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民間所有のダイヤモンド買上品につき陳情したときの経過
輸出に向け外貨獲得の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動を

《昭和十七年》 昭和十八年ともなった頃は、戦争は益々たけなわとなり、大本営の報道官発表で東条英機陸相が内閣総理大臣になった直後であったから更に戦争への熱度が高まったように思えた。
この頃の業界関係は、廃品回収事業も各方面の努力で最高潮を過ぎたようにも思えた時である。組合としての陳情行も、既にこの頃の戦局を眼の前にしては、何がどうなるうと最早進むべき道は一つしかないといったように思えた状勢下であったようである。いうなれば業界関係は総じて「私しや川原の枯れススキ」とでもいった流行歌風調の時代ともなっていたのである。もっとも、この頃は業界の新聞陣営もご多分に漏れずというところ、当局命令で株式組織に改めた時計光学新聞(この頃山木君は退社)と私の社(時計蓄音器興信新聞)の二つだけしか存在していないという淋しい状況であった。
だが、状況をたぐって見ると、この頃関連業界中特に一沫の寂しさを感じていたのはダイヤモンドの取扱い業者であった。昭和十二年当時から、表同きの商取引はやれなくなっていた。その上、戦争状況がだんだんたけなわという状勢に転化して来たので、ダイヤモンドに関する限りは手も足も出ないという状況である。そこで、この頃二、三の有志者間で相談した結果打出したのは、ダイヤモンドの民間所有量の買上げ品を外貨獲得の面へ振向けようという案である。たしか昭和十七年の秋頃のことだと思う。
ある時、三輪真珠工業の三輪豊照社長から私の社に電話があり、ダイヤモンドの買い上げ運動について相談したいから協力してくれというのであった。私の新聞社は、昭和十五年に当局命令によって資本金三万円の株式会社に組織替えをしており、その株主七十五人程の中の一人に三輪さんが加盟していたのだから、それの返事には一も二もなかったのである。勿論、業界のためになることでもあるからということもあり、進んで協力することに決めたのである。
この時の運動方針取決めた会場は、当時日本橋浜町河岸にあった日本橋倶楽部であったと思う。この日の会議に出席していたメンバーは、京都、大阪、名古屋方面からの一流店の顔も見えていたので、全国的な集りだという感じが持てたのだ。
議長には故人となった古川伊三郎氏が就任、正式に陳情運動に対する決議を行ったのである。その席上で私は全員に紹介され、この陳情運動の主軸に活躍する旨依嘱されたのである。それから、その後の対策進行協議のため、当時、日本橋村松町に事業所をおいてあった松本商店の松本松之助社長店の三階に陣取り、連日に亘り、根気よく陳情書作りなどいろいろと協礒したものである。
この時集ったメンバーで覚えているのは、三輪豊照(故人)巽忠春、中島栄一(故人)、伊藤繁(故人)、松本松之助、西川杲(故人)、古川伊三郎(故人)、亀田基一(故人)、水渓直吉(故人)、金田徳治(故人)諸氏であるが、この運動に対する大役を特に私に嘱託したのは、過ぐる昭和十二年の当時、ダイヤモンドの十割課税を悪税として一気に一割までに引き下げに成功した実績を買われてのことだと思う。
その時よりも今回の陳情運動の方がはるかに困難性を帯びていたのである。だが兎に角、民間所有のダイヤモンドの買上げに関する陳情書の仕上げが出来たので、これを商工省の当局側に提出すると共に、更に、買い上げたダイヤモンドの一部と、白金など高級貴金属品を含めたものをまとめて輸出に向け、外貨獲得という線の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動をこれと合せて企画したのである。
これらを吸功させるために、暮も押し詰まった昭和十八年十二月二十八日付で湯島所在の本社内に積まれた一万八千余部に上る陳情書を全国の販売業者に向けて発送、それに調印協力方を求めたのである。暮の二十八日ともいえば誰もかも忘中忘という時であったので、止むなく日頃懇意にしていた梶田久冶郎、谷田賀良俱、荒木虎次郎氏ら業界の各界代表連に立合いを請うて、その実況を写真に撮っておいたのである。これがその時のスナップ。

総動員法が発令された頃の業界
軍の計器精密修理班という企画を申請することに

《昭和十八年》 昭和十八年に到ってからの戦局は急速度に進展したので、国家総動員法
がついに発令されるに到った。こういう時代になってきては、もうあれもこれもあったものではないという時代となった。生きのびてきた業界内の新聞の二つについても廃刊命令が打出された。日刊新聞は、五大新聞を残してあとは総てのものが廃刊、そして総動員法の命ずるところに従って、勤労奉仕をするもの、まは徴用命令に従うものなどで時計屋のおやじも番頭も何もかも若いものから姿を消してしまった時代となったのである。
前述したダイヤモンドの買上げも輸出の促進運動のその後の動きも何もかも処置なしという時代に入ったのである。
私は一考した。それは修理班を編成して南方や北支、中支の軍方面慰問に進出企画を計ったのとは逆に、私の社屋を活用して、軍の計器精密修理班という企画を申請することが、良策だと考えた。その結果、私の社の近くに開設していた中沢某という修理所に、時折訪れたことのある関係で顔見知りになった野口某という人の協力を得て、軍需省航空兵器総局入りの手続きをとったのである。
たしか昭和十九年の春早々の頃だったと思う。願書の届先は、軍需省航空兵器総局官房長官宛だった。照会者は、日省主計課の某中佐であった。この申請に対して即日出頭するようにとの通達に接したので出頭してみると、逐一の質問があったあとで任官辞令が渡された。当時の房長官は田中という少佐だったと覚えている。

徴用免れの手段としてサビ取り液も造り売った
塩素を水で割り、鉄の粉を入れて沸騰させるだけ 

《昭和十八年》 その熊忠さんは、話術についても特別に長じていた。その翌日、私の社
ヘー人の友人を同伴してきた。早速直し仕事を始めて終ったのである。私も器用な手際の程を見て驚いた。今度は、サビ取液の簡易発売を持出してきた。塩素を水で割り、これを一方のビンにつめてある鉄の粉を入れて沸騰させれば、たちまちにして鉄分の赤サビは落ちるのである。この理に基づいて作り、当時発売したことがある。大いに売れたものだ。このようなことで、時計の修理ということに縁が付き、又別には理論と実際に即した時計修理技術という出版物を刊行した経験からも考えた結果で、かくは修理業務という点に着眼したものであった。
そして徴用免れの手段にもなるということであれば、時計店の店主も倅も望むことは総じて集まってくるであろうと考えたからである。

私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になった
日本計器工業KKに衣変えして

《昭和十八年》 私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になるのには、一つの望みがある。事情の概略は、戦局がだんだんたけなわになって人々が徴用命令に応じて行くようになり、時計修理をする数が極めて少なくなっていった時だから。(昭和十六年以降、十七、八年には極度に減少した)。そのため勢い修理資材が配給されなくなった。
時計修理のためには欠くことができないベンジンの如きは、血の一滴とまで称された時代である。日本は島国であり、その島を米、英、支の連合国軍が海上を包囲して経済封鎖を行なっていた時代であるから無理はない。
そこで業界新聞というものが廃刊命令を受けたことを知って、私の社へ修理業の開始を頼みこんで来た人がいる。先に故人となった熊谷忠治という人が一番だった。熊谷君は、俗称熊忠といったものだ。この熊忠さんの手直し技術ときたらスゴイもので、特に名人的技巧の点をあげると、セイコーの十半をロンジンか才メガに作り替えるのが巧妙であったという。私の眼の前でこの特技をやって見せたことがある。実にこの偽作時計の点では、日本一の称を冠せられると思う。但しその技巧のお陰で大分もうけさせてもらったといっている人が関西辺りにいた筈だ。

「軍需省航空兵器総局指定工場」の金看板を掲げた頃の転業状況
ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども

《昭和十八年》 以上のような経過で「日本計器工業株式会社」という立場から私は判任官ということに決り、修理勤務をする人は雇員ということで、当局との間はOKになった。社に帰ってから業務の開始を宣言した。社の表看板の金文字は「軍需省航空兵器総局指定工場日本計器工業株式会社」と鮮やかに記されたので、当時としては、時めく軍の事業だけに人々は驚いたようである。
電灯会社を呼んで電線をクモの巣の如くに張りめぐらせるのも軍当局の指令書に基いてのことだけに、なかなか光彩を放ったものだ。
日本計器工業株式会社と名称を替えた本社内は、時計修理工場に必要な設備を整えることになった。それだからといって、修理だけのことだから、大した設備というものもない。机を修理台に利用する程度で足りていた。この頃は、何事につけても物資不足の折柄でもあり、且つ足りなくても済まされていた時代であっただけに、物ごとに理想的という案件などは考えられない時でもあったので、先ず直しの道具は各人が手持ということにしてあった。そこで会社で整える必備品は、ベンジンが何よりも大切であったのだ。
然し、このベンジンは軍の御用仕事ということになっていたから軍需省からの供給が約束されて、そこに時計の修理事業が成立ったということになる。工場の作業員は時計店の経営者を当てることにした。
この頃は、軍の徴用令によって米屋のおやじも酒屋のおやじも誰も彼も徴用されていた時代だけに時計屋自身の各人にもこの徴用令状が舞い込んで来た時である。だからこの徴用令状を免れるために、軍需省航空兵器総局指定修理工場の設立が目指されたのである。
従って作業上の組織は時計店の関係者ということになり、工場長には越水保氏(現越水商店社長)を選定することに約束がなって以下十七人の時計店主らを作業員に集めたものだ。集まった者の中には、中野の浜田秀(故)、小岩の浜田、根岸の本田、三輪の佐藤、有楽町の竹本、村田等々、私は会社の代表取締役であるということで判任官の辞令を受けたが、その他の者は雇員ということで諒解をとった。
仕事の順序は、女事務員一人を伴れて毎日虎の門の庁舎まで通ったものだ。ゲートルを足に巻きつけての戦時体制の姿である。庁舎内の時計部で受けつける時計の修理個数は一日五十個ということに決めてあったのだが、時計部の窓際まで延々たる注文者の列が続いて打切りようもない。それが毎日続くのである。戦争が漸次激烈化して来てからは、諸外国に派遣されていた外交官連中が家族ぐるみ引揚げて来たその影響で、時計部に籍を置く者
の大半は高級階層の部類が多かった。それだけに修理に出す時計も、名柄は上等なものば
かりだったといいたいほど多かったものだ。ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども海軍畑の将校連中から注文されたのが多かった。
修理料金は職場から伝票がついて廻って来たものに何割かの手数料を添付して注文者に渡したものである。この修理の外に、ときどき品物の注文があった。時計やバンドの類も。然し私は修理工場という建前で軍需省入りの認可をうけたのだからということで、品物を売ることには一切応じなかった。そこで今度来た時計屋はヒゲをはやしていてなかなか頑固な奴だという批評をしているという噂が私の耳に入って来たので、バンドだけは売ってやるということで取扱うことにした。
この頃のバンドは、男用はカーキ色の軍ハバンド、女持は丹羽さんか何かで作ったオペラだったと思う。バンド組合に話をして五十打ほど仕入れた。配給制になっていたので公定価格だから安かった。たしか藤松君が組合の書記長をしていた頃だと思う。

金田氏は、「金一万円は私が払うから書類を渡してくれ」と哀訴嘆願された
私はその書類を文京区の金田氏宅に届けた

《昭和十八年》 ちょつと横道に外れるが、このあとでこの当時の陳情運動に使った書類の利用性が起きて来た。東京地検における問題についてである。
そこで私に、陳情した当時の書類の一括提供を求めてきたものがあった。このとき私は、ハッキリと断った。何故なら、このときのダイヤモンド問題に関する陳情か成功した暁には、その報酬として私に金一万円を与える約束が日本橋倶楽部で、然も大勢の人の面前で約束されていたのである。それが前述のような具合で横流れ式のようにされてしまったのだから、腹くそ悪いということになったのは当然のことである。その時、私に電話をかけた金田氏は、「約束のその金一万円は私か責任を持って払うから一件書類を渡してくれ」と哀訴嘆願されたのである。真実のこもったその声に答えて、私はその書類を文京区の上富士前町の金田氏宅に要求された通りに手渡したのである。東京地検での効用が見られなかったようであり同情する。だが戦時中、白金に絡む事件は、国賊の汚名によって裁かれるものであるから、甚だしい不名誉な結末に終ったわけである。

陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座
ダイヤモンド買上げに関する陳情書を商工省当局に提出

《昭和十八年》 以上のような経過で、ダイヤモンド買上げに関する陳情書は、商工省当局に提出、買上げ実行についての情況見通しについての瀬踏は、私が一応説明したのであったが、この陳情の趣旨は一時局に適応しているのであり、採用可能な線もないではないが、陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座の形となって終った。これは市内の某料亭において話合った時の当局側の説明であったのだ。とに角ここまでは私の手で努めて来だのだが、これ以上に秘術を尽すということについては一考したのである。
それはこの当時、「東京貴金属品製造同業組合」なる組合は、久米武夫氏が代表であり、表面上は既に戦時体制時代に突入していたので、貴金属組合としてはなすべく方法もないということにしていた。だから事業というものに手をさし延べるであろうか、などとの予想など到底持てなかった時代であった。いうなれば有名無実という存在のものだったのである。そのような関係から久米さんの組合に交渉しようとは考えなかったのである。従って私としては、陳情書を出して実情具申をしたあとは、当局の呼出待ちといった程度に考えていたから、他のいろいろ起きてくる問題の処理に取り組んでいたのである。
ある日、私が国電の御徒町駅から降りて帰宅する途中で、亀田基一氏と路上で出会った。そのとき亀田さんは、私にズバリいった。「藤井さん、貴方の努力した陳情効果は、結局久米さんの組合の名に切換えて成功しました、トンビに油揚をさらわれた格好ですね」、と心
なしか、せせら笑われたように受けとれた。
だが然し、私の努力によって進めた民間ダイヤモンドの買上げ事業が、曲りなりにでも成功したのなら結構なことだと思った。それだけにまアーこの辺で諒解すべきものだと私自身は心の中で決めたのである。
ところがこのときの私を評して曰く、「正に正直者がバカを見る」といわれたことがある。たしかにそうであったのかも知れないとは思ったが、矢張り私はそのままあきらめた方がいいと思った。

昭和十九年の夏に敵機B29来襲で大慌て
開設一週年記念祝賀大会で歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も特別出演

《昭和十九年》 戦争状況は、日がたつにつれて苛烈になるばかりだった。昭和十九年の夏になって、軍は航空兵器総局の人事について、新しい指令を出した。つまり航空に関する限り陸海軍の別をなくそうというのであった。それが実行されたおかけで時計の修理も勢い多くなった。
この時の軍需省は、現在の国税庁に、また航空兵器総局はその前の会計検査員、現在の通産省の建物を全部使い、更に管理部を内幸町の東邦ビル内に別離してあったものだ。
そして昭和十九年の十一月一日は、開設一週年記念祝賀大会ということで頗るデコレーションの催ごとなどが行なわれた。陸海軍の人事交流が行なわれてから初めてのことだけに全館をあげて祝賀気分に隘れたものだ。
そのときの状況は、局の裏庭では双葉山一行が大相撲をとっていた。それに歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も、特別出演していたので大賑わいという光景である。館内は酒タルなどが並べられ乱痴気騒ぎそのものという光景を呈したころだ。丁度午前十一時、約一万メートルの帝都上空に突然敵機らしきものが現われて地上では大変な騒ぎになった。
然しこの混乱の中にあっても、事務員等を統卒する避難命令を出す人がいなくなってしまった。つまり酒にたわむれ且つ自分の危難を考えて他を省みることが出来なくなったのであろうか、止むなく南方から帰ったばかりの一人の中尉と私の二人でこのとき全館に檄を発した。そして、女子たちの待避行動のタクトをとったのである。このとき語り合ったの
が軍人と雖も人間である。
沈着性に欠けているものは、尉官であろうが佐官であろうが問うところなく、無責任そのものであると、責めるようにいいあったのである。帝都に初めて来襲したこのB29は、約
一万メートルの上空をゆうゆう飛翔して何れかへ姿を消したのであった。この時が瀬踏みで、このあと帝都の空襲は日をおって一段と激しくなっていったのである。
このようにして戦時体制下の私は、業者と共に適当にその場の法に甘んじざるを得なかったのである。
その間、業界の一部にも顔を出してみたことがある。服部時計店からは昭和十九年の春まで一定額の広告料を頂いていた。この頃は大塚さんの時代から離れて昭和十七年頃精工舎
側から転任されて来た片山さんの時代ではなかったかと思っている。時計の卸部には同店の最古参の梶原さんが、業者の注文品に応じながら、藤井君、まだマゴマゴしているのか、と言われたことを覚えている。
時計組合の関係では、野村さんが組合長の時代であり、野村さんのご令息康雄さんが応召されてからの心労ぶりは想像の外、兎に角連絡が取れたら頼むよ、という子ぼんのうぶりを聞かされたものである。従ってこの頃の時計の小売店と来たら、どこも同じように活溌な光景はなかった。然し私の業界廻りは、これまでの業者側との馴れ染めの関係で顔を出した程度であっただから、そのあとは依然軍需省通いの時計部勤めの判任官ということで勤勉に活動を続けていたのである。

ヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話も
昭和二十年春、帝都爆弾強襲のころ

《昭和二十年》 B29が帝都を襲来してから軍当局の行動は一層曖厳味を加えて来たようであった。然し、国民自体は敵B29が帝都初訪問した時の戦闘状況の実際を凝視することが出来たので、これからは軍側の報道などは問題にしていなかったように思えた。
つまり、戦局は日本側に不利になっているという活況の一部が判断出来たからである。総局の二階に軍需省参与官の職にあった三木武夫君がときどきやって※たので、その都度私は政府の方針と戦局の推移について語り合ったものである。戦争に勝味があるかないかという点で、心配する空気が案外強まっていた頃だったから、その情報を知りたいがためでもあったが、戦局の情報については、三木君よりも庁内の尉官左官の連中のほうがはるかに詳しかったし、適格性を持っていた事の判断も出来た。
それは戦局の進展に備えて、官位通達というものが出されていたからである。
私が三木君と会談することを誰かが田中という官房長官(少佐)に知らせたものがいて、ある時、長官室に呼ばれて、三木君とどんな話があったのかについて詳しく聞かれた。
しかし、明治大学の同輩ということで、その場を押し通した。この頃は、すでに敵機の帝都襲来が激しく、東京方面をめがけて段々激化してきた時代である。
既に昭和二十年代に移った頃で軍需省内の空気には少しくあわただしいものが見られていた。第一線から飛行機を送れ、飛べる飛行機を送って来いという注文なのである。之に反して国内の生産体制はというと、生産された飛行機の二割しかパスしていない。それなのに不良の八割方についても一応軍からの支払いが行われているというだらしなさである。一体これで戦争が出来るのか?と、涙を流さんばかりに強く訴えて来るのは下士官連中であった。
一塊の時計屋に過ぎない私にこのように軍の機密を明かして訴え、且つ嘆くのであった。こうなってからは少尉中尉の連中までが時計部の室に毎日のように入り込んできて、原子爆弾用の資源ウランを求めるための悲痛な訴えは、この頃特に激しかった。独逸の戦況と日本軍の南方戦局との小競り合いが、いろいろの面で日本の国内に影響していたのである。この頃の軍需省内は、大部分のものが受持つ仕事そのものに手がつかなかったようである。つまり、手が浮いているのである。かくしている中に、昭和二十年の五月十日に到り御前会議が開かれた。そして、戦争の継続可否について討議された事実も秘密裏に報告を受けた。独逸のヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話もあるなど、なかなか深刻なものが伝えられるようになり、この頃から戦局情報のきわどいものが刻々持込まれるようになったのである。

尉官佐官級将官連が混乱した頃の状景
敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う

《昭和二十年》 そんなように戦争の中味が、国民の眼に直接映るようになって来てから
は、業界関係のことでもいろいろ影響するものが見られていた。品物は間に合わない、それにまた商売をしていたとしても将来への見通しがないなどのことから、卸商群ではなんでもござれ方式に取扱いの種類が随時変っていったようである。
私の社の近くに、戦時中の仕事として始めていた中沢時計工作所もこの頃の戦局の進行状況に見切りをつけてか、「藤井さん、もう見切時ですよ」といって修理部の総てを引払っていった。それは昭和二十年の春の頃のことであった。
戦争が一日一日と苛烈化して来た。沖縄の敗戦が伝えられてからは、本土は一方的に守備する体制の外なかったようである。そんなような状況と共に軍需省における悲報状況を聞くに伴れ、日本計器工業KKの作業所の疎開も考えなければならなくなった。そこで、その候補地を群馬か、茨城かということで越光氏ら幹部連と相談したところ、予定地に予め決めていた群馬県鬼石町の候補地を選ぶことにしたのである。
現地調査あのため、私と越光夫妻、それに浜田氏が同行した。それが昭和二十年三月八日である。その晩は現地に一泊、翌日に帰ったところその晩からB29の帝都爆撃という警報が発令された。
防備体制といえば従業員が帰ったあと、家族が疎開先へ避難したので私一人ということになった。防寒用具にゲートル巻の防火体制というより方法はなかった。この時から帝都は
焼野原と化すことに至った。然し帝都を空襲する前後に行った鶴見、川崎地区の工業地帯への爆撃の方が物すごかった。それが連日に亘ったのだから、その凄惨さときたら表現できないくらい。
その時のラジオ放送は今でもこの耳に残って忘れられない。敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う形勢である。全員防空壕へ待避すべしという放送が繰り返されたのであった。その声は今でも忘れ難い。



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