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四貫に余るダイヤモンドが入ったトランクが売りに出た
戦時中信州松代所在にあった大本営の資材物資に

《昭和二十四年》 昭和二十四、五年の頃、市場閼係にはとんでもない物が舞い込んできた時代があった。この中で貴重品など何処とはなしにとび出して来たものであった。勿論、持ってくるネタそのものが、総て正真正銘のものだとは受けとり難いものもある。とにかく湧き出た珍談には、一応耳をかたむけるのが商売上の常道になっていたので、先ずは竹内武一君が持ち込んで来た話から書くことにした。
その話は、信州長野市の在で、現に地震騒ぎで慄いている松代町にある旧大本営についての話である。そこは戦時中の避難用に建てられた大本営であり、そこへはいろいろな軍作戦上必要であり、かつ貴重な資材物資が持ち込まれていたという。その中にダイヤモンドが入ったトランクがあるから、それを持ち出して処分することになったというのである。品質は工業用ダイヤモンドということであり、量は四貫目に余る程のものだから買おうじやないかという相談であった。
価格は、四十二万円という触れ込みであった。そこで、この品物の持ち込みを待ったのであったが何日になっても持って来なかった。然し、この品物とおぼしき部類のものが、その後、陸続とある市場のセリ場台に現われ、投売されるとの報告があった。本当のことであるかどうかは別として、このダイヤモンドが入ったトランクの実在をめぐって、当時業者間では大騒ぎだった。これも戦時中に残した業界関係品の面白いエピソードの一つである。

舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった
ヤミ時計の旺盛な時代

《昭和二十四年》 時計の需要は、昭和二十四年の頃には頂天的に伸びていったと思える。時計は、時間的な関係からでも必要だという需要性に合せて、人の生活上の好みということからも急激に伸びて来たようだ。これと並んでもう一つの特長がある。それは永い間植えつけられていた舶来品珍重主義への現われでもある。
酒、タバコ、ライター、洋服類に次いで時計への愛好心は特に強かったようである。だから舶来時計は具合がよい、時間が正確であるという印象から、国産品では何となく物足りなさを感じた時代でもあった。愛好の第一に挙げられたものはデザインである。白、又は金色を配したもののエトーの艶やかさに加えて、タイプが十二型以上、十三型、十四型の薄手に見えるすばらしさが誰の頭にも欲しい、という感じを抱かせたものらしい。又その青金色が何ともいえぬアメリカ製張りの良さを見せていたのだからだ。
大体、日本人の金色欲求感は純金のいわゆるヤマブキ色にあるようである。新時代の好色感は、アメリカが生んだ青金式金張色がまた別に市場の欲求を満たしていたともいえる。そのような角度の感じが寄せ合ってきていたので舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった。
然し、時計小売店でのこの時代の売れ行きは国産、舶来を問わず何でも売れていた。時計自体が依然足りない一点張りの時代であった。精工舎で生産される腕時計の数量は、昭和三十六年頃には月産約四十万個に達する量産を見るようになっていた。それでも不足していた時代だけにその不足感を補うには勢いヤミ時代を生み、かつ業者自身がそれに慣らされていかなければならない時代でもあった。従って、この頃がヤミ時代として、その価格の点では最盛時代ではなかったかと思う。

天下の大沢商会だけは、ヤミという伝票だけは切らせなかった
ヤミ商法をしない卸店もあった

《昭和二十四年》 この混乱したヤミ時計時代に、ヤミ価格の取引は一切致しませんと頑張って信用を高めていた店があった。横道にそれるようだが、この一項について紹介しておこう。
セイコー製品の発売元である服部時計店では、勿論ヤミ売りをしない。然しここから出荷する時計は、直接小売店向けのものとは別に卸店を経由してそれぞれ各地の小売店にばらまかれたものである。品物不足の時代だからといって、セイコーそのものズバリのヤミはなかったようだが、時計バンド類の抱き合せ売りが結局時計そのものの価格をヤミ値に持って行ったことは事実のようだ。
いわゆるヤミ時代は、このようにして流通していたので、抱き合せ販売それ自体が当時は通常的な商法として扱われていたのであった。一個につき千円ものヤミ価格をつけて卸売りをしていた時代であり、当時大沢商会だけはこのヤミという伝票だけは切らせなかったというので今でもその評判は残っている。

南京虫、月の販売が五十万個?の消費時代
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円まで

《昭和二十四年》 以上のような時計界の動きを見せていた時代、即ち昭和二十四年頃以降の時計の取引は正にヤミ時代であった。そのヤミ最盛期畤代における取引の中心地は、最初は銀座だったが、後に上野方面に移り上野の交換市場を本舞台にして新品も古物もいろいろ取り混ぜ、ともに盛んな取引されたようである。が然しこの時代には、古物品といっても真の古物品でなく、古物と称して新品といえる程度のもの、いうなれば新品で通る代用品のモノが一番好まれていたようであった。従って値段は高いということになっていた。
このヤミ時代に、一番先に売れた外国品といえば、ブローバ、グルエンなどアメリカ市場で売れていたものがあげられる。ブローバとグルエンは、アメリカ市場で一世を風びしていた時代であったからでもあろう。戦争中か一番多く扱われていたのがこのブローバとグルエンであった。戦後の日本の時計市場を見舞ったブローバとグルエンは、今でも印象づけられている。
この当時の市場での取引状況は何でも舶来の新品らしきものが出ると血眼で奪い合ったものだ。従って値段はない。現品持参人のいう価格がそのまま仕入価格になってしまったというほどであった。だからこの時代は、売方のいい値の価格で通ったわけ。次いで時計バンドの類では、キーストン会社の金張りグサリ一本が、五千円から六千円と来たら誰も手を出さないかと思ったら、最初は二本、五本と買って帰った業者が、その次には十本、二十本と大量に仕入れていたのを覚えている。それほど活発な取引が行われていた。従って時計の出回り状況もだんだんに良化して来て、完全な外装ケースに収められたロンジン、エルヂン、ミドー、モバードというような高級品が出廻って来るようになってからは、市場は又一段と活況を呈するようになった。
銀座の店舗は勿論、何処の店にも舶来品が公然と並べられるようになってからは、客の欲求度とデザインと性能のいい舶来品に眼がそそがれていったようであり、無理からぬ傾向であったと言える。腕バンドの金張りモノでは、品物が出始めた最初の頃の値段は、一本五千円から六、七千円ぐらいしたものだ。
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円までの高級品が飛ぶように売れて行く景気のよさが見られていた。この頃、この活況ぶりが全国的に知れ渡ったためか、東京・上野を日指してやって来る地方の販売店主が多かった。そうした人達の注文は、南京虫を何百個、男物何百個というように、まるでバナナかナシでも売買するときのような気軽さで注文するのであった。
だが然し、この商品の供給所(アジト)が問題であった。秘密売買所であるのだが、表向き大っぴらなものではないだけに、その家の出入り口は常に厳重に番丁が立っていたものだ。だから地方からやって来た仕入目的の人達は、品物を間に合わせてやるということが出来る人は、人かどの貫禄を持った人でなければ為しえないものであった。このような状況だったので、当時のヤミ時計の動きを推計すると、南京虫だけで1ヵ月間で五十万個位の動きを見せたであろうと言われていた。だからヤミ時計とは、即、南京虫という印象がつけられていた時代でもあった。

昭和二十四年、芝の美術倶楽部に宝飾関係者約百人が集って結成を決めた
捜査に協力する建前から「警袒庁管下犯罪捜査協力会」なる機関を設立した

《昭和二十四年》 昭和二十四年ともなった頃の国内の情況は、一般的にはようやく落ついて来た感じとなった。然し、物資面の取引は、依然としてヤミ時代が存続していた。だが各業界ともに、新時代への息き吹きが見られるようになった。その頃の時計、宝飾業界の情況はというと、時計は依然国産品の供給が少量で不足していたため、舶来品時代が続いていた。それだけに、まだまだヤミ時代であったといえる。
そんなこんなで業界内の空気は、時計畑の人も、貴金属を扱う面の人達も、相通ずるものがあるようになっていた。従って、この頃は交換市場を通して取引するのが業界の大勢であった。
この頃の市場は、各所で開かれるようになっていた。東京では、時計関係では上野公園の梅川亭で開催される「上野会」を始め、「高円寺会」、「五反田会」、「五の日会」、浅草の「七の日会」、貴金属関係では、上野の「台東会」、三田の「ヒジリ会」、それに芝の「貴石倶楽部」というダイヤ専門の連中の会までが定期的に催されるようになっていた。
警視庁当局の警視の取締に関する眼識(にらみ)も、この頃からこの業界畑に向けられるようになって来た。そして特に、犯罪捜査上の関係から、その必要を痛感されて来た被害品の発見には、欠くことの出来ない贓品に対ずる鑑識眼の智識培養の点で、講習会の開催などについても協力方を要求されて来た。
そこで、この捜査に協力するという建前から「警袒庁管下犯罪捜査協力会」なる機関を設立することにした。
昭和二十四年の中頃、芝の美術倶楽部に宝飾関係者約百人が集って、この種団体の結成を決めたのである。この席上には、本庁の古老刑事である石渡氏がやって来て、取締事項について説明した。勿論、協力会の会長には、貴金属畑で古参株の長尾喜一氏が就任、常務理事には小倉和助氏と弛謁常任理事に小倉和助氏と私(藤井勇二)の二人が担当することに決め、当局との協力体制に備えることにしたのである。
だからこれから後の警視庁捜査課の人事関係には、第一(殺し)、第二(保安)、第三(窃盗)等、各課長以下歴代の担当者といろんな面談の機会が作られたのである。かくして協力会の事業が仲展していく中で、当時の会長である長尾喜一氏は、交換会の創始時代を描いた『交換会の沿革大要』なる一書を編纂した。業界の史蹟中には、「時計貴金属業界の歩
み」として貴重な記録であるもので、次にその内容に付いて記してみる。

昭和二十四年、関誠平、干葉豊氏らがハッスル
全時連団体結成初歩の頃

《昭和二十四年》 終戦後四年になる昭和二十四年の舂頃には、時計小売業者から全国的
団体の結成が叫ばれかけていた。このようなことは、当時の時計界の情勢が一応収まってきたからだということがいえる。この全時連の結成のそれを先躯主唱したのは名古屋に当時頑強の士としての呼名で高名を謡われていた恩田茂一氏である。それに東京の関誠平氏(関時連会長)と千葉豊氏が協力し、更にその呼びかけに答えて乗出した近畿連合会長であった大阪の尚美堂社長の江藤順蔵氏の四名の士である。
この当時の経過を聞いてみると、全時連は昭和二十四年五月九日、東京の時計会館で設立発足されているが、それよりー年前の二十三年の九月に、前記の四名がはるばる東海道線の油田駅前の引馬旅館に集って、第一回目の準備打合せ会を開いたのが、戦後におけるそもそも全時連発足のスタートであった。
次いで第二回目の準備会が、昭和二十四年の三月十三日、伊東の大和館で関時連会長の関誠平氏が主唱して開催されている。そして、この日集まった各地区ブロック代表連の意向によって全時連結成総会の準備工作が決った。昭和二十四年五月九日に東京・新富町の時計会館で堂々設立総会が行われたのである。かくて全時連が結成した最初の役員人事は次のようになっていた。▽会長=関誠平、▽副会長=千葉豊氏(東京)、江藤順蔵氏(近畿)、恩田茂一氏(東海)、▽常任理事=「東海」恩田、原、「近畿」江藤、川本、「九州」安倍等の諸氏。だが当時、関東近県の役員が未定となっており、まだ全体の調整が取れていなかったことが伺える。いずれにしても、時計の小売界情勢は、終戦後の混乱期から脱して正常化してきたことが伺える。
来よう。

ヤミ品オンリー時代、何時踏み込まれるか恐怖に慄いていた
全時連結成時の気運とその頃の時計界
   
《昭和二十四年》 以上のような経過で、時計小売業を統括する団体の「全時連」を設立するための動きは一応ついた。だが、小売業者の全部が、この団体の結成に賛意を表していたかどうかは、明確でなかったものだ。何故なら、この頃の全時連に対して協力していた地域は、東京、名古屋、大阪という範囲のものだけであり、然も、結成総会を開いた時でも、関東勢から選任されるべき常任理事者の決定がなされないままであった経過から推しても、この当時のこの間の業界情勢が読めるのである。
この機会に一寸断っておくが、関時連会長の関誠平さんという人は、非常に世話好きな人で何事にでもよく顔を出して動いていた人だった。
また全時連なる団体発足の最初に協力した千葉豊さんも、案外その意味では関誠平さんと似たような性格であった。更に、世話役の恩田氏が、この間設立について手伝ったので、関西時計業界を代表して、一も二もなく近畿一帯の小売業界をまとめている立場にあった江藤順三氏が、これに協力したのだから、全時連なる団体のスタートだけは出来ることになったのである。
だが然し、全時連というような全国的な業界の団体をその傘下に総て収める事業の完成は、一朝にして成るというものではない。従って全時連なる呼称の形だけは出来ることになったが、その完全なる団体結成の実現までには、なお時間的な余裕を必要としていたといっていいようだ。
だが、この頃の時計業界は、依然としてヤミ品オンリー時代であったのである。だから小売店の店頭には、眼もまばゆい程の金色燦然たる舶来時計が、金ピカのものや白色強いステンレス製の時計などのデザインをつくした豪華製品として諸店の陳列を飾っていたのである。これが総てヤミ品であるというところに、いつ警察の踏み込みがあるかとの恐れがないとは限らないという恐怖があった。
だから、それらへの対策の場合もそうだったが、既にこの頃は、協同組合としての政治的活動もそうだが、仮に、業界内の要望を聞いてみたが、業界の総てが一本化体制にまとまっているという必要性があった。即ち、業者側の意見は、その業界内の総意でなければ何事の陳情にも当局側では取上げてくれないことになっていた。然も、そのような傾向か極め顕著になっていた時代だったので、全時連なる団体の強化推進の意見は、漸次この頃から業界内に蔓延っていたといえる。所謂、民主主義的思想の現実化が政冶面を通じて具体化されようとしていた時代であると言っていいようだ。

近江神宮に奉賛会と「東部漏刻会」
関誠平氏が自ら「東部漏刻会」の会長に

《昭和二十四年》 滋賀県大津市錦織町所在の近江神宮は、天智天皇を祭ったもので、時計業界には縁の深い神社である。昭和二十四年に建立されて以来、だんだん神社に参
詣するものの数が増えているという。その近江神宮に奉賛会があり、その奉賛会の中に漏刻会があった。東京では関誠平氏が自ら「東部漏刻会」の会長に任じ、いろいろと奉賛事業を推進している。この東部漏刻会は、昭和二十五年の春頃に設立したもので、当時は関誠平氏の片棒をかついて飛回り、その発会に努めた平并幸之助氏が業界紙社を訪れて協力を求めた当時の事績もあげられている。
以来、この漏刻会は毎年六月十日の時の記念日の祭事と秋の例大祭の日をめがけて、参拝団を募り、近江神宮に詣でる等、敬神の念を厚うしている。東京では、東部漏刻会の総会を、高輪の高輪閣で行うのを例として、高松宮殿下の御来賓を仰いで、厳粛な光景をもたらすのがこの漏刻会の持つ誇りでもあり、特徴とされている。写真は、東部漏刻会の総会スナップ。正面に座っているのが高松宮両殿下。

東洋時計が破産倒壊の悲運
軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁していた

《昭和二十五年》 精工舎に次いでシチズン時計などの国産時計メーカー陣が、終戦後の整理もついて伸展途上に向っている時、哀れ倒壊破産の悲運を見たものがある。それは、戦前、一時は服部時計店とは商敵の立場であった旧吉田時計店が経営していた工場の東洋時計のことである。
この東洋時計は、昭和十年頃から埼玉県の上尾に作った置き時計の向上が伸展して東京・日野市に腕時計工場を設立した。
従って、この会社の株式は全国の小売店から集めたものが多かった。私もこの会社の株式を四百株持っていたので、破産当時の状況など明白に覚えている。
戦時中は、軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁したものである。終戦直後は、上野不忍池々畔で従業員大会を開き、壇上より大声をだした当時の吉田庄五郎社長の勇壮な当時の姿など、今なお彷彿たるものがある。昭和二十五年五月二十五日、上野・元黒門町の当時の吉田時計店の本社内において開いた株主総会の席上は、けんけんごうごうたる状景を呈し、遂に倒産を決定整理に追いこむことになって終ったが、総会の日の席上では、この間の会社事情の細かい説明むなしえず、終末を告げるに到ったのは哀れな一片である。
私は、昭和二十五年五月二十五日、上野元黒門町の同本社内で開いた株主総会には株主の資格で臨んだ。総会のこの日の状景は、社長の吉円庄五郎氏の顔が会場に見えたと思ったとたんにまた消えてしまった。そしてそのあとは、後任社長を選挙するという会議の順序であったのだが、集まっていた株主らしき面々は納まらない。「株式清算経過を説明しろ」と詰めよる声で会場内はけんけんごうごうたるもの。会場内には、弁当持参で頑張っている者も相当数いた位だからその内容は推して知るべし。資本金三千万円の東洋時計(吉田)が王者の夢も空しく終末を告げたのは哀れであった。
写真は池の端仲町にそびえていた当時の東洋時計の旧吉田時計店ビル。

落ち着いてきた古物品旺盛時代の業界
物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった

《昭和二十五年》 いろいろな変貌を見せて来た時計業界も昭和二十五年を過ぎて二十六年頃からは、何れともなく所次落ち着きを見せて来たようだ。だが、物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった。この当時の業界は次のような状況をみせていた。
時計が表面切って入荷を証明出来るものは、腕時計では国産のセイコー、シチズン、オリエントだけである(オリエントは昭和二十五年に再組織して発足した高野時計だった)。
この他に舶来時計はあるにはあったが、何れ正統に入荷された筋合のものではなかったのである。それだけに、しいてあるとすれば、外国から持ち帰ったものか、又は進駐軍からの横流れのモノであった。
従って、舶来時計は仮に、その品物が店頭に列べられていたとしても、それを統一した価格はつけられなかった性質のものだ。だから客筋は舶来時計の陳列品があれば、その店の中に入って行って、時計の値段を聞いてから買ったものだった。だから店内における客との応対ぶりは、その客が素人であるか、または玄人筋かを一応警戒しながら取引に応じなければならなかった。
だから陳列時計の殆んどは、古物品として取扱われていたのである。この頃の古物業者への供給筋では、案外小売業者の側からは、人気を博し、珍重がられた存在であったのである。



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