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シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会
金属製バンドのニューデザイン物に関心を見せたが価格の点では不成立

《昭和三十六年》 クアラルンプールという国は、そんなに大きな国ではない。だから見て歩くところもそう広範囲に亘るものではない。時計バンドの見本など持参した業者陣とともに、三井物産とは別の東京時計のクロックを特約販売している原地人(マラヤ)の時計卸商館を訪れ、その主人公のダンジョン・プリョタという人に会って話を聞いてみた。
会談の内容から、「日本の置時計は素晴らしい」という一点を述べただけで、その外は東京時計に感謝しているというだけ。これをこのように、というような具体的な改良や進歩という点についての意見は出なかったところは、日本人とは少し違っているようにみられた。だがシンガポールとの合併が伝えられているではないか、という私からの質問に対しては、「ノー」、宗教が異なっているからとハッキリした回答をしていた。
このような点から推しても、東南アジアの人達の民族的意識というものは根強いものがあるという判断が持てたのである。
シンガポールに行くのには、陸つづきであるのだから飛行機を用いる必要はなかった。バスでOK。シンガポールは英領の支配下にあったのだから、ここの港には米英両国の軍艦の姿など見られた。シンガポールの街は海岸に面したあたりが英領らしく、植民地的な風景を漂わせるものがあり、清潔な街の設計には目をそば立たせるものがあった。
ひとたび商店街に足を踏み入れてみると、そのほとんどが華嬌の群衆である。
私は東京時計の特約店をしている星東商会の紹介状を持っていたので、華商街の中にあるその商社を訪れたのである。この華商街の中のビルの階上に行くとき、支那人のボーイが案内してくれた。四階までエレベーターで行くのであるが、ここでチップを貰うのが案内人の狙いらしい。この案内人はクリーという種類のものであるらしく、華商のいうこと以外には立ち働くことさえ許されていないようだ。だから気狭な身振舞いをしていたのに気をつけて見た。
この後もう一軒の昌成公司という時計など各般の卸売りもしている時計専門の店を訪れてみた。昌成公司は、シンガポールでは目抜きのミットロード五番地に店舗を持ち、時計に
バンド類も扱っている小売店である。それだけに東京時計の置時計についてもマラヤにおける場合と同様聞いてみたが、それよりも日本製腕時計を東南アジア地方に売り込もうとする場合に、果たして現地人業者がどのような観察をしているであろうか、ということについて現地人の実際の声に親しく接してみたいというのがこのときのねらいであった。 この昌成公司の社長は、マラヤ語だけでイングリッシュは解せない。支配人の唐徳平という人が話せるということであったので、私が名刺を通じて会談したときは、この唐徳平さんが通訳してくれた。私の方は日商株式会社(シチズンの特約店)の所長、石橋斗さんという人が通訳してくれた。この会談で、昌成公司は東南ア地区の各方面に商売を拡大することができるが、それは品物の価格が拡売するに相当する利巾があるかどうかによって決ると説明していた。勿論その通りである。そして品物については、@時計は、大物では名古屋物と東京時計が入荷しており文句はないが、デザインの点で新らしものを期待する、A腕時計は、スイス物の方が銘柄がPRされており、需要者に提供するのが早い、B日本の腕時計を売り込もうとするにはPRを大いにすること、そして価格をスイス物に匹敵するように考えることができれば相当量を扱うようになる、C時計バンドについては、日本製品はいいものがあるが価格が高いという。私はこのとき、金属製バンドのニューデザイン物を提示して、見たいかと聞いてみたら、「是非見せてほしい」というので、ホテルでその日の夕刻五時に合うことにした。
その時間に支配人と共に昌成公司の主人公の二人がやって来た。ホテルの私の部屋で高島君が持参したサンプルを出して見せたら、“べリーナイス”を連発していたが、いざ値段の点になると、ナタ(半額)という。テンデ問題にならないといったのであるが、しかし昌成公司の立場としては、ナタ(半額)という差し値を出したので、日本側にとっては安くてダメだということになったのである。現実に取引をするための値段決めという場の切札としては、この時代の状況としては止むを得ないのではなかったかと静かに考察することができた。写真は、シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会。

シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる
ワニ製品を六、七十個も持ち帰ったが羽田税関ではたった二千七百円を課税

《昭和三十六年》 このS式バンドは、このあと香港に立寄った際の視察の場で、香港製の安価なバンドが作られつつある状況について、その現品を示し説明したことがあるのでその判断のための参考資料になったわけ。
このことが終ったその翌日、観光ということになり、その昔、薬問屋の千万長者・湖文虎という人が建設したという私設公園を見た。ここには、あらゆる動物を型どって作った型像物を見るのに二時間以上もかかった。このあと且ての大東亜戦争当時、山下将軍指揮で有名をとどろかせたジョホール水道について、当時の追跡を見て回った。ここで感動したのは、この水道塔の上部に当時の艦砲射撃のあとの穴が、今なおハッキリ残されているのに目を見張った。そしてまた、フォード自動車工場の中で降伏条件に調印を求めたという当時の遺跡についても説明されたが、ここだけはピンとこなかった。既にその付近が使用されていたからでもある。シンガポールを見て歩いた中で、特に気がついたのは、細い畔道のようなジョホール水道を境にして、シンガポールとは外国の国境になっているというところである。だから一歩足を跡み越すだけで、外国扱いになるのである。だから関税の関係で、ここでは週一回家庭用の日常品を展示販売することで有名である。
“税金がかからないのだから安いというのがねらいであろう。週に一度は、定期的に開かれることになっているという。だからこのジョホール水道際の定期市場は、その開市のたびに沢山の人出があり、賑わうので有名であるという。
私達一行が滞在していた三月一日のことだと思う。東南アジア方面では旧正月というので、この日は名物の爆竹が到るところで打鳴らされた。その日の晩餐会は、一行が宿泊していたキャセイホテルの二階の中華料理店で午後六時から晩餐会を開くことになった。
ところが一行が席をとったキャセイホテルの宴会場は、シンガポールでは一流のレストランであることから、この日は支那人の正月を祝う集りで大変な賑わいを呈していた。つまりシンガポールのお正月に出会ったのである。だから一同は、その珍らしい環境に親しむことができ、幸福なひときわ満足を抱いたものである。
シンガポールの観光の途次、ワニの養殖場を見学したのだが、ワニというものは目で見た格恰は物すごい様相をしている。児ワニの鳴き声などときたら、とてもかわいいものである。そのワニが製品になるので、シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる。値段は安いがデザインのよくないのが欠点であり、それが特長になっているから安いのだという向もある。われら一行の中でこのワニ製品を六、七十個も買い求めて持ち帰ったものがあったが、純正なる土産品ということで羽田税関ではたった二千七百円を課税されただけで済んだ。写真は、シンガポールの昌成公司の二人と日商の石橋さん。

世界三大景勝の香港島へ
「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影を

《昭和三十六年》 香港には、昭和三十六年三月二日の夜になって入国した。世界三大景勝の中の香港であり、特に香港の夜景は素晴らしいと聞いていたが、われら一行を乗せた飛行機が九竜空港に着いたのは夜の八時を過ぎた頃であったかと思う。だから空から見た香港ということになったのである。「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影をした一行は、バスで指定のホテルへ案内された。
香港のホテルの看板文字は、漢字で表わしたものと英文字で表わしたものとの二つの種類がある。われら一行のホテルは、九竜の酒保(ホテルの意味)アスターというのであった。六時間以上空を飛んで来たので旅の汗を流すことだけは、誰もが望んでいたので、手早くお風呂につかったあと、秦、野村、竹本、藤井、小関らの一組は出迎えてくれた秦君のお馴染みである豐さんという宝石店主に九竜の丘陵の頂上まで車を飛ばして案内してもらった。そしてハイボールの水割りを片手に、九竜の夜景を楽しんだのであった。静かな空をこがす如くに九竜の街の夜遅くまで、赤、青、黄色のイミルネーションがまばゆいばかりに輝いていたのを観賞することが出来て、大変愉快に感じた。
このような場でホステスと顔なじみになっておくと便利な場合があるものだ。
その翌日の夜のことであるが、あるレストランで食事をしたあとの必要な遊興の場などの案内には、このようなコースの人達が大いに役立つものである。だから危険もなく安心して遊んでいられるということになる。謝礼金も大して高くなくて済まされた。顏をきかすのは、その意味では何所でも同じようである。写真は、九龍のメインストリート。

温泉地への招待旅行などで仕入れ数量を煽った
時計界の景気のいい頃の販売情況

《昭和三十六年》 時計の生産数字が示すように、生産数量が年々増え始める現象は、俗にいう業界の好景気を意味していたことになる。しかも時計メーカー筋では、好況の余波を利用して、生産設備の改善点では超新鋭型の機械の導入を行うなど、スイス製の時計に比べても引けを取らないほどの精度を上昇させることが出来たのである。従って国産時計の中では、それらも加味して時計はますます売れたのである。
この頃の好景気を反映した現象といえば、時計の卸売り業者達は、本社ビルの建設ラッシュが目立ってきた。そしてまた販売政策についても、取引先に対するサービスの良化が案出されるようになって来た。
特に派手だったのは、シチズン時計特約店の栄商会が催した熱海温泉への豪華招待。更には九州めぐり別府温泉招待、札幌の定山渓温泉招待というようなもの。それにその度ごとに数百人を招いて実施したのだから有名になった。これなどは取引販路拡張に対する積極的戦略の現われであったとみる向もあったようであるが、何はともあれ、“売れば売るだけ儲かった”というような時代であったのだから、かくは大々的に招待サービスなど行なわれたのであろう。
だからこの頃は、時計に伴って、貴金属指輪類もだんだんに売れ行きを増し始めていた。特に時計バンド業界では、“旧式の型より新型へ”という時代に代りつつあり、それにライターなどもガスライターの発明品の登場で極端に新製品が需要者の眼をひくようになっていった。いわゆる喫煙具業界までもが誕生、商売の拡大に役立ったことになる。いうなれば業界の関係品は何でも売れるという時代であったのである。しかしそれらの絶対的な好景気の状況など、そう何日までも続くものではないという時代がやって来た。

超インフレ傾向の中で、時計や宝石が良く売れた
昭和三十六年頃からの業界情勢

《昭和三十六年》 昭和三十六年当時の総理大臣は、自民党政権の時代で池田勇人氏が就任していた。池田総理は、かって大蔵大臣をつとめた時代に「中小企業者の五人や十人が仮りに死ぬようなことがあっても止むを得ない」という演説をしたことで責任をとり辞任させられたことのある人だ。だから経済的には極端な膨張政策を執る型の人であった。
それだからこの時代の政府予算の編成ぶりは、超インフレ傾向を示していた。従って神武景気、原始景気だと煽った鳩山内閣時代のあとを継いで、それ岩戸景気だ、鍋底景気だなどと、毎年その予算の組替えの度に特殊なゼスチュアを織り込んだものである。
それによって超膨大な融資政策が採られていったので、企業界では無制限な投融資政策がとられたことから、遂にはインフレ的な気運が街にあふれた時代であった。
その中の一例であるが、この頃の企業の景気と来たら当るべからずだった。従って熱海温泉などに遊ぶ団体客の支払勘定に到るまでもが約手払いといった時代になってしまった。それほどまでも超インフレ型が拡大されていったのである。
だからこの結果、消費景気は満点ということになり、それだけに時計類を含めて身辺装飾用品はすごい売行きを見せたのである。従って時計界でもご多分にもれず好景気の波に乗っていったので、「売れるだけ作れ」という機運になった。
いうなれば、羽が生えて飛ぶように売れた時代はこの頃のことだといっていいと思う。

三十七年の総生産量は二千万個台にのぼり、生産過剰傾向が目立ち始めた
中でもウオッチ類は前年比五十%の著増をみせる

《三十七年》 中でもウオッチ類は前年比五十%の著増をみせるなど、実質的な内需向け数量は減少傾向にあって過剩生産による陰路も打開されつつある。
暫時、需給調整の実効が現れてくるとの期待を寄せた昭和四十一年を迎え現在に至っている。
ひるがえって戦前戦後の生産数量をみると、日本時計協会および通算省大臣官房調査統計部の調べによれば、昭和初期(五、六年ごろ)は腕時計の生産が五十万前後で、懐中時計十四、五万個、目覚時計七、八万個、置き時計二万個、掛時計その他四万個前後で合計しても二百万個やっと、という状態であり、現在の十分の一以下の数量である。 
その後昭和十二、三年ごろになると、腕時計の年産が百万個台に増え、目覚まし時計も一時期百万個台に著増したものの、腕時計中心の生産傾向となった。
この当時の時計の総生産数は、四、五万個に伸びている。しかし、第二次世界大戦突入と同時に一挙に低落、腕時計の生産量をみても昭和十六年に百二十七万四千個だったのが、昭和十七年にはわずか三十七万個に減った。そして終戦の年の昭和二十年には、二万六千個まで落ち、懐中時計八千個、掛時計五万個が作られたほかは置き時計、目覚まし時計とも生産ゼロで総計九万七千個となった。この年の生産は、昭和時代の最低記録である。
翌昭和二十一年には、腕時計十一万個と多少持ち直したが、低迷は続き、昭和二十六年に
至ってようやく九十万個台を記録、二十七年に百万個の大台にのせた。この時代から懐中時計の生産は腕時計に反比例して漸減、掛・置、目覚まし時計が漸増するとともに電気時計やタイムスイッチ類がわずかながら位置を占めていた。
その後、腕時計の生産は年々増加、三十六年は九百万個、そして三十七年には一千万個台にのせた。そのあとも生産増は続いているわけだが、三十七年の総生産量は二千万個台にのぼり、生産過剰傾向が目立ち始めたのはこのころからである。写真は、戦前時代における近代化された生産システム。

欧州の時計と宝石業界の本紙視察団第二弾
海外視察旅行記:旅程二十六日間の「欧州業界視察団」

《昭和三十八年@》 日本の経済力は、昭和三十五年を超える頃から急速な伸びを示している。池田内開が施策する経済政策は、「神武景気だ、岩戸景気だ」というように訳のわからぬ名称をつけて、年々に亘り情勢を煽ったそのおかげで国民の消費力はぐーんと伸びた。そのような関係で、企業などの設備投資は、いずれとも充満するという具合に上昇傾向にあったのである。従って、これに伴って消費面はいよいよ拡大する一方。各企業は温泉旅行の招待会などの場合でも、支払いは手形でOKというほどに浸透してしまったのであるから膨張していた程度が計り知れる。
そんな状況であったから、時計の売れ行きは、必要欠くべからざるものということになり、装身具的アクセサリーの役柄を手伝うことになる。そういう観点から、景品に、記念品に、とあらゆる場面に用いられるようになったおかげで需要は、急角度に伸びを示した。
この時代における腕時計の国内生産量は、戦後の昭和二十五年に六十九万個であった。そのあと毎年上昇を続け三十五年に七百十五万個を記録、以後、年々著増の姿勢をとっていた。昭和三十六年、九百二十三万個、同年、三十七年、千七十八万個、同三十八年、千百七十万個、同三十九年千三百二十一万個、(日本時計協会調べ)というような経過である。
そんなように国内時計業界の状況が繁栄途上にあったから、これを機会に文明的に先進しているヨーロッパ諸国の時計業界が果してどのような現状にあるのか、合せて宝石業界の情況なども見極めたいという希望の声もあり、且つまた、当社(時計美術宝飾新聞社)がさきに創刊三十五周年を記念して行なった「東南アジア業界視察団」を編成して敢行した実績にも見合って「欧州業界視察団」を主催することになった。
とにかく本社主催の欧州業界視察旅行団募集の結果、応募者数が十一名であり決行することにした。外国旅行の自由化が翌年の四月に断行されるということであったので、それが予想されていたためか応募者は少なかった。
一行のメンバー中、私の他は時計バンド界のベアー商会の上野公博専務、竹本商店:熊谷専務、貴金属卸の坂口商会:坂口重雄社長、メガネ卸の三共社:北岡茂美社長、小売店として参加した銀座・日本堂時計店:佐川専務、兵庫県・時計付属卸の黒田時計店:黒田社長、このほか岡本、野沢両税理士と電機メーカー若林さん、それに上山という全日本トラベルカンパニーのコングクターが加わって合計十一人である。
いずれも研究心に富む特殊部門の代表者連だけに、何となく世話のやけるような事態が予め想像されたのである。出発日は好季節を選んで九月十六日に決めた。旅程は十月十一日までの二十六日間であった。
かくてこの間のプランづくりや旅行中の打合せなど数回に及び、いよいよ出発の日となった。私は前後二度に亘る海外旅行で少しは旅行上に関する心得はしているものの、ヨーロッパを目指す北極回りの長いコースということになるとまだ馴れていないので多少の心配はあった。
それでも時計の主産地スイスを中心に、先進国の欧州業界の現況に接することが出来るのだと思うと、却って勇気が湧いてきた。
かくて出発当日、羽田を午後十時半の予定時刻に飛び立った。KLMのジェット機は急上昇して、やがて一万メートルの上層圏に達するや雲間は晴れて胴体はゆうゆう、まっしぐらにアラスカのアンカレッジ目指して爆音を立てて突進した。
羽田を飛び立つ前のロビーでは、全時連の佐川久一会長が元気に満ちた顔で見送ってくれて、万才三唱をしてくれた。その時の姿が機上の人になってもなお目の前に浮んでくる。思わず機上から窓外を眺めて羽田とおぼしき空港の方向を見つめてみたが、もう飛行機は遠く離れており、爆音だけがいよいよ高鳴りつつ、目的地に向って驀進し続けていたのである。写真は、羽田空港の出発ロビーで佐川久一全時連会長の見送りを受ける団員。

強風の為乗った飛行機がコースを変更してアイスランド空港に帰港
二、三日前に大地震に遭遇したアンカレッジ空港に

《昭和三十八年A》 機内では、スチュアーデスのアナウンスで腰のベルトを緩めてから一行は、いろいろな好みの飲みものを配車にのせて売りにくるボーイ達から買い求めている。まさに静かなオープン式ホテルといった感じの機内状景である。
翌朝の六時頃、アンカレッジの空港に着陸した。空港に降りた時は雨が降っていた。その上アンカレッジ地方は、二、三日前に大地震に遭遇したというニュースを聞いていたので、空港についた誰もの目はこの空港の街の状況に転じたようであったが、格別何らの変化もないように感じた。タラップを降りた時には、別段気がつかなかったのだが、同じ飛行機にスイスのラドー時計発売元の酒田時計貿易の酒田武敏社長が乗っていたのである。アンカラレッジの空港待合室で合った時、手をあげてお互いに会釈したような次第。酒田さんはわれらの方向と違ってアンカレッジから北米行きに乗り替えてスイスに向かったのである。
やがてニューヨーク行き乗客の搭乗をアナウンスされ午前七時、酒田社長はそのグループに混って、待合室から出て行った。一足お先に、という言葉はその意味を示しでいたのである。われら一行を乗せたKLMジェット機は、ざっと一時間位休憩したあとでアムステルダムを目指して飛び立った。
とろが飛び立ってからの機上でのアナウンスによると、強風のためこの飛行機はコースを変更してアイスランド空港に帰港するという説明であった。アイスランドを回るとなると、そのため約六時間も遠回りすることになるというのである。しかしどういう都合かは知らないが、六時間も遠回りするというのは余りにも馬鹿げた話ではないかと考えてみたが、どうすることもできないのだから致し方ないと諦めた。
しかし一面には、仮りに行こうと思ってもアイスランドなどというところへはなかなか行けるものではない、と思ってみるとアイスランドという土地柄そのものを見ることになるのも悪くはないという気がしてきた。そんなことからアイスランドという地理的関係の説明を求めたところ、アイスランドは北極点に近く、空港近くにはエスキモーの住む部落もあるなど聞かされたので、知らないながらも少し興味と期待を持ったのである。そのためか機内では、神経が高ぶって眠ることができなかったので、ただ下界の変化の映り変りに興味を持ち続けたのである。アンカレッジを朝飛び立った飛行機は間もなく夜となった。地球上の空間上の変化によるのであろう。だから私は二日二晩飛行機に乗り続けているような感じがしていたのである。写真は、アンカレッジ空港の売店を見ている光景の団員。

KLMのジェット機はアイスランド空港に着いた
アムステルダムの街は、赤、青など色とりどりの草花を飾ってあった

《昭和三十八年B》 私はこの時、北極圏を飛ぶ時の空の状景は、またとない絶景のものがあると聞かされたことを思い浮べて窓外の空を仰いで見た。すると空を二分した中央とおぼしき所から右側の方は黒く夜を示し、空いっぱいに星がキラビヤカに輝いているのが見えた。その反対側の空は夕暮の光景で、太陽が地平線に没した頃の景観をこの上空にまで照し映しているのである。前もって聞いていた通り、昼と夜の交叉した空の模様を描き見せてくれたのだと感じた次第である。この間眠気醒しのブランディを片手に、星が輝く夜空を眺めていたその時の気持ちを考えると、いまだに懐かしさが湧いてくる。そのすがすがしい空模様もやがては消え失せて、そのあとは真っ暗闇の中をジェット機は轟音を立ててひとり哭っ走っていたのだが、海の上を走る頃ともなれば、視界に入る範囲は悉くが白水が流れているが如くにも見えたので、一寸注意心を呼んで見直してみた。あるいは雲の切れ間かとも思ってみたが、時間から推してみても北極圏に入っているのだから、海中に浮く氷塊の流れなどが雲間を扠いて眼に映ったのだろうとも観察したのである。
この時の感想を“機上より”というハガキ便で東京・上野の野村時計店の野村康雄社長に投函しておいたので、帰国してから話題にしたことがある。
やがてKLMのジェット機はアイスランド空港に着いた。飛行機は給油と整備のため乗客は休憩することになり、空港内の待合室で待機したのである。ここは軍関係の航空基地らしく戦闘機の散在しているのが見られた。天候は生憎の雨である。待合室から窓外を眺めると遥か彼方にエスキモーの部落があるのだという説明を聞かせてくれたが、格別出て見ようというほどの魅力も感じなかった。空港の辺りは閑散としていた。空港内
の売店(酒保)では、酒、タバコ、香水、時計、眼鏡に雑貨などいろいろな物が陳列されており、アンカレッジの場合と変らないとも思った。ここで土産用に「夜間飛行」という香水を買求めたところ税金を課した伝票を切ったので、ノータックスだと言って計算直しを求めて支払ったのだが、これが羽田を飛び出してから最初の外国での買物をした訳である。
待合室で塔乗者全員に食事を出してくれたが、悉くがセルフサービスになっていた。これも初めてやらされたテストということになったのだ。やがて、三時問も待ってから飛行機の整備がついたとみえて、塔乗のアナウンスがあり、七、八十人を乗せた飛行機はオランダのアムステルダムを目がけて飛んで行くことになった。
かくして、アムステルダムに近ずくにつれて天気は晴朗となる。飛行機は午後三時過ぎ頃、ヨーロッパの玄関というアムステルダムのスキポール空港に到着した。初めて見るヨーロッパの印象は、先ずは何よりも吾らの眼に映ったのは、何処の家でも揃って草花を美しく飾ってあることに気が付いたのである。それに空港でのサービスもなかなか行届いており、日本人のKLM駐在員が何かと物やさしく指示してくれたのには感謝し、かつ欧州に入る玄関での第一印象が良かったことになる。
空港から出てくる通路の柱などには、日本文字で「日本人の皆様ようこそいらっしゃいました」と書いた立札を掲げて歓迎の意を表示してある。何というサービスの行き届いたことであろうと感心した。
ホテルまでのバスの中から見るアムステルダムの街の光景は、舗装整備が完全になっており、道路とその洽道に立並ぶアパート群との釣り合いがうまくミックスしているのを見て、なるほどという感じを持った。
更にまた、何処のアパートの窓にも赤、青など、色とりどりの草花を飾ってあるのがヨーロッパというところの家庭様式を思わせた第一印象である。ホテルは「アポロ」といった。このアムステルダムには二泊することにプランがなっていた。写真は、雨中のアイスランド空港。

オランダ人は、日本人に対して親しみを深くして親近感が持てた
アムステルダムでの感慨

《昭和三十八年C》 早速、観光コースに入った。アムステルダムはオランダの首都、ヨーロッパの玄関として名高く、所内には有名な博物館があった。この国立博物館は午後五時まで参観出来ることになっており、そこには、レンプラントの傑作「夜警」を始め、フランス、ハルスヤン、ステエレ、ヨッハン、フェルメール等の著名な画伯が描いた絵が沢山あり、市立博物館には近代美術の名作を数多く集めているので有名である。
コレクションの中には、ゴッホのすばらしい作品が多いことでも有名になっている。
一行のために来てくれたガイドは、家庭の主婦で、その後ご主人が、予定の時間になったら車でホテルまで迎えにやって来た。その時の光景など見て、ヨーロッパの家庭環境の一部がのぞかれ、親しみを感じた次第。街を散歩していた時、アムステルダムの土地の子供が自転車に乗って遊んでいる道すがら、我等一行に向って「ジャパニーズ」と声高く叫んで手を振って迎えてくれた。オランダ人は、日本人に対してはオリンピックの競技を通じて子供に到るまで、親しみを深くしていてくれるのだと思うと何となく親近感が持てた。写真は、アムステルダムの景色。



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