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本邦時計界の草創時代
享保二年(約百五十年前)創業の小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高めた

《明冶十六、七年頃》 我国時計業としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)創業になる小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して江戸文化に貢献したのが時計界の始めであろうと言われている。
爾来、小林伝次郎氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内治右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平等があり、小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたものである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式が横浜の山下町に渡来した。
ファーブル・ブラント、コロン、ワーゲン等の輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々に依って、斯次時計の翫味は広められて行き、貴金属と袋物商人がこの部門に割って入り込むようになってきた。明冶十六、七年頃には、既に東京では大小業者取混ぜてΞ百人に無んとしていた。本邦時計界は、其の頃より急激な発展を想わせている。
次に表わした「東京時計繁盛鏡」は、当時の業界情況を知るに充分であろう。

東京時計商工業組合の経過あらまし
物品交換会の中の有志によって、明治二十三年九月に創立されている

《明治二十三年》 日本において「時計商工業組合」を設立した最初は前述してある如く、明治十年に、横浜の居留地に出入していた時計商業人をして時計組合を作らしめたのがそもそもの始祖であることがわかった。東京時計商工業組合は、このころから毎月定期に開催されていた「開時会」なる物品交換会の中の有志連の推挙によって、明治二十三年九月に創立されている。初代組合の頭取は八官町の小林伝次郎氏で、同店支配人の川村義一氏が組合長の代理で一切の相談の役に立っていた。(川村氏在生中の話)
その後の二代目組合長は、新居氏に移り氏の歿後二代目に服部金太郎氏が選ばれている。(明治三十五年頃)爾後約二十年間にわたり服部頭取時代が続いたのだが、大正十二年の
関東大震災後は、実質上は副頭取の大勝堂主槙野辰蔵氏が一切の衝に当っていた。
私が大正十三年六月十日の時の祀念日の街頭宣伝のことで組合名を使用することで諒解を求めに伺った際も、この間の組合事情について、槙野さんが自身の口から話されていたことでも明らかである。
この頃の東京地区の組合の情況は、服部頭取を主体にして東京時計商工業組合は、日本橋や京橋の業者に神田の一部を含めた範囲の約百名そこそこの組合員であり、山の手八地区を含めて別途に設立していた「山の手八組合」(紺野九明治郎氏組合長)は四百名を突破する新興勢力の二分野に分れていたものである。
このような空気がのぞかれていた中で、大正十四年業界全般の希望と相反する立場になった関税問題で台頭した時期を機に、服部さんは組合役員を固辞された。だが然し、このあとも次代を負う新たな頭取も出しえずに引続いていた中に大正十二年の大震災が起き、その後の諸般処理上必要の場に迫られる度合の多くなるに従って各方面から大同団結の声が台頭しだしたということになっている。
そして、大正十四年遂に合同総会を東京・日比谷の松本楼で開催することになったのである。この間、組合最初の創立当時からは約三十年という期間を経過しているが、合同した時の名称は「東京時計商工業組合」と決められ、この時の初代組合長は神田の吉川仙太郎氏(旧市会議員)、副組合長に槙野辰蔵氏がそれぞれ就任している。
そのあと昭和二年の総会で、庶民の代表と呼ばれた銀座の平野蜜三氏が組合長に選ばれることになり、広瀬、荒木の副組合長を並べて三主脳陣を固めたが、この時すでに同業組合への昇格が目指されていた。
かくて、平野組合長時代に同業組合の正式認可を得てから氏は昭和五年の暮、押しつまって病に倒れ他界した。そのあとは野村菊次郎氏の組合長時代が出現して、戦争中の諸般に携わったというのが組合経緯の概要である。

東京時計業組合は明冶二十三年九月の頃できた
同業者間の親睦を図るために時計業者団体がいくつも誕生していた

この提案をキッカケに東京時計業組合がこの時始めて出来ることになった。それは明冶二十三年九月の頃である。
この時の初代頭取(組合長の意)は、小林時計店第二代目の小林伝次郎氏に決り、それから明治二十七年の八月、「東京時計商工業組合」と称号を変えている。
この名称の変更は、時計販売業の外に製造関係者らの総てを包含するための意味ではなかったかと推測される。精工舍は、明治二十四年に大手町で創業している。
この称号変更と同時に、頭取は銀座一丁目にあって時計材料等の輸入商で名の通っていた新井常七氏に変っている。そのあと明治三十四年の頃、服部金太郎氏の頭取時代が生れたのであるが、それから大正十年十一月、服部翁が辞任するまでの約二十年間というものは、そのまま服部金太郎頭取時代が続いた。
服部候が頭取を辞めた大正十年、当時の副頭取であった神田の吉川時計店店主・吉川仙太郎、銀座五丁目の大勝堂店主・椙野辰蔵の二人で、幹事には山崎亀吉、村松市次郎、松田啓太郎、高木清助の諸氏が役員を務め、組合員五十数名で時計組合の船出を切った。
この頃の東京地区には、いくつもの時計業者団体が誕生していた。同業者間の親睦も活発に行われていたようだ。
当時の時計組合。
『本郷時計商友会』
明治三十四年設立、会長=竹内元次郎、副会長=中山孝三郎、幹事=二十名。
『城西時計会』
大正六年、千野善之助氏の提唱により設立されたもの。赤坂、麻布、青山、渋谷地域の時計業者八十名が参集、連合組織を作った。組合長=千野善之助、副組合長=鈴木竜之介。
『神田時計商懇話会』
会長=吉川仙太郎、組合員五十七名。
『小石川時計商組合』(後に東京時計商組合と改称)
組合員七十名、組合長=花沢徳蔵氏が初代、後に伴市五郎氏に代る。
『城北時計商組合』
下谷、浅草地区で立ち上げたもので、吉田庄五郎氏(先代)を組合長に百二十名の組合員を擁し勢力を張っていた。後に野村菊次郎氏に代った頃は本部組合の関係で松井氏が事務的一切の衝に当っていた。
『城南時計睦会(芝)』 
水谷喜代蔵氏が会長となり、七十六名の組合員を擁していた。
『山の手時計商業組合』
四谷、牛込方面の業者を統括しており、百名程度の組合員を有してあり、紺野九次郎氏が組合長で、近藤援三氏が副組合長、会計に四谷の鈴木卯八氏が任じていた強固な団体であった。
『日京時計商組合』
他地区業者団体が合流する時代に、京橋と日本橋の時計を使う業者が提携して日京時計商組合なるものを組織していた。この当時は神田の一部も加わっていた。そのあと東京が一本の組合にまとまってからは銀座方面の業者筋を主体にして作った「十二日会」なる組織が今なお続きている。この十二日会は、業者間の親睦を目的にしたものだけに交換会などを主催し続けていたものである。
以上のように大正十二年頃までは、東京市内に大小の各団体が雑然としていたが、時勢に訴えて大正十三年末の頃、「東京時計業組合連合会」を結成するに至った。理事制をとり、専務理事には新宿三丁目の紺野九次郎氏を推し、常務は花沢徳蔵、垣内亥郎氏で会員は五百余名で新勢力となった。かくて翌大正十四年に至り、小石川組合を除いた他の総てが大同団結を計ることになり、合併総会を日比谷公園の松本楼で開催した。
この時の組合代表は、連合会長に吉川仙太郎、別に檳野辰蔵氏を推し理事十名、監事二名、評議員二十名を選出している。

明治二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った
明治二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った

《明治十四年》 時計王の服部金太郎翁の若かりし頃の活躍した記録は、前述の秘録により一部明らかになったので、服部時計店の生い立ちの頃の情況を既存の文献から拾って簡単に取りまとめることにする。
服部金太郎翁の父喜三郎氏は、名古屋の生れで、維新前に出京、京橋采女町に住み、古道具屋を営んでいたが、かつて借家したことがないというから生活上困窮したというような事例はないようだ。金太郎少年は十三歳から十五歳まで八官町の辻屋という唐物屋に奉公して信用されたが、時計業を志して日本橋上槙町の亀田時計店に奉公し、時計の修繕技術を習おうと努めた
がチャンスを得られず転じて十七歳から十九歳まで下谷の坂田時計店に奉公を続け修繕技術の習得に熱心を傾けた。その頃は物資が殊の外資重扱いされていた時代であったので修繕に努める夜半の灯油代にも神経を使ったものであるという。この坂田時計店は経営に失敗して金太郎翁が十九歳の折に閉店した。その時翁は、主人の困窮に同情して二年間で蓄めた七円の金をそっくりそのまま主人に提供して感謝されたという逸話がある。
それから時計類の買取りをやりながら、これを修繕して売るという腕に覚えのある商売を続けていたので自然に蓄えも増え、東京・京橋采女町に小さな時計店を開業したのが始まりで、これが大服部時計店の創生時代に繋がったのである。時に明治十四年。
従って、これから後の金太郎翁は、昼夜の別なく、不眠不休、文宇通り縦横無尽の活躍を続けて来た途中で、前記遺言書に盛られた若かりし頃の翁の当時の活躍ぶりが記されたのであろう。たまたま銀座へ進出する好機を得たので、業務は隆昌、遂に明治二十三年に到り時計製造の第一歩を染めることになり、同二十四年に到って精工舎工場としての本格的なスタートを切った
のである。これが服部金太郎翁が歩んで来た経路であり、日本時計界を代表する大精工舎が生れた概況でもある。
写真は、今の和光(銀座四丁目角)のところにあった明治時代における銀座四丁目の服部時計店。

明治時代の『東京時計商繁昌鏡』
上野図書館の所蔵、帝都時計界の昔を偲ばせる貴重な資料である

《明治十七年》 これは明治十七年九月十七日の御届書として作られた木版刷りによる当時の東京時計商の全貌を現わしたものである。出版人は、当時浅草の阿部川町百五番地の広瀬光太郎氏と署名されている。これによると時計業界の最古老舗として、伝統を輝やかしい八官町の小林時計店がその勧進元の王様格であるのが知られていた。番付中の時計王といわれた服部金太郎翁の名が最下位にあるは、今昔の感甚だ深きものがある。この表は、上野図書館の所蔵、帝都時計界の昔を偲ばせる貴重な資料である。

平野光雄氏が出版した「東京時計産業功労者たち」と題した書が最も古い
日本の時計業者に関する解説書

《明治十七年》 本邦時計界創設時代に亘る当代記録については、八宮町の小林伝次郎氏の生立ちを最古のものとし、明冶初代に入ってからの金田市平衛、竹内治右衛門、京屋伊和造、小野太一、大野徳三郎、小島房次郎、吉沼又右衛門、それに服部金太郎翁につながる古き記録を追って、いろいろ書きつづられ書簡を見るが、その中で各種の文献から拾い集めたものを以て記録した「東京時計産業功労者たち」と題して出版した平野光雄氏のまとめたものが、この種類では最も精細をつくしている。
#明治十七年版墨摺り、「東京高名時計商繁盛鏡」出版人浅草・安倍川町の広瀬光太郎氏(上野図書館蔵)

日本の時計業が創世した時代
享保二年、小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっている

明治、大正、昭和の三世代にまたがる時計界の史跡を収録しようと思い、そもそもその時計が日本に渡来したのは何時の頃であったのか。
その由来を知るために、あらゆる文献を紐解くのであるが、明らかに記されたものは見当らなかった。享保二年、小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっているところから推して、案外古い時代に時計というものが渡来しているのだということだけは想像出来る。
日本に初めて貿易商館が出来たのは、夊久二年頃で、日本で時計を取扱った最古の商館だというファーブル・ブラント商会を嚆矢とし、次いでコロン商会が開館したと伝えるものもある。また、慶応三年に横浜町通りに時計台が建設されていたというのが、明冶四年版の「新版異人双六」に時計の絵が描かれていることから見て、時計は古くから輪入されたものだという印象が持てる。
本篇では、横浜港が開港したのは、安政六年六月であるから、この頃百一戸の閑村であった横浜町に出来た貿易商館群が、生糸やお茶、機械類に混ざって時計を輸入するようになったその頃からの記録に止めたい。
別頃、池内氏の遺書の中に記されていた明治初期頃の業者の動きの関係から、当時の時計界というものの片燐などが明らかにされたことになる。
それによると、明治十年に横浜の区長であった島田豊寛という人の命により、明治三年から大田町に時計業を始めていた若松冶助氏が初めて「時計商組合」というのを作っている。
この頃、横浜港の貿易商館を通じて、時計の取引をしたものは合わせて三十余名であったと記されており、その業者の中には、東京居住者の名も挙げられているのから推して、時計組合というものの発祥が、この時であるのかも知れないと思える。

関西では明治二十二年「大阪時計製造会社」がはじめ
同社が作る時計は、当時明治大帝に献上した記録が残っている

《明治二十二年》 関西方面における時計製造の初期を記録した「大阪時計製造会社」は、明治二十二年十二月、当時の大阪の時計業者二十一名の出資者で設立された記録がある。
この会社は、資本金二十万円の有限会社で、大阪市の桃谷に時計工場を設け、高木市兵衛氏により設立したものである。同社が作る時計は、当時明治大帝に献上した記録が残っている。
「大阪時計製造会社」は、社長に土生正秦氏を配して営業所は大阪の高麗橋に置いている。
翌明治二十三年に大阪の西成郡川崎村ニー七へ本社を移転した。この時の使用職工数は、三十五名で掛時計の製造を開始し、七月に株式会社に組織を改めている。当時の同社の役員陣は、次の通り。
▽社長:士生正泰、
▽取締役:石原久之助、生駒権七、ダブリュー・オーキン、ピー・アール・チャンキー、エルジュー・シイルグィスター、イー・ヴィグートマン。
かくして同社は、明治三十年に到り技師長のピーエッチ・ウィラー氏のみを残して、外人達の全員が退職することになった。その後、田村金太郎氏が技師長を引受けてから、明治三十三年に資本金を十五万円に減額、三十五年に同社を解散するに至った。
石原製作所は、この時、什器一切ぐるみを金十万円で引き受けて、懐中時計の製造に踏み切ることになったと同社の伝記に記録されている。

愛知県時計製造企業組合員(明治四十年九月現在)
愛知県でもそうそうたるメンバーが揃って時計作りに

組長:
副組長:林市兵衛
評議員:尾張時計、明治時計、高野小太郎、山田鉄治郎、加藤周三郎、小野信次郎、水谷次郎、神谷鶴次郎、安井角左衛門、長谷川与吉、佐藤信太郎、佐藤時計合資会社、水野光太郎、
渡辺国太郎、広瀬朝照、青山勝三郎、吉田耕三、今津菊次郎、杉山吉雄、田中実、小谷才次郎、
野沢一松、本多善吉、梶浦良助(以上)。

精工舎の偉業
明治二十八年、中華民国へ掛時計を輸送したのが輪出の始まり

《明治二十五年》 日本の時計工業の今日の礎石を築いた服部時計店の工場である精工舎の設立者の故服部金太郎翁の業蹟は、今にしてなおかくかくたるものがあり驚嘆する。
服部金太郎翁が成したその間の歴史を紐解けば、株式会社服部時計店は、故服部金太郎翁が明治十四年以来、個人で経営して来ていた事業の一切を承け継いで、大正六年株式会社に改めたもので、精工舎は同社の時計を作る工場として存在している。
精工舎は、明治二十五年五月に設立、東京市本所区石原町に仮工場を設けて始めて掛時計の製造に着手、吉川鶴彦氏を工場長に招聘して、十五、六名の従業員で発足した。同年、掛時計の製造を完成したのに力を得たので動力用機関を設置すべく、監督官庁に許可届けを出したが人数の関係で不許可となり、明治二十七年、現在の本所区石原町(旧柳島町)に移転、七馬力の蒸気動力を使用して操業を続けた。
かくて明治二十八年、中華民国へ掛時計を輸送したのが輪出の嚆矢となっている。明治二十九年に二十二型シリン式懐中時計の製造に着手完成してから、明治三十二、三年に服部金太郎氏は欧米視察に就いた。
帰国後、工場の設備を一新して、ニッケル製目覚し時計類の製造を開始、明治三十五年に角型提げ時計と置き時計の製造を開始、続いて金属製枠つき置き時計の製造を進めた結果、明治三十二年頃から旺盛を極めていた舶来掛時計の駆遂に役立った。明治三十五年九月には、十四サイズ、メリケン式懐中時計を完成、続いて十ニサイズ提時計の制作も進め、「エキセレント」の名称で、明冶四十年以来、帝国大学の卒業生に恩賜時計として授与された光栄の品であり、有名を高めた。
明治三十七年の日露戦争の際は、軍需品の製作に努め、明治三十九年服部金太郎社長は、吉川技師と吉邨支配人を伴って、欧米の著名な工場の視察を行った。帰国してからは、工場内の施設の改善を行い、新型流行品十六型懐中時計の製作に着手、明治四十二年に完成させている。
これを「エンパイヤ」と称し、優秀品として面目を施した。
その後、明冷四十三年に座敷時計、大正三年には十二型女持懐中時計を製作したが、その頃第一次欧州大戦が勃発するに及んでドイツ国からの時計の拒絶をチャンスに東洋諸国はいうに及ばず、豪州、印度、南米、南ア、欧州諸国に向って大量輪出を敢行したのである。
かくして工場内設備の完備と相まって生産高は更に増し、生産品の種類でも、時計に加えて蓄音機、扇風機などの製品の製造にかかわった。
ところがたまたま大正十二年九月一日、関東大震災に遭遇したので工場の総ては灰燼に帰したが、直ちに復旧に着手し、翌十三年三月には、掛時計の製造を開始、同八月には目覚し時計を、続いて各種時計類の製造を開始することになり、早くも災害後二年にして旧態に復するというスピード的努力の結果が示された。
さらに業績は進捗、そのあと続いて、丸型、十型、八型等の腕時計に、十七型懐中時計に合せて、昭和七年に到って最小型の五型腕時計を完成するに到った等のコースである。



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