※写真をクリックで拡大します。
Home

物品税撤廃や養殖真珠業界を救済するための融資運動など
当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、大きく業界に貢献した

《昭和二十三年》 私は、その時三木君を虎ノ門脇にある国民協同党本部を訪ねて、何回も懇談を重ねた。三木君から国策について意見を聞かれた私は「敗戦した日本の社会は、資本主義でもなければ社会主義でもない。上下、左右にとらわれない為の方策といえば、“協同経済方式”を取らねばならない事になろうから、この点を考慮して新しい日本の国作りを考えるべきではなかろうか」と一つのポイントを提示した。
果せるかな、芦田内閣が生まれた時の経済的国策は、協同経済主義の下に協同組合方式を奉持する旨を明言した。以後、日本の組合性格は現状のごとく、協同組合時代が続いているのである。
その時の芦田内閣は、“昭和電工疑獄事件”のため昭和二十三年七月に総辞職した。この時にも、三木武夫君を通してこの業界の為になった事が様々ある。その一つは時計・宝飾業界あげて推進を図っていた「物品税問題」に対する陳情運動の場である。当時、全国時計宝飾眼鏡商連盟の佐川久一会長を伴って当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、いろいろな工作を図ったことがある。
更には、日本の養殖真珠業界を救済するための融資運動の陳情についても今は故人となった三輪豊照社長や真珠界の大御所的存在の高島吉郎氏らと共に三木武夫氏を通じて、業界に大きな貢献をしたことを思い出す。このように裏面工作をした思い出が沢山あるが、私的な関係を利して業界の諸事にわたって貢献しえたという事になる。

商品の仕入れは、市場を通じての時代
各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった

《昭和二十三年》 市場での取引が盛んになってきたころ、この状況が地方の業者の間でも知れ渡り近県の人は勿論、遠くは北海道からもやってくるようになった。そんな関係で市内の小売業者は、この市場に出入りして取引が成立する場が見られるようになった。
そんなことから昭和二十三年になって、各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった。
その結果、上野公園内の東照宮前にある貸席である「梅川亭」に交渉して、定期的にここを会場にして開催することにした。この会場に決めたのは、ただ規模を大きくするだけでなく、この頃警察の取り締まりも厳しくなっており、市場会場を整備管理しなければならないことになっていたからでもある。
管理体制をしっかりするという警察からの要請もあり、その為に「古物組合」を設立した。その組合によって運営するコースがとられた。兎に角会場を上野の森に移すことにした。このとき市場関係に主として当っていたのが、古物商仲間の永井平保武氏、飛田新吉氏、越光保氏、赤沢幸吉氏、白石憲二氏、竹内武一氏に私(藤井)を含め、計七人で立ち上げた。そこで呼称を「七福会」と名称した。この会場に決めた梅川亭というのは、名を横井さんといって、その昔は徳力本店に勤めており、その当所私は少しく顔見知りがあったのだが、今はそのあとの当主である。三百五、六十年も昔から存在している由緒ある茶店である。この梅川亭に会場を移してからは、来場者の数が増え出し、商品もグンと増えた。
その筈である。市中はアメリカ兵気風が交ってくるので商品の交流は激しくなる一方、それだから本職の質屋買出人も登場するようになったのだから、市場はそれに応じて盛んになるばかりであった。
そこヘアメリカ兵方面からのPX用の舶来時計なども出始めて来た。この新品のアメリカ兵が持ち込む時計は、最初の中はアメリカ兵が自分ではめていたものを物々交換したりしたものが、業者の手を経て市場へ出て来たというコースを辿ったものであったのだが、この頃のものは真正真明の古物品であったわけである。

ヤミ時計が出廻った昭和二十四年の頃
南京虫が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した

《昭和二十四年》 ところが、駐屯部隊の落ち着き具合が進んだものと見えて、それ以来引き続いて新品の舶来時計が市場に出品されるようになった。たしか昭和二十四年の頃が最初ではなかったかと思う。但し、これらの時計も最初は銀座辺りでズベ公辺りを相手に売買していた程度のもののようだったが、よく売れるようになって来てからは、品物の量が極端に増えて来た。だから一個や二個での取引では捌き切れなくなったのである。
この頃、PXの場に登場した外人の名はいろいろ雑多だったが、その中でもバンドと時計を大量に持込んで来た外国人は、ジェームス・ベーカーという名の人だと聞いていた。ハワイ生れの商館出の人で、日本に来てからは、オフィスを芝のマソーフクというビルにおいて常連を相手に取引をしていたのだという。
品物は米国製の時計が主だったが、ウォルサム、グルエン、べンラス、ブローバ、エルヂン、それにスイスもののロンジン、ナルダンも時には入っていた。この外にパーカー万年筆、キーストン製腕バンドなどが供給されるようになってからは、市場における取引と来たら正に目まぐるしいほどの光景を呈したものだ。就中、婦人用の俗称、南京虫(五型と四型)が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した感があった。
その代り、このヤミ時計のことで事件化した場合もないではない。ある時には、ヤミ時計を持って逃げる輩もある程であったが、それは商売上に伴う当然の結果として大した問題ではなかったようであった。
矢張り何れの場合でもそうだが、完全に無事故であるという状態のものはありえないようであった。兎に角、この頃のヤミ時計は男ものと、また女物の時計(南京虫)も何れともよく売れたものである。そのよく売れたという実例でこういうことがあった。
ある日、市場にやって来たヤミ時計持参の特定の人が会場に着くと、いきなりカバンを開いてアメリカ兵が持ってきた時計の取引が始まったものだ。それが十人も二十人もの人だかりとなって取あっているので、市場の方は商売にならないということで管理人が怒った。そこで市場では、雨後「一切個買い取引は禁止する」という規定を出したほどであった。このような光景からしても、このヤミ時計の売れた程度が想像出来ようというものだ。
また、これは過ぎた時代の事蹟ともいう範囲のことだが、この当時、ヤミ時計専門に扱っていた仲間取引業者が相当数あった。そこへやってきた連中は、荷物の来るのを待って一梱りごっそり持帰るという状態であった。それらがそのまま、大阪、名古屋、そして九州、札幌へと飛んで行ったのだから売れた筈である。
この当時の売れ方を考えてみると、戦争中に腕時計を失くしたり、また持っていなかった人達の腕にするための活動用に供したのだから売れたのも当然という感じである。

腕時計のバンド業界も活況を呈し出した
時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げた

《昭和二十四年》 社会状態が活発化して来たのにつれて業界の各関係筋でもだんだんと勢いを盛返していった。ヤミ物資の商品に混ざってきた舶来バンドの出現について、腕バンド業界では大いに注目し、且つ反省され始めた。この頃、腕バンド組合は、昭和二十二年の頃、涌井商会の社長涌井増太郎氏の発奮によって復活することになった。当時の時計バンド組合の書記長だった藤松氏がその先駆になり、活躍したという記録がある。
従って、これからの時計バンド業界は、時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げたものである。その結果、到るところで札束が乱れ飛んだというエピソードなども披露されたことがある。
時計バンド業界の最古参株の宮田伊太郎氏らは、この頃遊興にふけり過ぎた結果、遂に財を失くして終ったという悲劇的話題などを残している。そのような経過の中で奮起した時計バンド業者は、この頃から品質の改良に積極的に努め、堂々世界的水準の優良商品に比して独歩的地位を占め、且つ高めつつある美装組合の掌中に権利を収めるに到ったエバー式バンドのそれは、技術的にもその優秀性を実証されうるもので、且つ日本製品の権威を世界に広めるという点で誇るべき商品といえる。

終戦後における業界紙群の復活
更に知っておきたいことが残っていたので復刊を諦めた

《昭和二十四年》 時計バンド業界が活溌になったからというのではあるまいが、この頃業界紙の復活について私のところへ相談に来たものがあった。昭和十年に廃刊して転業していた早川平助君と蓄音機畑の堀恒夫君の二人である。勿論私に、復刊についての協力方を申入れて来たのであったが、その頃私は、まだまだ商売上のコツについて更に知っておきたいことが残っていたのである。例えば、ダイヤモンドについても、時計の価格の点についても、もう一歩精細をつくしておきたいと思ったからである。そうすることが業界新聞としての本旨をつくす場合に役立つ条件ともなるからだと考えたのである。そのような意味から、「諸君は先にやり給え」といって分れたのである。従ってこれから戦後の業界新聞群が徐々に復活の兆しに就いたというケースになる。

終戦後の業界復興に交換市場を開設した
昭和二十年の十月五日戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけた

《昭和二十年》 昭和二十年八月十五日の正午を期して、敗戦の招書が渙発されたことによって国内の空気は俄然変わった。それは憲兵も、兵隊も、日本人に関する限り五分五分の権利を持つ同志であることに、各人の認識が改められることになったからである。
それでも、終戦の大詔に抗じて湘南地方、伊豆地方やその他の出先に立こもった一部の軍団と、南方支那方面に頑張った派遣軍団の中には降伏に応じないものがあるというので、特に使節を送って説得に努めるなど、それらに二、三日を要した結果で、国内の騒乱化は事なく済むことになったようである。
かくて終戦の三日目を経た八月十八日には、東京湾上におけるミズリー号の艦上で無条件降伏を条件にした終戦時の調印式が行われた。それも終ったので、これから米軍の一部が上陸、市中を襲い始めることになったというのである。然し別段に暴れ狂うような様子も見られず、むしろおびえているものに与えるかのようなやさしい態度など見られたので、それらに馴れてきたこの頃から、ヤミ物資の交換が行なわれ始めた。
私はその頃、南稲荷町にいた。そして理髪店を訪れたメリケン兵の手から煙草のスリーキャッスル、チョコレートなど持込まれたので交換してみた。最初はちっと横道に入ったところで取引が行なわれたものだが、それが無事に済むと、今度は一時間もたたない中に又ぞろ同じ品物を大包に入れて持ってきた。このような事実がヤミ物資取引の最初でもあり、又本質化した過程でもあったのである。
眼の色の変った敵兵相手のヤミ物資交換風景は次第に延びていったが、それだけで生活が出来るわけではない。そうこうするうちに、このヤミ物資を専門に取扱う日本人の部類も現われるようになって来た頃は、既に終戦時から一ヵ月も過ぎていたであろうか、私はこのとき考えてみた。
ただ焼け跡を廻ったり、その整理をしていたのではラチが明かない。結局、仕事というものをどのようにして押し進めていったらいいか、ということについて熟考したのである。ところが、この頃国内の隠匿物資がボツボツ出始めてきた。それが私がいた美津和材料店に持ってきたものだ。銀製の御紋章入りタバコ盆、または全巻絵つき皇族系所有の文庫といったような種類のものである。

一日の取引額は、三十万円にも達した

そこで、この分では、国内における物資交換を行うことが人集めになるだろうと考えついた。和田さんに私の企画を話してみたところ、「藤井さん、それは良い思いつきだ。東京が焼けても東京にいた人達は、地方に疎開しているのだから、物の交換市場が出来たと分かれば、次から次へと伝わって知れわたるものであるのでおやりなさい」と言われた。新聞に代る人集めの職業には持ってこいのチャンスであると言われたのである。
それに元気ずいて、昭和二十年の十月五日に人集めの第一回を始めることにした。勿論、和田さんにも諸々に声をかけて貰うとともに、私は自転車を使って竹内武一君のところやその他の仲間を通じて、それぞれ業者側へ伝言をするよう頼んだのである。
そうしてその十月五日に、終戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけたのである。この時集まった人で、記憶に残っているのは、秋石鶴、吉ノ水井平保武、越光保、赤沢幸吉、竹内武一、涌井増太郎、今田正雄、香取栄一、南雲(群馬)らの面々で、三十五、六名だった。
それでもこの日の取引額は、三十万円に達したので、この分で人が集ってくるようになれば売上高も上がってくると見込んだ。
そうこうする中に、毎月の五日、十五日、二十五日の三日間が市場開設の定例日になったのだから、だんだんこの市場の状況が知れ渡ったのだとみえて人も沢山集まるようになり、取引高も増えて来て、落ちつきを見せるようになって来た。その頃は、馴れないながらもたまにはセリ棒を手にしたこともあった。ハタシ仲間の一人歩きもヤヤ可能な域に変転して行ったのである。兎に角、この市場というものを始めたことで、時計と貴金属品関係の商取引状況がどうにか観測出来るようになってきたのである。それが私がこの市場なるものを始めた真の狙いであったのだから満足したのである。

色石の値段のハネ上がりで活況が続く
セリ市場の誕生で自然と色石の業界価格が決まった

《昭和二十年》 明けて二十一年の春は正月早々から市場を開いた。南稲荷町の美津和材料店の三階に開設していた市場は、「五の日」が例会日で、その年の三月ごろから始めた竹内武一君の家でやり始めたのは「三の日会」だった。この両方の市場は、当時の東京の時計界を牛耳った専門市場となっていたので地方からの人気もこの市場に集まっていた。
三津和屋の和田さんと私は、その市場の開設を通じて業界の発展を乞い願うという点で希望が合った。だから格別この市場勢力を独占しようなどという気構えは毛頭なかったので、竹内君の「三の日会」ができたのにも協力した。
その次には、車坂町の涌井氏宅で「八の日会」を始めるということについても相談があったので、会場間の交換性からということでお互いに出入りしたものだ。この「八の日会」に集まる人達は、合月出身の村井氏が共催していた関係もあってか、出し物の種類にも変り物が見られたものだ。小池さんとかいった人だと覚えているが、その人が持ってきたルビー、アレキの裸石を市場に出せとせがんだのだが、小池氏本人は「石の値段なんかどうせ出るものではないからダメですよ」と言っている間に誰かが突如この色石をセリ場台に上場したものだ。ところが俄然人気が沸騰して一カラットニ十円にもセリ上がったのを見て、小池氏本人がビックリ仰天したものだ。つまり、こんなに高値に売れるものかという驚きであったのだ。四、五円もした位のものだったからであろう。そのような約束で、その次に出したアレキは更に高騰して、一カラット四十円にもセリ上ってしまった。これらがその当時の相場ということになったのである。
ここで、一寸注意しておくが、市場という性格から見た取引相場というものは、その日のその場の雰囲気によって、取引値段に異なる場合もある。だからその時の市場値段を以て必ずしも全体を通じての相場価格とはならないものであるが、この当時の業界事情は、このほかに取引上の標準になるような決め方なかっただけに、この日の色石の取引価格を標準にして、以後完全な業界値ということに決まったようである。従って裸石に対する取引上の人気はこの頃から強まったといえる。

金銀の塊や製品の出廻り状況
南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった

《昭和二十年頃》 終戦後いち早く出回った物資は、アメリカ兵が持って来た舶来のタバ
コ、チヨコレート、ビスケット、それに砂糖、コーヒー、ウイスキー、その次には軍属用の衣料というようなものに変っていった。私は、この中の軍属用衣料を仲次ぎすることで大変な利益を得たことがある。確か一着千円ぐらいだったと思う。
当時(二十一年)車坂町にあった涌井さんの家で、「八の日会」の交換会を開催していたころ、そこへこの種の衣料を持っていったところ、文字通り飛ぶように売れたものだ。その次には、真珠の連で二十本が一巻になっている束になった真珠の連を持こんで見たのである。その真珠が、私が見ている眼の前で売り切れて終ったという状況を呈したのである。そんな盛んな売行きを示すパールの連ものに対する私の口銭が、一連につき五十円という低率であったのだから一巻(二十本)でタッタの千円ということであったのだ。だから市場景気の情況に合せて、その次から口銭を一挙五百円に引上げた。だから私の手数料は、一束(二十本)に付き三万円に引上げたというわけだ。それでも、真珠の連は依然羽が生えて飛ぶように売れたものである。
この頃、藤井が交換市場を始めたということが伝わっていたのだろう。だんだんに私達の手許へいろいろな物資が持込まれて来た。その中で一番多かったのは、金・銀製品で宝石類はすでに戦時中に買い上げてしまった関係で、出回り具合は鈍かった。それでも骨董品を扱う道具屋には、昔の中国方面からの五型ものの時計はその時代の最高位であったものであろう。
この頃の貴金属地金に対する取引値段は、銀一勿につき二〇金は四円から四円二十銭乃至は四円五十銭という価格であった。その金銀地金などがこの市場にまで出品されたものだ。商売上手な御徒町の竹内君の市場は大変に盛んになり、一日の売上げが何と二百万円にも上っており、最高に売れたときは、三百万円にも達した時があった。
もっともこの頃は時計にしろ貴金属の場合にしろ、これといって正規に取り扱う品物がなく、その大半はヤミ物資ということになっていたのだ。たまには、アメリカ兵の踏み込みの危険往などということも管理者としては頭の中に刻んでおかなければならなかった時代でもあったのである。従って、この頃になってからは、物資の流れ具合にも変化が見られるようになってきた。アメちゃんから流れこんできた時計やバンドが出品され始めたのは二十三、四年頃からのことだと思う。これが結局昭和三十年頃まで続いたのだから、新時代への切換え商品としての登場物としては忘れられない記録である。南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった。

金塊や銀塊の買取り事件騒ぎ
金塊を割ってみると中にはナマリがごっそり入っていた

《昭和二十三、四年頃》 市場取引がだんだん盛んになって行った昭和二十三、四年の頃は、金塊についての取引状況は特別激しかったものだ。この頃、この金塊の取引について一つのエピソードがあった。それは二十二年頃のある日の夕刻、私が家に帰って来ると待ち構えていた和田さん(美津和材料店の主人和田政次郎氏)が早速話を切出した。「藤井さん、インゴットがあるから買おうじゃないか」という。「それはいいが品物の中味は大丈夫ですか」と私が念を押すと、この通りハンマーもつけてある位だから間違いはない、というのであった。
そこで私は右手にそのインゴット約五百グラム目のものを持って重量の感を試して見ると、比重に少し軽い感じがしたので、「これはダメだ」と突っ返した。すると、そんなことはないよ、さっき先方の人が来てこのハンマーで割って見てもいいといっておいていった位だからというのであったので、では割って中味にアンコがなければ高いが匁四五〇円で買えばいいのだから、といい切ってから私がその場でハンマーを使って割って見た。すると、何と、大丈夫どころか、中にはナマリがごっそり入っていた。これを見た一物売買のベテランの和田さんもさすがに顔色を変えた。その物をして、儲けようというやましさがない限り物ごとに誤った解釈がないことになる、という実感をこのときハツキリ証明出来ることになったわけであり、この時の事実を通じて参考になったのを喜んだ次第である。

武田製薬の重役がヤクザ者から手付金十万円を受取ったという当時の実話
一千万円のダイヤモンドを取引したいから持って来て見せて呉れ

《昭和二十三、四年頃》 これと似た事件がもう一つあった。この金塊偽作事件があった当時の世の中は、金の取引事件があっちにもこっちにも相次いでいた。今その頃の当時を振返ってみると、事業そのものをカムバックさせるための資金が欠乏していたからであろう。その資金集めをするために、一つの悪策(詐欺?)を企んだのだということがいえる。その金塊取引の事で、当南稲荷町にいた白山某氏が、武田製薬の重役と売買するのだということで契約を結ぶことになり、その間に入ったヤクザ者の一人から手付金十万円を受取ったという当時の実話であった。結局、対照物にしていた金塊を約束の時までに提供することが出来なかったので、十万円の倍、二十万円をおどし取られたという事件があったのを覚えている。更に、またその武田製薬の当時の重役というのが、私の南稲荷町の居室にやって来て、ダイヤモンド約一千万円ほどを取引したいから持って来て見せて呉れという申入れを受けたことがある。もちろん、外へ持出してまで売らなくても、先客万来の時代であったから、私はその武田製薬から来た使者なるものに断った。それによって、そのあとやって来た現役と称する輩には、その場で眼のさめるようなキラビヤカな光モノをぞろり並べて見せてやった。驚いたらしい。現金を持たずにやって来たのだから、その品物を持出したとせんか、それが最後何所かで体よく詐欺または略奪という寸法をやらかす計画でもあったであうと思えた。その時、彼らの二人のものは、金塊ならば当社にあるからそれを買って貰ってもいいというゼスチュアを残したのである。果して事実か、というためしのためにという興味も手伝って、その約束した銀座西七丁目の河岸(当時の外豪)にあった日東紡なる会社の秘書課を訪ねて見たのだ。ー向にそれらしき人の存在すらも明確にしえないという情況であった。私の想像した通り頗る危険千万な策謀がこの間に及んでい
たことになるのである。正に暗黒の時代だったのである。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334353637
page:12