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スタンダード時計から製造開始に関する相談
「製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」

《昭和五年》 スタンダードというブランドの時計は、アメリカにおける製品であり、余り日本には輸入した実績が少ないものと見えて古来からも有名ではない。
ただダラーウオッチの類に少しく見られたような範囲のものであった。このスタンダードという時計の会社は第一次世界大戦のあとで、倒産の厄目にあったと聞いたことがある。「そのスタンダード時計会社の製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」という話を持って来たのである。話を持ってきた主は、明治末期の頃、時計修技術者として単身米国に渡り、自己資金でロスアンゼルス市に天賞堂という商号で時計の小売店を営んでいた山口県出身の渡辺金次郎という人である。この渡辺さんは、昭和の始めの頃、故郷の日本を思い出して日本に帰って来た。その時私の社に立ち寄ったことから以来、懇意になっていたのである。元来は、本紙の購読者であった。だから日木の時計界のことはよく承知していた。そんな関係から、日本の時計業界には精工舎だけが存在しており、その他に小物時計のメーカーが存在しない事情を良く知っていた。
渡辺氏がこの話を持って帰って来たのは二度目に帰国したときのことだったから、昭和五、六年の頃であったかと思う。米国スタンダード時計会社既存設備用具一式の譲渡品目表を持参して、私にその時計の製造について相談をかけたてきたのである。だが腕時計等の小物時計のメーカー企業を押進めるには相当の資本と気力が必要であるということを、私はこれまで業者関係を通じて経験したことから事情を承知していたので渡辺氏の希望を聞いた上で、これに対してこと細かに反問をしたものだ。それによると、渡辺氏自身は当時二百万USドルを所持しており、その中の半分のI〇〇万ドルだけを出資して、その他の一〇〇万ドルは日本の時計業者から出資を求めてスタートしたいという構想であったのだ。そこで私は、この構想を断念させるよう積極的に務めた。そのときの説明要旨は次のようだったと思い出す。
時計企業というものを、他面から見ていると頗る割のいい事業のようにも見えるが、然しそれを成し遂げるまでの苦労と来たら、それこそ湿舌につくせない程の努力を要し、更に莫大な投資が必要となる。私の見聞している範疇でも、村松時計製作所の如きはその苦労さを物語るのに充分役立つだろう。村松製作所で作っているプリンスという時計は一応出来てはいるが、然し、時計としての本来の品格である時間の合う時計を作り出すまでにはまだまだ程遠いものがあろうことになる。それなのに、現にその村松氏は時計作りの為に懸命に努力をした。ダイヤモンドを売った店の利益を全部つぎ込んでも足りない経営状態である。だからその為には、村松氏自らが油の付いた作業服に身を包み、油に手を染めながら努力を続けたのである。
更に、その村松製作所を今日の状態にまで持ってくるには、創業当初の近藤男爵の資材をもってしても成しえなかったという経緯がある。
だからそれでもやってみようというのであれば、及ばずながら私も人肌脱がなければならないことになる。その前にまず、あなた自身の決意として、所持金全てを投げ出す覚悟があるかと聞いた。そこで何とかスタンダード会社から預かってきた譲渡の品目表を譲ってもいい結果が残せればという希望があったので、この話をそのまま吉田時計店に持ち込んだ。だがこの話は簡単に葬られた。日本における精密時計工業としての現況は、繁栄をもたらせていたのだが、昭和五年、六年当時の日本の時計界は、とても腕時計の企業に手を染めるなど思いもよらなかったのである。
だが、このスタンダード時計会社の設備一式を譲渡するという問題については、その後ある政治家の仲介で再び吉田時計店に持込まれたことがあり、奇しき因縁であるという思われたが、この時も譲渡の話は締結されなかった。
スタンダード時計会社の一切は、ソ連の国営として譲渡されたと聞いているが、それが事実のようである。

時計技術書の出版事業など敢行
時計の修理という学究的関係書類も存在しなかった

《昭和六》 私は昭和六年の春から、明大法科に学究籍をおいていたので、毎日朝八時までに新聞社としての仕事を処理して、そのあとは重い革カバンを提げてお茶の水まで通っていた。時に講議時間の都合で、円タクを走らす場合もあった。学校では少し級友からではモテた方である。五月にはクラス委員になり、総務委員に選出された。明大は、この頃学徒四千余を数えていただけに三科を牛耳る総務委員の地位は軽くなかった。然し全国の専門校から集まった猛者連の中から選出する総務委員は、四百数十名の中から選抜されるので選挙戦は民間のそれとは異った激烈真剣なものがあった。この中間で、三尺の秋水も躍れぱ、ピストルも向けられる事例がある。学習の自恃と学園の自冶と自由を叫びながらも、その当時から政界の動きがこの方面にも反映して激かったものである。そのような経過から案出したものは当時の日本の時計界には、時計に関する書物は何一つとして存在しなかった。然もその上、時計業者の後輩の進出に備える時計の修理という学究的関係書類も存在しなかったのを遺憾とし、痛嘆したのであった。

時計修理書の仏語の原語の翻訳書
フランス語の「時計の修理書」

《昭和六年》 ところが、私がこのように痛嘆しているのと相反比例して発見されたのは、本郷区(今の文京)駒込神明町にその当時材料商を営んでいた松本時計材料店の二世が持ち帰った書物だ。その店の令息に武司君という人が大正三年に単独で洋行、その時持ち帰ったというフランス語の「時計の修理書」があった。
それを基礎に時計技術書の和訳出版を考えた。この本を出版するのに、相当の費用と手間を要したのは言うまでもない。その難渋工程なるものを、何故やるかを決意したかについて、私としての一つの別な決心があったからである。それは、世の人のためになることを
やってのける必要があると考えたからである。学問の方では、東京六大学時代に、明治大学の委員として学生新聞を作ることへの参加を命じられたが、いろいろな事情で成しえなかった事情もあって、断行あるのみと考えた結果であった。

日本時計学技術研究会を設立
判読し難い内容の解説に苦心

《昭和六年》 そこで何はともれ、時計の技術書を集める必要かあった。他にも根本氏がタッチしていた技術協会というのがあったので、私の社では「日本時計学技術研究会」という名称で設立することにした。私の主張に賛同してくた当時のメンバーは次の通り。
蔵前の酒井時計店主・酒井亀太郎、下谷・練堀町にいた原田久治郎、仲御徒町の大比良技術研究所の大比良忠成、御徒町の根本氏、渋谷の于野善之助、豊島の長谷川、巣鴨のナポルツ商会のスイス人、O・R、アベック氏等を加えた陣容で、研究団を結成し、直ちに、初めの事業として、技術書の編集への協力してもらうことになった。
フランス語の原書を和訳したのを基本にして、午後六時からこれの解読に努力していた。   
この解説を行うには、時計部品の名称が判らなければならないのである。だがフランス語では、その解釈についてどうにもならないものがあった。つまり、座金のことを日本語では、“だるま”と称しているなどで、他に名称がつけてない。それだから、その座金の意を、日本語に翻訳にするのには、どうしたらいいかという、いわば、壁にぶつかったことになったものだった。そこで、アベック氏について指導を乞うて見たところ、引っかけだとか、ドテビンだとかいう熟語が発見されて来たのである。とにかく、これが最初で、時計に関する初歩の良書のひも解きであったわけである。時計の日本式熟語の発見には相当いろいろな問題があり、 且つ難渋したものである。

昭和七年頃の業界新聞群
さほど景気が良くなったが、それでも楽しく群れて飲んでいた

《昭和七年頃》 昭和七年頃の景気はそれほど悪くなかったが、特別良いという情勢
も見られなかった。従って、業界事情も至極平穏という状態であったので私は一つの出版事業を考えて見た。
この当時の業界新聞の数は十社余に及んでいたであろうか、人名で数えると、時計関係では、福田、山本、竹雅、早川、黒川、橋本、橋浦(大阪)飯田、私(藤井)この外、名古屋に古参の吉田氏が存在していた。また藤松氏も続いて活動を始めた頃だ。だが一杯組にかけては何れの面々も劣らぬ体勢であった。あるときは、青砥のしようぶ園で魚つりをしながら居つづけをしたこともある連中。その中には故人となった浦竹さんも混ざっていたのだから遊ぶ方面にかけての交わりは竹雅というのを筆頭にして、よく活躍したようである。
この当時の消費状況の一節を示すと、浅草・並木町に有名な「どじょう屋」があった。そこへよく足を運んだものである。夏の夕刻など、草履をひっかけて、一寸出かけるのに五十銭もあれば足りた時代だ。ごはんに鍋に酒が二本ついてそれで五銭のつり銭が来たものである。
もっとも、私のところ(池の端)から歩いて行った場合十五分位だから乗物賃は勿論不要の計算である。消費面は、こんな具合に楽だったから月々の計算でも毎日一人か二人を連れて飲んだあげく、茶席料に五〇〇円払ってなお五〇〇円位は残ったものだ。
料理屋に行くにも猪の獅々一枚持てばどんな店へでも大威張りで行けたものだ。だから働いた金で飮むという段階になるとはずんでいた。吾々同志の飲み合い仲間では私の社から出た山本、竹雅とタイムスの黒川、橋本それに金侯爵というあだ名をつけていた時計商報の社員の大野君がよく交っていた。飲む所にはいろいろのエピンードもあり、仕事の段になると勢力上の関係や面ツーの点など云々するものなどがあり、たわいないものであった。然しこの頃私は、人生の哲学的素地を求めることについて熱心に探求、出版物についても手を染めることにした。それは出版業務をやっている自分達には社会性の改善と指導的立場で必要があると考えたからである。

関東関西業界を縦横に飛び廻った頃の業界の状況
外交面での飛び廻り状況など

《昭和三年》 創刊以釆社の業績はすこぶるよかったこと、それに加えて業界関係では、私が働く為のコースの都合で東京を離れる場合が多かった。そのような場合、手っ取り早い点では横浜地方に飛んだものだ。新聞という職業柄、外交面はその日の朝の気分次第で急にコースを変更することがある。そんな時には、得てして飛び廻る方面を急角度に変えることにする。それらは今の時に於いても、昔のそれと変わるところがない筈である。
従って方向を変えることの激しい時には、直ぐその場から大阪方面へまでもすっ飛んでいくこともあった。いうなれば実際の飛脚的足取取り変更を選ぶことになる場合のものだ。私は元来、身体が丈夫なためか、兎に角、月に三度位は関西方面の業務視察のために出廻ること常としていた。夜、八時過ぎに食事をしたあと、東京駅からそのまま寝台にもぐり寝込んで、夜汽車が大阪に着くのを待って、すぐさま活動開殆というコースをとるのが通常なのだが、時によっては神戸まで直行することの例が多かった。
神戸に案外足を運ぶことになったのは、昭和初期にかけての頃、時計やダイヤモンドに関する密輸事件が多かったことによるものだった。
そのため神戸税関では、監視課の係長から課長に昇格した矢島さんという人と懇意になった。ある時、大阪の某時計卸店から頼まれてこの神戸税関にしげく通ったことがある。そのときの狙いは、話の結果でその店が密愉事件から外されることに成功した場合は金五万円を礼金として頂けるという条件があったからでもあった。
その店の悩みとしたその事件は、結局無事にすんだのだが、然し約束した成功謝礼金の五万円はもらえなかった。その店の第一支配人だった山本某は、その前に死に、第二支配人の松田某は私の追及に窮したようだ。商人という立場のものには、何ごとによらず現実にした現金取引以外のことは危険であるという印象をこの時ほど深刻に私の脳裏に刻んだことはない。そのような関係もあり、大阪地区の卸商筋には、ヤミ時計に関する事件がこの頃相次いでいたものだ。そのような傾向は、世中が不景気であったことに、だんだん慣れてきて、結果が結局そうした場合を多くしたことになったのであろう。この頃は、時計の関係もそうだが、ダイヤモンドについての密輸取引などに関係するものもあり、その方面に進んで手を染めようとしていたものが案外多かった。それだけに時計業界関係の情報探索を仕上げたあとは、ダイヤモンドの取引状況などにも、一際深い注意を払い続けていたのであった。

大沢商会で出会った人たちが関西で顔なじみに
時計関連の野尻、沢本、中島、鈴木、鶴巻、天笠、冨尾、今岡社長

《昭和初期》 私が業界を中心に、その他か各界に亘り新聞を通じて飛び歩いている中で、印象に残ったことを紹介してみる。
私が大阪を飛び歩くとき、大阪の一歩手前の京都で下車することが多かった。昭和初期の頃、大沢商会をはじめ、二,三店は尋ねたものだ。京都近辺では、大沢商会は老舗であり有名だった。大沢商会の森田支配人は、名刺を通じて訪れた者には、その都度金一封一円を与えていたのである。俗にいう“わらじ銭”の意味があったのかもしれない。
当時大沢商会の扱い品目は、自転車が主品で時計はそれ以下であった。時計の卸部に岡田さんという主任が居て関西での卸店回りでは、よく顔を合わせていた。またこの大沢商会は所要のない人はかたくなに入れてもらえず、門前払いもよく聞いた。当時時計関連の野尻、沢本、中島、鈴木、鶴巻、天笠、冨尾、今岡など時計関連の社長人が大沢商会を良く訪れていたので、顔見知りとなった。

大阪の冨尾、中上時計店の両者が納め、力量を高めた
昭和の初期七年頃に時計の乱売問題が起きた時

《昭和七年》 昭和の初期七年頃に時計の乱売問題が起きた。当時は東京の五日会と大阪の共益会(卸団体)、名古屋の同志会を含めて販売価格の協定を結ぼうとしたことがあり少し騒いだ。その頃は、冨尾、中上時計店の両者が威信の対立を示していたが、難航した末に、東京側との協定が結ばれ、関西側の組合員をなだめる際の両者の力量は大したものだった。両者ともに大阪での時計会では大物として評価されたものである。大阪時計会の卸畑界にも、岡伝蔵商店という最も古く信頼のおける店があった。岡伝商店は、支払いの良さではほかに引けを取らず、信頼度は抜群で、一、二を争っていた。

大阪の変わり種と言えば大阪時計材料店の山内岩戸という人
豪快で鼻っ柱の強い人であったが、案外と涙もろく

《昭和七年》 大阪の変わり種と言えば大阪時計材料店の山内岩戸という人だ。商売柄時計油は取り扱っていた。その時計油でいろいろ話題をまいていた。
東京・神田の山内材料店の舎弟に当たる日地で、昭和の初めに私を自分の店の地下室にある倉庫に案内し、自分に対する諸々の噂について打ち消すことに努めていた。豪快で鼻っ柱の強い人であったが、案外と涙もろく、人の良さもうかがえた。

服部翁を崇拝していた大阪の今岡時計店の今岡芳太郎さん
時計側界の大御所林精機鰍フ社長の父親林太郎氏と一緒に芸者遊びを

《昭和三年》 今岡時計店の今岡芳太郎さんも勇敢な人として知られていたが、商人としては一風変わった人だった。
服部翁の現存中は、上京の折には直ちに服部翁と会談、商魂たくましくも取引面など直接談判したという。それだけに服部翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度服部翁のお墓参りと、時計美術の本社を訪れたものである。
ある日、今岡社長から料亭に一席を設けてもらったことがある。当時時計側界の大御所である林精機鰍フ社長の父親林太郎氏と一緒に芸者遊びをした思い出がある。
その今岡さんの紹介で酒豪の沢本平四郎さんのお宅を訪れたことがある。沢本さんいわく「人間というものは、大地を踏みしめながら歩くようにすれば、間違いは起こさない」という教訓を得た思い出がある。いい想いで出ばかりである。
こうした活勁状況など辿っていた頃、とくに記憶に残っているのは、今岡時計店の社長、今岡吉太郎氏のことである。今岡さんは、昭和三年に私の社が主催した「全国商工業者大会」に出席して、当面の問題とされていた「販売価格の維持」という点など強調していた。
私とはこの大会を通じて、特別懇意になったのである。それだけに何時も愉快に話しあった。そして仕事の面になると長男の亀治君(現在の社長)を呼びつけて、活動力を訓育の資料にしたものだ。その今岡さんを通じてよかったと思ったのは、沢本平四郎さんと保険堂(今久保清吉氏)、それに加納芳三郎さんに会えることであった。沢本さんからは、外交的なマナーについて教わり、保険堂さんからは商売上の心理作戦なるものの真髄などについて学ぶことが出来た。加納さんについては、そこへの出入りが可能であるようになってからいろいろの人と会えるチャンスを与えられたことになり、取材の面でも大きく利益した。



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