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大戦前の国産時計メーカー群の状況
精工舎とシチズン時計が群を抜いていた

《大正15年》 日本における時計工業は、掛時計に次いで懐中時計、腕時計の順に開発されてきた。精密を要する懐中時計または腕時計メーカーの存立は、精工舎の事業企画が発展して懐中時計に次いで、大正15年に腕時計を発売した。同社は大正14年に腕時計を作り始め、同15年に懐中時計とともに腕時計10型を発売している。
シチズン時計は大正7年に山崎亀吉氏が経営していた尚工舎製作所内に時計研究所を設立、時計の製造を目論み、懐中時計を発売している。そのあと昭和5年、中島与三郎氏の英断でシチズン時計を再建、ミドーとスターを模倣した腕時計の製作を開始した。
このほかに、時計の卸を経営していた鶴巻栄松氏が設立した栄工舎が、大正13年に発足、昭和2年から目覚まし時計に次いで、「スリゲル」、電気時計などの製造を開始、腕時計は昭和10年に着手し、昭和12年、「センター」、「オルター」のブランドで市販を開始している。

昭和5年、再建して復活したシチズン時計
資本金三十億円、時計の月産三十五万個の生産能力を持っていた

《昭和5年》 シチズン時計の現況は、セイコー時計と並んで日本製時計の中野キリン児的存在として広く海外にまでその性能を誇っていた。その発祥は、昭和五年、再建して復活したシチズン時計鰍フ初代役員には、日本の貴金属業界で横綱格であった東京・日本橋の山崎商店(旧清水商店)社長であった山崎亀吉氏を取締役会長にして、中島与三郎氏が取締役社長に就任していた。
しかしこの会社の設立にあたっては、中島さんが、かねてエル・シュミット工場時代の取引先であった小林時計店、金森時計店、大沢商会、澤本時計店、大阪の富尾時計店などに相談を求め、その間の働きぶりは、すこぶる活発であったようだ。
当時のシチズン時計の現勢力は、山田栄一社長、大田敬一専務を業務の主軸に置き、大きく羽ばたいていた。資本金三十億円、時計の月産三十五万個の生産能力を持っていた。

大正十一年当時、月産三万個を生産したプリンス時計
池袋に所在した村松時計製作所が近藤康平男爵との共同経営で発足した

《大正十一年》 プリンス時計は、東京・豊島区池袋に所在した村松時計製作所が大正十一年五月、合資組織による村松恵一氏の経営に始まり、大正三年、中野某と近藤康平男爵との共同経営で発足した。当初は、堤時計を作っていたが昭和15年末には、九、十型の腕時計のキーボードを市販、月産三万個を生産した記録がある。

オリエント時計は昭和25年7月、一億円の資本で生まれ変わった
東洋時計と浦田時計製作所が共同で工場を設けて置き時計の製造を開始

《大正九年》 オリエント時計は、東京・黒門町の時計卸・吉田時計店の直轄工場の東洋時計と大正九年、東京・小石川に設立してあった時計側工場の浦田時計製作所と共同で巣鴨に工場を設けて置き時計の製造を開始、昭和八年、埼玉県上尾に同工場の移転拡張を図り、腕時計の製造を昭和十八年、南多摩郡日野町に鉄筋コンクリート三階建て工場を完成したまま軍需品工場に転換する状況をたどっている。オリエント時計は昭和二十五年七月、一億円の資本で生まれ変わった。

月産十万個のリコー時計
針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた

《昭和5年》 リコー時計は,前身のタカノ時計を改称したものであるが、カメラ界で有名なリコーカメラの名声とともに、大衆に対する宣伝は大きかった。社長である市村清氏の構想は一際大きく、リコー時計の勢力倍増の為に必要な新工場の建設は、岐阜県恵那町に建設された。完成の暁には月産三十万個を生産するという構想を発表している。
ハミルトン社との提携により、針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた。同社の生産能力は月産十万個と称されていた。

廉売合戦で「業界損失防止案」なる決議書を作り、決着を
東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和七年》 東京の五味材料店と小峰材料店対立抗争劇は、昭和七年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した。その結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。

「業界損失防止案」なる決議書の内容
会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものである

《昭和七年》 為替の変動甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。

時計の修理に携わる業者が繫栄し始めた
時計の側合わせ、側直し、メッキなどの需要が高まる時代

《昭和初期》 この頃、時計の側合わせが流行していた。時計の側合わせ、側直しなどの営業は、日本橋・馬喰町の高木メッキ工場、大井町の吉原工業所はメッキと側の修理を行っていた。それに幡ヶ谷に工場を持ち、都内を駆け回っていた金栄社のぞんざいは大きかった。金栄社は、側のへこ直し、側の一個合わせを看板に掲げて評判も良かった。そのあと、セイコーやシチズン時計の卸売りを行うなど同社の発展は目覚ましい。社長の荒木虎次郎氏は、八十歳で、時計業界では最長老者として尊重されていた。

白金の価格が安かった為、愛国メダルを売り出し、話題となった
当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は二円四十銭

《昭和十一年》 この頃白金の価格が純金の二,三割高という安値の時代だったので、山崎亀吉翁は、白金製の愛国メダルを売り出し、話題となった。側には、純白金だけでは不適当なので純金を少量混ぜ硬度度を調整していた。当時はほかにも白金側のナルダンやロンジンなどがあった。当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は二円四十銭、ムーブメントが九十銭となっていた。また製造工賃は、十八金の男物堤時計、専売側、パリス側とも五円から六円五十銭、腕時計は三円五十銭前後で、十八金はへり込みで三百八十円という値段だった。
その後、景気が悪くなり競争も激しくなってきて、腕時計のパリス側の工賃が一個、一円となり、八十銭に下がり、中には五十銭、三十銭まで値下がりした。ついには、金ろうを使うべきところ、真鍮ろうを用いたり、また金性を落としたため、ノーマーク物まで出現するようになった。

当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代
材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用していた

《大正五年》 大正五年の第一次大戦後の好景気を受けた当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代に移った。
このころの材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用しており、精工舎では、斜子無双側を作っている。赤銅側には、花鳥や富士山などの彫刻色とりどり、象嵌などは、骨董価値のあるものが多かった。



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