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到着一夜にして、はしゃぎ過ぎて大失敗の件
「酔いざめの水は、下戸知らず」大いに反省

《昭和十四年》 上海での夜食が終わった後、上海の夜の美しさは格別であった。外出時の注意を聞いた後だけに、外出をためらっていたが、興味を持った連中だけでホテルを抜け出した。
この四仙路辺りは、一応戦争は終わったという事になっていたが、上海の外廊には機銃野座が、当時も据え付けたまま相対峙していたのであった。それだけに夜ともなれば支那人の家の雨戸は垂れているので深刻な淋しさが想像できた。その不気味な支那の街を私と越光、加藤、溝口の四人で、一人の支那人に三円の手数料を払い、夜光潜航行動を実行した。当時は一人に一円づつ支払うと何でもやってくれる時代だった。スリルを味わい夜の十一時過ぎにホテルに帰った。おいしいお酒の後だけに、枕元にあった保温瓶から飲んだ水のおいしかったこと。今でも忘れない。外国旅行をしたことがなく、かつその土地の水についての知識がなかったため、第一夜にして大失敗をやらかしてしまった。上海はとてもきれいな水が沸いている都市だが、どんな水でも生で飲んではいけない性質のものだったことを後で聞かされた。「酔いざめの水は、下戸知らず」と言われていたが、この時ばかりは支那というところは、国が大きすぎる割合に、生きるための条件には恵まれていない国であると思った。

上海での一人歩きは危険であった
出かける時は必ず予約したタクシーに乗ること

《昭和十四年》 ウースンの波止場を歩き出した一行の眼には、初めて見る上海の空気が何となく深くより深く味わいたい気持ちだった。上海は異国ではあるが日本が戦争に勝ったお陰で街で見る日本人の姿は何となく強く感じられた。だが反対に戦争に敗れた支那人の気持ちを考えると、何となく複雑な気持ちだった。
支那人たちは、店先で表の道路に向かってうどんのようなものを食べていた。それは、自分は食事を取っているぞという事を誇ろかにしているポーズであることを知って納得した。
宮沢さんは、上海で時計組合と蓄音器組合の組合長を務めている傍ら居留民団副長もやっているので、実質的には団長格で上海には詳しい人。
二十年もの上海暮らしの宮沢さんが言う上海の町の歩き方とは。
つまり昭和十二年の春に上海戦争がはじまり、支那人は日本兵に大量虐殺されている。その恨みもあって、日本人が少数で街を歩いていると被害を被ることがあるという。単身人力車に乗って、横道に連れ込まれて金品を取られた事例もあったことから、街の一人歩きは厳禁されていた。夜出かける時は、流しのタクシーではなく、予約して素性のわかるタクシーを使うことを教わった。

揚子江を巡り着いた四仙路ホテルでの第一夜
五十本入りのスリーキャッスルが五十銭で、旨かったこと

《昭和十四年》 初めて見る支那大陸は、我々一行の眼には鋭く映った。まず船は揚子江を巡りつつ進んでいったが、この頃から海水は黄色みを帯びているのに異様な注目を引いた。上海の埠頭に着くと、チャイニーズ達が船内にタバコ売りの為にどやどややってきた。確か一箱五銭だったと思う。五十本入りのスリーキャッスルが五十銭でこのたばこは旨かった。タバコを止めていた私だったが余りの旨さに、また吸い始めてしまった苦い経験がある。
宮沢氏と私は、先に世話をして上海に送っておいたM氏の出迎えを経て、四仙路の四仙路ホテルに案内してもらった。これから二十日間、上海の町で起こったエピソードは?
上海について思いついたのは、かって先に上海を訪れた千野善之助や大学教授の一行が、一人でヤンチャオ(人力車)に乗ったために、横道に引きずり込まれて半殺しの目に合い、ほうほうの体で逃げてきたことだった。半面、それだけに興味を深めた上海の第一夜に突入した。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発

乗船した照国丸が上海滞在中に支那艦艇から撃沈されたことを知って驚いた

《昭和十四年》 五月十日、中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発した。
参加メンバーは、私を含め、越光曉久、加藤清十郎、中川敏二、梶田久治郎、梶田善次郎、谷田賀良俱、高橋洋二郎、加藤悦三親子の十一名。神戸港では、大阪の研交会のメンバーに見送られて元気に出発した。
船は、昭和五年の第一次欧州大戦当時、日本が日英同盟の線で加担した時の戦利品の照国丸三万五千トンの船だった。一行は、外国航路は初めての経験であり、上海到着まで三日間を要した。この間船中では、同船していた京都大本願寺の大谷光瑞ゲイ下と会談、中支方面の状況を拝聴した。
中支那視察の目的は、中支那の経済視察の他、場合によっては、日支人間の国民交流を計ることを希望しているというと、称賛された。大谷光瑞ゲイ下は、上海にある西本願寺に出向くための船旅であった。しかし、この照国丸は、私たちを乗せたのを最後に支那艦艇から撃沈されたことを上海に滞在していたホテルの新聞で知り、お互いに顔を見合わせ無事を喜び合った。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
上海から上陸、両国民間人の心の交流を図りたいと祈念

《昭和十四年》 この頃私が構想していたのが、輸出金属工業組合の設立で真鍮製品の生産過程が呑み込めたので、この生産品を売り捌く為には戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。なぜならば日本は支那と好んで戦争をしたわけでなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから勃発したもので、日支両国民は心からの戦いを干していないが為に、家庭用品を通じて両国民間人の心の交流を図りたいと祈念したものである。
その方法には、組合員の手による軽金属製品を通じて両国国民の交流を図ることが第一と考えた。支那行きの下調べをした結果、最初の上陸地を上海に決め、そのには知人の宮沢洋行、服部洋行がいたのだ。また二年前に時計修理の就職を世話した人が上海に居て、第三艦隊の専属時計師として勤めていたことが分かり、利用することが出来た。更に明治大学の先輩たち中支那の新政府の要人となって渡支しているとの事活用させてもらった。

本邦時計界の草創時代
享保二年(約百五十年前)創業の小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高めた

《明冶十六、七年頃》 我国時計業としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)創業になる小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して江戸文化に貢献したのが時計界の始めであろうと言われている。
爾来、小林伝次郎氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内治右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平等があり、小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたものである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式が横浜の山下町に渡来した。
ファーブル・ブラント、コロン、ワーゲン等の輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々に依って、斯次時計の翫味は広められて行き、貴金属と袋物商人がこの部門に割って入り込むようになってきた。明冶十六、七年頃には、既に東京では大小業者取混ぜてΞ百人に無んとしていた。本邦時計界は、其の頃より急激な発展を想わせている。
次に表わした「東京時計繁盛鏡」は、当時の業界情況を知るに充分であろう。

粗悪な金側時計を排除した時代
各地の組合員が団結して「安売り合戦」に対処した 

《大正年代》 もの事について万が一、絶好のチャンスという場に出合ったり、ぶつかったりした場合は、それを捕えて生かすことにベストをつくさなければならないという気持は、これから伸びていこうという気概に富んでいる人であれば誰でも考えていることであろう。その意味では本紙が大正十五年に創刊してから、それらチャンスの場にぶっかった場合に十分生かすことが出来た例がある。
大正年代における時計業界は、引読いた下景気風に慣らされて来ていたものだ。それに大正十二年の大震災という不測の災禍の場に遭遇したのだから業者の中には何らかのチャンス到れば、という気概を持って待機の姿勢でいたものも多かったように見受けられた。従ってこの頃の時計界の状況は、懐中時計の利用時代から転じて腕時計を利用するように大衆の眼が次第に移り変りつつあったころだけに、金側そのものに対する品質上の選択の場でも頗る的に批判が高かったものである。そこへ突如として十八金製のぺコ側が登場してきたのである。それが安いからというので、これをオトリ的商品として他店との競争上の安売りの目玉商品として扱うようになって来たのだから困ったものだということになり、ついにペコ則に対して租悪品の排除という情勢さえ生むようになったのである。 このようなことは、時計業系内部として処理し得ても、消費者に向けた宣伝や売り出しをやった場合、公然たる安売り合戦になってしまうので、時計店としてはやり難い事であった。   
このような情勢に合せて業考側では、進んでペコ側を求めようとしない空気が漂い始めたので、ペコ側の売行きにも勢い影響し、時には品溜りという場面も出来るように変ったようである。そのような関係からか、常日頃から通信販売の戦略に妙味を持っていた日本貴金属時計新聞社の福田正風社長の所に新本氏本人がやって来て話し合った結果、このペコ側をつけた金側の腕時計の大安売りデーを実施することになった。場所は、新聞社の真ん前にあった日米ビル南側軒下の空地二十間余りの広さを借り、これに紅白の帳幕を張りめぐらしての大廉売所を作り上げたのである。時事、毎日、報知などの当時の日刊一流紙に大大的に広告を打ち出したので、安売りデーのその日は早朝からお客が押しかけ大変な賑わいを見せていた。ところがその場の写真を、それらの広告を掲載した日刊新聞の紙上にニュースとして掲載することに裏工策が行なわれ、しかもこの状況を新聞があおった関係で、それからのこの廉売場では大いに売れたものである。
そこでこのような状況の続くものを見て地元の京橋、日本橋の時計業者は、大いに憤慨した。その結果、槙野、秦、大西、石井、森川、川名の地元組合代表と、日本橋の古川支部長らが打揃って日本貴金属紙社を訪れて業者側に与える裏切り行為をなじって即時停止するよう厳重に抗議を申し入れたのである。その上組合側では、その夜に緊急会議を開いて同紙に対する不読決議まで行った情報がもたらされた。このような業界情勢が現われてきたので、東京市内とその近郊での安売り合戦は、しばらくの間停止せざるを得なくなったようだが、大正十五年の夏以後は、地方への進出を企画して、郡山、福島、仙台、青森地方を経て、ついには北海道目掛けて廉売団の繰込みを策した情勢が入手されたのである。従って、この方面に対する活動は、業界の声援をバックアップに、頗る活発なものが見られるようになった。
安売り隊の動きは、大正十五年夏頃から始まっていた。そしてその安売りの戦法は、その土地の地方新聞に広告を掲載してから、安い金時計をと煽った挙句に、お客がその時計を買う姿を写真に写し、これを新聞の社会面に掲載するという寸法だからたまらない。これがこの頃の素人衆を射落すもっとも効果的な処法であったようである。私が発行していた新聞の趣旨は、「新聞は業界の公器であるから業界を毒するが如き行為者には断乎排除の方途を執る」という建前をとっていたので、業者者側の味方になって、これらに対して大反発の姿勢をとることとした。廉売団のコースは、既に仙台地方を終わっていたので、このあとの進入コ‐スとして函館、室蘭、小樽、札幌、釧路、旭川等等の主要都市をねらっているような情報がもたらされた。それに対処するためということから、私は東北地方の仙台において行なったペコ則廉売団の暴れ方などの状況を調べながら、青森から函館市に渡って、先ず、函館の時計界を訪れ、対策第一歩の相談をしてみた。
函館の組合長は、金久商店の主人加藤さんであった。この函館というところは、この頃も組合が二派に分れていて、一つにまとまるということが至難な情勢にあったものだ。止むなくその次は室蘭に飛んで大賞堂の藤兼さんに話したところ、藤兼さんは大いにハッスルしたものだ。寺島、西村の幹部連を呼んでこの間の情況報告に基づいて早速廉売団の防価対策を講ずることになり、土地の新聞社側に急いで連絡して、その場合の防衛処置などについての方法をとった。そして一段と対策を強化する意味から「全北海道地方の団結を固めてはどうか」ということに意見が合意した。早遲対策推進のため札幌市に出向き、緊急会議を召集することにしたのである。私は一足先に札幌に向い、相良さんを通して梅沢、小阿瀬、吉永、高木氏らの組合幹部と会談したものだ。札幌では当時、中野時計店の職場長であった佐佐木源助氏が組合側のタクトをとっていたので、佐佐木氏の自宅に各地の代表が集まって協議した。
然る上で、市内の料亭「元東」に於て発起会を開催する段取りまでに急進展を見たのである。この頃の各地区代表の活躍ぶりは実に涙ぐましいばかりであった。この当時札幌に集まった各地代表の主なる顔ぶれは、次のようなメンバーであったと覚えている。
【札幌】佐佐木、高木、小阿瀬、本田、吉永、相良、【小樽】岩永、保坂、【釧路】 梶浦、金安、早川、【室蘭】寺島、藤兼、西村、【旭川】 星野、大滝、芥川、成沢、【岩見沢】堀、【根室】 三浦以上二十名。

かくて北海道時計商工組合連合会なる名称のもとで、越えて翌昭和二年の五月に創立総会を挙行したのである。このような結果で一大廉売の侵入は、その当時全道の何れにも姿を見せないままで経過したようだったが、 そのあと形を変えて地方の日刊新聞の事業部という名をつけた新しい方法で八型、十型の腕時計の安売りを始めて来た。この場合にも第二次的対策が立てられた。そうしてその対策に必要な国産腕時計の仕入れのために、連合会長の岩永氏と共に、旭川の星野、大滝、札幌の鹿島、釧路の梶浦氏らが上京して私と協議したように覚えている。
その結果、服部時計店を訪れて当時の高島さんの配慮のおかけで腕時計の供給を受けたことがあり、団体配給という建前であったことなど、今でもその当時のことが思いだされる。

前橋市における時計の廉売対策の闘争劇
前橋市の安売りをうまく収め、群馬時計貴金属組合連合会の顧問に
 
《大正年代》 時計の廉売行為などというものは、突飛でもない気分でないとやれないものらしい。つまりバナナの叩き売り式のやり方であるからである。金のペコ側をオトリにしたのだから、たしか大正十四年の頃のことだと思う。その頃、東京・上野にあった某時計店の肝いりで前橋市の中央で突然時計の安売りを始めるという情報が入った。この安売りが始まると大変なことになると予想された。 
当時、それに対処する前橋市の時計業者らは、明治時代から残っている上州の脇差姿そのままといういで立ちで騒いだ。現存する深沢時計店の五郎平さんなどは、その頃の丸山組合長のデチに従って、文字通り赤鞘の三尺を小脇に差し込んだスゴイいでたちで安売り現場への切込み、用意の仕度を整えていた。その時の勇壮な姿は今でも私の眼に彷彿している。私はその情報に接して前橋に急行し、安売りの現場をのぞいて見た。
すると私とは顔馴染みである売場担当者の某が主となって懸命に売場作りの準備をしていたのである。私は、これは大変な事になると直感したので、今晩中にでも安売り団側が手を引くように手配するのが肝要だと思い、その足で東京に引返した。そして野尻、吉田、鶴巻の五日会主脳陣を案内して、事態収集のため前橋に急行したのである。ところが両者間の条件が案外に大きく且つ隔たっており、然も廉売停止の調停条件に商品の供給根絶の戦を厳重に打出して来ていたのでこれを活用して、その場をことなく収める事に成功した。この時の手打式が、前橋市内の赤城館で催された。その席上には、緊急招集に応じて馳せ参じた群馬県時連各地区代表の面面がズラリー列となっており、その席上で、私がこの安売りを上手に収めたことを称えてくれて大いに面目を施した。
この事をきっかけとして、以来群馬県時計貴金属組合連合会は、ますます連合会の結束を固めることになった。私はその当時から同連合会の顧問という名誉ある役職を仰せつけられ、光栄に浴している。

金のペコ側出現時代 大正年代
新本秀吉商店から金側のペコ側極安物が新製品として登場

《大正年代》 大正年代における一般的な景気は、あまり芳しい状況のものではなかったように覚えている。特に、日独戦争後の不景気とそれに関東大震災が続いた悪い材料を背負った時代であるから景気の良かろうはずがない。しかし、世の中というものは、“世が乱れて忠臣出ず、家貧うして孝心現わる”例えの如くで、商業陣営の中でも日進月歩常に新しい物の出現があるものである。いうなれば、それらは進歩の類に列することにもなるものであるかも知れない。
時計業業界においてもこの頃、その例に洩れないものがあった。それは大正時代の不景気ということと大震災という惨苦をなめたあとだけに、商業陣営を張っている面では、何とかして新型の商品がないものかと、それを期待していた時代であった。そのころ突如として打出したのが、単価の極めて低い金の腕時計側の発売であった。
発売元は、東京・京橋の小田原町にカザリ工場を営なんでいた「新本秀吉商店」という店であった。その新本商店というのは、元来がカザリ職で細工物には妙手の店であるといわれていただけに新規の物作りには特殊の器用さがあったと噂されていたのである。俗にいって頭が良いという一言につきるのであろう。
新本秀吉商店から金側のペコ側極安物が新製品として登場したのである。終戦後の発明の実現という研究課題がもたらしたことになる。このころの業界の状況は、腕時計が流行している時代でもあり、特に金側という品質については、金そのものが東洋人の趣味的最高愛好品として重く扱われていた時代であったのだから、金側というものが時計そのものを保護する役目を司るという立場の点で、ある程度の厚味を持たさなければならないものとされていたのである。従って当時、金そのもので社会的にも信用を持っていた服部時計店製の「ツバメ印」製品や、山崎商店の「ホシS印」を始め、その他有名商標入りの金側製市販品の対象に上されていたのである。
だから腕時計側用の金の付目方としては、十型の場合は一個につき少なくとも七分から八分、目付の多いのになると一匁を上回るものなどがあり、注文品の常としていたような状況であった。そこへ突如として進出した薄い金のペコ側は、何と一個の付目方がせいぜい四分五厘位という低い目付のために業界筋では驚いた。そうしてすばらしい技巧品だと最初の中は褒めたたえていたのだが、その市販価格が目付の少ない関係で売り易いというのが魅力となった。そうしたことからその品物は、何処でも引っぱりでに繁昌した。
この頃私の肝入れで設立した東京都内所在の時計貴金属卸店のセールスマンから成る「東交会」という会が既存していた。その柬交会員中に新本商店のセールスマンで清水某という人がいた。清水君の売場は、常に高級品を持ち歩いていたので銀座の一流店以外は足を踏み入れなかった。
人気のある金ペコ側は、如何に安いからと言って銀座の一流店には持って行けず、また注文もなかったという。しかし流行というのは恐ろしいもので、その金のペコ側の取り扱いが日を追って激しくなり、一流の銀座の店でも扱わざるを得なくなった時代だ。それが売り出してからたったの二週間か三週間がたったころの事である。
当の清水君は、連日このペコ側を専門に取扱うようになったので、持ち廻って歩くための提カバンの中味はペコ側物だけ。しかも朝九時からの仕事始めから一、二時間を経ただけで全部売切れという好調ぶりを見世でいた。それが毎日連続というのだから売れたのも当然で、その売行と言ったら特別という有様である。こんな状況でペコ側に対する人気は全  
国的に広かっていった。東京の時計の卸業者でも次第にこの金のペコ側の供給が行なわれるようになった。ところがこの金のぺコ側の出現について、一つの間題が台頭して来た。それは、金側時計そのものの商品的価値は、時計の機械を測るそのものが保護する役目を持つものであるのに、ペコ側を取り付けた場合、側そのものがペコペコしているために、機械を保護する役目はおろか、側それ自体が側そのものを完全に保持していくことさえ危険であるという事から、これらの劣悪品の出現は時計業界にとって不利益な物であり、防止すべきであるとの声が高まって来た。これ以来、安くて売りやすいペコ側時計を扱う店と信用を重んじて高級品以外は扱わないという業者が相対立する傾向となった。ここで時計界の情勢は、ようやくそれらの議論を中心に混沌たる空気を醸し出してきた。

六月十日「時の記念日」と宣伝活動の始めの頃
ビラ三十万枚を印刷して東京全市に撒布することにした

《大正九年》 天智天皇の御代が、六月十日に水時計というものを作り、これを使って時を計ったのが時計というものの始めだという。日本では、この日を「時の記念日」と定めているが、時の記念日活動を起した最初は、大正九年、当時の内務大臣伊藤博文公が、西欧文化の進巡に倣って日本国民の生活改善を計り進めることにしたのがそもそもの始めである。
そしてこの生活改善という具体的な進め方のために、「時」というもの貴重性を社会的にも強調することが必要だということから、その方法を街頭における宣伝活動を以て活用することにしたのである。この街頭宣伝活動についての具体的なコースは、大正十三年当時、時計業界紙の一つであった日本貴金属新聞の大阪支局長になっていた中川というひげの老人が、大正十三年の四月頃わざわざ上京して公共的な性質の面が多くて収益性が乏しいと見てとったのか、福田社長自身は余り乗り気ではないようだった。従って大正十三年五月に入ってから神田の一ツ橋会館で社団法人中央生活改善同盟会主催の「時の記念日事業活動に関する執行方法の打合せ会」が開かれた。
その席には、私藤井勇二が代って出席したものである。会議の席には吉屋の                             のぶ子女史始め社会的にも有名な十二、三人が集って、その年の事業執行種目につき協議を行なった。街頭宣伝についての具体化案については、私が社に帰ってから相談した上で返事をすることに約束して帰った。かくて社内における相談の結果、六月十日の時の記念日における街頭宣伝事業を敢行することに決めたのである。そしてビラ三十万枚を印刷して東京全市に撒布することにした。
但し市内での撒布方法については当時、東京地区には服部時計店の社長が頭取(組合長の意味)をしていた日本橋、京橋地区内の時計業者に神田地区の一部を含めた範囲で出来ていた「俗称・日京組合」という団体の「東京時計商工業組合」というのがあり、また別に、山の手地区内業者の団体をまとめて設立されていた「山の手八組合連合会」という二つの団体が存在していたので、この方面への交渉ほか一切の連絡は私が責任を持つことになった。そこで「俗称日京時計組合」側には、組合の事の一切を代表する立場にあった槙野さん(大勝堂)に先ず話をした。そのあと秦利三郎氏(伊勢伊)と大西五郎平氏(錦綾堂)にも連絡をとって話を進めたところ、別に悪い事ではないのでいいだろうという事になり、
組合名の利用の承諾を得ることになった。
次いで山の手連合会側に対する交渉は当時、新宿二丁目にあった紺野時計店を訪問、組合名の使用する交渉をしたところ、「それは良いことだから当日の宣伝ビラ撒布の活動に全支部員が総動員して協力しようではないか」ということに話がはずんで決まった。その結果、六月十日当日の撒布ビラは三十万枚ということに内約した。このような話合いの最終的決定をするために紺野連合会長は、副の近藤抬蔵氏(肴町の富士時計店)と会計の鈴木卯八氏(四谷三丁目)を即刻呼んで合議してからこれを決定したのである。
かくて十日当日は、生活改善同盟会主催の時の記念日宣伝本部なる小旗を立てて、日本貴金属新聞社を本部とする宣伝ビラの撒布活動は、その日の午前八時から私が陣頭に立って全地区を馳けまわり敢行したのだが俄然開題が起った。それは約束による数量のチラシが配布されるというので配布する数量に割当てて人員の出動を手配してあったのに届けられたビラの数量が余りにも少なく足りなさ過ぎるという点の不満の訴えであった。
山の手組合の混合会側の主将、紺野さんは電話で約束の数量が足りないではないか、早速不足分の配給をするようにと強い催促が電話で送られてきた。新聞社側では、社長の福田氏はそれ以上の刷増しをしようとはせず、そのままにしてしまおうではないかという体で表面を装っていたが、組合側の態度が強いので急ぎ印刷場を督励し、正午頃までに全部の
数量ではなかったが兎に角一応増加配給を行ったことで事態を沈静の場に持込むことが出来た。
京橋地区では、森川時計店主(茂次氏)が宣伝隊の主将株で、これに八丁堀の川名、銀座一丁目の石丼氏ら各時計店主ら十数名がズラリ顏をそろえて、この日の宣伝活動のためのビラ撒きに努めたのである。かくて宣伝日当日の夜は夕刻から料亭で慰労会が開かれることになり、その席に私は特別接待を受けて出席した記憶がある。写真は十四年当時の時の記念日街頭活動。ビラを撒くのは大妻女子高生。



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