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昭和三十三年に法人メンバーで「時計新聞法人協会」を設立
戦後の時計・宝飾専門紙群の動き

《昭和三十三年》 前述しておいたように時計・宝飾専門紙が終戦後に復活したのは昭和二十二年の頃からであるが、それが昭和三十六年の東京時眼小売猖組の理事長戦の時代になった頃は十数社にも及んでいたようである。もっともこれは在京の分だけで、大阪、中国、四国、九州方面のローカル紙を加えると二十四社にも達していたことがあった。
そんな中の一つに時計宝石専門紙群が続出していた昭和三十年の頃、時計専門新聞協会なるものを設立したことがある。このときのメンバーは、早川、藤松、染谷、岡崎、黒崎、高橋、江種(兄弟)、山下、黒川、清田、佐藤、安倍、加納、辻、鈴木、菱田、保坂、山口、吉田の諸氏。
それに組合広報の島君を加えた計二十四社位であったように記憶する。そして東京と大阪、四国の各地で懇親会を開催した後、物議が生じてこれを機に解散となった。
この頃の専門紙群の数が終戦後では最も多かったようである。それからあとで新設した団体は、骨筋の通ったものにしようではないかということで、法人組織の新聞社により設立した。昭和三十三年に次のメンバーで「時計新聞法人協会」を設立して今日に到っている。
当時の会員は、時計美術宝飾(藤井勇二)日本貴金属(染谷)、時計貴金属(岡崎)、中部時計(加納)、大阪時計(辻)の五社。本部は当社において、幹事は各社持ち回りの交替制に規定した。

時計安売り時代の頃の状況
売値九十銭位の置時計をつけても利益が上がった時代

《昭和二年》 時計の廉売・乱売という問題をやかましくいっているが、これは景気が悪くなった頃に起きる商業上の自然現象である。
廉売だ、乱売だというが、時計の販売価格というものは、戦前の頃には正札制などという制度はなかったから、各店それぞれ自由に仕入値段に自店の利益を乗せて計算、それを掛けた価格が即ち店頭掲示価格となっていたのである。だからAの時計店の店員は、Bのお店の値段をソットのぞき見てまわり、自店の価格と比較して直すというケースのものであった。従ってサービス企画などを実施する時期になってくると、先づは腕時計のガラス入れ替えは無料、修理や時計の具合見なども無料に奉仕するというのが多かった。その上の競争状態の時は、戦前は九十銭程度であった目覚まし時計を買い上げた人に無償進呈という方法など行っていたのが諸々であった。
もっともその頃の時計を買上げのお客さんには、売値九十銭位の置時計をつけても利益面では大いに儲けがあったからである。だからこのサービス用に備えるために目覚時計を時計卸商が発行するカタログに提示されるのが目立っていた。要するに安ければいいというねらいの品物であったから安物の価格品は引つぱり凧といった時代であったわけ。
最近の頃とは情況が違うが、出来るだけ安売りをしない方針の服部時計店でさえ、目覚時計などが滞貨したときには、大阪の今岡時計店気付けで荷箱がドット送りつけられたものだ。元気な時代の今岡芳太郎社長曰く。商売というものは仕方がないよ、服部社長でも会談したその瞬間に、「どうだ今岡君、五万個の目覚があるが」といった話を聞かしていた頃の時代であったのだ。
昭和二年頃から七年に到る頃の景気は、特に悪かったものだ。それだけに時計の安売りなどは到るところに出現していた。その中でも大阪の小売店・中西白牡丹など当事は日本中での安売り王であったかも知れない。その中西さんが戦争が終わってから組合会議の席上で、「安売はダメですよ」と積極的な意見を吐露したことがある。そのように安売り戦法だけでは店の繁栄は絶対に成立つものではないことを証明しえたのである。だがこの戦前の頃はお宝(通貨)が特に貴重な時代であったのだから、薄利多売という式の商売が案外表面に打出されていたのである。

ダイヤモンドのシンジケート デビアス社が日本で本格的な宣伝を開始
日本で本格的なダイヤモンド文化が生まれる時代

《昭和二十五年》 貴金属ブーム時代の波にのって時計と宝飾品業界は、金地金の動きと共に宝石類の消費事情についても極度に注目するようになっており、寧ろ競争激化が予想される傾向さえ見られた。
ダイヤモンドの産地である兩アフリカを中心に、南ア地方産出のダイヤモンドは、オランダ、ベルギー、イスラエルなどの研磨業者の手を経て英国のダイヤモンド・シンジケート団に納入される規制になっているという。だがこの中の一定量は、オランダとイスラエル等それぞれの加工国直接のルートで輸入されるダイヤモンドルースもあるという。
日本の宝飾ブーム時代に注目している業者筋の売込みがここ数年間急ピッチで強化されている。英国のダイヤモンド・シンジケートであるデビアス社が日本への売込みを目がけて、既に一部PRに着手しているなどは、日本の宝飾業界が世界的な視線に浮かんでいるという事実を裏付ける一面でもある。
ダイヤモンドの大手サプライヤーのデビアス、コンソリデーデッド、マインズ・リミテッドという会社は、日本市場に上陸し、正式に販売活動を展開し始めた。なおこのような業界情勢の変化から、既にダイヤモンドの卸販売に踏み切った時計業界の中の商社もあり、激しい変転ぶりを見せている。時計の卸企業でダイヤモンドを堂々と取扱っている向には次の各社がある。
☆日東貿易梶i川上一男社長)、☆平和堂貿易梶i高木克二社長)、椛蜻商会宝石部(大沢善次会長)、椛セ洋商会(山崎三男雄社長)。

世界中から注目される『日銀ダイヤモンド』の処理方法
ダイヤモンドの総量約百五十万個(十六万一千カラット)

《昭和二十五年》 世界第二次大戦を通じて世界の人の眼に止まっているのは、日本銀行か持っていたダイヤモンドの総量約百五十万個(十六万一千カラット)で日本銀行の地下室に埋もれており、その処分がどうするかというニュースがもてはやされていた。
この日銀ダイヤは、戦時中に戦争物資に必要であるからということで、民間が所有するダイヤモンド一カラットを平均単価二千円で買上げたというもの。これは物資活用協会の事業として時計宝石業者らがその買い上げに協力したものである。
その結果、戦争が終ったあとの昭和二十五年に米国占領冢の手で押収されたまま保管してあったものだ。その中には、十八カラットダイヤモンド一個の大きさで一千万円もするというので、この日銀ダイヤモンドの処分について日本人はおろか、世界中のダイヤモンドディーラーの注視の的となっていた。
昭和二十一年の頃には、戦争中の隠匿物資摘発またはそれに協力したものには、二割の褒章金を出す規定になっていたので、その報償金をねらって大阪の某学校関係者が占領軍当局に密告したものがあるという噂まで飛び出した。(その摘発者は所轄の警察署に留置中に死亡して終ったという)。この日銀ダイヤには、このような事情が存在、けんけんごうたる騒ぎを起こしている。
そのような中で、占領軍に接収され、かつ占領物資として保管するに当り、そのダイヤモンドに対する品質鑑定が行なわれた。この鑑定に立会った人は米軍関係の二人と、宝飾品業界の権威者と謳われた日本人では、宝石業者巽商店社長の巽忠春氏、当時の宝石鑑定家の松井英一氏、と宝石学者の久米武夫氏の計五人であった。
そしてこれらの鑑定が前後三回にわたり行なわれており、その都度鑑定評価が変っているのに国会筋では、「いんちきではないか」などの疑惑を抱いた議員筋がいたそうだ。
この点で昭和四十年十月二十三日、大蔵省の国有財産管理局長室(桜井局長)で民間人各代表者との懇談会を開いた席上で、当時の巽忠春氏は鑑定した当時の状況についてハッキリ言明したという。それは、「最初に鑑定した時は占碩物資として押収されるであろうという見込みのために、賠償金の一部に当てるのなら高い方がよかろうという日本人的気持が手伝っていたから」、第二回目の時の鑑定は、「その時代の価格に基づいて評価をした、と世情に応じて行なったもので、宝石業者が個々の立場で自らの営業上有利に導くための偽作?ではないかという誤った判断は迷惑である」といい切ったという。この日この席に立会っていた人でこのことを聞いていた某氏は巽氏のいうごとくであり、堂々たる所信であったと説明していたと報告している。
このような関係と経過をもって日銀地下室の倉庫に保管してあった十六万一千カラット余りのダイヤモンドは昭和四十一年の秋ごろから売り出されることになり、そのための評価鑑定が次の年の三月から実施されている。
果してどのぐらいの額に売上げられるかは、売り始めてから何年も経たなければ判然としない問題であるが、これこそは世紀の興味であるといわれ注目を集めていた。
(註)保管中の日銀ダイヤは総数ざっと百五十万個で十六万一千カラット。品質別では、十八・四四カラットという大きいダイヤモンドが一個あり、この価格は約一千万円もするのであるが、また小さいダイヤモンドもあり雑多。大位五千カラット位は、工業用ダイヤモンドと低品質なものもあり、装飾用のほとんどは五分の一サイズ(二十%)四分の一サイズ(二十五%)、三分の一サイズ(三個石)、半カラット、一カラットなどがこれらに次ぎ、二キャラ、三キャラ台は、極めて少ない。
この日銀ダイヤモンド処分に関する経過亊情について、宝飾業界側の見解を一本に絞っておく必要があるという見地から、昭和四十一年二月十一日東京・浜町の紙工会館でこの間の事情通である全国宝石商卸商組合の理事長である大平吉蔵氏を囲む会を開いて説明会を聞いた。その席上で、大平氏はこれらの内容にふれて的確に述べていた。査定の概要は、明治か大正時代の日本人がダイヤモンド知識に薄い時代に入荷したダイヤモンドを中心に集めてあったのだから、品質は比較的低級のもので、通例一カラットニ十万円が現在の価格だとすると、保管中のダイヤは五万円程度にしか通用しないものだと言っている。果たしてどの程度までの価格になるか、まさに世紀の興味深いところである。
写真は当時の日銀ダイヤモンドの鑑定をしているところ。

明治・大正・昭和三世代史 後編
昭和初期における時計・宝飾業界の現況

《昭和三十年から三十五年頃》 明治、大正、昭和の三世代に跨がる時計・宝飾業界の動きを中心に絡めてきたが、四十有余年にも亘る長い期間の出来事が浮かんでくるので各業界のことなど複雑多岐に及ぶものになった。しかし業界の公知に属する範囲のものは、大体において記述したことになるが、業界の動きの中には筆者自身が登場する機会が案外多く、見方によって本編は著述者の自叙伝的なものという考え方をする人があるかも知れない。しかし、そのように私の業界における活動状態は、他の人が想像する以上に多面に及んでいたのであった為、これを取り去ることは生きた記述をしていこうという望みからでは当を得ないことになる。従ってこの点ご諒承願う次第である。

然して本編記述の後半、昭和世代の巻では、昭和の前記(戦争前)、中期(戦争中)、後期(終戦後)の三区間に大別しているが、その中の後期、終戦後について分類すると、終戦後のドサクサ時代を前段に、世の中が殆ど平静化されて来た昭和三十年から三十五年頃からの動きを後編に分けることが記述上妥当ではないかと想定している。その意味では昭和
三十六年当時、わが社主幹のもとで東南アジア各国業界視察団を編成したことなどは、後編期としての動きの中ではその始まりの頃だと言っていいようだ。以下この頃からの業界の概況を記し、結論編としてまとめることにする。

超インフレ傾向の中で、時計や宝石が良く売れた
昭和三十六年頃からの業界情勢

《昭和三十六年》 昭和三十六年当時の総理大臣は、自民党政権の時代で池田勇人氏が就任していた。池田総理は、かって大蔵大臣をつとめた時代に「中小企業者の五人や十人が仮りに死ぬようなことがあっても止むを得ない」という演説をしたことで責任をとり辞任させられたことのある人だ。だから経済的には極端な膨張政策を執る型の人であった。
それだからこの時代の政府予算の編成ぶりは、超インフレ傾向を示していた。従って神武景気、原始景気だと煽った鳩山内閣時代のあとを継いで、それ岩戸景気だ、鍋底景気だなどと、毎年その予算の組替えの度に特殊なゼスチュアを織り込んだものである。
それによって超膨大な融資政策が採られていったので、企業界では無制限な投融資政策がとられたことから、遂にはインフレ的な気運が街にあふれた時代であった。
その中の一例であるが、この頃の企業の景気と来たら当るべからずだった。従って熱海温泉などに遊ぶ団体客の支払勘定に到るまでもが約手払いといった時代になってしまった。それほどまでも超インフレ型が拡大されていったのである。
だからこの結果、消費景気は満点ということになり、それだけに時計類を含めて身辺装飾用品はすごい売行きを見せたのである。従って時計界でもご多分にもれず好景気の波に乗っていったので、「売れるだけ作れ」という機運になった。
いうなれば、羽が生えて飛ぶように売れた時代はこの頃のことだといっていいと思う。

温泉地への招待旅行などで仕入れ数量を煽った
時計界の景気のいい頃の販売情況

《昭和三十六年》 時計の生産数字が示すように、生産数量が年々増え始める現象は、俗にいう業界の好景気を意味していたことになる。しかも時計メーカー筋では、好況の余波を利用して、生産設備の改善点では超新鋭型の機械の導入を行うなど、スイス製の時計に比べても引けを取らないほどの精度を上昇させることが出来たのである。従って国産時計の中では、それらも加味して時計はますます売れたのである。
この頃の好景気を反映した現象といえば、時計の卸売り業者達は、本社ビルの建設ラッシュが目立ってきた。そしてまた販売政策についても、取引先に対するサービスの良化が案出されるようになって来た。
特に派手だったのは、シチズン時計特約店の栄商会が催した熱海温泉への豪華招待。更には九州めぐり別府温泉招待、札幌の定山渓温泉招待というようなもの。それにその度ごとに数百人を招いて実施したのだから有名になった。これなどは取引販路拡張に対する積極的戦略の現われであったとみる向もあったようであるが、何はともあれ、“売れば売るだけ儲かった”というような時代であったのだから、かくは大々的に招待サービスなど行なわれたのであろう。
だからこの頃は、時計に伴って、貴金属指輪類もだんだんに売れ行きを増し始めていた。特に時計バンド業界では、“旧式の型より新型へ”という時代に代りつつあり、それにライターなどもガスライターの発明品の登場で極端に新製品が需要者の眼をひくようになっていった。いわゆる喫煙具業界までもが誕生、商売の拡大に役立ったことになる。いうなれば業界の関係品は何でも売れるという時代であったのである。しかしそれらの絶対的な好景気の状況など、そう何日までも続くものではないという時代がやって来た。

昭和三十九年に打出した政府施策の金融引き締めの打撃
到るところに廉売、乱売という事態が発生した

《昭和三十九年》 昭和三十九年度の政府予算は、三兆三千億円を突破するという依然たる超膨大型予算ではあった。政府の金融指導部の任にある日銀当局は、この年から金融の引きしめ政策を打出した。そして金利引上げといった策をも打つことにしたのである。だからこの日銀政策によって打撃を蒙ったのは企業者であった。基本的な資本力を持たない企業筋は、貸出し防止という銀行側の警戒的新方針のため、俄然窮乏の状態に転化する向さえ現われたのである。遂にこの年から大、中、小企業者の各方面に倒産数字を現示するようになり、それが昭和四十年に到っても引き続き増加の傾向を見せていたのだ。いわゆる池田内閣時代のインフレの尻ぬぐい経済政策が旆行されたということになったのである。従って昭和四十年度に入ってからの消費景気は、極喘に生産者筋を恐慌せしめたのは事実である。
だから時計業界においても、これらによる結果の悪現象が見られていた。つまり、生産品の消化に障害となったのだから、滞貨品の処分的販売時代がやって来たという情勢に立到ったのである。その結果の現象は、到るところに廉売、乱売という事態が発しており、この点で地域によってはもの凄いまでに業者間のあつれきなどがあり、案ぜしめられたものであった。

スーパーマーケットやデスカウンターなど新しい販売店が出現
昭和三十九年の頃 安売り合戦が最高潮に

《昭和三十九年》 景気が悪くなって来たから物を売って利益を上げ、それによって不景気を補おうというねらいから、商品を安く提供するという方法に変って来たことは必然のことだ。それが、それぞれの方面で同じようなコースをとるものが現れて来た結果、またその上をいこうとするところに、競争の激化が生れることになったのである。
時計業界の場合は、二割引き販売が平常のものというようにいうに「安売り合戦」という形で登場してきた。
このような時代に突如飛び出して来たのは、既に十数年の間の低価格戦略という実績をもつ「スーパーマーケット」や「デスカウンター」というような新しい販売店が出現、これらの店では二割、三割引き販売は常道のように宣伝されており、問題をかもしたのであったが、このことは時代の生んだ止むをえない状態であったのであろうか、それらの安売りよりも更に恐威となったのは、滞貨商品の投げ売りによる弊害から来た激烈な割り引き販売であった。市価の五割引き販売を公然と実施しているのだから措置なしというもの、時代の悪性化をはらんでいる向さえあった時代となったのである。

時計卸企業間で多彩な招待旅行が盛んに
海外への招待プランを考えている企業が増えて来た

《昭和三十九年》 景気の悪い時代にはサービスを増して販売を伸ばそうという企画がはやった。兎に角、販売とそのサービス方法が大型化してきた。時代感覚が一転してサービス招待に組まれる温泉招待などの方法は古い、という見方からであろうが、昭和三十九年四月から貿易の自由化が始まり、時計の卸商社らは、販売店を海外へ招待するプランを考えている企業が増えて来た。
招待先は、香港に始まり、東南アジア、ヨーロッパ、ハワイといったコース。更にヨーロッパを巡回した後、アメリカにまで足を伸ばすという超大型招待までも現れた。時計界もロケットの打ち上げ時代に適合した宇宙への招待という線に近づいたような気がする。



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