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昭和二十五年頃の舶来時計の標準価格表
なし懐かしいブランドが並んでいる

O六型大虫並物級銘柄品K18金側:5,800円以上。
   同       K18金側:6,200円見当。
O六型大虫中級銘柄品 18金側:13,000円以上。
    同      18金側:15000円見当。
    同      18金側:20,000円以上。
(註)ロンジン、オメガ、ナルダン級の品物は30,000円以上となる。
    る
O十二型丸変中三針 ステン側:3,800円以上。
    同      同  :4,200円見当。
    同    トップ金BS:4,500円以上。
    同    トップ金BS:5,000円見当。
O男物角型変形オール金張 べンラス番品:4,500円以上。
    同        同      :5,000円見当。
    同        同      :6,500見当。
    同      べンラス新品同様 :9,000円以上。
    同      べンラス新品同様 :12,000円迄。
    同      グルエン二番品  :5,500円以上。
    同      グルエン二番品  :6,500円見当。
    同      グルエン二番品  :8,500円程度。
    同      グルエン二番品  :10,000円位。
    同      グルエン新品同様 :13,000円以上。
    同      グルエン新品同様 :15,000見当。
    同      エルジン二番品  :8,000円以上。
    同      エルジン二番品  :9.000円見当。
    同      エルジン二番品  :12,000円程度。
    同      エルジン新品同様 :15,000円以上。
    同      エルジン新品同様 :17,000円見当。
    同    ブローバ二番品17石 :5,500円以上。
    同    ブローバ二番品17石 :6,500円見当。
    同    ブローバ二番品17石 :7,500円程度。
    同    ブローバ二番品21石 :8,500円以上。
    同    ブローバ二番品21石 :10,000見当。
    同    ブローバ二番品21石 :12,000円程度。
    同 ブローバ二番品21石新品同様:15,000円以上。
    同 ブローバ二番品21石新品同様:18,000円以上。
    同      ウイットナー二番品:6,500円以上。
    同      ウイットナー二番品:7,500円見当。
    同      ウイットナー二番品:9,000円程度。
    同  ウイットナー二番品K18金側:10,000円以上。
    同  ウイットナー二番品K18金側:12,000円見当。
    同         エニカ古物品:2,500円以上。
    同         エニカ古物品:3,000円見当。
    同        エニカ新品同様:4,500円見当。
    同         モリス古物品:3,500円以上。
    同         モリス古物品:4,000円見当。
    同         モリス二番品:5,000円以上。
    同         モリス二番品:6,500円見当。
    同       ロンジン新型古物:8,000円以上。
    同        ロンジン二番品:10,000円見当。
    同        ロンジン二番品:13,000円程度。
    同       ロンジン新品同様:18,000円以上。
    同       ロンジン新品同様:20,000円見当。
    同    ロンジンK18金側二番品:12,000円以上。
    同    ロンジンK18金側二番品:15,000円見当。
    同    ロンジンK18金側二番品:20,000円程度。
    同          メツバ古物品:2,000円以上。
    同          メツバ古物品:2,500円見当。"

ダイヤモンドのシンジケート デビアス社が日本で本格的な宣伝を開始
日本で本格的なダイヤモンド文化が生まれる時代

《昭和二十五年》 貴金属ブーム時代の波にのって時計と宝飾品業界は、金地金の動きと共に宝石類の消費事情についても極度に注目するようになっており、寧ろ競争激化が予想される傾向さえ見られた。
ダイヤモンドの産地である兩アフリカを中心に、南ア地方産出のダイヤモンドは、オランダ、ベルギー、イスラエルなどの研磨業者の手を経て英国のダイヤモンド・シンジケート団に納入される規制になっているという。だがこの中の一定量は、オランダとイスラエル等それぞれの加工国直接のルートで輸入されるダイヤモンドルースもあるという。
日本の宝飾ブーム時代に注目している業者筋の売込みがここ数年間急ピッチで強化されている。英国のダイヤモンド・シンジケートであるデビアス社が日本への売込みを目がけて、既に一部PRに着手しているなどは、日本の宝飾業界が世界的な視線に浮かんでいるという事実を裏付ける一面でもある。
ダイヤモンドの大手サプライヤーのデビアス、コンソリデーデッド、マインズ・リミテッドという会社は、日本市場に上陸し、正式に販売活動を展開し始めた。なおこのような業界情勢の変化から、既にダイヤモンドの卸販売に踏み切った時計業界の中の商社もあり、激しい変転ぶりを見せている。時計の卸企業でダイヤモンドを堂々と取扱っている向には次の各社がある。
☆日東貿易(川上一男社長)、☆平和堂貿易(高木克二社長)、大沢商会宝石部(大沢善次会長)、太洋商会(山崎三男雄社長)。

世界中から注目される『日銀ダイヤモンド』の処理方法
なしダイヤモンドの総量約百五十万個(十六万一千カラット)

《昭和二十五年》 世界第二次大戦を通じて世界の人の眼に止まっているのは、日本銀行か持っていたダイヤモンドの総量約百五十万個(十六万一千カラット)で日本銀行の地下室に埋もれており、その処分がどうするかというニュースがもてはやされていた。
この日銀ダイヤは、戦時中に戦争物資に必要であるからということで、民間が所有するダイヤモンド一カラットを平均単価二千円で買上げたというもの。これは物資活用協会の事業として時計宝石業者らがその買い上げに協力したものである。
その結果、戦争が終ったあとの昭和二十五年に米国占領冢の手で押収されたまま保管してあったものだ。その中には、十八カラットダイヤモンド一個の大きさで一千万円もするというので、この日銀ダイヤモンドの処分について日本人はおろか、世界中のダイヤモンドディーラーの注視の的となっていた。
昭和二十一年の頃には、戦争中の隠匿物資摘発またはそれに協力したものには、二割の褒章金を出す規定になっていたので、その報償金をねらって大阪の某学校関係者が占領軍当局に密告したものがあるという噂まで飛び出した。(その摘発者は所轄の警察署に留置中に死亡して終ったという)。この日銀ダイヤには、このような事情が存在、けんけんごうたる騒ぎを起こしている。
そのような中で、占領軍に接収され、かつ占領物資として保管するに当り、そのダイヤモンドに対する品質鑑定が行なわれた。この鑑定に立会った人は米軍関係の二人と、宝飾品業界の権威者と謳われた日本人では、宝石業者巽商店社長の巽忠春氏、当時の宝石鑑定家の松井英一氏、と宝石学者の久米武夫氏の計五人であった。
そしてこれらの鑑定が前後三回にわたり行なわれており、その都度鑑定評価が変っているのに国会筋では、「いんちきではないか」などの疑惑を抱いた議員筋がいたそうだ。
この点で昭和四十年十月二十三日、大蔵省の国有財産管理局長室(桜井局長)で民間人各代表者との懇談会を開いた席上で、当時の巽忠春氏は鑑定した当時の状況についてハッキリ言明したという。それは、「最初に鑑定した時は占碩物資として押収されるであろうという見込みのために、賠償金の一部に当てるのなら高い方がよかろうという日本人的気持が手伝っていたから」、第二回目の時の鑑定は、「その時代の価格に基づいて評価をした、と世情に応じて行なったもので、宝石業者が個々の立場で自らの営業上有利に導くための偽作?ではないかという誤った判断は迷惑である」といい切ったという。この日この席に立会っていた人でこのことを聞いていた某氏は巽氏のいうごとくであり、堂々たる所信であったと説明していたと報告している。
このような関係と経過をもって日銀地下室の倉庫に保管してあった十六万一千カラット余りのダイヤモンドは昭和四十一年の秋ごろから売り出されることになり、そのための評価鑑定が次の年の三月から実施されている。
果してどのぐらいの額に売上げられるかは、売り始めてから何年も経たなければ判然としない問題であるが、これこそは世紀の興味であるといわれ注目を集めていた。
(註)保管中の日銀ダイヤは総数ざっと百五十万個で十六万一千カラット。品質別では、十八・四四カラットという大きいダイヤモンドが一個あり、この価格は約一千万円もするのであるが、また小さいダイヤモンドもあり雑多。大位五千カラット位は、工業用ダイヤモンドと低品質なものもあり、装飾用のほとんどは五分の一サイズ(二十%)四分の一サイズ(二十五%)、三分の一サイズ(三個石)、半カラット、一カラットなどがこれらに次ぎ、二キャラ、三キャラ台は、極めて少ない。
この日銀ダイヤモンド処分に関する経過亊情について、宝飾業界側の見解を一本に絞っておく必要があるという見地から、昭和四十一年二月十一日東京・浜町の紙工会館でこの間の事情通である全国宝石商卸商組合の理事長である大平吉蔵氏を囲む会を開いて説明会を聞いた。その席上で、大平氏はこれらの内容にふれて的確に述べていた。査定の概要は、明治か大正時代の日本人がダイヤモンド知識に薄い時代に入荷したダイヤモンドを中心に集めてあったのだから、品質は比較的低級のもので、通例一カラットニ十万円が現在の価格だとすると、保管中のダイヤは五万円程度にしか通用しないものだと言っている。果たしてどの程度までの価格になるか、まさに世紀の興味深いところである。
写真は当時の日銀ダイヤモンドの鑑定をしているところ。"

時計のヤミとCIP警察の活動を丸く収めた
盗難品探しに協力する代わりに業者にも恩恵を

《昭和二十六年》 時計店のウインドに堂々と飾られるようになった昭和二十六年の秋頃からCID(占領軍警察)の活動が業界に向けられる様になった。上野の時計市場にもいろいろな情報が流れ込んで来た。「銀座の某店がCIDに踏み込まれ、又は某店のウインドの時計を調べられた」という情報が投げ込まれるたびに、業界では、困ったことになったものだと考えた。
そうこうする中に、このCID関係から警視庁内に外人係の刑事部(第三係)があることが分かった。そして、その中にいる一人が、私の明治大学時代のメンバーだったので、その人を頼りに連絡をとってみたところ、本庁内の第三係というのは、CIDの補助役を務める特殊機閼だということが判った。
そこで、この部の掛川さんという係長の人にコネをつけて、銀座辺りを調べて歩く少壮組刑事連中と取調上の協力関係について懇談会を開くことにこぎつけた。上野広小路際の「金時」という料理屋で一席を設けたものだ。これに当てた努力は、舶来時計を取扱う時計業者の安泰を守り抜くためには、極めて大きな効用をもたらしたものであり、その実績は後世に多大な功績となったのである。
この時の会談の一部を記すと次の如くである。
会談の要点は舶来時計の取扱いについてであった。既に公の状態になっており、だから「表面切って違反に問わないようなにして貰いたい」というのであった。これに対して、「それはダメだ」と中堅派の刑事たちが言い出したので話はまとまらなかった。
この時の席上、酒も回っていたが若手刑事たちが聞き入れる様子がなかったのである。そこで結論として、最終的な提案をした。警察側は、駐留部隊から指示された盗難品を探すのが目的であろう。そこで我々古物商が盗難品の発見に協力する代わりに、我々の努力も認めて、必要な場合は見ぬふりをしてほしいと説得したのである。その代わりに、盗難品を探すのに業界新聞を機関誌として、いろんな情報を流して業者にも協力を求めた。捜査にかかわる協力関係の内容についても詳しく説明した。その結果、両者間での了解が出来たので、提携内容について詳しく話し合った。そこで、私の発行する新聞が警視庁から操作連絡所となり、紙面に詳しく説明して盗難品が探し出せる結果となり、大いに役立ったのである。私が、この際一肌も二肌も脱いで、この妥協劇を収めた劇的な場面を作り上げたことになる。

警視庁管下の犯罪捜査協力会を設立した
三越はじめ全デパート時計貴金属売り場が加入、三百八十名の会員で設立

《昭和二十六年》 時計のヤミ時代に対処するため、業者を一本に纏めたいという空気は当時時計業界の全般に広がっていた。まずは、時計部門とダイヤモンド等の宝飾品部門を担当する部門を、二つの部門に分類することにした。当時、しゃばっ気が強かった高輪在住の長尾喜一氏という人が、団体組織の初めの頃の首謀者であった。そこで、警視庁管下に、@時計関係の主力メンバー、A輝石を始め、宝飾品を扱う業者を集めて「警視庁管下時計宝飾品犯罪捜査協力会」なるものを設立した。その発会式が、東京・芝の美術倶楽部で盛大に行われた。
その団体の会長には、長尾喜一氏が就任、常務理事には昔から兄弟分の関係にあった小倉和助氏と著者の藤井勇二本人が推されて就任している。この協力会がこうも簡単に協力会設立に漕ぎつけたのは、警視庁の最古参刑事であった石渡老刑事の存在があったからである。この石渡刑事は昔から時計業者との接触が多く、なんでも相談できる関係にあったからである。犯罪捜査協力会の会員には、時計と宝飾業界に携わる業者を含め、他に三越はじめ全デパートの時計貴金属売り場を加入させて、三百八十名の会員で設立した。しかも半年で五千円の会費も徴収した。
更に、小売店でも古物商の営業が行えるように、入会すれば古物商という会員証が発行され、ますます勢力を広めていった。その後、この組織が変じて現在の「時計宝飾品防犯協力会」になっている。当時の会長は、白石憲二氏である。私の新聞も、この防犯協力会に協力するために、紙面を割いて盗難品やヤミ時計の被害などの情報を伝えている。私の新聞の事務所が「時計宝飾品防犯協力会」の事務局になっていたから、かなりの発言権を持っていた。

関時連の定時総会に東京時計組合役員が殴り込み
金山重盛氏以下、河内録幣、千野保氏等も同調して結局二十余名

《昭和二十六年》 時計界の団体の種類には、全国を統括する「全国時計宝石眼鏡小売連合会(全時連:略称)」があり、その外に地区ブロック団体に次いで、県単位の連合会が生れている。従って、東京を中心に近接してつながる関東地区の県連を集めたブロック団体が「関東時計宝飾眼鏡小売連合会(関時連)」という名称で営まれ、関誠平会長がここの主班に当っていた。
ところが昭和二十六年、千葉県の船形において関時連の定時総会が開かれることになった。このとき東京時計組合の理事長は金山重盛氏が就任していたので、東京時計組合首班即関時連会長という慣例から見て、東京時計組合の理事長を辞めた関誠平氏が依然として関時連の会長をやっているのはケシからんということになった。しかこの時の総会はお盆にならない前たったから、六月の下旬のように思える。
とにかく、関時連の会長は、東京時計組合の代表が兼任すべきものだから、役員の協力を求めたいとの希望が打出されたものだ。所謂、関時連会長のイスを奪取しようというのが狙いだったといえる。
一人分の費用として五百円を組合から支出したほかは、金山氏個人が全部負担するからということで役員に総会への出席を求めた。河内録幣、千野保氏等も同調して結局二十余名が大挙して千葉県の船形に押しかけ、さながら殴りこみをかけるようなその場の情景を想いうかべると笑いたくなる。
ところが関誠平氏を掲げる千葉県時連側では、特にこの日、館山地区の業者に出動を請い、強力な抵抗を張ったのであった。この事態に関心を深めた今野神奈川県連会長が立上って鋳を入れ、両者の激突を寸前で押えたのである。
つまり決戦の結果では、面白くないことになるということを見抜いたからである。そして今野氏は、その場で言明した。「もしも私のいうことを聞き入れないならば、神奈川県時連は、関時連を即時脱退する」と態度を明確にした。このことがあったので、席上の空気を一変させた。
その結果、「それでは次期首班の選任は今野神奈川県連会長にお預けしようではないか」ということになり、その場は無難に切り抜けた。しかし重荷を背負わされた今野氏は、それから約半年苦しんだ結果の挙句、ついに横浜市の野毛山公園の迎賓館に関誠平、金山重盛他数名の関係者を集め、懇談調整に努めた結果、金山重盛会長就任ということで一先づは業界の平静化を計ることになったのである。
こういう形がとり続けられたのを利用して、山岡猪之助氏の東京時計組合の理事長時代にも、関東時計宝飾眼鏡連合会の会長を以前把握したままであったなど、この間いろいろな感情の縺れが起こり、湯河原での総会を契機に決別することになった。
以来、東京時計組合は、関時連とは別に、東京単独のブロックを形成して、全時連傘下に入ったというのがこれまで辿ってきた団体間のコースである。

輸入時計の取扱量をいかに増やすかの許可運動
なし本社から発信したアンケートが功を奏して

《昭和二十六年》 然し何といっても、この頃はまだまだ総てがヤミ時代であったのである。従って、もし一斎手入れでもあった場合は、時計界はおよそ倒産してしまうというほどの危険を感じないわけにはいかなかった。今の中に何とか手を打つ必要があるという考えから、この面に関して手を打ったのは前に述べた警視庁特別捜査第三係の外人係に接衝して、舶来時計の取扱を防犯面から捜査に協力するという建前を以て、漸定的に黙秘するという形をとって貰うことにしたものである。いわゆる協力に対するお土産。
その効果は、全国の時計業界に偉大な効用をつくしたことになった。その結果に鑑みて、昭和二十六年には舶来時計の輸入許可促進についての意見を、各地区の組合代表者から集めることにした。当時、本社から発信したアンケートの内容を明記すると。

@ 現在の時計扱量で満足しているか、
A 舶来時計の輸入許可を希望するか、
B これらの許可の陳情を行うことの可否、
C その他、当局に対する意見の具申。
というようなものであったが、何れも現状の時計量では足りないという意見が圧倒的に回答されて来た。そこで、私はこの意見書を取まとめて当局に陳情し、輸入時計は業界の必要量に応じて許可されるべきものであることを強調し、業界の利益のために大いに努めたのである。"

舶来時計が正規なルートで市場に流入することになった
舶来時計OSSの払下げ入札で

《昭和二十六年》 前述のような時計界としての意向を盛った陳情書を当局に提出したからということでもあるまいが、昭和二十六年六月に、突如OSSの特設品全部を指名入札により公売する旨を発表した。そしてこの報告は、上野所在の古物防犯協力会にももたらされた。
そこで白石憲二防犯協力会長以下有志が、会場に当てられていた京橋の明治屋三階のOSSのオフィスにおいて実施された入札会に参加した。
私らも一割の入札保証書を担保して競落の仲間入りをしたのだ。このときの払下げの実現で舶来時計としては、始めて日本の時計業界に正式に入籍することになったものである。だから、この日の入札の事実は、それによる収入利益よりも、舶来時計が正規なルートで市場に流入するという事の方が、また一段と大きな収穫になった点が頷かれる。
かくして明治屋に展示されたOSSの払い下時計は、大体二千八百個位あったのではなかったかと思う。この時計が結局は小売店の望むところに配られて、それがヤミ事件の起る場合、どのようにカバーする役目に効用があったかは、当時を想い出して業界の利益事件として回顧することがある。
然も昭和二十六年から二十七年頃に至っては、ヤミ時計品に対する取締当局の検察眼は、ますます厳重になって来ており、時計界としても、この当時が最大のヤミ事件を生んだものではないかとこの当時のいろいろな事が想い出される。

ヤミ取引の内幕とヤミの経路
香港から一包み三千万円が一回分として来るのが原則的

《昭和二十六年》 一体、ヤミという形体はどのようにして作られていたのかについて、少しこの辺の状況など一片を記してみよう。
昭和二十六年頃における商況というのは、一切がヤミ取引であった。つまり、人が欲しがる生活用品が足りないのだから、結論としてはヤミ以外にないことになる。
価格は、自然的に釣りあげられることになる。だから、自然とヤミ値を生むことになる。従ってこの当時の生活状態は、そう安楽なものではなかったが、ヤミを作りうるような特需社会では、一応景気は良くなっていたようである。
ところで、この時代のヤミ品の流れ具合などを振り返って見ると、先ず最初は、空から横田空軍基地経由のものもあったが、ヤミ畑の面が盛んになって来た頃からは、自由港であった香港を経由するものの方が多かったようである。香港からの密輸品のルートについて、私のところへ持込んで来たある人(名は秘す)からの交渉の一片を記すと、
ヤミのルートは、香港から一包み三千万円とこが一回分として送られて来るのが原則的になっていたようだ。船の運送の関係であろうか、この当時は時計だけではなかったもので、薬品でも綿布類でも購買力のあると見込んだものは総てこのようなルートと方法によって持込まれたものである。
私のところへ持ち込んで来た人の話では、オメガ、インターナチョナル、ナルダン等の時計類。それに南京虫も混ぜて一梱価格三千万円也であった。取引の橋渡しをしただけで、その一割を報酬に呉れるということだったが、私は新聞を出版している関係で、その紹介を断然ことわった。考えて見れば、宛ら垂涎三千丈というような甘い話であったのである。だから、志を別にしたものは、この頃の状勢にのって、盛んにヤミ品の取扱いをやったものである。
一回の手数料三百万円だから、これが月に六回位は反復することになっていたので、一ヵ月も経てば、その間の手数料の収入だけで優にヤミの仕入資金に充当することが出来たものである。だから若しこの頃、そのヤミなるものに本格的に手を染めていたとせんか、今は何十億円かを貯めこんだ長者組の中に入れられていたかも知れないということになる。

ヤミ時計検挙事件当時の秋嘆場など
小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物数百個単位というものもあった程

《昭和二十六年》 ヤミ時計のもっとも盛んであった昭和二十六・七年頃の時計界は、何処でもここでもというほど盛んにヤミの取引が続けられていた。小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物(南京虫)を合せて一種類数百個単位というものもあった程だ。従って警察の眼も、この点に注がれたものである。
然し商人という性格は、例えそれが悪いことであると承知していても、自分以外の同業が儲けているのを見て見ぬふりは出来ないものと見える。よほどの成長人でない限り、昭和二十七年の秋頃、東京市内の大どころに警視庁第二課発の捜査網が突然布かれた。その状況が新聞に出て、その店は一応閉めるという騒ぎを演じたのだが。そして、「今後ヤミ品は一切取扱いません」という一筋の念書を当局に入れて済ませることにはなったものの、この調査中の数カ月間は、内心ビクビクの情況で押し通したものだったという。もちろん事件の表面だったその小売店の主人公は、雲がくれという寸法である。この事件の取調べに当った警視庁のN主任は、経済係のS某といってその後時計業者とはだいぶ馴染が交わされるようになったようである。
この時の事件に関連した供給者側には、東京在住の大手筋が殆ど加わっていたようである。
従って取調べが進むのにつれて、摘出された時計の数は、なんと数十万個にも及んだようだったから、ヤミ事件としては、大変大きく且つ珍らしいものであったようでもある。
結局、八ヵ月間を費して一件書類は検事局送りとなったのであるが、その以前に係刑事が検事局にこの事件の取調べ経過を内申したところ、係刑事連があべこべに脅されたとして憤慨していた光景があり、その事実を本人から聞かされて笑えない一幕を感じたことがあり、正に珍事であったようだ。
ヤミ事件を摘発して、そのヤミ品のアリバイが明確であるのにもかかわらず、検察当局からお叱りを受けたということそれ自体は、取調べの根本にミスがあったからだということになる。係主任刑事の告白によると、ヤミルートは一応明らかに摘出することが出来た。勿論、数量と金額も合い、又それによる利潤計算も明かに算出されたのではあるが、ヤミ品の供給者である杲氏が事件開始の直前に死亡していることにより、これによって事件の全体が見えなくなったというもの。つまりヤミ品であるかないか、又そのルートが如何なる方法によるものかどうかの点を明かにすべき立場の人(証言すべき人)が死という事実によって、総ては清算されなくなったのである。係刑事のN某は、顔を青ざめて怒つて見たが致し方なく、事件はそのまま白紙となり、その中の一部だけが送局されたに過ぎなかったようである。この問題は、戦後を通じてヤミ事件中最大のものであったようである。「泰山鳴動して鼠一匹」という結果になって終ったというもので、戦後のこの種事件では特記すべき一節である。



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