※写真をクリックで拡大します。
Home

時計バンドが作り出された最初の頃
堀切の小幡製作所や本所の池上彰治製作所が歴史を作った

《昭和二年頃》 わが国の時計附属界というものの概況を辿ってみると、明冶時代から永く使い慣れてきていた時計は、懐中時計ぐらいだけだったので、明治から大正にかけて市販されてきた附属品は、ヒモ、鎖、メダル(磁石付き)、特殊堤もの、堤時計用外側サックの類にとどまっていた。だからこの頃は、時計の付属品と総評していた。
それが大正年代に入り、腕時計が市販されるようになってきた。ニッケル側やクローム側などに用いる腕リボンが出現し、それから皮バンドの登場という順序になってきている。
だから、ヒモ(提げ用)、リボン(腕用)などが市販されていた時代に至っても、腕時計のバンド界の名称は付けられていなかった。当時は、時計の付属品として取り扱わていたに過ぎなかった。それがやがて、布製のリボン式腕時計バンドが登場するようになり、バンドへの改良に拍車がかかり、以降は皮革製品が登場することとなった。
皮革バンドの製造所として、当時有名であったのは、堀切にあった小幡製作所などで組織だった製法を用いていた。更に、小規模ながら本所・石原町にあった池上彰治製作所も、この道では職人畑として古参株と言われていた。
皮製バンドの需要が旺盛になった頃の池上氏は、毎日朝から酒びたりだったと聞いている。私もなんとか広告を出して貰いに行こうとするがなかなか会ってくれない御仁であった。この頃、時計の付属業界に顔を売っていた櫻井潤一くんが同僚としていて、小幡さんに合わせてくれた。ところが、そう簡単には広告は出してくれない。そこで私も戦略を練って十二、三回訪問し続けた。ある時、小幡さんが「君の精根尽した努力には負けた。ご希望通り広告を出そう」と言いてくれた。人間の活動力は、各人それぞれが自由に伸ばしうるように与えてやることである。人間はやはり働かなければ得られないものだという事を実感させられた。こんなことがあって、私の活動について業者側から特別好意的に迎えられるようになった。その例えとして、東海方面に顔が聞いている貴金属付属品卸の原徳商店などは、親戚付き合いをしてくれるようになり感謝している。
この延長が、当時の時計バンド業界でナンバーワンの地位にあった若林善治氏にも及び、格別な待遇をしてもらったことを今更ながら業界記録として残しておきたい。かくして、時計バンド業界の体形は、業務上の伸張性と共に、進展し、昭和時代に移ってからも急速な進展を見ている。写真は、明治時代の日本橋・百沼時計店。

昭和初期時代における時計の需要状況
セイコー腕時計の発売当初は批判もあった

《昭和二年》 震災でうけた惨害も一般都民の努力によって漸次復興を見せ、市井はだんだん落ち着きを見せてきた。旺盛な労働力で勢い「時と時計」に関する需要にも大きな関心をみせるようになった。そのためか、時計はますます売れるようになって来た時代だ。この頃売れた時計の種類は、掛、置時計類では、丸に菱S印の精工舎製品が好評で、高級品では、ドイツ、フランス等の舶来品ということになっていた。
携行用の時計としては懐中時計が中心で、腕時計を持つ人は高級かつㇵイカラな人という印象があった。輸入品の腕時計も漸次需要を増して行ったが、価格競争が需要のアンバランス関係もあって、なかなか激しさを見せていた。御徒町の時計の卸業者の中には、ボツボツ整理を行なうものが現われる時代ともなった。つまり、震災による痛手が保てなかった部類かも知れない。今津、見沢、大西、アイチ(酒井)などという時計卸商群がつぎつぎに倒れていった。つまり景気のよい悪いというよりも、経営そのものの感度がよく保てなかったのかも知れない。このようなときに、精工舎製の国産第一号が、昭和二年に服部時計店から発売された。
精工舎は、時計メーカーとして歴史に残る、かつ製品そのものも懐中時計の品質を通じて信頼を持たれていた。しかし、いざ発売という段になって見ると、これに対する批判もなかなか強かった。
商人というものは何でも、新しいものを好むものである。それは、売る方法が比較的容易であるからという狙いに基づくものでもある。そんなことでセイコー腕時計が発売されると、時計の卸連合会「五日会」の連中から、特殊卸商部隊への批判は相当なものだった。
しかし、数量的に充分というわけではなかったので、これを取扱う店の選択が行なわれたようであった。このセイコー腕時計の発売に注目していたシュミット工場のスイス人の故ネフさんやスイスウォッチ(当時神戸在住)の故ミラー氏などは、自分の腕に新発売のセイコー腕時計をはめながら、その保持性の検討を怠らなかったものである。
そして批評して曰く、「保持性能は二年と断言した。その理由として、用材の真鍮地金の柔軟性が時計の保持性の生命を損なわせることになるからであると説いていた。そんなこともあって、国産腕時計の宣伝はますます広まっていった。しかし、各時計の卸商では、この頃でもまだスイス製品に頼る気運が強かったように見うけられていた。だから服部時計店では、掛時計を仕入れる場合には、小物の半打を添えるというような条件販売を行なわれたようである。しかし、天下の服部時計店という勢力下であるだけに、セイコー腕時計の将来性には十分な自信を持っていたようである。

大正八年に発足した時計卸団体の「東京五日会」とその輪廓
大阪の共益会、名古屋の同志会と連携して結束を固めた

《昭和二年》 東京の唯一の時計卸団体である「東京五日会」は、大正八年に発足している。その年の十一月五日に、当時の野尻雄三、吉田庄五郎(初代)小林伝次郎、鶴巻栄松氏等の提唱により、これに山崎亀吉、田中謙三、矢島源次、竹内元次郎、森茂樹、江沢金五郎、松田啓太郎、今村三郎、見沢万吉の合計十四氏の同意によって発足している。この日が五日であり、しかも大安であったので、名付けて「五日会」と称名することになったという。
設立した五日会の目的は、当時は通信販売が盛んな時代であったので、カタログの発行から、勢い目茶苦茶な価格競争をやらかしていたものだ。そこでなんとかしなければならないと考えた野尻氏の提唱が実を結んで設立したものである。
初代幹事長に八官町の小林伝次郎氏を推したが運営の実権は野罔氏にあったようである。その後、金森、若松の横浜組と銀座の平野、小石川の井上氏も参加することになってだんだん盛んになったが、会の主目的が販売価格の協定に主眼があったので、例会の席上などでは、時にはつかみ合いの光景さえ展開する場面もあったようである。
その後、価格の協定を尊守するために、大阪の共益会、名古屋の同志会と連携して、春秋二回の売り立て会を行ったと記録されている。
この当時、東京時計卸界としての状況は、結局派閥的要素を含んでいたようであり、内面ではいろいろの軋轢があったようである。

時計の卸商の資金力の強さに驚く
東の金森時計店、西の沢本平四郎氏

《昭和二年》 これらの場合も服部時計店だけは別格であった。しかし、卸店という立場は資金力によって品物の荷捌具合き具合が影響するものだけに、資金面に自信を持てるものは強かった。その頃、時計の卸界で、資金力にものを言わせたものは、東京・須田町の金森時計店がまずあげられる。八官町の小林時計店は、永代支配人の川村さんが当面の支柱となっていたものである。だから、金融面では常に金森時計店ということになっていた。       
この金森さんと信用上で、対等に話合っていたのは、大阪の沢本平四郎氏であったようだ。沢本平四郎という人は、岡伝商店の出身だが、在店中に信用を博し、独立後はダイヤモンドと時計の両方の業者と取引して、碓実と見込む客にだけ取引きしたものである。したがって、穏やかな人だが眼は口ほどに物をいうという式で、初対面の人とは囗を聞かない特質を持っていた。それだけに、何かの機会に魅力を持ったとしたら、トコトンまで面倒を見てくれる人でもあった。総じて、賢明型といえる性格の人はそのようなコースを採っていたものであろう。今尚この当時の動き方を中心に物ごとに対する観察上の度合いを考えたことがある。
東京・須田町の金森時計店のレジスターの前に箱座を構えている金森さんと話し合ったら最後、何でも出来る可能性を生じていた。金森さんは、持駒を持っている実力者であった。沢本さんの方は、自己資金もあるにはあったが、それよりも銀行面で岡伝商店に在店中の信用が物をいっていたので、銀行からの支援力があっただけに、いざという段階になると、世間に知れわたらない中に資金面の操作は迅速に運ばれたものである。
特に、企業の整理関係については、常に沢木さんの名が出ており、万事がスムースに、且つ迅速に行なわれるということで定評されていた。
そのようなバックが力となっていたので、下谷村の時計の卸界には、時には風雲を招いたことがあったようだ。表面的には、静まっていたのである。そういう内部関係があったがために、勢力上それらの人の動きが常にはっきりしていた。つまり沢本平四郎さんという人は、時計卸界の資金的なバックミラーと称されていた。だから資金面を要する関係事には、必ずといっていい程、陰で名前を連ねていた。
この面では、業績のつながりがある貴金属界にも大いに関係を持っていた。
この頃、資金的にも大きな勢力を持ち東京・上野町にあった金田屋の金田徳治、池の端の三輪屋の三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓直吉、大阪の角谷栄蔵という豪商が揃っていて、親交が深かった。
その金田徳治さんや沢本平四郎さんが後で私の社を何度となく訪れて、「世の中の尊さは、金でなく、人そのものの偉さである」と説いてくれ、印象深い言葉として脳裏に残っている。

加賀屋時計店と鶴巻時計店の争いはすごかった
下谷村時代の時計卸商の勢力争いのこと

《昭和二年》 以上のような関係で、下谷村勢力という当時の時計卸業者の内容は、分れていた。まず、吉田時計店をトップに、加賀屋商店、次いで大正五年に上京して開店した鶴巻時計店。この三店の中、特に優劣を争ったのは、加賀屋時計店と鶴巻時計店。従って、販売上の問題では、カタログに表われる価格の点が競争の争点となった。それ
だけに印刷所を通じてのスパイ戦などが行なわれたこともある。そしてその結果、安売り競争となった。
当時、腕時計の輸入品の安物は、ネーム入りムーヴメントの単価が何と最低でも九十五銭といえるものもあった。関税は重量税で、一個二十五銭という時代であった。当時でも関税の脱税事件は時々起こっていた。そのような情勢の中に合って、時計の卸業界の競争は激しさを増していった。
この他、矢島時計店が仲御徒町駅前に進出してきたが、当時は激しい仲間競争の渦巻にに巻き込まれてか、活発な動きを見せたのも短い期間だったようだった。この激しさは、加賀屋の支配人だった金子礼次郎氏の鼻っ柱の強い行動から、勢い時計卸界の動きに大きく響いていたものだった。

当時の時計卸商群支配人連の顔ぶれは
土方省吾氏、大口右造氏、佐藤健三氏と木島さんの四人

《昭和二年》 当時の時計卸界を背負って立っていた各店の支配人で有名だったその頃
からの人名を拾ってみると。
服部時計店(中川豊吉、土方省吾、大口右造)、吉田時計店(木島、天笠、佐藤)、加賀屋商会(金子礼次郎)、鶴巻時計店(鶴巻社長弟)、矢島時計店(相沢)、天賞堂(鈴木栄一、関)、山崎商店(田中謙三)、天野時計宝飾品KK(長尾)、エル・シュミット(中島与三郎)、小林時計店(川村義一)。
この中で健在しているのは、土方省吾氏、大口右造氏、佐藤健三氏と木島さんの四人だけである。爾後、独立しているのは佐藤時計店社長がそれであり、佐藤氏は賢明型の紳士として、その当時、一般の信頼を博している。

下谷村で繰り広げられた酔興の夜
飲み助達で賑わった「松葉」というレストラン

《昭和二年頃》 当時の時計卸界には、この下谷村の外に山田時計店、浅草並木町の見沢時計店、山崎商店、日本橋通り三丁目の大西時計店等があったが、活動性をもった元気のいいのは下谷村にそそがれていた。そこで、この下谷村に時おり集合する度合が多かったようだ。
今の栄商会のある隣にあった、当時「松葉」とかいったレストランの二階でカクテルが飮めるので飲み助達で賑わったものだ。
そこに銀座・天賞堂の鈴木支配人がやって来ると、早座酒盛りが始まったものだ。鈴木さんはこの連中の中では一番酒が強かったようで、特に洋酒を飲むのが多かった。それだけに、この二階のカクテルパーティは、遂に待合に行く前の下地になるような機会が多かったようだ。私も二、三度ここで楽しく飲んだことを覚えている。
お陰でカクテルの味はここで覚えたのかもしれない。だから広告を頂いたスポンサーとの交渉は、すこぶる有利に進められていた。

昭和初期時代に銀座で活躍した猛者の業者たち
店主達は一国一城式の強い我量の持主ばかり

《昭和初期》 大正から昭和にかけて銀座街を中心にいた業者名を拾い出すと・・・
小西光沢堂、長栄堂時計店(京橋一丁目)、貴金属卸の溝口商店(京橋一丁目)、森川時計店、柄沢時計店(八重州)、諏訪喜之松商店、石井時計店、伊勢伊時計店、服部時計店、山崎商店、平野時計店、十字屋楽器店、玉屋商店、精好屋商店、中央堂時計店、中央堂時計店、山野楽器店、御木本真珠店、大沢商会と大沢商会出身のシオン商会(森茂樹)、大勝堂(槙野辰蔵)、日の出時計店(野島)、村松時計店、白牡丹とその階上に天野時計宝飾、はまの屋、大西錦綾堂、日本ダイヤモンドKK、小林時計店、小林時計店、(小林伝次郎、蓄音機の八千代商会、亀谷眼鏡店、調和堂時計店。写真は、左前列から秦、大西、槙野、平野、溝口、森川、後列右から藤井、関、福原、〇〇、鈴木、江原、〇〇(大正14年)

大正年代の高尾山でのエピソード
問題の看板を晝替えて、坊主の責任にして平謝まりで問題を解決

《大正年代》 この銀座街を巡り歩く中に必ずといつていい程出会ったのは、その当時の大沢商会の岩沙兼松氏と小西光沢堂の福原述氏であった。いずれも快活なお互いであった。当時、この三人は“業界の三羽烏”と称され、業者からも一目置かれていた存在だった。
京橋組合の中に八丁堀の川名時計店と三原橋の江原時計店が加わっていた。川名啓三氏は、日本橋支部と結ばせるためにも地域的に役立っていた存在だった。月島地区からの攻め手の場合でも大いに役立っていた。
組合的には、平野組長の下で会計役員を担い、後に森川浅次氏がこれに代ったものであ
る。京橋組合の連中は、俗に銀座マンの一人として呼ばれるだけに、すこぶる我の強い者が多かった。これに類する一つのエピソードがある。
京橋組合だけで大正十四年の頃かに紅葉の高尾山に旅行会を催したことがある。これにはもちろん新聞人としては私だけが加わっていた。ところが高尾山に着いて休憩するため寺院の坊に入ったところ、予めその日の世話役をした関係で、「平野時計店御一同様」と自墨太く書かれた旗に気がついた大西錦綾堂主が開口一番、ヤアー今日は平野時計店の店員になったよ」とやったもんだ。ところが案外茶目っ気のある平野さんであったか
ら、「光栄でしょう、始めて店員になれて」と笑い気で放った一言がどう受け取られたか、大きくしかもカンカンに怒り出して大変な場面となった。槙野さんが取り持って見たが収まりそうもない。そこへ秦さんが助っ人気分で登場したからたまらない。宛ら紅葉ならぬその場の連中の顛色と来たら、真っ赤に染まった顔をしていた。
私と森川さんがとっさに判断したのは、早速問題の看板を晝替えて、坊主の責任ということにして平謝まりを敢行したので陰でことなきを得たが、それほど銀座の店主達は一国一城式の強い我量の持主であるということがこのときの場で立証されたのである。その席には、御木本の池田支配人、玉屋の田口支配人、ご天賞堂の関卸部次長、服部時計店の土居さんらも参加しており、有名な昔はなしであるが、このような関係たったから、私か独立して創刊するという時に到ったときは大いに助かったのである。写真は、京橋組合が日枝神社で組合旗の新調奉納祭を行った時のスナップ。

一頁の広告料五〇〇円で大繁盛
大阪に支社を開設、寺沼支局長以下三名の社員を常駐させた

《昭和二年》 創刊当時の本紙の広告料は一頁五〇〇円であったと記憶する。生活費が一カ月、二、三十円もあれば足りた時代であった。この料金は、かなり高いものだということになる。こんな具合でトントン拍子であったが、毎号の刊行は安易に続いた。しかし、それだけでは勢力上足りないものがあるとして、昭和二年には大阪に支社を開設、寺沼支局長以下三名の社員を常駐させた。私は、このあとの発展に備えて毎月三回を目安に、大阪を主軸にして京都、大阪、神戸、名古屋と定期的に巡回、業者を歴訪したものである。名古屋の名蓄商会(柴田)、日蓄商会(野村)、大阪の安井ニッポン堂、中西商会、快声堂に今岡時計店、奈良の保険堂(今久保清吉)らとの親
交ぶりは今でも当時を回想し、愉快にふけることがある。このような活躍時代が続くことにより、社業はますます進展、新聞の発送先は、内地の全土はいうに及ばず、遠く満州、支那、南洋、スイス、アメリカ方面等、世界的地域から購読の申込みを受けるという伸屐ぶりを見せていた。しかし社会という場で、平和な独占場を安易に占めていくということには時として問題があった。他の伸長をねたむかための、あくなき謀略事件がこの間にいろいろ仕組まれていたのである。私の社に対するあくどいその実例を拾い上げてみた。



admin only:
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536
page:31