※写真をクリックで拡大します。
Home

東洋時計が破産倒壊の悲運
軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁していた

《昭和二十五年》 精工舎に次いでシチズン時計などの国産時計メーカー陣が、終戦後の整理もついて伸展途上に向っている時、哀れ倒壊破産の悲運を見たものがある。それは、戦前、一時は服部時計店とは商敵の立場であった旧吉田時計店が経営していた工場の東洋時計のことである。
この東洋時計は、昭和十年頃から埼玉県の上尾に作った置き時計の向上が伸展して東京・日野市に腕時計工場を設立した。
従って、この会社の株式は全国の小売店から集めたものが多かった。私もこの会社の株式を四百株持っていたので、破産当時の状況など明白に覚えている。
戦時中は、軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁したものである。終戦直後は、上野不忍池々畔で従業員大会を開き、壇上より大声をだした当時の吉田庄五郎社長の勇壮な当時の姿など、今なお彷彿たるものがある。昭和二十五年五月二十五日、上野・元黒門町の当時の吉田時計店の本社内において開いた株主総会の席上は、けんけんごうごうたる状景を呈し、遂に倒産を決定整理に追いこむことになって終ったが、総会の日の席上では、この間の会社事情の細かい説明むなしえず、終末を告げるに到ったのは哀れな一片である。
私は、昭和二十五年五月二十五日、上野元黒門町の同本社内で開いた株主総会には株主の資格で臨んだ。総会のこの日の状景は、社長の吉円庄五郎氏の顔が会場に見えたと思ったとたんにまた消えてしまった。そしてそのあとは、後任社長を選挙するという会議の順序であったのだが、集まっていた株主らしき面々は納まらない。「株式清算経過を説明しろ」と詰めよる声で会場内はけんけんごうごうたるもの。会場内には、弁当持参で頑張っている者も相当数いた位だからその内容は推して知るべし。資本金三千万円の東洋時計(吉田)が王者の夢も空しく終末を告げたのは哀れであった。
写真は池の端仲町にそびえていた当時の東洋時計の旧吉田時計店ビル。

時計のヤミとCIP警察の活動を丸く収めた
盗難品探しに協力する代わりに業者にも恩恵を

《昭和二十六年》 時計店のウインドに堂々と飾られるようになった昭和二十六年の秋頃からCID(占領軍警察)の活動が業界に向けられる様になった。上野の時計市場にもいろいろな情報が流れ込んで来た。「銀座の某店がCIDに踏み込まれ、又は某店のウインドの時計を調べられた」という情報が投げ込まれるたびに、業界では、困ったことになったものだと考えた。
そうこうする中に、このCID関係から警視庁内に外人係の刑事部(第三係)があることが分かった。そして、その中にいる一人が、私の明治大学時代のメンバーだったので、その人を頼りに連絡をとってみたところ、本庁内の第三係というのは、CIDの補助役を務める特殊機閼だということが判った。
そこで、この部の掛川さんという係長の人にコネをつけて、銀座辺りを調べて歩く少壮組刑事連中と取調上の協力関係について懇談会を開くことにこぎつけた。上野広小路際の「金時」という料理屋で一席を設けたものだ。これに当てた努力は、舶来時計を取扱う時計業者の安泰を守り抜くためには、極めて大きな効用をもたらしたものであり、その実績は後世に多大な功績となったのである。
この時の会談の一部を記すと次の如くである。
会談の要点は舶来時計の取扱いについてであった。既に公の状態になっており、だから「表面切って違反に問わないようなにして貰いたい」というのであった。これに対して、「それはダメだ」と中堅派の刑事たちが言い出したので話はまとまらなかった。
この時の席上、酒も回っていたが若手刑事たちが聞き入れる様子がなかったのである。そこで結論として、最終的な提案をした。警察側は、駐留部隊から指示された盗難品を探すのが目的であろう。そこで我々古物商が盗難品の発見に協力する代わりに、我々の努力も認めて、必要な場合は見ぬふりをしてほしいと説得したのである。その代わりに、盗難品を探すのに業界新聞を機関誌として、いろんな情報を流して業者にも協力を求めた。捜査にかかわる協力関係の内容についても詳しく説明した。その結果、両者間での了解が出来たので、提携内容について詳しく話し合った。そこで、私の発行する新聞が警視庁から操作連絡所となり、紙面に詳しく説明して盗難品が探し出せる結果となり、大いに役立ったのである。私が、この際一肌も二肌も脱いで、この妥協劇を収めた劇的な場面を作り上げたことになる。

警視庁管下の犯罪捜査協力会を設立した
三越はじめ全デパート時計貴金属売り場が加入、三百八十名の会員で設立

《昭和二十六年》 時計のヤミ時代に対処するため、業者を一本に纏めたいという空気は当時時計業界の全般に広がっていた。まずは、時計部門とダイヤモンド等の宝飾品部門を担当する部門を、二つの部門に分類することにした。当時、しゃばっ気が強かった高輪在住の長尾喜一氏という人が、団体組織の初めの頃の首謀者であった。そこで、警視庁管下に、@時計関係の主力メンバー、A輝石を始め、宝飾品を扱う業者を集めて「警視庁管下時計宝飾品犯罪捜査協力会」なるものを設立した。その発会式が、東京・芝の美術倶楽部で盛大に行われた。
その団体の会長には、長尾喜一氏が就任、常務理事には昔から兄弟分の関係にあった小倉和助氏と著者の藤井勇二本人が推されて就任している。この協力会がこうも簡単に協力会設立に漕ぎつけたのは、警視庁の最古参刑事であった石渡老刑事の存在があったからである。この石渡刑事は昔から時計業者との接触が多く、なんでも相談できる関係にあったからである。犯罪捜査協力会の会員には、時計と宝飾業界に携わる業者を含め、他に三越はじめ全デパートの時計貴金属売り場を加入させて、三百八十名の会員で設立した。しかも半年で五千円の会費も徴収した。
更に、小売店でも古物商の営業が行えるように、入会すれば古物商という会員証が発行され、ますます勢力を広めていった。その後、この組織が変じて現在の「時計宝飾品防犯協力会」になっている。当時の会長は、白石憲二氏である。私の新聞も、この防犯協力会に協力するために、紙面を割いて盗難品やヤミ時計の被害などの情報を伝えている。私の新聞の事務所が「時計宝飾品防犯協力会」の事務局になっていたから、かなりの発言権を持っていた。

昭和二十四年、関誠平、干葉豊氏らがハッスル
全時連団体結成初歩の頃

《昭和二十四年》 終戦後四年になる昭和二十四年の舂頃には、時計小売業者から全国的
団体の結成が叫ばれかけていた。このようなことは、当時の時計界の情勢が一応収まってきたからだということがいえる。この全時連の結成のそれを先躯主唱したのは名古屋に当時頑強の士としての呼名で高名を謡われていた恩田茂一氏である。それに東京の関誠平氏(関時連会長)と千葉豊氏が協力し、更にその呼びかけに答えて乗出した近畿連合会長であった大阪の尚美堂社長の江藤順蔵氏の四名の士である。
この当時の経過を聞いてみると、全時連は昭和二十四年五月九日、東京の時計会館で設立発足されているが、それよりー年前の二十三年の九月に、前記の四名がはるばる東海道線の油田駅前の引馬旅館に集って、第一回目の準備打合せ会を開いたのが、戦後におけるそもそも全時連発足のスタートであった。
次いで第二回目の準備会が、昭和二十四年の三月十三日、伊東の大和館で関時連会長の関誠平氏が主唱して開催されている。そして、この日集まった各地区ブロック代表連の意向によって全時連結成総会の準備工作が決った。昭和二十四年五月九日に東京・新富町の時計会館で堂々設立総会が行われたのである。かくて全時連が結成した最初の役員人事は次のようになっていた。▽会長=関誠平、▽副会長=千葉豊氏(東京)、江藤順蔵氏(近畿)、恩田茂一氏(東海)、▽常任理事=「東海」恩田、原、「近畿」江藤、川本、「九州」安倍等の諸氏。だが当時、関東近県の役員が未定となっており、まだ全体の調整が取れていなかったことが伺える。いずれにしても、時計の小売界情勢は、終戦後の混乱期から脱して正常化してきたことが伺える。
来よう。

ヤミ品オンリー時代、何時踏み込まれるか恐怖に慄いていた
全時連結成時の気運とその頃の時計界
   
《昭和二十四年》 以上のような経過で、時計小売業を統括する団体の「全時連」を設立するための動きは一応ついた。だが、小売業者の全部が、この団体の結成に賛意を表していたかどうかは、明確でなかったものだ。何故なら、この頃の全時連に対して協力していた地域は、東京、名古屋、大阪という範囲のものだけであり、然も、結成総会を開いた時でも、関東勢から選任されるべき常任理事者の決定がなされないままであった経過から推しても、この当時のこの間の業界情勢が読めるのである。
この機会に一寸断っておくが、関時連会長の関誠平さんという人は、非常に世話好きな人で何事にでもよく顔を出して動いていた人だった。
また全時連なる団体発足の最初に協力した千葉豊さんも、案外その意味では関誠平さんと似たような性格であった。更に、世話役の恩田氏が、この間設立について手伝ったので、関西時計業界を代表して、一も二もなく近畿一帯の小売業界をまとめている立場にあった江藤順三氏が、これに協力したのだから、全時連なる団体のスタートだけは出来ることになったのである。
だが然し、全時連というような全国的な業界の団体をその傘下に総て収める事業の完成は、一朝にして成るというものではない。従って全時連なる呼称の形だけは出来ることになったが、その完全なる団体結成の実現までには、なお時間的な余裕を必要としていたといっていいようだ。
だが、この頃の時計業界は、依然としてヤミ品オンリー時代であったのである。だから小売店の店頭には、眼もまばゆい程の金色燦然たる舶来時計が、金ピカのものや白色強いステンレス製の時計などのデザインをつくした豪華製品として諸店の陳列を飾っていたのである。これが総てヤミ品であるというところに、いつ警察の踏み込みがあるかとの恐れがないとは限らないという恐怖があった。
だから、それらへの対策の場合もそうだったが、既にこの頃は、協同組合としての政治的活動もそうだが、仮に、業界内の要望を聞いてみたが、業界の総てが一本化体制にまとまっているという必要性があった。即ち、業者側の意見は、その業界内の総意でなければ何事の陳情にも当局側では取上げてくれないことになっていた。然も、そのような傾向か極め顕著になっていた時代だったので、全時連なる団体の強化推進の意見は、漸次この頃から業界内に蔓延っていたといえる。所謂、民主主義的思想の現実化が政冶面を通じて具体化されようとしていた時代であると言っていいようだ。

四貫に余るダイヤモンドが入ったトランクが売りに出た
戦時中信州松代所在にあった大本営の資材物資に

《昭和二十四年》 昭和二十四、五年の頃、市場閼係にはとんでもない物が舞い込んできた時代があった。この中で貴重品など何処とはなしにとび出して来たものであった。勿論、持ってくるネタそのものが、総て正真正銘のものだとは受けとり難いものもある。とにかく湧き出た珍談には、一応耳をかたむけるのが商売上の常道になっていたので、先ずは竹内武一君が持ち込んで来た話から書くことにした。
その話は、信州長野市の在で、現に地震騒ぎで慄いている松代町にある旧大本営についての話である。そこは戦時中の避難用に建てられた大本営であり、そこへはいろいろな軍作戦上必要であり、かつ貴重な資材物資が持ち込まれていたという。その中にダイヤモンドが入ったトランクがあるから、それを持ち出して処分することになったというのである。品質は工業用ダイヤモンドということであり、量は四貫目に余る程のものだから買おうじやないかという相談であった。
価格は、四十二万円という触れ込みであった。そこで、この品物の持ち込みを待ったのであったが何日になっても持って来なかった。然し、この品物とおぼしき部類のものが、その後、陸続とある市場のセリ場台に現われ、投売されるとの報告があった。本当のことであるかどうかは別として、このダイヤモンドが入ったトランクの実在をめぐって、当時業者間では大騒ぎだった。これも戦時中に残した業界関係品の面白いエピソードの一つである。

舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった
ヤミ時計の旺盛な時代

《昭和二十四年》 時計の需要は、昭和二十四年の頃には頂天的に伸びていったと思える。時計は、時間的な関係からでも必要だという需要性に合せて、人の生活上の好みということからも急激に伸びて来たようだ。これと並んでもう一つの特長がある。それは永い間植えつけられていた舶来品珍重主義への現われでもある。
酒、タバコ、ライター、洋服類に次いで時計への愛好心は特に強かったようである。だから舶来時計は具合がよい、時間が正確であるという印象から、国産品では何となく物足りなさを感じた時代でもあった。愛好の第一に挙げられたものはデザインである。白、又は金色を配したもののエトーの艶やかさに加えて、タイプが十二型以上、十三型、十四型の薄手に見えるすばらしさが誰の頭にも欲しい、という感じを抱かせたものらしい。又その青金色が何ともいえぬアメリカ製張りの良さを見せていたのだからだ。
大体、日本人の金色欲求感は純金のいわゆるヤマブキ色にあるようである。新時代の好色感は、アメリカが生んだ青金式金張色がまた別に市場の欲求を満たしていたともいえる。そのような角度の感じが寄せ合ってきていたので舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった。
然し、時計小売店でのこの時代の売れ行きは国産、舶来を問わず何でも売れていた。時計自体が依然足りない一点張りの時代であった。精工舎で生産される腕時計の数量は、昭和三十六年頃には月産約四十万個に達する量産を見るようになっていた。それでも不足していた時代だけにその不足感を補うには勢いヤミ時代を生み、かつ業者自身がそれに慣らされていかなければならない時代でもあった。従って、この頃がヤミ時代として、その価格の点では最盛時代ではなかったかと思う。

天下の大沢商会だけは、ヤミという伝票だけは切らせなかった
ヤミ商法をしない卸店もあった

《昭和二十四年》 この混乱したヤミ時計時代に、ヤミ価格の取引は一切致しませんと頑張って信用を高めていた店があった。横道にそれるようだが、この一項について紹介しておこう。
セイコー製品の発売元である服部時計店では、勿論ヤミ売りをしない。然しここから出荷する時計は、直接小売店向けのものとは別に卸店を経由してそれぞれ各地の小売店にばらまかれたものである。品物不足の時代だからといって、セイコーそのものズバリのヤミはなかったようだが、時計バンド類の抱き合せ売りが結局時計そのものの価格をヤミ値に持って行ったことは事実のようだ。
いわゆるヤミ時代は、このようにして流通していたので、抱き合せ販売それ自体が当時は通常的な商法として扱われていたのであった。一個につき千円ものヤミ価格をつけて卸売りをしていた時代であり、当時大沢商会だけはこのヤミという伝票だけは切らせなかったというので今でもその評判は残っている。

南京虫、月の販売が五十万個?の消費時代
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円まで

《昭和二十四年》 以上のような時計界の動きを見せていた時代、即ち昭和二十四年頃以降の時計の取引は正にヤミ時代であった。そのヤミ最盛期畤代における取引の中心地は、最初は銀座だったが、後に上野方面に移り上野の交換市場を本舞台にして新品も古物もいろいろ取り混ぜ、ともに盛んな取引されたようである。が然しこの時代には、古物品といっても真の古物品でなく、古物と称して新品といえる程度のもの、いうなれば新品で通る代用品のモノが一番好まれていたようであった。従って値段は高いということになっていた。
このヤミ時代に、一番先に売れた外国品といえば、ブローバ、グルエンなどアメリカ市場で売れていたものがあげられる。ブローバとグルエンは、アメリカ市場で一世を風びしていた時代であったからでもあろう。戦争中か一番多く扱われていたのがこのブローバとグルエンであった。戦後の日本の時計市場を見舞ったブローバとグルエンは、今でも印象づけられている。
この当時の市場での取引状況は何でも舶来の新品らしきものが出ると血眼で奪い合ったものだ。従って値段はない。現品持参人のいう価格がそのまま仕入価格になってしまったというほどであった。だからこの時代は、売方のいい値の価格で通ったわけ。次いで時計バンドの類では、キーストン会社の金張りグサリ一本が、五千円から六千円と来たら誰も手を出さないかと思ったら、最初は二本、五本と買って帰った業者が、その次には十本、二十本と大量に仕入れていたのを覚えている。それほど活発な取引が行われていた。従って時計の出回り状況もだんだんに良化して来て、完全な外装ケースに収められたロンジン、エルヂン、ミドー、モバードというような高級品が出廻って来るようになってからは、市場は又一段と活況を呈するようになった。
銀座の店舗は勿論、何処の店にも舶来品が公然と並べられるようになってからは、客の欲求度とデザインと性能のいい舶来品に眼がそそがれていったようであり、無理からぬ傾向であったと言える。腕バンドの金張りモノでは、品物が出始めた最初の頃の値段は、一本五千円から六、七千円ぐらいしたものだ。
金・ムクとくると三万五千円相当から五万円までの高級品が飛ぶように売れて行く景気のよさが見られていた。この頃、この活況ぶりが全国的に知れ渡ったためか、東京・上野を日指してやって来る地方の販売店主が多かった。そうした人達の注文は、南京虫を何百個、男物何百個というように、まるでバナナかナシでも売買するときのような気軽さで注文するのであった。
だが然し、この商品の供給所(アジト)が問題であった。秘密売買所であるのだが、表向き大っぴらなものではないだけに、その家の出入り口は常に厳重に番丁が立っていたものだ。だから地方からやって来た仕入目的の人達は、品物を間に合わせてやるということが出来る人は、人かどの貫禄を持った人でなければ為しえないものであった。このような状況だったので、当時のヤミ時計の動きを推計すると、南京虫だけで1ヵ月間で五十万個位の動きを見せたであろうと言われていた。だからヤミ時計とは、即、南京虫という印象がつけられていた時代でもあった。

関時連の関誠平理事長が誕生することになった経緯
組合首脳陣の首切り劇反復があった

《昭和二十二年》 敗戦という責任は、“国民が共同で負うべきだ”という考え方のもとに、建て直された「協同経済主義」を信奉する協同組合方式が、新組閣の戸田内閣によって打出された。その為、国内経済方式には変った面が現れた。このような場に備えて、とりわけ「東京時計小売協同組合」では、二十二年の四月を期して西神田倶楽部において総会を開催することにした。そしてその当日役員の改選も行われた。これまで長年に亘り組合功労者として尊敬されて来ていた野村、山岡氏らの正副理事長に対立する暗躍組が登場していたことも事前に知らされてはいたが、選挙を行う総会当日、その場はもの凄いほどの対立行動を呈したものだ。
先ず、総会場の入口に頑張っていた若者の手により、業界紙の号外が撒かれた。幸か不幸か、終戦間もない時だけに、組合員は組合事業に対する関心をさほど持っていなかったものと見え、この日の組合員の集りは案外少なかったように見えた。それだけに、選挙の結果は暗躍組の勝利に帰して、関誠平理事長が誕生することになった。もちろん関氏を表に立てたその裏には、金山重盛氏が暗躍の発起人であったのだから関理事長と金山氏は親分子分の関係であり、いうなれば、表裏一体の立場にあったのはいうまでもない。
このような関係で、関誠平氏が東京小売組合の理事長になったのを契機に、関氏が包括していた東京時計小売組合に関東時計小売組合連合会(関時連)という関係をも生かすことになったのである。即ち、この時から関誠平氏が関時連の会長に就任したことになり、この点ハッキリしている。だが、その関連性はそう長くは続かなかった経歴になっている。



admin only:
1234567891011121314151617181920212223242526272829303132333435363738
page:23