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クアラルンプールとシンガポールを見る
「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」国

《昭和三十六年》 当今の海外旅行のほとんどは飛行機が利用されている。我々一行はバンコクからクアラルンプールに着いた。もちろん乗物は飛行機である。だから空から乗入れる旅行だけに、着陸間際になると機内の窓から飛行場の外景にまず目を止めるのが乗客としての常であるようだ。クアラルンプールの空港には、地元旅行社の代表者が迎えにやってきており、「TBS旅行団のミスター藤井」を連呼していた。そして指定のメルリンホテルヘ着くやいなや日本航空の出張員が私の傍にやって来て、日本航空を利用してくれないかという交渉をしにきた。そこへまた、三井物産の安田さんという人が、我ら一行に加わっていた武藤さんという人との取引関係のことで訪れて来た。
その安田さんという人は、当時のタカノ時計(今のリコーの前身)を東南アジア地方で身をもって売込むためにわざわざやって来でいる人であるということを聞かされたのである。そこでその晩は食後の時間を利用し、安田さんを囲んだパーティをすることにした。お陰でいろいろ現地の状況を聞くことができたので、その収穫にお互いが喜んだのである。翌日は、クアラルンプール一帯の視察旅行に出かけるコースをとり、この安田さんにガイドをしてもらうことにした。
地元の旅行社のガイドマンは、日本語が全然できなかったので大いに助かった。クアラルンプールという国の姿は、一口にいって「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」という格好である。だから日本のような狭隘な地面関係や、交通量に比較した場合のものとは異なって、正に夢の国か、オトギの国にでも来たのではないかとしか思えるほどの美しさである。
このあとのコースの途中で香港に立ち寄った際に、ヘラルドコーポレーシヨンのブロックさんという外国人に会ったとき、問はれたので、クアラルンプールのことを緑の楽園と思いましたと感想を述べたところ、そうでしよう、クアラルンプールは世界の楽園として建設途上にあるのですといわれたことを合せ考へ、そのとおりだと思えた次第である。
この国はゴムが主要生産物で、その輸出で年間の国の予算額の約七割方が収穫されるという恵まれた環境にあるのだという。だから他国との比較にならないものかある。
この地方に五本の足を持った奇牛が一頭おり、お金を払った特別参観に供してくれた。
写真はマラヤのゴム林を訪れた一行、右から、山岡.北岡、中井.野村、秦、ガイドマン・安田(三井物産)、倉林、藤井、竹本の諸氏。

シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会
金属製バンドのニューデザイン物に関心を見せたが価格の点では不成立

《昭和三十六年》 クアラルンプールという国は、そんなに大きな国ではない。だから見て歩くところもそう広範囲に亘るものではない。時計バンドの見本など持参した業者陣とともに、三井物産とは別の東京時計のクロックを特約販売している原地人(マラヤ)の時計卸商館を訪れ、その主人公のダンジョン・プリョタという人に会って話を聞いてみた。
会談の内容から、「日本の置時計は素晴らしい」という一点を述べただけで、その外は東京時計に感謝しているというだけ。これをこのように、というような具体的な改良や進歩という点についての意見は出なかったところは、日本人とは少し違っているようにみられた。だがシンガポールとの合併が伝えられているではないか、という私からの質問に対しては、「ノー」、宗教が異なっているからとハッキリした回答をしていた。
このような点から推しても、東南アジアの人達の民族的意識というものは根強いものがあるという判断が持てたのである。
シンガポールに行くのには、陸つづきであるのだから飛行機を用いる必要はなかった。バスでOK。シンガポールは英領の支配下にあったのだから、ここの港には米英両国の軍艦の姿など見られた。シンガポールの街は海岸に面したあたりが英領らしく、植民地的な風景を漂わせるものがあり、清潔な街の設計には目をそば立たせるものがあった。
ひとたび商店街に足を踏み入れてみると、そのほとんどが華嬌の群衆である。
私は東京時計の特約店をしている星東商会の紹介状を持っていたので、華商街の中にあるその商社を訪れたのである。この華商街の中のビルの階上に行くとき、支那人のボーイが案内してくれた。四階までエレベーターで行くのであるが、ここでチップを貰うのが案内人の狙いらしい。この案内人はクリーという種類のものであるらしく、華商のいうこと以外には立ち働くことさえ許されていないようだ。だから気狭な身振舞いをしていたのに気をつけて見た。
この後もう一軒の昌成公司という時計など各般の卸売りもしている時計専門の店を訪れてみた。昌成公司は、シンガポールでは目抜きのミットロード五番地に店舗を持ち、時計に
バンド類も扱っている小売店である。それだけに東京時計の置時計についてもマラヤにおける場合と同様聞いてみたが、それよりも日本製腕時計を東南アジア地方に売り込もうとする場合に、果たして現地人業者がどのような観察をしているであろうか、ということについて現地人の実際の声に親しく接してみたいというのがこのときのねらいであった。 この昌成公司の社長は、マラヤ語だけでイングリッシュは解せない。支配人の唐徳平という人が話せるということであったので、私が名刺を通じて会談したときは、この唐徳平さんが通訳してくれた。私の方は日商株式会社(シチズンの特約店)の所長、石橋斗さんという人が通訳してくれた。この会談で、昌成公司は東南ア地区の各方面に商売を拡大することができるが、それは品物の価格が拡売するに相当する利巾があるかどうかによって決ると説明していた。勿論その通りである。そして品物については、@時計は、大物では名古屋物と東京時計が入荷しており文句はないが、デザインの点で新らしものを期待する、A腕時計は、スイス物の方が銘柄がPRされており、需要者に提供するのが早い、B日本の腕時計を売り込もうとするにはPRを大いにすること、そして価格をスイス物に匹敵するように考えることができれば相当量を扱うようになる、C時計バンドについては、日本製品はいいものがあるが価格が高いという。私はこのとき、金属製バンドのニューデザイン物を提示して、見たいかと聞いてみたら、「是非見せてほしい」というので、ホテルでその日の夕刻五時に合うことにした。
その時間に支配人と共に昌成公司の主人公の二人がやって来た。ホテルの私の部屋で高島君が持参したサンプルを出して見せたら、“べリーナイス”を連発していたが、いざ値段の点になると、ナタ(半額)という。テンデ問題にならないといったのであるが、しかし昌成公司の立場としては、ナタ(半額)という差し値を出したので、日本側にとっては安くてダメだということになったのである。現実に取引をするための値段決めという場の切札としては、この時代の状況としては止むを得ないのではなかったかと静かに考察することができた。写真は、シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会。

シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる
ワニ製品を六、七十個も持ち帰ったが羽田税関ではたった二千七百円を課税

《昭和三十六年》 このS式バンドは、このあと香港に立寄った際の視察の場で、香港製の安価なバンドが作られつつある状況について、その現品を示し説明したことがあるのでその判断のための参考資料になったわけ。
このことが終ったその翌日、観光ということになり、その昔、薬問屋の千万長者・湖文虎という人が建設したという私設公園を見た。ここには、あらゆる動物を型どって作った型像物を見るのに二時間以上もかかった。このあと且ての大東亜戦争当時、山下将軍指揮で有名をとどろかせたジョホール水道について、当時の追跡を見て回った。ここで感動したのは、この水道塔の上部に当時の艦砲射撃のあとの穴が、今なおハッキリ残されているのに目を見張った。そしてまた、フォード自動車工場の中で降伏条件に調印を求めたという当時の遺跡についても説明されたが、ここだけはピンとこなかった。既にその付近が使用されていたからでもある。シンガポールを見て歩いた中で、特に気がついたのは、細い畔道のようなジョホール水道を境にして、シンガポールとは外国の国境になっているというところである。だから一歩足を跡み越すだけで、外国扱いになるのである。だから関税の関係で、ここでは週一回家庭用の日常品を展示販売することで有名である。
“税金がかからないのだから安いというのがねらいであろう。週に一度は、定期的に開かれることになっているという。だからこのジョホール水道際の定期市場は、その開市のたびに沢山の人出があり、賑わうので有名であるという。
私達一行が滞在していた三月一日のことだと思う。東南アジア方面では旧正月というので、この日は名物の爆竹が到るところで打鳴らされた。その日の晩餐会は、一行が宿泊していたキャセイホテルの二階の中華料理店で午後六時から晩餐会を開くことになった。
ところが一行が席をとったキャセイホテルの宴会場は、シンガポールでは一流のレストランであることから、この日は支那人の正月を祝う集りで大変な賑わいを呈していた。つまりシンガポールのお正月に出会ったのである。だから一同は、その珍らしい環境に親しむことができ、幸福なひときわ満足を抱いたものである。
シンガポールの観光の途次、ワニの養殖場を見学したのだが、ワニというものは目で見た格恰は物すごい様相をしている。児ワニの鳴き声などときたら、とてもかわいいものである。そのワニが製品になるので、シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる。値段は安いがデザインのよくないのが欠点であり、それが特長になっているから安いのだという向もある。われら一行の中でこのワニ製品を六、七十個も買い求めて持ち帰ったものがあったが、純正なる土産品ということで羽田税関ではたった二千七百円を課税されただけで済んだ。写真は、シンガポールの昌成公司の二人と日商の石橋さん。

世界三大景勝の香港島へ
「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影を

《昭和三十六年》 香港には、昭和三十六年三月二日の夜になって入国した。世界三大景勝の中の香港であり、特に香港の夜景は素晴らしいと聞いていたが、われら一行を乗せた飛行機が九竜空港に着いたのは夜の八時を過ぎた頃であったかと思う。だから空から見た香港ということになったのである。「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影をした一行は、バスで指定のホテルへ案内された。
香港のホテルの看板文字は、漢字で表わしたものと英文字で表わしたものとの二つの種類がある。われら一行のホテルは、九竜の酒保(ホテルの意味)アスターというのであった。六時間以上空を飛んで来たので旅の汗を流すことだけは、誰もが望んでいたので、手早くお風呂につかったあと、秦、野村、竹本、藤井、小関らの一組は出迎えてくれた秦君のお馴染みである豐さんという宝石店主に九竜の丘陵の頂上まで車を飛ばして案内してもらった。そしてハイボールの水割りを片手に、九竜の夜景を楽しんだのであった。静かな空をこがす如くに九竜の街の夜遅くまで、赤、青、黄色のイミルネーションがまばゆいばかりに輝いていたのを観賞することが出来て、大変愉快に感じた。
このような場でホステスと顔なじみになっておくと便利な場合があるものだ。
その翌日の夜のことであるが、あるレストランで食事をしたあとの必要な遊興の場などの案内には、このようなコースの人達が大いに役立つものである。だから危険もなく安心して遊んでいられるということになる。謝礼金も大して高くなくて済まされた。顏をきかすのは、その意味では何所でも同じようである。写真は、九龍のメインストリート。

九龍市街や香港島にといった順で見学する
海抜一六一八フィートもあるライオンロックなども見学した

《昭和三十六年》 翌日は九龍市街や香港島にといった順で見学することになった。九竜市街の中には、香港政庁が予め作っておいてある大陸から逃げて来た難民のために備えたアパート群の立ち並んでいるのに、まず度胆を抜かした。
難民アパートに到るまでは、道の両側にパンヤンの樹が立ち並ぶネイチェンロードの九竜のショッピングセンターがあり、そのあと海抜一六一八フィートもあるライオンロックを経て来ている。
次いでニューテリトリー、サーテン(沙田)を超えて、ゴルフ場のあるフォンリングを経由してから中共との国境々界繚の展望台のある勒馬州に到る。このあとのコースに続いているニューテリトリーは最も古い町、中国時代の農村の大地主が居住した古城ユンロンは、今なお城廓をめぐらしており、農産物の集散地となっていて有名だ。それからキャスルピークに到って、この日の観光を終るというコースである。写真は、難民アパート群。

一着分七千九百五十円の洋服生地を選んだ
日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当した

《昭和三十六年》 二日目はビクトリアロード(香港島)の見学コースであるが、まずスターフェリーでビクトリア本島に上陸してからコンナートロード、スターフェリー広場平和記念塔を見ながら、有名なビクトリアピークに登る。ここのピークは、海抜一八〇九フィートあり、ケーブルで登るようになっている頂上から眺めた景勝は、とても壮観である。次いで香港大学、クイーンメリー病院などを見て、アバディーンに到る。
世界的に有名になっているフローテインクレストランに行くのには、渡し船(サンパン)で渡るのだが、ここのレストランでは新鮮なものが食されるというので有名である。
次いで、パルスベイを通りスタンリーべイなどを経て、タイガーバーム(胡文虎公園)に到る。ここは古文虎兄弟の私邸で、時価に換算すれば数十億円にも及ぶという。ヒスイや白玉などの宝石で作られた各種の美術品を保蔵した古文虎記念館があり、また地獄極楽を表わした極彩色石造物などが並べてある異色の庭園である。それからクインロード、ロンナットロードを経て、スターフェリー広場に到る。
なおビクトリアロードで買物をする場合には、店の信用度を知ることが大切であると思った。私がこの当時買い求めたものの中には、洋服生地を選んだのであるが、邦価換算で一着分七千九百五十円になっていた。この洋服店は一銭たりとも負けるといったことはしない。この生地について帰国してから三越で見てもらったところ、日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当する代物であると言われた。香港では値切るものだという考え方は、時には当らないものもあるということを記しておきたい。写真は、中国時代の古城楼。

スイス製と日本製の時計付属を比較、品質の良否の判断をしている
品質がいいものは高いという認識が薄い

《昭和三十六年》 次に香港を中心にした業界関係の商況について次の各所を訪問、懇談してみた。その時の経過概要を記しておこう。
香港沮庇利街順聊大厦三〇六、華僑行(時計、付属、材料貿易商)ここでは時計バンド、ケース類の製作を行なっており有望視されていた。対談した人は、葉雲泉、梁学源、鸚永洪の諸氏。
香港徳輔道中万宜大厦UG7号、端祥珠宝行(兼松芳氏)
香港銅弾湾百徳新街華登大厦C2座一六、香港島大丸有限公司(尾賀敬次郎氏、近藤抱一氏)
香港皇后大道中公主行五楼四○一六室 克馬洋行(有士文氏)
香港永安人寿大厦八〇〇―五室、呉利洋行 鐘表部経理、劉鏥発(ジョージブロック氏、デー・ドフマン氏)
上の諸氏と会談した中で、中華人の日本の時計および時計付属品製作に関する見解が、特別熱心であることが知らされた。私はこの当時この香港製の金属バンドとケース(側)のサンプルをもらって、それを帰国してから日本のメーカー筋に提供し、香港を中心にした東南アジア各国の情況、その他、今後彼の地に進出する場合の措置と方法、それにPRの必要な諸点につき説明を加えて参考に供した。
また日本製時計の輸出関係についても有望であるという報告を受けたし、また現地人の時計業者が、スイス製と日本製の双方を比較して品質の良否についても判断をしている。だが東南アジア各国の生活状態から推して、品物が上等だから値段の高いのが当然であるという感覚を持つ時代には到っていないようである。それだけに「日本製品の良さは判るが値段が高い」。ではどういう希望があるのか、と聞けば、ズバリ値段を半分にしてくれ、というように、乱暴極まるものだといいたい気分もある。しかし、現地人の見解では、その乱暴さということ自体が問題で、取引という現実の問題になった場合には、売って儲けられるものから、ということの計算関係から勢い値切る必要が生じることになるようだ。
このことに対する良い悪い、または妥当性の当否は別として、東南アジア各国の情勢はそのような状態であったのだという現実感に基づいた観点から、それを理解する必要があろうと思い、記した次第である。
以上が、われら一行が赴いたこの時の視察旅行のねらいの一つでもあったわけである。
かくて、われら一行は香港をあとにいよいよ帰国の途についたのであるが、香港を迴るに当って感じたことは、香港島の空からみた景観は実に素晴らしいという一語につきる
ものである。
従って香港の景観は、空から見た真昼間の香港島は、緑の丘とともに静かな海に育まれている島の美観が映えて、世界の中の三大港の名港という名のふさわしさが感じられた。
写真は、香港競馬場を中心とした市内の景観。

ペナン空港で一時休憩をとり台北空港に
あとは空路日本の羽田空港へ

《昭和三十六年》 香港に飛んでくる途中でペナン空港に一時休憩をしたことがある。ここの空港へ送り迎えのために来ていた現地人の姿を見て思ったのであるが、マニラの空港における日本人に対する感情とは打って違った平和な表情が見られた。
また、台北空港に少憩した時、空港の出口に頑張っているポリスメンに断って空港表の交通整理の状況など見て思ったのだが、台北の温泉郷に行けば、親密な待遇状態に出会えるという日本式に近い特別情緒の味わえる処を持つ台北の空気を眺めて見たのだが、如何にも軍国時代の片影が映り出されていて、感ずる総てのものが強く響いたのは格別であった。
かくして一行は、この台北を飛び立ってからは一路羽田へ、そして空港へ無事安着したのである。だがこの当時の香港では、ヒスイをはじめとして時計宝石、ダイヤモンドに到るまで、まだまだ買ってきて得をしたという感じを持てたのであったが、そのあとの昭和三十八年の秋に、再び香港の街をさまよってみた時の品物の価格は、世の中が変ったのかと思った位に高くなっていたのには驚いた。
特に、香港で魅力となっているヒスイについては、テンデ手が出ない位高くなっていたのである。ここで斷っておくが、香港から日帰り旅行の出来るポルトガル領のマカオには私は行けなかった。だが一行の中の数人が出かけていって公然たる博賭を行い、大いに楽しんできたという報告には接している。
(注)香港旅行にいった場合に楽しいことばかりではない。時には不愉快なこともあった。その実例を参考に記しておこう。われら一行のホテルは、九竜のアスターというホテルであった。その時、団員の一人がボーイに案内されてルームに入って用便をしたときのたった五、六分の間に、懐中物のドル入れの中から、十五万円という現金を抜取られてしまったことがあった。人の心のスキをねらう手の被害事件であるから、旅行者の場合はこの点に特に注意が肝要である。写真は、中共との国境地点、鞍馬州の丘に立つ一行。

数百年に遡る貴金属地金商の由来
日本の最古歴を誇る「徳力屋伝記」‥‥‥‥

この書は、標題したように明治、大正、昭和、三世代に跨る宝飾業界歴史について紐解こうと努めたのであるから、勢い業界の古い事蹟についてはその悉くに及びたい気持で努力してみた。
そこで、宝飾業界の中で最も古歴を有する業者はという点について考察してみたところ、貴金属宝飾業界の歩みの中で貴金属地金商の事蹟の古いことに気がついた。私が大正年代の末頃に地金商であった神田・鍛治町の徳力本店を訪れた当時、徳力本店の大番頭であった石福鉱太郎さんについて、その頃の社会状況などについていろいろの説明を聞かせて貰った。
石福鉱太郎さんという人は、政治性にも富んでおり、なかなか識見豊かな人だっただけに、政治家も、また文豪の士も続々この徳力本店を目がけてやって来たものである。
従って、この当時の石福鉱太郎さんは、“徳力本店の石福さん”としてばかりでなく、社会的にも名声を高めていた人格高潔な士であった。
冬の頃の徳力本店は、店の表の庭にあづま式の茶屋小屋があって、そこに囲炉裏が切られており、大きな釡がかかっていて湯を汲んで茶をたててくれるようになっていた。その茶をすすりながら石福支配人は、次のように語ってくれた。
「徳力屋の発詳は、実に古い歴史があるのだが、果してその説明に足る記録が残されているかどうか、とにかく蔵の中に蔵されてある歴代の資料によって、“徳力屋伝記”を残して貰うよう著述家の矢田挿雲先生に頼んである」と説明された。この話は、今から四十余年前のことである。その当時のことを思い出して、今の鞄ソ力本店社長の鈴木喜兵衛氏に徳力本店小史なるものの公開を所望した結果、本編にまとめることになった次第である。
矢田擇雲先生が苦心してまとめられた「徳力屋伝記」なるものを、ひも解いてみると、数百年にも遡った大昔の頃の徳力屋伝記時代の発祥の伝記の状況が、なお細やかにされていないほど、徳力屋の歴史は古いものである。それだけに大昔の御代に行われた貨幣制度開始と共に、その鋳造時代にからむ金座、銀座または、下金、屑金吹きなどの地金商を営んでいたころからの徳力屋の状況などが推測される。
これらの動きが、当今の貴金属業界の草創時代の在り方であったわけであるから、金地金取扱業者の歴史は、日本最古のものと言われたわけである。
以下は、東京都千代田区神田鍛治町所在の徳力本店の前記徳力小史に基づいて、同店に伝わり来った史跡を綴り、我が国の宝飾貴金属地金業者としての元祖時代についての経路など、紐解くことにした次第である。
【註】 貴金属に用いる金、銀等の地金素材は、一面貨幣用の素材でもあったので、貴金属地金商の発祥の頃の足跡などについて調べてみると、勢いこの時代の貨幣制度とその改変状況などについて解明していかなければ、その間の明分に役立たないことになるという特殊事情が存していることを諒されたい。

通貨制定の最初の頃と地金商混沌の時代
我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである

我国建国以来およそ一千五百年の間は、米綿蚕糸の類を以て物品交換の具としていた。日本の歴史に鐚銭司の役名が現われたのは、人皇第十一代持統天皇の御代であるが、帝の御代に実際鋳銭したか否かは、諸説紛々として判然としない。恐らく、鋳銭司なる官制が創設され、直広肆大麻呂という者が其の長官に任命されたのみで、作業上の設備が整わないため、其まま立消えとなったものらしい。
最もこの頃、伊予の国司、田中の法麻呂が宇和郡御馬山を発堀して、銀を採取したことが正史に見ゆるところから、一方農田の開拓、布綿、絹等の生産増加と相俟って、市場に於ける交換媒介の具として夫れるまで、通用せし三韓貨幣、唐貨幣以外に、我国固有の新貨幣を時代が要求したことは明らかである。
人皇第四十二代、文武天皇の御即位第三年に再び鋳銭司の役を興し、直大肆中巨朝臣意味麻呂を以て其の長官としたが、これまた実際に鋳銭せりとの証跡か無い。尠くとも、今日に伝わる和銭のうちで、「和銅開珍」以上に、古いものは見当らない。
「和銅開珍」は、人皇第四十三代元明天皇の御即位第一年に鋳造されたもので、この事は当時の一大事件であり、我国文明史上の一時期を画する現象でもあった。そのため慶雲四年の年号を「和銅」と改元して、此の一大事件を記念されたほどである。
「和銅開珍」の原料たる銅の地金は、今の埼玉県秩父山中から発堀されたものであるが、発掘者が、之を朝廷に献じたので、ここに始めて鋳銭司の機関が実際に開発するに至ったものだといわれている。其時、朝廷で鋳造された通貨は、独り銅銭のみならず銀貨もあった。これ等の新貨幣は、市場の勃興と並行して其旺盛なる要求を満たすほど豊富では無かったので、僅かに、韓、唐の貨幣と錯綜参差して通用した程度のものであったようだ。
かくの如き有様であったから、金銀は当時早くも社会の各階級から尊ばれ、其の便利と威力とが辺陣の地方まで知れ渡るに至るや、暫く貨幤そのものに憧れるものが強く、遂には密造するものが出来たほどであったから、朝廷は之を厳禁し、犯す者を重罪に処罰したけれど容易に跡を絶たなかった。
其時代に於ける貨幣鋳造取締法として。地金を取り扱う者にまで注意が行届いたか否かは疑問であり、鉱山から採堀した銀鉱、銅鉱が鋳造者の手に渡るまでの経路と、地金商なる職業とが、どれほど密接な関係を保っていたかといふことについても、記録に残すべきものが見当らない。だが、この頃貴金属地金を取り扱う業者が存在しただろうとの推測は出来る。
和銅年間に鋳造された「和銅開珍」以来、人皇第四十七代淳仁天皇の天平宝字四年までの六十一年間に、銭貨の鋳造されたもの十三回、銀貨の鋳造されたもの和銅年間の「和銅開珍」と天平宝字四年の[天平元宝]と二回。金貨は同年の「開基勝宝」が一回あるのみで、即ち、我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである。
天平宝字の鋳貨以後、数百年間は殆んど打絶えて群雄割拠の時代となった。足利義満の豪奢な生活に要した通貨も、多くは支那貿易振興の結果、支那から流入した銅銭であって、国内に生ずる砂金も銀塊もそのままの形状で交易媒介の用を為した。斯くて、群雄割拠時代となるや諸侯は量目、品位それぞれ思い思いの通貨を鋳造して、これを其の領内に発行通用させた。
其頃から徳川時代初期の慶長年間まで鋳造された通貨の重なるものは、山城国の山城子判銀、摂津国の多田紋形小判を初めとし、相模国大磯、小田原、上総国東金、千葉、土浦などに於ける金・銀小判であった。然しこれ等の通貨は一種の私鋳であって、日本国中を通じての幣制が確立したのではなかったのであった。仮りに、この頃地金商が所により見られたとしても、それは普遍的な国法により、統一された所存であるということはできない。
徳川氏が天下を平定して幣制を布き、量目、形状等を画一せる前に、やはり此点に着眼して同様の計画を樹てた者が二人いた。一人は織田信長で、もう一人は豊臣秀吉である。
信長は、人皇第百五代正親町天皇の天正年間に大判小判を鋳造し、秀吉は相ついで半両判、一分判、銀貨の五両判、丁判を鎔造した。共に紀元二千二百三十年代のことである。
惜しむらくは、此両雄は、共に長く天下を保つ能はず、従って幣制統一の大事業も僅かに其黎明を見たばかりで消滅した。又従って地金商の歴史もまだ混沌たる時代を出づること
ができなかった。
本当の意味で我国に統一的幣制を普遍せしめたのは、徳川氏の功である。徳川氏が幣制を確定して、順次官銭を公鋳するに及んでここに初めて地金商は、国法の上で明白に存在を認められ、営業上の権利を保護せられることになったのと同時に、不条理千万な圧迫や干渉をも受けることとなったのである。その状況は後に記述するが、其前に、徳川二百六十年間に於ける、通貨鋳造の歴史をひもといて、通貨政策に現われたる徳川氏の苦心及び失敗の跡を一瞥することとしょう。



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