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有名なルーヴル宮殿が現在は博物館となっている
ミロのヴィーナスやダ・ヴィンチのモナリザ等が飾られており有名

《昭和三十八年Q》 セーヌ川に面したコンコルド広場は世界でも有名である。大体パリという街は、このセーヌ川を中心に総てが形作られているようである。
「アントワネットがギロチンの刑に処されたのはここです」とバスガイドの説明が続く。
それから、ルーブル宮殿に到る間をセーヌ河に沿ってつないでいるテュイルリー庭園として知られ、自然美を見せているのには恍惚たる感じがする。
有名なルーヴル宮殿は、今は博物館となっており、ミロのヴィーナスやダ・ヴィンチのモナリザ等が飾られており有名だ。ここの観覧者は、世界中からの観光客が集まってくるので頗る賑わっている。だから我等の一行について説明してくれたガイドは、日本人だった。このガイドはその仲間の中でもパリでは有名人の一人に数えられているらしく、混雑している人ごみの中を優雅に歩きまわる機敏な行動に感服した。
従ってパリに関する逸話や日本人の所在や行動にいろいろ雑多な話などしてくれたので助かった。パリにあこがれでやって来た日本人で埋もれている人の数は、何百にも及んでいるように聞かされた。次いでヴァンドーム広場、オペラ劇場、シャイヨー宮殿、サクレー・クール寺院、ヴォージュ広場を車窓より眺めてセーヌ川左岸にある有名なエッフェル塔を眺望することにしてここで休憩した。写真は凱旋門。

ナイトクラブ「リド」に遊ぶ一行
パリの夜を楽しむための観光コース

《昭和三十八年R》 このエッフェル塔は、世界一の名物であったが日本の東京・芝
に誕生したテレビ塔の方がやや高くなっている。エッフェル塔は、午前十時から五時半までの展望が許されている。だが我等一行のバスは、時間外になっており、外観から眺望するのにとどめた。
次いでソルボンヌ大学、学生街のラテン地区にあるユネスコ本部で説明を聞いた後、モンパルナスの丘で少憩してみた。ここは芸術家達の集まる場所だそうだ。
その日の夕食の後は、パリの夜を楽しむための観光コースがとられてあった。八時、十
時、十二時の三回に分けて入場できるようになっていたナイトクラブ「リド」を中心に組まれたコースである。「リド」の前に見たのは「ムーランルージュ」というところだと思う。凄く豪華な設備の中で、軽やかに踊るダンサーと共に運ぶ足の動きに思わず身をちぢめるような感じを持った。
それから「リド」に移ったのだが、カメラ撮影は一切禁物ということでカメラを預けられた。場内にはシルクハットに身を正したパリッ子のダブル組もいて、そこへ我等の団体がドヤドヤと入り込んできたのだから、何だか悪いような気がして少しひけ目を感じた。それでも次ぎ次ぎに展開するショーの妙技に思わず興奮してしまったのである。
ショーを見ながら大きな声を上げてみんなが楽しんだ。ホテルに帰ったのは確か一時半頃だと思った。
それから乗客をホテル順に送り届けてくれるのだから、この時間がザット四、五十分ちかくかったような気がする。でもパリではこんな時間でも十分遊んでくれる相手があるのである。
パリでの日本料理店は「たから」「きょうと」「やまと」の三軒があった。私等は「たから」と「きょうと」の二軒で久しぶりに日本食を味わって見た。とうふとおしたしがうまかった。日本酒は甘ったるく感じるようになっていたので余り飲まなかった。然し、この日本料理店をさまよう頃は、地下鉄を利用してパリの雰囲気を知るように努めようというコースをとることにしたのであった。ただ異国という感じを強くしたのは、若い人たちが、所も場所もわきまえずに行うキッスのことである。地下鉄に乗った若い男女が臆面もなく、チュッチと音を立てて堂々とキスをしているのは、さすがに顔負けの体。
それはパリに住んでいるその土地の人達も、この時だけは顔をそむけているのだから、神ならぬ身は皆同じであるように感じた。エッフェル塔を背に少憩中の筆者。

ユンハンスやキンツレの両工場がある西独のスツットガルトヘ
今までとは異なるというような田舎の高級クラブ

《昭和三十八年S》 九月三十日、身体を柔軟に動かして味わってみたパリをあとにして、オランダ航空機で西独のストックガルトに赴いた。パリからはこのストックガルト
を選ばずに貴金属製品の本拠地ともいわれているフランクフルトに回った人達もあった。
貴金属製品の本場というところに何か新しいものを見つけてみたいという気持ちで、訪ねてみた。私もフランクフルトとは思ったが、三分の二はストックガルト行きとなっていたので、団長である立場からは本隊への同行ということになったのである。
ここのホテルは、駅の中にある「REICHSBAHN」というハウスホテルに落ち着くとその付近を回って見たが、特別取りあげるところもなかった。
クロックのユンハンスやキンツレの両工場が西独領のシュワニングンというところに
あり、そこへ見学コースをとるための紹介状を持っていたので、その方面の手順を先ず整えた。でもその晩は、十一時三十分から開けるというナイトクラブに潜り込んでみた。
とても素敵な美人ホステスがいたが英語しか通じないので、他の店に入った。
ベルリンとは違い、またパリとも違った感じの店で、今までとは異なるというような田舎の高級クラブといった感じの店だった。
このストックガルトで始めて路上から「ジャパン」とドイツの人から声がかけられた。然し道路上であり、且つ相手が洒に酔っていた時の掛声だったから、こっちから避けようという行動を取った。彼等は三人位であり、一応は元気にあとを追っていたように見受けられた。
翌日のキンツレ、ユーハンス工場の見学には、通訳としてアルバイトの男の子を雇ったのである。大学生だといっていたが、ビールが大の好物だといっていた。二百キロにも到る里程だったからユーハンスの工場を訪ねたあと路傍にあった「トラーベル」というレストランに入って食事をとった。その時、彼はビールを三杯も飲んだ。食堂の老婦人(ホステス)が差出してくれたポップスが甘かったので、これは美味しいと賞美したところとても喜んだものと見えて、更に山盛りになるほど置いていってくれたのには気をよくした。
相手の老婦人も気をよくしたからであろうが、ドイツのこの辺りはそうした気風があるのだと、この時の紳士が笑いながら説明してくれた。
ユーハンスの工場では、陳列品を見せてくれただけで工場には案内してくれなかった。キンツレの工場では、重役三人が出て懇切に応待してくれた。ただここでも工場の内部は見せずに、出来上った製品を陳列してあるところを見せたただけ。そのあと、コレクションの飾ってある博物館を特別に開放してくれた。キンツレ社で会談した時の内容は、時計市場についていろいろ話し合ったが、ドイツ国内の特長は、ドイツの時計小売店は、ドイツで生産される時計は優先的に販売するという申し合わせが出来ており、実行している点を説明してくれた。ジャーマン式愛国心というのであろう。
それから日本のセイコーとキンツレの関係に及んだので、セイコーの腕時計はこのように進化していると私の腕に着けていたセイコーファイブの腕時計を外して見せた。勿論服部時計店とキンツレ社の特約関係があることを説明した。私の見た眼では、ドイツの置き時計の将来性については、特に悲観的な考慮を払っていたように感じられたのである。ここにはマウテ時計の工場もある。もともと同一系のメーカー筋であると説明してくれた。写真は、スツッガルド駅で記者を待つ一行。

十月二日の朝、国際列車でチューリッヒに
駅前にはラドー、エニカなどの時計の広告塔が先ず眼に映った

《昭和三十八年㉑》 十月二日午前八時三十分、スツットガルト駅発の国際列車でいよいよスイスのチューリッヒに赴くことにした。それは飛行機の都合で出発が夜になるということだったので、それではヨーロッパにおける汽車の旅も味わってみてはどうかということで、急遽飛行機プランを汽車のプランに変更することにしたのである。
だから汽車の乗車賃は、各自別に負担しなければならないことになったのである。このようなことは、今回の旅行社の誠意のなさすぎであると感じた。
国際列車は、ハンブルグ始発の列車であるが予定時間にはなかなか到着しない。凡そ五十分も遅れて到着した。聞いてみると、ヨーロッパでは何処でも何日でも、予定通りの時間に汽車が着くなどということはないのだそうである。それが通例であるのだと聞いて驚いた次第だ。
やがて列車は、汽笛を鳴らして出発した。車内は日本の寝台車のような格好をしていて八人乗りになっている。中央に紐長いテーブルがあって、読書などの便に供するようになっている。バックの棚上には手荷物など保管される場所に当てられていて、ドアーの外に廊下があって車掌はこのドアーを開けて応対するのである。
我等一行の乗った汽車がスツットガルト駅を出てから車掌が検札にやって来た。ただ鉄を入れるだけ、そしてドイツ領とスイス領の境界点に来た時、また別の車掌がやって来た。ここいらが国際列車らしい感覚が湧いたという次第。汽車の速度は、そう大して早くはない。日本の列車の方がはるかに進歩しているような感じが持てた。
この列車の箱に一緒に並んで乗り合わせた二十二歳位のドイツの青年と会話したのであるが、何としても言葉上の解釈がつかない、そのままチューリッヒに着いてしまった。
飛行機で飛んで行ったときは、荷物のことなど別に心配したこともなかったのだが、汽車ともなれば荷物は各目それぞれが各自で持ち歩かなければならないことになるので新しい困難が湧いた。
ともあれチューリッヒの駅前の光景を眺めるとラドー、エニカなどの時計の広告塔が先ず眼に映った。やっぱり時計の生産地だという感じがしてきたのである。
ここのホテルは「ワルドフ」という名称で、ひと先ず落ち着いてから市内の目抜き通りを散策して歩いた。やっぱり時計生産の本拠地であるというような感じが持てた。
テクノス工場を訪問、輸入元の高木克二社長が出迎えてくれた。写真は、チュウリツのマイスター商会の女性セールスマンと右は有名になっている日本人女性。

平和堂貿易の高木克二社長と小野常務が出迎えてくれた
日本で行っているテクノスの広告と全く同じ写真が

《昭和三十八年㉒》 このチューリッヒには、オメガ、チソットの発売元であるシーべル・ヘグナー社の本社があり、また市中のメイーツストリートに所在するマイスターというショップのウインドーには、オメガとその一連の商品以外は並べてない。いうなれば自画自賛店舗である。俗にいう、オメガポリシーに属する専門店というのである。その他の時計宝飾店のウインドーもそれぞれ時計国らしい並べ方が見られるといった感じだった。
ここでのウインドーは、日本の近代性を持つ店舗のウインドーなどにも似合うのではないかと思いながら観察して回ったのである。このマイスター商会には日本女性がいて、日本人のお客相手には相互に便利になっているので名高い。
我等一行が食事をしている時、シーべル・ヘグナー社から二入の社員が私を訪ねて来てくれた。そして明日に迫るビエンヌのオメガ時計工場見学のための案内役にやって来たという挨拶であった。従って、明日三日は、ジュネーブ行というプランになっていたので、オメガ工場見学の同行者はバスでビエンヌ行というコースをとることにした。従って翌日は朝早くチューリッヒのホテルを出発し、バスによる時計工場回りということになったのであるから、早く起床して準備を整えた。
コースの順序で途中先ずテクノス工場を訪問した。同社で出迎えてくれたのが重役の外に平和堂貿易の高木克二社長と小野常務にマックス、プリゲルの現地人二人か車を持って迎えにやって来てくれたのである。高木克二社長は、米国経由でスイスに回り、我等が一行と落ち会う方法を予め取ってくれたのであり、その厚意には感謝した。
テクノス時計会社では、沢山の従業員に迎えられたあと、階上の会議室で我等TBS視察団に対する歓迎の式典が催された。
社長代理の重役から丁重な歓迎の挨拶があり、これに対し藤井勇二団長から感謝の辞が述べられた。かくして交歓が終わった後、工場内の操業状態を見て回ったのであるが、眼に映ったのは百個を単位にして、同時同種の調整方式をとっているアッセンブル方式というのであり注目された。
スイスでは、さすが最新式の方法を採っているという感覚が第一に我等の頭脳を交叉したのである。それよりもなお我等の頭に強く響いたのは、テクノス時計会社の全景が日本の輸入元などでPRの場で使う写真のそれと、その前景が少しも異っていないというところに感服した次第である。
誇大さや誇張性がないという真実を裏付けるためには、この点を取上げただけで十分だと考えた次第である。
次には、あの有名を謡われているエニカ時計会社を訪れた。生憎ラシーン社長は豪州方面に旅立たれたあとだとあって、代理の重役が応対してくれた。エニカ時計会社としては、世界にも稀と思われる程の豪華に出来ている貴賓室の間で、エニカの出来るまでという八ミリ映画の披露に預かった。そして工場内の組立の一部を見学してからいよいよこの日のメーンコースであるビエンヌのオメガ工場見学という段階に移ることになったのである。オメガ社はビエンヌ市の中央部に位置しており、ここの屋上から市中を展望すると四方に市街状況が展開するという美観を持っている。写真は、オメガ会社を訪問した時のスナップ。

立派なオメガ時計工場を見学した
オメガ、チソットの発売元であるシーべル・ヘグナー社を訪れた

《昭和三十八年㉓》 オメガ工場では会議室においてJ.PHOTTER重役から我等一行の視察団に対する歓迎の挨拶があった後、工場案内係に引率されて一階から六階に到る各階を工程順に従って見て回ったのである。
時計工場の見学では、精工舎、シチズン、オリエント、リコー等国内時計工場の状況を見学しているだけに、オメガ工場の設備のいかんはこの眼で見ただけでも十分に知り尽しうるものである。だがオメガ工場を見て新しい味わいを感じたのは、メッキ方法とその設備、更にオメガ時計を水圧テストにより合格品の検査を厳重にしている点などの特長が公開され、眼前に於て展開されていた点が強く感受されたのである。
見学は午後二時から六時すぎた頃までの四時間半以上にも及び、然も廊下が大理石を敷き詰めた高級なものであるだけにとてもくたびれた。そしてまた、この後に待っているFH本部での会談の予定もあるので急いでオメガ社を辞去したいとの気持で少しあせっていた。ところがこの時オメガ社では、ミスター藤井に関する限り、今日は時間をかまわず待っている事になっているから心配はいらないという説明をしてくれたので先ずはホッとした次第。
外国における場の時間という問題には、特に気をもんでいた私にとって、この時の言葉が何ものにもまさる慰めとなったのはいうまでもない。
FHというのはスイスの時計製造業者連盟という意味の団体の略称である。このFH本部に対しては、予め日本の出先機関を通じて連絡してあったので、これに基いてこの日の会談プランが作られていたのである。
会談の要旨は、スイスの時計が世界的に進出している中で、日本市場に対する方法と合せて、今後の処置について要望してみたいという意図から会見を求めたものである。
FH本部のこの日の会談の場に参加したのは、団長の私の外には、日本堂の佐川専務(社長令息)、黒田時計店社長、北岡茂美三共社々長、平和堂貿易の高木克二社長、同小野常務など、FH側からは極東本部長のレトナル氏以下各班の重役陣十余名が列席した。
席上には、日瑞両国の国旗を立てて歓迎の意をつくしてくれた。そして会談が進められたその時の要点を要約すると、その頃は電池時計の出現に特に期待をもち、且つ注目されていた時代であったので、先ず@時計の進歩性についての見込、A腕時計についての電化傾向とその実現に対する可能性、Bスイスの生産現況と将来性、C日本時計市場に対するスイス時計としての観察と具体的方法、などの諸点について意見を交換したのであったが、この中でスイス時計の生産状況は、年四、五百万個に及んでいる点から
悲観的な材料など持っていない。
ニレクトロニックスの研究・開発にはより努力を続けている等、慎重に検討が行なわれている内容を明示された。その後の締めくくりとして、時計の世界的品評会を開催したいと提唱して会談を終えた。この点には積極的な意思表示は見られなかった。かくて、この日の会談は午後八時頃から始めて十二時を過ぎていた頃まで及んでいたのだから頗る長時間を要した訳でその場の厚遇に特別感謝して辞去した。そのあと私たちが泊る
ことになっているホテルエリットのレストランに移して、こんごはオメガ時計会社招待の晩餐会がここで引続いて開催されて大いに歓待を受けた。
それからブランデーなど飲みながら、どうだオメガの日本における将来性について等の質問を受け、大いに歓待されたものだ。 時に二時四十分を過ぎていたにもかかわらず階上のルームに戻った所、部屋には依然約束していたオメガ会社に会社に特派されていた日本人技術者ら二人が待っていてくれたのには深く感激した。
写真は、FH本部代表で極東本部長のレトナル氏と藤井勇二団長を中心にした会談のスナップ(三十八年九月二十八日ビエンヌ市で)

超スピードの時計会社めぐり
モバード、ナルダン、ドクサ、チソット、シーマ、ゼニット、モンディアなど

《昭和三十八年㉔》 私が生存して以来、最大に努力した日であった。前日の疲労も一夜の熟睡によって翌朝七時半には起床することが出来た。手早に身支度をして八時にはホテルを出発した。そして時計の街ロックルとラーショード・ホン地方を順次訪問するプランが出来ていたのである。従って、あと一日位はこの地域に滞在を続けたい気持であった。
ー行の半数は、既にジュネーブに先行しているのを思うと団長という立場上では、万止りを得ないことになって終っこのである。従ってこの日のプランは、何もかも超スピーディにやり遂げなければならないことになっていたのである。
大型セダンの自動車に乗り平均時速百キロ以上で突走った。最初は、ラーショード・ホンの近くにあるロンジン時計会社を訪問した。ロンジン社の役員は、目下工場を直しており、それにオメガ工場を見た後では見学の要もあるまい、とハッキリ意表されたので階上のルームで挨拶したあと記念撮影をしただけで辞去した。
少しおかしな話だとは思っていたが、先を急ぐ必要のあった時だけに、先方の意のまま
引あげたのだ。スイスの時計会社は、オメガ以外は、こんな気持でいるのだろうと心の中で描いてみる気になった次第である。
その後、またも車はフルスピードですっ飛したのである。スイスは、時計と共に酪農の国でもあるので、道幅いっぱいに牛の群が列をなしてやってくるのには驚きの眼をもって見守ったのである。頸の下に大きな鈴をぶら下げているのだから、その鈴がじゃらじゃらんと鳴らしながら歩いて行くその光景は、正に農村らしいのどかな風景でもある。だから午が通っている間は、自動車は片すみに寄り添いながら静かにその通過を待って
いるという光景である。それらは酪農スイスのエピソード。
やがて自動車は、時計の街ロックルにやって来た。道路が少し高台になっているので、その上から見下ろしたロックルの街は、時計会社が軒並みに詰め切っているという感じである。
ここにはモバードはじめ、ナルダン、ドクサ、チソット、シーマ、ゼニット、モンディアなど、その他沢山の時計会社があり、インカブロックなどは街の中央にデンと大きなPR標が突き出してある。
時計材料店で古いのれんの国際商店があり、ここが松田商会の出張所になっているという話をハンドルマンのマックス氏から聞かされたのだが、この話は私自身も昔から聞いていたのでうなずくことが出来た。それから街中を一回りしてからモバード時計会社を訪問することにした。写真は、モバード時計を訪れた記事が新聞に掲載された。

平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問
各自に腕時計を一個づつお土産としてプレゼントされた

《昭和三十八年㉕》 モバード時計会社には、時々日本にやって来たことのある顔見知りのアルマンド・デデシャムという人がいて、心よく一行を迎え入れてくれた。食事をしていってくれと懇願されたが、一時間以上待たなければならないために、止む無く挨拶だけで辞去した。
その次には、平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問した。この会社では、私達一行を迎えるための歓迎の用意が整っていて、同社の社長始め一族が顔を揃えて迎えてくれた。日本とスイスの国旗を交差して記念写真を撮影、シャンパンやブランディで歓談、友好を深めた。帰りのお土産として、各自に腕時計を一個づつ提供してもらった光栄に浴した。
その次は、管理関係が完備している時計の工場内の設備と組み立て方式の見学をして、次のロックル時計博物館の見学に入った。この博物館は、昔ドクサ時計会社の社長が個人的に所有していたものを寄贈してロックル博物館ということにしたのだという当時の話を、案内してくれた係の人の説明によって分ったのである。
この博物館に陳列されてあるコレクション(古い時代の時計)を見てみると、時計の発祥時代のものは、日本のものとも案外変るところがないものだという感じがした。写真は、モンディア時計会社で組立作業を見学する一行。

我等一行はスイス北端のブレビンへと急いだ
ピアジェ時計の真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業を見た

《昭和三十八年㉖》 ブレビンというところは、スイスの北端という場所にあり、とても寒さに厳しいところだと聞かされていた。現地に入ったら、なるほど本当に寒いとうなずくことが出来た。
一行の車は正午過ぎに着いた。ホテル「デュビール」で中食をとっていた時、隣の室では、シーマ時計の社長さんが食事しているところだと聞いた。それほどさようにこの町は、時計関係者がかなり多いときいた。
ブレビンは、海面千六百メートルの高台にある。寒さ対策としてブランディで寒さをしのいだ。
ここのホテルに迎えにやって来てくれたピアジェ時計会社の社長の自動車は素晴らしかった。丁度テレビの漫画で見るような二百七十キロの超スピードが出せるカッコいい車だった。日本の車なんか問題にならなかったほどかっこよかった。
その超スピードぶりをわれら一行の眼の前で見せてくれたのである。
更に四、五十分もしてからスイスのシベリヤと称するブレビッのピアジェ時計会社に着いた。ここの工場は、そう大きくないが工程としては、真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業が行なわれており、堂々とした時計工場組織である。そして出来上る製品は、超高級品の部類の時計である。
ピアジェ時計会社の製品をよく見ると時計というよりは、宝飾品と言った方がピッタとくるような気がするのである。
工場内の各部を回ってから、この会社の社歴について説明を聞いた。ピアジェの現社長は創業して六代目に当り、ここに勤めている従業員は、親代々がここの工場に勤めているそうだ。スイスというお国柄がよく表れているような気がした。
このピアジェ時計の作り方を見ても、その一面が知られるように、高級時計のつくり方は、統一性をもった作り方ではなく、個々の美点を生かした特長がある製品が大きな魅力となって作られるのが特長である。それら個々の製品が力となって伸びていってもいいのではないかと考えた位である。
このピアジェ工場を見学して辞去したのは夕刻の六時をすぎていたから、表は既に夕暮れになっていた。それからは、我等一行が待つジュネーブ入りを敢行することになったのである。
従って車は、百六十キロのハイスピードで疾走し、午後の九時すぎた頃には三百五十キロにも及ぶスイス縦断疾走を行って目的地のジュネーブに到着した。写真は、ジュネーブのセネバ湖畔で筆者。

湖の都、ジュネーブを見物
折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学

《昭和三十八年㉗》 ジュネーブに着いたのは、午後の九時を過ぎていた。早速、中華料理店で腹ごしらえをして、ホテル「アングレター」に入った。ジュネーブでは、ユニバーサルとロレックスなどの時計会社の見学を予定していたのであったが、翌日の五日は生憎と土曜日とあって、スイスでは土、日曜日の二日間は休日になっている。そのためここでの時計工場の見学は中止となった。その代わりに折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学することにした。
ユニバーサル時計会社のシェーラー社長とは、電話で連絡をとり、常設会場の宝飾品フェアで会見することにした。翌朝の食事をしたあと、この会場に集まったのである。ところがユニバーサル社のシェーラー社長が約束の時間より少しおくれたので、この間会場内でカメラ撮影をしたことから係の人達とトラブルを起した頃、シェーラー社長がやって来たのでことなく済んだ。ユニバーサルのシェーラー社長と会談した際に、スイスという国は仕事の面では案外のんびりしているものだという印象を持った。
かくしてこのあとジュネーブの各方面を散策して、湖畔の静かな姿にひたるなどして快適に過ごしたあとは、いよいよこれからあとのコースは、工場見学がなくなったので観光本位ということになった次第である。
ジュネーブは五日夕刻に出発、八時頃空港を飛立ったのだが、この空港で買ったブランディのナポレオンが一本七ドル九〇セントであったのだから、ヨーロッパの中では一番安かったことになる。(パリでは九ドル)。写真は、ベニスの海上交通機関。



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