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スイス製と日本製の時計付属を比較、品質の良否の判断をしている
品質がいいものは高いという認識が薄い

《昭和三十六年》 次に香港を中心にした業界関係の商況について次の各所を訪問、懇談してみた。その時の経過概要を記しておこう。
香港沮庇利街順聊大厦三〇六、華僑行(時計、付属、材料貿易商)ここでは時計バンド、ケース類の製作を行なっており有望視されていた。対談した人は、葉雲泉、梁学源、鸚永洪の諸氏。
香港徳輔道中万宜大厦UG7号、端祥珠宝行(兼松芳氏)
香港銅弾湾百徳新街華登大厦C2座一六、香港島大丸有限公司(尾賀敬次郎氏、近藤抱一氏)
香港皇后大道中公主行五楼四○一六室 克馬洋行(有士文氏)
香港永安人寿大厦八〇〇―五室、呉利洋行 鐘表部経理、劉鏥発(ジョージブロック氏、デー・ドフマン氏)
上の諸氏と会談した中で、中華人の日本の時計および時計付属品製作に関する見解が、特別熱心であることが知らされた。私はこの当時この香港製の金属バンドとケース(側)のサンプルをもらって、それを帰国してから日本のメーカー筋に提供し、香港を中心にした東南アジア各国の情況、その他、今後彼の地に進出する場合の措置と方法、それにPRの必要な諸点につき説明を加えて参考に供した。
また日本製時計の輸出関係についても有望であるという報告を受けたし、また現地人の時計業者が、スイス製と日本製の双方を比較して品質の良否についても判断をしている。だが東南アジア各国の生活状態から推して、品物が上等だから値段の高いのが当然であるという感覚を持つ時代には到っていないようである。それだけに「日本製品の良さは判るが値段が高い」。ではどういう希望があるのか、と聞けば、ズバリ値段を半分にしてくれ、というように、乱暴極まるものだといいたい気分もある。しかし、現地人の見解では、その乱暴さということ自体が問題で、取引という現実の問題になった場合には、売って儲けられるものから、ということの計算関係から勢い値切る必要が生じることになるようだ。
このことに対する良い悪い、または妥当性の当否は別として、東南アジア各国の情勢はそのような状態であったのだという現実感に基づいた観点から、それを理解する必要があろうと思い、記した次第である。
以上が、われら一行が赴いたこの時の視察旅行のねらいの一つでもあったわけである。
かくて、われら一行は香港をあとにいよいよ帰国の途についたのであるが、香港を迴るに当って感じたことは、香港島の空からみた景観は実に素晴らしいという一語につきる
ものである。
従って香港の景観は、空から見た真昼間の香港島は、緑の丘とともに静かな海に育まれている島の美観が映えて、世界の中の三大港の名港という名のふさわしさが感じられた。
写真は、香港競馬場を中心とした市内の景観。

ペナン空港で一時休憩をとり台北空港に
あとは空路日本の羽田空港へ

《昭和三十六年》 香港に飛んでくる途中でペナン空港に一時休憩をしたことがある。ここの空港へ送り迎えのために来ていた現地人の姿を見て思ったのであるが、マニラの空港における日本人に対する感情とは打って違った平和な表情が見られた。
また、台北空港に少憩した時、空港の出口に頑張っているポリスメンに断って空港表の交通整理の状況など見て思ったのだが、台北の温泉郷に行けば、親密な待遇状態に出会えるという日本式に近い特別情緒の味わえる処を持つ台北の空気を眺めて見たのだが、如何にも軍国時代の片影が映り出されていて、感ずる総てのものが強く響いたのは格別であった。
かくして一行は、この台北を飛び立ってからは一路羽田へ、そして空港へ無事安着したのである。だがこの当時の香港では、ヒスイをはじめとして時計宝石、ダイヤモンドに到るまで、まだまだ買ってきて得をしたという感じを持てたのであったが、そのあとの昭和三十八年の秋に、再び香港の街をさまよってみた時の品物の価格は、世の中が変ったのかと思った位に高くなっていたのには驚いた。
特に、香港で魅力となっているヒスイについては、テンデ手が出ない位高くなっていたのである。ここで斷っておくが、香港から日帰り旅行の出来るポルトガル領のマカオには私は行けなかった。だが一行の中の数人が出かけていって公然たる博賭を行い、大いに楽しんできたという報告には接している。
(注)香港旅行にいった場合に楽しいことばかりではない。時には不愉快なこともあった。その実例を参考に記しておこう。われら一行のホテルは、九竜のアスターというホテルであった。その時、団員の一人がボーイに案内されてルームに入って用便をしたときのたった五、六分の間に、懐中物のドル入れの中から、十五万円という現金を抜取られてしまったことがあった。人の心のスキをねらう手の被害事件であるから、旅行者の場合はこの点に特に注意が肝要である。写真は、中共との国境地点、鞍馬州の丘に立つ一行。

数百年に遡る貴金属地金商の由来
日本の最古歴を誇る「徳力屋伝記」‥‥‥‥

この書は、標題したように明治、大正、昭和、三世代に跨る宝飾業界歴史について紐解こうと努めたのであるから、勢い業界の古い事蹟についてはその悉くに及びたい気持で努力してみた。
そこで、宝飾業界の中で最も古歴を有する業者はという点について考察してみたところ、貴金属宝飾業界の歩みの中で貴金属地金商の事蹟の古いことに気がついた。私が大正年代の末頃に地金商であった神田・鍛治町の徳力本店を訪れた当時、徳力本店の大番頭であった石福鉱太郎さんについて、その頃の社会状況などについていろいろの説明を聞かせて貰った。
石福鉱太郎さんという人は、政治性にも富んでおり、なかなか識見豊かな人だっただけに、政治家も、また文豪の士も続々この徳力本店を目がけてやって来たものである。
従って、この当時の石福鉱太郎さんは、“徳力本店の石福さん”としてばかりでなく、社会的にも名声を高めていた人格高潔な士であった。
冬の頃の徳力本店は、店の表の庭にあづま式の茶屋小屋があって、そこに囲炉裏が切られており、大きな釡がかかっていて湯を汲んで茶をたててくれるようになっていた。その茶をすすりながら石福支配人は、次のように語ってくれた。
「徳力屋の発詳は、実に古い歴史があるのだが、果してその説明に足る記録が残されているかどうか、とにかく蔵の中に蔵されてある歴代の資料によって、“徳力屋伝記”を残して貰うよう著述家の矢田挿雲先生に頼んである」と説明された。この話は、今から四十余年前のことである。その当時のことを思い出して、今の鞄ソ力本店社長の鈴木喜兵衛氏に徳力本店小史なるものの公開を所望した結果、本編にまとめることになった次第である。
矢田擇雲先生が苦心してまとめられた「徳力屋伝記」なるものを、ひも解いてみると、数百年にも遡った大昔の頃の徳力屋伝記時代の発祥の伝記の状況が、なお細やかにされていないほど、徳力屋の歴史は古いものである。それだけに大昔の御代に行われた貨幣制度開始と共に、その鋳造時代にからむ金座、銀座または、下金、屑金吹きなどの地金商を営んでいたころからの徳力屋の状況などが推測される。
これらの動きが、当今の貴金属業界の草創時代の在り方であったわけであるから、金地金取扱業者の歴史は、日本最古のものと言われたわけである。
以下は、東京都千代田区神田鍛治町所在の徳力本店の前記徳力小史に基づいて、同店に伝わり来った史跡を綴り、我が国の宝飾貴金属地金業者としての元祖時代についての経路など、紐解くことにした次第である。
【註】 貴金属に用いる金、銀等の地金素材は、一面貨幣用の素材でもあったので、貴金属地金商の発祥の頃の足跡などについて調べてみると、勢いこの時代の貨幣制度とその改変状況などについて解明していかなければ、その間の明分に役立たないことになるという特殊事情が存していることを諒されたい。

通貨制定の最初の頃と地金商混沌の時代
我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである

我国建国以来およそ一千五百年の間は、米綿蚕糸の類を以て物品交換の具としていた。日本の歴史に鐚銭司の役名が現われたのは、人皇第十一代持統天皇の御代であるが、帝の御代に実際鋳銭したか否かは、諸説紛々として判然としない。恐らく、鋳銭司なる官制が創設され、直広肆大麻呂という者が其の長官に任命されたのみで、作業上の設備が整わないため、其まま立消えとなったものらしい。
最もこの頃、伊予の国司、田中の法麻呂が宇和郡御馬山を発堀して、銀を採取したことが正史に見ゆるところから、一方農田の開拓、布綿、絹等の生産増加と相俟って、市場に於ける交換媒介の具として夫れるまで、通用せし三韓貨幣、唐貨幣以外に、我国固有の新貨幣を時代が要求したことは明らかである。
人皇第四十二代、文武天皇の御即位第三年に再び鋳銭司の役を興し、直大肆中巨朝臣意味麻呂を以て其の長官としたが、これまた実際に鋳銭せりとの証跡か無い。尠くとも、今日に伝わる和銭のうちで、「和銅開珍」以上に、古いものは見当らない。
「和銅開珍」は、人皇第四十三代元明天皇の御即位第一年に鋳造されたもので、この事は当時の一大事件であり、我国文明史上の一時期を画する現象でもあった。そのため慶雲四年の年号を「和銅」と改元して、此の一大事件を記念されたほどである。
「和銅開珍」の原料たる銅の地金は、今の埼玉県秩父山中から発堀されたものであるが、発掘者が、之を朝廷に献じたので、ここに始めて鋳銭司の機関が実際に開発するに至ったものだといわれている。其時、朝廷で鋳造された通貨は、独り銅銭のみならず銀貨もあった。これ等の新貨幣は、市場の勃興と並行して其旺盛なる要求を満たすほど豊富では無かったので、僅かに、韓、唐の貨幣と錯綜参差して通用した程度のものであったようだ。
かくの如き有様であったから、金銀は当時早くも社会の各階級から尊ばれ、其の便利と威力とが辺陣の地方まで知れ渡るに至るや、暫く貨幤そのものに憧れるものが強く、遂には密造するものが出来たほどであったから、朝廷は之を厳禁し、犯す者を重罪に処罰したけれど容易に跡を絶たなかった。
其時代に於ける貨幣鋳造取締法として。地金を取り扱う者にまで注意が行届いたか否かは疑問であり、鉱山から採堀した銀鉱、銅鉱が鋳造者の手に渡るまでの経路と、地金商なる職業とが、どれほど密接な関係を保っていたかといふことについても、記録に残すべきものが見当らない。だが、この頃貴金属地金を取り扱う業者が存在しただろうとの推測は出来る。
和銅年間に鋳造された「和銅開珍」以来、人皇第四十七代淳仁天皇の天平宝字四年までの六十一年間に、銭貨の鋳造されたもの十三回、銀貨の鋳造されたもの和銅年間の「和銅開珍」と天平宝字四年の[天平元宝]と二回。金貨は同年の「開基勝宝」が一回あるのみで、即ち、我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである。
天平宝字の鋳貨以後、数百年間は殆んど打絶えて群雄割拠の時代となった。足利義満の豪奢な生活に要した通貨も、多くは支那貿易振興の結果、支那から流入した銅銭であって、国内に生ずる砂金も銀塊もそのままの形状で交易媒介の用を為した。斯くて、群雄割拠時代となるや諸侯は量目、品位それぞれ思い思いの通貨を鋳造して、これを其の領内に発行通用させた。
其頃から徳川時代初期の慶長年間まで鋳造された通貨の重なるものは、山城国の山城子判銀、摂津国の多田紋形小判を初めとし、相模国大磯、小田原、上総国東金、千葉、土浦などに於ける金・銀小判であった。然しこれ等の通貨は一種の私鋳であって、日本国中を通じての幣制が確立したのではなかったのであった。仮りに、この頃地金商が所により見られたとしても、それは普遍的な国法により、統一された所存であるということはできない。
徳川氏が天下を平定して幣制を布き、量目、形状等を画一せる前に、やはり此点に着眼して同様の計画を樹てた者が二人いた。一人は織田信長で、もう一人は豊臣秀吉である。
信長は、人皇第百五代正親町天皇の天正年間に大判小判を鋳造し、秀吉は相ついで半両判、一分判、銀貨の五両判、丁判を鎔造した。共に紀元二千二百三十年代のことである。
惜しむらくは、此両雄は、共に長く天下を保つ能はず、従って幣制統一の大事業も僅かに其黎明を見たばかりで消滅した。又従って地金商の歴史もまだ混沌たる時代を出づること
ができなかった。
本当の意味で我国に統一的幣制を普遍せしめたのは、徳川氏の功である。徳川氏が幣制を確定して、順次官銭を公鋳するに及んでここに初めて地金商は、国法の上で明白に存在を認められ、営業上の権利を保護せられることになったのと同時に、不条理千万な圧迫や干渉をも受けることとなったのである。その状況は後に記述するが、其前に、徳川二百六十年間に於ける、通貨鋳造の歴史をひもといて、通貨政策に現われたる徳川氏の苦心及び失敗の跡を一瞥することとしょう。

幕府二百六十年間の幣制と地金商
幕府時代に鋳造された通貨は、慶長、元禄、宝永等、各年度を通して十一回に及んだ

徳力屋に伝わる旧幕時代の、地金商同業者の記録に拠れば、徳川八代将軍吉宗公が享保中興の政治として、幕政二百六十余年間に於ける最善最良の政治を行った時代に、而かも吉宗自身の鑑識を以て、山田町奉行から抜擢して江戸町奉行に登用し、大岡越前守の名に於て、地金商の営業は初めて安らかに保証させられるようになったのである。其の控え書に曰く「抄出の文書は努めて原文、原字、原形を存ずることを期した。しかし明らかに誤字であり、或は文体から見て余りに難解であったりする箇所だけは、巳むを得ず、平易に書下し、且また字句は読めても意義のわかりにくいような箇所には、私註を施した。これ本篇に在りては、史料そのものの紹介を目的とするのでなく、専ら事実の闡明を目的としたからである」とすべてに之倣ふとしている。
写しに名を残したものは徳力屋:藤七、水戸屋:源左衛門、西川屋:藤七、信濃屋:孫八、日本橋組=亀田屋:惣兵衛、日本橋組=露木又兵衛。
右之者共、今十一日、樽谷与左衛門様御役所へ召出し、下金商売古来之儀御尋ねに、享保年中之控帳写抜き、年中行事浅草組床次郎其の外、六組月行事連印にて差上げ侯。
                              寛政三亥年五月十一日

即ち、此の時、同業者の年番役員たる浅草組床次郎から当局に差出した控帳の写しと云うのは、
写し
         定
一、大岡越前守様  御内寄にて
一、諏訪美濃守様
樽谷藤左衛門様、私共一統召させられ、御吟味之上、下金、屑金吹仲間組合仰付けられ、灘有奉存候。最も其節名主中相添はず罷出で侯。向後隨分入念に判形を取り、下金銀売買可仕事
享保十二年未九月とあり、これで見ると享保十二年の九月、初めて地金商、屑金吹売が一つの組合団体として認められて、同時に組合の組織を命ぜられ営業に関する注意をも言渡されているが、それには幕政時代唯一の名奉行たる大岡越前守が諏訪濃守と共に立合ったのである。恰も、この事があった前年の享保十一年午九月十日には、当局と同業者との問に左の如き交渉があった。
写し
      以書附申上候
一、 ー昨年、十日町中下金屋並に屑金吹、下金買出し之者共に御尋之趣、具に御知らせ
奉り侯事
一、 此度、下金問屋御願申上侯者御座侯に付、我々共商売へ相障り、不申越之趣御尋被遊、難有奉存御亊。
一、 古来より潰金銀買集め、金は金座、銀は銀座へ売払い、並に小売等迄仕上り侯所に宝永五年子ノ三月箔座被仰付、則箔座二軒にて買取小売迄仕侯に、殊の外差支へ下金商売は不及申、諸職人まで難儀至極仕侯に付、御訴訟申上侯得ば、聞召し別けさせられ、翌年丑の三月早速箔座御停止被仰付、古来之通り拙者共商売可仕旨、松野壱収守御番所に於て被為仰付候。
一、 三御番所様御帳面に附置候で商売仕来候。最もこの度の儀は御運上無御座候得共、下金問屋一人に御定披遊侯上は、右箔座同事に下金商売之者この外諸職人商売之障りに罷成候で、渡世仕り難く大勢之者共難儀至極仕候。最も只今迄も下金銀買集候儀、金座銀座に相違無く売払ひ申上侯へば、外に少しも金銀捨て申候は曽で無御座候間、右之段聞召し別けさせられ、何分にも御慈悲を以て唯今まで通り家業仕候やうに奉願上候
  享保十一年午ノ九月十二日
           本銀町三丁目 作 兵 衛  印
           同所四丁目 庄左衛門  印
           繪 物 町 孫 兵 衛  印
           新 石 町 久   七  印
  榑 屋 御役所
とあるから、享保十一年までは同業者に対する、幕府取締の政策が動揺していたことがわかる。右の嘆願書が大岡江戸町奉行の判断材料となって、前掲享保十二年の承認となったのである。
兎も角、享保十二年は、同業者に取りて特筆すべき年である。然らば同乗取締の基礎を為せる徳川時代の通貨鋳造及び通貨制度は如何であったか。
幕府時代に鋳造されし通貨は、慶長、元禄、宝永、正徳、享保、天文、明和、文政、天保、安政、万延の各年度を通して、十一回に及んでいる。
其の額の全部は判明しないが、慶長六年から元禄八年に至る九十余年間に鋳造されし金貨は、小判及び一分金一千四百七十二万七千五十五両、銀貨は丁銀、豆板銀百二十万量目、之を金に換算して二億九千八百二十二万二千余円に当る。外に銅銭も鋳造された。銅銭は四貫文を以て、金貨小判一両と交換され、金貨小判一両は、明治年間の旧金十円六銭に当るのに、銅貨四貫文は四円内外にしか当らなかった。
以上十一回に旦る新貨鋳造の書面に於て、地金同業者に対し、如何なる功罪が行はれたかを調べて見よう。

幕府の幣制と地金商を活用した頃
分銅は悉く軍用金として城内に保存し、「行軍守城用、莫為尋常費」と刻印した

初め豊臣秀吉が、幣制、度量衡制の一大改革を計画するや、一方には盛んに採掘地金の術を奨励して、通貨鋳造の原料を集めることに苦心した。
その結果、沢山の黄金が大阪に蓄積され、元和元年大阪落城の折、徳川家の没収せる黄金が二万八千六十枚、銀が二万四千枚、其外に名高い竹流し分銅の金の方が五十八枚、銀が四百枚あった。一枚の金分銅は、長さ一尺一寸、厚さ七寸、幅九寸八分、重量四十一貫、之を小判の値に換算する時は、一本の金分銅が、凡そ一万三千六百両余に当った。
家康は之を納めて、其内の金分銅一本づつを戦功者たる井伊直孝、藤堂高虎の両名に与え、残る分銅は悉く軍用金として城内に保存し、「行軍守城用、莫為尋常費」と刻印した。
併して、通貨の方だけを改鋳して発行したが、其時の形状は秀吉時代の小判金を四載分せる一歩判であった。これは京都の彫工で金銀改め役(鑑定役)を命ぜられた後藤庄三郎光次が、秀吉時代の通貨の過大にして、通用上、甚だ不便なることを進言せし結果である。
右の改鋳は、慶長六年六月、伏見に設けし銀座と、元禄四年、京都、武蔵、駿河の三ヶ所に設けし金座として作業させた。鋳造所の頭役を大津代官末吉勘兵衛に、下役を後藤光次に命じ、殊に光次をして金質の検定を司らせ、其子孫代々幕府の造幣事務を担当することとなった。末吉勘兵衛は、銀貨不定の為物価の混乱を生じ、又足利時代の切り銀、銀即ち秤量貨幣の品質一定せざるため、市場取引の困難一方ならざる民情を説いて、家康をして幣制統一を決心せしめた功労者である。既に鋳造所成りへ適任者を之に配して、盛んに新貨を発行した。之れ、幕府最初の鋳貨たる慶長小判である。
慶長小判が造られても、足利時代の輸入銭たる永楽銭は毫も信用を失墜せずに取行はれていた。慶長九年ノ水楽銭一体に付、ビタ銭四銭と定めたが、同十三年冬、関東に於ける永楽銭の使用を禁じ、其代り、薄銭を用ふることを命じた。その引替に就て、幕府は何の方法も講じてやらなかったから永楽銭を貯蔵せる町人は大打撃を受けた。
翌十四年、金一両と永楽一貫文との両替を命じ、越えて家光時代に寛永通宝が新鋳されて、是が天下の標準貨幣となる頃までに永楽銭を順次回収して、事実上幣制統一の基礎を簗き上げた。
秀吉時代に産出量の激増する金銀は、家康時代に入りて更に其生産額を増やした。石見国の住人安原伝兵衛なるものが、石見に国に銀山を発見し、幕府の奉行大久保長安をして採堀に当らしめたのも其頃である。
千余人の工夫を雇い、一年に千貫乃至三千六百貫の銀を上納したことがこの頃の書物に見える。大久保長安は、又慶長九年八月、佐渡の金山を視察して前途大に有望なる趣を家康に復命した。家康は石見銀山を毛利氏から、佐渡金山を上杉氏から没収して之を官営とし、盛んに通貨の原料を堀出させた。石見銀山の如きは、毛利家の経営せし時代には僅少の砂銀を出したのみであったが、官営(御料調べ)に帰して後は毎年四千貫の産額を見るようになった。(慶長見聞録から)の著者曰く。幼時の頃、金三十五枚を所持せる者は世に稀な長者として、近隣から羨望されたものであるが、昨今(慶長の晩年)は金五十六両持てる町人も珍らしくないといって驚嘆している。以て通貨の膨張と生活程度の向上とが、如何に急激であったかを知るに足る。
家光の造った「寛永通宝」は、良貨であった為、通用も早かったが、官営怠慢の結果、採算が合わなくなり、漸次減少したので元禄八年に「各国金銀山あらは憚りなく掘らしむべし金銀を掘ることを悼る由聞こゆれば、かく令せらるるなり」との布令を出して、家康以来の私掘禁止を解いた。斯くて貨幣の流通は漸次順調に趣きつつあったが、六代将軍家宣の元禄八年に、時の勘定頭萩原重秀の建策で、改鋳せる元禄鎭は座長金百両に対し、百三両、百十両、遂には百二十両を出しても替ゆるものなきほどの悪貨であった。
慶長金は益々深く隠れて市場に姿を現はさざるにも拘はらず、幕府は論税其他に新鋳貨を以て納るる亊を拒み、強いて旧貨幣を回収し以て五百万両を利した。是れ我国悪貨の魁であると同時に、善良なる地金を駆遂し、良民を駆りて贋造を犯さしめるの風を助長した。前記大阪城に貯蔵せる軍用金も此時通貨の原料に供されて、空しく官民騧奢の資となった。新鋳貨即ち元禄小判の質は純金五分、純銀四分、銅一分、之を旧慶長金、寛永金に比すれば純金四分弱を減じ、其不足を銀及び銅で補へるものであった。悪貨が脈々として良貨を駆遂し、物価を混乱せしめたのみならず、罪人頻出、法令益々悛厳を極め、良質の貯蔵者を物色すること苛酷になって来た。地金商と幕府の幣制とは、此頃がら漸く緊密な関係を保つようになったのである。

元禄悪貨の改鋳された元禄八年から大岡越前守に地金商組合が認定された
貨幣贋造者は、無慮五百四十一人を算する時代に

元禄悪貨の改鋳された元禄八年から地金商同業組合が初めて大岡越前守に依いて、その存立を保証された享保十二年までは、僅々三十二、三年を経たに過ぎぬ、併し一年前の享保十一年には、猶はまだ地金商業者団体に対する幕府の政策が不安定であった所を見ると、比の三十一、二年の間に同業者が個々に追窮されたり疑はれたり、或いは束縛されたり困窮困惑の状など想察に余りある。元禄十一年から享保の直ぐ前の年号の正徳元年まで、都合十三年の短期間に、江戸、京都、大阪、奈良、堺、伏見、山田、新潟、長崎等の幕府料所で捕らえて磔殺の極刑に処せられた貨幣贋造者は、無慮五百四十一人を算するに至った。この中には、日頃から最も深く注意を払はれていた地金商も必ず有ったであろう。勿論、少しばかりのことで嫌疑を受けた者が乱暴な裁判にかけられて死刑の宣告を受けた者もあったろう。いわば享保以前元禄までの三十余年間は、幕府幣制の暗黒時代であり、造幣関係者と一般良民や就中商人にとっては、恐慌時代であったわけ。
其時代に同業組合としての記録が無いのは、以上のような情況から云うまでも無いが個人としての歴史も何一つ伝えられて居ないのはおかしい。
即ち徳力の祖先は、更にこれ以上に遡って居るのであらうことは読めるが、歴史として語るべきものは享保十二年に同業組合が成立して以来の系統であって、徳力屋藤七の名をもって嚆矢とする。ただここに享保以前の悪貨鋳造が如何なる世相を現出せしたかを知るべき一つの面白い史談が残っている。

享保以前の悪貨鋳造が如何なる世相を現出したか
翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行

丁度、其頃のことであった。松平薩摩守網貴候が或る日、松平隠岐守の邸に招かれ、色々と悪貨改鋳の話が出た時に、薩摩守の曰く、「此頃頻々として処刑される贋金運びこそ不愍な者どもである。真実の大贋金運びは柳沢出羽守(保明)と萩原近江守(重秀)の両人である。見られよ、此頃の金は金にして金に非ず、銀もまた銀にして銀に非ず、夫れを金なり銀なりと強いられて御同様に拝領し、下民も渋々適用せねばならぬ。然るに、小民の贋造は罰せられ、大名、御旗本の贋金造りは結局上の気受け善く、私腹も肥やす次第でござる」と言放っ阿々大笑したので、隠岐守初め並び居る諳大名等は、色を失って恐れたと云うことである。
而かも家宣は、元禄小判の改鋳を以て満足せず、翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行した。次の年代の宝永元年には、更に、悪質の乾字金、宝永銀(俗に宝銀)を改鋳して。百二十余万両を儲けた。乾字金は、元禄小判に対してすら百両に就き百二両二分乃至三分の悪貨であった。而かも翌二年から三年、四年と毎年より以上の悪貨を濫鋳濫発して、米価、物価を釣上げ、万民を塗炭の苦しみに陥らせた。即ち、第一年の宝銀はまだしも純銀五分を含有して居たのに、第二年の二宝は純銀四分、第三年の三宝は純銀三分二厘、第四年の四宝は純銀一分二厘と云う風に限り無く品位を下げていった。
翌五年には宝永五年銭なる銅銭を新鋳し、一枚十文の価格を強制して通用せしめた。之又頗る悪貨、世に大銭と云ふて嫌圧措く能わざるものである。
慶長以釆、此の年までに、支那貿易及び琉球貿易等の為、公然と外国へ流出せる黄金六百十九万二千八百両、銀百十二万二千六百八十七貫目、錮二億二万二千八百九十九万七百斤、密貿易の為の金銀流出は、これ以外であるが、此の内の大半は元禄以後約二十年間の流出である。而かも国民の購売力は増すばかりで悪貨の価は益々低く、従って鋳造すれば従って欠乏を告げる。採出高には限りがある、従って、良貨の隠匿、入質、鋳潰し等が盛んに行われた。この頃から当局者が、専ら地金商に目をつけるようになったのは必然のことである。
其他「之を(新貨)上に差上侯では御趣意に相背き、且は手摺れ、目減りの分は新に吹替へ、世問通用らくに相成るべき御趣意に付、古金銀にて差上げ申すべく」云々。
「似せ金銀使う者あらば訴え出づべし、仮令同類たりと云ふとも其の科を許し、岐度御褒美下され、仇を為さざるやう申付くべし」云々。など類似の布令を統発して、鋳貨原料の収集と、私鋳の防遏に腐心した。

悪貨を追放した新井白石の所論通る
過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語るのみである

元禄、宝永の悪貨は、幕府の財政を紊乱せしめたのみならず、我国を殆んど経済的に破産者たらしめんとした。幸に、正徳二年家宣死して七代将軍家継立つに及び、新井君美(白石)は、萩原重秀の悪貨制を斥け、正徳四年従来の悪貨を改鋳して一切を慶長金と同様の品質重量に復する策を建てた。慶長小判の一両は、四匁四里、此内純金重量四匁七分、純銀重量○匁五分七厘、其他の混合物○匁○分、又慶長丁銀の成分は一百匁中、純銀八十匁
慶長一分金は小判一両の四分の一の品位を有っていた。之に倣って正徳二年乃至享保元年まで、都合五年間に造られた良貨は、武蔵判(金貨)八百四十九万三千五百両、享保銀三億三千百四十万貫に達した。此良貨鋳造は、我が商業界を復活せしめ、物価の乱高下を平調に整へ、しかも長夜の暗が明けた心境で、市民泰平を謳歌した。之に要する純金銀の収集に於いては、地金商が大に貢献するところがあった。政治全体からいえば、次の八代将軍吉宗の治世を推称せねばならぬが、単に幣制上から云えば、正徳二年乃至享保元年までの五年間を以て黄金時代と云はなければならぬ。吉宗時代に地金商が暫く頭をもたぐるに至った原因は、正徳改鋳の政策に貢献した為である。正徳時代に地金業者祖先が、詳しく云うなら、元禄八年以来宝永年度に至りて永い間悪貨の濫発、貴金属の請求、探偵政治の圧迫に悩み抜いた地金商業者等が、額手して新井君美の新政策を歓迎し、専心誠意を以て鋳貨原料の収集を扶けた時に蒔いた種が、次の時代に芽を出して更に大岡越前守に依りて日当りの良い苗床へ移されたという結果になったのである。これから勘定して今日まで約二百年、其間雨に打たれ、風に採まれ、または幹を折られ根を枯らした同業者も尠くはあるまい。只だ僅かに徳力家に残れるこの頃の地金業者組合の記録数冊が、過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語るのみである。
さて、前述の如く享保十二年に地金商、屑金吹の同業組合が成立した頃の営業取締り規則は、大略次の通りであった。
写し
  御触之趣
一、下金買、屑金吹共先達て組合申付候得共、猶又此度相改左之通り申付候。町々にて右商売仕候者は、紛失物当番名主へ相届け可申事。
但し、組合へも入り不申、内々にて商売致候者有之に於ては、急度(此度)申付くべく候(鐡重処分すべしとのこと)
一、下下金吹共、下金銀、迦金銀何に不寄買取候は、名主押切帳書に載せ、形ち有之分は其品帳面に相記し、形ち無之き潰金銀も金目等入念記し置き、紛失物吟味之節、紛らわしくは、舞之様可仕事。
但、帳面吟味之儀は、去卯年相触候、趣味相箔組合町内行事立合可申候。
一、下金銀、屑金買取候儀、売主証人両判(連署のこと)、取り其上宿等見届可申候事。
但、同商より買取候儀は、先づ両判にて買取候之儀に有之候間、只今迄一判にて取引可致、最も帳面入念留置可候。
一、御紋附(葵紋章のこと)御道具類一切買取申間敷候。万一無拠儀有之候間は、月番之番所へ訴出で、差図次第に仕るべく候事。
右之趣相守るべく、若組合中に不埒之筋も有之、組合へも入り不申告商売仕候者有之に於ては、仲間より申出づべく候、若し外より相知れ候は、吟味之上当人は勿論、組合行事共まで急度可申付候条、此旨相触れべき者也。

享保十三年申四月

併し是は鋳貨原料の散逸を防ぐ目的よりも、贋物捜査の便を計る目的の方が主であった。勿論その事は、間接的に貴金属の散逸を防ぐことにもなるのではあるが。大岡越前守の着眼は矢張り犯罪捜査の点に向けられた。
享保年間のすぐ次の元文元年に名君吉宗は、新井白石が折角復活せし、正徳、享保の良貨制度を根本から隠して再び元禄、宝永の悪貨時代を現出せしめた。之れ何事に依らず、白石の立案せし法制に反対せんとせし、吉宗自身の感情と、国用の欠乏とに因るものではあるが、ー面には当時の鴻儒たる荻生狙狹が、「幕府は地金を有せさるに、辛苦して貨幣を改良するは策の得たるものに非ず。小数の良貨よりは、悪幣の豊富なるに若かず」との建策を容れた結果である。
徳川は既に家康以来貨鋳権を確立し、家光に至りては完全にこれを納めしと雖も、如何にせん地金の供給は、さすがは幕府の権力を以てするも思うやうにならなかった。加ぐるに直営の縁山は、官営の通幣として年々荒廃に帰しつつある。ここに於て、只だ頼むところは当時の地金商ばかりである。陽に法令と罰則とを振りかざしつつ、陰に地金商の鼻息を伺はねばならなかったのは無理も無いことで、殊に悪貨鋳造の際には良貨の流れを憐れみ、之を警戒する必要から威圧と懐柔との両刀は、盛んに地金同業者の頭上に閃めいたのである。其都度、同業者の主脳として一方では、当局者と折衝の任に当り、一方同業者を統卒せねばならなかった徳力屋藤七其他二、三の有力者のこの時代の苦心は、今日の同業者が時代の恩恵に依りて立憲的に営業し得るような安昜なものでは無かったのであり、想像に余りある。
吉宗の善政に一つの汚点を印する此の悪貨改鋳は、又々財界を惑乱し商業を委縮せしめた。その時出来た悪貨は、俗に文字金と称して、正徳、享保及び慶長の金百圖に対し、文字金百六十五両、正徳、享保、慶長の銀一貫目に対し、文字銀一貫五百目と云う低劣な品質であった。即ち其の粗悪なる点に於ては、乾文金と正に相対するものであった。
悪貨監鋳の結果は、良金属の追窮となり、地金商に対しても猜疑羅繖とならざるを得なかった。併し地金商同業者は、享保十二年に団結して以来、この日に至るまで能く隠忍して国法を守り、最も着実なる営業方針の下に貴金属集散の難事業に当った。文字金の鋳造以来、明和、文政、安政、万延と頻々悪貨を新鋳して、徳川末期の経済的運命を弥縫又弥縫せし、度毎にこの幕府は益々地金商に向って例の両刀を閃めかしていたことは徳力家の史料にもよく現われている。

他人の世話を見た徳力家の史跡
百年間は、本家分家とも一体を成して光栄ある徳力屋号を残している

文字金の鋳造後六年を経過した寛延二巳年八月には、次の如き布達を出した。(徳力家の史料に拠る)
 写し
灰吹銀並びに潰銀、銀座の外他所にて商売之儀古来より停止之事に候。右之趣去る亥年(寛保三年のこと)相触候所、当時銀座へ集り方少なく相成侯由、畢竜内々にて商売致候儀と相聞え不埒に候。且又江戸並諸国寺院には檀家より納め侯銀貨類無拠く貯置侯も可有之侯。檀家へ対し遠慮の品は格別、其外は銀座へ差出し通用銀(通貨のこと)に引換え俟は修造等の手当にも可相成事に侯。内々にて売払候儀は致す間敷候。此旨急度可相守者也。
右之趣町御奉行所より被仰渡候間、町中不残入念可被相触候、以上。
 巳九月三日
                   町年寄三人
とある。即ち鋳貨原料の請求は地金商を鞭撻して寺院の什器物にまで及ばんとしたのである。寛政四子年五月十七日に徳力屋藤七と年行事平兵衛と連盟で、其筋へ差出せる答申書には、寛保三年以来銀の売買を一役に禁止されたが、我々地金業同業組合のみは依然営業を許され、銀買方のみの権利を与えられたのに、其の買集め方が鈍いと云う廉で、宝歴二年申十二月鑑札を銀座へ没収されたということを認めている。夫れから後も鑑札を下附したり没収したりして、幕府が同業者の原料収集を刺激したことは度々である。右の如き答申書に年行事以外、徳力屋藤七が只一人連署しているわけは、別に肩書も記して無いから判然と其資格を知り知り難いけれども、各組の月行事を代表して年行事と肩を並べたものであらう。年行事は誰に限らず、この年の当番が名を書すのである。月行事総代は十数名の役員中から徳望技術の聚に拔んでたる者を選抜したのである。斯る場合多くは徳力屋藤七が其任に当っていた。
翌寛政五年六月四日、当局者は何の心算であったか、当然同業者の戸籍と営業状況を明日まで答申せよと厳命して来た。同業者は、其意を計り兼ねて大いに恐慌し、年行事以下徳力屋藤七を筆頭に八行事の連盟で二日間の延期を乞ひ、同七日当局の要求通り各同業者の業態を復申に及んだ。其時之に添へた嘆願書に曰く
 写し
(前略)下金売買高、亥子ニケ年(霓政三年同四年)凡そ相調べ書上候様被仰付に付則別紙に奉行所侯。勿論私共儀、古来より下金家業に在り親妻子を養育仕罷在候儀に御座候間、何卒御慈悲を以て、此上仲間一統渡世に罷成候様偏に奉願上候以上。
之には矢張り七行事の筆頭に徳力屋藤七の名を署し、御勘定御奉行様宛に出してある。幕府翌六年、申寅正月晦日に次の如き厳命を出した。
 写し
一、 灰吹銀の外、潰銀札は銀座並に下買之者へ売渡し、又道具下金銀入用の節は銀座にて買い請け他所にて売買到間旨、安永中三年も相触れ所、近年銀座へ差出侯者少き
趣相聞え侯。類焼く等の場所には通用銀二朱判並びに銀具等の熄損じも可有之侯間。銀座へ差出し引替え俣儀弥々心得違ひ無之様急度可相守候。
地金への追窮は、斯くして遂に焼け跡の貴金属にまで及んだのである。
その頃から徳力屋の名声は事業と共に挙り、独り松下町組のみならず山ノ手組の方へも分家を建てるようになった。寛政十二年申七月の記録には徳力屋清兵衛、徳力屋半兵衛の名が同時に現われている。徳力屋藤七と併せて徳力屋の一門が尠くともこの時代には三、四軒まで殖えて、夫れが悉く同じ家業に従事していたことがわかる。営業上の勢力と個人的徳望とが相俟って、徳力屋の光輝を益々囍々たらしめたのはこの頃であろう。現にそれから数年後の文化三年に、銅仲買野田屋太兵衛の件に付、不図した問題が起ったときに、其問題は無事解決したが、今後の心得のことにつきて布達があった。それを同業者へ通達する役員が三名、連署せるうち、徳力屋藤七と徳力屋清兵衛の二名まで徳力屋の名が列ねられている。爾来徳力家は一年毎に栄えて、文化、文政、天保各年度における重なる布達及び同業規約には、徳力家の当主が殆んど関係せざるは無き有様を示している。其間に金座、銀座役所に対する答申もあれば、又同業者間の悶着和解に関する調停もある。同業組合新加入者の届出でもあれば、徳力家一門の戸籍登録、営業許可の如き願書もある。商売上の外でも、また普通の同業組合役員以外の代々の徳力家が個人的信望の為めに、どれほど多くの人の為に面倒を見て来たかと云うことが諸般の記録を通じて覗はれている。
又営業上に於ても、単に自家の計を為すのみならず、同業者の苦痛を救うて失脚せざらしむるように努めた跡が録記に明記されている。文政十年亥四月十一日、徳力屋藤七の単独名儀で答申せる文書の一節に曰く
 写し
(前略)私儀は是迄出精仕り下金買集め、相納め候処、去年より当年に至り、下金出方宜しからず、此上出精仕り買集め相納め可候。仲間相納め呉候やう頼候に買い集め、候もの西川屋吉兵衛(以下八名の同業者姓名と其の所沢組の名を列挙し)右之者私方より買集め相納め申候。
 右之通り被仰波侯に付恐れながらご返答申上侯。
   文政十年亥四月十一日
               行事 徳力屋藤七
之と同時に同業者から提出せる答申書には、同様地金の収集困難の為め徳力屋から供給を受けて僅かに納付し来りし由をも認めてある。之れ云うまでも無く、この頃の徳力屋の営業状態が、既に同業者中で、一頭地を抜きんで盛大なりし状況であったことが示される。反面に於て、次代の徳力屋が同業者に対する態度の懇切周至なりしことを物語るものである。この頃の文書によれば、徳力屋は湯島組の内へ又一軒の分家を増した。次兵衛という者が当主であったことがわかっている。
斯く家門と営業と信望とが相まって栄えつつ縁戚知巳互に和楽なる交際を続け、本家より出でて分家を樹てた者の娘が、再び本家に戻って其血統を伝へるといふ風に、かれこれ錯綜して愈々根幹を太らし、以て現在の徳力家を形成したのである。現当主喜兵衛氏は、伝統の名を享け喜兵衛としての二代目、その前は先代喜兵衛、清兵衛、藤七というやうに遡るのであるが、殊に最近の百年間は、本家分家とも渾然一体を成して光栄ある徳力屋号を
伝え来っているのが実態である。



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