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日立精機が時計製造に乗り出したいので協力を
厚生課長と会い、時計工業への乗出しは断念するよう進言した

《昭和二十年》 終戦直後のことであるが、「精密時計工業を始めたい」と、この頃の起業家は、当時活発に動いた。当時の状況を参考のため記しておこう。
終戦が昭和二十年の八月十五日であった。従って気の抜けたような心理状態になった国内の起業家連は、文字通り仕事に手がつかなかったようである。そのためかどうか、兎に角私の居住していた南稲荷町の家へ昭和二十一年の二月頃、日立精機工業から厚生課の社員が突然やって来て、「時計の製造を姶めたいから私に顧問になってくれ」という頼みであった。この突然の申入れは、やぶから棒が出たようなものであったので、実際驚いた。
話を聞いてみると、私の知り合いの人が、「藤井という人間は長く時計界にいて、そして各種の事に通じている」と紹介されたという。日立からやって来たのだという話である。それから時計企業を興すということについての内容を、いろいろ聞いて見たところ、精密工業の将来性についての詮策をしたところ、時計工業への乗出しがいいということで決まったそうである。
それで時計というものを作り出すようになるまでは、藤井という人を水先案内に頼もうではないかということに决めたそうだ。そんなことで日立へは断りながらも前後二、三回は茨城県勝田町所在の日立製作所に行って見た。そして工場関係の常務取締役を中心に、工作関係のことについても相談を持ちかけられたのである。だが、時計界への乗出しについては、力量不足と見てとったので、私はこの頃丸の内にある三菱街にあった当時の日立精機に出向き、厚生課長と会い、時計工業への乗出しは断念するよう進言し、爾来、社員を私宅に寄こさないよう申入れたのである。
日立精機の社員は前後数力月に亘り、私の居宅に毎日通って来たその熱の入れ方には少しく興味を持ったのである。そうかといって時計事業へ乗出すための日参を私宅に向けられたのは誠に迷惑し、且つ少し気の配り方が足りないと思ったからでもある。何れにしても、戦争が終ったあとの企業の転換事情のあせりがそうさせたのであろうとも思えた。事実この頃は一部に悲壮なものがうかがわれたようである。

金一万円也の報償金を受け取る件がボツに
ダイヤ輸出関係書類を風呂敷包み持っていったのに

《昭和二十年》 これは、終戦の年の昭和二十年五月頃のことだと覚えているが、私の社が二十年の三月十日の帝都大空襲の災害で丸焼けになり、群馬県の鬼石町にあった日本ニッケル会社社宅に疎開した時代のことである。
その隣りに寄居していた人から、金田屋の主人金田某が死んだという悲報を聞かされた。その金田氏は、駒込警察署を通じて、東京地検で取調べを受けていた戦時中の物資統制令に違反した事件である。その時の証拠物として提出したのは、戦時中に買上げたダイヤモンドを輸出することによって外貨獲得という線を打出したいから許可して貰いたいという業界の陳情運動をしたときの関係書類を一括、風呂敷包みにしてあったものを参考上必要だから届けてほしいという頼みであったもの。それによって私は、元富士前町の金田氏の居宅に届けたのである。但し、この代償に金一万円也の報償金を支払う件を約束されたのである。これを実行されないまま、彼氏は捕われの身となり、悲報に接したという経過である。つまりこの場合の報奨金一万円流れが第三番目になる話。

ヤミ物資の第三期的症状時代
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミの時代

《昭和二十年》 終戦後の日本の社会状況を概括すると、昭和二十年の終戦時を契機にし
て、その年の十一月頃から、物ごとの動きが始められたと見ていいようだ。
だから昭和二十年の暮は、これまで経験したことのない淋しい越年であったわけである。つまり、正月という明日への光明も持ちえない哀れな状況下であったからである。だから正月の元旦だからといって、正月らしい風景もなければ又そういう気持にもなれなかったものである。
然しヤミ物資の動きのお陰で細々ながらではあったが、オトソとお餅という程度で正月気分を味わうことが出来たという情景だったのである。ただし、この程度は良い方の生活環境であったと見たいもの。従ってこの頃を過ぎてからは、何ごとにつけても物の動きにはヤミというものが付きものになっていったわけである。
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミということで動くようになっていたのであるから、勢い業界関係の商品の動きについても、総てヤミ値がついて回っていたのである。それらを終戦後第二期の頃といえばいえるのであろう。このような状況は、昭和二十五年頃まで続いたといっていいだろう。
つまり、ヤミ時代の中期とでもいえようか。誰もかもヤミという気分には馴れて来ていた。昭和二十六年頃からはその第三期という頃合いになる。

新円が出た当時の物の動き方
アメリカ製のチョコレートや外国たばこ等の闇物資が大いに役立った

《昭和二十一年》 その為、その新円切換え期をめがけて品物の交換が極めて激しかった。市場という市易では、出品するものはすぐその場で売切れるという状況であった。したがって、品物は引っぱりだこということになったので、市場の出入口に厳重な見張りをつけて、細かい取引は厳禁したのであった。
かくして奕換期日を三日後に控えたころから、業者間の取引はますます激しくなって行った。私は新円の切換えが明日に迫ったという前の晩、当時駒込林町に住居していた三輪豊照氏を訪ねた。そして貴金属製品の何百点かを現金と変換したのであった。この代金はみつわ真珠工業の手に入った三井真珠の買い取り資金に廻したのだということを後で故人となった三輪豊照氏本人から聞かされたことがあった。
このような騷ぎのドタン場に迫った取引は、日本人としては初めての経験だけに、真実驚きおののいていたものだと思われる。私の居宅の押し入れにあった現金を商品に変える苦心は、従って想像に絶したものであった。
この外に、当時は進駐軍の注文が横須賀方面納めの業者から殺到していたので、夜に入ってまで職方回りで忙しい時を過ごさなければならなかった。林町に工場を持っていた貴金属工業組合の事務所には、宮山某という人がいて、そこへ今は亡き今村陽介氏がやってきていたので、翁の特別技術の恩恵に預かっことを目がけて、銀台枠に真珠の大玉を入れた高彫り指輪の仕上げに毎日毎晩自転車で通ったものだ。そのために、私は三月にはいってから急性肺炎を患い、順天堂に入院した。だが丸一か月にわたる入院中も、病院のベッドの上で、真珠入りの耳飾りやブローチなど売れていくものを取り扱ったものだ。その代償には、現金に添えてアメリカ製のチョコレートや外国たばこを常に持参していた。この代物が順天堂の人々に役に立った。つまり薬がない時代の病院生活は、この闇物資の入手が幸いして、早期に退院が出来たのである。
新円の切り替えがあってからの市場取引は、素晴らしく活発に行われた。それは現金が欲しいために華ちゅう界方面から手持ち品と思われるいろいろな貴金属品が出回ったからである。

昭和二十年の暮頃からボツボツ落つきを見せて来た
業界各部門ともに繁栄時代へ

《昭和二十一年》 終戦後における社会的情況の過程を振返ってみると、大体次のようにまとめられる。先ず、昭和二十年の終戦の年は、文字通りドサクサ的時代であったから、これといって明確に記すところはない。ただアメリカ兵が侵入して来て、物資の交換時代が拓けたという程度である。従って日本人本来の自主的な行動としては、昭和二十一年に入ってから前進したといっていいようである。それだけに、その前の年の暮頃から徐々にではあるがボツボツ落つきを見せて来ていたということが言えるであろう。
何れにしても、昭和二十一年に入ってからは、本格的に各部門ともに活動が展開されたことになる。新円との切換えが二十一年の二月十七日に行われたのであるから、この時は明らかに世代が転換された時であるといえる。ここで考えたいのは、この頃までの日本は永い間続いた戦争のために外国との交流が絶たれていた。従って国内で取引していた所謂国際性をもつ商品についての価格(註、ダイヤモンド、時計の類)の点では皆目わからないということになっていたのである。だから国内事情が落ちついて来たとみられる昭和二十一年頃の取引価格も、これまで馴れていた価格のそれをそのまま継続していたに過ぎなかった。だから昭和二十一年の暮れ押詰まった二十五日頃になって、買い取ったダイヤモンドは、何と六カラッ卜、四カラッ卜、一・八十力ラットの計三本で四十万円という代金で私か決済したのであった。これが、その年が明けた二十二年の元旦になったら途端、三十倍にも跳ね上がって終ったという現象が起った。
これは、前述したように日本が戦争期間中、鎖国的環境にあったがための一大損失であったと言える。平和を迎えたお陰で外国事情が漸次投入されて来たことから、かくは国際的商品が急上昇し、国際水準に近よった価格にまで引上げられるようになったのだということだ。ダイヤモンドに対する価格が一挙に引上げられたのは、昭和二十一年の暮を峠にして、二十二年の正月と二十三年の新年早々からの二度に亘って一大変化を期している。
以来、ダイヤモンドに関する限り、それほど大きな価格上の変化はないが、然し平和な時代が続き、国内の貨幣価値の関係から、ダイヤモンドに対する値段は、漸次世界的標準に近づきつつあるのは事実で、優良品が漸次大衆からも注目されるようになっていた時代だ。

南京虫時計が動き始めた最初の頃
一応ヤミ物資取締りの対象にあげられていた

《昭和二十一年》 ダイヤモンドの価格変動時代に続いて、時計もこの頃にはスイス物にアメリカ物等、いろいろ雑多な品物が入荷していた。特に、婦人用の俗称南京虫といった小型の時計が流行を煽って来た。だが、この南京虫という婦人向きの時計は、ヤミ物資の中に入るので、一応ヤミ物資取締りの対象にあげられていたのはいうまでもない。だから表立って大っぴらな持歩きは出来ないものとなっていた。時として、MPあたりの関係になった場合には、違反物資として取り上げられたようである。
しかしこの頃、この南京虫という婦人用時計に対する流行と愛用熱は、とてもではないが盛んであり、違反というそんなことが存在するかどうかは別問題の如き情況で品物は売れ過ぎる程であった。
その売れ行き具合ときたら、他品を省みるいとまもなかった程だったのである。国産時計の側から見ても、少しく羨望的な見方がされていたようでもある。
だが然し、このことによって時計の小売店それ自体の懐ろ貝合がまた頗る的に、豊かな状況になっていっていた。この面からは寧ろラッキーであったという見方をしないでもなかった。いうなれば、おかけで時計界は助かったという内面的事情が含まれていた時代であったわけである。

占領軍命令で石福金属興行が活躍した時代
押収した地金製品の精錬事業

《昭和二十一年》 そんなような状況が続いた時代から、業界事情はとみに良化していった。だが然し、一面これら日本国内事情に注目していた連合軍のCID(巡邦警察)当局では、占領事業の中で重点施策にされていたダイヤモンドの押収、貴金属地金の占領等の事柄が続いていた。前者のダイヤモンドは、現に日銀に保管してあるものが当時押収したもので、これに対する品質鑑定は、巽忠治、松井栄一、久米氏ら三氏により、これに米人二人を加えた計五人の手で初めて行なわれたようである(巽氏が大蔵省で説明した中から)。
次に、貴金属地金については、いろいろな所蔵品を押収して来たようであり、それを連合軍指定の石福金属興業KKの下谷の練塀町の精錬工場で当時昼夜を問わず精錬していた時代。業界ではこの頃、石福金属興行が実際に精錬していた状況を実地に検分していたことで疑いはなかったが。それは当時業界では、この石福工場の精錬事業について、いろいろな噂が取沙汰されていたのである。
人によっては、連合軍のスパイ行動の現われであるなどといっていたものがあった位で、実際の状況を見に行ったのであった。後で石福工場からこの当時の状況を聞いてみたところ、まことに遺憾な話であったが、この頃、業界内にも大量に精錬する場所がなかったので、否応なしに連合軍の命令としてマッカーサー司令部から示達されたことによって、受けざるを得ながった次第であると石福興行自身が釈明していた。これによってこの当時の事情が明かになったという次第である。

シチズン時計が腕時計千二百個を組合に無償で配給してくれた
時計小売組合の戦後の再発足時代の逸話

《昭和二十一年》 戦争で焼かれた東京・台東区の東黒門町の「東京時計眼鏡小売同業組合」の仮事務所が、文京区小石川の坂下町にあった野村時計店代表の野村組長の自宅に移転していた。野村組合長の自宅に事務所を移していた東京小売組合もその点を危惧していた。また、これとは別に戦後初めての時計組合に対して、シチズン時計から時計の配給が行われた恩恵にも答えるための組合的体制を整えておきたいという気持が手伝ってのことであったようである。
だが然し、この当時はまだ市中に納まって商売をしているものばかりではなく、組合員の中には、焼けたまま疎開先から帰って来ない人の数もまだ相当あった時代であったので、これら業者の再起のために、シチズン時計では千二百個の腕時計を組合に配給してくれたのである。この時の配給によって、当時の組合費の滞納分を一括で納めることが出来たとして、同組合ではこの当時のことを思い出すたびに、シチズン時計のお陰で職員の給料などを支払うことが出来た、として喜び且つ感謝していた。
当時、この東京時計小売組合に在職していた青山書記長は、この当時のことを「終戦後のことだけに組合費が納められないで大変困っていた時でした。シチズン時計が当組合の窮状に同情してくれて、千二百個という腕時計を供給してくれたのです。お陰様で組合職員の給料なども支払うことが出来たのと同時に、これによって組合の整理も大いに役立つことが出来ました。シチズン時計のこの時の対応には満腔の感謝を捧げております」と語っている。
この当時の組合職員は、青山書記長に峰岸事務員一名と池内書記長はこの頃は嘱託という
ことになっていたので、たまに顔を見せていた程度、次長の丸田氏は行方不明。
このころ占領政策施行後始めて組合法の発令があって、同業組合は協同組合法に改正された。その時代の性格に鑑みて、組合事務所の活用に迫られ、昭和二十一年の春、焼け残っていた神田・小川町の白馬山時計店(竹村冶一氏)の二階に組合事務所を一時移転することになった。当時竹村さんは、神田支部長を務めていたが、組合法の改正で理事の要職についた。

ダイヤモンドが世紀的な大変動した時代に新円切り替え
昭和二十一年の二月、銀行預金は一口三万円、現金は一人三千円まで

《昭和二十一年》 この時代の通貨は、一円、五円、十円、百円が最高だった。この百円札で百万円を束にすると当時リックサックに八分目がとこ入ったものだ。だからこの百万円入りのリックサックの口を綱でまとめると一袋に丁度よい体裁になったものだ。私の居宅の押入れには、このリックサックが常時二、三個は投げ込まれてあったので、常に番人をつけておいたという状況であった。
徳川家康時代に御殿で扱ったという洒肴用の長柄酌、これは、一寸角位の銀製の長柄(七尺位)の先に、三升位入ると思われる大きさの洒桶がついている。もちろん銀の柄と柄先の洒桶には、純金のカラ彫りがしてある。これと六尺大位の銀製燭台二本が、この銀製燭台は上下に積み重ねが出来るようにできていた。そのつなぎ目に純金のカラ獅子の彫り物(四十五匁)がついていた。この二本の燭台に十二万七千円という値段を付けたのであっ
たが、先方は十五万円を譲らず物別れとなったことがある。この外にも、先方では当方側で持っていた十七カラットのダイヤモンドとの交換を望んでいたようであったが、時価相場の確定性がなかった時代であったので、遂に双方の話はまとまらなかった。
この外には、御紋章入りの違い棚、文庫、スズリ、衣匠箱、文鎮、皇室の窓掛用カーテン、そのほかダイヤ入指輪や首飾り等、華ちゅう界の売物としてワンサと出回った。
当時ダイヤの時価相場は、一カラット二万円見当で取引されていた。昭和二十一年の十二月二十五日頃、博多の緒方氏が古物関係の深田君を同道して上京して来た。この時、緒方氏から買取ったダイヤは六カラット、四・二十カラット、八十カラット位の三本で、四十万円也で引き取ったと記憶している。それを仲間の某氏に売却したのが、二、三日をおいた三十日、ところが一日おいた翌年の一月一日になったらなんと、このダイヤの値段が一挙に高騰し、三本四十万円で取引した中の六カラットのダイヤ一本だけで六十万円にもセリ上って終ったのだから笑えないエピソードであった。
終戦後のダイヤの変動期は、二十一年の暮れと二十二年の暮れの二回に亘って大きく揺れている。つまり世紀の天変動期であったといっていいだろう。
昭和二十一年の二月初めのことだと思う。占領軍司令官の声明によって、占領してから初めて新円への切換えが発表された。その声明によると、所持金中の銀行預金は、一口三万円に封閉された。現金は一人三千円の額までが十七日を期して新円と交換されることになったのである。

ヤミ事件に隠れた惡策の種々相
金塊争奪事件

《昭和二十一年》 終戦後の騷勁といったら、ヤミ物資をハサンでの事件以外はあるまい。
そのヤミ事件の中に巣喰う悪逆な事件の種々を事実に基いたものから後世のために断片的ながら以下記しておこう。
金塊争奪事件がその一つである。ある金塊の持主からその処分を依託された。昭和二十一年の頃のこと、取引場所は、山の手の西地区に当る場所、持参した人は、主役の責任を負う年輩者に若手二人が付き、案外おんぼろのようなクタシーで乗っけた。ところが、約束の時間になったら買手組の相手側は、二人連れで約束の取引場所に現われた。もち論、取引に必要なトランクを持参して来ている。そこで、両者間の取引開始の挨拶が済むと、それから買取り側では現金、現物提供右側は、金塊のそれをそれぞれ披露しなくてはならない段階になった。そこで、現品提供者側では買手側の風体からして一種の疑惑を持った。朝鮮の人であることと、その他に、万が一、持参したトランクの中の現金に如何わしい所作をしてはいないか等の点である。そのような疑惑を頭の中に描きつつ、目はランランと相手の態度を見守っていた時、そのトランクの蓋が開かれた。そのとたん目に映ったものは、百円札の束がズラリと並んで入れてあったのである。なんとなく怪しいと睨んだ瞬間、手早くその札束のくくりをぶった切ったのである。
案にたがわず、中身は新聞紙の重ね束であった。この時すでに室内は、電気も消えて乱闘の場と化した。改めエンジンをかけっぱなしで用意していた車に乗って、逃げた事件である。この車に乗り遅れたが最後、現品はおろか、命までも無くなっていたことになる。ことろが幸いにも、この三人は車の中で顔を見合せたという。かくて乱闘寸前のヤミ物資取引の危険は、このようにして双方無傷の中で済んだのである。済まなかったのは、金塊なる現品を委託した影の人に対しての問題である。依頼された某老人は、その人の前で平身低頭して、申し開きしたのである。大きな騒ぎになった割には、あっさりした引き際であったのだが、金儲けのためのヤミ行為は、品物だけがヤミではない、という教訓がこの事件の味噌である。



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