を通っていたというわけのものである。この「物資統制令違反」の罪で取締りの網にかかった中に、業者が紛失した白金側の提げ時計があった。それを発見した警視庁の渡辺清刑事の眼に映り、その品物が点々と売買されたものであるかどうかは別として、物品に関係した総ての業者連が別個に違反しているのである、という解釈に立って関係者の総検挙に踏み切ったのである。
この事件は、当時の日刊紙上にも大々的に記載されたので、時計業者間では俄然大騒ぎとなり、その対策本部を当時の時計組合(台東区東黒門町十九)の楼上において、随時取調べ関係の報告にもとづいて協議対策を練ったものである。結果は、東京地裁で数年間を要して解決したべこの白金時計そのものの取扱は、当時の価格釘づけという条項に照せば違反しているということになるのであるが、業者が落したというものを買売したものであるという立証が明らかにされた以上、違反に問われることはないと主張した被告側の弁論が勝利を制し、無罪という結論になったのである。
しかしそれ以来、業者間では自粛が強められたようであったからせめても幸いであったと結論付けた。このことで当時、昼夜を問わず努めた東京時計商工同業組合の職員は、池内直治氏が書記長で、丸太氏が次席、そのあとへ現書記長の青山君が昭和十七年頃入籟したのだ。

七・七禁令と修理料金の補正
時計に付けられている修理保険料の算入運動をも行なった

《昭和十五年》 戦時統制令の中で痛かったのは昭和十五年七月七日に発令された七・七
令である。この禁止令の影響は、業界関係には特に衝撃を与えたものである。全ての物品販売が禁止されたのだからたまったものではない。まず時計は輸入品も途絶えていたのだから、古物品という建前で取扱うことになったものの全商品が禁止ということになったのである。
そこで組合側では、この救済方策のために陳情を行なって滞貨商品の設定に努めた。また時計修理料金についても統制されることになったのだから、時計に付けられている修理保険料の算入運動をも行なった。当時の商工省担当官は、現在も自民党代議士になっている始関伊平氏であり、物価局の課長を勤めていた時代であるから、この当時の想い出の中にも一つの感慨がある。

東京時計商工同業組合が廃品物資の回収や飛行機の献納運動
三十六の全支部が日比谷公園の中央広場の集荷所に運んだ

《昭和十五年》 この当時の時計業界の行動を代表するものとしては、「東京時計商工同業組合」が唯一の団体であった。当時の組長であった野村菊次郎氏(野村時計店の先代)の活躍と衆望は大きな存在になっていた。
この頃の時計組合は、時局に面した事業の推進に努める機会が多かった。組合陣営は、野村菊次郎組長、梶山平三郎副組長(故)、古川清太郎(故)と山岡猪之助氏の諸氏に、会計は秦利三郎氏、島田辰蔵氏、川名啓之の諸氏であった。そして事業面では、物価統制令の対策運動に続いて、廃品の回収事業が三十六の全支部に向けて強く打出された。それに答えて、神田支部の八森支部長と王子支部の木村支部長などは大八車に山積みした業者供出の廃品物資を組合員が手で押して歩いて日比谷公園の中央広場の集荷所に運んだことがあり、その問の状況は、当時の時計界の気分を反映して特に舌発性を思わせていた。
もっともこの外に、時計卸商団体の「五日会」では、愛国時計号と題名した飛行機一台、外に時計組合の「時宝号英工舎」の英工舎号など献納された。

七・七禁令という販売禁止の処置を打ち出す
五十円以上の時計は販売禁止に

《昭和十五年》 戦時中の経済統制令は、戦争が拡大し長びくに伴れて国内の経済状態が窮屈になって来たので、勢い物心両面にしめくくりをやることになった商工大臣岸信介氏時代である。
鋼使用制限規則、鋼製品製造制限規則等七規則が打出された結果、「七・七禁令」に次いで販売禁止措置が採られることになった。この禁止令を受けた時計業界は、一大打撃であったことはいうまでもない。そのために「東京時計商工同業組合」では、緊急措置として禁止品の「販売延期願い」を申請して向う一年間の許可をうける事態に遭遇した。俗に○公、
○停、に次ぐ○免の証紙が使用されたのはこの時からである。この○免は、地方の組合又は団体から申請があった場合、その地方の情況に合せて地方長官が許可を与えることになっており、東京では都長が許可を与えていいことになっていた。
五十円以下の置時計、目覚時計、皮革バンドと金属バンド、提げクサリ、方針、メダル等が、昭和十六年の八月まで販売許可されるということになった。(注、提げクサリ、方針、メダル等がここに記録されているのは、この当時は時計店での販売品目に取扱われていた主なものの中に入っていたことをこのことによって立証される)。たしか大阪地方の時計組合が申請して同様の許可になったのは昭和十六年の十月頃までの期間であったように覚えている。

中古時計の販売も禁止に
「七・七禁令第二条」の規定によって

《昭和十五年》 ところが以上の販売禁止措置は新品の場合であったのだが、政府は「七・七禁令第二条」の規定によって、中古品でも主務大臣の指定した期日(十月七日)以後は販売を禁止すると発令されたので、これによって受ける打撃は大きかった。
それは新品の時計は、国産品の外は輸入品が杜絶されているので、総ての時計が中古品という名目で要領を使えるという見込みであったからである。その中古品の販売も禁止されるということになったのでは手も足も出ないということになったわけである。
このときの政府命令を見て、国民の大多数は、戦争へのかり立ての激しさを予想していたが、ガッカリしたような面持を見せていたものだ。既に軍隊への徴用令も出ていた時だけに、業者の年輩者も場合によっては、いよいよ国民皆兵の域に突入せざるを得ないのか?という気持を内心秘めていたようであり、元気など誰からも見られない頃だった。

専門新聞業界もいよいよ断首時代へ
業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た

《昭和十五年》 戦争は拡大する一方である。従って国内の経済統制令は、次ぎ次ぎに無雑作に打出されて来る。街には知人友人を問わず、軍隊への送り込みのため歓送会が毎日街頭風景を呈していた。それが毎日課題のごとくだから、その忙しいこと。毎日の日刊紙の紙上には、戦線の状況が報ぜられているので、なおさら戦禍に巻込まれる気分が深められていた。そのためか、このころから業界新聞に対する断圧もまたひとしきり激しくなった。
支那事変に移ってから警視庁にある検閲係の呼び出しで、新聞紙法に低触するものはドシドシ断首の処置を執られていた。それだけに経済統制令の強化に伴なって新聞への断首措置が強くなったので、時計業界でもだんだんに廃刊の運命を辿っていった。しかしこの断首措置の裏をかいて同僚の勢力と運命を断とうとした悪辣な手段をとろうことを画策し、これをウラで描いていたのがある穏のことから暴露されるに到った事件があった。
警視庁検閲鰥の漸首係は田中杲という巡査査部長、それが業界の杲メーカーの畑の中にあって、今は故人となった某氏と新聞人の二人が共謀して画策した陰謀遂行のために密会した事実が暴露されるに到ったということである。
陰謀事件の本体は、昭和十四年十一月一日、武州御嶽山の山ごりに出かけた時の陰謀計画の際にも含まれていたものである。この事実を知って私に密告して呉れたその人は、それらの悪業を痛烈に攻めた。正義は強かった。警視庁で不当の断圧に責められていたとき、私の知人で親交の深い少しく力を持つ某が検閲、特高課長に直接会ってその是正を要求したことがある。そんな事情から悪くどい断首計画は中止して、今度は新聞に対する組織制を新たに打出すことになった。それは業界新聞の真実の貫録をみる手段でもあったようである。つまり業界の新聞である限り業者も加わった組織でなければならない。それを証明するためには、株式会社を設立して来ることだという、新たな命令を打出して来たのである。この新しい条件について行けるものは少なかった。業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た。私はレコード新聞の堀某氏と話合って設立した。新聞の新題号は「時計蓄音器興信新聞」というのであった。私の社の外には、山本、竹雅の両氏が主軸となり、浦竹を参謀にして吉田庄五郎氏の助力を得て、五社を併合した光学新聞が出来上った。その他は、このとき既に自然に消滅していったようである。

新聞陣営へのきびしい株式組織命令
光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない

《昭和十五年》 光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない。両社の中に板ばさみとなったのは、東京時計商工同業組合組長の野村菊次郎氏である。
その野村さんとは、私的なことでもいろいろと懇意にしてもらっていたので、当時の情況についても仲介に立って苦心してもらっていたこともある。対相手側には、故浦田竹次郎とその指図によって吉田庄五郎氏が助力者となっていろいろの面で暗躍していた。バカ臭くて、面白くないと思う面のことまでもタッチしていた情報が入った位だから、その間の心底のほどが計り知れたものだ。
吉田庄五郎氏と私との関係は、吉田氏の個人的所用なことまでも頼まれ、いろいろの相談相手になっていたほどであったのだが、急に態度を変えて相手側の立場に廻るようになった。そのねらいは、結局は、聞屋関係者におどらされたようだ。今でも当時の彼の行動の裹判断には苦しむほどである。結局は、吉田氏が気が弱かったがために浦田氏に引ずられた結果であろうというほかはないと思っている。
あの巨大なまでに一時は伸ばした東洋時計を遂に倒産にまで追い込んだなどのことを思い出すと、今さらながら当時の同社のウラ事情など考えて、おかしな意味で惜しいような気がする。



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