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全時連の日誌が示す技能制への動き
自昭和三十九年四月一日至昭和四十年三旦二十一日

《昭和三十九年》 昭和三十九年四月十八日技能検定の概要と経過報告を各県連会長あてに送付した。
三十九年四月二十一日、技能検定(時計修理工)の第一回専門調査委員会を労働省で、佐川久一会長、長谷川、河内副会長、小南、高木常務理事(全時連)、大阪時計組合の塩田理事、真々田、近藤、太田(東京組合)、関技研の小倉、調時師協会の角野、学者の小林、岩沢、久保田、井上、藤田(時計メーカー)の各氏が出席、時計修理工の国家検定試験実施について協議した。
★昭和三十九年五月十五日=技能検定の小委員会(専門調査委員中、検定試験基準について細目に検討する委員)を労働省において開催、学科、機械要素検討。
★昭和三十九年六月九日=技能検定小委員会を労働省において開催、実技課題について。
★昭和三十九年七月十日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。
★昭和三十九年九月十五日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。
★昭和四十年一月十一日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の施行技能検定採点結果にについて協議した。
★昭和四十年二月二十二日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の検定試験基準技能及びその細目について協議した。
★昭和四十年三月十六日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の技能検定基準及びその細目について協議した。写真は、昭和四十年一月十日から始まった東京時計組合の技能士テストの受験光景。

山田時計店の山田徳蔵社長が当時の時計卸売業を語る
服部時計店の常に揺るがぬ営業方針を尊敬した

《昭和四十年》 創業は昭和五年、終始一貫して精工舎製品の専門卸を看板にして三十五年たった今日、時計卸界の最先端を行く老舗の山田時計店。この山田時計店を創立し成功させた山田徳蔵氏は、現在服部時計店の大株主でもあり、不動産会社をはじめ一族を盛った関連会社も設立している。意志堅固なその山田徳蔵氏は、一体どのような心境で創立をし、成功を収めるに至ったかを以下本人の回顧談を基に纏めてみた。
先ず山田時計店社長の山田徳蔵氏は、昭和四十年で満六十五才、元気かくしゃくとしている人。現在の山田時計店は、山田徳蔵社長に長男の山田秀夫氏が取締役副社長の陣容で営業している。
当時の山田徳蔵氏は、「私の店は昭和五年に独立し、服部時計店とお取引を願って以来三十五年の才月を経てまいりましたが、私が精工合製品専門の取扱卸商をはじめたいと考えたのは、たしか大正七、八年の頃と思います。その頃は、第一次大戦が終った後、漁夫の利を得た日本の好景気な時代でありました。つまり黄金時代とでも申しますか、懐中時計は金側と金クサリをつけて飛ぶように売れた時代です。当時の景況というものは、現今と違い売手市場でありました。好景気がもたらす需要増大によって、毎月のように物価は上り、時計もその例にもれず値上りしていったわけです。その好況は大正九年の舂頃まで続きました。しかしそのような情勢の中にあって、精工舎製品は常に定価制が実行され、官制商品の如く扱われていたものです。商品の受注は、注文受付制度をとっており、申込順に出来上り製品が出荷されたのですが、製品仕上りの途中で値段に変更があった場合でも、既注文品は、その申込当時の値段でなんら変りなく出荷されたものです。例えば、七円の定価のときに注文したものが、製品の出荷前に十円に値上げすることに決まった場合でも、注文当時の旧価格の七円で仕切られたのです。ですからこの場合の値段は、値上りの巾利益と卸利巾のダブル計算ができることになり、非常に有利であったわけです。さらに、出荷された機械に金側を取付けて販売していた状態でありましたので、当時の卸商という商売は、ほとんどの業者が大変利益をあげたものです。しかし、こうした好景気もそう永くは続かなかったのです。大正九年、神戸の鈴木商店の倒産が起きたころから経済界には一大パニック時代が到来したのです。これを機に、服部時計店の取引制度も改められ、従来の注文価格制度から出荷時の取引価格制へと切換えられたのです。この切換えが服部時計店と取引をして以来、初めにして最後の変更であったわけです」。

大正十二年の大震災で焼失した頂り品の修理品を全て新品にして返した
精工舎製品の取扱いに更に一層意欲を強める機会となった

《昭和四十年》 こえて大正十二年の大震災では、服部時計店も大平町工場も全部焼失したにもかかわらず、被災者に対する温情なる処遇と、そしてまた小売部においても、焼失した頂り品の修理品を全て新品にして返したという事実を目撃した私は、大変感動したものでした。これは服部時計店の家憲の賜物であると信じ、精工舎製品の取扱いに更に一層意欲を強める機会となったのであります。私が精工舎製品の専門店として卸商をはじめたのは、前述のような経過からみて服部時計店の品物であれば信用を欠くところなしという信念を持ったから他なりません。私が開業した当時(昭和五年)の時計卸業界の同業者は次の如くでした。
東京地区=吉田時計店(東洋時計)、鶴巻時計店(英工合)、金森時計店、小林時計店、矢島時計店、天野時計宝飾品KK((ㇵイフス組立)、今津時計店、見沢時計店、竹内時金堂(広瀬氏)、名古屋地区=野々部時計店、今津時計店、服部時計店、勝川時計店、堀田時計店、大阪地区=中上時計店、冨尾時計店、今岡時計店、岡伝商店、北出時計店、沢本平四郎時計店。京都地区=大沢商会。

服部時計店の財力は大変なものだった
不景気で一年、二年売れなくても生産したのを倉庫に積込んでおく余裕がある
 
《昭和四十年》 前述のように、スイス物の格安組立品には到底太刀打ちできなくなった
セイコーは、遂に景品付特売を断行することになりました。一回の出荷数量十万個を単位で宣伝することになり、業界紙にも堂々と特売広告が掲載されました。
この事は、国産時計の企業性についてとかくの批判を投げていたようです。それにもまして、財力についての服部時計店の評判は相当なものでした。私の耳に入った噂は、「服部時計店の財力は大したもので、不景気のために一年や二年の問、一個の時計が売れなくても毎日生産したものを倉庫に積込んでおくだけの余裕があるというほどのものでした」。
話は戻りますが、セイコー九型の出来たのを披露するために、取引関係卸商を星ケ岡茶寮に招いたことがありました。初代の服部正一社長に中川支配人、湯川卸部主任の接待で、モリスを型取った非常に具合のいい時計を披露しました。私は今津文三郎氏の代理で出席しいたのですが、初代の服部社長以下、喜びに満ちた顔で話された当時が今なお想い浮かんでいます。
さて、少し前の時代に戻りますが、その頃の時計業界は、特に卸業界では他製品を仕入れて、これに自家製商品のマークを付けて売ることに努めたものでした。ですから、腕の輸入品などの多くは、バラ機械を入荷して、これに自社製の銘柄をつけたものです。競争時代の最も激しかった様相が、このことでも判ると思います。
大物商品では、名古屋製品を仕入れて、自家商品のマークにはり替えました。つまり自由競争が、余りにも激しい所から、資本力の闘いとなった時代だったのです。

当時、流行った通信販売
儲かり過ぎて失敗した経験も

《昭和四十年》 通信販売で有名だったのが、東京の加賀屋商店(野尻雄三氏)、名古屋の小菅時計店(小菅甚左衛門氏)、奈良の保険堂等で、立派な案内書を定期的に発行していました。それは丁度、現在の週刊誌を良くした体載で、それに定価表を付けたので小売店の仕入には便宜をしたものでした。その後、加賀屋さんが整理されたことがあったので、その原因を尋ねたところ、性来気らくな野尻さんが、その経験を詳しく話してくれました。
「確かに通信販売というものは、成績が良かった。仕入れは手形で、売りは現金という条件だから金の余裕があり過ぎた。そのため、いろいろの仕事に手を出したことが倒産した原因である」と述懐していました。
つまり、儲かり過ぎて失敗したということになったわけです。野尻さんは、私と年が相当違ったので、何事でもいろいろ親切に教えてくれました。この時も、「君は若いから私のようなテツをふまぬように」と訓諭されたことがあり、今更ながら感慨深く考え出されます。

私が精工舎専門の卸を目指し始めた頃
銀座一丁目の山崎商店の山崎亀吉社長に憧れていました

《昭和四十年》 話は少し戻るが、シチズン時計が操業していた初期の頃の話。創始者の山崎亀吉さんは屋号を清水商店といって、日本橋馬喰町四丁目で貴金属製作所を営んで盛大にやっていました。その後、日本橋通一丁目に清水ビルを建設したのを機に、山崎商店と改称したと記憶しています。また、銀座一丁目に山崎商店の小売部を開設したのはこれに続いたもの。その頃私は、山崎社長を非常に尊敬していました。なぜかというと、大正初期の頃、電話が非常に少なく、私の勤めていた今津時計店にもありませんでした。ときどき山崎商店へ電話を借りに行ったものでした。
ある時、当方の客筋から山崎さんを通じて電話があり、私がまいりましたところ四十才位の立派な男性が「電話はこちらでございますから」と丁寧に案内してくれたので、恐縮しながら帰ってきたのですが、主人に話しをしたところ、その人こそ社長の山崎亀吉さんであることを聞いて驚いた次第です。山崎さんは、私のような小僧に対しても、同じ人間として丁重に扱われたのに畏敬の念を抱いた次第です。
山崎さんの、人を差別しない態度に大きな教訓を受けたのです。確か、大正十一年頃だと思いますが、十七型の懐中時計が尚工舎から発売され、その披露会が下谷の伊予紋(当時は下谷で一流に属しており、現在は松坂屋の発送部になっているところ)で開かれました。発表されたシチズン時計は、十七型でウォルサムの形に似たものでありました。この頃から、将来私は時計の卸商として独立したいものだと考えるようになったのであります。
そのころ、私の実兄が名古屋で各種の卸商を営んでおりましたが、上京の際など時計業界の話題が出てよく論議したものです。そこで私が、兄に精工舎専門の卸をはじめてはどうかと勧めてみました。当時は、日本広しといえども、精工舎専門はおろか、何々専門などいうような時計の卸商社はありませんでした。それどころか、セイコー製品は融通品位にしか取扱っていなかったのが多かったようでありました。そんなことから、私は兄に対し精工舎専門卸を相当強く進言し、全面的な協力を申し出たのですが、いろいろな事情でその実現を見なかったのであります。それでは、東京で私が始めたらいいではないかという事になりましたが……。
その当時、主人の今津時計店のご子息が幼少ですぐには、商売の跡目には間に合わない状態でありました。そこで世問にありそうな話と同じく、私を今津の跡取りという相続人の話が持ち上がったのです。男の本分として、はなはだ困ったことではありますが、さりとて足跡でケルというようなことも出来ないので、今津時計店にいなければならないような境遇になったのです。そのような訳で、私が独立した昭和五年に到るまで、精工舎専門卸店の夢を抱いて数年、独立の機会を待っていたような次第です。精工舎専門卸店として独立しようと考えたのは、何かの想い付やアイデアなどから取り入れたものではなく、信念にもとづいて考えた結果の真剣そのものの創業企画であったのです。

昭和40年度 全国時計小売業者会員数=16,509名(会費:¥1,981,080)
なし全時連各県会員数と会費一覧表(昭和40年5月17日現在)

▽北海道=1,060名(会費¥127,200)、▽青森=295名(会費:¥35,400)、▽岩手=314名(会費:¥37,680)、▽宮城=350名(会費:¥42,000)、▽山形=299名(会費:¥35,880)、▽福島=400名(会費:¥48,000)、▽秋田=331名(会費:¥39,720)、▽群馬=321名(会費:¥38,520、▽埼玉=400名(会費:¥48,000)、▽千葉=382名(会費:¥45,840)、▽神奈川=577名(会費:¥69,240)、▽栃木=317名(会費:¥38,940)、▽山梨=154名(会費:¥18,480)、▽長野=499名(会費:¥59,880)、▽茨城=336名(会費:¥40,320)、▽東京=1,649名(会費:¥197,880)、▽新潟=609名(会費:¥73,080)、▽=295名(会費:¥35,400)、▽富山=258名(会費:¥32,160)、▽石川=231名(会費:¥27,720)、▽福井=208名(会費:¥24,960)、▽岐阜=397名(会費:¥47,640)、▽静岡=591名(会費:¥70,920)、▽愛知=870名(会費:¥104,400)、▽三重=308(会費:¥36,960)、▽滋賀=171名(会費:¥20,520)、▽京都=386名(会費:¥46,320)、▽大阪=832名(会費:¥99,840)、▽兵庫=500名(会費:¥60,000)、▽奈良=111名(会費:¥13,320)、▽和歌山=197名(会費:¥13,320)、▽和歌山=197名(会費:¥23,640)、▽鳥取=127名(会費:¥15,240)、▽島根=170名(会費:¥20,400)、▽岡山=347名(会費:¥41,400)、▽山口=289名(会費:¥34,680)、▽徳島=164名(会費:¥19,680)、▽香川=210名(会費:¥25,200)、▽愛媛=185名(会費:¥22,200)、▽高知=139名(会費:¥16,680)、▽佐賀=196名(会費:¥23,520)、▽熊本=308名(会費:¥36,960)、▽大分=236名(会費:¥28,320)、▽長崎=280名(会費:¥33,600)、▽宮崎=198名(会費:¥23,760)、▽鹿児島=299名(会費:¥35,880)以上、会員数=16,509名(会費:¥1,981,080)。
写真は東京大手町のサンケイホールで開催された「物品税撤廃決起集会」全国大会。この席上には、衆議院議員の田中伊佐治代議士と各県選出の議員数名が演壇上から激励の演説を行った。"

昭和四十年の頃「全国貴金属業者団体」の連合会が誕生した
貴金属や宝飾品類は好景気?金素材の払い下げ陳情狙いで

《昭和四十年》 時計業界の状況とは反対に、貴金属宝飾品業界は好景気に恵まれていた。
昭和四十一年の頃から貴金属製品は作れば売れるという時代に入っていると聞いた。特に貴金属の製造業者ルートなどは、変化が生じている。いわゆる企業へのジュエリーの持ち込み販売が増え始めたという事だ。ジュエリーのにわか販売業者が、ジュエリーの専門業者からの注文より多くなり、メーカー筋では仕事量が増える状況にあるという。だからこれらのジュエリー作りで生ずる地金の金と宝石類が増えていることは事実のようだ。 
当然、金の価格は産金筋からの政府収めは四百円、それと市中では六百七十円にまでのしあげてしまっているという現況である。従って金と宝石に関する外国からの密輸入が増えはじめ、今なお、途絶えないということで日刊新聞の紙面を賑わしている。
金の密輸出先はスイス、フランス、イスラエル、香港などと各国の刻印つきインゴットを日本国内に向けて輸入コースをとっていると当局では説明している。
それほどに金地金の国内需要力が旺盛を極めているという亊実は、貴金属品の需要が激増している証明でもある。そこで貴金属業界では、金地金の供給事情を緩和して貰うための陳情運動を政府に起している。そのために誕生した全貴連(全国貴金属業者団体の連合会)では、三富平次郎氏を会長に押立てて当局側に陳情これ努めた結果、昭和四十年秋に政府手持金の中から一トンの金を鉱山協会を通じて払い下げて貰った他、第二回目として昭和四十一年四月を過ぎたころには同様政府手持金の中からニトンの払下げが行なわれることに決ったというグッドニュースが飛び込んで来た。なお今後の需給関係を考慮して政府筋では、金地金を外国から輸入して供給しようという意見もあり、政府側の英断が望まれているという状況であった。

金属時計バンド業界は品質表示時代へ
通産省指導のもと品質表示制の規定に

《昭和四十年》 時計バンド付属業界は、昭和三十五年頃の需要の最高潮時代から転じて皮革バンド、金偏バンド共に最近では小康状態となっているようである。従って時計バンドの種類と製品過程に於ても状況を異にしているといっていいようだ。
先づ、金属製時計バンドは、全盛時代のS式バンドからエバー式(伸延可能なパーフェクトバンド)に転じて、その構造が今でも利用されている。このエバー式は、製法パテントになっており、独乙のロジ社との権利争いをした結果、日本のエバー式権利が確認されたのである。だからそのエパー式のパテントは、美装組合が所有しており利用者は組合規定により一定の利用料を支払う義務が負わされている。だがここまで到らしめるための美装組合が払った犠牲は莫大なものであった。なお、この金属製バンドは、終戦後の流行時代には、金張時代を出現していたので殆んどの製品がミクロン張(金性を合んだもの)を表示して製作されていたが、使用地金の改良からアトミック等の金色合金地金が登場するようになってからは、このアトミック式などの合金を利用して製作したものに電圧メッキを施したものが製品化されているのが多いようである。
そこで通産省の品質表示制の規定に、この種のバンドが該当することになり、これからの製品は品質表示をして製品の内容を予め明らかにするような措置をとるべく指導されることになり現在美装組合ではその対応拑置を構じつつある。

スイス大使館が世界的に時計の需要は伸びていると発表
 
昭和四十年当時、五千六百万個、この中の九五%が輸出

《昭和四十年》 時計界の最近の状況は、掛置時計の注文が多くなっているのだから景
気良化の兆しではないという向もあるが、時期的の関係であるという見方をする向もある。
ところが腕時計の面では、依然として需要が伸び悩んでいるというのが実態のようである。ただし、これは日本国内における場合の話。
スイス大使館当局が発表した一九六六年(昭和四十年)のスイスにおける時計の生産量は五千六百万個に及び、この中の九五%見当の五千三百万個を輸出しえたとスイス大使館で発表している。これによると、世界の中のその国の情勢如何によっては、時計の需要はまだ望ましく、時計を求めている国もあるのだということになる。嬉しいニュースの一つでもある。



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