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大震災直後の横浜の時計業者救援活動
歩いて持ち帰った修理用部品と工具の一式を横浜地区居住の時計組合員に無償で提供

《大正十三年》 横浜の立正堂時計店若松治之助さんの店にあって横浜時計商組合の書記長努めていた山田さんが、その当時(大正十三年)私に説明してくれた大震災直後の救援活動状況は、次のような光景であったという。
大正十二年九月一日正午近く、突如関東地方の全域が大震災のために壊滅して終った。横浜地方と東京の時計業者は何れも復興力を失ったと見る外はなかった。仮りに立ち上がることが出来たとしても、時計商としての最初に必要な時計の修理活動に欠くことの出来ない工具と時計部品の備えがない限り営業することはできなかった。それを補うために主人の若松洽之助さんは、決意を新たにして被災から免かれた名古屋地方への買い出しに出かけることにした。
もちろん、山田さんその人も若松治之助さんと同行した。然し、災害のために汽車が走っていないので鉄道線路上を歩行する以外に持ちはこぶ方法がなかった。二人は三日もかかって線路上を歩いたのだという。そして修理用部品と工具の一式をそろえたのを背に負って持帰った。それをそのまま横浜地区居住の時計組合員に無償で提供したというからその義侠心には驚かされたようである。この話は若松さんと、買い出しに同行した山田さん本人の口からも賞めたたえた状況を聞いた。大正十四年の正月に関内の料亭「いろは」で開催した横浜時計商組合の総会でも、この頃の状況を当時伊勢佐木町通りに開業していた石田時計店の主人石田修介氏(副組長)からも報告されて、若松さん(組合長)に感謝状を贈ったこと記録がある。それほど震災当時には、いろいろの義侠的美談が生まれ賞讃されたものである。
【注】この話題の山田さんが亡父の遺言の中から抜書きしたものが前記明治十三年頃の日本の時計界関東の巻があり、これにより当時の資料が得られ、感謝している。 

大正年代の業界と関東大震災前後の状況
復興の速さに目を見張るものがあった

《大正十二年》 前項までに記した時計業界にまつわる古記事というべきものの資料は、大正十五年五月の創刊になる本紙の「商品興信新聞」時代を通じて入手したものであり、このほかにも、それらの事実を裏づけるに足る重要かつ沢山の資料が東京・湯島天神時代の本社内に山積みされていたのであったが、過ぐる昭和二十年三月十日の帝都大空襲の災禍のために全てを烏有に帰しめたのは甚だ残念である。
従ってこれからは、大正十二年九月一日に起った不測の災渦関東大震災という突如として急変した当時の時計業界事情を中心にしたものの資料を主に、またその他からの資料を補って集録することにする。
大正十二年九月一日に起った大震災当時の日本の姿について概述すると、大正年代というものは、明治時代の自然的延長の姿そのままであるという外に格別いうことがないようである。明治時代の間に日清、日露の両役を通じて大きな経済的国力の消耗を来している。それだけにその当時、日英両国間で結んだ同盟条約により、大正五年の第一次世界大戦の際に真珠湾で独乙に対する戦争をしなければならなくなったのである。
この時の戦争で日本は大勝したが、戦争という結果の経済的損害はこれから続いたのである。従って、それからの日本国内における国民生活の上にはいろいろと恐慌が襲って来たのである。それらによる不景気風は、大正九年頃を絶頂時として嫣来漸亊立直って来たかに見られていた時だったので、大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如として襲った関東地方の大震災は余りにも大きい痛手を与えたことはいうまでもない。震災によって受けた被害の結果は、東京始め横浜はもちろん、関東地方の全土が全滅されて終った。その復興は予想外に早かった感じがした。
九月一日の被害で右往左往していた市中の焼け跡は、三日目を過ぎたころからは立退き、先の立札が立ち始めて来ると、そのあと数日するころには焼跡へ復帰するバラック建の工事が諸々に見え始めた。大工さん達のツチ音が焼跡の諸所に響くようになったその年の十一月には、銀座二丁目に服部時計店の仮営業所が出来た。
東北方面のお得意先に便利な「吉田時計店」は、上野の不忍池の池畔に面した大通りにバラック建の仮営業所を設けて商売を始めることになった等。
またその翌年の春頃には、池之端の仲町にあった「加賀屋商会」、広小路の「鶴巻時計店」、浅草の並木町の「見沢万吉商店」、浅草橋の「今津時計店」、日本橋通三丁目の「大西時計店」など市内の時計卸商群が続続と軒を並べて商売を始めかけたので、時計界はこのころでも他業界に卒先して明るさを見せるような状況だった。
このころ、バラック建の仮営業所での商況でも、焼けて無くなっお陰というか、目覚時計などが飛ぶように売れたものだ。このためどこの時計の卸商店でも「新入荷即売り切れ」という光景を続けていたので、業界の景気は一際上向いた傾向を見せていた。今でもその頃を想い出して当時の光景を彷彿させるものがある。
かくて時計界はバラック建ながらも、アチコチに建てられ始めた小売店の数の増えるのに伴って復興が緒についた。そのころ、時計業界を根城にしていた業界紙の種類は次の如きであった。
名古屋時計商報社(名古屋)(雑誌体)=主宰:吉田弓氏
日本宝飾時報社 (大阪)(タブロイド版)主宰:岩出喜一氏
日本貴金属時計新聞社(東京)(新聞体)=主宰:福田正風氏
時計タイムス社(東京)(雑誌体)主宰:水上社長

【注】この外、「東京時計卸商報」と名称した時計卸組合五日会卸団体の月報をその五日会の書記役を勤めて浅草花川戸に所在し東京履物商報社を経営していた飯田剣山氏という人が担当しており、月刊の綜合月報なるタブロイド形式のものを出していた。藤井さんよく活動しますね、と鶴巻時計店であった際に、当の飯田剣山氏から私にジカに吐かれた言葉など思い出せるのだから、おそらく東京時計商報と名称して時計の業界畑に喰い入って来たのは、昭和年代に入ってからの事だと記憶している。
だが時計界の空気は、大震災の年の翌年の大正三年の正月明けは、街頭のバラック建のツチ音と共に活気に満ちて来ていた。それは、街の復興景気に伴って時計界は時計の売行がよすぎる位に売れていたので何処もここも好景気に押されて明るい気分が展開されていたからである。そうなって来ると品物の売り出し広告の掲載申込みもあるし、店舗新設の案内広告の申込みもあるといった具合に新聞広告の利用が漸次高まっていった。
私は大正十二年の大震災の年の暮から日本貴金属時計新聞社に入籍していたので、大正十三年の舂からは外務畑を飛び歩くようになっていた。この当時の同僚社員はというと、先輩の桜井潤一氏がただ一人という状態であったのだから桜井君の社の内外におけるその頃の勢力は大したものだった。屋内にいた社員では、編集の高橋、発行名儀人の寺尾一十、財務の大竹老というところへ私が飛び込んでいったのだから、働く余地は十分にあったわけである。ところが私の歩きまわった場所は、他の社員活動の範囲を侵すことにならない、新規のスポンサー開拓という面が多かった。それだけに横浜のようにスポンサーになってくれる面の少ないところは専門的領分として分けて貰うことになったので、この方面の業界事情には案外精通するようになっていった。
この当時、横浜には時計組合といった既存の歴史を持つものとして、日本最古のものがあり、その頃の組合長だった若松時計店の御主人の若松治之助さんは、あらゆる人に対してとても親切に世話をしてくれたものである。その若松さんの店に山田某という時計組合の事務的な面倒を見ていた書記役の人がその店に起居しておられたので、横浜にある外人居留地のことなどについて古い時代からの話などよく話してくれたので新聞の資料集めの為に大いに役立ったものである。

明治四十年当時の「東京時計商工業組合員」名簿
明治四十年当時の記録から

明治四十一年十一月十日付で名古屋市東区呉服町三十七番地、「名古屋時計商報社」の発行した印行「全国時計商工全書」は、この当時の全日本国領地域内に存在した時計業者の現況を実測により表しわたものである。業者数は約三千四百四人に及んでいるが、この他にも発達途上の未開発地区(時計店存在の実在数を指す)などのものを取入れていないので、これらは概数二百余件に及ぶものと推察される。
以下の表示の時計組合員数は、何れもその地に時計組合が存在し、しかも現実に組合の本旨に則り、平和的に運行している地区の部分だけをピックアップして整理したものが記されているので予め了されたい。        ”
(例)千葉県庁の所在地である千葉市の業者名が同載されてないが如くである。

各地区から大勢の組合員名

【日本橋地区】六十三名
岡野事二、村井友七、松田啓太郎、福井政吉、江川親松、村松合資会社、岩戸商店、山田東京山張所、鈴木銀次郎、清水商店、大島時計店、宮本庄七、高木新次郎、高木大次郎、松田亀七、田中栄次郎、横川直蔵、青山捨次郎、西村時計店、高木六三郎、金田市兵衛、高野周吉、館林恒太郎、大場菊次郎、山本時計店、秋谷時計店、久保田商店、関岡由兵衛、岩下清、清水鎗次郎、大沼時計店、古川時計店、小島時計店、中村時蔵、福田藤吉、佐藤利三郎、小林善兵衛、小林源次郎、池田忠兵衛、小沢金平、中島長太郎、守福蔵、玉屋時計店、久我伝三郎、別所平七、森川時計店、大沼定次郎、川合四郎作、森村時計店、吉岡伊三郎、辻九兵衛、山浦干伊、岸上由造、金子時計店、重田時計店、山本時計店、鳥海時計店、丸岡時計店、金鳳堂、三直時計店、村井時計店、小森時計店、深井時計店。

【浅草地区】四十六名
小林芳太郎、見沢万吉、小菅喜太郎、中田吉之助、岩崎宗吉、草深与五郎、
栗田房二、朝日商店、吉沢喜代蔵、稲垣繁次郎、坪田時計店、吉原時計店、入江時計店、
中川時計店、町田松五郎、中川時計店、佐々木時計店、佐野金太郎、明治堂時計店、井田  竜夫、和泉田祐太郎、田中義一、大隅時計店、渥美時計店、中川米吉、沢杉鐺次郎、永田時計店、鈴木時計店、沖田時計店、倉田時計店、寺島時計店、坂本時計店、棚橋時計店、新井時計店、伊勢本亀太郎、中村時計店、大松時計店、坂田時計店、小西時計店、河合時計店、進藤時計店、山田時計店、鈴木時計店、島岡春吉、茅野静吉。

【京橋地区】四十八名
石川米太郎、美術工芸品株式会社、服部金太郎、伊勢伊時計店、新井常七、長栄堂時計店、
三光堂本店、竹内治右衛門、秦猪之助、玉屋商店、清水惣太郎、京屋時計店、瑞穂商会、伊勢惣時計店、江沢金五郎、大西錦綾堂、槙野辰蔵、青木時計店、栗山藤吉、戸叶時計店、
佐久間時計店、宇都木時計店、浅井喜三郎、エ‐クラウス商会、野尻雄三、梅本文治郎、大塚時計店、金子直吉、吉川作太郎、小林伝次郎、平野峰三、高木時計店、和田時計店、小西光沢堂東京支店、川名時計店、江水時計店、上田時計店、遠山喜三郎、森川真次郎、鈴木セイ、小山時計店、奈須時計店、小浪時計、小泉時計店、伊藤時計店、石井時計店、森田時計店。

【下谷地区】三十一名
奥野福太郎、横田時計店、村松時計店、松本時計店、石栗時計店、手塚時計店、奥野佐吉、
松本時計店、吉田庄五郎、鈴木茂八、南条時計店、会田時計店、横井時計店、野村清太郎、
飯塚伊兵衛、小山時計店、岡部時計店、田中亀吉、水島利助、横田時計店、川井久吉、山内時計店、伊藤時計店、富山治郎、岸福太郎、三田時計店、大橋時計店、満岡時計店、長谷川時計店、橋本時計店、小林清五郎。

【深川地区】十三名
五十嵐房吉、楠山仁兵衛、高橋時計店、御正信友、小川時計店、上岡時計店、安西時計店、
杉田時計店、平沢時計店、茂野時計店、小林時計店、南雲時計店、高橋時計店。

【麹町地区】十三名
松山時計店、山本久太郎、玉井時計店、小林時計店、西山忠三郎、島田善孝、河野時計店、
小杉時計店、佐藤六太郎、小林時計店、鈴木時計店、岡野時計店、中江時計店。

【神田地区】三十一名
松本常次郎、足立次郎吉、伊藤佐太郎、金子時計店、吉川仙太郎、新島清、戸田時計店、
中山幸三郎、小川時計店、鈴木藤兵衛、松浦玉圃、早川時計店、井上時計店、伊勢藤時計店、京屋時計店、田畑鶴吉、中村金次郎、清水孝太郎、須田時計店、梅本文次郎、金光堂時計店、佐野竹次郎、鈴木卯吉、殿上時計店、滝野時計店、天賞堂支店、山崎孝之劭、平山時計店、神谷針之助、桜井時計店、長尾時計店、佐佐木時計店、小川時計店、元木時計店、福吉時計店、中田時計店、荒船時計店、菊岡時計店、八森時計店、大久保時計店、中村善吉、堀井時計店、井上時計店、谷藤時計店、宇都木時計店、高橋時計店。

【芝地区】三十一名
グロウス商会、雨宮時計店、長栄堂分店、岡本菊三郎、永井鉄次郎、吉村仙之助、寺内時計店、吉田時計店、井上時計店、村田時計店、水谷時計店、渡辺時計店、中村健太郎、小林時計店、村田与吉、遠藤兼吉、綱中啓次郎、酒本千代助、山本清七、高木時計店、吉川 時計店、木村時計店、吉野時計店、三五堂時計店、新井時計店、谷川時計店、中根時計店、清水時計店、竹本時計店、中川時計店、亀谷時計店。

【本所地区】二十名
宇田川清吉、谷口時計店、西沢時計店、前川寅次、亀田平次郎、中村房吉、精工合、斎藤時計店、中根時計店、福地時計店、中里時計店、山本時計店、尾崎時計店、宝玉堂時計店、
小峰時計店、関戸時計店、松田時計店、稲村時計店、野田時計店、伊藤時計店。

【本郷地区】二十三名
中山直正、竹内元次郎、伊藤幸作、大滝亀太郎、奥田時計店、小川八百蔵、小西富之助、笹間翁、河原時計店、牧野時計店、佐藤時計店中岡時計店、齊藤時計店、新島時計店、関屋時計店、楢谷時計店、澄川時計店、梶川時計店、黒巣時計店、大野時計店、大野時計店、
川崎時計店、松下時計店。

【小石川地区】十八名
中島春太郎、遠山時計店、伴市五郎、桜井時計店、岩井健蔵、高野時計店、宮原時計店、大沢時計店、野秋時計店、花沢時計店、賞栄堂、小西時計店、鈴木時計店、野呂瀬時計店、
中井時計店、竹田時計店、井上時計店。

【麻布地区】十五名
田島伊助、村松時計材料店、大野外茂男、野ロサト、須藤時計店、石川時計店、佐藤時計店、柴田時計店、三坂時計店、中谷時計店、高橋時計店、堀田支店、堀田本店、島田時計店。

【四谷地区】十三名
原田松次郎、中村積善、山田時計店、吉田屋時計店、田中時計店、原時計店、小山時計店、
岩上時計店、原達時計店、高野時計店、住田時計店、合原時計店、福田時計店。

【赤坂地区】十二名
中田米松、秋元吉次郎、松井定次郎、小林久次郎、横田時計店、千野時計店、伊藤時計店、
伊藤時計店、佐籐時計店、山田時計店、鈴木時計店、神田時計店。

【牛込地区】十七名
大川兵四郎、国可時計店、飯岡時計店、金子時計店、桜井鎌三郎、清水淳、小浜寅之充、丸山時計店、二六堂時計店、菊岡福次郎、藤田時計店、大塚時計店、本多時計店、米持時計店、佐藤時計店、白倉時計店、内山時計店。

【郡部地区】十九名
井上丑五郎、千葉豊、加藤正之、中村直一、木島安五郎、井田治平、中島万吉、細川健治、
樋口平莵、植村時計店、吉沢舂太郎、紺野九明治郎、藤武時計店、今井時計店、加藤寅之助、吉永時計店、小峰時計店、桑田時計店。

東京時計商工業組合の経過あらまし
物品交換会の中の有志によって、明治二十三年九月に創立されている

《明治二十三年》 日本において「時計商工業組合」を設立した最初は前述してある如く、明治十年に、横浜の居留地に出入していた時計商業人をして時計組合を作らしめたのがそもそもの始祖であることがわかった。東京時計商工業組合は、このころから毎月定期に開催されていた「開時会」なる物品交換会の中の有志連の推挙によって、明治二十三年九月に創立されている。初代組合の頭取は八官町の小林伝次郎氏で、同店支配人の川村義一氏が組合長の代理で一切の相談の役に立っていた。(川村氏在生中の話)
その後の二代目組合長は、新居氏に移り氏の歿後二代目に服部金太郎氏が選ばれている。(明治三十五年頃)爾後約二十年間にわたり服部頭取時代が続いたのだが、大正十二年の
関東大震災後は、実質上は副頭取の大勝堂主槙野辰蔵氏が一切の衝に当っていた。
私が大正十三年六月十日の時の祀念日の街頭宣伝のことで組合名を使用することで諒解を求めに伺った際も、この間の組合事情について、槙野さんが自身の口から話されていたことでも明らかである。
この頃の東京地区の組合の情況は、服部頭取を主体にして東京時計商工業組合は、日本橋や京橋の業者に神田の一部を含めた範囲の約百名そこそこの組合員であり、山の手八地区を含めて別途に設立していた「山の手八組合」(紺野九明治郎氏組合長)は四百名を突破する新興勢力の二分野に分れていたものである。
このような空気がのぞかれていた中で、大正十四年業界全般の希望と相反する立場になった関税問題で台頭した時期を機に、服部さんは組合役員を固辞された。だが然し、このあとも次代を負う新たな頭取も出しえずに引続いていた中に大正十二年の大震災が起き、その後の諸般処理上必要の場に迫られる度合の多くなるに従って各方面から大同団結の声が台頭しだしたということになっている。
そして、大正十四年遂に合同総会を東京・日比谷の松本楼で開催することになったのである。この間、組合最初の創立当時からは約三十年という期間を経過しているが、合同した時の名称は「東京時計商工業組合」と決められ、この時の初代組合長は神田の吉川仙太郎氏(旧市会議員)、副組合長に槙野辰蔵氏がそれぞれ就任している。
そのあと昭和二年の総会で、庶民の代表と呼ばれた銀座の平野蜜三氏が組合長に選ばれることになり、広瀬、荒木の副組合長を並べて三主脳陣を固めたが、この時すでに同業組合への昇格が目指されていた。
かくて、平野組合長時代に同業組合の正式認可を得てから氏は昭和五年の暮、押しつまって病に倒れ他界した。そのあとは野村菊次郎氏の組合長時代が出現して、戦争中の諸般に携わったというのが組合経緯の概要である。

大正年代に生れた時計工業の径路
昭和五年当時、時計の工場が続々と誕生した

《大正五年》 大正五年に「東京製作所」が生れて電気時計の製作を開始、大正七年に「隆工社」がマルテー置時計を発売、同年「尚工舎時計研究所」を設立、大正九年に吉田時計店が「東洋時計製作所」を興して置時計の製造を開始した。
大正十年、「雄工社」が掛時計の製造を開始、同年八月、「東京時計製造株式会社」が五十万円の資本金を投じ、目黒に本拠をおいて置時計の製造を開始した。大正十四年、鶴巻時計店が経する「英工社」が誕生、掛時計の製造を開始した。大正十五年、「村松時計製造所」が池袋に設立された。このように続出経路を辿った結果、昭和五年当時の時計工場黻は次のような状況を示した。 
懷中時計(二社)、電気時計(七社)、置時計(十九社)、掛時計(二十社)、部品製作工場(三十五社)この中、小物時計メーカー数は、昭和十五年当時は精工舎、シチズン、東洋時計、村松時計製造所の四社を算え、昭和四十年の現況はセイコー、シチズン、オリエント、リコーの四社であった。

東京時計商工業組合員数(明治四十年当時の記載順位のまま)
明治四十年当時 都内から北海道、樺太、台湾、韓国なども

【都内】
▽日本橋:六十三、▽浅草:四十六、▽京橋:四十八、▽下谷:三十一、▽深川:十三、▽麹町:十三、▽神田:三十一、▽芝:三十一、▽本所:二十、▽本郷:二十三、▽小石川:十八、▽麻布:十五、▽四谷:十三、▽赤坂:十二、▽牛込:十七、▽郡部(八王子以外):十九。
【京都府】
▽京都市:八十一、▽福知山町:八、▽舞鶴町:四、▽新舞鶴町:四、▽余部町:二、▽宮沢町:三、
【大阪市】
▽東区:百四十一、▽南区:百九、▽北区:六十二、▽堺市:十一、▽郡部:六。
【横浜市】
▽横浜市:七十五、▽横須賀市:十三、▽小田原市:十六、
【神戸市】
▽神戸市:五十三
【姫路市】
▽姫路市:十一、▽郡部:二十一
【長崎県】
▽長崎県:三十三、▽佐世保市:十一、▽郡部:十
「新潟県」
▽新潟市:十三、▽長岡市:十五、▽高田市:二十一、▽新発田市:七、▽柏崎市:十、▽ッ村松町:五、▽直江津町:ウオン、▽新井町:五、▽三条町:六、▽中条町:四、▽加茂町:四、▽五泉町:四、▽郡部:五十三
【埼玉県】
▽熊谷町:六、▽川越町:五、▽大宮町:四、▽郡部(伊勢崎含む):三 ▽郡部(入間川含む):二十一、
【千葉県】
▽佐原町:四、▽銚子町:五、▽古河町:五、▽北条町:四、▽郡部(茂原含む):四十八
【茨城県】
▽水戸市:八、▽土浦市:五、▽流山市:四、▽郡部:十九
【群馬県】
▽高崎市:十四、▽前橋市:八、▽桐生町:五、▽富岡町:三、館林町:四、
【栃木県】
▽宇都宮市:八、▽栃木町:六、▽足利町:四、▽佐野町:六、▽日光町:三、▽矢板町:五、▽他区:八
【奈良県】
▽奈良市:七、▽郡部:二十一
【三重県】
▽津市:十四、▽四日市市:十、▽山田市:十二、▽郡部:十九
【愛知県】
▽名古屋市:九十三、▽豊橋:十、岡崎市:八、▽西尾町:五、▽半田町:六、▽瀬戸町:五、▽他地方:七十五、▽非組合員:十六
【静岡県】
▽浜松町:八、▽掛川町:六、▽三島町:七、▽沼津町:六、▽藤枝町:三、▽小山町:三、▽江尻町:四、大宮町:四、▽中泉町:四、▽二俣町:三、▽笠井町:三、▽見附町:三、▽他:三十
【山梨県】
▽甲府市:十五、▽郡部:七
【滋賀県】
▽大津市:十、▽彦根市:五、▽八日市町:四、▽八幡町:三、▽他:十七
【岐阜県】
▽岐阜市:十六、大垣町:十三、岩村町:四、▽中津町:四、▽高山町:五、▽その他:五十八
【長野県】 
▽長岡市:十、▽松本市:十二、▽飯田町:四、▽上田町:五、▽小諸町:四、▽稲荷山町:四、▽中野町:五、▽上諏訪町:六、▽他郡部:四十三
【宮城県】
▽仙台市:二十六、▽白石町:五、▽他:十九
【福島県】
▽福島市:九、▽若松市:八、▽郡山町:九、▽須賀川町:七、▽三春町:四、▽他地方:三十七
【岩手県】
▽盛岡市:五、▽一関町:四、▽釜石町:四、▽他地方:十三
【青森県】
▽青森市:六、▽弘前市:十サン、▽八戸町:四、▽他地方:八
【山形県】
▽山形市:十二、▽半沢市:八、▽鶴岡町:十、▽新庄町:五、▽他地方:二十三
【秋田県】
▽秋田市:十四、▽大鶴町:五、▽湯沢町:四、▽酒田町:三、▽能代港:六、▽横手町:五▽本荘町:三、▽他郡部:十三
【福井県】
▽福井市:十九、▽敦賀町:四、
▽武生町:四、▽鯖江町:五、▽他地方:十三
【石川県】
▽金沢市:三十七、▽小松町:五、▽他地方:十四
【富山県】
▽富山市:十一、▽高岡市:七、▽放生津町:五、▽他地方:二十
【鳥取県】
▽鳥取市:十七、▽倉吉町:七、▽米子町:七、▽他地方:六
【鳥取県】
▽松江市:六、▽他郡部:十三
【岡山県】
▽岡山市:二十四、▽郡部:三十五
【広島県】
▽広島市:四十、▽呉市:五、▽尾道市:十、▽福山市:七、▽他郡部:十九
【山口県】
▽下関市:十四、▽山口市:八、▽柳井町:五、▽他地方:二十
【和歌山県】
▽和歌山市:十八、▽郡部:六
【徳島県】
▽徳島市:十四、▽郡部:十五
【愛媛県】
▽松山市:十サン、▽新居浜町:五、▽他地方:九
【香川県】
▽高松市:九、▽丸亀市:十、▽善通寺町:八、▽他地方:六
【高知県】
▽高知市:十六、▽他地方:十
【福岡県】
▽福岡市:二十二、▽小倉市:八、▽久留米市:十一、▽門司市:十一、▽八幡町:六、▽直方待ち:七、▽若松町:四、▽飯塚町:六、▽大牟田町:七、▽柳川町:四、▽他地方:三十三
【大分県】
▽大分市:十一、
【佐賀県】
▽佐賀市:四、▽郡部:七、
【熊本県】
▽熊本市:三十六、▽郡部:二
【宮崎県】
▽宮崎市:四、
【鹿児島県】
▽鹿児島市:二十一、▽郡部:十二
【沖縄】
▽沖縄:五
【北海道】
▽函館区:二十八、▽小樽区:十三、▽札幌区:八、▽旭川町:六、▽根室港:五、▽他地方:四十三、
【樺太】
▽:樺太:四
【台湾】
▽台北町:七、▽台南町:六、▽其隆庁:六、▽他地方:四
【韓国】
▽京城:二十二、▽釜山港:十二、▽仁川港:十二、▽平譲:五、▽他:二十七
【清国】
▽大連市:八、▽天津・上海・安東等:三十
#但し、本文中の末尾にこの調査中に営業が取り消された店が十二軒ありと記す。

明治時代の全国の時計業者の分布状況(明治四十年当時)
業者数約三千四十四人、この他発展途上の未開発地区の数は入れてない
                
《明治四十一年》 明治四十一年十一月十日付で名古屋市東区呉服町三十七番戸、「名古屋時計商報社」の発行した印行「全国時計商工全書」は、この当時の全日本国領地域内に存在した時計業者の現況を実測により表したものである。
業者数約三千四十四人に及んでいるが、この他にも発展途上の未開発地区(時計店存在の実在数を指す)などのものを取り入れていないので、これらは概数で二百余件に及ぶものと想定される。
以下表示の時計組合貝数は何れもその地に時計組合が存在し、しかも現実に組合の本旨則り平和的に運行している地区の部分だけをピックアッブして整理された意味が記されているので予め了されたい。
(例)千葉県庁の所在地である千葉市の業者名が記載されていない如くである。

次に精工舎が辿った生産状況とは。
腕時計の生産年別概況昭和

昭和二十年度。再出発、昭和二十五年度:四十五万個、昭和三十年度:百二十八万個、昭和三十五年度:三百六十九万個、昭和三十七年度:五百七十万個、昭和三十九年度:七百四十四万三千個。

クロックの生産年別概況

昭和二十一年度:十二万個、昭和二十五年度:八十九万個、昭和三十年度:百七十七万個、昭和三十五年度:二百七十五万個、昭和三十七年度:二百八十一万個、昭和三十九年度:四百四万二千個。

昭和十二年、江東区亀戸に第二精工舎出来る
時計の需要が高まり、生産体制の充実を図るため

《昭和十二年》 このように各種時計製品の進歩と進捗により、工場範囲が手狭となった事から昭和十二年には、携帯時計の製作部門を東京・江東区亀戸町に移転し、株式会社第二精工舎として分離、太平町工場では掛置き時計類、写真機用シャッターの製造を行う専門工場とした。
然して昭和二十年三月の戦災禍により、同社工場設備の約三割を燒失するに至ったが、同年八月終戦のため一時工場を閉鎖、残存施設によって操業は続けていた。
戦後は、昭和二十年十二月、事業再開に着手するや、同二十一年一月に操業を開始、同年四月にはコロナ目覚まし時計、六月には八インチ振掛時計、七月にスリゲル掛時計と写真機用シヤッター、八月には毎日巻き時計を製造して、同年末には月産二万八千個を数える盛業を見るに至っている。
そして昭和二十一年四月に、戦後始めてシンガボールヘ目覚まし時計の三千六百個を輸出したのを始め、海外からの急激な注文増に備える生産体制と共に国内需要面にも供給増加方針を立てていった。そのためか昭和二十三年には従来のコロナを改良したニューコロナ及小型目覚まし時計コメット、八日巻掛時計等を製造、引続き新意匠による製品多種品目の市場供給を行なったのである。
然して昭和二十六年二月には、従米のスリゲル掛時計機械の構造を改めて打方に、自動調整装置を施した本打式掛時計の生産を開始するに到った等、その改良と技術上の進歩のあとは文字通り目まぐるしいばかりである。
如上のように、精工舎の時計類の生産体制は、亀戸の第二精工舎を主軸として、上諏訪精工舎、鎌ヶ谷精工舎等つぎつぎにその生産の場を増しつつあり、加えてこれに伴う技術上の改善結果は、遂に昭和三十九年十月、東京において開催されたオリンピック東京大会の場で、これまでその競技川に使用されていたスイスのオメガ時計に代ってセイコー製の計時用時計が活用されたこのことは日本の精工舎から出るセイコー時計が世界の時計としての覇罹を把握したことになり、世代を飾る輝やかしい事蹟である。

精工舎の偉業
明治二十八年、中華民国へ掛時計を輸送したのが輪出の始まり

《明治二十五年》 日本の時計工業の今日の礎石を築いた服部時計店の工場である精工舎の設立者の故服部金太郎翁の業蹟は、今にしてなおかくかくたるものがあり驚嘆する。
服部金太郎翁が成したその間の歴史を紐解けば、株式会社服部時計店は、故服部金太郎翁が明治十四年以来、個人で経営して来ていた事業の一切を承け継いで、大正六年株式会社に改めたもので、精工舎は同社の時計を作る工場として存在している。
精工舎は、明治二十五年五月に設立、東京市本所区石原町に仮工場を設けて始めて掛時計の製造に着手、吉川鶴彦氏を工場長に招聘して、十五、六名の従業員で発足した。同年、掛時計の製造を完成したのに力を得たので動力用機関を設置すべく、監督官庁に許可届けを出したが人数の関係で不許可となり、明治二十七年、現在の本所区石原町(旧柳島町)に移転、七馬力の蒸気動力を使用して操業を続けた。
かくて明治二十八年、中華民国へ掛時計を輸送したのが輪出の嚆矢となっている。明治二十九年に二十二型シリン式懐中時計の製造に着手完成してから、明治三十二、三年に服部金太郎氏は欧米視察に就いた。
帰国後、工場の設備を一新して、ニッケル製目覚し時計類の製造を開始、明治三十五年に角型提げ時計と置き時計の製造を開始、続いて金属製枠つき置き時計の製造を進めた結果、明治三十二年頃から旺盛を極めていた舶来掛時計の駆遂に役立った。明治三十五年九月には、十四サイズ、メリケン式懐中時計を完成、続いて十ニサイズ提時計の制作も進め、「エキセレント」の名称で、明冶四十年以来、帝国大学の卒業生に恩賜時計として授与された光栄の品であり、有名を高めた。
明治三十七年の日露戦争の際は、軍需品の製作に努め、明治三十九年服部金太郎社長は、吉川技師と吉邨支配人を伴って、欧米の著名な工場の視察を行った。帰国してからは、工場内の施設の改善を行い、新型流行品十六型懐中時計の製作に着手、明治四十二年に完成させている。
これを「エンパイヤ」と称し、優秀品として面目を施した。
その後、明冷四十三年に座敷時計、大正三年には十二型女持懐中時計を製作したが、その頃第一次欧州大戦が勃発するに及んでドイツ国からの時計の拒絶をチャンスに東洋諸国はいうに及ばず、豪州、印度、南米、南ア、欧州諸国に向って大量輪出を敢行したのである。
かくして工場内設備の完備と相まって生産高は更に増し、生産品の種類でも、時計に加えて蓄音機、扇風機などの製品の製造にかかわった。
ところがたまたま大正十二年九月一日、関東大震災に遭遇したので工場の総ては灰燼に帰したが、直ちに復旧に着手し、翌十三年三月には、掛時計の製造を開始、同八月には目覚し時計を、続いて各種時計類の製造を開始することになり、早くも災害後二年にして旧態に復するというスピード的努力の結果が示された。
さらに業績は進捗、そのあと続いて、丸型、十型、八型等の腕時計に、十七型懐中時計に合せて、昭和七年に到って最小型の五型腕時計を完成するに到った等のコースである。



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