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昭和三十五年 ライターが輸出に登場、生産量が増えた
喫煙具業界の概況

《昭和三十五年》 喫煙具業界は戦後にめざましい発展を遂げている。特に輸出面にライターが登場したことである。昭和三十四年度のライターの生産実績を検基によってみると、五十億七千七百万円をピークに、昭和三十五年度は四十四億二千八百万円、三十六年度は二十七億八千万円。三十七年度は、前年の三十四億三千四百万円、三十八年は三十三億八千六百万円で、この年に初めてガスライター(通関実績)が約十五億円輸出され、オイルライターの半分近くをガスライターで占め、三十九年度は三十億七千五百万円で、ガスライター(通関実績)が約二十三億円で合計約五十四億円の輸出である。ガスライターが金額において半分以上を占め、喫煙具類の輸出全盛当時の昭和三十四年と五年度の成績を上回った。
四十年度は、およそ六十三億円(オイルとガスライターおよび喫煙具用具)が達成される見通しである。一方、喫煙具類は販売店の店頭に陳列されているライターのほとんど(百%)といっていいほどガスライターである。
それだけに品質精度においても外国品に劣らない優秀なものが打出され、世界的なレベルに達したのはメー力―の努力によるものだ。
日本でガスライターが発売されたのは昭和三十五、六年にかけて数社にのぼり、昭和三十七年には国内にガスライターブームを巻き起した。このため喫煙具業界は、国内でガスライターの普及と将来を考え、品質の同上と健全な発展を図るために同年八月二日、日本ガスライター振興会を設立した。
事業として、@ガスライターおよびボンベの規格統一をはかる、Aガスライター工業所有権問題については、四団体(日ホガスライター振興会、東京都喫煙具商業協組、日本シガレットライター工組、東京都喫煙具工業協同組合)で意義の申し立てを行なう。Bアダプターボンベについ、C高圧ガスの取り扱いの改正、Dボンベの耐圧検査などを推進してきた。そして翌年八月八日に社団法人の認可かおり、十二月にはガスライターおよびボンベの検定所を開所、三十九年一月十六日から、ボンベを、また同年十二月一日からはガスライターの自主検定を実施したという進展ぶりである。

九龍市街や香港島にといった順で見学する
海抜一六一八フィートもあるライオンロックなども見学した

《昭和三十六年》 翌日は九龍市街や香港島にといった順で見学することになった。九竜市街の中には、香港政庁が予め作っておいてある大陸から逃げて来た難民のために備えたアパート群の立ち並んでいるのに、まず度胆を抜かした。
難民アパートに到るまでは、道の両側にパンヤンの樹が立ち並ぶネイチェンロードの九竜のショッピングセンターがあり、そのあと海抜一六一八フィートもあるライオンロックを経て来ている。
次いでニューテリトリー、サーテン(沙田)を超えて、ゴルフ場のあるフォンリングを経由してから中共との国境々界繚の展望台のある勒馬州に到る。このあとのコースに続いているニューテリトリーは最も古い町、中国時代の農村の大地主が居住した古城ユンロンは、今なお城廓をめぐらしており、農産物の集散地となっていて有名だ。それからキャスルピークに到って、この日の観光を終るというコースである。写真は、難民アパート群。

一着分七千九百五十円の洋服生地を選んだ
日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当した

《昭和三十六年》 二日目はビクトリアロード(香港島)の見学コースであるが、まずスターフェリーでビクトリア本島に上陸してからコンナートロード、スターフェリー広場平和記念塔を見ながら、有名なビクトリアピークに登る。ここのピークは、海抜一八〇九フィートあり、ケーブルで登るようになっている頂上から眺めた景勝は、とても壮観である。次いで香港大学、クイーンメリー病院などを見て、アバディーンに到る。
世界的に有名になっているフローテインクレストランに行くのには、渡し船(サンパン)で渡るのだが、ここのレストランでは新鮮なものが食されるというので有名である。
次いで、パルスベイを通りスタンリーべイなどを経て、タイガーバーム(胡文虎公園)に到る。ここは古文虎兄弟の私邸で、時価に換算すれば数十億円にも及ぶという。ヒスイや白玉などの宝石で作られた各種の美術品を保蔵した古文虎記念館があり、また地獄極楽を表わした極彩色石造物などが並べてある異色の庭園である。それからクインロード、ロンナットロードを経て、スターフェリー広場に到る。
なおビクトリアロードで買物をする場合には、店の信用度を知ることが大切であると思った。私がこの当時買い求めたものの中には、洋服生地を選んだのであるが、邦価換算で一着分七千九百五十円になっていた。この洋服店は一銭たりとも負けるといったことはしない。この生地について帰国してから三越で見てもらったところ、日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当する代物であると言われた。香港では値切るものだという考え方は、時には当らないものもあるということを記しておきたい。写真は、中国時代の古城楼。

スイス製と日本製の時計付属を比較、品質の良否の判断をしている
品質がいいものは高いという認識が薄い

《昭和三十六年》 次に香港を中心にした業界関係の商況について次の各所を訪問、懇談してみた。その時の経過概要を記しておこう。
香港沮庇利街順聊大厦三〇六、華僑行(時計、付属、材料貿易商)ここでは時計バンド、ケース類の製作を行なっており有望視されていた。対談した人は、葉雲泉、梁学源、鸚永洪の諸氏。
香港徳輔道中万宜大厦UG7号、端祥珠宝行(兼松芳氏)
香港銅弾湾百徳新街華登大厦C2座一六、香港島大丸有限公司(尾賀敬次郎氏、近藤抱一氏)
香港皇后大道中公主行五楼四○一六室 克馬洋行(有士文氏)
香港永安人寿大厦八〇〇―五室、呉利洋行 鐘表部経理、劉鏥発(ジョージブロック氏、デー・ドフマン氏)
上の諸氏と会談した中で、中華人の日本の時計および時計付属品製作に関する見解が、特別熱心であることが知らされた。私はこの当時この香港製の金属バンドとケース(側)のサンプルをもらって、それを帰国してから日本のメーカー筋に提供し、香港を中心にした東南アジア各国の情況、その他、今後彼の地に進出する場合の措置と方法、それにPRの必要な諸点につき説明を加えて参考に供した。
また日本製時計の輸出関係についても有望であるという報告を受けたし、また現地人の時計業者が、スイス製と日本製の双方を比較して品質の良否についても判断をしている。だが東南アジア各国の生活状態から推して、品物が上等だから値段の高いのが当然であるという感覚を持つ時代には到っていないようである。それだけに「日本製品の良さは判るが値段が高い」。ではどういう希望があるのか、と聞けば、ズバリ値段を半分にしてくれ、というように、乱暴極まるものだといいたい気分もある。しかし、現地人の見解では、その乱暴さということ自体が問題で、取引という現実の問題になった場合には、売って儲けられるものから、ということの計算関係から勢い値切る必要が生じることになるようだ。
このことに対する良い悪い、または妥当性の当否は別として、東南アジア各国の情勢はそのような状態であったのだという現実感に基づいた観点から、それを理解する必要があろうと思い、記した次第である。
以上が、われら一行が赴いたこの時の視察旅行のねらいの一つでもあったわけである。
かくて、われら一行は香港をあとにいよいよ帰国の途についたのであるが、香港を迴るに当って感じたことは、香港島の空からみた景観は実に素晴らしいという一語につきる
ものである。
従って香港の景観は、空から見た真昼間の香港島は、緑の丘とともに静かな海に育まれている島の美観が映えて、世界の中の三大港の名港という名のふさわしさが感じられた。
写真は、香港競馬場を中心とした市内の景観。

ペナン空港で一時休憩をとり台北空港に
あとは空路日本の羽田空港へ

《昭和三十六年》 香港に飛んでくる途中でペナン空港に一時休憩をしたことがある。ここの空港へ送り迎えのために来ていた現地人の姿を見て思ったのであるが、マニラの空港における日本人に対する感情とは打って違った平和な表情が見られた。
また、台北空港に少憩した時、空港の出口に頑張っているポリスメンに断って空港表の交通整理の状況など見て思ったのだが、台北の温泉郷に行けば、親密な待遇状態に出会えるという日本式に近い特別情緒の味わえる処を持つ台北の空気を眺めて見たのだが、如何にも軍国時代の片影が映り出されていて、感ずる総てのものが強く響いたのは格別であった。
かくして一行は、この台北を飛び立ってからは一路羽田へ、そして空港へ無事安着したのである。だがこの当時の香港では、ヒスイをはじめとして時計宝石、ダイヤモンドに到るまで、まだまだ買ってきて得をしたという感じを持てたのであったが、そのあとの昭和三十八年の秋に、再び香港の街をさまよってみた時の品物の価格は、世の中が変ったのかと思った位に高くなっていたのには驚いた。
特に、香港で魅力となっているヒスイについては、テンデ手が出ない位高くなっていたのである。ここで斷っておくが、香港から日帰り旅行の出来るポルトガル領のマカオには私は行けなかった。だが一行の中の数人が出かけていって公然たる博賭を行い、大いに楽しんできたという報告には接している。
(注)香港旅行にいった場合に楽しいことばかりではない。時には不愉快なこともあった。その実例を参考に記しておこう。われら一行のホテルは、九竜のアスターというホテルであった。その時、団員の一人がボーイに案内されてルームに入って用便をしたときのたった五、六分の間に、懐中物のドル入れの中から、十五万円という現金を抜取られてしまったことがあった。人の心のスキをねらう手の被害事件であるから、旅行者の場合はこの点に特に注意が肝要である。写真は、中共との国境地点、鞍馬州の丘に立つ一行。

創刊三十五周年記念事業として東南アジア宝飾業界視察団
アクシデントに見舞われながら羽田空港を総勢十九名が飛び立った

《昭和三十六年》 新聞という事業をやっていると、何となく団体事業をやらなければならないものだと考えるらしい。それがまた業者の側でも、そういう仕事をやること自体が、新聞社としてのサービスの一つであると考えているようだ。そんなことから昭和三十六年の三月二十五日、羽田空港から香港に向けて「東南アジア宝飾業界視察団」総勢十九名が飛び立った。
このツアーは、東南アジア宝飾業界視察旅行と題した十二日間に旦るプランで、本紙「時計美術宝飾新聞」の創刊三十五周年を記念した事業という題目で行ったのである。
当時は外国旅行については、貿易が自由化される前であったから旅券(パスポート)の申請の許可などいろいろと難関があったので、そう沢山の参加者はなかった。それでも総勢十九名という一団ができた。名鉄航空旅行社の斡旋によるものであったから、私は形式上の団長ということになり、旅行中の実質上の総ては、その旅行社から同伴して行くコンダクタが一切の世話をしてくれるのが通例になっていた。
かくて旅行申請から旅行日程についての打合せ会も済み、明後日出発するという時になって、旅行社から同伴を予定していた漆原というコンククターの旅券が降りなくなってしまったという報告に接したのである。正に困ったことになった次第である。国内旅行ならいざ知らず、こと外国語を使わなければ用がたりない国への案内役のことであったから何とも致し方ない。いっそのこと出発を視察団の延期を考えてみたが、十九名の申込み者は既に、旅行に関する各般の用意万端を整えてしまっていた。止めるにも止められない状態に追い込まれたので、最後の方法として通訳の人を他に探せないかと打ち合わせを繰り返してみたところ、特に通訳の世話だけを頼むことができることになったのである。
ただし、その代り私自身は事実上の団長ということになってしまった訳である。だからコンダクターに代って諸事面倒を見なければならなくなった。「なるようになれ。行くところまで行け」と心の中で思ってはみたが、内々は心細い感じがしない訳ではなかった。
しかし団員の中には、業界関係の知り合いばかりで、既に旅行馴れした人もいたので、いざという時には、という心強さもあり皆に協力を頼んでとにかく予定通り出発することに
した。
出発の時、羽田空港のロビーは見送りに来てくれた人達で大賑わいを呈した。待合室に入りきれないで廊下にまではみ出した程である。羽田空港ロビーの出発の場では、佐川久一全時連会長が大勢の見送り人の中で元気のいい声で万歳三唱をしてくれた。
かくして本社主催の「東南アジア宝飾業界視察団」の一行は、午前十時健やかに飛び立っていったのである。この時の旅行団に参加した一行のメンバーは次の通りである。
バンドメーカー・竹本商店:竹本茂次社長(東京・台東区浅草)、バンド卸:高島商店:高島倍社長(東京・台東区東上野)、中井梅商店:中井梅次郎社長(大阪・南)、バンド卸:影山鋼鎖製作所:影山元節専務(東京・台東区竹町)、眼鏡卸の三共社:北岡茂美社長(東京・文京区湯島)、メッキ業:大須賀メッキ工業:大須賀実専務(東京・墨田区・石原)、宝石卸:伊勢正商店:大平吉蔵社長(東京・神田・須田町)、時計卸:沢木時計店:沢木誠太郎専務(東京・新宿区百人町)、時計小売:審美堂:山岡猪之助社長(東京・銀座)、時計小売:伊勢伊時計店秦藤次社長(東京・銀座)、時計小売:野村時計店:野村康雄社長(東京・台東区)、時計小売:倉林時計店:倉林春男社長(東京・文京区竜岡町)、時計小売:まつ屋宝飾店:渡辺陽一(札幌市)、輸出業:東京商工・小関滝社長(東京・千代田区)、、輸出業:武藤工業武藤与四郎社長(東京・丸の内)、輸出業:東洋信号通信・小島安幸社長(東京・港区)、山本昇神戸支店長(神戸市)、輸出業:富士電鎌倉製作所・堀江純一郎社長(鎌倉市)、時計美術宝飾新聞社・藤并勇二社長(東京・文京区湯島)の十九名。
写真は、勇躍飛び立って行く一行を歓送する光景。

六時間半を飛んでタイ国のバンコクに入国した
日本人はどこへ行っても大いにモテた

《昭和三十六年》 搭乗した飛行機は、スカンジナビア航空のジェット機であった。この頃、日本にはジェット機はまだなかったので、途中マニラ空港を中継してから一挙にタイの主都バンコクまで飛んだのである。だから計六時間半位を飛んだことになる。
かくて一行の眼に映ったものは、南国の赤色焼けたバンコク空港に着陸した光景であった。タイの主都バンコクというところの人口は百七十七万人。新聞を通じて知っている範囲では、親日性に富んだ君主制の国であると承知していただけに、税関の場で受ける税関係の態度についても、極めて注意深く見守ったのである。いろいろ所持品のことなど尋ねる点でも、親密さを示す態度が受取れたので、心易いような気持でそれからのバンコク視察に元気が出せたのである。
我々一行は、空港の外で待っていた旅行社差し回しのバスに便乗し、指定のホテルに到着した。ホテルの名は「アスター」といって、その近辺には航空会社などが散在している繁華街に面した賑やかなところである。ホテルの待遇は、ツーリストクラス旅行だから、大体月並のものだったが、困ったことは馴れない通貨の使い方についてであった。一応飛行機の中で聞かされてはいたが、ホテルに着いたトタン両替店が開いており、そこで所要すると思う程度のUSドルをタイのドルに交換したのであるが、これを持って行けば、どこへでも行けて、何んでも支払はOKということを聞いたのだから到着したその晩からバンコクの夜の景色などの見物に大いに羽を伸ばした。
一行に参加している年輩者の山岡、大平両氏などは、私よりも年上であったので、その連中が率先してハッスルし、飛び回つたのだからこの時の旅行はまだまだ元気旺盛という時代だったのである。
我々をホテルに運んでくれたガイドの中に、日本の学校で二年間ほど勉学に努め、日本語が少し判るスーピーさんという青年がいてくれたお陰で、夜中の遊び回りの場などでは、いとも楽しく、且つ行詰るようなこともなく東京の地を飛び回っているような環境にあったのではないかと思うほどだった。
もっとも、この頃バンコクで受けた日本人に対する印象は、どこへ行っても日本人は大いにモテたもんだ。それだけに夜のナイトクラブの場などでは、東京のドまん中のキャバレーで遊ぶのと少しも変わりがなかった。日本人経営の「二ユーシャトー」というナイトクラブは、支配人が日本人でもあり、また女性の中にも支配人的な立場の人と日本人のウエートレスなどがみられて安心できた。
ここのウエートレスが、我々一行のタイ国内の諸々を見物して歩く時、毎日そのバスに便乗して一緒について歩いてくれたのである。何年間かの約束に基づいてここまで送られて来た日本女性にしては、案外自由な行動をとるものだと考えたのだが、事実は旅券など持たなければ国外への行動の一切は不可能になっているのだから、外出したからといって不安がない訳である。その説明を女性ら本人から聞いて、なるほど外国の事情というものはこういうことになっているものかと思いうなずいたような次第である。
バンコクの滞在は三泊四日だったから、王宮のほか数多い寺院など見て回ったあとの夜ともなれば、このナイトクラブが一行のためには唯一、且つ毎晩の遊び場所ともなっていたのである。写真は、タイ国の水上生活の景色。

マガイもの(合成)ではないかと疑いたくなるほどの天然宝石がゾクゾク
目の効いた人は、相当量の宝石を買い求めたようだ

《昭和三十六年》 一行の日程の中で、商業視察などは日割したプランに従って宝石関係の業界状況を主にして見て回った。ニューロードの表通りから少し裏側に面した道を行くところあたりに宝石の加工所を設けてある宝石販売店があった。
一行はこの数軒で相当の買物をした。ヒスイ、スター、スタールビー、ジルコン、サファイアなどのほかにエメラもあった。特にスタールビーの多いのには驚いた。それだけに、そのスタールビーが何んとなくマガイもの(合成)ではないかとさえ疑いたくなるほどキレイに仕上っていたので、思い切って多量に買取ろうという勇気が出せなかったように見られた。
天然石ともなると石の価格が相当多額になるので、品物についての真疑の見分けに自信を持てない人は、このような場合に勇気を奮い立たせることができないのである。一行の中には、相当に所持金していた向もあったようだが、それだけに石に目のきいていた連中は、その人達から一時的に融通してもらってまで相当量を買い求めて来た者もあるなど、帰国してから東南アジア旅行の思い出の会合を開いた際に、儲けた話しをしていたものもいた。
バンコクには、このあとでシンガポール経由の場合に、もう一度この空港に降りたことがある。その際でも電話で連絡すれば前回の宝石業者はこの空港の控え室にまでわざわざ出向いて来て、取引に応ずるというほど商売上には熱心さをみせていた。もっともこの頃は、まだ日本人の旅行者が少ない頃であったのだろうし、それに宝石など買うという人には、売る方の相手側が懸命になっていた頃であった。写真は、右側に立って手に石を持っているのは山岡猪之助氏。

バンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった
日本製品の評判はよく、イタリー品は高く、ドイツ品は値が安い

《昭和三十六年》 バンコクに滞在中、日曜日に出会ったので、この日はバンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった。メコン川の下流に位置する大きなこの川の両岸に家が建てられていて、それらの冢の生活物資は水上を航行する商業船によって売られ歩くのである。だから水上生活者の実態を見て一つの異った感動を覚えない訳にはいかなかった。
商業状況の視察では、ニューロートの大南公司(斎藤氏)三角路の永利公司(陳家永)を訪問して、時計界の業態を中心にした時計関係の商取引の実態について説明してもらった。日本製品の評判はよく、イタリー品は高い、ドイツ品は値が安い、という条件のもとに、入り乱れて競争をしている現地での状況などについて知ことが出来た。
全般的にタイ国の施政は、総てがコミッション制度に終始しているので、やり難い国情だという説明はどこでもどんな場合でも共通しての訴えであったのには驚ろかされた。
そういう実態に接した為か、日曜日に、水上での彼らの生活ぶりを見て廻っていた時、日本の大使館要員がボートの上から手をあげて我らの船に愛嬌を振りまいてくれたのだが、お洒落な服装ぶりから推して、これらの人もコミッションによる収入などがそうさせているのか?など思わせられて不愉快な想いを感じた位である。

クアラルンプールとシンガポールを見る
「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」国

《昭和三十六年》 当今の海外旅行のほとんどは飛行機が利用されている。我々一行はバンコクからクアラルンプールに着いた。もちろん乗物は飛行機である。だから空から乗入れる旅行だけに、着陸間際になると機内の窓から飛行場の外景にまず目を止めるのが乗客としての常であるようだ。クアラルンプールの空港には、地元旅行社の代表者が迎えにやってきており、「TBS旅行団のミスター藤井」を連呼していた。そして指定のメルリンホテルヘ着くやいなや日本航空の出張員が私の傍にやって来て、日本航空を利用してくれないかという交渉をしにきた。そこへまた、三井物産の安田さんという人が、我ら一行に加わっていた武藤さんという人との取引関係のことで訪れて来た。
その安田さんという人は、当時のタカノ時計(今のリコーの前身)を東南アジア地方で身をもって売込むためにわざわざやって来でいる人であるということを聞かされたのである。そこでその晩は食後の時間を利用し、安田さんを囲んだパーティをすることにした。お陰でいろいろ現地の状況を聞くことができたので、その収穫にお互いが喜んだのである。翌日は、クアラルンプール一帯の視察旅行に出かけるコースをとり、この安田さんにガイドをしてもらうことにした。
地元の旅行社のガイドマンは、日本語が全然できなかったので大いに助かった。クアラルンプールという国の姿は、一口にいって「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」という格好である。だから日本のような狭隘な地面関係や、交通量に比較した場合のものとは異なって、正に夢の国か、オトギの国にでも来たのではないかとしか思えるほどの美しさである。
このあとのコースの途中で香港に立ち寄った際に、ヘラルドコーポレーシヨンのブロックさんという外国人に会ったとき、問はれたので、クアラルンプールのことを緑の楽園と思いましたと感想を述べたところ、そうでしよう、クアラルンプールは世界の楽園として建設途上にあるのですといわれたことを合せ考へ、そのとおりだと思えた次第である。
この国はゴムが主要生産物で、その輸出で年間の国の予算額の約七割方が収穫されるという恵まれた環境にあるのだという。だから他国との比較にならないものかある。
この地方に五本の足を持った奇牛が一頭おり、お金を払った特別参観に供してくれた。
写真はマラヤのゴム林を訪れた一行、右から、山岡.北岡、中井.野村、秦、ガイドマン・安田(三井物産)、倉林、藤井、竹本の諸氏。



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