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昭和二十四年、関誠平、干葉豊氏らがハッスル
全時連団体結成初歩の頃

《昭和二十四年》 終戦後四年になる昭和二十四年の舂頃には、時計小売業者から全国的
団体の結成が叫ばれかけていた。このようなことは、当時の時計界の情勢が一応収まってきたからだということがいえる。この全時連の結成のそれを先躯主唱したのは名古屋に当時頑強の士としての呼名で高名を謡われていた恩田茂一氏である。それに東京の関誠平氏(関時連会長)と千葉豊氏が協力し、更にその呼びかけに答えて乗出した近畿連合会長であった大阪の尚美堂社長の江藤順蔵氏の四名の士である。
この当時の経過を聞いてみると、全時連は昭和二十四年五月九日、東京の時計会館で設立発足されているが、それよりー年前の二十三年の九月に、前記の四名がはるばる東海道線の油田駅前の引馬旅館に集って、第一回目の準備打合せ会を開いたのが、戦後におけるそもそも全時連発足のスタートであった。
次いで第二回目の準備会が、昭和二十四年の三月十三日、伊東の大和館で関時連会長の関誠平氏が主唱して開催されている。そして、この日集まった各地区ブロック代表連の意向によって全時連結成総会の準備工作が決った。昭和二十四年五月九日に東京・新富町の時計会館で堂々設立総会が行われたのである。かくて全時連が結成した最初の役員人事は次のようになっていた。▽会長=関誠平、▽副会長=千葉豊氏(東京)、江藤順蔵氏(近畿)、恩田茂一氏(東海)、▽常任理事=「東海」恩田、原、「近畿」江藤、川本、「九州」安倍等の諸氏。だが当時、関東近県の役員が未定となっており、まだ全体の調整が取れていなかったことが伺える。いずれにしても、時計の小売界情勢は、終戦後の混乱期から脱して正常化してきたことが伺える。
来よう。

ヤミ品オンリー時代、何時踏み込まれるか恐怖に慄いていた
全時連結成時の気運とその頃の時計界
   
《昭和二十四年》 以上のような経過で、時計小売業を統括する団体の「全時連」を設立するための動きは一応ついた。だが、小売業者の全部が、この団体の結成に賛意を表していたかどうかは、明確でなかったものだ。何故なら、この頃の全時連に対して協力していた地域は、東京、名古屋、大阪という範囲のものだけであり、然も、結成総会を開いた時でも、関東勢から選任されるべき常任理事者の決定がなされないままであった経過から推しても、この当時のこの間の業界情勢が読めるのである。
この機会に一寸断っておくが、関時連会長の関誠平さんという人は、非常に世話好きな人で何事にでもよく顔を出して動いていた人だった。
また全時連なる団体発足の最初に協力した千葉豊さんも、案外その意味では関誠平さんと似たような性格であった。更に、世話役の恩田氏が、この間設立について手伝ったので、関西時計業界を代表して、一も二もなく近畿一帯の小売業界をまとめている立場にあった江藤順三氏が、これに協力したのだから、全時連なる団体のスタートだけは出来ることになったのである。
だが然し、全時連というような全国的な業界の団体をその傘下に総て収める事業の完成は、一朝にして成るというものではない。従って全時連なる呼称の形だけは出来ることになったが、その完全なる団体結成の実現までには、なお時間的な余裕を必要としていたといっていいようだ。
だが、この頃の時計業界は、依然としてヤミ品オンリー時代であったのである。だから小売店の店頭には、眼もまばゆい程の金色燦然たる舶来時計が、金ピカのものや白色強いステンレス製の時計などのデザインをつくした豪華製品として諸店の陳列を飾っていたのである。これが総てヤミ品であるというところに、いつ警察の踏み込みがあるかとの恐れがないとは限らないという恐怖があった。
だから、それらへの対策の場合もそうだったが、既にこの頃は、協同組合としての政治的活動もそうだが、仮に、業界内の要望を聞いてみたが、業界の総てが一本化体制にまとまっているという必要性があった。即ち、業者側の意見は、その業界内の総意でなければ何事の陳情にも当局側では取上げてくれないことになっていた。然も、そのような傾向か極め顕著になっていた時代だったので、全時連なる団体の強化推進の意見は、漸次この頃から業界内に蔓延っていたといえる。所謂、民主主義的思想の現実化が政冶面を通じて具体化されようとしていた時代であると言っていいようだ。

四貫に余るダイヤモンドが入ったトランクが売りに出た
戦時中信州松代所在にあった大本営の資材物資に

《昭和二十四年》 昭和二十四、五年の頃、市場閼係にはとんでもない物が舞い込んできた時代があった。この中で貴重品など何処とはなしにとび出して来たものであった。勿論、持ってくるネタそのものが、総て正真正銘のものだとは受けとり難いものもある。とにかく湧き出た珍談には、一応耳をかたむけるのが商売上の常道になっていたので、先ずは竹内武一君が持ち込んで来た話から書くことにした。
その話は、信州長野市の在で、現に地震騒ぎで慄いている松代町にある旧大本営についての話である。そこは戦時中の避難用に建てられた大本営であり、そこへはいろいろな軍作戦上必要であり、かつ貴重な資材物資が持ち込まれていたという。その中にダイヤモンドが入ったトランクがあるから、それを持ち出して処分することになったというのである。品質は工業用ダイヤモンドということであり、量は四貫目に余る程のものだから買おうじやないかという相談であった。
価格は、四十二万円という触れ込みであった。そこで、この品物の持ち込みを待ったのであったが何日になっても持って来なかった。然し、この品物とおぼしき部類のものが、その後、陸続とある市場のセリ場台に現われ、投売されるとの報告があった。本当のことであるかどうかは別として、このダイヤモンドが入ったトランクの実在をめぐって、当時業者間では大騒ぎだった。これも戦時中に残した業界関係品の面白いエピソードの一つである。

舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった
ヤミ時計の旺盛な時代

《昭和二十四年》 時計の需要は、昭和二十四年の頃には頂天的に伸びていったと思える。時計は、時間的な関係からでも必要だという需要性に合せて、人の生活上の好みということからも急激に伸びて来たようだ。これと並んでもう一つの特長がある。それは永い間植えつけられていた舶来品珍重主義への現われでもある。
酒、タバコ、ライター、洋服類に次いで時計への愛好心は特に強かったようである。だから舶来時計は具合がよい、時間が正確であるという印象から、国産品では何となく物足りなさを感じた時代でもあった。愛好の第一に挙げられたものはデザインである。白、又は金色を配したもののエトーの艶やかさに加えて、タイプが十二型以上、十三型、十四型の薄手に見えるすばらしさが誰の頭にも欲しい、という感じを抱かせたものらしい。又その青金色が何ともいえぬアメリカ製張りの良さを見せていたのだからだ。
大体、日本人の金色欲求感は純金のいわゆるヤマブキ色にあるようである。新時代の好色感は、アメリカが生んだ青金式金張色がまた別に市場の欲求を満たしていたともいえる。そのような角度の感じが寄せ合ってきていたので舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった。
然し、時計小売店でのこの時代の売れ行きは国産、舶来を問わず何でも売れていた。時計自体が依然足りない一点張りの時代であった。精工舎で生産される腕時計の数量は、昭和三十六年頃には月産約四十万個に達する量産を見るようになっていた。それでも不足していた時代だけにその不足感を補うには勢いヤミ時代を生み、かつ業者自身がそれに慣らされていかなければならない時代でもあった。従って、この頃がヤミ時代として、その価格の点では最盛時代ではなかったかと思う。

天下の大沢商会だけは、ヤミという伝票だけは切らせなかった
ヤミ商法をしない卸店もあった

《昭和二十四年》 この混乱したヤミ時計時代に、ヤミ価格の取引は一切致しませんと頑張って信用を高めていた店があった。横道にそれるようだが、この一項について紹介しておこう。
セイコー製品の発売元である服部時計店では、勿論ヤミ売りをしない。然しここから出荷する時計は、直接小売店向けのものとは別に卸店を経由してそれぞれ各地の小売店にばらまかれたものである。品物不足の時代だからといって、セイコーそのものズバリのヤミはなかったようだが、時計バンド類の抱き合せ売りが結局時計そのものの価格をヤミ値に持って行ったことは事実のようだ。
いわゆるヤミ時代は、このようにして流通していたので、抱き合せ販売それ自体が当時は通常的な商法として扱われていたのであった。一個につき千円ものヤミ価格をつけて卸売りをしていた時代であり、当時大沢商会だけはこのヤミという伝票だけは切らせなかったというので今でもその評判は残っている。

南京虫、月の販売が五十万個?の消費時代
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円まで

《昭和二十四年》 以上のような時計界の動きを見せていた時代、即ち昭和二十四年頃以降の時計の取引は正にヤミ時代であった。そのヤミ最盛期畤代における取引の中心地は、最初は銀座だったが、後に上野方面に移り上野の交換市場を本舞台にして新品も古物もいろいろ取り混ぜ、ともに盛んな取引されたようである。が然しこの時代には、古物品といっても真の古物品でなく、古物と称して新品といえる程度のもの、いうなれば新品で通る代用品のモノが一番好まれていたようであった。従って値段は高いということになっていた。
このヤミ時代に、一番先に売れた外国品といえば、ブローバ、グルエンなどアメリカ市場で売れていたものがあげられる。ブローバとグルエンは、アメリカ市場で一世を風びしていた時代であったからでもあろう。戦争中か一番多く扱われていたのがこのブローバとグルエンであった。戦後の日本の時計市場を見舞ったブローバとグルエンは、今でも印象づけられている。
この当時の市場での取引状況は何でも舶来の新品らしきものが出ると血眼で奪い合ったものだ。従って値段はない。現品持参人のいう価格がそのまま仕入価格になってしまったというほどであった。だからこの時代は、売方のいい値の価格で通ったわけ。次いで時計バンドの類では、キーストン会社の金張りグサリ一本が、五千円から六千円と来たら誰も手を出さないかと思ったら、最初は二本、五本と買って帰った業者が、その次には十本、二十本と大量に仕入れていたのを覚えている。それほど活発な取引が行われていた。従って時計の出回り状況もだんだんに良化して来て、完全な外装ケースに収められたロンジン、エルヂン、ミドー、モバードというような高級品が出廻って来るようになってからは、市場は又一段と活況を呈するようになった。
銀座の店舗は勿論、何処の店にも舶来品が公然と並べられるようになってからは、客の欲求度とデザインと性能のいい舶来品に眼がそそがれていったようであり、無理からぬ傾向であったと言える。腕バンドの金張りモノでは、品物が出始めた最初の頃の値段は、一本五千円から六、七千円ぐらいしたものだ。
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円までの高級品が飛ぶように売れて行く景気のよさが見られていた。この頃、この活況ぶりが全国的に知れ渡ったためか、東京・上野を日指してやって来る地方の販売店主が多かった。そうした人達の注文は、南京虫を何百個、男物何百個というように、まるでバナナかナシでも売買するときのような気軽さで注文するのであった。
だが然し、この商品の供給所(アジト)が問題であった。秘密売買所であるのだが、表向き大っぴらなものではないだけに、その家の出入り口は常に厳重に番丁が立っていたものだ。だから地方からやって来た仕入目的の人達は、品物を間に合わせてやるということが出来る人は、人かどの貫禄を持った人でなければ為しえないものであった。このような状況だったので、当時のヤミ時計の動きを推計すると、南京虫だけで1ヵ月間で五十万個位の動きを見せたであろうと言われていた。だからヤミ時計とは、即、南京虫という印象がつけられていた時代でもあった。

関時連の関誠平理事長が誕生することになった経緯
組合首脳陣の首切り劇反復があった

《昭和二十二年》 敗戦という責任は、“国民が共同で負うべきだ”という考え方のもとに、建て直された「協同経済主義」を信奉する協同組合方式が、新組閣の戸田内閣によって打出された。その為、国内経済方式には変った面が現れた。このような場に備えて、とりわけ「東京時計小売協同組合」では、二十二年の四月を期して西神田倶楽部において総会を開催することにした。そしてその当日役員の改選も行われた。これまで長年に亘り組合功労者として尊敬されて来ていた野村、山岡氏らの正副理事長に対立する暗躍組が登場していたことも事前に知らされてはいたが、選挙を行う総会当日、その場はもの凄いほどの対立行動を呈したものだ。
先ず、総会場の入口に頑張っていた若者の手により、業界紙の号外が撒かれた。幸か不幸か、終戦間もない時だけに、組合員は組合事業に対する関心をさほど持っていなかったものと見え、この日の組合員の集りは案外少なかったように見えた。それだけに、選挙の結果は暗躍組の勝利に帰して、関誠平理事長が誕生することになった。もちろん関氏を表に立てたその裏には、金山重盛氏が暗躍の発起人であったのだから関理事長と金山氏は親分子分の関係であり、いうなれば、表裏一体の立場にあったのはいうまでもない。
このような関係で、関誠平氏が東京小売組合の理事長になったのを契機に、関氏が包括していた東京時計小売組合に関東時計小売組合連合会(関時連)という関係をも生かすことになったのである。即ち、この時から関誠平氏が関時連の会長に就任したことになり、この点ハッキリしている。だが、その関連性はそう長くは続かなかった経歴になっている。

惜しい三越の貴金属売り場の権利
商売人のプロ三直商店さんとセリ合う愚はしたくない

《昭和二十二年》 古物商といってもばかにできない話があった。終戦後の昭和二十二年頃は、社会情勢もだんだん落ち着いてきて、三越などのデパートも普及はなはだしかった。デパートの中でも日本橋の三越本店はナンバーワン。
この三越は、元々が堂々たる小売専門店である。古物品というようなものは取扱わないことになっていた。そのことは十分分かっているが三越に時代的啓蒙を植えつけてやろうと考えたのだ。それは日本の将来の伸び率が相当あるという推定から、それによる将来性に備えた場合、三越にも“時計はまだしも、貴金属部の開設と古物品の取り扱いも開設すべき”だという提案を勧めたのである。昭和二十二年のことと記憶する。
この頃幸いにも、私の側近者に二見という外回りのセールスマンがおり、その知人が三越にいるということで、その紹介で貴金属部の主任の人と会うことが出来た。まだこの頃は三越の内部は、一部修理中であった。私は順天堂から退院した後のことなので、うまく行けば、三越本店の古物担当者に会えるという望みがなかったわけではない。兎に角、私が持参したプラチナ製の提げ時計や提クサリ、プラチナ製のダイヤモンド指輪など一セットを引っ提げて持って行った。敗戦後の貴金属品は、このような古物品を取り扱うことによって堂々と商売が成り立つことを説明した。
その日は、感謝されて、帰ってから数日後、三越との約束時間に合わせて行ったとき、同じような狙いで、神田・神保町の三直商店が競りこんでいたことを知った。
そこで私は、三越に時代性の商売について説くことにしたが、これ以上商売人のプロである三直商店さんとセリ合う愚はしたくない、という気持が湧いて出たので、三越の件はそのまま引っ込んだのである。後で考えてみれば、その三直商店がこの三越の宝飾部を通じて大きな商売をしている。やはり商売人は大したものだという話。

終戦処理内閣は組閣のたびに潰され、長期政権は出来なかった
そんな中、協同組合への法改正の根本要素が誕生した

《昭和二十年》 旧い体制であった同業組合を協同組合法に改正するに到った要諦について参考のため、以下述べておこう。
日本は大戦に敗れて昭和二十年八月十五日終戦を宣言した。そこで終戦処理内閣が柬久通宮により統括されたが、これは三ヵ月で倒壊した。このあとは、在野政党の社会党にお鉢が廻ってきて片山哲氏により内閣を組織したが、これも三ヵ月ほどして倒れた。そのあとは、三派で芦田均氏を内閣首班に押立てることになり、その組閣工作のために社会党を代表していた西尾氏と協同主義を信奉していた協同党書記長であった三木武夫氏が共に担当することになったのである。
この当時の組閣は、前後六ヵ月位の日時を要したほど長引いた。そこで私は、田村町にあった協同党の事務所で三木君と何度か会って、国策について意見交換をしたものだ。
当時の社会情勢は、頗る混沌としていたので、組閣の中心話題は「世相の建直しを何処に求めるか」については話し合ったのである。
私はその時、「協同経済主義を押立てることこそ今であり、そのために協同組合主義を信奉すべきである」と意見を述べておいた。それから協同組合法なるものが打ち出されたのであるから、私が出したそのときの意見が用いられて実現したものと思っていた。
戦後変更した協同組合法により、商工省からの時計組合宛に通告された事項は、次の通りである。
統制組合認可、昭和二十年九月十五日。
商工協同組合法、昭和二十一年十一月十一日、法律第五一〇号同施行、十二月一日。
物証第二四八号(昭和二十一年十一月二十七日)時計例外許可物価庁告示第五五五号(昭和二十二年九月三日)時計統制価格認可。
法律第四九号(昭和二十二年四月七日)労働基準法法律第一九一号(昭和二十三年七月二十九日)事業者団体法。
中小企業等協同組合法(昭和二十四年六月一日)法律八一号同施行(昭和七年一日)。

シチズン時計が腕時計千二百個を組合に無償で配給してくれた
時計小売組合の戦後の再発足時代の逸話

《昭和二十一年》 戦争で焼かれた東京・台東区の東黒門町の「東京時計眼鏡小売同業組合」の仮事務所が、文京区小石川の坂下町にあった野村時計店代表の野村組長の自宅に移転していた。野村組合長の自宅に事務所を移していた東京小売組合もその点を危惧していた。また、これとは別に戦後初めての時計組合に対して、シチズン時計から時計の配給が行われた恩恵にも答えるための組合的体制を整えておきたいという気持が手伝ってのことであったようである。
だが然し、この当時はまだ市中に納まって商売をしているものばかりではなく、組合員の中には、焼けたまま疎開先から帰って来ない人の数もまだ相当あった時代であったので、これら業者の再起のために、シチズン時計では千二百個の腕時計を組合に配給してくれたのである。この時の配給によって、当時の組合費の滞納分を一括で納めることが出来たとして、同組合ではこの当時のことを思い出すたびに、シチズン時計のお陰で職員の給料などを支払うことが出来た、として喜び且つ感謝していた。
当時、この東京時計小売組合に在職していた青山書記長は、この当時のことを「終戦後のことだけに組合費が納められないで大変困っていた時でした。シチズン時計が当組合の窮状に同情してくれて、千二百個という腕時計を供給してくれたのです。お陰様で組合職員の給料なども支払うことが出来たのと同時に、これによって組合の整理も大いに役立つことが出来ました。シチズン時計のこの時の対応には満腔の感謝を捧げております」と語っている。
この当時の組合職員は、青山書記長に峰岸事務員一名と池内書記長はこの頃は嘱託という
ことになっていたので、たまに顔を見せていた程度、次長の丸田氏は行方不明。
このころ占領政策施行後始めて組合法の発令があって、同業組合は協同組合法に改正された。その時代の性格に鑑みて、組合事務所の活用に迫られ、昭和二十一年の春、焼け残っていた神田・小川町の白馬山時計店(竹村冶一氏)の二階に組合事務所を一時移転することになった。当時竹村さんは、神田支部長を務めていたが、組合法の改正で理事の要職についた。



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