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前代未聞の同業者間の謀略事件
私を恨んで悪辣な謀略を企てた

《昭和三年》 勢力を妬んでか、発刊三年目を記念して催すことになった全国商工業大会の日を控えて、日本貴金属新聞の福田某が、もう一人の陰謀家と共に大井署のデカ達を買収してまでして、私を陥し入れんとした悪辣な謀略を企てたのである。
その日は大会を翌日に控えていたので、新調の本社旗を明治神宮の神前に奉告式を挙げることになっていた。昭和三年五月三日の朝のことである。一人の男が私の大井町の居宅にひょっこりとやってきて、「聞きたいことがあるから大井署まで同行してくれ」と言うことであった。業界の事件らしいものには何ら関係もない私であるから、もちろんその同行を突っぱねたのである。何がなんでも来てもらう外ないというので、止むなく大井署に同行した。ところが、どうしたことか大井署における場の情況でも、腑に落ちない事ばかりで、即刻、私は社の顧問弁護士に電話で呼び、「警家署長に何のための取調べがあるのか」を資してもらった。その質問には、さすがデカ連中も困ったと見え、そのまま帰宅を許してもらった。
然しその場の結論がついてないままだったので大井署は、数日おいて再び私に出頭を求めてきた。そして同署で刑亊連のいうままを聞いてみたところ、なにがなんだが質問の要点が明らでなかっだのに不審を感じて少し怒って見せてから帰った。大井署からの帰り道すがら考えてみた。私を陥いれようとした狙いは、勿論犯罪なるものをデッチ上げて困らせようという魂胆であったのであろうことは読めた。全然事件らしいものがないのに、あったかの如く仕立てたそれ自体が犯罪ではないかとも思ってみた。然し大井署の刑事が質問していたときの内容から推測すると、その頃、私は時計の密輸事件を追って神戸税関にまで時々足を運んでいた。その当時、事件に関係していたのが東京の新本某がいて、安い時計を売るための工作に組込まれてぃたようでる。そのことで松林某が、私をその自宅に呼んで、新参に対する攻撃を止めてくれないかといったことがある。勿論私は、とんでもない、と突っぱねたことから、これに関しての金銭についてはビター文たりとも関係していないのだが、この時の図を仕組んだ極まりないことが私の頭に浮んで来た。それだけに大井署における場合、不明瞭なまま終ったわけである。だが頗る危険な茶番劇であったことは事実であった。

大井署の刑事が担当、書いてもない署名が?
本人の囗か「私が悪かった、許してくれ」と謝罪されたので

《昭和三年》 そこで、大井署の謀略関係は終ったのだと思っていたところ、意外にも大井署が私に関するこの時の聞き取り書なるものを東京地検に送達していることが後日になって判った。それはその後に到って、東京地方検事局から私宛に出頭通知の礼状が届いたのである。それはたしか、その年の秋頃であったと思う。私の取調べに当った係がたしか石原検事であったと記憶している。そして私に関する事件の取調書として検事は大井署から送達されてきた書類の内容を読み聞かせた。そしてそのあとで、私の署名がしてあると説明されたので、これはおかしい思い、その場で検事に反問した。当人の私か署名した覚えのないものをどうして警察署側から聞き取り書として送達されたのかを知りたい。この質問に係の石原検事はちょっとあわてた様子をした。そして聞き取り書として大井詈が作って送検してきた書類を私の限の前に差出して、これを覚えがないのか、と性急に問うてきた。これに対して私は、大井署における略奪劇なる情景を説明した上で私が署名したものだという調書なるものと、大井警察署の主任刑事が書いた調書の文字が同一字体であるかをその書類を指さして質問すると、係の検事は驚いた。そして席を立って電話器を手にして大井署に連絡し、佐藤なる係刑事を尋間したらしい。そしてそのあとで検事曰く、「藤井君、これは司法上の重大汚辱事件になるのだから黙過してくれないか」と私に諒解を求めた。私はこのとき心中で思った。このような謀略こそ、天下に公表すべき絶好の機会と、そして告発のチャンスでもあると思い歯をかみしめてみたが、相手は福田という悪党であることと、それに福田正風と共に謀略剿に参画した四国出の某なる悪徒の存在を合せ憎んではみたが、一度は私が職をおいた関係もあるのと、事の次第が同業問の泥試合的内容が外部に明かになることをはばかる建前の考え方からもこの時の係検事の要請を容れて司法権擁護という立場の上からも、この特殊事件の法的措證を断念することにしたのである。謀略こそは芽生えるものではない、と私はこのときのことを通じて痛感した。この間、福田側か企らんだ悪計謀略劇の内容は、後日その時の茶番劇に登場した松林丑三氏本人の囗か「私が悪かった、許してくれ」と謝罪されたことがあり、明かになった次第である。

前歴者は第二を追うの例
前科歴は第二を踏み昜いという例を知る

《昭和三年》 デカ達を買収してまで己が望む野心を遂げようと企んだ謀略のその悪絃は、かって、四国の生家を出てから大阪で通信販売を業としていた頃に詐欺事件に問われた関係の朱印がその本人の戸籍をけがしていた。これを取除くための策略を上京してから京橋区内の某署刑事を使って転々とさせていた機会に、脱落させるに成功した例がある。その事例に倣って行った大井署の刑事使そう事件ということになるのであるが、結局は犯罪の前歴を持つ者は、その第二を追うという事象が顕現したことになる。前科歴は第二を踏み昜いという例を知るための参考に記した次第。

立法趣旨を知るための勉学と反省を踏まえ
明治大学の法科に入学する

《昭和三年》 以上のような思わざる他からの迫害、または知らずして起り得る犯罪防
備上のためにも、執筆関係を業とする立場にあっては、それらに備えるための法律上の意義体形を知っておかねはならないものと考え、私はそれから明治大学の法科に勉学することにした。
哲学とは深遠奥妙を極めた科学であるとするなど、九法のメンバーとして三年間を費して、法律のよって来る淵源とその本質的論拠についても少しく会得したのであるが、今の世には時として、あくなき行為を欹てなしつつ、なおテンとして恥じることなく、しかも反省のない非常識極まる行為者のあるのを思うとき、正に冷汗三斗の思いをすることがある。この機会に敢えて反省を望んでおく。

大正末期の業界とタバンの橋元さんが代議士選へ出馬した頃の状況
選挙の影響で清水商店が倒産、尚工合もその煽りを大いに受けた時代

《大正年代》 今のペコ側が登場して賑かった大正末期の頃の時計界は、依然として舶
来時計が王様格だったから、スイス時計の輸入商館筋の人達は、この頃はすこぶる幅をきかせていたものである。当時の輸入時計のブランドで有名だったものと、その頃の取扱店の名をあげると次のようである。
ゼニット、ナルダン、天賞堂(江沢金五郎氏経営)ロンジン、モリス、レビュー、ビューレン、服部時計店、エリダ金森時計店、タバン、シーマ、神戸のウイントコスキー商会、J・マーク、シーホル・スタイン商会(三宅氏)ウイラー端西時計輸入商会、フレコ、エルエデイキン商会、モバード、大沢商会、ㇵイフス、天野時計宝飾KK、ランコ加賀屋会、今マービン鶴巻時計店、チソッ卜吉田時計店、オメガ、シーベル・ヘグナー(小倉)、ロレックス、リーベルマン商会といった範囲のもの。
この外に、日端貿易KKというのが大阪にあり(河野氏)スイス時計の約二十七種にわたり取り扱っていたのを本紙(商品興信新聞)に一頁大の広告を連続して掲載したことがある。
米国製のウオルサム時計は、東京・丸の内の三菱街の三号館に東京出張所があり、赤松孫一という人が出張所の責任者として業界を歩いていた。もっともこの頃のウオルサム時計会社が売っていた時計は、この代理店から小売業者に直売コースをとっていたもので、それに部品材料の類まで直接小売されていたのだから材料商との連携はもちろん、小売業者とも大いにつながりをもっていたので有名である。
この外、エルヂンは銀座の伊勢伊時計店が特約店としての肩書を持っていたのだが、業者仲間に供給するというほど売れてはいなかったようである。
この頃、これら輸入商館の中で、案外幅をきかせていたのは、橋元文治というウィトコスキーの人であった。だから俗称“タバンの橋元”といい、橋元さんはいうなれば大型式の性格者であったから、いうことの総ては何でも大きいということになっていた。その橋元さんが大正年代の最後の頃の衆議院選挙戦に神奈川県下から出馬したことがあり、私も当時その応援に出かけていったことを覚えている。
体躯は堂々たる橋元さんが演壇に立って、「京都大本願寺お西の大谷光瑞ゲイ下のご推挙により、今回の出馬を決意した次第であります」と演述した。これに対する批評は、曰く、つぶすのは財産だけだと酷評していたのを忘れない。その選挙の影響は、山崎商店にも影響したようで、日本橋通り三丁目に当時清水商店の看板で貴金属の老舗を誇っていた同店は惜しくも倒産の憂き目を見ることになり、日刊紙上にも大きく取沙汰されたものである。山崎商店が倒産した結果、シチズン時計研究所に当てられていた尚工合はもちろん終焉、安田銀行の手中に担保物件として抑えられることになった。その後、銀座一丁目に出来た山崎商店は、日本橋の本店が整理倒産の憂き目を見ることになった事から、それに代って昭和六年に設営されたものである。

藤井勇二が「商品振興新聞」を創刊した当時の業界の状況
発送部数一万五千部を印刷して大正十五年五月八日発刊

《大正年代》 私は“愛される新聞”を目標に、時計と貴金属業界を母体にした新聞作りについて施策をめぐらした。@業界新聞というものの在り方についての正しい判断、A現存する業界新聞そのものが業界側との正しい密接感が保たれているかどうか、B私か発行する場合の新聞の在り方についてであった。それらを検討した結果、必らずしも時計、貴金属の文字を使用しない場合でも、その業界に存在し、業界の中で有効に活動するのであるなら、むしろ異名の題号を用いることの方が既存している業界紙とのまぎらわしさの点から分離することが出来て寧ろ明確さを増すであろうとも考えたのである。その理由は、この当時、日本貴金属新聞社では、人権が圧制される事態が採られていたからである。
つまり、社員活動に制限を加えたり、社員が自らの努力により培かったスポンサーを「働らき過ぎる」という理由で剥奪してしまうという悪どい手段が採られ、それがたび重なって行われた。この点から考えても当然、独立自営のコースを取る以外に術なしという結果に至ったのである。そんな関係だったので、創刊することを画然としたいという気持から「商品興信新聞」の発行を決めたのである。
それを決めた理由にはもう一つの考え方があった。業界の状態は、商品の取引をするのが常であり、その場合、取引についての良否善悪が取引上の重要なポイントとなる。それらの改善を狙うために、活躍する業界新聞そのものの使命は、商品の興信的役割を果たすのが主目的でなければならない。いずれにしても、題号が決って創刊の日取など細部の決定を見たのは、三月中頃のことであった。この間の手配は総てスムーズに運んだ。
とりわけスポンサー関係を飛び回った時の状況たるや人気は上々で、どこの訪問先でも「発刊することになったか、何でも相談に乗るから」という温情溢れる言葉で大いに勇気づけられた。今でも静かにこの頃の情景を考えていることがある。
人間というものは、立身出世の志を立てて、社会人としてのスタートをする時、しかも、いざ自力発揮という場に臨んだときに、それを引き立ててくれたその人の恩情こもったゼスチュアなんぞと来たら、それこそ終生忘られるものではない。正に感激そのものである。私はそれからまる四十年の歳月を経た今日でも、時としてその当時の光景を思い出して、人間の社会的行動の重要さを考えさせられる。
だから、若い世代に立身を志すものは、その時、その場合に処する冷静かつ沈着な考え方を常に持っていなければならないことだと痛感し、それを必要な場合に若い人達のためになることなら参考に供したく努めているのである。そのような環境の中から作り出された商品興信新聞の第一号は大正十五年五月八日を期して堂堂と打ち出された。
この当時は下谷地区には、卸商連が多数あり、それに次いで銀座方面には、小売業者を代表する群と、服部時計店、玉屋、御木本真珠、天野商店などのスポンサー群が林立していたので私の発刊した商品興信新聞の第一号は今の新聞型大判三十四ページがとこを発行、発送部数一万五千部を出したのだったから大好評だった。だからこれを大型トラックに満載して運ぶ以外に処置はなかった。これをこの当時、東京時計卸商組合五日会の代表であった池之端・仲町通の加賀屋商店社長の野尻雄三氏を始め、吉田時計店などの店先に止めて部数の点検を求めたものだ。
そのような勢力ですべりだしたのだから、この頃の業界紙群を圧倒したことはいうまでもない。従って発行当初は、月二回(八日、二十一日)の定期刊行にしていたが、その後社内設備の整のうのを待って旬刊発行にし、延いて週刊発行にまで仲展していった。第三種郵便物認可は、大正十五年八月二十七日、代表社員は藤井勇二、発行兼編集人の届は最初、社長名儀にしておいたが、この時代は発行人に限り他の名儀人を利用する習慣だったので、後になって寺沼精三名義に変えた。
大阪支局は、大阪市北区福島北四丁目十九(電話土佐堀二三三八番)で、今の十三地区から電車の乗降をしたものだ。
【註】私が発刊したのを追うように日本時計商工新聞という題号が続いた島川観水(久一郎)氏は、芝区私本町四三に事務所をおき、大正十五年九月二十八日に第三種の認可を受けている。これらが業界紙としては、最古参に属するものであり、これ以外のもので大正年代に発刊した実績は一つもない。

蓄音機が時計店にとって副業的扱い業種となっていた時代
創刊当時の業者からの支援状況

《大正年代》 前述したような経路をたどって創刊するに到っていたので、私と業者間の環境は、案外と密接な関係を有していたのである。時計畑では、下谷村が第一で、加賀屋の野尻社長、古田時計店(天笠、佐藤氏)、鶴巻時計店(栄松社長)、矢島源次社長、それに御徙町にあった手島製作所等が常に応援してくれた。
当時は、蓄音機が時計店にとって副業的扱い業種となっていたので、蓄音機業界のニュースも多く取り扱っていた時代である。そんな関係で上野・広小路にある当時としては珍しく本建築ビルの十字堂(橋倉新五郎社長)には、いろいろと情報を貰ったり、蓄音機業界のイロハを教えてもらっていた。
私が発刊を決意した当時に相談に乗ってくれた人は、この橋倉さんであった。十字堂は、当時、ビクターの大売り元(ジョバー)を担っており、東畜組合の組合長を歴任した後、
組合顧問の重責にあった。
蓄音器業界というのは、レコードの新譜が毎月発売されるので、それを定価販売することになっていたので、組合では、この定価販売をするレコードの乱売者の取り締まり規制が主軸として設けられていたので、業界内の物議がこの乱売問題をして時としてけんけんごうごうたる場面が見られたのである。
十字堂からは、犬印商標の蓄音器、蓄音機針などの発売品であり、それに新譜発売を含めた月報発行の為の編集上の手順をつけるために必要な処から、荒木虎次郎(金栄商会社長)が、この面の相談役として名前を連ねていた。
私が倉橋さんに相談した場合の決め手となる最後の場では、荒木さんはそれに対していろいろと端的に意見を露見してくれた。だがしかし、橋倉さんは、私に対して好意を寄せてくれた。
その結果、新聞事業をするための資金源は、以来、橋倉さんの一声を通じて、常に安田銀行の窓口に選ばれたのである。橋倉さんは堅実主義で人柄もよく、温厚の方だったのと、また財もあり、信任深かった関係もあり、自他ともに期界のゼントルマンに推された人であったが、不幸にして子息に恵まれなかった為にか、今ではその一族ともバラバラに散り去っているのが残念に思う。

腕時計側の金のペコ側出現の時代
価格が安いというのが魅力で何所でも引っぱり凧

《大正年代》 大正年代における一般的な景気は、平均してあまり芳しいものではなかったように覚えている。特に、日独戦争後の不景気と、それに大震災という打ち続いた悪い材料を背負った当時であるから、景気の良かろうはずがないことになる。だがしかし、世の中というものは、“世が乱れて忠臣出ず、家貧しうして孝心現れる”例えの如く、商業陣営の中でも日進月歩を通じて、常に新しい物の出現があるものである。いうなれば、それらは進歩の類に列することにもなるかも知れない。
時計業界おいてもこの頃、その例に洩れないものがあった。それは、大正時代の不景気と大震災という惨苦を舐めあとだけに商業陣営を張っている面では、何とかして新商品の出現がないものかを期待していた時代であった。
そのころ突如として打出してきたが、単価のきわめて低い金の腕時計側の発売であった。発売元は、京橋・小田原町にカザリ工場を営んでいた新本秀吉商店というのであった。その新本商店というのは、元来がカザリ職人で、“細工物には妙手の吉”といわれていただけに、新規な物作りは特殊の器用さがあったと噂されていたのである。俗にいって頭が良いという一言につきるのであった。新本商店から金側の極安物が新製品として登場したのである。
この頃の業界の状況は、腕時計が流行している時代でもあり、特に金側という品質については、金そのものが東洋人の趣味的にも愛好品として重く扱われていた時代であった。だから金側というものは、時計そのものを保護する役目を司るという立場の点で、ある程度の厚味を持たさなければならないものとされていた。従って、当時、金そのものは、社会的にも信用を得ていた服部時計店のツバメ印や、山崎商店のホシS印を始め、その他有名商標入りの金側製品が市販品の対象にされていたのである。だから腕時計側用の金の付目方としては、十型の場合は、一個につき少なくとも七分から八分、目付の多いのになると一匁を上回るものなどがあり、注文品の常としていたような状況であった。そこへ突如として出現した薄い金のペコ側は、何と一個の付目方が、せいぜい四分五厘位という低い目付のために業界筋では驚いた。そうして素晴らしい技巧品だと最初の内は、褒めたたえていたのだが、しかしその市販価格が目付の少ない関係でとても売り昜いというのが魅力となった。そうしたことから、品物は何所でも引っぱり凧といった具合に繁昌していた。

売れに売れた金のペコ側にも終焉が来た
劣等品の出現は業界のために不利益なものである

《大正年代》 この頃、私の肝入れで設立した東京都内所在の時計貴金属卸店のセールスマンから成る「東交会」という会が既存していた。その東交会の会員に新本商店のセールスマンの清水君というのがいた。常に高級品を持ち歩いていた清水君の売り先は、銀座の一流店ほか、日本橋、浅草など極少数の一流店しか回っていなかった。
その頃人気だった金ペコ側は、如何に安いからと言って銀座辺りの一流どころへは持っ
て行けず、また注文もされなかった状態であった。しかし、物の流行というものは、勢いを持つもので、その金のペコ側の取扱いが日を追うごとに売れるようになり、銀座方面の一流時計店でも取扱かわざるをえないような破目になってきた。
それが売出してからたった二週間か三週間位が経った頃のことだと記憶している。そうした結果、当の清水君がそれからは連日、このペコ側の時計を専門に取扱うようになった。持ち廻って歩くための手提げカバンの中味はぺコ側だけ。しかも朝九時からの仕事始めの時から一、二時間を経ただけで全部売り切れという好調ぶりを見せていた。それが毎日の連続というのだから、売れに売れたと言わざるを得ない。
こんな状況でペコ側に対する人気は全国的に広がっていった。東京の時計卸業者間でも、次第にこの金のペコ側の供給が行なわれるようになった。ところが、この金のペコ側の出現について一つの問題が台頭して来た。それは、金側時計そのものの商品的価値は、時計の機械を側そのものが保護する役目を持つものであるのに、ペコ側を取り付けた場合、側そのものがペコペコしているために、機械を保護するという役目はおろか、側それ自体が側そのものを完全に保持していくことさえ寧ろ危険であるということが分かった。これら劣等品の出現は業界に不利益なものであり、阻止すべきであるという声が大きくなり始めた。次第にペコ側防止の声がだんだん高まるのに伴って、このぺコ側が安いから売り昜いというのを目安にして扱う店と、店の信用を標榜して高級品以外は取扱わないとする業者とが相対立する傾向を見せることになってきた。時計界の情勢は、ようやくそれらの論議を中心に混とん足る空気を醸しだして来た。

粗悪な金側時計を排撃した時代
日刊紙に十八金製のペコ側金時計の広告を掲載して全国で成功を納める

《大正年代》 もの事について万が一、絶好のチャンスという場に出合ったり、ぶつか
ったりした場合は、それを捕えて生かすことにベストをつくさなければならない。こういう気持は、これから伸びていこうという気概に富んでいる人であれば、誰でも考えていることであろう。その意味では、本紙が大正十五年に創刊してから、それらのチャンスの場にぶつかった場合に十分生かすことが出来た例がある。
大正年代における時計業界は、引続いた不景気風に晒されて来ていたものだ。それに大正十二年の大震災という不測の災禍の場に遭遇したのだから、業者の中には、何らかのチャンス来ればという気概を持って待機の姿勢でいたものが多かったように見受けられた。従って、この頃の時計界の状況は、懐中時計の利用時代から転じて、腕時計を使用する大衆の眼が次第に移りつつあったころだけに、金側に対する品質上の選択の場でも、頗る的に批判が高かったものである。そこへ突如として、十八金製のペコ側が登場してきたのである。
それが安いからというので、これをオトリ商品として他店との競争上の安売の目玉商品として扱われるようになってきたのだのだから困ったものだ。遂にペコ側に対して粗悪品排撃という情勢さえ生かすようになったのである。このようなことは、業界内部の関係として処理しえても、需要家である大衆に向って公然と安売りを始めるということになるので、時計店という看板の手前からでも、どうもやりにくいという場面もあり、逡巡したものであったようだ。このような情勢に合わせて業者側では、進んでペコ側を求めようとしない空気が漂い始めたので、ベコ側の売行きにも影響し、時には品止まりとの場面も出来るように変ったようである。そのような関係で、常日頃から通信販売の策戦に妙味を持っていた日本貴金属時計新聞社の社長福田正風氏のところへ新本氏本人がやってきて話し合った結果、このペコ側をつけた金側の腕時計の「大安売りデー」を展開することにした。場所が新聞社のすぐ前にある日米ビルの軒下空き地二十間程の広さを借りて、これに紅白の帳幕を張りめぐらしての大廉売所を作りあげたのである。時事、毎日、報知等の当時の日刊紙に大々的に広告を打ち出したので、安売りデ―のその日の早朝から、お客が大勢押し寄せ大変な賑わいを呈した。
所が、その場で写した写真を広告を掲載した日刊新聞の紙上ニュースの一種として掲載したことと、この状況を新聞がさらに煽った関係で、この種の廉売は売れに売れたものである。
そこでこのような状況の続くものを見て地元の京橋と日本橋の時計業者は珍しく大いに憤怒した。その結果、植野、秦、大町、石井、森川、川名の地元の組合代表と、日本橋の古川支部長らが打揃って日本貴金属新聞社を訪れ、業者側に与える迫害行為をなじり、即時停止するよう厳重に抗議を申し入れたのである。その上、組合側では、その夜緊急会議を開いて同紙に対する不買決議まで行った情報がもたらされた。
このような業界情勢が現われてきたので、東京市内とその近郊での安売り合戦は、しばらくの問停止せざるを得なくなったたようだ。大正十五年の夏以後は、地方への進出を企画して、郡山、福島。仙台、青森地方を経て、遂には北海道を目がけて廉売団の綴込みを策した情報が入手されたのである。
従って、この方面に対する防御活動は、業界の声援をバックにしたので頗る活発なものと見られるようになった。安売り隊の動きは、大正十九年夏頃から始まっていた。そしてその安売戦法は、その土地の地方新聞に広告を掲載してから、“安い、安い金時計を”
とあおった揚句、お客がその時計を買う姿を写真に写して、これを日刊新聞の社会面に掲載して気勢をあおるという寸法だからたまらない。これがこの頃の素人衆を射落すもっとも効果的の処法であったようである。



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