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享保以前の悪貨鋳造が如何なる世相を現出したか
翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行

丁度、其頃のことであった。松平薩摩守網貴候が或る日、松平隠岐守の邸に招かれ、色々と悪貨改鋳の話が出た時に、薩摩守の曰く、「此頃頻々として処刑される贋金運びこそ不愍な者どもである。真実の大贋金運びは柳沢出羽守(保明)と萩原近江守(重秀)の両人である。見られよ、此頃の金は金にして金に非ず、銀もまた銀にして銀に非ず、夫れを金なり銀なりと強いられて御同様に拝領し、下民も渋々適用せねばならぬ。然るに、小民の贋造は罰せられ、大名、御旗本の贋金造りは結局上の気受け善く、私腹も肥やす次第でござる」と言放っ阿々大笑したので、隠岐守初め並び居る諳大名等は、色を失って恐れたと云うことである。
而かも家宣は、元禄小判の改鋳を以て満足せず、翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行した。次の年代の宝永元年には、更に、悪質の乾字金、宝永銀(俗に宝銀)を改鋳して。百二十余万両を儲けた。乾字金は、元禄小判に対してすら百両に就き百二両二分乃至三分の悪貨であった。而かも翌二年から三年、四年と毎年より以上の悪貨を濫鋳濫発して、米価、物価を釣上げ、万民を塗炭の苦しみに陥らせた。即ち、第一年の宝銀はまだしも純銀五分を含有して居たのに、第二年の二宝は純銀四分、第三年の三宝は純銀三分二厘、第四年の四宝は純銀一分二厘と云う風に限り無く品位を下げていった。
翌五年には宝永五年銭なる銅銭を新鋳し、一枚十文の価格を強制して通用せしめた。之又頗る悪貨、世に大銭と云ふて嫌圧措く能わざるものである。
慶長以釆、此の年までに、支那貿易及び琉球貿易等の為、公然と外国へ流出せる黄金六百十九万二千八百両、銀百十二万二千六百八十七貫目、錮二億二万二千八百九十九万七百斤、密貿易の為の金銀流出は、これ以外であるが、此の内の大半は元禄以後約二十年間の流出である。而かも国民の購売力は増すばかりで悪貨の価は益々低く、従って鋳造すれば従って欠乏を告げる。採出高には限りがある、従って、良貨の隠匿、入質、鋳潰し等が盛んに行われた。この頃から当局者が、専ら地金商に目をつけるようになったのは必然のことである。
其他「之を(新貨)上に差上侯では御趣意に相背き、且は手摺れ、目減りの分は新に吹替へ、世問通用らくに相成るべき御趣意に付、古金銀にて差上げ申すべく」云々。
「似せ金銀使う者あらば訴え出づべし、仮令同類たりと云ふとも其の科を許し、岐度御褒美下され、仇を為さざるやう申付くべし」云々。など類似の布令を統発して、鋳貨原料の収集と、私鋳の防遏に腐心した。

悪貨を追放した新井白石の所論通る
過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語るのみである

元禄、宝永の悪貨は、幕府の財政を紊乱せしめたのみならず、我国を殆んど経済的に破産者たらしめんとした。幸に、正徳二年家宣死して七代将軍家継立つに及び、新井君美(白石)は、萩原重秀の悪貨制を斥け、正徳四年従来の悪貨を改鋳して一切を慶長金と同様の品質重量に復する策を建てた。慶長小判の一両は、四匁四里、此内純金重量四匁七分、純銀重量○匁五分七厘、其他の混合物○匁○分、又慶長丁銀の成分は一百匁中、純銀八十匁
慶長一分金は小判一両の四分の一の品位を有っていた。之に倣って正徳二年乃至享保元年まで、都合五年間に造られた良貨は、武蔵判(金貨)八百四十九万三千五百両、享保銀三億三千百四十万貫に達した。此良貨鋳造は、我が商業界を復活せしめ、物価の乱高下を平調に整へ、しかも長夜の暗が明けた心境で、市民泰平を謳歌した。之に要する純金銀の収集に於いては、地金商が大に貢献するところがあった。政治全体からいえば、次の八代将軍吉宗の治世を推称せねばならぬが、単に幣制上から云えば、正徳二年乃至享保元年までの五年間を以て黄金時代と云はなければならぬ。吉宗時代に地金商が暫く頭をもたぐるに至った原因は、正徳改鋳の政策に貢献した為である。正徳時代に地金業者祖先が、詳しく云うなら、元禄八年以来宝永年度に至りて永い間悪貨の濫発、貴金属の請求、探偵政治の圧迫に悩み抜いた地金商業者等が、額手して新井君美の新政策を歓迎し、専心誠意を以て鋳貨原料の収集を扶けた時に蒔いた種が、次の時代に芽を出して更に大岡越前守に依りて日当りの良い苗床へ移されたという結果になったのである。これから勘定して今日まで約二百年、其間雨に打たれ、風に採まれ、または幹を折られ根を枯らした同業者も尠くはあるまい。只だ僅かに徳力家に残れるこの頃の地金業者組合の記録数冊が、過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語るのみである。
さて、前述の如く享保十二年に地金商、屑金吹の同業組合が成立した頃の営業取締り規則は、大略次の通りであった。
写し
  御触之趣
一、下金買、屑金吹共先達て組合申付候得共、猶又此度相改左之通り申付候。町々にて右商売仕候者は、紛失物当番名主へ相届け可申事。
但し、組合へも入り不申、内々にて商売致候者有之に於ては、急度(此度)申付くべく候(鐡重処分すべしとのこと)
一、下下金吹共、下金銀、迦金銀何に不寄買取候は、名主押切帳書に載せ、形ち有之分は其品帳面に相記し、形ち無之き潰金銀も金目等入念記し置き、紛失物吟味之節、紛らわしくは、舞之様可仕事。
但、帳面吟味之儀は、去卯年相触候、趣味相箔組合町内行事立合可申候。
一、下金銀、屑金買取候儀、売主証人両判(連署のこと)、取り其上宿等見届可申候事。
但、同商より買取候儀は、先づ両判にて買取候之儀に有之候間、只今迄一判にて取引可致、最も帳面入念留置可候。
一、御紋附(葵紋章のこと)御道具類一切買取申間敷候。万一無拠儀有之候間は、月番之番所へ訴出で、差図次第に仕るべく候事。
右之趣相守るべく、若組合中に不埒之筋も有之、組合へも入り不申告商売仕候者有之に於ては、仲間より申出づべく候、若し外より相知れ候は、吟味之上当人は勿論、組合行事共まで急度可申付候条、此旨相触れべき者也。

享保十三年申四月

併し是は鋳貨原料の散逸を防ぐ目的よりも、贋物捜査の便を計る目的の方が主であった。勿論その事は、間接的に貴金属の散逸を防ぐことにもなるのではあるが。大岡越前守の着眼は矢張り犯罪捜査の点に向けられた。
享保年間のすぐ次の元文元年に名君吉宗は、新井白石が折角復活せし、正徳、享保の良貨制度を根本から隠して再び元禄、宝永の悪貨時代を現出せしめた。之れ何事に依らず、白石の立案せし法制に反対せんとせし、吉宗自身の感情と、国用の欠乏とに因るものではあるが、ー面には当時の鴻儒たる荻生狙狹が、「幕府は地金を有せさるに、辛苦して貨幣を改良するは策の得たるものに非ず。小数の良貨よりは、悪幣の豊富なるに若かず」との建策を容れた結果である。
徳川は既に家康以来貨鋳権を確立し、家光に至りては完全にこれを納めしと雖も、如何にせん地金の供給は、さすがは幕府の権力を以てするも思うやうにならなかった。加ぐるに直営の縁山は、官営の通幣として年々荒廃に帰しつつある。ここに於て、只だ頼むところは当時の地金商ばかりである。陽に法令と罰則とを振りかざしつつ、陰に地金商の鼻息を伺はねばならなかったのは無理も無いことで、殊に悪貨鋳造の際には良貨の流れを憐れみ、之を警戒する必要から威圧と懐柔との両刀は、盛んに地金同業者の頭上に閃めいたのである。其都度、同業者の主脳として一方では、当局者と折衝の任に当り、一方同業者を統卒せねばならなかった徳力屋藤七其他二、三の有力者のこの時代の苦心は、今日の同業者が時代の恩恵に依りて立憲的に営業し得るような安昜なものでは無かったのであり、想像に余りある。
吉宗の善政に一つの汚点を印する此の悪貨改鋳は、又々財界を惑乱し商業を委縮せしめた。その時出来た悪貨は、俗に文字金と称して、正徳、享保及び慶長の金百圖に対し、文字金百六十五両、正徳、享保、慶長の銀一貫目に対し、文字銀一貫五百目と云う低劣な品質であった。即ち其の粗悪なる点に於ては、乾文金と正に相対するものであった。
悪貨監鋳の結果は、良金属の追窮となり、地金商に対しても猜疑羅繖とならざるを得なかった。併し地金商同業者は、享保十二年に団結して以来、この日に至るまで能く隠忍して国法を守り、最も着実なる営業方針の下に貴金属集散の難事業に当った。文字金の鋳造以来、明和、文政、安政、万延と頻々悪貨を新鋳して、徳川末期の経済的運命を弥縫又弥縫せし、度毎にこの幕府は益々地金商に向って例の両刀を閃めかしていたことは徳力家の史料にもよく現われている。

他人の世話を見た徳力家の史跡
百年間は、本家分家とも一体を成して光栄ある徳力屋号を残している

文字金の鋳造後六年を経過した寛延二巳年八月には、次の如き布達を出した。(徳力家の史料に拠る)
 写し
灰吹銀並びに潰銀、銀座の外他所にて商売之儀古来より停止之事に候。右之趣去る亥年(寛保三年のこと)相触候所、当時銀座へ集り方少なく相成侯由、畢竜内々にて商売致候儀と相聞え不埒に候。且又江戸並諸国寺院には檀家より納め侯銀貨類無拠く貯置侯も可有之侯。檀家へ対し遠慮の品は格別、其外は銀座へ差出し通用銀(通貨のこと)に引換え俟は修造等の手当にも可相成事に侯。内々にて売払候儀は致す間敷候。此旨急度可相守者也。
右之趣町御奉行所より被仰渡候間、町中不残入念可被相触候、以上。
 巳九月三日
                   町年寄三人
とある。即ち鋳貨原料の請求は地金商を鞭撻して寺院の什器物にまで及ばんとしたのである。寛政四子年五月十七日に徳力屋藤七と年行事平兵衛と連盟で、其筋へ差出せる答申書には、寛保三年以来銀の売買を一役に禁止されたが、我々地金業同業組合のみは依然営業を許され、銀買方のみの権利を与えられたのに、其の買集め方が鈍いと云う廉で、宝歴二年申十二月鑑札を銀座へ没収されたということを認めている。夫れから後も鑑札を下附したり没収したりして、幕府が同業者の原料収集を刺激したことは度々である。右の如き答申書に年行事以外、徳力屋藤七が只一人連署しているわけは、別に肩書も記して無いから判然と其資格を知り知り難いけれども、各組の月行事を代表して年行事と肩を並べたものであらう。年行事は誰に限らず、この年の当番が名を書すのである。月行事総代は十数名の役員中から徳望技術の聚に拔んでたる者を選抜したのである。斯る場合多くは徳力屋藤七が其任に当っていた。
翌寛政五年六月四日、当局者は何の心算であったか、当然同業者の戸籍と営業状況を明日まで答申せよと厳命して来た。同業者は、其意を計り兼ねて大いに恐慌し、年行事以下徳力屋藤七を筆頭に八行事の連盟で二日間の延期を乞ひ、同七日当局の要求通り各同業者の業態を復申に及んだ。其時之に添へた嘆願書に曰く
 写し
(前略)下金売買高、亥子ニケ年(霓政三年同四年)凡そ相調べ書上候様被仰付に付則別紙に奉行所侯。勿論私共儀、古来より下金家業に在り親妻子を養育仕罷在候儀に御座候間、何卒御慈悲を以て、此上仲間一統渡世に罷成候様偏に奉願上候以上。
之には矢張り七行事の筆頭に徳力屋藤七の名を署し、御勘定御奉行様宛に出してある。幕府翌六年、申寅正月晦日に次の如き厳命を出した。
 写し
一、 灰吹銀の外、潰銀札は銀座並に下買之者へ売渡し、又道具下金銀入用の節は銀座にて買い請け他所にて売買到間旨、安永中三年も相触れ所、近年銀座へ差出侯者少き
趣相聞え侯。類焼く等の場所には通用銀二朱判並びに銀具等の熄損じも可有之侯間。銀座へ差出し引替え俣儀弥々心得違ひ無之様急度可相守候。
地金への追窮は、斯くして遂に焼け跡の貴金属にまで及んだのである。
その頃から徳力屋の名声は事業と共に挙り、独り松下町組のみならず山ノ手組の方へも分家を建てるようになった。寛政十二年申七月の記録には徳力屋清兵衛、徳力屋半兵衛の名が同時に現われている。徳力屋藤七と併せて徳力屋の一門が尠くともこの時代には三、四軒まで殖えて、夫れが悉く同じ家業に従事していたことがわかる。営業上の勢力と個人的徳望とが相俟って、徳力屋の光輝を益々囍々たらしめたのはこの頃であろう。現にそれから数年後の文化三年に、銅仲買野田屋太兵衛の件に付、不図した問題が起ったときに、其問題は無事解決したが、今後の心得のことにつきて布達があった。それを同業者へ通達する役員が三名、連署せるうち、徳力屋藤七と徳力屋清兵衛の二名まで徳力屋の名が列ねられている。爾来徳力家は一年毎に栄えて、文化、文政、天保各年度における重なる布達及び同業規約には、徳力家の当主が殆んど関係せざるは無き有様を示している。其間に金座、銀座役所に対する答申もあれば、又同業者間の悶着和解に関する調停もある。同業組合新加入者の届出でもあれば、徳力家一門の戸籍登録、営業許可の如き願書もある。商売上の外でも、また普通の同業組合役員以外の代々の徳力家が個人的信望の為めに、どれほど多くの人の為に面倒を見て来たかと云うことが諸般の記録を通じて覗はれている。
又営業上に於ても、単に自家の計を為すのみならず、同業者の苦痛を救うて失脚せざらしむるように努めた跡が録記に明記されている。文政十年亥四月十一日、徳力屋藤七の単独名儀で答申せる文書の一節に曰く
 写し
(前略)私儀は是迄出精仕り下金買集め、相納め候処、去年より当年に至り、下金出方宜しからず、此上出精仕り買集め相納め可候。仲間相納め呉候やう頼候に買い集め、候もの西川屋吉兵衛(以下八名の同業者姓名と其の所沢組の名を列挙し)右之者私方より買集め相納め申候。
 右之通り被仰波侯に付恐れながらご返答申上侯。
   文政十年亥四月十一日
               行事 徳力屋藤七
之と同時に同業者から提出せる答申書には、同様地金の収集困難の為め徳力屋から供給を受けて僅かに納付し来りし由をも認めてある。之れ云うまでも無く、この頃の徳力屋の営業状態が、既に同業者中で、一頭地を抜きんで盛大なりし状況であったことが示される。反面に於て、次代の徳力屋が同業者に対する態度の懇切周至なりしことを物語るものである。この頃の文書によれば、徳力屋は湯島組の内へ又一軒の分家を増した。次兵衛という者が当主であったことがわかっている。
斯く家門と営業と信望とが相まって栄えつつ縁戚知巳互に和楽なる交際を続け、本家より出でて分家を樹てた者の娘が、再び本家に戻って其血統を伝へるといふ風に、かれこれ錯綜して愈々根幹を太らし、以て現在の徳力家を形成したのである。現当主喜兵衛氏は、伝統の名を享け喜兵衛としての二代目、その前は先代喜兵衛、清兵衛、藤七というやうに遡るのであるが、殊に最近の百年間は、本家分家とも渾然一体を成して光栄ある徳力屋号を
伝え来っているのが実態である。

徳力屋喜兵衛の人格が一族を光被せる結果であった
徳力家、中興の祖

漸次発展し来れる徳力家の家運は、先代鈴木喜兵衛の代に至りて、明治維新の時運に際会して又更に勃興した。
抑も徳力なる姓が我国の歴史に初めで現われたのは、佐々木行定の後商の良安という者の代からである。今少し詳しく詮策すれば、人皇第五十九代宇多天皇の第七皇子にして醍醐天皇の末弟たる敦実親王の三王子が降って武家を立て、宇多源氏の祖となった佐々木行定は其第一王子の源雅信から扶義に伝わり、扶義から五世にして秀義となり、秀義から又数世にして行定に至ったのである。行定の後商から徳力良安の姓が産れ、其の門流は、近畿を中心として各地方に散在した。讃岐の人で幕府の儒官となった有名な徳力竜澗も、其の系統であるが、竜澗の家から徳力屋藤七が出て徳力を屋号としたわけでは無い。徳力屋は恐らく江戸移住者としては、竜澗の家よりも遥かに旧家であろう。其故は、竜澗の父にして矢張り江戸の儒者たりし良顕(素崕)は、元文三年五月十日に没し、日暮理南泉寺に葬られているが、其年は享保十二年に地金商同業組合が成立してから十二年目に当る。
即ち徳力屋の祖先は、良明竜澗とは交渉なしに、江戸に移住せる宇多源氏の一人が、武士階級から町人の群に下って、父祖の姓を屋号としたと見るのが妥当である。
斯くて、先代喜兵衛の世代となりて、益々祖先の遣業を顕揚したが、此人は同業者と円満に交際せるばかりでなく、家族、奉公人に向っても常に、懇切なる情誼を尽した。家運が隆々として興る間に在りても身を持すること頗る簡素で、誚服を繻ひ居宅食物に奢ること無く、他に対しては謙抑を主とした。一家の主長として、又商人として伝うべき逸話は数々あるが、一、二の例を挙ぐれば、彼は決して上下の隔てを設けず、長上を参つ如くに、また目下の者をも敬った。如何なるか僧が使いに来ても、必ず自から送迎の言葉を述べ、殊に帰り去る時は「有難うございます」というように丁重に挨拶した。又家業の発展に連れて、家屋の狭隘を感ずるに到りて、初めて新宅を普請した時がおるけれども、自分は昔を忘れない為の旧い方の居間に起居し、常に「私は是で沢山だ」と云って飽くまでも質実な生活に甘んじた。組合の寄合などがあっても、酒の席が終ると直ぐに外して帰宅した。
それは決して費用を惜しむ意味では無く、費用は平等に負担しても必ず帰って来た。家族に対する徳義上か、多数の奉公人に対する取締りの為めか、兎も角自分の一身を制御することは、非常に厳重な人であった。
併し其の通りの生活を人や家奉公人に強うることは無かった。寧ろ自分の身を約めて(家人や奉公人にはより多くいつくしみを加へると云う風であったから、彼の周囲の人々は少しも窮已な感を抱かずして春風の如き其の徳になついた。其時代から引続き二代相恩の店員として忠勤を励んだ者は、石福鉱太郎氏(故人)を筆頭にそのほかにも沢山いる。是籌の人々は相より扶けて当主を擁護し、着々時世に適応せる方針の下に、徳力家の勃興を謀っている。之れ先代徳力屋喜兵衛の人格が一族を光被せる結果であって、今日の徳力家の勃興せるは、物質的にも精神面でも彼に負ふところ実に尠く無い。明治四十一年十一月十三日、神田区松田町四番地の屋敷に没し、芝金杉浜町安楽寺に葬る。享年、八十一歳。

養殖真珠業界を厚生させた融資運動と三輪豊照氏の功蹟による銅像建立
九億円という巨額な融資の決定に真珠業界はあげて喜びに湧いた

《昭和二十九年》 時計と宝飾品業界を通じて親しまれ且つ愛されながら商売の一つに取りあげられているものに真珠がある。この日本真珠については、その発明者である御木本幸吉翁の遺徳に仰ぐところであるが、戦後経済の混乱を来たした時代に、この養殖真珠の厚生に特別細心の注意を払ったものは、今は故人となったみつわ真珠工業鰍フ初代社長の三輪豊照氏である。
この日本真珠界の厚生について、故三輪豊照氏はあるとき私を自宅に呼んで述懐した。
「日本真珠の世界的進出を計るためには、何としてでも養殖真珠業者の資金的救済を計るのにある」という観点を決めてかかったことに発足している。
この資金的救済策を打立てなければならなくなったのは、過ぐる昭和二十九年当時の赤潮の災害によって真珠業界が壊滅的打撃を蒙ったときからである。勿論、三輪豊照氏の営む三井、大村などの真珠養殖場も莫大な被害を蒙ったものであった。これらを救済する施策には、政府に理解ある救済策を仰ぐ以外に処置なしということに决めたのである。
その結果、私と三輪豊照さんは、三輪さんの自室で相談しながら、次の陳情文言を書き上げた。たしかその傍には、堀口、片山の日本真珠振興会の組合幹部もいたと思う。そして、この陳情書に基づいて奔走した結果、鳩山一郎氏が総理大臣を務めていた時代に、確か運動が成功して「九億円」という低利の融資を受けることに漕げ付けたのである。
この時の方法を考えると、このような運動とその効用というものは、部内が一致していなくてはダメである。そして、また智者が考え出す案と相まって、更にこの間を奔走する人の行動に対しても、ねたみを持ったり、自分の功名心にあせるような人達が運動の内部に存在しているようなことでは絶対に奏効するものではないという事がはっきり分かった。
故三輪豊照さんと私の合作が功を奏した結果を祝って、二人で乾杯したのを憶えている。九億円という巨額な融資の決定が閣議の了承を得られた時には、真珠業界はあげて喜びに湧いたものだ。しかも超低率の金利貸付によるものだけに、真珠業界は文字通り救済されることになった。しかし、人間というものは得て物事を喪失しがちである。このような恩恵に浴していながら、その中間を斡旋した故河野農林大臣に特別な敬意を表すことを忘れてしまったのである。
その為にえらく不満を持っていると伝え聞いたので、その間の仲を取り持って貰うために、当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を業者側に紹介してくれるよう、その斡旋を私に頼んできた。その為、私はその翌日、三輪豊照さんと真珠業界の大手筋といわれる高島吉郎氏を伴って、三木武夫大臣室を訪れて、他に先んじて会談した。そのコースを取ったおかげで、更に第二回目の融資十億円という巨額の許可を与えられたという事である。この事実は、結局、現在の真珠業界を更生させた根本的に役立ったことになると思う。
そこで、この日本真珠業界の功労者である三輪豊照氏は、今は亡く惜しまれながら日本真珠業界債権の礎石を作ったものとして、今や永劫不滅の功労者として九州・大分県の一角に三輪豊照氏の碑石が建てられてある。当時提出した日本真珠業界救済用の陳情書は下記の通り。養殖真珠業界の救済に尽力した功績を称えて大分県の真珠の中心地である畑野浦湾ふ頭に建立された三輪豊照さんの銅像。

「十六億円を月別に融資する必要があります」と陳情して融資を受けた
わが国特産の「養殖真珠」は、約二十億円の外貨獲得商品

陳情書

日本真珠輸出組合    理事長 高島吉郎
真珠養殖漁業協同組合  組合長 堀口初三郎

《昭和二十九年》 天然真珠に代って登場した養殖真珠は、わが国で独得の発展をとげ、現在わが国の持産品として、その九十七%までは輸出され、欧米はもちろん世界に至るまで販路を広め、各国夫人の愛玩の的となっている。
しかも、輸出純度は高く百%を示し、わが国特産の輸出商品として貿易改善に寄与しております。現在、年間約五百万米ドル、すなわち約二十億円の実績を示し(このうち在住外人の買上げを含めれば、約三十億円以上)、外貨の獲得に役立っております。しかも、世界の需要市場は、未だ開拓の余地が充分あり、その施策よろしきを得られる将来有望な国際商品であります。
現在、養殖真珠に対する海外からの引合は、非常に活発でありまして真珠購入のためわが国に来日する外人商社も次第にその数を増し、販売については何等の不安を感じませんが輸出の現況は、輸出総額はほとんど不動であるにもかかわらず、輸出量は年々百二貫ないしは三千貫の増加を示しつつあります。すなわち平均単価が低下して来ている状況となっております。これは必ずしも、輸出不振を意味するものではありませんが、真珠の粗悪品が輸出されていることを示しております。
元来、真珠が宝石としての価値を保つためには、その価格が高い値にある事が必要であり、他の一般商品の如く、安くして多く売る商品となっては真珠に対する貴石としての価値を減じ、その取引に不安を抱かせる事になり、わが養殖真珠に対しては誠に憂慮すべき状態となります。かかる事情に対する原因として考えられる第一の事は、金融事情による市価不安定によるものと思われます。生産された真珠は、生産者から加工業者(又は輸出業者)が買取り、加工業者はこれを加工して輸出業者に売り渡し、輸出業者は、自己又は外人輸出業者を通じ、直接輸出に振り向けております。この二段階における、加工業者又は輸出業者の金融事情が思わしからざる場合は、真珠は不当な安値を示し、常に不安定な相場を示現しております。
加之真球事業の特殊事情から
@ 生産業者の資金は、長期に渡ることと、その投下資本は金融担保の対象とならないので生産業者の金融の路は、著しく拘束されているため、生産者は不本意にも生産品を早揚げして、現金化することに急ぐため粗悪品の汎濫となり、その価格を低下させます。
A 真珠輸出、加工業者においても資金事情のため同様に安値売りを余儀なくくされて、価格不安定を来しております。
 なお、この状態が続けば、わが特産品である養殪真珠の声価を落し、せっかくの外貨獲も不可能となり、わが国家経済より見て誠に寒心にたえない状況であります。
 ここにその価格を持続させ、業界を堅実に導き、その重大なる役割を果たさせるためには価格安定資金ともいうべきものを融資し、その輸出価格を安定せしめ、外人商社も安心して見込み買い入れも出来、かつ一般の者も危惧の念なく、真珠を貴石として購入し得るような状態に置く必要があります。
 その方策として、前記二段階の集積資金を円滑に供給して
@ 生産者よりの集荷資金(荷揚げ真珠の買上げ)全真珠養殖漁業協同組合にて、集荷す  ること。
A 加工、輸出業者において、直ちに輸出せらるる段階の真珠は、日本真珠輸出組合にて集荷すること。
いずれの場合においても、不当に安値で販売する必要のない状態に置くのであります。この目的を達するためには、総額金八億円也、年二回合計十六億円也を左記月別に融資する必要があります。
 一、生産業者よりの買上げ資金
   十月より翌年三月まで六ヵ月間=金八億円也
 二、輸出、加工業者よりの買上げ資金
   四月より九月まで六ヵ月間=金八億円也
以上の金額算定の基礎は、左記の通りであります。
 年間生産真珠量        三、五〇〇貫
 右のうち市場に出る数量 七〇勿二、四五〇貫
 匁当たり八百円替として 約二十億円
 業者の自己資金で賄える分として、十分の六を控除した残額金八億円也
右 八億円を一年間二回転として金十六億円也を加工、輸出業者に供給出来れば、市価も安定して生産業者も救われ、不当な安価に買い叩かれる心配もなく、真珠の貴石としての価値を保ち得られ、外貨獲得に一段の効果を上げることが出来るものと信じます。
すなわち匁当り八百円也を千円または千二百円に持続することも容易となり、現在の生産量を以てしても金五〇億円の外貨を取得することが出来るものと思われます。
因みに、寒天及びビタミン業界においても輸出振興施策として、いくらかの補助があったと聞いておりますが、真珠業界にも同様の趣旨からご援助がお願いできれば一層輸出効果を上げることを確信し、右お願い申し上げる次第で御座います。養殖真珠業界の救済に尽力した功績を称えて大分県の真珠の中心地である畑野浦湾ふ頭に建立された三輪豊照さんの銅像。昭和三十九年十一月二十九日除幕された。

僅か三十億円で日本の養殖真珠事業が全部外国資本に独占される可能性が
真珠業界に特別融資をお願いする理由

《昭和二十九年》 【真珠は日本独特もの】我国の養殖真珠は、世界に類例の無い独特の産業であり、欧米は勿論のこと、未開国の文化が進むに従って、その需要は益々増大し、輸出産業としての真珠は、将来永久に外貨獲得の面で、国家に大きな貢献が出来るものと確信いたします。
【真珠と他産業との異る点】日本の貿易を振興させる何れの産業と雖も、常道とするころは、生産原価を国際物価の水準にまで引き下げるか、独り真珠の輸出を増大するために、これと反対に、価格の安定を図るか、乃至は、暫時の歩調を辿るかの何れかの途を選ぶことが絶対に必要であります。
その理由としては、この真珠は生活必需品ではないが、ひとたび価格が下落すれば世界の人に、一般大衆は、その価値を疑い、買入れを差し控える。その結果、輸出は困難となり、相場が上昇する機会を失うことになり、輸出が不可能になる危険性もある。真珠を買い求める人々の心理は、装飾品として文化生活上必要であり、且つ、何時でも換金の出来る資産とも考えているので、他の消費物質とは異る。以上の如くして、真珠の輸出増進を計るには価格の安定が絶対条件である。
更に一歩進めて、浙謄の歩調を辿るよう施策を講ずることが絶対必要である。従ってこの際、国家が積極的に、真珠の価格を安定し、浙膤の傾向が進まないようあらゆる施策を施すことが当然の義務であると考えます。
【外資の導入】真珠業界には外資を導入することは極めて容易である。既に、その交渉も受けている。外国資本を僅か三十億円導入すれば、日本の養殖真珠事業は挙げて全部外国資本に独占される可能性があり、国家の前途に非常な打撃を与えることは明らかであるので、現在業界は資金に苦しみながらもこの外資の導入を拒んでいる。
この見地からも、日本独特の真珠事業を育成助長する意味で、特別の金融処置を講ぜられることが至当と考えます。
【真珠業界の現状】真珠業界は、政府のデフレ政策の結果、短期資金と雖も市銀の圧迫により非常な困難を来たし、その結果、手持品の投げ売りとなり価格の漸落を来たし、輸出面で多大な被害を受けている。今後このまま放置すると、やがては真珠業界に倒産者が続出、乱売戦が展開され、価格は日ごとに下落するのみではなく、再び反謄への歩調を辿らしめることは永久に困難となる。就いては、この急場をしのぐために速やかに特別の金融施策が必要と存じます。
【真珠に対する根本策】真珠の養殖には、五年乃至七年の永き歳月を費やすので、去る二十七年の国会に於ては、「真珠事業法」までも成立させているが、未だにその施策は水産当
局並に真珠審議会で審査研究中である。現下、急変の激しい経済界の対象には、なお縁遠いことは誠に残念である。
養殖資金が一回転するには、同様に五年から七年の長期問を必要とする。また加工の面では、六ヵ月乃至十ヵ月一回転の長期資金がなければ出来ない事業である。従って、現在の業界の状能、即ち、中小企業体では荷が重すぎて、国家が特別の保護政策を行わねば、事実上価格の安定を期することは困難である。
これが根本対策としては、国家が専売制を行なうか、一括購入の政策を取るか、或はまたダイヤモンド政策、共販制の如き根本対策を立てるかにある。現段階にあっては、取り敢えず前途有望な輸出商品であるから、輸出に対する相当額の一時的金融の道を講ずることが当然である。
【輸出の現状】現在輸出量が増加しても、金額が増大しない。その理由は、市価が下落し、
商品自体の将来に不安を感じさせている点にある。その証拠としては、バイヤーが前途に不安を感じ、手持商品をたえず買控えをしている結果である。従って、輸出量は増加しても外貨取得の金額が増大していない、これが現在の状況である。もし、これと反対に市価が安定し漸謄の傾向にあれば、各バイヤーは安心して手持商品を多く仕入れ、市価も自然上昇し輸出の振興にもなる。その証拠に別表を参照すれば明瞭である。
【輸出振興上、多量の手持ちが必要】真珠の輸出を増大するには、国内に多量の手持品があることが必要である。然るに、現在の日本内地には手持ち品は極めて小量で、多くは海外に輸出されている。そのため真珠は日本で生産されながら、その完全な加工品、即ち、その時々の流行品は何れも欧米で作られ極めて有利に販売されている。若し国内に多量の手持ち品があれば、日本で発案した流行品を輸出することができて外資獲得上、極めて有利となる。完成した流行品を輸出するために国内に、多量な手持品が必要であるが実際にはその反対である。
その理由は、業者が金詰りの結果、換金に迫られ。その年に浜揚げされた品物をその年に売却してしまうからである。もし、業者に金融の道が開かれているならば出来るだけ多量の品物を手持ちとし自己の手許で完全なる選別、即ち品種別の選別、巻完成、厚巻は厚巻、薄巻は薄巻と、大小それぞれに応じた流行品を作り、有利な立場で輸出することが出来るのである
就いては、輸出を有利に、しかも増大させるためには
I、養殖業者の資金回転は五年乃至七年に一回転、極めて長期にわたる仕込資金が必要で
あること。
2.加工輸出業者も、資金五ヵ月に一回転、しかも、色・巻・大小等の点で多量の手持ち
品、多額の運転資金を必要とする。
以上の点を充分認識して、真珠業界にそれ相当の特別融資の道を開くことか当面の急
務であります。
【漸落の原因】現在の業者は前述の通り、資金の面で非常な困難を来している。即ち業者と金融機関との関係を見るに、たとえ、金融の道があると雖もそれは六十日乃至九十日が常道で、六ヵ月一回転の特殊商品として、自然に僅少の利益でも換金を急ぐから、乱売の結果、漸落歩調を辿ることになる。その証拠には、本年六月別表の如く僅か一億六千万円の担保付金融を受けたのみで二割から三割五分の漸勝歩調に移っている亊実に照らして明瞭であります。
【結論】要するに、養殖真珠の輸出を盛んにし、外貨をより多く獲得するには、価格の安定を計り、いわゆる漸落の傾向を未然に防止することである。価格の安定を図るには、業者に簡単にして容易に金融の道が開けること、また融資は確実に返済出来ることは過去において証明している。言い換えれば、特別融資による相場の平漸、即ち輸出振興策であるとの結論が生まれてくる次第であります。
これらの事情を検討の上、速やかに特別融資の道が開けるようお願い致す次第であります。
日本真珠振興会
日本真珠輸出組合
協同組合日本真珠交換会
以上、第二回目の融資が成功したことにより三輪豊照氏の真珠業界における存在は、弥が上にも高められた。その結果、日本真珠の養殖事業は、目ざましい発展をとげ、昭和三十二年に到っては「日本真珠祭り」を敢行して不良品を海に投げ捨てる実演を敢行するなど日本真珠業界の歴史を飾ったのであるが、三輪氏は昭和三十三年五月、六十五才を最後に他界され惜しまれている。

ヤミ物資の第三期的症状時代
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミの時代

《昭和二十年》 終戦後の日本の社会状況を概括すると、昭和二十年の終戦時を契機にし
て、その年の十一月頃から、物ごとの動きが始められたと見ていいようだ。
だから昭和二十年の暮は、これまで経験したことのない淋しい越年であったわけである。つまり、正月という明日への光明も持ちえない哀れな状況下であったからである。だから正月の元旦だからといって、正月らしい風景もなければ又そういう気持にもなれなかったものである。
然しヤミ物資の動きのお陰で細々ながらではあったが、オトソとお餅という程度で正月気分を味わうことが出来たという情景だったのである。ただし、この程度は良い方の生活環境であったと見たいもの。従ってこの頃を過ぎてからは、何ごとにつけても物の動きにはヤミというものが付きものになっていったわけである。
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミということで動くようになっていたのであるから、勢い業界関係の商品の動きについても、総てヤミ値がついて回っていたのである。それらを終戦後第二期の頃といえばいえるのであろう。このような状況は、昭和二十五年頃まで続いたといっていいだろう。
つまり、ヤミ時代の中期とでもいえようか。誰もかもヤミという気分には馴れて来ていた。昭和二十六年頃からはその第三期という頃合いになる。

輸入時計業者団体「輸入時計業者懇和会」を設立した
有力な輸入業者13社を集めて

《昭和二十七年》 昭和二十七年頃になってからは、時計の購買力がだんだん伸びていったように見られていた時だ。然しヤミ時計の市場進出は、依然として低まってはいないようだったので私は考えてみた。
如何に敗戦したからとはいえ、何時までもヤミ時代そのままの状態であってはよくない。時計界の改善のためにも、必要な範囲の時計の輸入量は認めさすべきであると決断がついたので、さっそく私はその面の活動に移ることにした。
その最初の段階として企画したのは、第一に時計の輸入を行っている業者を集め、業種団体を作ることであると考えた。そこで業界のメンバーを一応調査した上で、昭和二十七年六月七日を期してスイス時計の輸入をしている業者に対して「輸入時計業者懇和会」開催の案内を出した。そして上野・精養軒に集合してもらった。
この日集まったメンバーは、当時の大手輸入業者の椛蜻商会(岩沙、増田)、日本デスコ梶i加藤)、ヘラルド・コーポレーション梶i草日)、潟Xイコ(鹿野)、シーべルヘグナー梶i小倉)、リーべルマン・ウェルシュリー・カンパニー梶i亀田)、樺央時計商会(肥田)、平和堂貿易梶i高木)、竃x田時計店(小田切)、潟Vュルテス商会、太洋貿易梶A相互貿易梶Aシュリロ貿易鞄凾ナあったと記億している。
会談の結果は、私の抱いていた時計の輸入許可陳情運動を起こして、広く時計業界に認知してもらうという点で一同賛意を表してもらい「日本輸入時計懇話会」なるものの団体の設立にこぎつけた。確かこの席に小売業者を代表して、銀座の金山重盛さんも参加してもらった。
国内における時計の需要は、月間ザット六十万個ぐらいと予想されていた。ところが、この頃、国内における腕時計の生産量は、次のような状況が記録されていた。

昭和二十七年:百二十一万個
昭和二十八年:百六十一万個
昭和二十九年:二百万個
昭和三十年年:二百二十四万個

輸入時計懇和会が設立されてからは、事業活動のために1ヵ月二千円宛の会費を徴収して会の運営を行った。そしてその結果、日本の時計界では有史以来始めての輸入時計の大展示会を開催することに決め、一切の企画は私の手で進めることになったのである。写真は当時の有力な輸入業者の顔ぶれ。

日本初の「輸入時計大展示会」を開催した
東京・銀座の松屋デパートの七階で

《昭和二十八年》 以上のような経緯によって、輸入時計を正規のルートによる輸入を促進するという意味から、輸入業者団体の懇話会の設立を見ることになった。
その翌年の昭和二十八年六月六日より十五日間に亘って、東京・銀座の松屋デパートの七階で「輸入時計大展示会 」を開催した。最初の計画では、会場を日本橋の三越にしたいと
思って交渉したのだが、時間的な関係でうまく行かなかったのである。
銀座・松坂屋の選定には、金山重盛さんの協力も大いに役立っていた。とにかくこの計画は図に当った。何故ならば日本で輸入時計専門の展示会を開いた例は、一度もなかったのである。私が神戸、大阪方面をとび廻って輸入関係業者とは、既に四十年を過ぎる深い馴染を持っていたが、その間にも一度の催しを見たことがない。それに又、戦後の混乱期の中にあった頃だっただけに、この計画は大成功した。
従って、この時の展示会に参加した企業は、服部時計店、シチズン時計等の国産メーカーを始め、輸入時計を取り扱う全商社が参加、盛況を収めた。
六月六日の開場式当日は、スイス公使(この頃は公使館)が出席して祝辞をのべられたので一段と意義づけた。そして六日間の期間は大過なく済んだ。このときの展示会の光景をカラー印刷にして、日本の全業界はもち論のこと、スイスの全メーカーにまで本紙(時計美術宝飾新聞)を通して宣伝したので、日本の時計界の存在がいやが上にも光彩を放ったことはいうまでもない。だから本社に宛てて数々の賛辞が寄せられた。

「輸入時計大展示会 」に協賛した当時の15の商社名

大展示会への出品商社名は次の通り。
太洋貿易KK(ラコー・ブライドリング、)ヘラルド・コーポレーション(エニカ、オレオール、ドクサ、ウイトナー、バルカン、マーテイ、チソッ卜、モリス、インビクター)、 オメガ・サービスステーション、天賞堂、平和堂貿易KK(ウォルサム他)、服部時計店輸入部(ロンジン)、大沢商会(モバード)、シチズン商事KK(ミドー、セーフト)、シュリロ貿易KK(インターナチョナル、シーマ、ナルダン、サンドーズ、ギラード、ポールビューレ)、中央時計商会(ブローバ)、KKスイコ(ウイラー、エキセルシヤパーク)、デスコドシユルテス商会(オーデマ・ピケ.エテルナ、ホイヤー、グレドス、コラル、チユガリス、サーティナ、エンヂュラス、ルービング)、リーベルマン、ウエルシユリー商会(ロレ
ックス、マービン)、日光商会(ユニバーサル、ウエコ)、相互貿易KK(ウオッチ・マスクー)。写真は、銀座の松屋デパートの七階で行われた「輸入時計大展示会 」の会場入り口とスイス公使が祝辞を述べているところ。右側が本紙の藤井勇二社長。



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