| 小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物数百個単位というものもあった程
《昭和二十六年》 ヤミ時計のもっとも盛んであった昭和二十六・七年頃の時計界は、何処でもここでもというほど盛んにヤミの取引が続けられていた。小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物(南京虫)を合せて一種類数百個単位というものもあった程だ。従って警察の眼も、この点に注がれたものである。 然し商人という性格は、例えそれが悪いことであると承知していても、自分以外の同業が儲けているのを見て見ぬふりは出来ないものと見える。よほどの成長人でない限り、昭和二十七年の秋頃、東京市内の大どころに警視庁第二課発の捜査網が突然布かれた。その状況が新聞に出て、その店は一応閉めるという騒ぎを演じたのだが。そして、「今後ヤミ品は一切取扱いません」という一筋の念書を当局に入れて済ませることにはなったものの、この調査中の数カ月間は、内心ビクビクの情況で押し通したものだったという。もちろん事件の表面だったその小売店の主人公は、雲がくれという寸法である。この事件の取調べに当った警視庁のN主任は、経済係のS某といってその後時計業者とはだいぶ馴染が交わされるようになったようである。 この時の事件に関連した供給者側には、東京在住の大手筋が殆ど加わっていたようである。 従って取調べが進むのにつれて、摘出された時計の数は、なんと数十万個にも及んだようだったから、ヤミ事件としては、大変大きく且つ珍らしいものであったようでもある。 結局、八ヵ月間を費して一件書類は検事局送りとなったのであるが、その以前に係刑事が検事局にこの事件の取調べ経過を内申したところ、係刑事連があべこべに脅されたとして憤慨していた光景があり、その事実を本人から聞かされて笑えない一幕を感じたことがあり、正に珍事であったようだ。 ヤミ事件を摘発して、そのヤミ品のアリバイが明確であるのにもかかわらず、検察当局からお叱りを受けたということそれ自体は、取調べの根本にミスがあったからだということになる。係主任刑事の告白によると、ヤミルートは一応明らかに摘出することが出来た。勿論、数量と金額も合い、又それによる利潤計算も明かに算出されたのではあるが、ヤミ品の供給者である杲氏が事件開始の直前に死亡していることにより、これによって事件の全体が見えなくなったというもの。つまりヤミ品であるかないか、又そのルートが如何なる方法によるものかどうかの点を明かにすべき立場の人(証言すべき人)が死という事実によって、総ては清算されなくなったのである。係刑事のN某は、顔を青ざめて怒つて見たが致し方なく、事件はそのまま白紙となり、その中の一部だけが送局されたに過ぎなかったようである。この問題は、戦後を通じてヤミ事件中最大のものであったようである。「泰山鳴動して鼠一匹」という結果になって終ったというもので、戦後のこの種事件では特記すべき一節である。 |
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