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敵機B29による帝都爆撃当夜の惨状
正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない

《昭和二十年》 昭和二十年三月九日、敵機B29は編隊を組んで帝都の空を襲った。その時の凄惨な状況ときたら筆舌につくし切れるものではない。夕景近くなってから空襲はつづいた。これに対するわが防空陣の活動は始まった。上野の森の博物館前に据えてあった対空陣地からは中空に向けてズドンズドンと発射された。その間隙をぬって敵機は、縦横に帝都の空を襲い舞うたのである。それは宛ら、夏の雨の際になりひびく百雷の騒音にも等しく、あるいはもっと、激烈さを感じたものであったのかも知れない。
防空壕に避難しながらも、時折りどこかで炸烈する時限爆弾の強烈な響きを片耳に受けながら耳を覆って沈思黙考あるのみという姿勢をとるのであった。私の会社の前の不忍池に直面する広い昌平橋筋の大通りも、爆撃から来た火災のためにとんで来る火の粉が銜中いっぱいに流れていた。このような事実は、この世の中に実在するものであろうか、と問いたいほどであった。正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない。
昭和二十年三月九日の真夜中頃になってからの敵機B29の爆撃は更に一層物凄かった。
このため郤内の諸所から火の手が上った。大火災の出現である。こうなってくると逃げるという気持にはなれない。ただ身の廻り品をまとめるという程度の外は、防火用意に過ぎなかった。
この時私は、軍需省のお客筋から預っていた修理品の避難措置を考えた。然し、電気が消えていて家の中は真っ暗である。金庫に収めておいた修理品を出すのに手くらがりだった
ので閉口したが、それでも戸外に降り落ちる火の粉の明りでどうやら品物は旅行カバンに収納することが出来た。時計であるがために、薄い座ブトンか木綿のフロ敷堤込んで保存したのである。特配の軍人バンドの残り品約四十打ばかりは家の前に作ってあった防空壕の中に放りこんだので、時計をつめこんだ皮製のトランクだけをひっ提げて親せきの中尉
から貰った昭和刀を小脇に帯刀し、火の粉が雨の如く降りそそぐ街路を池の端添いに広小路に向って進んでいった。
この時、吉田時計店の裏側では保科君ら東洋時計の関係者が出て防火体制に努めていた。そこで、この地下室に私の荷物の保管を頼むことが出来たので、再び家に戻ったのだ。こ
の頃は、既に広小路一帯に到るまで火の海と化していた。当時の日活映画館の裏に「丸万」という料亭があり、それに並んで揚出しなどが並んでいたが、それもキレイに焼け落ちる間際であった。火の街頭を走る車から放り出された一つのコウリ包みに手カギをぶっこんで見たが、重くてどうにもならなかった事を今でも覚えている。
死に直面した時の人問の心理というものは、案外に無慾のものであるということをこのときの光景から考えることが出来た。私の社屋は、その翌朝の明け方頃になって焼け落ちたのだ。然し、床下に保存しておいたガソリン三鑒は決死の覚悟で戸外へ運び出すことができた。そのおかけで、作り立ての夜具を盜まれたという笑えない光景も残している。
夜が明けてからも敵のB29は、吾等が帝都の空を飛び廻っていた。物凄い一夜を明かしたおかげで、それから二日間を駒込林町の三輪屋の寮で西川君と共にぶっ通して眠った当時の行動など思い出して、今更ながらほくそ笑む場合がある。

本社焼跡の復旧認可指令書が出る
借りた家が隣の不始末でまた焼けたついてない話

《昭和二十年》 とにかく三月十日の戦災で全焼した。そこで省内の人から預かった時
計の修理を再開するため、軍需省から復旧指令書をももらうことにした。
しかし、その前に処理工作をしなければならないので、電車通りにある乾物屋跡の間口五、六問の家を月百円也の家賃で借りうけた。ここへ頂けておいた時計の修理品を持ち込んできたのは三月十三日である。ところがこの家が隣りの人の不始末から、また焼け出されたのである。このとき、私の家族が鬼石町に疎開していたので、そこへ行くための留守中の用意に修理品を預けに行ったその留守中の出米事だったから品物については一面助かった
ようなもののその代り、私有物の一切は焼け出されてしまったという、ついてない話である。

焼け跡の金庫内でロンジンのカラフが動いていた
火災で金庫の中身がどこまで持つかが分かった

《昭和二十年》 そこで会社の焼け跡と業者側の焼け跡の見回りをして歩いた。上野・仲町通りにあった金田屋の店は、隣の平井幸之進氏の店とともに焼け落ちていた。その焼け跡を掘り起こしてバラックを建てる工作なども見られたが、焼け跡には何処でも同じように、金庫が独り孤立していたのである。
私の会社の金庫は、裏ブタをブチ壊して中の品物を出したのだが、焼けて一週間目にロンジンのカラフが普通の状態でチクタクと動いていたのには気をよくした。もちろん一緒に入れてあったコップの中の水は乾いていたが、この外提時計を包んであった皮製サックの類はボロボロになっていたので、金庫の中の品物が、火の重圧に対してどの程度に耐えうるものであるかという点の参考資料にすることができた。

戦況不利になった頃の御前会議
省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である

《昭和二十年》 昭和二十年の六月頃だったと思う。軍需省の久保監理部長から褒章を受けたので私は何の課に行っても通りがよくなっていた。ある時、航空兵器総局総裁の遠藤三郎海軍中将から呼出しがあって、海軍中将の奥さんの時計を直すことになった。この時、省内のK少佐から、望があれば閣下にズバリ話せば何でも聞いて呉れると言われたが、直々に面接の機会があったが、ついにいい切れなく終った。このあと。中島飛行場復旧救援隊
出動のあと始末のときに、軍のトラックが相次いで出動したその数五〇〇台にも及んだのである。中島飛行機工場は、他の工場と異って制作機能が頗る良い成績を収めていたので、
復旧を急がなくてはなっていたのである。
然し、この頃の戦局は、だんだん我れに利あらずという戦況に変っており、ラバール戦の
撃沈から、テニヤン島の撤兵、沖縄の敗戦等次々に戦力は朽ち果てていた。
昭和二十年五月十日には、皇居内で御前会議が開かれて、戦争継続の成否について大論戦がたたかわれた情報も入っており、省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である。
これは、軍の階級通報により知らされていたものだけに、他言が出来ないことになっており、それだけに、この辺で戦争はお終いになるのだとも感づいたのである。この時は、まだ憲兵というという特権の活動があった時でもあったので、このようなことは、ほかに漏らすと危険であった時代である。

修理晶を納めて軍需省から褒賞貰う
褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである

《昭和二十年》 焼けてから二週間もしたら市内の焼け跡がだんだん片づいて行ったので
私の会社でも修理を急ぐことになった。兩稲荷町の三和時計材料店の三階に和田さんの疎開後の留守を引き受けながら工作を急ぐことにしたのである。竹本、村田君の外二、三人がやって来て呉れたが、この時は、頂り品の仕上げ処理ということに重点をおいてやった。その結果、修理品を軍需省の中の各課を訪れて、届けて歩くとすごく喜ばれた。
時計屋さんは自分の家が焼けたのに時計を直して届けて歩いている。「実に正直なものである」と褒められた。
この頃、日刊紙に出ていた記事の多くは、預かり時計を持逃げしたという時計店に関する悪性の記事が多い時であっただけに、私の会社の名誉は一際高く評価されたのであろう。ところがある日、軍需省監理部から速達で出頭命令書が私の職場先に届いた。突然の呼出しだけに何事か大事な問題でも湧き起ったのかと、この書状を受け取った瞬間、頭の中をかき立たせた。然し思い出す何ものもなかったのだが、ただ一つ、軍関係のダイヤモンドの件について突っ込んだ話を思い出した事と、原子爆弾用資源のウランの件で省内で話し合ったことを思い出した。
その他には、群馬県大田町の中島飛行機製作所の復旧工事に参加した中のトラックについて談合したことがあるが、これらは何れも係の課長との諒解があったからのことで、格別問題はないと思っている。
この間の速達便の内容が簡単には読み取れなかったのである。そんな気持で、書状を持って管理官の係官を訪れてみた。
行ってみるとそれは軍需省監理部長の久保少将が私の行為を称賛して、褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである。私は急変して笑顔になった。久保少将は「軍需省内に君のような真面目な人がいるのを喜ぶ」というのであった。うれしかった。
カットはその当時の賞状の写し。

八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った
敗戦の大詔遂に渙発された

《昭和二十年》 そのようなことだったから省内の大半はすでに終戦コースの線に動いて
いたものとみられる筋が多かったように感じとられていた。
それを証明づけるような情景は、兵器総局内の何の課に行っても主だった階級官は部屋の中に見えず、まるで空巣のような感じがしたものである。それだけに、また別の作業面である飛行機課の仕事になると、昭和飛行機会社の納品率などはわずかに製品の二割位しかパスしないという劣勢ぶりである。それが報告されてくるので、その都度係の下士官連中
痛快切歯させていたものだ。
その反面、市中の状況ときたら全都が焼野原と化していたのでトント処置なしという状況であって、行く人の多くはヤミ物資の入手に、または売込みにと、あわただしい人の動きが見られたものだ。このような状況判断から推して、戦争はもう終りに近づいているという直感が持てたのである。かくて、昭和二十年の七月頃から、トタンに終戦の声が省内に伝えられるよう
になってきた。その結果、八月五日頃には終戦の大昭が渙発されるなどの情報が軍から流れてきていた。ところが五日になってもツンともスンとも反響がないので、市中はすでに物情騒然たる様相を呈するようになっていた。然し反面各町内会を通じて、この頃竹ヤリの訓練が進められており、敵の上陸作戦の場に備えなければならないという悲壮な情景が伝えられていたときである。
南方作戦の敗北、それに次いで沖縄壊滅の悲報も相次いだので頗る混乱を呈した。軍需省
としては、南方作戦の敗北が伝えられたころから寂戦へのきざしが投げられ固めていたので、これに対して五月後の航空隊の動きなどは頗る激しかったものだ。
八月に入ってからは、立川の横田基地から飛立った飛行機は全軍特航機として南方に向け消えていったのをこの眼で見ている。とくに、八月十五日の大詔渙発の日の前後三日間位の軍の動きと来たら檄昂そのもので、今にも国内のどこかで戦闘行動が勃発するのではないかとさえ思えた程であったのだ。
しかし八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った。そのときの、私達国民は、ラジオの前に座してこの日のドス暗い天皇の渙発の声を聞いて泣いた。私は、否、日本人の総ての人が、この時ほど心の底から泣いたことはなかったであろうと思った。負けたことがない日本の伝統が、天皇の名においてはじめて日本の歴史に汚点を印したのであるからだ。

終戦後の業界復興に交換市場を開設した
昭和二十年の十月五日戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけた

《昭和二十年》 昭和二十年八月十五日の正午を期して、敗戦の招書が渙発されたことによって国内の空気は俄然変わった。それは憲兵も、兵隊も、日本人に関する限り五分五分の権利を持つ同志であることに、各人の認識が改められることになったからである。
それでも、終戦の大詔に抗じて湘南地方、伊豆地方やその他の出先に立こもった一部の軍団と、南方支那方面に頑張った派遣軍団の中には降伏に応じないものがあるというので、特に使節を送って説得に努めるなど、それらに二、三日を要した結果で、国内の騒乱化は事なく済むことになったようである。
かくて終戦の三日目を経た八月十八日には、東京湾上におけるミズリー号の艦上で無条件降伏を条件にした終戦時の調印式が行われた。それも終ったので、これから米軍の一部が上陸、市中を襲い始めることになったというのである。然し別段に暴れ狂うような様子も見られず、むしろおびえているものに与えるかのようなやさしい態度など見られたので、それらに馴れてきたこの頃から、ヤミ物資の交換が行なわれ始めた。
私はその頃、南稲荷町にいた。そして理髪店を訪れたメリケン兵の手から煙草のスリーキャッスル、チョコレートなど持込まれたので交換してみた。最初はちっと横道に入ったところで取引が行なわれたものだが、それが無事に済むと、今度は一時間もたたない中に又ぞろ同じ品物を大包に入れて持ってきた。このような事実がヤミ物資取引の最初でもあり、又本質化した過程でもあったのである。
眼の色の変った敵兵相手のヤミ物資交換風景は次第に延びていったが、それだけで生活が出来るわけではない。そうこうするうちに、このヤミ物資を専門に取扱う日本人の部類も現われるようになって来た頃は、既に終戦時から一ヵ月も過ぎていたであろうか、私はこのとき考えてみた。
ただ焼け跡を廻ったり、その整理をしていたのではラチが明かない。結局、仕事というものをどのようにして押し進めていったらいいか、ということについて熟考したのである。ところが、この頃国内の隠匿物資がボツボツ出始めてきた。それが私がいた美津和材料店に持ってきたものだ。銀製の御紋章入りタバコ盆、または全巻絵つき皇族系所有の文庫といったような種類のものである。

一日の取引額は、三十万円にも達した

そこで、この分では、国内における物資交換を行うことが人集めになるだろうと考えついた。和田さんに私の企画を話してみたところ、「藤井さん、それは良い思いつきだ。東京が焼けても東京にいた人達は、地方に疎開しているのだから、物の交換市場が出来たと分かれば、次から次へと伝わって知れわたるものであるのでおやりなさい」と言われた。新聞に代る人集めの職業には持ってこいのチャンスであると言われたのである。
それに元気ずいて、昭和二十年の十月五日に人集めの第一回を始めることにした。勿論、和田さんにも諸々に声をかけて貰うとともに、私は自転車を使って竹内武一君のところやその他の仲間を通じて、それぞれ業者側へ伝言をするよう頼んだのである。
そうしてその十月五日に、終戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけたのである。この時集まった人で、記憶に残っているのは、秋石鶴、吉ノ水井平保武、越光保、赤沢幸吉、竹内武一、涌井増太郎、今田正雄、香取栄一、南雲(群馬)らの面々で、三十五、六名だった。
それでもこの日の取引額は、三十万円に達したので、この分で人が集ってくるようになれば売上高も上がってくると見込んだ。
そうこうする中に、毎月の五日、十五日、二十五日の三日間が市場開設の定例日になったのだから、だんだんこの市場の状況が知れ渡ったのだとみえて人も沢山集まるようになり、取引高も増えて来て、落ちつきを見せるようになって来た。その頃は、馴れないながらもたまにはセリ棒を手にしたこともあった。ハタシ仲間の一人歩きもヤヤ可能な域に変転して行ったのである。兎に角、この市場というものを始めたことで、時計と貴金属品関係の商取引状況がどうにか観測出来るようになってきたのである。それが私がこの市場なるものを始めた真の狙いであったのだから満足したのである。

色石の値段のハネ上がりで活況が続く
セリ市場の誕生で自然と色石の業界価格が決まった

《昭和二十年》 明けて二十一年の春は正月早々から市場を開いた。南稲荷町の美津和材料店の三階に開設していた市場は、「五の日」が例会日で、その年の三月ごろから始めた竹内武一君の家でやり始めたのは「三の日会」だった。この両方の市場は、当時の東京の時計界を牛耳った専門市場となっていたので地方からの人気もこの市場に集まっていた。
三津和屋の和田さんと私は、その市場の開設を通じて業界の発展を乞い願うという点で希望が合った。だから格別この市場勢力を独占しようなどという気構えは毛頭なかったので、竹内君の「三の日会」ができたのにも協力した。
その次には、車坂町の涌井氏宅で「八の日会」を始めるということについても相談があったので、会場間の交換性からということでお互いに出入りしたものだ。この「八の日会」に集まる人達は、合月出身の村井氏が共催していた関係もあってか、出し物の種類にも変り物が見られたものだ。小池さんとかいった人だと覚えているが、その人が持ってきたルビー、アレキの裸石を市場に出せとせがんだのだが、小池氏本人は「石の値段なんかどうせ出るものではないからダメですよ」と言っている間に誰かが突如この色石をセリ場台に上場したものだ。ところが俄然人気が沸騰して一カラットニ十円にもセリ上がったのを見て、小池氏本人がビックリ仰天したものだ。つまり、こんなに高値に売れるものかという驚きであったのだ。四、五円もした位のものだったからであろう。そのような約束で、その次に出したアレキは更に高騰して、一カラット四十円にもセリ上ってしまった。これらがその当時の相場ということになったのである。
ここで、一寸注意しておくが、市場という性格から見た取引相場というものは、その日のその場の雰囲気によって、取引値段に異なる場合もある。だからその時の市場値段を以て必ずしも全体を通じての相場価格とはならないものであるが、この当時の業界事情は、このほかに取引上の標準になるような決め方なかっただけに、この日の色石の取引価格を標準にして、以後完全な業界値ということに決まったようである。従って裸石に対する取引上の人気はこの頃から強まったといえる。

金銀の塊や製品の出廻り状況
南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった

《昭和二十年頃》 終戦後いち早く出回った物資は、アメリカ兵が持って来た舶来のタバ
コ、チヨコレート、ビスケット、それに砂糖、コーヒー、ウイスキー、その次には軍属用の衣料というようなものに変っていった。私は、この中の軍属用衣料を仲次ぎすることで大変な利益を得たことがある。確か一着千円ぐらいだったと思う。
当時(二十一年)車坂町にあった涌井さんの家で、「八の日会」の交換会を開催していたころ、そこへこの種の衣料を持っていったところ、文字通り飛ぶように売れたものだ。その次には、真珠の連で二十本が一巻になっている束になった真珠の連を持こんで見たのである。その真珠が、私が見ている眼の前で売り切れて終ったという状況を呈したのである。そんな盛んな売行きを示すパールの連ものに対する私の口銭が、一連につき五十円という低率であったのだから一巻(二十本)でタッタの千円ということであったのだ。だから市場景気の情況に合せて、その次から口銭を一挙五百円に引上げた。だから私の手数料は、一束(二十本)に付き三万円に引上げたというわけだ。それでも、真珠の連は依然羽が生えて飛ぶように売れたものである。
この頃、藤井が交換市場を始めたということが伝わっていたのだろう。だんだんに私達の手許へいろいろな物資が持込まれて来た。その中で一番多かったのは、金・銀製品で宝石類はすでに戦時中に買い上げてしまった関係で、出回り具合は鈍かった。それでも骨董品を扱う道具屋には、昔の中国方面からの五型ものの時計はその時代の最高位であったものであろう。
この頃の貴金属地金に対する取引値段は、銀一勿につき二〇金は四円から四円二十銭乃至は四円五十銭という価格であった。その金銀地金などがこの市場にまで出品されたものだ。商売上手な御徒町の竹内君の市場は大変に盛んになり、一日の売上げが何と二百万円にも上っており、最高に売れたときは、三百万円にも達した時があった。
もっともこの頃は時計にしろ貴金属の場合にしろ、これといって正規に取り扱う品物がなく、その大半はヤミ物資ということになっていたのだ。たまには、アメリカ兵の踏み込みの危険往などということも管理者としては頭の中に刻んでおかなければならなかった時代でもあったのである。従って、この頃になってからは、物資の流れ具合にも変化が見られるようになってきた。アメちゃんから流れこんできた時計やバンドが出品され始めたのは二十三、四年頃からのことだと思う。これが結局昭和三十年頃まで続いたのだから、新時代への切換え商品としての登場物としては忘れられない記録である。南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった。

日米親善国民大会開催が功を奏し、三木武夫君のパージが免除された
昭和二十年敗戦後の日本の建国方針などを強調

《昭和二十年》 私が市場を開いているからと言って、商売人ではありません。毎日の新聞情報を通じて今後の日本の建国方針などについても気遣うものがあっただけです。敗戦まで軍需省航空兵器総務局に勤めていた当時は、軍需省参与官の三木武夫君とも話し合ったことがある。また三木武夫君自身も終戦してからは、幸いにして国民共同党の書記長の立場にあったこともあり、時折、施政の在り方について話し合ったものである。
丁度この時は、連合軍最高司令官の布告によって戦犯該当者の調査の時に出会った。その為、三木君はその戦犯関係について私に意見を求めて来たのである。つまり「どう処置したらいいか」の回答を求めて来た。三木君は、軍需省参与官という立場により戦時中を過ごして来た関係から、戦犯は免れないと覚悟して私の所へやってきたのだ。
その時、私は「昭和十六年当時、日米親善国民大会を東京の日比谷公園で開催し、米国のルーズベルト大統領とフーバー米上院議員から祝電をもらっていたことを思い出し、その祝電を見せれば、軍需省参与官としてのパージにかけられたとしても免罪が避けられるだろう。まずは、その祝電を探すべきではないだろうか」と進言した。三木君は、さっそくその祝電を探して急いでマッカーサー司令部に届けたそうだ。当の三木君は、私の説明を聞いて小躍りして喜んだそうである。その結果、パージが免除されたのだから、政治的な色合いがこの時ほど痛感したことはなかった。
こんな経過で昭和二十年八月の終戦時に、東久邇宮殿下が敗戦処理内閣を作り、間もなく辞任した後は、当然敗戦の責任により、反対党が内閣を組織することになり、片山哲内閣が成立したのである。人材が乏しかったためか、国会の場を持ち越すことが出来なかったので、短命にして総辞職という事になった。それだけに、そのあとの組閣は、並大抵のことではなかった。芦田均氏を首班にして、それに社会党を代表して西尾氏、国民協同党を代表して三木武夫君がこの組閣に参画したのである。しかしこの時の組閣も容易ではなかった。毎晩苦闘を続けつつも組閣の為の善なる方法が見つからなかった。当時の三木武夫鉄道大臣を通じて業界に大きく様々な貢献をした



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