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ヤミ事件に隠れた惡策の種々相
金塊争奪事件

《昭和二十一年》 終戦後の騷勁といったら、ヤミ物資をハサンでの事件以外はあるまい。
そのヤミ事件の中に巣喰う悪逆な事件の種々を事実に基いたものから後世のために断片的ながら以下記しておこう。
金塊争奪事件がその一つである。ある金塊の持主からその処分を依託された。昭和二十一年の頃のこと、取引場所は、山の手の西地区に当る場所、持参した人は、主役の責任を負う年輩者に若手二人が付き、案外おんぼろのようなクタシーで乗っけた。ところが、約束の時間になったら買手組の相手側は、二人連れで約束の取引場所に現われた。もち論、取引に必要なトランクを持参して来ている。そこで、両者間の取引開始の挨拶が済むと、それから買取り側では現金、現物提供右側は、金塊のそれをそれぞれ披露しなくてはならない段階になった。そこで、現品提供者側では買手側の風体からして一種の疑惑を持った。朝鮮の人であることと、その他に、万が一、持参したトランクの中の現金に如何わしい所作をしてはいないか等の点である。そのような疑惑を頭の中に描きつつ、目はランランと相手の態度を見守っていた時、そのトランクの蓋が開かれた。そのとたん目に映ったものは、百円札の束がズラリと並んで入れてあったのである。なんとなく怪しいと睨んだ瞬間、手早くその札束のくくりをぶった切ったのである。
案にたがわず、中身は新聞紙の重ね束であった。この時すでに室内は、電気も消えて乱闘の場と化した。改めエンジンをかけっぱなしで用意していた車に乗って、逃げた事件である。この車に乗り遅れたが最後、現品はおろか、命までも無くなっていたことになる。ことろが幸いにも、この三人は車の中で顔を見合せたという。かくて乱闘寸前のヤミ物資取引の危険は、このようにして双方無傷の中で済んだのである。済まなかったのは、金塊なる現品を委託した影の人に対しての問題である。依頼された某老人は、その人の前で平身低頭して、申し開きしたのである。大きな騒ぎになった割には、あっさりした引き際であったのだが、金儲けのためのヤミ行為は、品物だけがヤミではない、という教訓がこの事件の味噌である。

銀地金の事からCID行き
押収物件の中の約二トンの銀が、突然行方不明になった事件

《昭和二十二年》 貴金属地金については、この頃、銀地金のことなどでCID(連合軍警察)当局が追及していたことがある。ここで断っておくが、この頃俗にいうアメリカ兵側のMPとは、米軍事関係の取締り官で、CIDというのは、連合軍の物資摘発警察をいうのである。だから、何れとも、いざ踏み込みの場ともなれば、土足のままでやってくるのである。一方は軍関係、CIDは民間警察の関係という差があったもの。
貴金属地金についての所在などを追及していた連合軍の側の取締り当局では、この頃銀地金の行方についても諸所を追及していたようだ。ところが、銀に関するその押収物件の中の約二トンばかりの銀が、突然行方不明になった事件が突発した。そして、それに対するMP、CID当局の活動が始まっていた時だったから警戒の要があるという情報がこの頃飛んでいたのである。
この頃の時計業界は、アメリカ兵向きの銀製品作りなど極めて盛んであったのだから、あるいはそれらの面に流れていたかというでも懸念などあった。そうこうしている中に、この頃下谷入谷町に「五の日会」なる市場を二十二年の十月から始めたのがある。
その管理人は、松井栄一と大平吉蔵の両人が主となりタクトをとることになっていたので、病気上りの私も、商売上のおつきあいということで二十五日のその日の市に都合して出席したものだ。ところが、この市場においてこの日(十月二十五日)突発事件が起きた。突如として、CID当局の強襲があったのだ。当日の午後一時頃だったと思う。ここの会場は二階にあったので、その二階から外部を眺めた人の眼に一寸不可思議なものの人の動きがあるのを見たので、早速この情報に基いて参会者一同に一応の注意をした。
各方面の顔役連中までがその場を引きあげるということは出来ない立場もあったので、そのまま引止まっていた。

ブラックマーケットに烙印された時の恐怖
「五の日会」にCID当局の強襲があった

《昭和二十二年》 すると午後二時を過ぎた頃一台のジープの音がして、表に止まったと思った瞬間、会場の入口から早くも土足のままで入って来た眼色の変った豪州兵らしきものがピストルを向けて何やらいって立っている。恐らく、手をあげろといったのだろうと思う。私達は、机の上に白布を張りめぐらした台の上に所持品をおいたまま両手をあげた。すると、二十五、六人もいたであろうか、その中の一人一人の身体を軽く手でさわってから品分けをする時のようにしてだんだん列外に除けていった。最後に残されたのは、越光、飛田、白石、竹内、松井(長男)に私の計六人だったと思うが、その一連のものは、所持品の関係で大物の部類にあげられたようである。このとき私の持っていた品種の大体は、色石約一千カラット、ダイヤの裸石と、枠入り指輪、銀製角形印台指輪に彫入りのもので、価格は推定約一千万円位と報道されたという。その他の面々も、つぶし金諸々に色石とダイヤモンドの各種を取まぜ所持していた。豪州兵らしいピストルを持った兵隊らは、ここまで点検して来たので一応納得したらしく見えた様子で、これから品定めをして更に訊問だけが残されることになったのである。
そんなことがあったので、一体何か目標でこの日のガサを行ったのかが一向に判らない。そこでその理由を聞いてみたところ、手持ち品の中の銀製高彫り・つき指輪とブローチ、ダイヤモンドの裸石は、何れも占領政策違反に問われる品種であり、ルビー、アレキはガラスという見解で無関係だという取扱いにされた。兎に角六人一行は、このあとジープに乗せられて麻布警察署に送検されて取調べをうけることになった。
取調べの結果、金塊の所持者は一応押収され、その他は無事帰宅することが出来だのだが、このときの調査目的のポイントがどこにあったのかと聞いてみたところ、「業界開係のある一人が進駐軍の管理している銀塊二トンを紛失したので、その捜査を行った段階でブラックマーケッ卜らしき所を急襲することになったのだという。そのことが判ったので正に正直者が馬鹿を見たという馬鹿馬鹿しい一巻となったのである。だが、このとき麻布署の奥深くには(留置場)物資活用協会関係にかかる金塊事件の違反事件に問われて攻められていた貴金属業界の某人氏等数人の顔が見えていたなど、当時の蔭の状況の一部がのぞかれていた。

関時連の関誠平理事長が誕生することになった経緯
組合首脳陣の首切り劇反復があった

《昭和二十二年》 敗戦という責任は、“国民が共同で負うべきだ”という考え方のもとに、建て直された「協同経済主義」を信奉する協同組合方式が、新組閣の戸田内閣によって打出された。その為、国内経済方式には変った面が現れた。このような場に備えて、とりわけ「東京時計小売協同組合」では、二十二年の四月を期して西神田倶楽部において総会を開催することにした。そしてその当日役員の改選も行われた。これまで長年に亘り組合功労者として尊敬されて来ていた野村、山岡氏らの正副理事長に対立する暗躍組が登場していたことも事前に知らされてはいたが、選挙を行う総会当日、その場はもの凄いほどの対立行動を呈したものだ。
先ず、総会場の入口に頑張っていた若者の手により、業界紙の号外が撒かれた。幸か不幸か、終戦間もない時だけに、組合員は組合事業に対する関心をさほど持っていなかったものと見え、この日の組合員の集りは案外少なかったように見えた。それだけに、選挙の結果は暗躍組の勝利に帰して、関誠平理事長が誕生することになった。もちろん関氏を表に立てたその裏には、金山重盛氏が暗躍の発起人であったのだから関理事長と金山氏は親分子分の関係であり、いうなれば、表裏一体の立場にあったのはいうまでもない。
このような関係で、関誠平氏が東京小売組合の理事長になったのを契機に、関氏が包括していた東京時計小売組合に関東時計小売組合連合会(関時連)という関係をも生かすことになったのである。即ち、この時から関誠平氏が関時連の会長に就任したことになり、この点ハッキリしている。だが、その関連性はそう長くは続かなかった経歴になっている。

惜しい三越の貴金属売り場の権利
商売人のプロ三直商店さんとセリ合う愚はしたくない

《昭和二十二年》 古物商といってもばかにできない話があった。終戦後の昭和二十二年頃は、社会情勢もだんだん落ち着いてきて、三越などのデパートも普及はなはだしかった。デパートの中でも日本橋の三越本店はナンバーワン。
この三越は、元々が堂々たる小売専門店である。古物品というようなものは取扱わないことになっていた。そのことは十分分かっているが三越に時代的啓蒙を植えつけてやろうと考えたのだ。それは日本の将来の伸び率が相当あるという推定から、それによる将来性に備えた場合、三越にも“時計はまだしも、貴金属部の開設と古物品の取り扱いも開設すべき”だという提案を勧めたのである。昭和二十二年のことと記憶する。
この頃幸いにも、私の側近者に二見という外回りのセールスマンがおり、その知人が三越にいるということで、その紹介で貴金属部の主任の人と会うことが出来た。まだこの頃は三越の内部は、一部修理中であった。私は順天堂から退院した後のことなので、うまく行けば、三越本店の古物担当者に会えるという望みがなかったわけではない。兎に角、私が持参したプラチナ製の提げ時計や提クサリ、プラチナ製のダイヤモンド指輪など一セットを引っ提げて持って行った。敗戦後の貴金属品は、このような古物品を取り扱うことによって堂々と商売が成り立つことを説明した。
その日は、感謝されて、帰ってから数日後、三越との約束時間に合わせて行ったとき、同じような狙いで、神田・神保町の三直商店が競りこんでいたことを知った。
そこで私は、三越に時代性の商売について説くことにしたが、これ以上商売人のプロである三直商店さんとセリ合う愚はしたくない、という気持が湧いて出たので、三越の件はそのまま引っ込んだのである。後で考えてみれば、その三直商店がこの三越の宝飾部を通じて大きな商売をしている。やはり商売人は大したものだという話。

日本堂の出資金三十万円と肩を並べて服部時計店が同額の三十万円を出資
なし時計会館の建設にまつわる当時の状勢

時計組合本部の移動時代

《昭和二十二年》 昭和二十二年五月の総会で、戦前から時計組合長として組合事業に貢献してきた野村菊次郎氏にとって代わり、関誠平氏の理事長時代に移った。この東京時計小売組合にも新しい息き吹きが巡ってきたようだ。
取りあえず関誠平理事長は、戦後の時計組合理事長としての指揮棒を握ったことになる。勿論、関氏の後ろ盾の役を努め、敵将としてねらった野村菊次郎理事長と山岡猪之助副理事長らの首をはねた功労者の金山金重盛氏は、副理事長の座を占めることになった。(註、昭和二十二年協同組合法の定めるところにより、柬京時計眼鏡小売協同組合の呼称は、第三五○号により登録されている、当時の組合員千百二十名)。 そして、新役員に変ってから神田・小川町の白馬山の二階にあった組合事務所は、引き上げることになった。移転先は、銀座五丁目六番地の裏通りに位するビルの一室で、「バー小港」と向い合いにあったもの。この当時の借室の敷金など一切は、副理事長になった金山重盛氏が担当していたので、その後の整理話のことも続けられていたようである。
こうしている中に、関誠平氏の発意によったものか、時計会館の建設に関することがプラン化されるに到ったのである。時計会館の建設企画は、当初は八十万円の予算であったように伝えられている。そしてそのプランによる建設概要は次のようであったという。
@ 敷地の約五十坪(新富町の現在の場所)を、十五万円で買取る旨、出資者に説明している。
A 建築費用、二十五坪の二階建、約五十坪の経費と雑費合せて計七十五万円。
大まかには、上のようなプランによって、出資者側に目算したメーカーの服部時計店、シチズン時計を始め、その他卸商と銀座界隈に実在する小売店有志者の協力を仰いだようである。
そしてそのプランに基き、服部時計店を始めシチズン時計等、目星しい先々を飛廻ったのであるが、それよりも真っ先にこの建設プランについて協力を求めたのが、この当時銀座のドまん中に開店した日本堂時計店に対してであった。日本堂の佐川久一社長は、この話に対して、「万一、この時計会館建設の資金がまとまらなかった場合は、私(佐川氏)が一切を引き受ける」と言って、一種のハッパをかけたそうである。
この間いろいろな話から、これに勢いを得た関誠平氏と組合書記長の青山君が同道して廻って歩いた結論は、「どうにも資金が集らないから、時計会館の建設計画はお終にしなければならない」と昭和二十三年の秋ごろ、日本堂を訪れて佐川社長に最後的な状況報告をしたという。これに対して佐川久一日本堂社長は、次のようにいい再度二人の尻を叩いてやったといっている。
関誠平理事長と青山組合書記長が「時計メーカー方面の協力がないというのなら、新興の日本堂一人で出資するが、それでいいか」とメーカー陣を説きまわっていたという。
そうした結果、当時の日本堂は、何としてもまだかけ出したばかりのホントウの新興小売店であり、その小売店の出資によって、万が一、時計会館そのものが建設されたとしたら、将来どんなことを持かけられるかわからない、として日本堂の出資金三十万円と肩を並べて服部時計店が同額の三十万円、以下シチズン時計などその他卸商社からの出資金によって、現に新富町に所在する時計会館が出来上ることになったのだという。これが時計会館建設についての経過であり、この問の事情が明白になっているようだ。
然し、その時計会館は、現在東京時計組合対中央時計宝飾品協同組合の争いとなり、法廷に持出して係争の具に供されんとしつつある情勢のようであるなど甚だ遺憾事である。写真上は、昭和22年当時「東京時眼小売協同組合」が神田錦町に事務所を置いた時の記念スナップ。"

商工協同組合法に基き、名称を「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた
野村菊次郎、山岡猪之助、金山重盛、河内録幤氏らが理事長に

《昭和二十二年》 東京時計組合の事務所は、戦災の時まで台東区の東黒門町にあったが戦後は一時、文京区小石川の野村菊次郎の自宅に置いていた。戦時中は、統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の三団体が統合した東京時計商工同業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)、そして東京時計眼鏡小売統制組合を設立し、組合の総出資数、八十五口、組合員千四百四名、理事長・野村菊次郎、山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、中山文次郎監事、関口鹿十郎、内田亀楽の役員陣で、組合事務所を神田・小川町の白馬山時計店に移した。然し、白馬山の二階事務所が余りに狭かったので神保町の西神田倶楽部の前に移転した。
昭和二十二年、商工協同組合法に基き、名称を「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。組合員千百二十名で理事長は関誠平、常任理事千葉豊、金山重盛、中山文次郎氏の外、理事十一名、監事三名、このとき組合事務所を東京都中央区銀座五丁目六番地に移した。昭和二十四年五月、新富町三の八番地所在の時計会館が完成したので、組合事務所を移転した。
昭和二十五年、中小企業等協同組合法により改組移行した。役員は、金山重盛理事長、常任理事に内田亀楽、後藤安平、河内録幣、森浦知作。昭和二十七年の役員改選により、金山重盛理事長時代が出現した。昭和二十七年の改選の結果、山岡猪之助、佐川久一の両氏が当選し、常任理事制を採り任期を折半したが、九月に山岡猪之助氏理事長を専任し、この年に貴金属品に関する物品税の陳情運動を起こし、活躍したが、メーカー側の反対する陳情が奏効して結果において消費税は店頭課税となった。
昭郛二十九年の総会で役員を再選して、山岡理事長が留任、同三十二年にも再選重任したが、昭和三十二年三月山岡氏が病に倒れ、辞任したので、木村副理事長が代って昇格理事長に就任、二期を引ついでいた。
次いで、昭和三十七年の改選期には、河内録幤氏が大沢氏に勝ち、同三十九年に再選現在に及んでいる。昭和三十七年の五月が改選期に当り漆原氏と争っている。写真下は、昭和二十四年当時、終戦後の業界の取引機関に活用した「古物品交換市場・七福会」のメンバー。竹内、永井、藤田、出口、赤沢、堀内、赤沢、大平、越光氏ら。

大阪時計卸協同組合とその沿革
昭和二十二年四月親睦中心の任意組合として創立

一、昭和二十二年四月親睦中心の任意組合として創立、初代組合長に当時服部時計店大阪支店長の椿七十氏が就任した。
二、翌昭和二十三年五月、滋賀県石山のホテル三ヶ月において、第一回総会を行い初代理事長に中上礼三氏を選出、当時は食糧不足の折柄、主食を持ち込んでの開催と記憶する。その後、毎月例会を開催した。
三、昭和二十六年四月、中小企業等協同組合法の制定により、「大阪時計卸商業協同組合」に改組し発足、これを機にメーカー企業は、客員となり協力することとなった。当時の組合員数は十九社。
四、昭和二十六年四月二十四日、大阪中央公会堂において、第一回輸入時計展示即売会を開催、セイコーより目覚まし時計四百個、腕時計四百個、又、シチズンより腕二百五十個の特別出展を受け、小売店に対して謝恩引換券を各一千名に組合行事として販売した。当時の商品払底の模様が偲ばれる。
五、昭和三十六年十一月六日から八日まで、組合結成十五周年記念行事として、約二千名を大阪の新歌舞伎に招待した。この日に「大阪時計卸協同組合」と改称、理事七名を増員、事務局を開設した。
昭和四十一年三月一日現在の組合員構成は三十三社。

▽理事長=小谷稔(栄光時計)、▽理事=今岡亀治(今岡時計店)、岡清(岡時計店)、松下保次(三光舎)、蓮池節雄(太陽興業)、河合周三(東邦時計)、▽監事=中上礼三(中礼時計)、比田勝豊(日本堂)。
組合員=磯村時計商会大阪支店(磯村整司)、泉谷時計店(泉谷武宣)、乾時計(乾義孝)、今岡時計店(今岡亀治)、栄光時計(小谷稔)、大沢商会大阪支店(桑鶴光夫)、
大阪東洋時計商会(鷹崎正見)、岡時計(岡清)、尾崎時計商会(尾崎正三)、栄商会大阪支店(西応文一)、三光舎(松下保次)、正美堂(真貴田公平)、正光産業(竹中久二)、大和時計(客野勘一)、太陽興業(蓮池節雄)、東邦時計(河合周三)、冨尾時計店(冨尾清太郎)、中井梅(中井梅次郎)、中上時計店(中上礼三)、中礼時計大阪支店(中上礼三)、西浦時計(西浦文康)、西村時計商会(西村正年)、日本堂(比田勝豊)、広島時計店(広島一夫)、福田時計店(福田初次)、堀田時計店大阪店(小田切長)、村上商店(村上仁)、村木時計(村木正明)、メイコー商会(岩瀬義一)ユオ時計大阪支店(関口敏男)、ユーエス商会大阪営業所(請昌一)、吉田時計店大阪営業所(尾本正次)、オリエント販売(小谷稔)。

金塊や銀塊の買取り事件騒ぎ
金塊を割ってみると中にはナマリがごっそり入っていた

《昭和二十三、四年頃》 市場取引がだんだん盛んになって行った昭和二十三、四年の頃は、金塊についての取引状況は特別激しかったものだ。この頃、この金塊の取引について一つのエピソードがあった。それは二十二年頃のある日の夕刻、私が家に帰って来ると待ち構えていた和田さん(美津和材料店の主人和田政次郎氏)が早速話を切出した。「藤井さん、インゴットがあるから買おうじゃないか」という。「それはいいが品物の中味は大丈夫ですか」と私が念を押すと、この通りハンマーもつけてある位だから間違いはない、というのであった。
そこで私は右手にそのインゴット約五百グラム目のものを持って重量の感を試して見ると、比重に少し軽い感じがしたので、「これはダメだ」と突っ返した。すると、そんなことはないよ、さっき先方の人が来てこのハンマーで割って見てもいいといっておいていった位だからというのであったので、では割って中味にアンコがなければ高いが匁四五〇円で買えばいいのだから、といい切ってから私がその場でハンマーを使って割って見た。すると、何と、大丈夫どころか、中にはナマリがごっそり入っていた。これを見た一物売買のベテランの和田さんもさすがに顔色を変えた。その物をして、儲けようというやましさがない限り物ごとに誤った解釈がないことになる、という実感をこのときハツキリ証明出来ることになったわけであり、この時の事実を通じて参考になったのを喜んだ次第である。

武田製薬の重役がヤクザ者から手付金十万円を受取ったという当時の実話
一千万円のダイヤモンドを取引したいから持って来て見せて呉れ

《昭和二十三、四年頃》 これと似た事件がもう一つあった。この金塊偽作事件があった当時の世の中は、金の取引事件があっちにもこっちにも相次いでいた。今その頃の当時を振返ってみると、事業そのものをカムバックさせるための資金が欠乏していたからであろう。その資金集めをするために、一つの悪策(詐欺?)を企んだのだということがいえる。その金塊取引の事で、当南稲荷町にいた白山某氏が、武田製薬の重役と売買するのだということで契約を結ぶことになり、その間に入ったヤクザ者の一人から手付金十万円を受取ったという当時の実話であった。結局、対照物にしていた金塊を約束の時までに提供することが出来なかったので、十万円の倍、二十万円をおどし取られたという事件があったのを覚えている。更に、またその武田製薬の当時の重役というのが、私の南稲荷町の居室にやって来て、ダイヤモンド約一千万円ほどを取引したいから持って来て見せて呉れという申入れを受けたことがある。もちろん、外へ持出してまで売らなくても、先客万来の時代であったから、私はその武田製薬から来た使者なるものに断った。それによって、そのあとやって来た現役と称する輩には、その場で眼のさめるようなキラビヤカな光モノをぞろり並べて見せてやった。驚いたらしい。現金を持たずにやって来たのだから、その品物を持出したとせんか、それが最後何所かで体よく詐欺または略奪という寸法をやらかす計画でもあったであうと思えた。その時、彼らの二人のものは、金塊ならば当社にあるからそれを買って貰ってもいいというゼスチュアを残したのである。果して事実か、というためしのためにという興味も手伝って、その約束した銀座西七丁目の河岸(当時の外豪)にあった日東紡なる会社の秘書課を訪ねて見たのだ。ー向にそれらしき人の存在すらも明確にしえないという情況であった。私の想像した通り頗る危険千万な策謀がこの間に及んでい
たことになるのである。正に暗黒の時代だったのである。



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