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マガイもの(合成)ではないかと疑いたくなるほどの天然宝石がゾクゾク
目の効いた人は、相当量の宝石を買い求めたようだ

《昭和三十六年》 一行の日程の中で、商業視察などは日割したプランに従って宝石関係の業界状況を主にして見て回った。ニューロードの表通りから少し裏側に面した道を行くところあたりに宝石の加工所を設けてある宝石販売店があった。
一行はこの数軒で相当の買物をした。ヒスイ、スター、スタールビー、ジルコン、サファイアなどのほかにエメラもあった。特にスタールビーの多いのには驚いた。それだけに、そのスタールビーが何んとなくマガイもの(合成)ではないかとさえ疑いたくなるほどキレイに仕上っていたので、思い切って多量に買取ろうという勇気が出せなかったように見られた。
天然石ともなると石の価格が相当多額になるので、品物についての真疑の見分けに自信を持てない人は、このような場合に勇気を奮い立たせることができないのである。一行の中には、相当に所持金していた向もあったようだが、それだけに石に目のきいていた連中は、その人達から一時的に融通してもらってまで相当量を買い求めて来た者もあるなど、帰国してから東南アジア旅行の思い出の会合を開いた際に、儲けた話しをしていたものもいた。
バンコクには、このあとでシンガポール経由の場合に、もう一度この空港に降りたことがある。その際でも電話で連絡すれば前回の宝石業者はこの空港の控え室にまでわざわざ出向いて来て、取引に応ずるというほど商売上には熱心さをみせていた。もっともこの頃は、まだ日本人の旅行者が少ない頃であったのだろうし、それに宝石など買うという人には、売る方の相手側が懸命になっていた頃であった。写真は、右側に立って手に石を持っているのは山岡猪之助氏。

バンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった
日本製品の評判はよく、イタリー品は高く、ドイツ品は値が安い

《昭和三十六年》 バンコクに滞在中、日曜日に出会ったので、この日はバンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった。メコン川の下流に位置する大きなこの川の両岸に家が建てられていて、それらの冢の生活物資は水上を航行する商業船によって売られ歩くのである。だから水上生活者の実態を見て一つの異った感動を覚えない訳にはいかなかった。
商業状況の視察では、ニューロートの大南公司(斎藤氏)三角路の永利公司(陳家永)を訪問して、時計界の業態を中心にした時計関係の商取引の実態について説明してもらった。日本製品の評判はよく、イタリー品は高い、ドイツ品は値が安い、という条件のもとに、入り乱れて競争をしている現地での状況などについて知ことが出来た。
全般的にタイ国の施政は、総てがコミッション制度に終始しているので、やり難い国情だという説明はどこでもどんな場合でも共通しての訴えであったのには驚ろかされた。
そういう実態に接した為か、日曜日に、水上での彼らの生活ぶりを見て廻っていた時、日本の大使館要員がボートの上から手をあげて我らの船に愛嬌を振りまいてくれたのだが、お洒落な服装ぶりから推して、これらの人もコミッションによる収入などがそうさせているのか?など思わせられて不愉快な想いを感じた位である。

クアラルンプールとシンガポールを見る
「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」国

《昭和三十六年》 当今の海外旅行のほとんどは飛行機が利用されている。我々一行はバンコクからクアラルンプールに着いた。もちろん乗物は飛行機である。だから空から乗入れる旅行だけに、着陸間際になると機内の窓から飛行場の外景にまず目を止めるのが乗客としての常であるようだ。クアラルンプールの空港には、地元旅行社の代表者が迎えにやってきており、「TBS旅行団のミスター藤井」を連呼していた。そして指定のメルリンホテルヘ着くやいなや日本航空の出張員が私の傍にやって来て、日本航空を利用してくれないかという交渉をしにきた。そこへまた、三井物産の安田さんという人が、我ら一行に加わっていた武藤さんという人との取引関係のことで訪れて来た。
その安田さんという人は、当時のタカノ時計(今のリコーの前身)を東南アジア地方で身をもって売込むためにわざわざやって来でいる人であるということを聞かされたのである。そこでその晩は食後の時間を利用し、安田さんを囲んだパーティをすることにした。お陰でいろいろ現地の状況を聞くことができたので、その収穫にお互いが喜んだのである。翌日は、クアラルンプール一帯の視察旅行に出かけるコースをとり、この安田さんにガイドをしてもらうことにした。
地元の旅行社のガイドマンは、日本語が全然できなかったので大いに助かった。クアラルンプールという国の姿は、一口にいって「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」という格好である。だから日本のような狭隘な地面関係や、交通量に比較した場合のものとは異なって、正に夢の国か、オトギの国にでも来たのではないかとしか思えるほどの美しさである。
このあとのコースの途中で香港に立ち寄った際に、ヘラルドコーポレーシヨンのブロックさんという外国人に会ったとき、問はれたので、クアラルンプールのことを緑の楽園と思いましたと感想を述べたところ、そうでしよう、クアラルンプールは世界の楽園として建設途上にあるのですといわれたことを合せ考へ、そのとおりだと思えた次第である。
この国はゴムが主要生産物で、その輸出で年間の国の予算額の約七割方が収穫されるという恵まれた環境にあるのだという。だから他国との比較にならないものかある。
この地方に五本の足を持った奇牛が一頭おり、お金を払った特別参観に供してくれた。
写真はマラヤのゴム林を訪れた一行、右から、山岡.北岡、中井.野村、秦、ガイドマン・安田(三井物産)、倉林、藤井、竹本の諸氏。

シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会
金属製バンドのニューデザイン物に関心を見せたが価格の点では不成立

《昭和三十六年》 クアラルンプールという国は、そんなに大きな国ではない。だから見て歩くところもそう広範囲に亘るものではない。時計バンドの見本など持参した業者陣とともに、三井物産とは別の東京時計のクロックを特約販売している原地人(マラヤ)の時計卸商館を訪れ、その主人公のダンジョン・プリョタという人に会って話を聞いてみた。
会談の内容から、「日本の置時計は素晴らしい」という一点を述べただけで、その外は東京時計に感謝しているというだけ。これをこのように、というような具体的な改良や進歩という点についての意見は出なかったところは、日本人とは少し違っているようにみられた。だがシンガポールとの合併が伝えられているではないか、という私からの質問に対しては、「ノー」、宗教が異なっているからとハッキリした回答をしていた。
このような点から推しても、東南アジアの人達の民族的意識というものは根強いものがあるという判断が持てたのである。
シンガポールに行くのには、陸つづきであるのだから飛行機を用いる必要はなかった。バスでOK。シンガポールは英領の支配下にあったのだから、ここの港には米英両国の軍艦の姿など見られた。シンガポールの街は海岸に面したあたりが英領らしく、植民地的な風景を漂わせるものがあり、清潔な街の設計には目をそば立たせるものがあった。
ひとたび商店街に足を踏み入れてみると、そのほとんどが華嬌の群衆である。
私は東京時計の特約店をしている星東商会の紹介状を持っていたので、華商街の中にあるその商社を訪れたのである。この華商街の中のビルの階上に行くとき、支那人のボーイが案内してくれた。四階までエレベーターで行くのであるが、ここでチップを貰うのが案内人の狙いらしい。この案内人はクリーという種類のものであるらしく、華商のいうこと以外には立ち働くことさえ許されていないようだ。だから気狭な身振舞いをしていたのに気をつけて見た。
この後もう一軒の昌成公司という時計など各般の卸売りもしている時計専門の店を訪れてみた。昌成公司は、シンガポールでは目抜きのミットロード五番地に店舗を持ち、時計に
バンド類も扱っている小売店である。それだけに東京時計の置時計についてもマラヤにおける場合と同様聞いてみたが、それよりも日本製腕時計を東南アジア地方に売り込もうとする場合に、果たして現地人業者がどのような観察をしているであろうか、ということについて現地人の実際の声に親しく接してみたいというのがこのときのねらいであった。 この昌成公司の社長は、マラヤ語だけでイングリッシュは解せない。支配人の唐徳平という人が話せるということであったので、私が名刺を通じて会談したときは、この唐徳平さんが通訳してくれた。私の方は日商株式会社(シチズンの特約店)の所長、石橋斗さんという人が通訳してくれた。この会談で、昌成公司は東南ア地区の各方面に商売を拡大することができるが、それは品物の価格が拡売するに相当する利巾があるかどうかによって決ると説明していた。勿論その通りである。そして品物については、@時計は、大物では名古屋物と東京時計が入荷しており文句はないが、デザインの点で新らしものを期待する、A腕時計は、スイス物の方が銘柄がPRされており、需要者に提供するのが早い、B日本の腕時計を売り込もうとするにはPRを大いにすること、そして価格をスイス物に匹敵するように考えることができれば相当量を扱うようになる、C時計バンドについては、日本製品はいいものがあるが価格が高いという。私はこのとき、金属製バンドのニューデザイン物を提示して、見たいかと聞いてみたら、「是非見せてほしい」というので、ホテルでその日の夕刻五時に合うことにした。
その時間に支配人と共に昌成公司の主人公の二人がやって来た。ホテルの私の部屋で高島君が持参したサンプルを出して見せたら、“べリーナイス”を連発していたが、いざ値段の点になると、ナタ(半額)という。テンデ問題にならないといったのであるが、しかし昌成公司の立場としては、ナタ(半額)という差し値を出したので、日本側にとっては安くてダメだということになったのである。現実に取引をするための値段決めという場の切札としては、この時代の状況としては止むを得ないのではなかったかと静かに考察することができた。写真は、シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会。

シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる
ワニ製品を六、七十個も持ち帰ったが羽田税関ではたった二千七百円を課税

《昭和三十六年》 このS式バンドは、このあと香港に立寄った際の視察の場で、香港製の安価なバンドが作られつつある状況について、その現品を示し説明したことがあるのでその判断のための参考資料になったわけ。
このことが終ったその翌日、観光ということになり、その昔、薬問屋の千万長者・湖文虎という人が建設したという私設公園を見た。ここには、あらゆる動物を型どって作った型像物を見るのに二時間以上もかかった。このあと且ての大東亜戦争当時、山下将軍指揮で有名をとどろかせたジョホール水道について、当時の追跡を見て回った。ここで感動したのは、この水道塔の上部に当時の艦砲射撃のあとの穴が、今なおハッキリ残されているのに目を見張った。そしてまた、フォード自動車工場の中で降伏条件に調印を求めたという当時の遺跡についても説明されたが、ここだけはピンとこなかった。既にその付近が使用されていたからでもある。シンガポールを見て歩いた中で、特に気がついたのは、細い畔道のようなジョホール水道を境にして、シンガポールとは外国の国境になっているというところである。だから一歩足を跡み越すだけで、外国扱いになるのである。だから関税の関係で、ここでは週一回家庭用の日常品を展示販売することで有名である。
“税金がかからないのだから安いというのがねらいであろう。週に一度は、定期的に開かれることになっているという。だからこのジョホール水道際の定期市場は、その開市のたびに沢山の人出があり、賑わうので有名であるという。
私達一行が滞在していた三月一日のことだと思う。東南アジア方面では旧正月というので、この日は名物の爆竹が到るところで打鳴らされた。その日の晩餐会は、一行が宿泊していたキャセイホテルの二階の中華料理店で午後六時から晩餐会を開くことになった。
ところが一行が席をとったキャセイホテルの宴会場は、シンガポールでは一流のレストランであることから、この日は支那人の正月を祝う集りで大変な賑わいを呈していた。つまりシンガポールのお正月に出会ったのである。だから一同は、その珍らしい環境に親しむことができ、幸福なひときわ満足を抱いたものである。
シンガポールの観光の途次、ワニの養殖場を見学したのだが、ワニというものは目で見た格恰は物すごい様相をしている。児ワニの鳴き声などときたら、とてもかわいいものである。そのワニが製品になるので、シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる。値段は安いがデザインのよくないのが欠点であり、それが特長になっているから安いのだという向もある。われら一行の中でこのワニ製品を六、七十個も買い求めて持ち帰ったものがあったが、純正なる土産品ということで羽田税関ではたった二千七百円を課税されただけで済んだ。写真は、シンガポールの昌成公司の二人と日商の石橋さん。

世界三大景勝の香港島へ
「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影を

《昭和三十六年》 香港には、昭和三十六年三月二日の夜になって入国した。世界三大景勝の中の香港であり、特に香港の夜景は素晴らしいと聞いていたが、われら一行を乗せた飛行機が九竜空港に着いたのは夜の八時を過ぎた頃であったかと思う。だから空から見た香港ということになったのである。「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影をした一行は、バスで指定のホテルへ案内された。
香港のホテルの看板文字は、漢字で表わしたものと英文字で表わしたものとの二つの種類がある。われら一行のホテルは、九竜の酒保(ホテルの意味)アスターというのであった。六時間以上空を飛んで来たので旅の汗を流すことだけは、誰もが望んでいたので、手早くお風呂につかったあと、秦、野村、竹本、藤井、小関らの一組は出迎えてくれた秦君のお馴染みである豐さんという宝石店主に九竜の丘陵の頂上まで車を飛ばして案内してもらった。そしてハイボールの水割りを片手に、九竜の夜景を楽しんだのであった。静かな空をこがす如くに九竜の街の夜遅くまで、赤、青、黄色のイミルネーションがまばゆいばかりに輝いていたのを観賞することが出来て、大変愉快に感じた。
このような場でホステスと顔なじみになっておくと便利な場合があるものだ。
その翌日の夜のことであるが、あるレストランで食事をしたあとの必要な遊興の場などの案内には、このようなコースの人達が大いに役立つものである。だから危険もなく安心して遊んでいられるということになる。謝礼金も大して高くなくて済まされた。顏をきかすのは、その意味では何所でも同じようである。写真は、九龍のメインストリート。

九龍市街や香港島にといった順で見学する
海抜一六一八フィートもあるライオンロックなども見学した

《昭和三十六年》 翌日は九龍市街や香港島にといった順で見学することになった。九竜市街の中には、香港政庁が予め作っておいてある大陸から逃げて来た難民のために備えたアパート群の立ち並んでいるのに、まず度胆を抜かした。
難民アパートに到るまでは、道の両側にパンヤンの樹が立ち並ぶネイチェンロードの九竜のショッピングセンターがあり、そのあと海抜一六一八フィートもあるライオンロックを経て来ている。
次いでニューテリトリー、サーテン(沙田)を超えて、ゴルフ場のあるフォンリングを経由してから中共との国境々界繚の展望台のある勒馬州に到る。このあとのコースに続いているニューテリトリーは最も古い町、中国時代の農村の大地主が居住した古城ユンロンは、今なお城廓をめぐらしており、農産物の集散地となっていて有名だ。それからキャスルピークに到って、この日の観光を終るというコースである。写真は、難民アパート群。

一着分七千九百五十円の洋服生地を選んだ
日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当した

《昭和三十六年》 二日目はビクトリアロード(香港島)の見学コースであるが、まずスターフェリーでビクトリア本島に上陸してからコンナートロード、スターフェリー広場平和記念塔を見ながら、有名なビクトリアピークに登る。ここのピークは、海抜一八〇九フィートあり、ケーブルで登るようになっている頂上から眺めた景勝は、とても壮観である。次いで香港大学、クイーンメリー病院などを見て、アバディーンに到る。
世界的に有名になっているフローテインクレストランに行くのには、渡し船(サンパン)で渡るのだが、ここのレストランでは新鮮なものが食されるというので有名である。
次いで、パルスベイを通りスタンリーべイなどを経て、タイガーバーム(胡文虎公園)に到る。ここは古文虎兄弟の私邸で、時価に換算すれば数十億円にも及ぶという。ヒスイや白玉などの宝石で作られた各種の美術品を保蔵した古文虎記念館があり、また地獄極楽を表わした極彩色石造物などが並べてある異色の庭園である。それからクインロード、ロンナットロードを経て、スターフェリー広場に到る。
なおビクトリアロードで買物をする場合には、店の信用度を知ることが大切であると思った。私がこの当時買い求めたものの中には、洋服生地を選んだのであるが、邦価換算で一着分七千九百五十円になっていた。この洋服店は一銭たりとも負けるといったことはしない。この生地について帰国してから三越で見てもらったところ、日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当する代物であると言われた。香港では値切るものだという考え方は、時には当らないものもあるということを記しておきたい。写真は、中国時代の古城楼。

スイス製と日本製の時計付属を比較、品質の良否の判断をしている
品質がいいものは高いという認識が薄い

《昭和三十六年》 次に香港を中心にした業界関係の商況について次の各所を訪問、懇談してみた。その時の経過概要を記しておこう。
香港沮庇利街順聊大厦三〇六、華僑行(時計、付属、材料貿易商)ここでは時計バンド、ケース類の製作を行なっており有望視されていた。対談した人は、葉雲泉、梁学源、鸚永洪の諸氏。
香港徳輔道中万宜大厦UG7号、端祥珠宝行(兼松芳氏)
香港銅弾湾百徳新街華登大厦C2座一六、香港島大丸有限公司(尾賀敬次郎氏、近藤抱一氏)
香港皇后大道中公主行五楼四○一六室 克馬洋行(有士文氏)
香港永安人寿大厦八〇〇―五室、呉利洋行 鐘表部経理、劉鏥発(ジョージブロック氏、デー・ドフマン氏)
上の諸氏と会談した中で、中華人の日本の時計および時計付属品製作に関する見解が、特別熱心であることが知らされた。私はこの当時この香港製の金属バンドとケース(側)のサンプルをもらって、それを帰国してから日本のメーカー筋に提供し、香港を中心にした東南アジア各国の情況、その他、今後彼の地に進出する場合の措置と方法、それにPRの必要な諸点につき説明を加えて参考に供した。
また日本製時計の輸出関係についても有望であるという報告を受けたし、また現地人の時計業者が、スイス製と日本製の双方を比較して品質の良否についても判断をしている。だが東南アジア各国の生活状態から推して、品物が上等だから値段の高いのが当然であるという感覚を持つ時代には到っていないようである。それだけに「日本製品の良さは判るが値段が高い」。ではどういう希望があるのか、と聞けば、ズバリ値段を半分にしてくれ、というように、乱暴極まるものだといいたい気分もある。しかし、現地人の見解では、その乱暴さということ自体が問題で、取引という現実の問題になった場合には、売って儲けられるものから、ということの計算関係から勢い値切る必要が生じることになるようだ。
このことに対する良い悪い、または妥当性の当否は別として、東南アジア各国の情勢はそのような状態であったのだという現実感に基づいた観点から、それを理解する必要があろうと思い、記した次第である。
以上が、われら一行が赴いたこの時の視察旅行のねらいの一つでもあったわけである。
かくて、われら一行は香港をあとにいよいよ帰国の途についたのであるが、香港を迴るに当って感じたことは、香港島の空からみた景観は実に素晴らしいという一語につきる
ものである。
従って香港の景観は、空から見た真昼間の香港島は、緑の丘とともに静かな海に育まれている島の美観が映えて、世界の中の三大港の名港という名のふさわしさが感じられた。
写真は、香港競馬場を中心とした市内の景観。

ペナン空港で一時休憩をとり台北空港に
あとは空路日本の羽田空港へ

《昭和三十六年》 香港に飛んでくる途中でペナン空港に一時休憩をしたことがある。ここの空港へ送り迎えのために来ていた現地人の姿を見て思ったのであるが、マニラの空港における日本人に対する感情とは打って違った平和な表情が見られた。
また、台北空港に少憩した時、空港の出口に頑張っているポリスメンに断って空港表の交通整理の状況など見て思ったのだが、台北の温泉郷に行けば、親密な待遇状態に出会えるという日本式に近い特別情緒の味わえる処を持つ台北の空気を眺めて見たのだが、如何にも軍国時代の片影が映り出されていて、感ずる総てのものが強く響いたのは格別であった。
かくして一行は、この台北を飛び立ってからは一路羽田へ、そして空港へ無事安着したのである。だがこの当時の香港では、ヒスイをはじめとして時計宝石、ダイヤモンドに到るまで、まだまだ買ってきて得をしたという感じを持てたのであったが、そのあとの昭和三十八年の秋に、再び香港の街をさまよってみた時の品物の価格は、世の中が変ったのかと思った位に高くなっていたのには驚いた。
特に、香港で魅力となっているヒスイについては、テンデ手が出ない位高くなっていたのである。ここで斷っておくが、香港から日帰り旅行の出来るポルトガル領のマカオには私は行けなかった。だが一行の中の数人が出かけていって公然たる博賭を行い、大いに楽しんできたという報告には接している。
(注)香港旅行にいった場合に楽しいことばかりではない。時には不愉快なこともあった。その実例を参考に記しておこう。われら一行のホテルは、九竜のアスターというホテルであった。その時、団員の一人がボーイに案内されてルームに入って用便をしたときのたった五、六分の間に、懐中物のドル入れの中から、十五万円という現金を抜取られてしまったことがあった。人の心のスキをねらう手の被害事件であるから、旅行者の場合はこの点に特に注意が肝要である。写真は、中共との国境地点、鞍馬州の丘に立つ一行。



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