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出刃包丁も飛出た理事長選挙劇についての闘争事情
景気も良くなり組合活動に関心を持ち始めたころ

《昭和二十六年》 組合というものの情況は、どこの組合でもそうだが、総会などの場でよく表現されるものである。
「東京時計眼鏡小売協同組合」もご多分にもれず昭和二十六年の頃は、ヤミ時代の収入増に恵まれた時勢のお陰で組合の事業面にもたまには顔を出して見たいなどの希望者が現われるようになって来たのである。
昭和二十六年に関東時計連合関係の一騒動が起きてから、東京時計組合内部でも役員の改選期にはボツボツ興味を持つ輩が現われて来た。翌年の昭和二十七年の春には、役員の任期満了期に当っていた。そこでこの改選期に理事長への栄冠を目掛けて打って出て来たのは、終戦後銀座のどまん中に進出した日本堂の社長佐川久一氏の躍進ぶりである。もう一人は、東京組合の役員歴では最古参に属する銀座・審美堂の社長山岡猪之助氏であり、つまり銀座に店を持つこの二人が躍り出て組合理事長の地位を争そうことになったのだから組合人気は一際湧いた。 
この他にも、品川区会議議員の肩書を持ったことのある五反田・天竜堂店主・大沢善次郎氏なども出馬の呼声が放たれていたので、世評は喧々轟々たるものであった。
だが山岡猪之助氏の出馬情報が確定してからは、大沢氏が断念したので佐川氏との二大対立候補者だけとなった。
そのような空気の中で昭和二十七年の春を迎えてからは、選挙方式を公式に改ためるべきと業界では、突飛な呼かけをやったものである。つまり古参歴に対する新手の方法とであったのであろう。そうでもしなければ勝味がないとでも思ったのであろう。
それだけに当時の理事長選挙に備える前哨戦の場では、東京都内の到るところで裏面工策が積極的に行なわれていた。山岡猪之助氏の参謀は、木村氏と内田氏に大口氏辺りというところ。佐川久一氏側についているものは、業界紙群の中の二、三社がまとまっていたのだから、一方の作戦が如何に妙策を尽くそうともこれを喝破することには妙を得ていた。この選挙戦に関することで、突飛な大事件が起こった。改選期がだんだん差迫り、あと十数日しかないという昭和二十七年五月中旬の頃だと記憶する。
山岡氏側は、組合の現職役員の大多数の十七、八名を五反田の料理屋「黒塀」に招いて酒宴を張ったのである。それを探知した佐川氏側の陣営では、その切り崩しのためにその酒盛の料亭を急襲することにした。ところが陰謀的策略を見破られたというその場の感触上の反動が突如として湧き起った。その結果、勝手口から持出して来た出刃包丁を振かざし、切るか切られるかという乱闘騒ぎが起きたという始末。大変な騒ぎになったわけである。
それはどうして起きたかというと、仮りに山岡氏が自分側の応援者を呼んで御馳走するのであれば人間自由の立場から考えても、何ら差支えないことである。だが山岡氏のその日の宴席には、佐川氏側からの依頼によって金数万円也の運動費を現実に受理した某氏がおり、更にその人が当日のこの会席を取もったというこの間の情況が推定されたところから、事態は並大抵のことでは納まらないことになったのである。そんな関係だったから、事態は穏やかには済まないものと見てとったのである。そこの席に集っていた十七、八名の役員たちは、その場を何とか収めるべき気持で両者の間に割って入ったりして大騒ぎを演じたのだ。とどのつまり兎に角その場はそのまま納めることにしたのだが、然しその場の光景からしてもあと味の悪い理事長選になって終ったのはいうまでもない。

佐川氏と山岡氏が交代で理事長の職を分担する痛み分け
全時連の首班を指名する選挙戦の最中

《昭和二十六年》 そのような経過を辿りながら、理事長互選会の当日がやって来た。
その改選の場には、首班立候補を目指す山岡、佐川の両氏を中心に各理事者がぞろり静かに座列され、投票開始の場に備えて何れも緊張していた。
然し前述したようなこの間の経過事情があったのだから、投票の結果については必ずしも何れに軍配が上るか否かは予断を許し難いものがあった。ところが、その投票時間を待つ間に、佐川氏と山岡氏は何やら話し合いを進めていたらしい。従って会場に居並ぶ一同の視線は、この両者の一挙手一投足に集まっていたといっていいようだ。そうこうする中、やがて両者間の話合いの結論がついたものと見えて、選挙場でその結果が報告された。
それによると理事長という首班の決定は見送り、山岡、佐川の両氏が常任理事という交替制で理事長の職を分担しようということに話し合いの結果がついたのだという説明である。とにかくこのことは首班争いの経過としては、時計界の歴史の中では特記すべき一項ということがいえる。だが、その次の昭和二十九年の改選期には、山岡氏が理事長に選任されており、佐川氏は常任理事という席に止まった。
次いで昭和三十一年の改選期にも山岡氏の理事長時代が出現したが、一年にして病気のため倒れて辞任、代ってこんどは副理事長だった木村信男氏が理事長を代役した。この間、山岡氏は全時連会長として物品税に関する運動に没頭し、積極的に活動したのは有名な事蹟である。かくて東京時計組合は、全時連と共に全国の時計小売業者のために大いにハッスルしていたが、山岡氏が昭和三十二年に到り病のため倒れたそのあとは、東京組合は副理事長の木村信男氏が代った。全時連は神奈川県時連会長の今野徳一に衆望が集まって就任することになったのである。それからの今野会長時代に全時連の強化策が打出されて大いに推進体制をとったのである。然しこの頃他方で依然関時連の会長に止まっていた金山重盛氏は、所謂金山式我流戦法の及ぼすところから業界内にトラブルを起した。その問題は、当時金山会長は、六、七人の組合幹部連を伴って近江地方に旅行し、義援金の一部を消費したというのがこの一件の中心課題となったのである。そんな関係のあと仕末の交渉の電話連絡などに神経を使った今野氏は、昭和三十三年の二月六日横浜の店で遂に倒れることになったのである。
その様な経過で遂に翌三十四年の全時連総会の時には否応なしに次回会長の選任が行われねばならないことになっていた。会場は熱海温泉の富士屋ホテルであったと思う。従って会長の候補に登板したのは、佐川久一氏を筆頭にして、これに木村、金山氏ら
の指食も少しはあったように見られていたが、開票の結果、佐川久一氏が断然栄冠に浴した。この時の司会役は、東京組合の沢誉司氏が担当した筈である。
写真は、昭和三十二年六月、全時連の強化策にハツスルした当時の今野徳一全時連会長のスナップ。

東京時眼小売協組は昭和三十三年に木村理事長時代に選挙制度を改正
昭和四十年に東京・台東区の時計会館が完成

《昭和三十三年》 東京時眼小売協組関係のことでは昭和三十三年に木村氏の理事長時代に選挙制度が改正され、全区選出理事十二名支部選出理事四十五名の計五十七名で
理事会を結成することに改めた。この時の組合首班陣営は次の通り。
▽理事長=木村信男、▽副理事長=河内録幣、松本賢次郎▽常務理事=十一名であ
る。続いて昭和三十五年の改選で理事長=木村信男、副理事長=河内録幣、大沢善次郎、御正政一の諸氏、昭和三十七年の改選期では河内、大沢両氏の首班対決選を行なった結果、河内理事長が選出された。副理事長=漆原延治,高木信治、小竹信太郎の諸氏、次いで昭和三十九年の改選期においても同陣営の再選結果が生んでおり、今年(四十一年)は、三月期で任期満了したので来る五月に改選が行われるというので新人登班の呼声があり、これに河内氏が三回出馬を表明したので混とんたる情勢を見せている。なお河内理事長時代に完成した東京・台東区の時計会館の建設は、昭和四十年度完成、木村理事長時代に提唱されたのが河内氏時代になってから実現の機会を得たので、会館建設のた
めの大展示会を繰り返して開催したその利益収入を資金に当てたのが大きな財源であり、この間に尽くされた役員諸氏の努力が高く評価されている。
写真は、当時の各地区主脳陣の顔ぶれがこの席上に珍らく揃っている。

欧州の時計と宝石業界の本紙視察団第二弾
海外視察旅行記:旅程二十六日間の「欧州業界視察団」

《昭和三十八年@》 日本の経済力は、昭和三十五年を超える頃から急速な伸びを示している。池田内開が施策する経済政策は、「神武景気だ、岩戸景気だ」というように訳のわからぬ名称をつけて、年々に亘り情勢を煽ったそのおかげで国民の消費力はぐーんと伸びた。そのような関係で、企業などの設備投資は、いずれとも充満するという具合に上昇傾向にあったのである。従って、これに伴って消費面はいよいよ拡大する一方。各企業は温泉旅行の招待会などの場合でも、支払いは手形でOKというほどに浸透してしまったのであるから膨張していた程度が計り知れる。
そんな状況であったから、時計の売れ行きは、必要欠くべからざるものということになり、装身具的アクセサリーの役柄を手伝うことになる。そういう観点から、景品に、記念品に、とあらゆる場面に用いられるようになったおかげで需要は、急角度に伸びを示した。
この時代における腕時計の国内生産量は、戦後の昭和二十五年に六十九万個であった。そのあと毎年上昇を続け三十五年に七百十五万個を記録、以後、年々著増の姿勢をとっていた。昭和三十六年、九百二十三万個、同年、三十七年、千七十八万個、同三十八年、千百七十万個、同三十九年千三百二十一万個、(日本時計協会調べ)というような経過である。
そんなように国内時計業界の状況が繁栄途上にあったから、これを機会に文明的に先進しているヨーロッパ諸国の時計業界が果してどのような現状にあるのか、合せて宝石業界の情況なども見極めたいという希望の声もあり、且つまた、当社(時計美術宝飾新聞社)がさきに創刊三十五周年を記念して行なった「東南アジア業界視察団」を編成して敢行した実績にも見合って「欧州業界視察団」を主催することになった。
とにかく本社主催の欧州業界視察旅行団募集の結果、応募者数が十一名であり決行することにした。外国旅行の自由化が翌年の四月に断行されるということであったので、それが予想されていたためか応募者は少なかった。
一行のメンバー中、私の他は時計バンド界の潟xアー商会の上野公博専務、竹本商店:熊谷専務、貴金属卸の坂口商会:坂口重雄社長、メガネ卸の三共社:北岡茂美社長、小売店として参加した銀座・日本堂時計店:佐川専務、兵庫県・時計付属卸の黒田時計店:黒田社長、このほか岡本、野沢両税理士と電機メーカー若林さん、それに上山という全日本トラベルカンパニーのコングクターが加わって合計十一人である。
いずれも研究心に富む特殊部門の代表者連だけに、何となく世話のやけるような事態が予め想像されたのである。出発日は好季節を選んで九月十六日に決めた。旅程は十月十一日までの二十六日間であった。
かくてこの間のプランづくりや旅行中の打合せなど数回に及び、いよいよ出発の日となった。私は前後二度に亘る海外旅行で少しは旅行上に関する心得はしているものの、ヨーロッパを目指す北極回りの長いコースということになるとまだ馴れていないので多少の心配はあった。
それでも時計の主産地スイスを中心に、先進国の欧州業界の現況に接することが出来るのだと思うと、却って勇気が湧いてきた。
かくて出発当日、羽田を午後十時半の予定時刻に飛び立った。KLMのジェット機は急上昇して、やがて一万メートルの上層圏に達するや雲間は晴れて胴体はゆうゆう、まっしぐらにアラスカのアンカレッジ目指して爆音を立てて突進した。
羽田を飛び立つ前のロビーでは、全時連の佐川久一会長が元気に満ちた顔で見送ってくれて、万才三唱をしてくれた。その時の姿が機上の人になってもなお目の前に浮んでくる。思わず機上から窓外を眺めて羽田とおぼしき空港の方向を見つめてみたが、もう飛行機は遠く離れており、爆音だけがいよいよ高鳴りつつ、目的地に向って驀進し続けていたのである。写真は、羽田空港の出発ロビーで佐川久一全時連会長の見送りを受ける団員。

強風の為乗った飛行機がコースを変更してアイスランド空港に帰港
二、三日前に大地震に遭遇したアンカレッジ空港に

《昭和三十八年A》 機内では、スチュアーデスのアナウンスで腰のベルトを緩めてから一行は、いろいろな好みの飲みものを配車にのせて売りにくるボーイ達から買い求めている。まさに静かなオープン式ホテルといった感じの機内状景である。
翌朝の六時頃、アンカレッジの空港に着陸した。空港に降りた時は雨が降っていた。その上アンカレッジ地方は、二、三日前に大地震に遭遇したというニュースを聞いていたので、空港についた誰もの目はこの空港の街の状況に転じたようであったが、格別何らの変化もないように感じた。タラップを降りた時には、別段気がつかなかったのだが、同じ飛行機にスイスのラドー時計発売元の酒田時計貿易鰍フ酒田武敏社長が乗っていたのである。アンカラレッジの空港待合室で合った時、手をあげてお互いに会釈したような次第。酒田さんはわれらの方向と違ってアンカレッジから北米行きに乗り替えてスイスに向かったのである。
やがてニューヨーク行き乗客の搭乗をアナウンスされ午前七時、酒田社長はそのグループに混って、待合室から出て行った。一足お先に、という言葉はその意味を示しでいたのである。われら一行を乗せたKLMジェット機は、ざっと一時間位休憩したあとでアムステルダムを目指して飛び立った。
とろが飛び立ってからの機上でのアナウンスによると、強風のためこの飛行機はコースを変更してアイスランド空港に帰港するという説明であった。アイスランドを回るとなると、そのため約六時間も遠回りすることになるというのである。しかしどういう都合かは知らないが、六時間も遠回りするというのは余りにも馬鹿げた話ではないかと考えてみたが、どうすることもできないのだから致し方ないと諦めた。
しかし一面には、仮りに行こうと思ってもアイスランドなどというところへはなかなか行けるものではない、と思ってみるとアイスランドという土地柄そのものを見ることになるのも悪くはないという気がしてきた。そんなことからアイスランドという地理的関係の説明を求めたところ、アイスランドは北極点に近く、空港近くにはエスキモーの住む部落もあるなど聞かされたので、知らないながらも少し興味と期待を持ったのである。そのためか機内では、神経が高ぶって眠ることができなかったので、ただ下界の変化の映り変りに興味を持ち続けたのである。アンカレッジを朝飛び立った飛行機は間もなく夜となった。地球上の空間上の変化によるのであろう。だから私は二日二晩飛行機に乗り続けているような感じがしていたのである。写真は、アンカレッジ空港の売店を見ている光景の団員。

KLMのジェット機はアイスランド空港に着いた
アムステルダムの街は、赤、青など色とりどりの草花を飾ってあった

《昭和三十八年B》 私はこの時、北極圏を飛ぶ時の空の状景は、またとない絶景のものがあると聞かされたことを思い浮べて窓外の空を仰いで見た。すると空を二分した中央とおぼしき所から右側の方は黒く夜を示し、空いっぱいに星がキラビヤカに輝いているのが見えた。その反対側の空は夕暮の光景で、太陽が地平線に没した頃の景観をこの上空にまで照し映しているのである。前もって聞いていた通り、昼と夜の交叉した空の模様を描き見せてくれたのだと感じた次第である。この間眠気醒しのブランディを片手に、星が輝く夜空を眺めていたその時の気持ちを考えると、いまだに懐かしさが湧いてくる。そのすがすがしい空模様もやがては消え失せて、そのあとは真っ暗闇の中をジェット機は轟音を立ててひとり哭っ走っていたのだが、海の上を走る頃ともなれば、視界に入る範囲は悉くが白水が流れているが如くにも見えたので、一寸注意心を呼んで見直してみた。あるいは雲の切れ間かとも思ってみたが、時間から推してみても北極圏に入っているのだから、海中に浮く氷塊の流れなどが雲間を扠いて眼に映ったのだろうとも観察したのである。
この時の感想を“機上より”というハガキ便で東京・上野の野村時計店の野村康雄社長に投函しておいたので、帰国してから話題にしたことがある。
やがてKLMのジェット機はアイスランド空港に着いた。飛行機は給油と整備のため乗客は休憩することになり、空港内の待合室で待機したのである。ここは軍関係の航空基地らしく戦闘機の散在しているのが見られた。天候は生憎の雨である。待合室から窓外を眺めると遥か彼方にエスキモーの部落があるのだという説明を聞かせてくれたが、格別出て見ようというほどの魅力も感じなかった。空港の辺りは閑散としていた。空港内
の売店(酒保)では、酒、タバコ、香水、時計、眼鏡に雑貨などいろいろな物が陳列されており、アンカレッジの場合と変らないとも思った。ここで土産用に「夜間飛行」という香水を買求めたところ税金を課した伝票を切ったので、ノータックスだと言って計算直しを求めて支払ったのだが、これが羽田を飛び出してから最初の外国での買物をした訳である。
待合室で塔乗者全員に食事を出してくれたが、悉くがセルフサービスになっていた。これも初めてやらされたテストということになったのだ。やがて、三時問も待ってから飛行機の整備がついたとみえて、塔乗のアナウンスがあり、七、八十人を乗せた飛行機はオランダのアムステルダムを目がけて飛んで行くことになった。
かくして、アムステルダムに近ずくにつれて天気は晴朗となる。飛行機は午後三時過ぎ頃、ヨーロッパの玄関というアムステルダムのスキポール空港に到着した。初めて見るヨーロッパの印象は、先ずは何よりも吾らの眼に映ったのは、何処の家でも揃って草花を美しく飾ってあることに気が付いたのである。それに空港でのサービスもなかなか行届いており、日本人のKLM駐在員が何かと物やさしく指示してくれたのには感謝し、かつ欧州に入る玄関での第一印象が良かったことになる。
空港から出てくる通路の柱などには、日本文字で「日本人の皆様ようこそいらっしゃいました」と書いた立札を掲げて歓迎の意を表示してある。何というサービスの行き届いたことであろうと感心した。
ホテルまでのバスの中から見るアムステルダムの街の光景は、舗装整備が完全になっており、道路とその洽道に立並ぶアパート群との釣り合いがうまくミックスしているのを見て、なるほどという感じを持った。
更にまた、何処のアパートの窓にも赤、青など、色とりどりの草花を飾ってあるのがヨーロッパというところの家庭様式を思わせた第一印象である。ホテルは「アポロ」といった。このアムステルダムには二泊することにプランがなっていた。写真は、雨中のアイスランド空港。

オランダ人は、日本人に対して親しみを深くして親近感が持てた
アムステルダムでの感慨

《昭和三十八年C》 早速、観光コースに入った。アムステルダムはオランダの首都、ヨーロッパの玄関として名高く、所内には有名な博物館があった。この国立博物館は午後五時まで参観出来ることになっており、そこには、レンプラントの傑作「夜警」を始め、フランス、ハルスヤン、ステエレ、ヨッハン、フェルメール等の著名な画伯が描いた絵が沢山あり、市立博物館には近代美術の名作を数多く集めているので有名である。
コレクションの中には、ゴッホのすばらしい作品が多いことでも有名になっている。
一行のために来てくれたガイドは、家庭の主婦で、その後ご主人が、予定の時間になったら車でホテルまで迎えにやって来た。その時の光景など見て、ヨーロッパの家庭環境の一部がのぞかれ、親しみを感じた次第。街を散歩していた時、アムステルダムの土地の子供が自転車に乗って遊んでいる道すがら、我等一行に向って「ジャパニーズ」と声高く叫んで手を振って迎えてくれた。オランダ人は、日本人に対してはオリンピックの競技を通じて子供に到るまで、親しみを深くしていてくれるのだと思うと何となく親近感が持てた。写真は、アムステルダムの景色。

簡単に女性に手を出すと応じ難い事態になるという
アムステルダムのご婦人連は遊んでいてもいい土地柄のようだ

《昭和三十八年D》 だがそれとは別に、真昼のホテルや街路際の喫茶店で、ご婦人連がのんびり遊んでいるのには少し驚きの感じを抱いた。異国の情緒の一コマとして感じさせられたわけだが、男性だけが働いて、ご婦人連は遊んでいてもいい土地柄であるという実態が読めたのである。
一行の中で英語の解る通訳を雇ったところやって来たのが紀州の温泉境で有名な「久一」という旅館の安問さんという長男坊であった。ヨーロッパに来てから三年になり、いろいろ遊び且つ勉強しているのだという説明であった。その人の話でヨーロッパにおける女性との交際関係について詳しい事情を知ることが出来た。
異国における望郷の恋しさから、ともすればその国の女性と落ちあう事があるというが、然しヨーロッパの国の中には、男性を絶対的に鉄しばりにしてしまう憲法を持つ国があるということだ。だから簡単に女性に手を出すと応じ難い事態になるというのである。写真はアッシャーダイヤモンド会社でダイヤモンドを研磨しているところ。

天皇が皇太子の当時、アッシャーダイヤモンド工場を見学
手記した皇太子のサインを二百万ドルで売ってくれという人が

《昭和三十八年E》 アムステルダムにおける風物では、置物になる風車の形などは特有のものだが、世界の人に愛重されるダイヤモンドの生産については特別興味を持つものである。
我等一行の見学プランの中には、このダイヤモンド工場のアッシャー、ガッサムの両工場を見ることが計画されていた。第二日目の日、先ずアッシャー・ダイヤモンド社の工場を訪問した。予め持参した本社のステートメントをアッシャー社の社長に渡して工場内の参観が許されたのである。アッシャー社では、社長のL,IaaAUER氏が直接応対してくれて詳しく説明してくれた。そして一同が記帳したあと、工場内を見学したのであるが、ダイヤモンドの加工工程を順次見て回っていく中に、特に注意深く感じたのは、女性も男性も共に年数の積んだ熟練工が職場に多く揃っていたということであった。
ここを訪問した世界の有名人が記帳した中に、日本の天皇が皇太子の当時、まだ現代の皇太子がダイヤモンドを目に近ずけてルーペでダイヤモンドを見ている光景が写真帳に綴られているのを見せられ、感嘆した。日本の天皇が、このアッシャー社のサイン帳に手記したそのサインだけを二百万ドルで売ってくれという人がありますよ、とアッシャーの社長さんは笑いながら説明してくれた。
次いでアムステルダムで第二のダイヤモンド工場だというカッサム会社を訪れた。社長のT,J.W.BARONVAM氏は、一行に親しくいろいろ説明してくれたあと、日本とダイヤモンドの取引について懇談したいとし、オリンピックの時に日本に行くからその時詳しい話をしたいと述べていた。ここの会社でべアー商会の上野専務がダイヤモンドを好んでいたので、私がダイヤモンドの品選びをして上げたのであるが、価格はそう高くはなかったが、そう安くもなかったような気がする。
私がルーペで見て選定した純白無キズ物正味五カラットのダイヤモンドは、邦貨換算で八百五十万円の値段を出していた。正に品質最高のものであったので欲しかったが、銭子の関係で断念せざるを得なかっだのは心残りに感じた。写真は日本の皇太子殿下が、且て訪欧した際に訪問した時のアッシャー社における見学中のスナップ。

アムステルダム広場の記念塔に対する感慨
我等一行がホテルへ帰ったのは午前三時に近かった

《昭和三十八年F》 アムステルダムでの見学を終えてその日の夕刻から有志者で夜の散策をすることにした。集まったところはアムステルダムの中心地だといわれるダム・スクエアー、そこに第二次世界大戦に没した将兵の記念碑があった。
この碑は、ナチス党員に惨殺された当時のユダヤ族の悲惨な状景を描き残したものだと感じられるものがあり、何となく見るだけでも息苦しさを感じさせられたのである。これがヨーロッパにおける民族的意識の中の一つであるのかも知れないという感じが持たれた。
それからあとは、夜のアムステルダムの雰囲気に特別浸るコースをとることになり、日本人は特に興味を持つという川べりの夜の情景を探訪することにした。古本屋に行けば好みの特別物の絵などを見せてくれる。ナイトクラブでは、五人も六人もの女性が肌をあらわにして寄り沿ってくる。一行がビールを注文したとたんに中二階のしとねが、風もないのに揺れていたという事態なども現出する場所など、日本を離れてからまだ三日しか経ってないのであるが若い連中の中には、一つの哀愁感にさえ迫られていたようである。
アムステルダムの夜は、パリの一部に似たようなところもあり、またハンブルグに似たところもあって、若い人達には興味の持てる特殊な場所であったようだ。諸々をさまよってから我等一行がホテルへ帰ったのは午前三時に近かったようである。
写真は、アムステルダムの広場にある戦争記念碑。



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