※写真をクリックで拡大します。
Home

「日本美術工芸品輸出株式会社」の創立経過
全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じく

《昭和十六年》 聖戦既二四年ヲ閲シ我皇国ハ大東亜建設ノ理想実現ノ為メー高度ノ国防体制ノ確立ヲ婀シソノ国策ノ基調ハ声明セラレ各種産業ハ業種別二凡テ公益先ノ理念ノ下二統制アル団体ヲ整へ以テ新体制二順応シツツアリ。
我業界二於テモ構想ヲ新ニシテ激動ノ渦中ニアル業者ヲ扶ケ輸出事業二全力ヲ尽サシメテ海外新市場ノ開拓ヲ図り併圜外貨ノ得得ヲ期セントス。
日本美術工芸品輸出株式会社ハ上記ノ趣旨二基キ政府指導ノ下二社団人金銀製品商連盟ヲ母体トシ関係有志ニヨリ設立シタルモノニシテ洽ク之ヲ公開シテ業界ノ進展二資セン亊ヲ期ス。
以上の趣旨によって輸出会社が創設することになった。その議の起ったのは昭和十五年八月二十九日に役員会を開いた席上で、然も全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じくしている。

郷安会長が、昭和十八年六月に連合会の会長を辞任する旨表明
金銀連盟の解散と清算

《昭和十六年》 理想と現実は、常にマッチし難いものであるという実態がここに現示されるようになった。即ち、金銀製品商連盟としての事業は、国策的見地から理想的に進められてきたが、それを基盤に一歩進めた全国組織の統一、日本美術工芸品輸出KKの設立問題などが生れて来た派生条項を中心に、業界方面からはいろいろな批判が投げられるようになってきたのである。このような雰囲気に堪え難い感情に包まれていた会長の東郷安氏は、昭和十八年六月の連盟役員会の席上で、連盟と共に連合会の会長を辞任する旨表明した。遂に十八年七月二十四日の役員会において連盟の解散が議決されるに及んで、連合会も自然消滅の運命を辿ることになった。
以上のような時の状勢から第五回目の上海出荷を最後に金銀連盟の事業は創設の使命に対して終止符を打つことになった。連盟は、ここに有終の美を遂ぐる如かすとの結論に到達したのである。解散に関する一切の処理は、八月二日解散許可申請書を大竹商工両大巨に提出、八月二十五日解散許可の指令に接し終幕となっている。解散時の管理と清算状況は次の通りである。
一、銀行預金=約 一、九〇七、〇〇〇円
二、見本商品その他の資産=三〇、〇〇〇円
三、借入金ナシ
江藤順蔵、梶田久治郎、久米武夫、原清、中里治三郎、▽窩柯暦造▽矢板玄蕃(▽印は代表清算人)の諸氏が決定せられ、当局より解散許可せられるや直ちに清算人の登記、解散の公告、基本金の返済委託商品の返品、推定債務の支払等予定通りに清算事務を進捗せしめ、十一月十八日解散公告期満了、期間中新規債権の申出もなく清算も滞りなく終了、その剰余財産の処理については、主管当局の指示に依り左の通り処分を了して竝に光輝ある終幕を告げたのである。
一、財団法入財政金融会へ寄付=五〇〇、〇〇〇、〇〇円
二、社団法人金銀運営会へ寄付=一、二〇五、〇〇〇、〇〇円
三、預金及現金以外の資産は一括して社団法人金銀運営会へ寄付
四、桐友会及桐花報国会へ 各一万円寄付
斯くして連盟の最後を飾る解散式は、諸般の準備を終り、九月二十一日麹町丸ノ内大東亜会館に於いて関係官民百数十名が列席して厳粛に挙行された。
足掛け五年、丸四年の極めて短い存在に過ぎない連盟ではあったが、その間、金に関する国策に順応して政府の施策に寄与し、支那事変に始まって大東亜戦争に到るまで前述の業績が示す如く、業者提供の金製品の活用によって、職域奉公の実を挙げ得たものである。解散時に際し、連盟は大蔵大臣より感謝状を授与せられた光栄に浴した。目的を果たして解散式

日本美術工芸品輸出社の創立発起人
会社の事業目論見書

《昭和十六年》 一、本会社(日本美術工芸品輸出株式会社卜称ス、ニ、本会社(資本金五万円(一株五抬円)壱千株トシ第壱回払込金壱万弐千五百円(一株拾弐円五拾銭)ヲ以テ事業二着手シ必要二応ジ第二回以後ノ払込ヲ行フモノトス(註=後二「資本金拾万円、第四回払込金弐万五予円」卜改ム)、三、本会社(公益優先ノ新体制二則シ組織アル統制ノ下二社団法人金銀製品商連盟ノ蒐集セル商品其他貴金属工芸品ヲ輸出スベク必要ナル事業ヲ行フモノトス(註=後ニ「コノ会社ハ国家ノ輸出統制ノ下二金製商品其他貴金属宝石及美術工芸品ノ製造売買及輸出並二此等二関シ必要ナル事業ヲ行フモノトス」卜改ム)
この会社設立発起入会が開催されるや、引続いて第一回払込を行うという超スピー度ぶりで、創立発起人には次の諸氏があげられた。
▽社団法人金銀製品商連盟=安藤善親、池田嘉吉、生駒権七、岩佐公崑、江藤順蔵、梶彦兵衛、梶田久治郎、亀山米義、久米武夫、越村暁久、小林伝次郎、坂本正造、武藤跌次郎、在間朋次郎、鈴木一郎、関屋延之助、田中淳一郎、東郷安、中里治三郎、中村善太郎、野村菊次郎、土方省吾、丸木真、外園盛吉、松田幸治邱、松山繁三郎、宮本英三、山崎亀吉、山岡清、矢板玄蕃、吉田庄五郎の各氏。
然しここまでは、一応進んでいたが上海及び南方に対する輸出状況と時局の急激な推移がからんで輸出会社の創設必要条件を見ることがなくなり、此の計画は一時留保の形となって越年した。然し、昭和十六年に入って再び此の計画の実行を促し、五月五日、商工省鉱山局、物価局、貿易局の課長級事務官等十数氏が連盟側代表と会談した。
この結果、商工省当局は急速且つ積極的に設立されるよう希望するところがあったので連盟でも一応同調に傾いたが、これに対して商工省当局としては、次の意見を持っていた。つまり、連盟が資材の配給及び業者の指導監督に当ることは結構であるが、輸出の事業目論見は既存商社の権益を阻害する結果ともなる憂いがあるとした。従って連盟としては、まず一商事会社を設立して置くことを良氏として、そうなれば其の業績の如何によっては、商工省公認とする事を考慮することあるべしという意見が述べられた。これによって設立機運は漸次促されたのである。
然し、反面業界の事情もこんがらかるようになって来たことから、結実の運びに到らずしてその侭持越しの形となっていた。そこへ又戦局のかれいさが加わって※だので、十八年七月に到って連盟解散の声があげられるようになり、状勢の変化と共に遂に流産の悲連に終っている。

日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が
金銀連盟の前進体制

《昭和十六年》 戦局は次第に大きくなり、昭和十六年遂に大東亜戦争へと拡大していった。そのおかけで時計業界への打撃はすこぶる大きくなった。この頃、業界に存在する事業団体の種類は、金銀連盟という一体制に限られるようになって終った。だからこの連盟は、業者の手持商品を集めたものの、その処理という段階になって輸出会社を作ることにした。同時に並行して、一本化した全国的組織の組合作りの考え方が浮上してきた。別項参照)
業務の前進という点から考えたのであろう。日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が打出されるようになって来た。然しこうなって来ると、これまでやってきた連盟の事業は、時計貴金属商が持つストック品の処理という目的に重点がおかれていただけに、業者側としては時局性から考えて、新たに設立しようとする日本美術工芸品輸出KKという会社設立の目的は、金銀製品を更に一歩加重した範囲の完全なる新規の事業体になるものだという批判が投けられるようにもなって来た。
業界内部の意見がそのように傾いた状況を取上げたのは、当時の業界紙としては本社がただ一社。もっともこの頃は、既に一、二の業界紙しか存在しない時代でもあった。そんなような空気の中ではあったが、金銀連盟を作り上げたことで強気の波に乗っていた矢板玄審氏と、越村暁久氏の献策が進んでいった。日本美術工芸品輸出KKは、兎に角設立することになった。この会社の設立の記録を参考のため記すことにする。189右下:大蔵大臣から表彰状を授与される服部玄三氏と服部時計店社長

連合会が企図した手持ち商品の展示会を東京美術倶楽部で開く
商工省、大蔵省、警視庁、東京府市市長ら大勢を招いて

《昭和十六年》 商工省からの調査、即ち七・七禁止令による業者手持の巨額な商品の届出に伴い、これを如何に処置すべきかの根本的対策を考究すべき必要が起って来たのは当然である。その一つの方法として連合会が企図したものは業界商品の展示会であった。販売を禁ぜられたあらゆる商品を一個所に陳列、商工省、大蔵省、その他の当局者を招請し、処理に関する適当な指示を仰ぐというのがねらいだった。昭和十六年、一月二十四日、東京美術倶楽部でその展示会を開催した。そしてその席に招請した人達は次の如くである。
(商工省)商工大臣以下二十七名、(大蔵省)大蔵大臣以下十七名、(警視庁)経済保安課長以下八名、(東京府市)府知事以下八名、(その他)東京商工会議所会頭以下十九名、(業界関係者)二十四名。
かくして商品展示会における実情に基づき、昭和十五年二月一日を期して禁止商品処理対策のための協議会が開催された。
商品展示会ノ目的ハ官民相互ノ認識ヲ具体化シテ新進路ヲ見出スコトニアリ。連合会ハ此ノ機ヲ逸セズ加盟団体代表宅ノ手二依り商品別二一貫シタ参考資料ヲ作図シ関係官庁二示シテ処理解決ノ途ヲ見出スベキデアリソレニ向ツテ努力スル。
という東郷連合会長の主張に依って、新たに禁止商品処理対策部会なるものが設けられることになった。その部会の組織に就いては、所属組合関係から委員を選出して小委員会を作る事とし、三十四名の委員が指名された。
また対策部会の活動は、逐次その目的達成の緒に就き、全国業者にとっても大きな期待の的となった。然し、その後において刻々と変化する時局の流れは、余りに慌ただしく、連合会というものの活躍を促がすべき機会にあわずして、年を閲みすことになったので、その間、東郷会長は連盟会長の辞任と共に連合会々長をも辞せられることになった。遂に昭和十八年六月の連盟役委員会において連合会の存否が議題に供せられた結果、当分は存続せしめるということになった。189上:近畿地方の集荷品を日銀に格納する時のスナップ

大東亜戦争へ突入した頃の業界
なし時計、貴金属、眼鏡など資材がなく、すべてが生産中止に

《昭和十六年》 昭和十六年十二月八日に大東亜戦争への突入が宣せられた。それから戦
争が拡大されるや国内の諸事全般が政府の統制命令に絶対的に服さなければならなくなった。この結果、時計、貴金属、付属品、眼鏡等の関連業界は、ともに時局対策につき腐心していたことはいうまでもない。
この頃の業界状況を大別すると、ザットと次のようなものであったといえよう。
@ 時計業界では、メーカーは戦時体制に入っているので生産関係では、資材が割当配給による制限時代であっただけに思うように時計の生産も供給も出来ない。時計の輸入品は既に全面的にストップされ、その上五十円以上の時計は販売禁止という極端な統制令によらねばらない時代となって終っていた。
従って、品物をヤミ売りするにも現品が見つからないという時代になっていたのであるから、召集によって出征する者のために贈る、銭別代りの時計の入手などは特別の方法で品を発見に努めなければならなかった。勿論、値段はヤミ値に決っている。だが品物はそうざらにはなかったものだ。
だから、この頃は古物方面の業者が案外巾をきかせていたということになる。
A 貴金属品は全面的に販売禁止。そのため、時局処理方法として昭和十四年に早くも金銀製品商運盟なるものが設立して活躍している現状である。しかし、それもある程度目的品の回収が進んで来たので、更にその収荷品の処理方法にまで及んで、一部は輸出へ、そして外貨獲得という国策的指線に向って進んだほどである。この頃、代用地金にサンプラチナが利用されていた。
B 時計バンド関係では、全く原料資材使用禁止のために営業は自然的に皆無。ただ、軍需向け受注品として許可された範囲のものだけが、製作且つ配給の線に上っていたという状況であるから、従って組合活動の如きものもなくなっていた。
C 眼鏡業界での関係も資材に関係するものはその如く禁止であった。だからこの頃から白金代用地金として貴金属界に登場してきたニッケルを素材にしたサンプラチナが活用される時代に変っていたのである。
そこでこの頃は、時局対応策に動いていた東京時計同業組合の活躍に期待されていたわけ
である。だが一面、金銀製品商連盟肝いりで設立を進めた「全国時計装身具眼鏡組合連合
会」に対する期待も持たれていたわけである。
だから事業活動はというと、軍需品製作関係以外の部門は存在皆無という状態になっていたのだから、平常時に新聞陣営の活躍などを交えた業界間の活動というものも解消されたことになる。"

「九・一八事件」当時の統制違反騒ぎ
品物が点々と売買された物品に関係した総ての業者連が総検挙された

《昭和十六年》 人間というものは、自由を求めることではどういう風に決め事をしよ
うと自由であるが、余り厳格すぎるとそう何日までも永く続けられるものではない。それらを証するに足る「九・一八事件」というのは、当時の業界人の耳目をそば立てたものである。以下その頃の騒ぎを紹介しよう。
この事件は昭和十五年七月三十日に起きている。当時の事件経過を概述すると、九・一八令によって物品の販売は釘づけされていた。しかし業者側では、品薄のために古物関係のものは売り込みがあれば商人である建前上買い取ることになる。本当は、それがこの頃の統制令に違反することになっていたのである。
この当時の事件の発端は、ある人から買取った白金の古物時計を、また仲間の連中と交換した。つまり、一つの品物が転々と仲間の間を通っていたというわけのものである。この「物資統制令違反」の罪で取締りの網にかかった中に、業者が紛失した白金側の提げ時計があった。それを発見した警視庁の渡辺清刑事の眼に映り、その品物が点々と売買されたものであるかどうかは別として、物品に関係した総ての業者連が別個に違反しているのである、という解釈に立って関係者の総検挙に踏み切ったのである。
この事件は、当時の日刊紙上にも大々的に記載されたので、時計業者間では俄然大騒ぎとなり、その対策本部を当時の時計組合(台東区東黒門町十九)の楼上において、随時取調べ関係の報告にもとづいて協議対策を練ったものである。結果は、東京地裁で数年間を要して解決したべこの白金時計そのものの取扱は、当時の価格釘づけという条項に照せば違反しているということになるのであるが、業者が落したというものを買売したものであるという立証が明らかにされた以上、違反に問われることはないと主張した被告側の弁論が勝利を制し、無罪という結論になったのである。
しかしそれ以来、業者間では自粛が強められたようであったからせめても幸いであったと結論付けた。このことで当時、昼夜を問わず努めた東京時計商工同業組合の職員は、池内直治氏が書記長で、丸太氏が次席、そのあとへ現書記長の青山君が昭和十七年頃入籟したのだ。

全国時計小売り組合が統制経済下の修理料金統一協定を作る
共に配給を許可された修理用ガソリンも

《昭和十七年》 組合活動のことで参考のため特記しておくことがある。それは戦時下に
おける時計業者の最大唯一の収入源であった時計修理料金の統一協定ということである。昭和十七年の頃、時計界は大東亜戦争へ突入した直後のことでもあり、営業上の総てが禁制措置をうけていた。そこで残る収入源は時計の修理という一項だけであるので業者の誰もがこの点に望みをかけていた時である。だから修理という仕事とそれによる収入は時計業者の命脈ともなっていたといっていいだろう。
この修理料金の協定基礎資料の提出について監督官庁である商工省当局から指令が出されたのである。その為、時計組合としては、当然当局のこの指令に応じなければならないのみか、一歩進んで修理用に欠くべからざるガソリンの配給という問題の解決にも特段の腐
心をしなければならなかったのである。そのため東京と名古屋、大阪地区の業界代表者会議を問くことになり、その中間地である愛知県蒲郡の常盤館を会場に定めて開催した。
東京時計組合長の野村菊次郎氏などは私的のことでも余り遠出などしたことのない人であったが、この会議にはわざわざ出向いて行ったのだからその重要性を思わせる。この時の会議に出席したメンバーは次の如く記録されている。(昭和四十年山岡氏回顧録から)。
▲東京組合:野村菊次郎、山岡猪之助、後藤安平、▲横浜組合:五味組合長、▲名古屋組合:恩田茂一、水谷、岡田の三氏、▲大阪組合:生駒氏以下数氏、▲神戸組合:美田組合長らの諸氏。かくしてこの会議で協議した結果の価格表を監督官庁たる商工省商工課に答申したのであるが合せてガソリンの配給方の陳情をも行った。この当時の係官は現在日本時計輸入協会の理事長になっている始関伊平氏(自民党代議士)であり、鏑木事務官邸その幕下に配属され業者側の申請に答えて統制経済下における時計の修理料金についての決定を見たのである。
最近では、この当時の行動を回顧して当の始関さんと会談する機会があるが思い出して苦笑するほどである。これらは正世紀の一大記録といえるものであろう。この修理料金表の決定と共に配給を許可された修理用ガソリンについては、戦時下だっただけに、血の一滴として貴重扱いされていたのはいうまでもない。

東京時計組合が皇軍慰問に、時計修理班を特派
職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた

《昭和十七年》 さらにこの頃、東京時計組合の役員内には、職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた。たしかの梶山平三郎副組長の提唱だったと記憶するが、当時の組合事務所になっていた台東区東黒門町十九番地(現小峰材料店のところで野村組長の家屋)の事務所の楼上で役員会を開かれた時だった。この提案の結果によって、当時の三十六支部の、支部長からそれぞれ希望者を募集することになった。その結果、北支派遣軍慰問班と中支派遣軍慰問班が陸軍省関係の軍属となり、十人が班の編成人頭に指定されたと思う。これに続いて、海軍省の南方派遣軍慰問団も作られることになった。
これの編成には、当時芝支部長の任にあった金山重盛氏が当たった。牛込支部長の金子房太郎氏との接衙ということになったが、金子支部長の代役に奔走した高橋勝吉氏(練馬支部)が活躍した。かくて北支、中支派遣軍時計修理班慰問団の一行は、業者からの見送りをうけて勇躍奉公の任務に就いた後、金山氏を隊長とする南方派遣軍時計修理班の慰問団一行が次の十氏で編成、昭和十七年の九月八日に横須賀港を出発した。
◇隊長:金山重盛(中央支部)、◇副隊長:石川好雄(芝支部)、福田勉、市川彦左衛門、加藤(三田支部)、平塚専夫、清野豊吉(調布支部)、高橋勝治、野沢久次郎(三越修理部長)、熊谷。
一行は昭和十七年九月八日、横須賀港を運送船で出発した。慰問地は、サイパン、ラバール、トラック島を中心に活動した。サイパンまでは七日を要して到着したが、このサイパンの船中で演芸会を開演中、平塚氏は惜しくも病死した。この遺骨を持って一行は、修理班の奉仕に努め回ったものである。
ラバールには昭和十七年十月二十一日、当時猛烈な空襲にあったとき到着した。転じてトラック島には、その月の二十五日に到着したが、この頃は南方面は空中戦で華々しい戦局が報じられていた頃だったので、人心は少しくおじけづいていたようだったと班中の高橋氏は当時を追憶している。
この頃、テニヤン島のクエゼリン環礁の特派員から四十人乗りの潜行艇を持って修理班の転属を要請してきた。そこで、このクエゼリン島に出向くかどうかについて班員の意見がまとまらなかったので、遂に出向くように要望された金山隊長に高橋班員が強い抗議を行なったことになり、遂にケンカ騒動を起したことがある。然しそのクエゼリン島は間もなく全員玉砕したという報告を受け、胸を撫でおろしたそうだ。かくして、一行は昭和十七年十一月二十八日に、横浜港に無事帰港した。

民間所有のダイヤモンド買上品につき陳情したときの経過
輸出に向け外貨獲得の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動を

《昭和十七年》 昭和十八年ともなった頃は、戦争は益々たけなわとなり、大本営の報道官発表で東条英機陸相が内閣総理大臣になった直後であったから更に戦争への熱度が高まったように思えた。
この頃の業界関係は、廃品回収事業も各方面の努力で最高潮を過ぎたようにも思えた時である。組合としての陳情行も、既にこの頃の戦局を眼の前にしては、何がどうなるうと最早進むべき道は一つしかないといったように思えた状勢下であったようである。いうなれば業界関係は総じて「私しや川原の枯れススキ」とでもいった流行歌風調の時代ともなっていたのである。もっとも、この頃は業界の新聞陣営もご多分に漏れずというところ、当局命令で株式組織に改めた時計光学新聞(この頃山木君は退社)と私の社(時計蓄音器興信新聞)の二つだけしか存在していないという淋しい状況であった。
だが、状況をたぐって見ると、この頃関連業界中特に一沫の寂しさを感じていたのはダイヤモンドの取扱い業者であった。昭和十二年当時から、表同きの商取引はやれなくなっていた。その上、戦争状況がだんだんたけなわという状勢に転化して来たので、ダイヤモンドに関する限りは手も足も出ないという状況である。そこで、この頃二、三の有志者間で相談した結果打出したのは、ダイヤモンドの民間所有量の買上げ品を外貨獲得の面へ振向けようという案である。たしか昭和十七年の秋頃のことだと思う。
ある時、三輪真珠工業の三輪豊照社長から私の社に電話があり、ダイヤモンドの買い上げ運動について相談したいから協力してくれというのであった。私の新聞社は、昭和十五年に当局命令によって資本金三万円の株式会社に組織替えをしており、その株主七十五人程の中の一人に三輪さんが加盟していたのだから、それの返事には一も二もなかったのである。勿論、業界のためになることでもあるからということもあり、進んで協力することに決めたのである。
この時の運動方針取決めた会場は、当時日本橋浜町河岸にあった日本橋倶楽部であったと思う。この日の会議に出席していたメンバーは、京都、大阪、名古屋方面からの一流店の顔も見えていたので、全国的な集りだという感じが持てたのだ。
議長には故人となった古川伊三郎氏が就任、正式に陳情運動に対する決議を行ったのである。その席上で私は全員に紹介され、この陳情運動の主軸に活躍する旨依嘱されたのである。それから、その後の対策進行協議のため、当時、日本橋村松町に事業所をおいてあった松本商店の松本松之助社長店の三階に陣取り、連日に亘り、根気よく陳情書作りなどいろいろと協礒したものである。
この時集ったメンバーで覚えているのは、三輪豊照(故人)巽忠春、中島栄一(故人)、伊藤繁(故人)、松本松之助、西川杲(故人)、古川伊三郎(故人)、亀田基一(故人)、水渓直吉(故人)、金田徳治(故人)諸氏であるが、この運動に対する大役を特に私に嘱託したのは、過ぐる昭和十二年の当時、ダイヤモンドの十割課税を悪税として一気に一割までに引き下げに成功した実績を買われてのことだと思う。
その時よりも今回の陳情運動の方がはるかに困難性を帯びていたのである。だが兎に角、民間所有のダイヤモンドの買上げに関する陳情書の仕上げが出来たので、これを商工省の当局側に提出すると共に、更に、買い上げたダイヤモンドの一部と、白金など高級貴金属品を含めたものをまとめて輸出に向け、外貨獲得という線の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動をこれと合せて企画したのである。
これらを吸功させるために、暮も押し詰まった昭和十八年十二月二十八日付で湯島所在の本社内に積まれた一万八千余部に上る陳情書を全国の販売業者に向けて発送、それに調印協力方を求めたのである。暮の二十八日ともいえば誰もかも忘中忘という時であったので、止むなく日頃懇意にしていた梶田久冶郎、谷田賀良俱、荒木虎次郎氏ら業界の各界代表連に立合いを請うて、その実況を写真に撮っておいたのである。これがその時のスナップ。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334353637383940
page:14