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金銀の塊や製品の出廻り状況
南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった

《昭和二十年頃》 終戦後いち早く出回った物資は、アメリカ兵が持って来た舶来のタバ
コ、チヨコレート、ビスケット、それに砂糖、コーヒー、ウイスキー、その次には軍属用の衣料というようなものに変っていった。私は、この中の軍属用衣料を仲次ぎすることで大変な利益を得たことがある。確か一着千円ぐらいだったと思う。
当時(二十一年)車坂町にあった涌井さんの家で、「八の日会」の交換会を開催していたころ、そこへこの種の衣料を持っていったところ、文字通り飛ぶように売れたものだ。その次には、真珠の連で二十本が一巻になっている束になった真珠の連を持こんで見たのである。その真珠が、私が見ている眼の前で売り切れて終ったという状況を呈したのである。そんな盛んな売行きを示すパールの連ものに対する私の口銭が、一連につき五十円という低率であったのだから一巻(二十本)でタッタの千円ということであったのだ。だから市場景気の情況に合せて、その次から口銭を一挙五百円に引上げた。だから私の手数料は、一束(二十本)に付き三万円に引上げたというわけだ。それでも、真珠の連は依然羽が生えて飛ぶように売れたものである。
この頃、藤井が交換市場を始めたということが伝わっていたのだろう。だんだんに私達の手許へいろいろな物資が持込まれて来た。その中で一番多かったのは、金・銀製品で宝石類はすでに戦時中に買い上げてしまった関係で、出回り具合は鈍かった。それでも骨董品を扱う道具屋には、昔の中国方面からの五型ものの時計はその時代の最高位であったものであろう。
この頃の貴金属地金に対する取引値段は、銀一勿につき二〇金は四円から四円二十銭乃至は四円五十銭という価格であった。その金銀地金などがこの市場にまで出品されたものだ。商売上手な御徒町の竹内君の市場は大変に盛んになり、一日の売上げが何と二百万円にも上っており、最高に売れたときは、三百万円にも達した時があった。
もっともこの頃は時計にしろ貴金属の場合にしろ、これといって正規に取り扱う品物がなく、その大半はヤミ物資ということになっていたのだ。たまには、アメリカ兵の踏み込みの危険往などということも管理者としては頭の中に刻んでおかなければならなかった時代でもあったのである。従って、この頃になってからは、物資の流れ具合にも変化が見られるようになってきた。アメちゃんから流れこんできた時計やバンドが出品され始めたのは二十三、四年頃からのことだと思う。これが結局昭和三十年頃まで続いたのだから、新時代への切換え商品としての登場物としては忘れられない記録である。南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった。

金塊や銀塊の買取り事件騒ぎ
金塊を割ってみると中にはナマリがごっそり入っていた

《昭和二十三、四年頃》 市場取引がだんだん盛んになって行った昭和二十三、四年の頃は、金塊についての取引状況は特別激しかったものだ。この頃、この金塊の取引について一つのエピソードがあった。それは二十二年頃のある日の夕刻、私が家に帰って来ると待ち構えていた和田さん(美津和材料店の主人和田政次郎氏)が早速話を切出した。「藤井さん、インゴットがあるから買おうじゃないか」という。「それはいいが品物の中味は大丈夫ですか」と私が念を押すと、この通りハンマーもつけてある位だから間違いはない、というのであった。
そこで私は右手にそのインゴット約五百グラム目のものを持って重量の感を試して見ると、比重に少し軽い感じがしたので、「これはダメだ」と突っ返した。すると、そんなことはないよ、さっき先方の人が来てこのハンマーで割って見てもいいといっておいていった位だからというのであったので、では割って中味にアンコがなければ高いが匁四五〇円で買えばいいのだから、といい切ってから私がその場でハンマーを使って割って見た。すると、何と、大丈夫どころか、中にはナマリがごっそり入っていた。これを見た一物売買のベテランの和田さんもさすがに顔色を変えた。その物をして、儲けようというやましさがない限り物ごとに誤った解釈がないことになる、という実感をこのときハツキリ証明出来ることになったわけであり、この時の事実を通じて参考になったのを喜んだ次第である。

武田製薬の重役がヤクザ者から手付金十万円を受取ったという当時の実話
一千万円のダイヤモンドを取引したいから持って来て見せて呉れ

《昭和二十三、四年頃》 これと似た事件がもう一つあった。この金塊偽作事件があった当時の世の中は、金の取引事件があっちにもこっちにも相次いでいた。今その頃の当時を振返ってみると、事業そのものをカムバックさせるための資金が欠乏していたからであろう。その資金集めをするために、一つの悪策(詐欺?)を企んだのだということがいえる。その金塊取引の事で、当南稲荷町にいた白山某氏が、武田製薬の重役と売買するのだということで契約を結ぶことになり、その間に入ったヤクザ者の一人から手付金十万円を受取ったという当時の実話であった。結局、対照物にしていた金塊を約束の時までに提供することが出来なかったので、十万円の倍、二十万円をおどし取られたという事件があったのを覚えている。更に、またその武田製薬の当時の重役というのが、私の南稲荷町の居室にやって来て、ダイヤモンド約一千万円ほどを取引したいから持って来て見せて呉れという申入れを受けたことがある。もちろん、外へ持出してまで売らなくても、先客万来の時代であったから、私はその武田製薬から来た使者なるものに断った。それによって、そのあとやって来た現役と称する輩には、その場で眼のさめるようなキラビヤカな光モノをぞろり並べて見せてやった。驚いたらしい。現金を持たずにやって来たのだから、その品物を持出したとせんか、それが最後何所かで体よく詐欺または略奪という寸法をやらかす計画でもあったであうと思えた。その時、彼らの二人のものは、金塊ならば当社にあるからそれを買って貰ってもいいというゼスチュアを残したのである。果して事実か、というためしのためにという興味も手伝って、その約束した銀座西七丁目の河岸(当時の外豪)にあった日東紡なる会社の秘書課を訪ねて見たのだ。ー向にそれらしき人の存在すらも明確にしえないという情況であった。私の想像した通り頗る危険千万な策謀がこの間に及んでい
たことになるのである。正に暗黒の時代だったのである。

銀塊二屯を信州中野まで引取りに行った時の経緯
結局は純銀一貫匁づつを無償提供されて、これで泣き寝入り

《昭和二十三、四年頃》 金に続いて銀の取引についての一つのエピソードを記してみよう。市場管理をやっている中には、いろいろ取引上の売込話もあった。その中の竹内武一君の持込み話である。当時信州中野に中野無線という軍関係工場の処理品として、ササ銀二屯の売物があるという話が出たのであった。この話に一口乗ったのは、私と竹内君の外に香取、今田の両氏を加えた四人であった。そこで、竹内君を除いた三人が出資しあって荷物の受取りに出かけさせたことがある。昭和二十一年の二月頃のことだったから、中野行きのトラックの動きには、頗る難路の頃だったと思う。ところが出発後五日を過ぎてもトラックが帰って来ないので、情況偵察をして見たところ、銀価格が値上がりしたため契約価格では出さなくなったということなのである。
そのために遅れているのだという経過がハッキリした。まるでキツネにつままされたような話であったが、この当時は万事がそんな状態であったようである。結局は純銀一貫匁づっを無償提供されて、これで泣き寝入りしたというのが実情である。
銀の問題では終戦間際の取引物で、銀塊半トンを電話命令で某所の庭に埋めさせておいたことがある。このことはとんと忘れていたのが最近この原稿を書くことになったことから想い出して終戦当時のその頃の状況を振返って考えたことがある。これなどはとんでもないエピソードであり、終戦直行の頃の語り草の一つでもある。

陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座
ダイヤモンド買上げに関する陳情書を商工省当局に提出

《昭和十八年》 以上のような経過で、ダイヤモンド買上げに関する陳情書は、商工省当局に提出、買上げ実行についての情況見通しについての瀬踏は、私が一応説明したのであったが、この陳情の趣旨は一時局に適応しているのであり、採用可能な線もないではないが、陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座の形となって終った。これは市内の某料亭において話合った時の当局側の説明であったのだ。とに角ここまでは私の手で努めて来だのだが、これ以上に秘術を尽すということについては一考したのである。
それはこの当時、「東京貴金属品製造同業組合」なる組合は、久米武夫氏が代表であり、表面上は既に戦時体制時代に突入していたので、貴金属組合としてはなすべく方法もないということにしていた。だから事業というものに手をさし延べるであろうか、などとの予想など到底持てなかった時代であった。いうなれば有名無実という存在のものだったのである。そのような関係から久米さんの組合に交渉しようとは考えなかったのである。従って私としては、陳情書を出して実情具申をしたあとは、当局の呼出待ちといった程度に考えていたから、他のいろいろ起きてくる問題の処理に取り組んでいたのである。
ある日、私が国電の御徒町駅から降りて帰宅する途中で、亀田基一氏と路上で出会った。そのとき亀田さんは、私にズバリいった。「藤井さん、貴方の努力した陳情効果は、結局久米さんの組合の名に切換えて成功しました、トンビに油揚をさらわれた格好ですね」、と心
なしか、せせら笑われたように受けとれた。
だが然し、私の努力によって進めた民間ダイヤモンドの買上げ事業が、曲りなりにでも成功したのなら結構なことだと思った。それだけにまアーこの辺で諒解すべきものだと私自身は心の中で決めたのである。
ところがこのときの私を評して曰く、「正に正直者がバカを見る」といわれたことがある。たしかにそうであったのかも知れないとは思ったが、矢張り私はそのままあきらめた方がいいと思った。

ヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話も
昭和二十年春、帝都爆弾強襲のころ

《昭和二十年》 B29が帝都を襲来してから軍当局の行動は一層曖厳味を加えて来たようであった。然し、国民自体は敵B29が帝都初訪問した時の戦闘状況の実際を凝視することが出来たので、これからは軍側の報道などは問題にしていなかったように思えた。
つまり、戦局は日本側に不利になっているという活況の一部が判断出来たからである。総局の二階に軍需省参与官の職にあった三木武夫君がときどきやって※たので、その都度私は政府の方針と戦局の推移について語り合ったものである。戦争に勝味があるかないかという点で、心配する空気が案外強まっていた頃だったから、その情報を知りたいがためでもあったが、戦局の情報については、三木君よりも庁内の尉官左官の連中のほうがはるかに詳しかったし、適格性を持っていた事の判断も出来た。
それは戦局の進展に備えて、官位通達というものが出されていたからである。
私が三木君と会談することを誰かが田中という官房長官(少佐)に知らせたものがいて、ある時、長官室に呼ばれて、三木君とどんな話があったのかについて詳しく聞かれた。
しかし、明治大学の同輩ということで、その場を押し通した。この頃は、すでに敵機の帝都襲来が激しく、東京方面をめがけて段々激化してきた時代である。
既に昭和二十年代に移った頃で軍需省内の空気には少しくあわただしいものが見られていた。第一線から飛行機を送れ、飛べる飛行機を送って来いという注文なのである。之に反して国内の生産体制はというと、生産された飛行機の二割しかパスしていない。それなのに不良の八割方についても一応軍からの支払いが行われているというだらしなさである。一体これで戦争が出来るのか?と、涙を流さんばかりに強く訴えて来るのは下士官連中であった。
一塊の時計屋に過ぎない私にこのように軍の機密を明かして訴え、且つ嘆くのであった。こうなってからは少尉中尉の連中までが時計部の室に毎日のように入り込んできて、原子爆弾用の資源ウランを求めるための悲痛な訴えは、この頃特に激しかった。独逸の戦況と日本軍の南方戦局との小競り合いが、いろいろの面で日本の国内に影響していたのである。この頃の軍需省内は、大部分のものが受持つ仕事そのものに手がつかなかったようである。つまり、手が浮いているのである。かくしている中に、昭和二十年の五月十日に到り御前会議が開かれた。そして、戦争の継続可否について討議された事実も秘密裏に報告を受けた。独逸のヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話もあるなど、なかなか深刻なものが伝えられるようになり、この頃から戦局情報のきわどいものが刻々持込まれるようになったのである。

尉官佐官級将官連が混乱した頃の状景
敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う

《昭和二十年》 そんなように戦争の中味が、国民の眼に直接映るようになって来てから
は、業界関係のことでもいろいろ影響するものが見られていた。品物は間に合わない、それにまた商売をしていたとしても将来への見通しがないなどのことから、卸商群ではなんでもござれ方式に取扱いの種類が随時変っていったようである。
私の社の近くに、戦時中の仕事として始めていた中沢時計工作所もこの頃の戦局の進行状況に見切りをつけてか、「藤井さん、もう見切時ですよ」といって修理部の総てを引払っていった。それは昭和二十年の春の頃のことであった。
戦争が一日一日と苛烈化して来た。沖縄の敗戦が伝えられてからは、本土は一方的に守備する体制の外なかったようである。そんなような状況と共に軍需省における悲報状況を聞くに伴れ、日本計器工業KKの作業所の疎開も考えなければならなくなった。そこで、その候補地を群馬か、茨城かということで越光氏ら幹部連と相談したところ、予定地に予め決めていた群馬県鬼石町の候補地を選ぶことにしたのである。
現地調査あのため、私と越光夫妻、それに浜田氏が同行した。それが昭和二十年三月八日である。その晩は現地に一泊、翌日に帰ったところその晩からB29の帝都爆撃という警報が発令された。
防備体制といえば従業員が帰ったあと、家族が疎開先へ避難したので私一人ということになった。防寒用具にゲートル巻の防火体制というより方法はなかった。この時から帝都は
焼野原と化すことに至った。然し帝都を空襲する前後に行った鶴見、川崎地区の工業地帯への爆撃の方が物すごかった。それが連日に亘ったのだから、その凄惨さときたら表現できないくらい。
その時のラジオ放送は今でもこの耳に残って忘れられない。敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う形勢である。全員防空壕へ待避すべしという放送が繰り返されたのであった。その声は今でも忘れ難い。

敵機B29による帝都爆撃当夜の惨状
正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない

《昭和二十年》 昭和二十年三月九日、敵機B29は編隊を組んで帝都の空を襲った。その時の凄惨な状況ときたら筆舌につくし切れるものではない。夕景近くなってから空襲はつづいた。これに対するわが防空陣の活動は始まった。上野の森の博物館前に据えてあった対空陣地からは中空に向けてズドンズドンと発射された。その間隙をぬって敵機は、縦横に帝都の空を襲い舞うたのである。それは宛ら、夏の雨の際になりひびく百雷の騒音にも等しく、あるいはもっと、激烈さを感じたものであったのかも知れない。
防空壕に避難しながらも、時折りどこかで炸烈する時限爆弾の強烈な響きを片耳に受けながら耳を覆って沈思黙考あるのみという姿勢をとるのであった。私の会社の前の不忍池に直面する広い昌平橋筋の大通りも、爆撃から来た火災のためにとんで来る火の粉が銜中いっぱいに流れていた。このような事実は、この世の中に実在するものであろうか、と問いたいほどであった。正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない。
昭和二十年三月九日の真夜中頃になってからの敵機B29の爆撃は更に一層物凄かった。
このため郤内の諸所から火の手が上った。大火災の出現である。こうなってくると逃げるという気持にはなれない。ただ身の廻り品をまとめるという程度の外は、防火用意に過ぎなかった。
この時私は、軍需省のお客筋から預っていた修理品の避難措置を考えた。然し、電気が消えていて家の中は真っ暗である。金庫に収めておいた修理品を出すのに手くらがりだった
ので閉口したが、それでも戸外に降り落ちる火の粉の明りでどうやら品物は旅行カバンに収納することが出来た。時計であるがために、薄い座ブトンか木綿のフロ敷堤込んで保存したのである。特配の軍人バンドの残り品約四十打ばかりは家の前に作ってあった防空壕の中に放りこんだので、時計をつめこんだ皮製のトランクだけをひっ提げて親せきの中尉
から貰った昭和刀を小脇に帯刀し、火の粉が雨の如く降りそそぐ街路を池の端添いに広小路に向って進んでいった。
この時、吉田時計店の裏側では保科君ら東洋時計の関係者が出て防火体制に努めていた。そこで、この地下室に私の荷物の保管を頼むことが出来たので、再び家に戻ったのだ。こ
の頃は、既に広小路一帯に到るまで火の海と化していた。当時の日活映画館の裏に「丸万」という料亭があり、それに並んで揚出しなどが並んでいたが、それもキレイに焼け落ちる間際であった。火の街頭を走る車から放り出された一つのコウリ包みに手カギをぶっこんで見たが、重くてどうにもならなかった事を今でも覚えている。
死に直面した時の人問の心理というものは、案外に無慾のものであるということをこのときの光景から考えることが出来た。私の社屋は、その翌朝の明け方頃になって焼け落ちたのだ。然し、床下に保存しておいたガソリン三鑒は決死の覚悟で戸外へ運び出すことができた。そのおかけで、作り立ての夜具を盜まれたという笑えない光景も残している。
夜が明けてからも敵のB29は、吾等が帝都の空を飛び廻っていた。物凄い一夜を明かしたおかげで、それから二日間を駒込林町の三輪屋の寮で西川君と共にぶっ通して眠った当時の行動など思い出して、今更ながらほくそ笑む場合がある。

本社焼跡の復旧認可指令書が出る
借りた家が隣の不始末でまた焼けたついてない話

《昭和二十年》 とにかく三月十日の戦災で全焼した。そこで省内の人から預かった時
計の修理を再開するため、軍需省から復旧指令書をももらうことにした。
しかし、その前に処理工作をしなければならないので、電車通りにある乾物屋跡の間口五、六問の家を月百円也の家賃で借りうけた。ここへ頂けておいた時計の修理品を持ち込んできたのは三月十三日である。ところがこの家が隣りの人の不始末から、また焼け出されたのである。このとき、私の家族が鬼石町に疎開していたので、そこへ行くための留守中の用意に修理品を預けに行ったその留守中の出米事だったから品物については一面助かった
ようなもののその代り、私有物の一切は焼け出されてしまったという、ついてない話である。

焼け跡の金庫内でロンジンのカラフが動いていた
火災で金庫の中身がどこまで持つかが分かった

《昭和二十年》 そこで会社の焼け跡と業者側の焼け跡の見回りをして歩いた。上野・仲町通りにあった金田屋の店は、隣の平井幸之進氏の店とともに焼け落ちていた。その焼け跡を掘り起こしてバラックを建てる工作なども見られたが、焼け跡には何処でも同じように、金庫が独り孤立していたのである。
私の会社の金庫は、裏ブタをブチ壊して中の品物を出したのだが、焼けて一週間目にロンジンのカラフが普通の状態でチクタクと動いていたのには気をよくした。もちろん一緒に入れてあったコップの中の水は乾いていたが、この外提時計を包んであった皮製サックの類はボロボロになっていたので、金庫の中の品物が、火の重圧に対してどの程度に耐えうるものであるかという点の参考資料にすることができた。



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