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市場に出廻ったヤミ物資時代
面白いほどに儲かった時代でもあった

《昭和二十四年》 物の交換市場というものの利用度は、そこに出入りする業者の人々によって、他の店子(小売店)へ流れうるものでなければならない。商売上当然の理屈である。そのような環境から終戦後二、三年を過ぎた頃の市場における売買状況は変った。国内物では、華ちゅう界方面から流れ出て来たのであろう。ご紋章入りのデコレーション的な物などの珍品がぞくぞく出品されたのである。
この外には、エメラルドカットのダイヤモンド、または五キャラ、七キャラもあるダイヤモンドなどが出品されるというような状況となった。それらは全て生活資金のために現金に交換するためのものと読み取れた。
然しながら、この頃はまだアメリカ兵がそう沢山やってきた時代ではなかった。そうこうするうちに、昭和二十四年ごろからアメリカ兵が持ってきた物資の中に高級品が持ちこまれるようになって来た。即ち時計類である。アメリカ兵の駐屯しているPXからのものもあれば、ヤミ物資の中には、直接米国から輸送して来たものも出廻るという時代になっていたので、交換市場は勿論のこと市内の小売店辺りでも到って商況は活発になっていた時代である。
一方、時計の小売店界の売行き状況の中で、呉、横須賀等の軍需港地内の時計の売買商況と来たら、また活発すぎるほど繁栄を果していた。だがそれらに供給する品物は。凡そ、東京または大阪方面の業者から供給されていたものであろう。然し、この頃、東京方面では、アメリカ兵が好むような宝石入りの指輪やその他の製品が作れるところは少なかった。作業する飾り職人屋も、またこれを商う貴金属卸商というような業種のものも、戦後のことだけに、そうあくせく仕事をするものもいなければ、またやろうと意欲を深める人も見当らなかったものである。ところが私の方は、物品交換の市場を開いていたのだから品物の動きは活溌であった。これを聞いてか三輪屋関係のカザリ屋連中がやって来た。そして「貢金属品を作らせて呉れ」というのである。商売などやったことのない私ではあったが、この頃クシ、甲がい、かんざしなどの売物を買って、これを時代性に向くようなブローチ、ペンダントに作り替えたのが飛ぶように売れたのである。売れるだろうと予測して、その道中の希望に応じて作らせることにした。
作ったのは、カメオの原石を取入れたブローチ、それに銀台枠に真珠を取込んだ高彫り指輪等である。これがアメリカ兵向けに飛ぶように売れたのである。だから横須賀方面向けの卸商には、特によく売れた。当時扱っていたものは、それら指輪類は総て一個売りしないで一束毎に、二十本差こんだ一束売りである。“寝ていて儲かった時代”というのは、この頃の事をいうのかも知れない。このような情景であったから、仕入れる側の卸商もこの頃は、頗る熱心であった。商売が盛んになり、利益が思うように上ってくると、面白いものと見えて、私が寝ている朝の寝込みを襲って出来上りの製品を先取りに来たのである。その頃、飛び廻って儲けた某々商社主などは、現在では大きな卸商として堂々たる存在となっている。それらの商号と氏名はここでは略すが、兎に角儲かり過ぎて笑いが止まらなかった時代であった。品物の取引はするが、その代金の現金をいちいち数えて取扱うというのが寧ろ面倒くさいという考え方を持ったほどの時代であったのだから愉快な話である。

銀地金の事からCID行き
押収物件の中の約二トンの銀が、突然行方不明になった事件

《昭和二十二年》 貴金属地金については、この頃、銀地金のことなどでCID(連合軍警察)当局が追及していたことがある。ここで断っておくが、この頃俗にいうアメリカ兵側のMPとは、米軍事関係の取締り官で、CIDというのは、連合軍の物資摘発警察をいうのである。だから、何れとも、いざ踏み込みの場ともなれば、土足のままでやってくるのである。一方は軍関係、CIDは民間警察の関係という差があったもの。
貴金属地金についての所在などを追及していた連合軍の側の取締り当局では、この頃銀地金の行方についても諸所を追及していたようだ。ところが、銀に関するその押収物件の中の約二トンばかりの銀が、突然行方不明になった事件が突発した。そして、それに対するMP、CID当局の活動が始まっていた時だったから警戒の要があるという情報がこの頃飛んでいたのである。
この頃の時計業界は、アメリカ兵向きの銀製品作りなど極めて盛んであったのだから、あるいはそれらの面に流れていたかというでも懸念などあった。そうこうしている中に、この頃下谷入谷町に「五の日会」なる市場を二十二年の十月から始めたのがある。
その管理人は、松井栄一と大平吉蔵の両人が主となりタクトをとることになっていたので、病気上りの私も、商売上のおつきあいということで二十五日のその日の市に都合して出席したものだ。ところが、この市場においてこの日(十月二十五日)突発事件が起きた。突如として、CID当局の強襲があったのだ。当日の午後一時頃だったと思う。ここの会場は二階にあったので、その二階から外部を眺めた人の眼に一寸不可思議なものの人の動きがあるのを見たので、早速この情報に基いて参会者一同に一応の注意をした。
各方面の顔役連中までがその場を引きあげるということは出来ない立場もあったので、そのまま引止まっていた。

ブラックマーケットに烙印された時の恐怖
「五の日会」にCID当局の強襲があった

《昭和二十二年》 すると午後二時を過ぎた頃一台のジープの音がして、表に止まったと思った瞬間、会場の入口から早くも土足のままで入って来た眼色の変った豪州兵らしきものがピストルを向けて何やらいって立っている。恐らく、手をあげろといったのだろうと思う。私達は、机の上に白布を張りめぐらした台の上に所持品をおいたまま両手をあげた。すると、二十五、六人もいたであろうか、その中の一人一人の身体を軽く手でさわってから品分けをする時のようにしてだんだん列外に除けていった。最後に残されたのは、越光、飛田、白石、竹内、松井(長男)に私の計六人だったと思うが、その一連のものは、所持品の関係で大物の部類にあげられたようである。このとき私の持っていた品種の大体は、色石約一千カラット、ダイヤの裸石と、枠入り指輪、銀製角形印台指輪に彫入りのもので、価格は推定約一千万円位と報道されたという。その他の面々も、つぶし金諸々に色石とダイヤモンドの各種を取まぜ所持していた。豪州兵らしいピストルを持った兵隊らは、ここまで点検して来たので一応納得したらしく見えた様子で、これから品定めをして更に訊問だけが残されることになったのである。
そんなことがあったので、一体何か目標でこの日のガサを行ったのかが一向に判らない。そこでその理由を聞いてみたところ、手持ち品の中の銀製高彫り・つき指輪とブローチ、ダイヤモンドの裸石は、何れも占領政策違反に問われる品種であり、ルビー、アレキはガラスという見解で無関係だという取扱いにされた。兎に角六人一行は、このあとジープに乗せられて麻布警察署に送検されて取調べをうけることになった。
取調べの結果、金塊の所持者は一応押収され、その他は無事帰宅することが出来だのだが、このときの調査目的のポイントがどこにあったのかと聞いてみたところ、「業界開係のある一人が進駐軍の管理している銀塊二トンを紛失したので、その捜査を行った段階でブラックマーケッ卜らしき所を急襲することになったのだという。そのことが判ったので正に正直者が馬鹿を見たという馬鹿馬鹿しい一巻となったのである。だが、このとき麻布署の奥深くには(留置場)物資活用協会関係にかかる金塊事件の違反事件に問われて攻められていた貴金属業界の某人氏等数人の顔が見えていたなど、当時の蔭の状況の一部がのぞかれていた。

物品税撤廃や養殖真珠業界を救済するための融資運動など
当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、大きく業界に貢献した

《昭和二十三年》 私は、その時三木君を虎ノ門脇にある国民協同党本部を訪ねて、何回も懇談を重ねた。三木君から国策について意見を聞かれた私は「敗戦した日本の社会は、資本主義でもなければ社会主義でもない。上下、左右にとらわれない為の方策といえば、“協同経済方式”を取らねばならない事になろうから、この点を考慮して新しい日本の国作りを考えるべきではなかろうか」と一つのポイントを提示した。
果せるかな、芦田内閣が生まれた時の経済的国策は、協同経済主義の下に協同組合方式を奉持する旨を明言した。以後、日本の組合性格は現状のごとく、協同組合時代が続いているのである。
その時の芦田内閣は、“昭和電工疑獄事件”のため昭和二十三年七月に総辞職した。この時にも、三木武夫君を通してこの業界の為になった事が様々ある。その一つは時計・宝飾業界あげて推進を図っていた「物品税問題」に対する陳情運動の場である。当時、全国時計宝飾眼鏡商連盟の佐川久一会長を伴って当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、いろいろな工作を図ったことがある。
更には、日本の養殖真珠業界を救済するための融資運動の陳情についても今は故人となった三輪豊照社長や真珠界の大御所的存在の高島吉郎氏らと共に三木武夫氏を通じて、業界に大きな貢献をしたことを思い出す。このように裏面工作をした思い出が沢山あるが、私的な関係を利して業界の諸事にわたって貢献しえたという事になる。

商品の仕入れは、市場を通じての時代
各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった

《昭和二十三年》 市場での取引が盛んになってきたころ、この状況が地方の業者の間でも知れ渡り近県の人は勿論、遠くは北海道からもやってくるようになった。そんな関係で市内の小売業者は、この市場に出入りして取引が成立する場が見られるようになった。
そんなことから昭和二十三年になって、各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった。
その結果、上野公園内の東照宮前にある貸席である「梅川亭」に交渉して、定期的にここを会場にして開催することにした。この会場に決めたのは、ただ規模を大きくするだけでなく、この頃警察の取り締まりも厳しくなっており、市場会場を整備管理しなければならないことになっていたからでもある。
管理体制をしっかりするという警察からの要請もあり、その為に「古物組合」を設立した。その組合によって運営するコースがとられた。兎に角会場を上野の森に移すことにした。このとき市場関係に主として当っていたのが、古物商仲間の永井平保武氏、飛田新吉氏、越光保氏、赤沢幸吉氏、白石憲二氏、竹内武一氏に私(藤井)を含め、計七人で立ち上げた。そこで呼称を「七福会」と名称した。この会場に決めた梅川亭というのは、名を横井さんといって、その昔は徳力本店に勤めており、その当所私は少しく顔見知りがあったのだが、今はそのあとの当主である。三百五、六十年も昔から存在している由緒ある茶店である。この梅川亭に会場を移してからは、来場者の数が増え出し、商品もグンと増えた。
その筈である。市中はアメリカ兵気風が交ってくるので商品の交流は激しくなる一方、それだから本職の質屋買出人も登場するようになったのだから、市場はそれに応じて盛んになるばかりであった。
そこヘアメリカ兵方面からのPX用の舶来時計なども出始めて来た。この新品のアメリカ兵が持ち込む時計は、最初の中はアメリカ兵が自分ではめていたものを物々交換したりしたものが、業者の手を経て市場へ出て来たというコースを辿ったものであったのだが、この頃のものは真正真明の古物品であったわけである。

ヤミ時計が出廻った昭和二十四年の頃
南京虫が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した

《昭和二十四年》 ところが、駐屯部隊の落ち着き具合が進んだものと見えて、それ以来引き続いて新品の舶来時計が市場に出品されるようになった。たしか昭和二十四年の頃が最初ではなかったかと思う。但し、これらの時計も最初は銀座辺りでズベ公辺りを相手に売買していた程度のもののようだったが、よく売れるようになって来てからは、品物の量が極端に増えて来た。だから一個や二個での取引では捌き切れなくなったのである。
この頃、PXの場に登場した外人の名はいろいろ雑多だったが、その中でもバンドと時計を大量に持込んで来た外国人は、ジェームス・ベーカーという名の人だと聞いていた。ハワイ生れの商館出の人で、日本に来てからは、オフィスを芝のマソーフクというビルにおいて常連を相手に取引をしていたのだという。
品物は米国製の時計が主だったが、ウォルサム、グルエン、べンラス、ブローバ、エルヂン、それにスイスもののロンジン、ナルダンも時には入っていた。この外にパーカー万年筆、キーストン製腕バンドなどが供給されるようになってからは、市場における取引と来たら正に目まぐるしいほどの光景を呈したものだ。就中、婦人用の俗称、南京虫(五型と四型)が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した感があった。
その代り、このヤミ時計のことで事件化した場合もないではない。ある時には、ヤミ時計を持って逃げる輩もある程であったが、それは商売上に伴う当然の結果として大した問題ではなかったようであった。
矢張り何れの場合でもそうだが、完全に無事故であるという状態のものはありえないようであった。兎に角、この頃のヤミ時計は男ものと、また女物の時計(南京虫)も何れともよく売れたものである。そのよく売れたという実例でこういうことがあった。
ある日、市場にやって来たヤミ時計持参の特定の人が会場に着くと、いきなりカバンを開いてアメリカ兵が持ってきた時計の取引が始まったものだ。それが十人も二十人もの人だかりとなって取あっているので、市場の方は商売にならないということで管理人が怒った。そこで市場では、雨後「一切個買い取引は禁止する」という規定を出したほどであった。このような光景からしても、このヤミ時計の売れた程度が想像出来ようというものだ。
また、これは過ぎた時代の事蹟ともいう範囲のことだが、この当時、ヤミ時計専門に扱っていた仲間取引業者が相当数あった。そこへやってきた連中は、荷物の来るのを待って一梱りごっそり持帰るという状態であった。それらがそのまま、大阪、名古屋、そして九州、札幌へと飛んで行ったのだから売れた筈である。
この当時の売れ方を考えてみると、戦争中に腕時計を失くしたり、また持っていなかった人達の腕にするための活動用に供したのだから売れたのも当然という感じである。

腕時計のバンド業界も活況を呈し出した
時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げた

《昭和二十四年》 社会状態が活発化して来たのにつれて業界の各関係筋でもだんだんと勢いを盛返していった。ヤミ物資の商品に混ざってきた舶来バンドの出現について、腕バンド業界では大いに注目し、且つ反省され始めた。この頃、腕バンド組合は、昭和二十二年の頃、涌井商会の社長涌井増太郎氏の発奮によって復活することになった。当時の時計バンド組合の書記長だった藤松氏がその先駆になり、活躍したという記録がある。
従って、これからの時計バンド業界は、時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げたものである。その結果、到るところで札束が乱れ飛んだというエピソードなども披露されたことがある。
時計バンド業界の最古参株の宮田伊太郎氏らは、この頃遊興にふけり過ぎた結果、遂に財を失くして終ったという悲劇的話題などを残している。そのような経過の中で奮起した時計バンド業者は、この頃から品質の改良に積極的に努め、堂々世界的水準の優良商品に比して独歩的地位を占め、且つ高めつつある美装組合の掌中に権利を収めるに到ったエバー式バンドのそれは、技術的にもその優秀性を実証されうるもので、且つ日本製品の権威を世界に広めるという点で誇るべき商品といえる。

終戦後における業界紙群の復活
更に知っておきたいことが残っていたので復刊を諦めた

《昭和二十四年》 時計バンド業界が活溌になったからというのではあるまいが、この頃業界紙の復活について私のところへ相談に来たものがあった。昭和十年に廃刊して転業していた早川平助君と蓄音機畑の堀恒夫君の二人である。勿論私に、復刊についての協力方を申入れて来たのであったが、その頃私は、まだまだ商売上のコツについて更に知っておきたいことが残っていたのである。例えば、ダイヤモンドについても、時計の価格の点についても、もう一歩精細をつくしておきたいと思ったからである。そうすることが業界新聞としての本旨をつくす場合に役立つ条件ともなるからだと考えたのである。そのような意味から、「諸君は先にやり給え」といって分れたのである。従ってこれから戦後の業界新聞群が徐々に復活の兆しに就いたというケースになる。

終戦後の業界復興に交換市場を開設した
昭和二十年の十月五日戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけた

《昭和二十年》 昭和二十年八月十五日の正午を期して、敗戦の招書が渙発されたことによって国内の空気は俄然変わった。それは憲兵も、兵隊も、日本人に関する限り五分五分の権利を持つ同志であることに、各人の認識が改められることになったからである。
それでも、終戦の大詔に抗じて湘南地方、伊豆地方やその他の出先に立こもった一部の軍団と、南方支那方面に頑張った派遣軍団の中には降伏に応じないものがあるというので、特に使節を送って説得に努めるなど、それらに二、三日を要した結果で、国内の騒乱化は事なく済むことになったようである。
かくて終戦の三日目を経た八月十八日には、東京湾上におけるミズリー号の艦上で無条件降伏を条件にした終戦時の調印式が行われた。それも終ったので、これから米軍の一部が上陸、市中を襲い始めることになったというのである。然し別段に暴れ狂うような様子も見られず、むしろおびえているものに与えるかのようなやさしい態度など見られたので、それらに馴れてきたこの頃から、ヤミ物資の交換が行なわれ始めた。
私はその頃、南稲荷町にいた。そして理髪店を訪れたメリケン兵の手から煙草のスリーキャッスル、チョコレートなど持込まれたので交換してみた。最初はちっと横道に入ったところで取引が行なわれたものだが、それが無事に済むと、今度は一時間もたたない中に又ぞろ同じ品物を大包に入れて持ってきた。このような事実がヤミ物資取引の最初でもあり、又本質化した過程でもあったのである。
眼の色の変った敵兵相手のヤミ物資交換風景は次第に延びていったが、それだけで生活が出来るわけではない。そうこうするうちに、このヤミ物資を専門に取扱う日本人の部類も現われるようになって来た頃は、既に終戦時から一ヵ月も過ぎていたであろうか、私はこのとき考えてみた。
ただ焼け跡を廻ったり、その整理をしていたのではラチが明かない。結局、仕事というものをどのようにして押し進めていったらいいか、ということについて熟考したのである。ところが、この頃国内の隠匿物資がボツボツ出始めてきた。それが私がいた美津和材料店に持ってきたものだ。銀製の御紋章入りタバコ盆、または全巻絵つき皇族系所有の文庫といったような種類のものである。

一日の取引額は、三十万円にも達した

そこで、この分では、国内における物資交換を行うことが人集めになるだろうと考えついた。和田さんに私の企画を話してみたところ、「藤井さん、それは良い思いつきだ。東京が焼けても東京にいた人達は、地方に疎開しているのだから、物の交換市場が出来たと分かれば、次から次へと伝わって知れわたるものであるのでおやりなさい」と言われた。新聞に代る人集めの職業には持ってこいのチャンスであると言われたのである。
それに元気ずいて、昭和二十年の十月五日に人集めの第一回を始めることにした。勿論、和田さんにも諸々に声をかけて貰うとともに、私は自転車を使って竹内武一君のところやその他の仲間を通じて、それぞれ業者側へ伝言をするよう頼んだのである。
そうしてその十月五日に、終戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけたのである。この時集まった人で、記憶に残っているのは、秋石鶴、吉ノ水井平保武、越光保、赤沢幸吉、竹内武一、涌井増太郎、今田正雄、香取栄一、南雲(群馬)らの面々で、三十五、六名だった。
それでもこの日の取引額は、三十万円に達したので、この分で人が集ってくるようになれば売上高も上がってくると見込んだ。
そうこうする中に、毎月の五日、十五日、二十五日の三日間が市場開設の定例日になったのだから、だんだんこの市場の状況が知れ渡ったのだとみえて人も沢山集まるようになり、取引高も増えて来て、落ちつきを見せるようになって来た。その頃は、馴れないながらもたまにはセリ棒を手にしたこともあった。ハタシ仲間の一人歩きもヤヤ可能な域に変転して行ったのである。兎に角、この市場というものを始めたことで、時計と貴金属品関係の商取引状況がどうにか観測出来るようになってきたのである。それが私がこの市場なるものを始めた真の狙いであったのだから満足したのである。

色石の値段のハネ上がりで活況が続く
セリ市場の誕生で自然と色石の業界価格が決まった

《昭和二十年》 明けて二十一年の春は正月早々から市場を開いた。南稲荷町の美津和材料店の三階に開設していた市場は、「五の日」が例会日で、その年の三月ごろから始めた竹内武一君の家でやり始めたのは「三の日会」だった。この両方の市場は、当時の東京の時計界を牛耳った専門市場となっていたので地方からの人気もこの市場に集まっていた。
三津和屋の和田さんと私は、その市場の開設を通じて業界の発展を乞い願うという点で希望が合った。だから格別この市場勢力を独占しようなどという気構えは毛頭なかったので、竹内君の「三の日会」ができたのにも協力した。
その次には、車坂町の涌井氏宅で「八の日会」を始めるということについても相談があったので、会場間の交換性からということでお互いに出入りしたものだ。この「八の日会」に集まる人達は、合月出身の村井氏が共催していた関係もあってか、出し物の種類にも変り物が見られたものだ。小池さんとかいった人だと覚えているが、その人が持ってきたルビー、アレキの裸石を市場に出せとせがんだのだが、小池氏本人は「石の値段なんかどうせ出るものではないからダメですよ」と言っている間に誰かが突如この色石をセリ場台に上場したものだ。ところが俄然人気が沸騰して一カラットニ十円にもセリ上がったのを見て、小池氏本人がビックリ仰天したものだ。つまり、こんなに高値に売れるものかという驚きであったのだ。四、五円もした位のものだったからであろう。そのような約束で、その次に出したアレキは更に高騰して、一カラット四十円にもセリ上ってしまった。これらがその当時の相場ということになったのである。
ここで、一寸注意しておくが、市場という性格から見た取引相場というものは、その日のその場の雰囲気によって、取引値段に異なる場合もある。だからその時の市場値段を以て必ずしも全体を通じての相場価格とはならないものであるが、この当時の業界事情は、このほかに取引上の標準になるような決め方なかっただけに、この日の色石の取引価格を標準にして、以後完全な業界値ということに決まったようである。従って裸石に対する取引上の人気はこの頃から強まったといえる。



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