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昭和八年の夏、同窓生である三木武夫元総理を渡米させる
私の処生観

《昭和初年》 大正十五年に業界新聞を創刊した私は、当時住居を別にして上野広小路に本社オフィスを置いていた。だが事業を伸ばすためには、住居とオフィスを兼ね備えた立地を選ぶ必要がるとして昭和元年、本社の現住所である文京区湯島に移した。アクセスの良さもあり、現在の住所には満足している。
昭和四,五年から書生を事務所に住まわせ、昼間雑用をさせた後は、夜学に通わせていた。私の人生観は「若者を勉学にいそしませ、世の為になる人に育てること」を使命にしている。その使命感からか、昭和七,八年頃には、書生の数は七人になっていた。昭和八年に明治大学の同窓生である三木武夫君を本社の社員として籍を置き、渡米させることにした。昭和八年の夏、横浜港から三木武夫君は飛びたった。
かくして三木武夫君は昭和十年の夏、八月十二日の夜に帰国した。

昭和八年に「満州地方大座談会」を開催
業者大会を連続して五年連続して開催した

《昭和八年》 業者大会を連続して五年連続して開催してきたその翌年の昭和八年に「満州地方大座談会」を開催した。それは満州から北支、中支方面に亘り、本社社員として活動していた長山正夫君が同地方の実情視察を望んだので、それに対応させるための処置であったのだが、業界の為に奉仕し得ることに役立てればいいという望みの他にない。私が業界の為に努力を惜しまないという気持ちがある限り、人生を通じての奉仕活動は今後も何ら変わらないはずだ。

セイコー製品専門卸の山田時計店が開業
山田社長の決意と心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれる

《昭和五年頃》 当時、画期的なデビューを飾ったのがセイコー製品専門卸の山田時計店であった。それなりに売り上げを上げていた時計卸業界だけに、この“セイコー専門卸”というタイトルには驚いたようだった。時計業界は、競争による価格の低迷でほとほと困惑していた時期でもあっただけに、業者間の競争は卑劣を極めた。
昭和五年五月ごろ、銀座にあった服部時計店東京営業所の卸部で服部の中川総支配人と会っていた時、山田時計店の山田徳蔵社長が現れ、そこで山田社長に紹介された。その時、山田社長は「すでにいろいろ数多くの卸商が存在する中で、専門卸商の名前で開業するのは、将来に亘り精工舎一本でやっていく決意をしたからです」とその決意のほどを語っていた。中川総支配人は、「しっかりおやりなさい」と山田社長の肩をたたきながら激励していたのを思い出す。この時の山田社長の決意のほどが伺われ、その心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれ、若い後輩の人達に伝えなければと思った。
時計卸商団体の「五日会」が誕生したのが昭和八年十一月五日、三十名の会員を有して発足した。勿論精工舎専門卸として堂々たる経営ぶりを見せていた山田時計店もメンバーの一員として名を連ねていた。山田時計店が独立、開業した当初の資本金は、確か五万円であったような気がする。いまでは何と巨億の資産と聞くが。

時計側の菊座専門メーカー・野口製作所は、すでに創業三十周年
忘れてはならないのが内助の功・内田専務さん

《昭和五年》 時計側の菊座専門メーカーの野口製作所の発展は素晴らしかった。その昔、隅田区の横川橋に居た時は、岸とかいうメッキ工場の片隅でコツコツとモーターを動かし作業を続けていたが、最近では業績が上昇して、現在の足立区に本社や作業所を本建設、全て理想的な会社作りを果たした。今では、代表や理事長など公的立場で社会に貢献している。
野口製作所の発展に忘れてはならないのが内田専務さん。昭和四年の十二月三日、野口製作所の創立三十周年記念祝賀会が盛大に開かれた。

東信商会の依田社長の強みは、「調和を大切にする人柄」
鶴巻時計店で修業したのが功を奏した

《昭和五年》 東京時計卸商業協同組合の理事長の重責を担っている東京・池袋の東信商会の依田社長は、現実主義者と評されていた人。その昔、鶴巻時計店で修業したのが功を奏し、商魂たくましいながらも、人と人との調和を大切にする人柄が、組合員の間からも伝わってきた。

スタンダード時計から製造開始に関する相談
「製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」

《昭和五年》 スタンダードというブランドの時計は、アメリカにおける製品であり、余り日本には輸入した実績が少ないものと見えて古来からも有名ではない。
ただダラーウオッチの類に少しく見られたような範囲のものであった。このスタンダードという時計の会社は第一次世界大戦のあとで、倒産の厄目にあったと聞いたことがある。「そのスタンダード時計会社の製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」という話を持って来たのである。話を持ってきた主は、明治末期の頃、時計修技術者として単身米国に渡り、自己資金でロスアンゼルス市に天賞堂という商号で時計の小売店を営んでいた山口県出身の渡辺金次郎という人である。この渡辺さんは、昭和の始めの頃、故郷の日本を思い出して日本に帰って来た。その時私の社に立ち寄ったことから以来、懇意になっていたのである。元来は、本紙の購読者であった。だから日木の時計界のことはよく承知していた。そんな関係から、日本の時計業界には精工舎だけが存在しており、その他に小物時計のメーカーが存在しない事情を良く知っていた。
渡辺氏がこの話を持って帰って来たのは二度目に帰国したときのことだったから、昭和五、六年の頃であったかと思う。米国スタンダード時計会社既存設備用具一式の譲渡品目表を持参して、私にその時計の製造について相談をかけたてきたのである。だが腕時計等の小物時計のメーカー企業を押進めるには相当の資本と気力が必要であるということを、私はこれまで業者関係を通じて経験したことから事情を承知していたので渡辺氏の希望を聞いた上で、これに対してこと細かに反問をしたものだ。それによると、渡辺氏自身は当時二百万USドルを所持しており、その中の半分のI〇〇万ドルだけを出資して、その他の一〇〇万ドルは日本の時計業者から出資を求めてスタートしたいという構想であったのだ。そこで私は、この構想を断念させるよう積極的に務めた。そのときの説明要旨は次のようだったと思い出す。
時計企業というものを、他面から見ていると頗る割のいい事業のようにも見えるが、然しそれを成し遂げるまでの苦労と来たら、それこそ湿舌につくせない程の努力を要し、更に莫大な投資が必要となる。私の見聞している範疇でも、村松時計製作所の如きはその苦労さを物語るのに充分役立つだろう。村松製作所で作っているプリンスという時計は一応出来てはいるが、然し、時計としての本来の品格である時間の合う時計を作り出すまでにはまだまだ程遠いものがあろうことになる。それなのに、現にその村松氏は時計作りの為に懸命に努力をした。ダイヤモンドを売った店の利益を全部つぎ込んでも足りない経営状態である。だからその為には、村松氏自らが油の付いた作業服に身を包み、油に手を染めながら努力を続けたのである。
更に、その村松製作所を今日の状態にまで持ってくるには、創業当初の近藤男爵の資材をもってしても成しえなかったという経緯がある。
だからそれでもやってみようというのであれば、及ばずながら私も人肌脱がなければならないことになる。その前にまず、あなた自身の決意として、所持金全てを投げ出す覚悟があるかと聞いた。そこで何とかスタンダード会社から預かってきた譲渡の品目表を譲ってもいい結果が残せればという希望があったので、この話をそのまま吉田時計店に持ち込んだ。だがこの話は簡単に葬られた。日本における精密時計工業としての現況は、繁栄をもたらせていたのだが、昭和五年、六年当時の日本の時計界は、とても腕時計の企業に手を染めるなど思いもよらなかったのである。
だが、このスタンダード時計会社の設備一式を譲渡するという問題については、その後ある政治家の仲介で再び吉田時計店に持込まれたことがあり、奇しき因縁であるという思われたが、この時も譲渡の話は締結されなかった。
スタンダード時計会社の一切は、ソ連の国営として譲渡されたと聞いているが、それが事実のようである。

時計技術書の出版事業など敢行
時計の修理という学究的関係書類も存在しなかった

《昭和六》 私は昭和六年の春から、明大法科に学究籍をおいていたので、毎日朝八時までに新聞社としての仕事を処理して、そのあとは重い革カバンを提げてお茶の水まで通っていた。時に講議時間の都合で、円タクを走らす場合もあった。学校では少し級友からではモテた方である。五月にはクラス委員になり、総務委員に選出された。明大は、この頃学徒四千余を数えていただけに三科を牛耳る総務委員の地位は軽くなかった。然し全国の専門校から集まった猛者連の中から選出する総務委員は、四百数十名の中から選抜されるので選挙戦は民間のそれとは異った激烈真剣なものがあった。この中間で、三尺の秋水も躍れぱ、ピストルも向けられる事例がある。学習の自恃と学園の自冶と自由を叫びながらも、その当時から政界の動きがこの方面にも反映して激かったものである。そのような経過から案出したものは当時の日本の時計界には、時計に関する書物は何一つとして存在しなかった。然もその上、時計業者の後輩の進出に備える時計の修理という学究的関係書類も存在しなかったのを遺憾とし、痛嘆したのであった。

時計修理書の仏語の原語の翻訳書
フランス語の「時計の修理書」

《昭和六年》 ところが、私がこのように痛嘆しているのと相反比例して発見されたのは、本郷区(今の文京)駒込神明町にその当時材料商を営んでいた松本時計材料店の二世が持ち帰った書物だ。その店の令息に武司君という人が大正三年に単独で洋行、その時持ち帰ったというフランス語の「時計の修理書」があった。
それを基礎に時計技術書の和訳出版を考えた。この本を出版するのに、相当の費用と手間を要したのは言うまでもない。その難渋工程なるものを、何故やるかを決意したかについて、私としての一つの別な決心があったからである。それは、世の人のためになることを
やってのける必要があると考えたからである。学問の方では、東京六大学時代に、明治大学の委員として学生新聞を作ることへの参加を命じられたが、いろいろな事情で成しえなかった事情もあって、断行あるのみと考えた結果であった。

日本時計学技術研究会を設立
判読し難い内容の解説に苦心

《昭和六年》 そこで何はともれ、時計の技術書を集める必要かあった。他にも根本氏がタッチしていた技術協会というのがあったので、私の社では「日本時計学技術研究会」という名称で設立することにした。私の主張に賛同してくた当時のメンバーは次の通り。
蔵前の酒井時計店主・酒井亀太郎、下谷・練堀町にいた原田久治郎、仲御徒町の大比良技術研究所の大比良忠成、御徒町の根本氏、渋谷の于野善之助、豊島の長谷川、巣鴨のナポルツ商会のスイス人、O・R、アベック氏等を加えた陣容で、研究団を結成し、直ちに、初めの事業として、技術書の編集への協力してもらうことになった。
フランス語の原書を和訳したのを基本にして、午後六時からこれの解読に努力していた。   
この解説を行うには、時計部品の名称が判らなければならないのである。だがフランス語では、その解釈についてどうにもならないものがあった。つまり、座金のことを日本語では、“だるま”と称しているなどで、他に名称がつけてない。それだから、その座金の意を、日本語に翻訳にするのには、どうしたらいいかという、いわば、壁にぶつかったことになったものだった。そこで、アベック氏について指導を乞うて見たところ、引っかけだとか、ドテビンだとかいう熟語が発見されて来たのである。とにかく、これが最初で、時計に関する初歩の良書のひも解きであったわけである。時計の日本式熟語の発見には相当いろいろな問題があり、 且つ難渋したものである。

昭和七年頃の業界新聞群
さほど景気が良くなったが、それでも楽しく群れて飲んでいた

《昭和七年頃》 昭和七年頃の景気はそれほど悪くなかったが、特別良いという情勢
も見られなかった。従って、業界事情も至極平穏という状態であったので私は一つの出版事業を考えて見た。
この当時の業界新聞の数は十社余に及んでいたであろうか、人名で数えると、時計関係では、福田、山本、竹雅、早川、黒川、橋本、橋浦(大阪)飯田、私(藤井)この外、名古屋に古参の吉田氏が存在していた。また藤松氏も続いて活動を始めた頃だ。だが一杯組にかけては何れの面々も劣らぬ体勢であった。あるときは、青砥のしようぶ園で魚つりをしながら居つづけをしたこともある連中。その中には故人となった浦竹さんも混ざっていたのだから遊ぶ方面にかけての交わりは竹雅というのを筆頭にして、よく活躍したようである。
この当時の消費状況の一節を示すと、浅草・並木町に有名な「どじょう屋」があった。そこへよく足を運んだものである。夏の夕刻など、草履をひっかけて、一寸出かけるのに五十銭もあれば足りた時代だ。ごはんに鍋に酒が二本ついてそれで五銭のつり銭が来たものである。
もっとも、私のところ(池の端)から歩いて行った場合十五分位だから乗物賃は勿論不要の計算である。消費面は、こんな具合に楽だったから月々の計算でも毎日一人か二人を連れて飲んだあげく、茶席料に五〇〇円払ってなお五〇〇円位は残ったものだ。
料理屋に行くにも猪の獅々一枚持てばどんな店へでも大威張りで行けたものだ。だから働いた金で飮むという段階になるとはずんでいた。吾々同志の飲み合い仲間では私の社から出た山本、竹雅とタイムスの黒川、橋本それに金侯爵というあだ名をつけていた時計商報の社員の大野君がよく交っていた。飲む所にはいろいろのエピンードもあり、仕事の段になると勢力上の関係や面ツーの点など云々するものなどがあり、たわいないものであった。然しこの頃私は、人生の哲学的素地を求めることについて熱心に探求、出版物についても手を染めることにした。それは出版業務をやっている自分達には社会性の改善と指導的立場で必要があると考えたからである。



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