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享保二年、鍛冶屋だった時計師が尺時計を製造したのが初めてか?
本邦時計業界の草創時代

《明治十六、七年頃》 我が国の時計業界としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)の創業になる氏が時計の鍛冶屋として時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して、江戸の文化に貢献したのが時計界の濫觴であるといわれている。爾来、小林氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内冶右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平などがいた。
小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたのである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式時計が横浜・山下町に渡来した。ファブルブランド、コロン、ワーゲンなどの輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々によって暫時時計の翫味は広められて行き、貴金属袋物商人の部門に割りこむようになってきた。
明治十六、七年頃には、既に東京では、大小業者を取り交ぜて、取混ぜて三百になんとしていた。本邦の時計業界は、この頃から急激な発展を想わせている。
次に紹介する「東京時計商繁昌鏡」は当時の業界事情を知るに充分であろう。

明治時代の『東京時計商繁昌鏡』  番付表

《明治十七年》 これは、明治十七年九月十七日の御届書として作られた木版刷による当時の東京時計商の全貌を現わしたものである。出版人は、当時、浅草・阿部川町百五番地の広瀬光太郎氏と署名されている。これによると時計業界の最古老舗として伝統を輝やかしていた八官町の小林時計店が、その勧進元の王格であるのが知られ、番付中では、時計王の服部金太郎の名が最下位にあるは、今昔の感甚だ深きものがある。この番付表は、東京・上野図書館の所蔵する帝都時計界の昔を偲ぶ貴重な資料である。
(註)時計業者に関する解説=本邦時計界創始時代に亘る古代の記録については、八官町の小林伝次郎氏の生立ちを最古のものとし、明冶初代に入ってからの金田市兵衛、竹内冶右衛門、京屋伊和造、新居常七、小野太一、大野徳三郎、小島房次郎、吉沼又右衛門、それに服部金太郎諸氏につながる古記録を追って、いろいろ書き綴られた書物を見るが、その中で、各種の文献から拾い集めたものを以て記録した「柬京時計産業功労者たち」と題して出版した平野光雄氏のまとめたものが、この種頽では最も精緻に作られている。

日本に初めて貿易商館が出来たのは文久二年の頃だった
なし日本の時計業創世時代

《明治十年》 明治、大正、昭和の三世代にまたがる時計界の史跡を集録しようと思い、そもそもその時計が日本に波来したのは一体何時の頃であったのか。その由来を知るため、あらゆる文献をひも解くのであるが明らかに記されたものは見当らない。
享保二年に小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっているところから推して、案外古い時代に時計というものが波来しているのだということだけは想像出来る。日本に始めて貿易商館が出来たのは文久二年頃で、その頃、日本で時計を扱った最百の商館だというファブルブラント商会を嚆矢とし、次いでコロン商会が開館したと伝えるものもある。また慶応三年に横浜町通りに時計台が建設されているというのが明治四年版の「新版異人双六」の時計の絵に出ていることから見て、時計は古くから輪入されたものだという印象が持てる。本編では横浜港が開港したのは、安政六年六月であるから、この頃、百一戸の閑村であった横浜町に出来た貿易商館が、生糸やお茶、機械類に交じって時計を輪入するようになったもの。その頃からの記録に止めたい。
別頃、池内氏の遺書の中に記されていた明治初期頃の業者の動きの関係から当時の時計界というものの片燐が明らかにされたことになる。それによると、明治十年に横浜の区長であった島田豊寛という人の命により明治三年から大田町に時計業を始めていた若松治助氏が始めて時計商組合というのを作っている。この頃、横浜港の貿易商館を通じて時計の取引をしたものは合わせて三十余名であったと記されており、その業者の中には東京居住者の名もあげられているのから推して、時計組合というものの発祥はこの時であるのかも知れないと思える。

明治八年水車で時計の製造を始めた金元時計製作所が時計を企業化した最初である
なし日本時計工業の始めの頃

《明治八年》 日本において時計工業を始まった頃の経路は、時計商館の手を経て、外国製の時計が輪入され始めてからのことであるのはいろいろの文献にも示されている。明治八年に東京・麻布に水車を使って時計の製造を始めた金元時計製作所というのが時計を企業化した最初であると伝えられているが、(金石時計商編)その後、模倣したものがもう一軒出来たがこれも共共失敗に帰している。次いで明治十年に、名古屋の林時計(林市兵ヱ氏)が生れており、これに続いて、大阪に石原系の大阪時計製造会社が明冶二十二年に出現しているのが本邦時計工業としての草創時代であろう。
このあと明治二十五年に、今の精工舎を生んだ服部金太郎翁が隆隆苦労して東京本所・石原町に掛時計工場を造って発足したのが偉大な日本の時計工業史発達の初歩である。

それ以後は次の各経営者の名があげられる。
明冶十八年以降、(岡崎)水谷駒次郎、明治二十年、名古屋時盛舎(林市兵術)、明冶二十二年、大阪時計製造株式会社、明冶二十二年、(姫路)播陽時計会社、明治二十四年、京都時計製造会社(大沢善助)、明治二十五年、水野時計製作所(名古屋・現在の愛知時計の前身)、 明治二十五年、(大阪)渋谷時計製作所、 明治二十五年、(東京)精工舎(服部金太郎)、明治二十六年、名古屋時計製造合資会社、明治二十六年、名古屋山田鉄次郎、明治二十六年、(大阪)江久保時計製造所。

関西方面における時計製造の初期を記録した大阪時計製造会社は、明治二十二年十二月、当時の大阪時計業者中二十一名の出資者で設立された資本金二十万円の有限会社で、同社は大阪市の桃谷に時計工場を設け高木市兵衛氏により発足されたものである。同社の製品を当時明治大帝に献上した記録がある。大阪時計製造会社は社長に土生正泰氏を推し石炭は大阪高麗橋通三丁目に置き、翌明治二十三年に西成郡川崎村ニー七へ本社を移転した。
この時の使用職工数は、三十五名で掛時計の製造を開始、七月に株式会社に組織を改めている。当時の同社の役員陣は次の通り。

▽社長=土生正泰、▽取締役=石原久之助、生駒権七、ダブリュー・オーキン、ピー・アールー・チャンキー、エルジュー・シィルグィスター、イー・ヴィ・グートマン。
かくして同社は明治三十年に到り技師長のピーエッチーウイラー氏のみを残して外人連の全部が退職することになった。田村金太郎氏が技師長を引受けてから、明治三十三年に資本金を十五万円に減額、三十五年に同社を解政するに至っている。
石原製作所は、この時、什器一切すべてで、十万円で引き受け、懐中時計の製造に踏み切ることになった。

愛知県時計製造企業組合員(明治四〇年九月現在)

《明治四〇年》 ▽組長=愛知県時計製造株式会社、▽副組長=林市兵衛、▽評議員=尾張時計、明治時計、高野小太郎、山田鉄次郎、小野信次郎、水谷次郎、神谷鶴次郎、安井角左衛門、長谷川与吉、佐藤信太郎、佐藤時計合資組合、水野光太郎、渡辺国太郎、広瀬朝照、青山勝三郎、吉田耕三、

服部金太郎翁が明治十四年、個人で経営した事業の一切を承け縋いだもの
なし精工舎の偉業

《明治十四年》 日本の時計工業界の今日の礎石を築いた服部時計店と精工舎の創設者は、故服部金太郎翁である。翁が成したその問の歴史を紐解けば、株式会社服部時計店は故服部金太郎翁が明治十四年以来、個人で経営して来ていた事業の一切を承け縋いで大正六年株式会社に改めたもので、精工舎は同社の工場である。精工合は明治二十五年五月に設立、東京市本所区石原町に仮工場を設けて始めて掛時計の製造に着手、吉川鶴彦氏を工場長に招聘して十五名の従業員で発足した。同年掛時計の製造を完成したのに力を得たので動力用機関を設置すべく監督官庁に許可届けを出したが人家の関係で不許可となり、翌二十七年現在の本所啓示町(旧柳孫町)に移転、七馬力の蒸気動力を使用して操業を続けた。
かくて、明治二十八年に中華民国へ掛時計を送荷したのが輸出の嚆矢となっている。二十九年に二十二型シリン式懐中時計の製造に着手、完成してから同三十二、三年に服部金太郎氏は欧米視察に赴いた。帰国後工場の設備を一新して、ニッケル製目覚し時計類の製造を開始、同三十五年に角型提・置時計の製造開始、引続いて金属製枠つき置時計の製造を始めた結果、三十二年頃から旺盛を極めていた舶来掛時計の駆遂に役立った。
三十五年九月に到り、十四サイズ、メリケン式懐中時計を完成、続いて十ニサイズ提時計の製作を進めた結果、完成したのでこれをエキセレントと称し、明治四十年以来帝国大学の卒業生に恩賜時計として授与された光栄の品であり、有名を高めた。明冶三十七年の日露戦争の際は、軍需品の製作に努め、三十九年服部社長は、吉川技師者と吉沌支配人を伴って欧米の著名工場の視察を行った。帰朝してから工場内の施設改善を行い、新型十六型懐中時計の製作に着手、四十二年に完成した。これをエンパイヤと称し、優秀品として面目を施した。その後、明治四十三年に座敷時計、大正三年に十二型女持懐中時計を製作したが、その頃、第一次欧州大戦勃発するに及んでドイツ国からの時計の謝絶をチャンスに、東洋諸国はいうにおよばず豪州、印度・南米・南ア・欧州職に向かって、大量輸出を決行したのである。かくして工場内諸設備の完備と相まって、生産高はさらに増し、生産品の種類も時計に加えて蓄音器、扇風機などの製造を開始するに至っている。
ところがたまたま大正十二年九月一日の関東大震災擺災に遭遇、恒常の全ては灰に帰したが、直ちに復旧に着手し、翌十三年三月には掛時計の製造を開始、同八月には目覚時計続いて各種時計類の製造を開始することになり、早くも災害後二年にして旧態に復すというスピード的努力の結果が示された。さらに業績は進化、そのあと続いて、丸型、十型、八型等の腕時計に、十七型懐中時計に合せて、昭和七年に到っては、最小型の五型腕時計を完成するに到った等のコースである。

戦後初めてシンガポールへ目覚まし時計三千六百個を輸出する
昭和十二年に第二精工舎を作り、生産体制の充実を見る

《昭和十一年》 このように各種製品の進歩と進捗により工場が手狭になったことから昭和十一年には携帯時計の製作部門を江東区の亀戸に移し、第二精工舎として分離、太平町工場では掛置時計類及写真機用シャッターの製造を行う専門的な工場となって行ったものである。然して昭和二十年三月の戦災禍により、同社工場設備の約三割を消失する厄に遭遇したが、同年八月終戦のため一時工場を閉鎖するまで残存施設によって操業を続けていた。
かくて戦後は、二十年十二月事業再開に着手するや同二十一年一月に操業開始、同年四月にはコロナ目覚し時計、六月には八インチ輪振掛り時計、七月にスリゲル掛時計と写真機用シャッター、八月には.八日巻き置き時計を製造して同年末には、月産二万八千個を超える盛業を見るに至っている。そして昭和二十一年四月に、戦後初めてシンガポールへ目覚まし時計三千六百個を輸出しだのを始め、海外からの急激な注文増に備える生産体制と共に、国内需要面にも供給増加方針を立てていった。そのため昭和二十三年には、従来のコロナを改良したニューコロナ及小型目覚まし時計コメット、八日巻時計等を製造、引き続き、新意匠による製品多種品目の市場供給を行なったのである。
然して昭和二十六年二月には、従米のスリグル掛時計機械の構造を改めて、打方に自動調整装置を施した本打式掛時計の生産を開始するに到った等、その改良と技術上の進歩のあとは文字通り目まぐるしいばかりである。
このように精工合の時計類の生産体系は、亀戸の第二精工舎を主柚として、上諏訪精工舎、鎌ケ谷精工舎等、次々にその生産の場を増しつつあり、加えてこれに伴う技術上の改善結果は、遂に昭和三十九年十月東京において開催されたオリンピック東京大会の場で、これまでその競技用に使用されていたスイスの才メガ時計に代ってセイコー製の計時用時計が採用されたことは日本のセイコー時計が世界のセイコー時計としての認められたことであり、輝かしい事蹟となった。
次に精工舎がたどった腕時計の生産年別概況。
〇昭和二十五年度=四十五万個。〇三十年度=百二十八万個、〇三十五年度=三百六十九万個、〇三十七年度=五百七十万個、〇三十九年度=七百四十四万三千個。
クロックの生産年別概況
〇昭和二十一年度=十二万個、〇二十五年度=八十九万個、〇三〇年度=百七十七万個、〇三十五年度=二百七十五万個、〇三十七年度=三百八十一万個、〇三十九年度=四百四万二千個。画像は、大正時代の精工舎の時計台。

明治初期時代の業者活動と荅かりし頃の服部翁の活躍
故池内氏の遺書の中から

《明治十年》 私は兄(父の事)の店に見習奉公し、横浜で兄は時計商社の率先者(指導者の意?)と申しても宜敷、諸商館と取引いたし、卸売り又は、小売もしていた。その頃、夜はランプを使用しており、明冶抬八年には、汽車が始めて開通した。それまでは、吉田橋(可ねの橋)際に高島屋と申す馬車屋が出来ており、横浜と神奈川との問を往復せるもの。このころ関内本町一丁目角に町会所と申す役所が出来、連瓦石を使用した西洋館の建物にて始めて瓦斯がついた。此建物の周りに角桐の瓦斯を日曜祭日に点ざいしたので見物人が集りたり、当時の区長は、島田豊寛氏(島田三郎の養父)戸長は小野光日京氏なり、明治九年より拾年に亘り、時の陸軍大将西郷隆盛が征韓論を唱え閣議と合わず、ために鹿児島に退き兵をあげたが、明治十年九月、城山において遂に戦没す。
此の日、東京の警視庁にて巡査をつのり(徴募巡査という)横浜市より乗船、戦地へ向け出発した。それについての時計が必要品となり、東京で買えない時は、横浜にて買取る事にしていたので、諸多の人は宿屋に押かけたものだ。私は十三才の時だったので、時計と附属品をカバンに入れて宿屋へ商売に出かけていった。売れに売れて、とても品物が間に合わないほどで、残らず売れって帰店したところ食事となり、御馳走をたらふく食い、実に面白かった。
此の時は横浜での時計商況ほど、この時計商館も売り切れと相成り、仲間中まであさりあさって買取り(当時は懐中時計にて竜頭巻はなく、鍵時計ばかりなり。銀側片硝子十六、七型にて卸値一ケ拾五円内外の上物機械流金中彫アンクルしたほど、その値段は、二十円より参抬円位まで、付属は主に銀鎖、磁石、銀のカギ付合せ金、普通物では三十円、上物で四十五円位あり、割合に高価なる物が売行き旺盛となったので、兄は太田町四丁目にて袋物商(小売)、南仲通り三丁目、その頃の取引所近所で時計の卸部を開店した。 (仲通りに銀貨ドル相場取引所が出来、仲買店多く毎日ロンドン相場が立ち、外国商館との取引者は支払う物故自然思惑売買致し、そのために料理屋待合などは何れの町も大繁昌となりった。そんなことから兄は、東京・日本橋横山町三丁目へ支店を開設した。卸部だったので地方客が多く、私はその文店の支配人として毋と共に同所に転勤することになった。ここは問屋街なるため、夕刻には何れの街も閉鎖し、店員は風呂に行き、小僧達は手習いなどをさせてから、十時頃に寝床につかせたものだ。夜分の店を閉めた後は、お客は来ないため、皆寢床に就いているのが普通であった。ある時、夜の十時過ぎに表戸をトントンたたく音がしたので、私か目覚めてくぐりの戸を開けて見れば、そのお客はなんと服部金太郎氏であった。同氏は、当時京橋の采女町に店を持ち、未だ小資本にて毎日仲間を廻り歩いて売買し、少しでも金が溜まれば直に私の店に来て、あるだけの金で見切り品を見つけて買取り、十二時過ぎになると自分で両国に来て、客と待ちしている人力車が来て、荷物と共に自分も乗り、采女町へ帰店するのだった。店の直前にそば屋かあり、此の店が夜分おそくまで営業しているのでこの店で腹ごしらえし、帰店してから帳合せをすませて寝に付くと云う勉強ぶりである。此の十一時過ぎにトントン叩く音のするのは、四、五日間も続き、激しい時は、毎晩もあり、私は雇人が起きないので必ず自分が応対をする事にしていた。品物の仕入は横浜の本店よりは掛で、支店よりは現金で値切りながら仕入れるので、見切時計を買取り、東京の小仲間をかけ廻り、その勉強ぶりに兄も感心していた。ある時、品物を買うために金壱千円也を貸した。この頃、服部さんは、まだ商館との直接取引が出来るようになっていないので、大喜びで、ますます商売に励まれていた。当時服部金太郎氏は二十九才、私の父は三十九才、勝之助二十二才である。ところが明治十年に到り、ドル相場に大変動が起きて、一円二十銭の物が一挙に、二円まで値上がりした。たまたま全国で悪疫病が流行していたので、その結果至る処で貸し倒れが続出した。その時兄も各署の商館に支払う額が倍近くに膨れ上がり融資に使う事となった。
兄は元来、潔癖な人柄であったところから、本・支店を閉鎖してまで債務の决済につとめることにした。そのため商売は脱落の憂目を見ることになった。兄は妻子と妻の母を伴い、また私も実母と共に一まず横浜へ立戻ることにした。そして古物商を営んで兄の手助けをすることに决めた。それについての善後策を協議した結果、これまで折角培って来たところの全国のお得意先全部を取まとめて服部金太郎氏に譲ることに决めたのである。そんなことから当時の支配人松田啓次郎氏は、明けて十九年に服部時計店に入店した。そんな事情から服部さんの商盛は、伸びて店舗を銀座四丁目の中央部に移転することにした。
業務の拡張を計った関係で、その後は一流商館とも直取引が出来るようになり、兄ともども喜びあったものである。この当時幸いな事に横浜にあったワーゲン商会の主人公は兄を非常に信用してくれていたので、月二回に亘り入荷する「武者印」の懐中時計を全部兄の一手販売に委託してくれたのである。この武者印の時計は、当時の時計店にはなくてはならない存在として大切にされていたものである。京都、大阪、神戸方面のお得意先などは、武者時計を仕入れるために、わざわざ神戸からの船便に乗って横浜港まで先を争って仕入れにやってきたほどである。それだけに服部さんもこの頃この時計を大量に仕入れていた。 
これで兄も一息つけることになったので、私も東京市内の得意先回りをしている中に、明治二十三年に松田啓太郎氏が独立する心組を持っていたので、それに代わって私が服部さんの希望を取り入れて明治二十三年四月に入店することになった。
その服部さんは,翌二十四年には、本所・石原町に小規模な掛け時計の製作所を建設し、僅か三十名そこそこの使用人により操業した。その時の進展からついに世界に冠たる今日の大精工舎を建設するに至った。その間の努力に対して最大で最高の敬意を表したい。
池内叔父の遺言書からの写しである。治之助
(註)この遺書の写しは、当の若松治之助氏が健在な昭和三十五年の頃、私の宅を訪れて自分の持つ古い業界事情について書き留めたものを提供し、後日何らかの役に立つだろうと思い、披見させてもらった時に写し取っておいたものである。若松さんからは、外にもいろいろ詳しい当時の事情を聴きとっている。画像は、服部金太郎翁が選議員だったころの雄姿。

明治二十四年、精工舎工場としての本格的なスタートを切った
服部時計店の創生時代

《明治十四年》 時計王の服部金太郎翁の若かりし頃の活躍記録は、前述の秘録により一部明かしたので、服部時計店の生い立ちの頃の状況を文献から拾って簡単に紹介してみる。
服部金太郎翁の父喜三郎氏は、名古屋の生まれで、維新前に出京、京橋・采女町に住み、古道具屋を営んでいた。かって、借家したことがないというから生活上、困窮したというような事例はないようだ。金太郎少年は、十三歳から十五歳まで八官町の辻屋という唐物屋に奉公して、信用を得ていた。時計業を志して日本橋・上槙町の亀田時計店に奉公し、時計の修理技術を習おうと努めたがチャンスが得られず、転じて十七歳から十九歳まで下谷の坂田時計店に奉公を続け、修理技術の習得に努めた。
この頃は物資がことのほか貴重扱いされていた時代時代であったので、修繕に努める夜半の灯油代にも神経を使ったものであった。この坂田時計店は、経営に失敗して金太郎翁が十九歳の時、閉店した。その時、金太郎翁は、主人の困窮に同情して二年間貯めた七円のお金をそのまま主人に提供して感激されたという逸話がある。
それから時計類の買取をやりながら、それを修繕して売るという、腕に覚えのある商売を続けた。自然と資金も溜まり、京橋の采女町に小さな時計店を開業したのが始まりである。時は明治十四年。
従ってこの後金太郎翁は昼夜なく、不眠不休で文字通り縦横無尽の活躍で、前記遺書に盛られた若かりし頃の金太郎翁の活躍ぶりが記された。たまたま銀座に進出する好機を得たで業務は隆盛、ついに明治二十三年、時計製造の第一歩を染めることになり、同二十四年に至っては、精工舎工場としての本格的なスタートを切ったのである。これが、服部金太郎翁が歩んできた経路であり、日本の時計界を代表する時計メーカーが生まれた概要である。画像は、現在の銀座四丁目角にある和光のところにあった当時の服部時計店。

西暦紀元前七百年の頃エジプトで発明された日時計が発祥とされている
なし日本では人皇三十八代天智天皇の御代が水時計を製作したのがその始まり

《時計の創始時代》 時計の発祥は、今を距ること二千六百年前、即ち、西暦紀元前七百年の頃エジプトにおいて発明された日時計が発祥とされている。爾来、幾星霜を経て西暦九世紀の半ば頃、イタリヤのㇵシフック僧正が始めて歯車を利用して時計を作ったのが機械式時計の端緒を開いたものと記録に残っている。
以来技術が次第に進歩して、十六世紀より約四百年前に懐中時計が世に公にされ、爾来進化して今日のような実用化時代に到ったものであると伝えられている。我国では人皇三十八代天智天皇の御代、紀元一千三百二十一年六月十日に水時計が製作されたのがその始まり。機械式の時計が輸入されたのは、室町時代の末期か徳川時代の初期で、その頃の懐中時計は鍵巻きで、主として高貴の方以外の一般には知られて居らず、明治十三、四年の頃から竜頭巻に改良されたのが時計の古代歴史の概要である。
【註】時計国と自称するスイスの時計産業の経路につい調べてみると、十六世紀のころ、ヨーロッパ全土に起った宗教革命の時代に、フランス革命がイギリスに伝わったことから農業国のスイスにも、これに伴って産業革命が及んでいる。雪に閉ざされた期間の生活を助けるために金属用家内工業に慣らされていたスイスでは、それ以後時計作りの手細工に転換することになった。その起源は、ロックル生れのスイス人ダニエルという人が渡米したとき、歯車によりボンボン時計を作る機械を持ち帰ったときから、爾来、スイスの時計作りが始まっていると記録されている。しかしその最初は、叩き鍛冶屋式の方式により、掛時計を作ったものであると博物館側では説明している。ドイツのシュワンベルグの博物館、スイス国、ロックルにある時計の博物館でも同様にその由来を説明していた。

明治初期の時計界と時計組合発祥の由来
なし明治十年に日本における時計組合を作る発想が湧いたという

《享保二年》 日本における時計業としての存在は、享保二年に創生したという。江戸時代の東京・八官町の小林時計店の始祖、小林伝次郎氏が初めであるといろいろな記録上からも認められるようだ。何時如何なる経路によって形作られたものであるか、という点の資料は、これまで得難いとされていた。それが最近に至って、奇しくも発見する機会を得たのである。それは、明治三年以降、横浜港太田町四丁目で開業していた立正堂時計店の若松治助氏に従事していた池内某氏が明治十年に横浜港の戸長、島田豊寛という人から当時、時計組合を作れという命を受けて設立したのが日本における時計組合というものの初めであると池内氏の亡父の遺書の中に記印されていたのである。池内某が取引関係の故事記に綴られていたものによると、明治初期の横浜居留地の商館時代の取引業者の情景は次のようなものである。

明治元年頃の貿易商館の所在名
なし横浜居留地時代の素描

《明治元年》 横浜居留地、海岸通りや大田町で英国人やフランス人、ドイツ人などが、生糸、茶、英国製時計類の取扱いをしていた。さらには、鉄砲、ピストル、時計、宝石類、高級品を扱っていた。時計卸の若松治助氏を呼んで時計商組合の設立を奨めたものである

横浜居留地時代の素描

下田港のお吉の話題ではないが、日本の港が外国人に開港するようになってからの国内取引の貿易は、急展開を見たようである。それを裏づけるものに前記のような横浜港の居留地には早くも外国商館が立ち並んでいた。その数、十余軒に及んで居り、これらの商館を通じて時計、宝石等の商品取引が活発に行われていたようだ。
懐中時計の輸入物もカギ巻時代から転じて、竜頭巻き式のものに改められているなどの経路が示されている事実についてもこのころの業界情況がのぞかれるというものである。
明治初期時代の時計商というものは、扱い品は時計だけでなく、横浜居留地の商館が扱っていた商品を売買している。
特に、これは面白いというものは誰彼なしに仕入れていた。従って、時針、袋物、小問物の業者は、皆同一の商品を扱っていたと見ていいだろう。それを証明する例をいえば、宝石を取扱う業者の中には、袋物の取扱業者が現在でも引続いているなどは明治時代からの流れをそのまま取継いでいるものであるということが明らかに証されるものである。
そうこうしている中に、時計に対する需要が日を追うに伴れて、だんだん多くなって来たことから、当時盗難品などの行方を追う警察の関係もあってか、業者数の多いものから組合なるものを作るよう司直の方から支持があったようである。そのような経路は正鴻をえているかどうかの点は別として、当時の横浜港の区長である島田豊寛という人が(故島田三郎氏養父)横浜居留地の太田町四丁目に時計卸の営業をしていた若松治助氏を直接呼んで時計商組合の設立を奨めたものである。



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