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貴金属品に対する魅力時代
銀ローを使った金性落ちの時計鎖が良く売れた

《昭和初期》 この頃の一般社会の貴金属品に対する魅力は大したものだった。ダイヤなどということになると、まるで別世界の人が持つような高価なものに見られていた。
従って貴金属製品という物は、一般の人々にとってはかなり魅力的な商品であり、欲しがるものであった。そこで貴金属の品質よりも技巧的なデザインなどで差別化した商品を作り、金儲けをした業者が目立ってきた時代でもあった。
指輪と金グサリのロー入りの取扱方や、金性の品位について兎角の問題を起こしたものである。
この金性問題は、時計側のベコ側を作った妙味から来たものであり、またペコ側に盛り込まれた金性落ちによる利用度なども計算に入れて作られるようになったようだ。この時代の時計は、掛時計が全盛時代だっただけに、時計の提げクサリ用には金の目付ものが多く用いられていたようだ。そこで作り手の技でクサリのコマ繋ぎの点にまで銀ローを使ったものが出るようになった。一本のクサリで何百円かの差益が出ることになるので、利益面が多いというこの商材は奪い合うように売れた。

平和博覧会と金性保証マーク
業界紙を活用して各店のマークを広告宣伝した時代

《昭和初期》 然し貴金属の品位を保つということは、勢いその店の信用を保持しうる基盤ともなるもので、貴金属の卸店では有名マークを堂々と宣伝したものだ。服部時計店のツバメ印のように、村松本店の犬印、天野宝飾品KKの日章マーク、松本常治郎商店の兎印、細沼貴金属工業KKの菱H印、溝口商店の三ツ柏、井村商田の重ね松葉に一の字印、タツミ商店の三階松、朝日商店、喜多村保太郎商店、三輪屋商店、中善商店等、合月の月に合の字印等々有名刻印八十有余に上っていた。だからこの有名マークがマスコミを活用したのである。
この有名マークのことで思い出すのは、昭和の始めの頃上野の不忍池畔で平和博覧会を開催したことがある。その折りに出品物の盗難事件が起ったことから警視庁の専門刑事らが、この有名刻印マ‐クを知らせることにより品割り捜査が成功するだろうと考えたもので、私らの業界紙を活用して各店のマークを広告掲載した。
当時の貴金属業界関係で名を知られていた刑事は、本庁の富田、大塚などの刑事連はこの頃大いに活躍したものである。

合月商店が活躍した頃の業界
坂口甚作師匠は店員の誰にも心の悟りを教え、説いていた高潔の士

《昭和初期》 またこの頃業界における合月商店の存在は販売実績などを含めて有名だった。合月商店のモットーは、全国足跡行脚そのものであった。浅草寿町に本店をおいて、店には前川案山子氏が帳場の前にデンと座っていた。中野新助氏が支配人で村井寅吉が会計係、合月一門から出た外園、長谷川等の現役組もこの店から得た努力の結晶で成っているようだ。
中野新助に代わって案外と頭脳を働かせたのは、故人となった道齊氏で、なかなかのものだった。然し合月商店とその一統に不滅の功徳をたたえられている人は、人間界の英傑、乃木さんを形どった坂口甚作氏である。私はこの人にもよく説いてもらった。
合月商店の二階は、この坂口甚作さんの講義場になっており、子供か朝夕親の説教を聞かされるように、坂口甚作師匠は店員の誰にも心の悟りを教え、説いていた高潔の士である。
私は昭和六年の一月だったと思う。並木クラブで合月一門により結成岾成されていた「東京貴金属附属研究会」の新年会に招かれ、そこで福引をひいたところ、当選した挙句、クシをもらった。これをきっかけに、爾来勉強を志し明大法科を目指すこととなった。
当時の合月商出の存在は文字通り貴金属業界に偉大な足跡を残す結果となった。

宝石の卸屋が新製品発表会などの展示会を開催し始めた頃
新製品には造りからデザインに移行する動きが始まった

《昭和初期》 貴金属業界というものの形態は、前述したような組合規約に盛られた内容のものが常であり、何時になっても余り変わりばえはしない。
昭和五年の春頃、突発した国際的に跨ったダイヤモンドの密輸大事件もようやく表面上片づいたようであり、それからは時代に即した技術上の改良などをしながら、練磨しながら進歩性の途を歩んだといっていいだろう。
従ってこの頃から、貴金属品の流行は年と共に旺盛を極めるようになって行った。それに対応する卸業者の販売方針は、卸商側か各小売店を歩き廻る外に春秋に亘り一堂に顧客を集めて展示即売会なるものを催したのである。
この種の展示会で有名となっていたのは、ヒスイ、サンゴの専門取扱店として有名であった依田忠商店が何といってもトップだった。日本橋浜町の浜町クラブで展示会を開いた。そこへ来るお客さんの顔ぶれは、デパートを始め銀座方面の服部時計店など一流どころが顔を揃えていたので豪勢なものだった。この外には、細沼商店や中村善太郎商店も新作の展示会を店内ではあったが催した。天野時計宝飾品KKは、堂々と開催した。
この頃業界に最高級の名声を馳せるようになった天野宝飾品KKは、スイス時計の輸入業務をやるようになってから銀座に営業所を移し発展した。天野宝飾は日章印とハフイス、ハロックス時計について特に宣伝をしたので、この頃の旺盛な状態などは、今なお業者の頭の中に残っているはずである。その天野時計宝飾品の金子さんは、現在余生を宝石関係に移し、趣味として扱っているようだ。
令弟の天野国三郎氏は、銀座の白牡丹の二階にオフィスを持ち、輸入宝石専門卸店を誇りつつ小売店その他の要望にも応じているのも平和な情景である。
天野時計宝飾品に続いて三輪豊照氏が経営する三輪屋商店もこの頃新しい方法でニューデザインもののかり集めに努めていた。智能をしぼった三輪さんは、当時一等に三千円という莫大な賞金をつけて技術者の競争心をあおったものだ。三輪屋商店主催のこのニューデザインコンクールに参加したメンバーは、多い時には八十名位にも達したことがある。方法は参加メンバーが各二、三点づつ新作の装身具を持ち寄り、審査員として列席した小売業者の代表者によって審査され、その採点により優勝者が決まったのである。
勿論、私は立案の当初から最後に到るまでの総てに亘って参画することになっていたので審査の立会も行った。
この頃の貴金属業界は、最新式のデザイン物がもてはやされ、宝飾業界としての進歩と向上に大いに役立ったようである。

昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立
深い馴染みの中島与三郎氏が起業家の立場で起死回生

《昭和三年》 本社主催の業者大会が終ったある日、中島さんが私の社を訪れて二人で懇談した事あった。話題は、「時計とその製造」という話になった。「シチズン時計の製造機械の全てが埃に埋もれているのは惜しい」という話題に移った。しばらくしてから、再度中島さんが私の社を訪問した際に、私が「シチズンの再生を進めてはどうか」と中島さんに自分の意見を言った時、初めて中島さんが私に次のように意中をもらした。
私はその話合いに基づいて、当時銀座一丁目の山崎商店と共に尚工舎工場の管理の立場にあった田中地金店を訪れて故人となった田中一郎社長に尚工舎に埋もれている時計機械部品の全部の譲り受けについて下話しをしてみたところ、「あれが役に立つならいくらでもいいよ、私が安田銀行に話をしてやる」といってくれたので、それを中島さんに報告した。それは昭和三年の秋頃だと記憶している。
そのような経過をたどった後、中島さんはシチズンの起死回生についての相談を金森時計店、小林時計店(川村支配人)、京都の大沢商会(森田支配人)を訪れて、それに協力を求めるためにはるばる単身出張したことがある。その時、私は旅先で中島さんに会って聞いている。このとき大阪の富尾時計店の社長に一応意見を求めたようである(これは現社長の話)。
かくして、昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立、自ら初代社長の座に就任したが、会社設立直前、初代社長就任を回避するような気持を私にもらしたことがあった。私は、「それは絶対グメですよ」といったことを覚えている。シチズン機械の譲り受け価格は、安田銀行の担保計算の関係で、最初は二十万円がとこを主張していたものだが、結局は五万を割った四万七千円という金額になったというから中島のおとっつぁんも、如何すべきものかとあとで苦笑したことがあるのを思い出した。
それから二、三年を経て、一応時計の生産体制も順調になったように見られた昭和八、九年の頃のことかと思う。シチズン時計会社への入社、または販売会社の設立という案を私に提唱されたことがあった。中島さんは、シチズンの再生復活を図っただけでなく、生産即消費という企業者の立場についても常に、苦慮されていたその事実を身近に感じたその時には、再度感動せざるを得なかった。
[注]中島与三郎氏については、私は深い馴染みを感じていたので、常におとっつぁんと呼んでいた。中島さんには、私と同年輩の倅がいて、下落合で薬剤店を経営していたので親交を計ってくれといわれたことがある。働手の私はその機会を得ることが少なかったまま戦争へ突入してしまったというのがその後のコースである。
それから後の同社は、現社長の山田栄一氏の努力が奏功して、シチズンは、日本時計工業の一翼を担い、堂々世界に雄飛しつつあるのは慶賀すべきであるが、その基礎を作ったのは、故人の中島おとっつぁん(与三郎)の功績で、特筆絶賛するに価するものがある。同社の現況の主なるものをあげれば要項次の如し。
シチズン時計の生産能力は、月間四十五万個、資本金三十億円、本社:東京新宿区角筈二丁目七十三番地。取締役社長山田栄一氏。工場=淀橋工場:新宿区戸塚町四―八五六番地、田無工場=東京都北多摩郡田無町一六五〇、販売所シチズン商事株式会社(東京都台東区御徒町一―十二番地、取締役社長山田栄一氏、専務取締役太田敬一氏。写真は、在りし日の中島与三郎氏。

「日本一最年少議員の三木武夫君の声を聞く」講演会を開く
私がその前座で、明治大帝が読んだ詩吟の一節を披露

《昭和十二年》 この序で、三木武夫君との関係について少し話してみる。昭和十二年四月の始めに最年少議員に当選した三木武夫君を東京駅のホームに出迎えしたのが私だ。三木武夫君とは、その年の十月ごろ、諏訪の片倉会館に同行して、一緒に処女演説を行った良い思い出がある。会場には千数百人が集っていた。集会の表題は、「日本一最年少議員の声を聞く」という講演会であった。私はその講演の前座に立つことに決まったのだ。雨の日の午前十時頃、京橋の路上で出会って、そのまま諏訪行となったのだから取分け演題というものがない。そこで三木武夫君が所持していたポケット帳の中から見出したのが、明治大帝が読んだ詩吟の一節である。「夜朦艟に駕して遠洲を過ぐ、満天明月思いゆうゆう、何日の日かわが志を遂けんや一躍雄飛五大州」。私がこの詩を読んで大喝采を浴びたいい思い出がある。

東京市会議員の選挙に勇奮した頃の私のハッスルぶり
学友たちの卒業試験の障害になることを思い出馬を断念した

《昭和九年》 私は新聞事業が発展したそのあとの平常な状態が続いていた昭和九年の舂に東京市(都制施行の前)の市会議員の浄化選挙が行なわれることになったので、立候補への勇気を奮い起したことがある。その時は、明明治大学法科を終える年の春だったの言論戦の助けに望んでいた学友達は、積極的に応援してくれる約束をしてくれたのだが、卒業試験の障害になることを思うと、それが痛ましくて準備は完了していたのだが遂に断念した。その時の経験から推して選挙という場の侯補者の心中など十分洞察することが出来る。

昭和十二年、江東区亀戸に第二精工舎出来る
時計の需要が高まり、生産体制の充実を図るため

《昭和十二年》 このように各種時計製品の進歩と進捗により、工場範囲が手狭となった事から昭和十二年には、携帯時計の製作部門を東京・江東区亀戸町に移転し、株式会社第二精工舎として分離、太平町工場では掛置き時計類、写真機用シャッターの製造を行う専門工場とした。
然して昭和二十年三月の戦災禍により、同社工場設備の約三割を燒失するに至ったが、同年八月終戦のため一時工場を閉鎖、残存施設によって操業は続けていた。
戦後は、昭和二十年十二月、事業再開に着手するや、同二十一年一月に操業を開始、同年四月にはコロナ目覚まし時計、六月には八インチ振掛時計、七月にスリゲル掛時計と写真機用シヤッター、八月には毎日巻き時計を製造して、同年末には月産二万八千個を数える盛業を見るに至っている。
そして昭和二十一年四月に、戦後始めてシンガボールヘ目覚まし時計の三千六百個を輸出したのを始め、海外からの急激な注文増に備える生産体制と共に国内需要面にも供給増加方針を立てていった。そのためか昭和二十三年には従来のコロナを改良したニューコロナ及小型目覚まし時計コメット、八日巻掛時計等を製造、引続き新意匠による製品多種品目の市場供給を行なったのである。
然して昭和二十六年二月には、従米のスリゲル掛時計機械の構造を改めて打方に、自動調整装置を施した本打式掛時計の生産を開始するに到った等、その改良と技術上の進歩のあとは文字通り目まぐるしいばかりである。
如上のように、精工舎の時計類の生産体制は、亀戸の第二精工舎を主軸として、上諏訪精工舎、鎌ヶ谷精工舎等つぎつぎにその生産の場を増しつつあり、加えてこれに伴う技術上の改善結果は、遂に昭和三十九年十月、東京において開催されたオリンピック東京大会の場で、これまでその競技川に使用されていたスイスのオメガ時計に代ってセイコー製の計時用時計が活用されたこのことは日本の精工舎から出るセイコー時計が世界の時計としての覇罹を把握したことになり、世代を飾る輝やかしい事蹟である。

貴金属業界では第一人者的存在であった村松本店の巻き
湿情らしく持ちかけ品物を大たばに売り込むなどは決して油断がなりませんぞ

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰彼なしに潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。
このことは、業者全部に該当する言葉では、ないかもしれないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものをニ、三紹介しよう。
村松本店は、東京・日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であったもの。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は、何所へ出しても通りがよかった。
村松万三郎氏の下に青木という支配人いて、性格は温厚であったが一角の筋が通っていて格式を持っていた人だ。この青木さんが、他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があったのだ。話の内容から推測したところでは、支払いの期限についての亊のようだった。万が一にも、そんな筈はないのだが、と思ったのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだら驚いた。湿情らしく持ちかけて品物を大たばに売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞというのがここでの幕。

商標権譲受で雪の中旭川行き
東洋時計のマークである「TOYO」商標の譲受けの為

《昭和十二年》 話は少しズレるが、昭和十二年二月十二日のことである。北海道の旭川
市というところは全道を通じて北面に位するので、冬は酷寒の地ということになっているだけに寒さとたら頗る厳しい所だ。私はその酷冬の二月十二日に旭川市の明治屋本店に辿りついた。明台屋は人も知る北海道の時計界では最も古参に属する小売店であり、卸商店でもある。私が所用で辿りついた時は、当時のご主人は佐藤音次さんであり、すこぶる元気な人だった。その健康さと来たら、その寒い最中でも風呂に入ってからは、素肌に手拭を引っかけただけで堂々としていたほどであるから驚く。元気そのものであった。その音次さんの話だと、明店屋は、明冶六年に道庁吏員として開拓団のI人となり、旭川に渡来したもので、その機会に土地を得たものだとの説明である。
従って、それから延びた明冶屋のこと『土地は何所までが自分所有のものであるかは、終戦後の固定資産税調査が行われた結束で初めて判明した』というほどである。その明治屋の元当主音次さんが亡くなられてから現当主の門冶氏が引き継がれているのだが業務中現在は時計が大体主の商材のようである。
その明冶屋さんは、元来物ごとに明細をつくす型の人だけに、その商標類に関することでは、とてもではないが他の想像も訐さないほど沢山の所有権持っている。その中に東洋時計のマークである「TOYO」なるものが、日本文宇とローマ字の何れからでも他の食い込みは許さいないよう明細に登録権を所持しているのである。
私は昭和十一年の暮、押し詰まってから吉日時計店に呼ばれ、当時の支配人であった佐藤健三氏(現佐藤時計店社長)から、その権利の譲り受けの交渉役を頼まれたのである。それによって酷寒の二月十二日に旭川市の明治屋に辿りついたのであるが、始めて見た冬の旭川は雪に埋もれていた。そして道路の中央に雪で作った門を通り歩くように出米でいたのに驚いた。もっとも旭川まで到る函館からの汽車の中でもストーブがあって、それにマキや石炭を投げこんで室内を温めていたのを見て驚いたのである。そのような事情で、佐藤門治さんに対して、吉田時計店からトーヨーなる商標権の譲受けを頼まれた所以を話したのだが、一向に聞き入れてはくれなかった。明冶屋さんはこの外にも、自転車、お酒、時計など、いろいろな種類の商標権を持っていた。だがそれをお金に代えて喜ぶような性格の持ち主ではないのであるから、当然この場合の譲りうけの話について、断ったのは当然のことであったろうと思う。
終戦後に於いてもオリエント時計会社から、再度に亘りこの交渉のダメ押しをしたことがあるが失敗に終っている。



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