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戦況不利になった頃の御前会議
省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である

《昭和二十年》 昭和二十年の六月頃だったと思う。軍需省の久保監理部長から褒章を受けたので私は何の課に行っても通りがよくなっていた。ある時、航空兵器総局総裁の遠藤三郎海軍中将から呼出しがあって、海軍中将の奥さんの時計を直すことになった。この時、省内のK少佐から、望があれば閣下にズバリ話せば何でも聞いて呉れると言われたが、直々に面接の機会があったが、ついにいい切れなく終った。このあと。中島飛行場復旧救援隊
出動のあと始末のときに、軍のトラックが相次いで出動したその数五〇〇台にも及んだのである。中島飛行機工場は、他の工場と異って制作機能が頗る良い成績を収めていたので、
復旧を急がなくてはなっていたのである。
然し、この頃の戦局は、だんだん我れに利あらずという戦況に変っており、ラバール戦の
撃沈から、テニヤン島の撤兵、沖縄の敗戦等次々に戦力は朽ち果てていた。
昭和二十年五月十日には、皇居内で御前会議が開かれて、戦争継続の成否について大論戦がたたかわれた情報も入っており、省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である。
これは、軍の階級通報により知らされていたものだけに、他言が出来ないことになっており、それだけに、この辺で戦争はお終いになるのだとも感づいたのである。この時は、まだ憲兵というという特権の活動があった時でもあったので、このようなことは、ほかに漏らすと危険であった時代である。

修理晶を納めて軍需省から褒賞貰う
褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである

《昭和二十年》 焼けてから二週間もしたら市内の焼け跡がだんだん片づいて行ったので
私の会社でも修理を急ぐことになった。兩稲荷町の三和時計材料店の三階に和田さんの疎開後の留守を引き受けながら工作を急ぐことにしたのである。竹本、村田君の外二、三人がやって来て呉れたが、この時は、頂り品の仕上げ処理ということに重点をおいてやった。その結果、修理品を軍需省の中の各課を訪れて、届けて歩くとすごく喜ばれた。
時計屋さんは自分の家が焼けたのに時計を直して届けて歩いている。「実に正直なものである」と褒められた。
この頃、日刊紙に出ていた記事の多くは、預かり時計を持逃げしたという時計店に関する悪性の記事が多い時であっただけに、私の会社の名誉は一際高く評価されたのであろう。ところがある日、軍需省監理部から速達で出頭命令書が私の職場先に届いた。突然の呼出しだけに何事か大事な問題でも湧き起ったのかと、この書状を受け取った瞬間、頭の中をかき立たせた。然し思い出す何ものもなかったのだが、ただ一つ、軍関係のダイヤモンドの件について突っ込んだ話を思い出した事と、原子爆弾用資源のウランの件で省内で話し合ったことを思い出した。
その他には、群馬県大田町の中島飛行機製作所の復旧工事に参加した中のトラックについて談合したことがあるが、これらは何れも係の課長との諒解があったからのことで、格別問題はないと思っている。
この間の速達便の内容が簡単には読み取れなかったのである。そんな気持で、書状を持って管理官の係官を訪れてみた。
行ってみるとそれは軍需省監理部長の久保少将が私の行為を称賛して、褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである。私は急変して笑顔になった。久保少将は「軍需省内に君のような真面目な人がいるのを喜ぶ」というのであった。うれしかった。
カットはその当時の賞状の写し。

八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った
敗戦の大詔遂に渙発された

《昭和二十年》 そのようなことだったから省内の大半はすでに終戦コースの線に動いて
いたものとみられる筋が多かったように感じとられていた。
それを証明づけるような情景は、兵器総局内の何の課に行っても主だった階級官は部屋の中に見えず、まるで空巣のような感じがしたものである。それだけに、また別の作業面である飛行機課の仕事になると、昭和飛行機会社の納品率などはわずかに製品の二割位しかパスしないという劣勢ぶりである。それが報告されてくるので、その都度係の下士官連中
痛快切歯させていたものだ。
その反面、市中の状況ときたら全都が焼野原と化していたのでトント処置なしという状況であって、行く人の多くはヤミ物資の入手に、または売込みにと、あわただしい人の動きが見られたものだ。このような状況判断から推して、戦争はもう終りに近づいているという直感が持てたのである。かくて、昭和二十年の七月頃から、トタンに終戦の声が省内に伝えられるよう
になってきた。その結果、八月五日頃には終戦の大昭が渙発されるなどの情報が軍から流れてきていた。ところが五日になってもツンともスンとも反響がないので、市中はすでに物情騒然たる様相を呈するようになっていた。然し反面各町内会を通じて、この頃竹ヤリの訓練が進められており、敵の上陸作戦の場に備えなければならないという悲壮な情景が伝えられていたときである。
南方作戦の敗北、それに次いで沖縄壊滅の悲報も相次いだので頗る混乱を呈した。軍需省
としては、南方作戦の敗北が伝えられたころから寂戦へのきざしが投げられ固めていたので、これに対して五月後の航空隊の動きなどは頗る激しかったものだ。
八月に入ってからは、立川の横田基地から飛立った飛行機は全軍特航機として南方に向け消えていったのをこの眼で見ている。とくに、八月十五日の大詔渙発の日の前後三日間位の軍の動きと来たら檄昂そのもので、今にも国内のどこかで戦闘行動が勃発するのではないかとさえ思えた程であったのだ。
しかし八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った。そのときの、私達国民は、ラジオの前に座してこの日のドス暗い天皇の渙発の声を聞いて泣いた。私は、否、日本人の総ての人が、この時ほど心の底から泣いたことはなかったであろうと思った。負けたことがない日本の伝統が、天皇の名においてはじめて日本の歴史に汚点を印したのであるからだ。

昭和十九年の夏に敵機B29来襲で大慌て
開設一週年記念祝賀大会で歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も特別出演

《昭和十九年》 戦争状況は、日がたつにつれて苛烈になるばかりだった。昭和十九年の夏になって、軍は航空兵器総局の人事について、新しい指令を出した。つまり航空に関する限り陸海軍の別をなくそうというのであった。それが実行されたおかけで時計の修理も勢い多くなった。
この時の軍需省は、現在の国税庁に、また航空兵器総局はその前の会計検査員、現在の通産省の建物を全部使い、更に管理部を内幸町の東邦ビル内に別離してあったものだ。
そして昭和十九年の十一月一日は、開設一週年記念祝賀大会ということで頗るデコレーションの催ごとなどが行なわれた。陸海軍の人事交流が行なわれてから初めてのことだけに全館をあげて祝賀気分に隘れたものだ。
そのときの状況は、局の裏庭では双葉山一行が大相撲をとっていた。それに歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も、特別出演していたので大賑わいという光景である。館内は酒タルなどが並べられ乱痴気騒ぎそのものという光景を呈したころだ。丁度午前十一時、約一万メートルの帝都上空に突然敵機らしきものが現われて地上では大変な騒ぎになった。
然しこの混乱の中にあっても、事務員等を統卒する避難命令を出す人がいなくなってしまった。つまり酒にたわむれ且つ自分の危難を考えて他を省みることが出来なくなったのであろうか、止むなく南方から帰ったばかりの一人の中尉と私の二人でこのとき全館に檄を発した。そして、女子たちの待避行動のタクトをとったのである。このとき語り合ったの
が軍人と雖も人間である。
沈着性に欠けているものは、尉官であろうが佐官であろうが問うところなく、無責任そのものであると、責めるようにいいあったのである。帝都に初めて来襲したこのB29は、約
一万メートルの上空をゆうゆう飛翔して何れかへ姿を消したのであった。この時が瀬踏みで、このあと帝都の空襲は日をおって一段と激しくなっていったのである。
このようにして戦時体制下の私は、業者と共に適当にその場の法に甘んじざるを得なかったのである。
その間、業界の一部にも顔を出してみたことがある。服部時計店からは昭和十九年の春まで一定額の広告料を頂いていた。この頃は大塚さんの時代から離れて昭和十七年頃精工舎
側から転任されて来た片山さんの時代ではなかったかと思っている。時計の卸部には同店の最古参の梶原さんが、業者の注文品に応じながら、藤井君、まだマゴマゴしているのか、と言われたことを覚えている。
時計組合の関係では、野村さんが組合長の時代であり、野村さんのご令息康雄さんが応召されてからの心労ぶりは想像の外、兎に角連絡が取れたら頼むよ、という子ぼんのうぶりを聞かされたものである。従ってこの頃の時計の小売店と来たら、どこも同じように活溌な光景はなかった。然し私の業界廻りは、これまでの業者側との馴れ染めの関係で顔を出した程度であっただから、そのあとは依然軍需省通いの時計部勤めの判任官ということで勤勉に活動を続けていたのである。

金田氏は、「金一万円は私が払うから書類を渡してくれ」と哀訴嘆願された
私はその書類を文京区の金田氏宅に届けた

《昭和十八年》 ちょつと横道に外れるが、このあとでこの当時の陳情運動に使った書類の利用性が起きて来た。東京地検における問題についてである。
そこで私に、陳情した当時の書類の一括提供を求めてきたものがあった。このとき私は、ハッキリと断った。何故なら、このときのダイヤモンド問題に関する陳情か成功した暁には、その報酬として私に金一万円を与える約束が日本橋倶楽部で、然も大勢の人の面前で約束されていたのである。それが前述のような具合で横流れ式のようにされてしまったのだから、腹くそ悪いということになったのは当然のことである。その時、私に電話をかけた金田氏は、「約束のその金一万円は私か責任を持って払うから一件書類を渡してくれ」と哀訴嘆願されたのである。真実のこもったその声に答えて、私はその書類を文京区の上富士前町の金田氏宅に要求された通りに手渡したのである。東京地検での効用が見られなかったようであり同情する。だが戦時中、白金に絡む事件は、国賊の汚名によって裁かれるものであるから、甚だしい不名誉な結末に終ったわけである。

総動員法が発令された頃の業界
軍の計器精密修理班という企画を申請することに

《昭和十八年》 昭和十八年に到ってからの戦局は急速度に進展したので、国家総動員法
がついに発令されるに到った。こういう時代になってきては、もうあれもこれもあったものではないという時代となった。生きのびてきた業界内の新聞の二つについても廃刊命令が打出された。日刊新聞は、五大新聞を残してあとは総てのものが廃刊、そして総動員法の命ずるところに従って、勤労奉仕をするもの、まは徴用命令に従うものなどで時計屋のおやじも番頭も何もかも若いものから姿を消してしまった時代となったのである。
前述したダイヤモンドの買上げも輸出の促進運動のその後の動きも何もかも処置なしという時代に入ったのである。
私は一考した。それは修理班を編成して南方や北支、中支の軍方面慰問に進出企画を計ったのとは逆に、私の社屋を活用して、軍の計器精密修理班という企画を申請することが、良策だと考えた。その結果、私の社の近くに開設していた中沢某という修理所に、時折訪れたことのある関係で顔見知りになった野口某という人の協力を得て、軍需省航空兵器総局入りの手続きをとったのである。
たしか昭和十九年の春早々の頃だったと思う。願書の届先は、軍需省航空兵器総局官房長官宛だった。照会者は、日省主計課の某中佐であった。この申請に対して即日出頭するようにとの通達に接したので出頭してみると、逐一の質問があったあとで任官辞令が渡された。当時の房長官は田中という少佐だったと覚えている。

私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になった
日本計器工業KKに衣変えして

《昭和十八年》 私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になるのには、一つの望みがある。事情の概略は、戦局がだんだんたけなわになって人々が徴用命令に応じて行くようになり、時計修理をする数が極めて少なくなっていった時だから。(昭和十六年以降、十七、八年には極度に減少した)。そのため勢い修理資材が配給されなくなった。
時計修理のためには欠くことができないベンジンの如きは、血の一滴とまで称された時代である。日本は島国であり、その島を米、英、支の連合国軍が海上を包囲して経済封鎖を行なっていた時代であるから無理はない。
そこで業界新聞というものが廃刊命令を受けたことを知って、私の社へ修理業の開始を頼みこんで来た人がいる。先に故人となった熊谷忠治という人が一番だった。熊谷君は、俗称熊忠といったものだ。この熊忠さんの手直し技術ときたらスゴイもので、特に名人的技巧の点をあげると、セイコーの十半をロンジンか才メガに作り替えるのが巧妙であったという。私の眼の前でこの特技をやって見せたことがある。実にこの偽作時計の点では、日本一の称を冠せられると思う。但しその技巧のお陰で大分もうけさせてもらったといっている人が関西辺りにいた筈だ。

徴用免れの手段としてサビ取り液も造り売った
塩素を水で割り、鉄の粉を入れて沸騰させるだけ 

《昭和十八年》 その熊忠さんは、話術についても特別に長じていた。その翌日、私の社
ヘー人の友人を同伴してきた。早速直し仕事を始めて終ったのである。私も器用な手際の程を見て驚いた。今度は、サビ取液の簡易発売を持出してきた。塩素を水で割り、これを一方のビンにつめてある鉄の粉を入れて沸騰させれば、たちまちにして鉄分の赤サビは落ちるのである。この理に基づいて作り、当時発売したことがある。大いに売れたものだ。このようなことで、時計の修理ということに縁が付き、又別には理論と実際に即した時計修理技術という出版物を刊行した経験からも考えた結果で、かくは修理業務という点に着眼したものであった。
そして徴用免れの手段にもなるということであれば、時計店の店主も倅も望むことは総じて集まってくるであろうと考えたからである。

「軍需省航空兵器総局指定工場」の金看板を掲げた頃の転業状況
ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども

《昭和十八年》 以上のような経過で「日本計器工業株式会社」という立場から私は判任官ということに決り、修理勤務をする人は雇員ということで、当局との間はOKになった。社に帰ってから業務の開始を宣言した。社の表看板の金文字は「軍需省航空兵器総局指定工場日本計器工業株式会社」と鮮やかに記されたので、当時としては、時めく軍の事業だけに人々は驚いたようである。
電灯会社を呼んで電線をクモの巣の如くに張りめぐらせるのも軍当局の指令書に基いてのことだけに、なかなか光彩を放ったものだ。
日本計器工業株式会社と名称を替えた本社内は、時計修理工場に必要な設備を整えることになった。それだからといって、修理だけのことだから、大した設備というものもない。机を修理台に利用する程度で足りていた。この頃は、何事につけても物資不足の折柄でもあり、且つ足りなくても済まされていた時代であっただけに、物ごとに理想的という案件などは考えられない時でもあったので、先ず直しの道具は各人が手持ということにしてあった。そこで会社で整える必備品は、ベンジンが何よりも大切であったのだ。
然し、このベンジンは軍の御用仕事ということになっていたから軍需省からの供給が約束されて、そこに時計の修理事業が成立ったということになる。工場の作業員は時計店の経営者を当てることにした。
この頃は、軍の徴用令によって米屋のおやじも酒屋のおやじも誰も彼も徴用されていた時代だけに時計屋自身の各人にもこの徴用令状が舞い込んで来た時である。だからこの徴用令状を免れるために、軍需省航空兵器総局指定修理工場の設立が目指されたのである。
従って作業上の組織は時計店の関係者ということになり、工場長には越水保氏(現越水商店社長)を選定することに約束がなって以下十七人の時計店主らを作業員に集めたものだ。集まった者の中には、中野の浜田秀(故)、小岩の浜田、根岸の本田、三輪の佐藤、有楽町の竹本、村田等々、私は会社の代表取締役であるということで判任官の辞令を受けたが、その他の者は雇員ということで諒解をとった。
仕事の順序は、女事務員一人を伴れて毎日虎の門の庁舎まで通ったものだ。ゲートルを足に巻きつけての戦時体制の姿である。庁舎内の時計部で受けつける時計の修理個数は一日五十個ということに決めてあったのだが、時計部の窓際まで延々たる注文者の列が続いて打切りようもない。それが毎日続くのである。戦争が漸次激烈化して来てからは、諸外国に派遣されていた外交官連中が家族ぐるみ引揚げて来たその影響で、時計部に籍を置く者
の大半は高級階層の部類が多かった。それだけに修理に出す時計も、名柄は上等なものば
かりだったといいたいほど多かったものだ。ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども海軍畑の将校連中から注文されたのが多かった。
修理料金は職場から伝票がついて廻って来たものに何割かの手数料を添付して注文者に渡したものである。この修理の外に、ときどき品物の注文があった。時計やバンドの類も。然し私は修理工場という建前で軍需省入りの認可をうけたのだからということで、品物を売ることには一切応じなかった。そこで今度来た時計屋はヒゲをはやしていてなかなか頑固な奴だという批評をしているという噂が私の耳に入って来たので、バンドだけは売ってやるということで取扱うことにした。
この頃のバンドは、男用はカーキ色の軍ハバンド、女持は丹羽さんか何かで作ったオペラだったと思う。バンド組合に話をして五十打ほど仕入れた。配給制になっていたので公定価格だから安かった。たしか藤松君が組合の書記長をしていた頃だと思う。

全国時計小売り組合が統制経済下の修理料金統一協定を作る
共に配給を許可された修理用ガソリンも

《昭和十七年》 組合活動のことで参考のため特記しておくことがある。それは戦時下に
おける時計業者の最大唯一の収入源であった時計修理料金の統一協定ということである。昭和十七年の頃、時計界は大東亜戦争へ突入した直後のことでもあり、営業上の総てが禁制措置をうけていた。そこで残る収入源は時計の修理という一項だけであるので業者の誰もがこの点に望みをかけていた時である。だから修理という仕事とそれによる収入は時計業者の命脈ともなっていたといっていいだろう。
この修理料金の協定基礎資料の提出について監督官庁である商工省当局から指令が出されたのである。その為、時計組合としては、当然当局のこの指令に応じなければならないのみか、一歩進んで修理用に欠くべからざるガソリンの配給という問題の解決にも特段の腐
心をしなければならなかったのである。そのため東京と名古屋、大阪地区の業界代表者会議を問くことになり、その中間地である愛知県蒲郡の常盤館を会場に定めて開催した。
東京時計組合長の野村菊次郎氏などは私的のことでも余り遠出などしたことのない人であったが、この会議にはわざわざ出向いて行ったのだからその重要性を思わせる。この時の会議に出席したメンバーは次の如く記録されている。(昭和四十年山岡氏回顧録から)。
▲東京組合:野村菊次郎、山岡猪之助、後藤安平、▲横浜組合:五味組合長、▲名古屋組合:恩田茂一、水谷、岡田の三氏、▲大阪組合:生駒氏以下数氏、▲神戸組合:美田組合長らの諸氏。かくしてこの会議で協議した結果の価格表を監督官庁たる商工省商工課に答申したのであるが合せてガソリンの配給方の陳情をも行った。この当時の係官は現在日本時計輸入協会の理事長になっている始関伊平氏(自民党代議士)であり、鏑木事務官邸その幕下に配属され業者側の申請に答えて統制経済下における時計の修理料金についての決定を見たのである。
最近では、この当時の行動を回顧して当の始関さんと会談する機会があるが思い出して苦笑するほどである。これらは正世紀の一大記録といえるものであろう。この修理料金表の決定と共に配給を許可された修理用ガソリンについては、戦時下だっただけに、血の一滴として貴重扱いされていたのはいうまでもない。



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