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ロンドン滞在は三泊の日程
ヨーロッパは、お酒よりも水やジュースの方が高い

《昭和三十八年G》 アムステルダムで案外のんびりした気持で過ごすことが出来た一行は、アムステルダムのスキポール空港から次のコースのロンドンに直行した。
ロンドンのヒースロー空港に降り立った時は、日本の羽田空港などとは違って諸事整備されているのを直感した。飛行機の着陸地点からはバスで空港のハウスまで運んでくれるように施設されている。旅行社のイーストマンという人がガイドとしてやって来て、案外如才ない応待ぶりに一同気をよくした。その晩はホテルに荷物を届けてから特別晩餐会を開こうではないかということに話が決まった。夕刻七時頃からビクトリヤロードのそばにある中華料理店に集まった。ヨーロッパでは中華料理が高級の部類になっているようだ。
この時はイーストマン氏が予め注文しておいてくれたものだと見えて、いろいろな盛り込み式の前菜料理など沢山出してくれた。それにビールだ、ウイスキーだ、ブランディなどと飲物を豊富に出してくれた。ここでタップリ食事をした後は、奥の部屋で中華料理を食べるというコースであった。お腹は事前に採ったサロンの場で既に満腹という状態になってしまったわけである。だがこの時の料理はうまかった。
やがていろいろ歓談し、お酒もしこたま飲んだということで、そのあとはナイトクラブでショーなど見物しようではないかということになり、イーストマン氏の案内で一夜の遊楽コースを辿ることにした。
ショーを見物してからナイトクラブで少時間過ごしてホテルへ帰着したのが一時を少し過ぎていた頃だと思う。これから、それぞれお風呂を使ってそのあとはワイシャツなどの洗濯というのが旅行中の日程になっているのだから、消灯時間は人によって異なるが、大体朝の二時を過ぎた頃になるのが通例であった。
ロンドンのホテルは、ウエストミンスター寺院に近いスター・エリメッとかいってバッキンガム宮殿の近くにあり静かだった。古いホテルだが昔から有名だそうで泊り客などは相当国際的にも高度な人たちが宿泊していたようだ。
食堂で我等一行が食事をしたのを見て、ここのホテルのコック長が「ジャパニーズなかなか行儀か宜しい」と賞めてくれた。足を投げ出して威張り散らした格好でウイスキーなど飲んでいる黒人部類の行儀に比べると違うからというようである。
だが日本人の中でも一概には点数がつけられないものもある。
ここで珍妙な話を紹介しておく。我等一行の中には酒を好むものと、好まないものがいて、それらは常にジュースまたはコカコーラなど飲むのが通例としていた。そこで前夜のロンドンの夜を楽しんだ割勘の場になったときに、一人当り約八千五百円(邦価)の割り勘となり、これを特別支出したのである。ところが酒を飲まない連中の一同が申し合わせて団長なる私に対して次のように申し入れてきた。「今後は酒類を飲むものと飲まないものの勘定は別々にして扱ってもらいたい」というのである。私は平均した計算による不合理を理由に申入れて来たのだと察したので、そのまま卒直に申入れを受け入れることにした。その結果、一同に伝えて、「今後は飲物に関する限り各自腹で各自が支払いする」ということに申し渡したのである。
ところ、結末はどうなったかというと、ビール一杯の値段はチップを含めて百二十円、ジュースまたはコカコーラ一本チップ共で二百八十円というわけ。ヨーロッパでは、どこでもチップは一割五分以上を要することになっており、ブランディで百五十円か精々、二百円といったら高値の方である。酒より水の方が高かったのである。
私は、このホテルのサロンで食亊のあとゆっくりグラスの酒をなめていたことがある。その時、A、B、Cという特別のものらしいのを飲んでみたのだが、それでも二百五十円であったのだからヨーロッパでの酒類は甘くして且つ安い価格だと思った。写真は、雨天の日のロンドンのテームズ河畔に立つ筆者と一行。

世界の観光客がバッギンガム宮殿を訪れた
業界関係のある業種の視察も行った

《昭和三十八年H》 ホテルから五分位歩いて行くとバッキンガム宮殿がある。私は朝と夜を問わずこの宮殿を中心にした静かな雰囲気を一人で味わってみたのである。
バッキンガム宮殿における儀伏兵の交替式は、毎日午前十一時三十分から行われるので、この時間を目がけて世界中から集まってくる観光客で宮殿前の広場は大変な賑わい方である。おもちゃの兵隊というのが、この場の光景をいうのであったのだから観光バスのコースには、この交替時間の観光を必ず折込んでいるのが常識となっていた。
市内観光の場では、有名なテームズ河のほとりで第一の展望をしてからロンドン塔、ウエストミンスター寺院、博物館、ビクトリヤロード、ピカデリーロードなどの繁華衙を順次見物していったのであるが、我等一行の中には、時計とその付属品、眼鏡関係などの業者が入っていたので、それぞれ関係のある業種の視察を行った。
それぞれの業種につながる状態など視察する必要があるので、随時勝手にガイドを雇って個別に視察を行ったのである。
だから、それぞれ方面別に視察した人から、その日の行動の情報を聞き取ることにも努めなければならなかった。業界視察という任務を帯びた私の旅行中の努力は、人より数倍を要するものだという実感がこのとき湧いて出た。
従って人が遊んでいる時にも私は目的に関する資料を求めることにしたのである。だから朝七時には遅くも起床した。そして一日中活動したあとの夜ともなればナイトクラブの雰囲気の探訪のことなどもコースの中に取入れなければならないことになるので、ホテルに帰るのは大体午前二時から三時頃になる日が続いた。だから健康にも満点でなければこのような目的の旅行はやっていけないことになる。
私はこの点を特に気にしてかかることにしていたので、酒の量を控えて行動することにした。ロンドン滞在中に感じたことは、英国のいわゆる紳士な行動ということについて実際に見学したような気がした。そして時計関係では、オメガの宣伝がどこの国へ行った場合でも、同じもので特に眼につくようになっていたのが感じさせられた。写真は、バッキンガム宮殿の儀兵士の交代風景。

デンマークのコペンハーゲンへ
レストランはサービスに徹しているような感慨に打たれた

《昭和三十八年I》 ロンドンの空港からデンマークのコペンハーゲン行を待つ間が三、四時間もあったので、空港のロビーでいろいろな人と出会う機会があった。日本の外務省の役人らしい連中数人がパリの国際会議に出席する為に、ここの空港ロビーで我等の一行と一緒に待つ結果となった。
外国の旅先で同胞と出合うことは、何となく懐かしさを感じるものだ。
やがて飛行機の用意が整ってコペンハーゲン行となった。その結果、コペンハーゲンのカストラップ空港についてから指定のホテル「コダン」に到るまでの道程は、意外と短かったので、時間の都合でホテルまでの途中から、そのままショップなどのぞいて見て歩いたのだが、案外新しいセンスを持った経営ぶりに注目されたのである。
一行の中には、特別に気をひかされたものがあったようであり、探訪に役立ったようである。このコペンハーゲンでは、ホテルの六階がレストランになっており、晩飯をこのレストランで食してみたが、日の丸の小旗を各テーブルに立てるなどして歓迎してくれた。外国のレストランはサービスに徹しているような感慨に打たれた。 
コペンハーゲンでは、交換円を「クローネ」と呼ぶ。観光コースは、市庁舎博物館クリスチャンボルグ宮殿、アマリエンボルグ宮殿、可愛い人魚像、ローゼンボルグ城、ストローケット、コーゲンスニトフ広場、トルバアルセン博物館などがあり、静かな町である。
大体海に面しているだけに船乗り客が夜の頃ともなれば、ナイトクラブなど漁っている姿は、横浜の日本橋付近の感じなど思わせるものがあった。
ここで一つのエピソードがあった。上山とかいったコンダククーが、一行の中の三人ほどで、とある高級ナイトクラブで遊んだときのことである。三人のうちの二人を帰してから自分一人だけが残って踊っていた間に五百USドルを抜き取らたという事件である。ヨーロッパだからといって鼻の下を伸ばしてはいられないという実感の間題を提供した次第。この外にもう一つ、ここのホテルのホステスが夜の八時を過ぎたころになったら別人のような美人に変って外をながめてタバコを吹かしていたのに気をとられた。楽しいケースもあるという巻。写真は、コペンハーゲン空港の時計売り場。

西独のハンブルグ空港では掛・置時計などの新型が陳列されていた
腕時計は、勿論スイスものオンリーであった

《昭和三十八年J》 コペンハーゲンを朝七時四十五分、空港を飛立つというのだから出発の日のこの朝は早かった。一路ハンブルグというコースである。コペンハーゲンの空港では、掛・置時計などの新型が陳列されていた。腕時計は、勿論スイスものオンリーであった。だが腕時計のバンドつきケースの取換用の品物が販売されていたのを見て、矢張りヨーロッパのデザインは一歩先んじているものがあると感じさせられた。
日本では、ごく最近になってそのようなデザインのものを打出すべく、業者間で試作品などを造っていることもあるようである。こんな感想を残してハンブルグ行の機上の人となり、おいしい朝の食事が思い出した。
ホテルは湖に近いアスターという便利なところである。ハンブルグでは業界関係の視察プランが特別なかったので、ゆっくり観光コースを進めることにした。バスを使って見て歩いた中では、富裕階級の住んでいたという戦争前の状態など聞かされたが、この時のガイドは大学生の女性で、戦争以前の住居など細かく説明してくれた。その時、急に「在りし日のヒットラーのことについての感想を聞かして頂けませんか」と尋ねたところ、「忘れようと努めている事なので、それを聞くのは無理ですよ」と少し強い口調で断わられた。私はこの時の彼女の態度を見て、一種の感激を覚えた。だがそのあとでそのガイドマン嬢は「西ベルリンと東ベルリンの対照を現実に見て、自由主義と共産主義のあり方を批判して貰いたい」と訴えていたのが、今だに印象に残っている。
ハンブルグに着いてから日本料理を喫したいような気がしたので「花月」という料亭に行って見た。料亭といっても椅子席である。暫らくぶりで魚のさしみと湯どうふとほうれん草のお浸しという料理にありつけた。何とはなしに東京の感じを思い出すことが出来た。
観光バスで観て回ったあと、このコースでは決ってどの団体の場合でも連れて行くことになっているという、リババンという昔の浅草のような歓楽街のところに行ってみた。ミュージックホールやナイトクラブの順路でショーなど見たのである。ここのショーはヨーロッパ中を練り回っている連中が演出しているのだから、上等であり有名だと聞かされた。
我等一行が入場したこの日の観客はザット四、五百人もいたであろうか。その中からアメリカ、アジア、アフリカ等の各国人の名を呼んで、その中の一入ずつを舞台に誘い上げてダンスを踊らせるという趣向をやるのだから、なかなか気の利いたショーを見せたことになる。その時、我々の組を指して、日本人からも一人ということになり、黒田君が勇敢に躍り上って踊ったので、大喝采を博したことを思い出した。ヨーロッパの芸能人の眼は鋭いものだという感じがした。
この夜、有志で歓楽街での延長戦をやってみることにした。ハンブルグでは、有名なテレホン喫茶というのを探訪したいが、という二人の申し出があったので、用意を十分にしてという打合わせに基いて、彼等はこのテレホン喫茶の中に消えて行った。
私等はいろいろと回ってみた揚句、キャバレー、ムーランルージュというクラブに入ってみた。ここは、今の日本の喫茶店のようにドアーマンがいて、サービスがいいように見えるがそれは外面だけ。中に入ったトタンに汗が出るほど人がいっぱいで、身動きも出来ない程だった。その人ごみの中、半裸に近い美女ホステスがいて、お决りのビールを配って歩くのである。どうもチップの出ない方には行かないらしい。それもお馴染みの方が先ということになるらしく、キャバレー式のやり方である。この辺りは柬京やヨーロッパも同じというケースの感じがした。ただ映画で見るような外国人を交えた酒場の情景が眼の辺りに展開するというのが、ここでの見せ場のようである。
ハンブルグで理髪をやってみたが、ザット日本円の二百円。だがこれは頭髪をバリカンで刈り取ったあと、ハサミで仕上げただけで顔剃りも洗顔もしない。つまり、やりっ放しの料金である。
ハンブルグでは、映画館で見るバーなどに親しむ目的で五人程の仲間と組んで飮んで歩いてみた。昼間からの事だったが、映画の画面と事実がピッタリ、テーブルの上でトランプを楽しみながら、ビールのコップをあけるという寸法でバーにも行って見た。コニカ(CONIKAI)とかいうバーだったが、六時からというのに我等の一行は四時三十分頃にそこの店へ入りこんでしまったのである。ホステス一人が店内の用事を済ませたあとの時だったらしいので、宜しいか?と聞いてみたら「飲むだけならいい」というので入った。
彼女は我等が飲みながら聞くのに答えて、ヨーロッパの飲み歩きの説明をしてくれた。「スペインに行ったら、モテますよ」というのであった。スペインは、確か、女性との関係が出来た場合は、許可なしでは国外への脱出が不可能なのかも知れない?という国情をこの時思い出して笑った。書き落とすところだったが、テレホン喫茶での事件の経過のこと。詳しい内容はあと回しとして、一人二万円だというのを値切って納得したという報告に接した次第。写真は、ハンブルグのバー(コニカ)でホステス相手に飲みながら語りあう一行のスナップ。

ベルリンの巨大な空港ハウス
東ベルリンでヒットラーが自爆した丘に草が生えている遺跡

《昭和三十八年K》 西ベルリンの空港は飛行機が着陸の姿勢となる頃は、その下降路のすぐそばにまでアパート群が林立しているので、一寸感覚を間違えたのではないかと思えるほどの感じがするところだ。
西ベルリンは、東ベルリンに囲まれているような地形だから、空港から降りたら飛行機以外では他に脱出不可能ということになっている地形だ。
我等一行を乗せた飛行機は、そのテニヤン空港に着陸すると機体そのまま空港のハワスの中に吸い込まれるように運びこまれた。米国式の真に巨大な設計ぶりを思わせるものがある。
ホテルは、西ベルリンのメーンストリーの中央位置にある「ロッキシー」と呼ばれるハウスである。ここに着いた時、旅行社から出迎えに来てくれた人は、かってはドイツの軍人さんだったように見えた。バスがホテルに着くまでの短い間ではあったが、沿道に立ち並ぶビルやショップについて、戦争の為に蒙った被害の光景など細々と説明してくれた。日本人びいきの人のようであり、特別の親しみが持てたので、その日のうちに西ベルリンの貴金属、時計、眼鏡界に関する実情を視察することにした。
旅行社のガイドは、貴金属店について、白系ロシア人の店に案内してくれた。そのガイドは、この店へ入る前に「店の名前を読んで笑ってはいけないよ」と予め説明してくれたのだが、よく見ると「〇MANKOSKY」と書いた表札が出されていた。これらの点は国が違っても同様の意味に共通するものかしら、と苦笑した思い出があった。
写真(上)〇MANKOSKYショップで手製の時計ベルトを見ている熊谷、上野の両氏。

ベルリンでの税金は、営業税十五%、売上税十五%
時計や眼鏡の技能職種選定コースは日本と変わらない

《昭和三十八年L》 ベルリンでは、貴金属品の製造の盛んな地方はフルーツハイムであることや、また貴金属や時計の業者にしろ、人が職業を望むためには、中学校在学中に予め職種を選定しておいて、高卒後一年間の間に営業マンか技術者かの同種別のそれに対する技術を習得することが条件になっているそうだ。
それが技能士になるためのコースであり、その技能監修は必ず他店の技能士によって養成をうける。そしてその就業期間の記録帳を提示して、それによって査定を受けた結果でなければ、資格を得るか否かが決らない。即ちこれらのコースが職業開始の段階であるなど細かい説明を聞いて参考にした。
税金は、営業税十五%、売上税十五%、従業員を使用するには、保険規制を受けていることが条件となっており、組合費は年間二千マルクを支払う義務が負わされているという状況を説明してくれた。
ここの店では、表に陳列ケースを置いてあり、その内側をカーテンで仕切ってあり、そこから奥が職場になっている。貴金属製品や時計バンドなどが数人の技術者により手作りされているという状況であった。時計の場合も眼鏡の場合も技能職種選定というコースでは、すべてが変わっていないようである。
眼鏡業界の部は、その翌日、カールツアイス工場を北岡氏と共に訪問し、いろいろ説明を聞いた。眼鏡学校における内容の見学も行った。ここの教師の説明では、日本人では二人の訪問者があり、名刺を持っているということであった。その二人とは、白山氏と岩崎氏ではないかと語りあったのである。写真は、東ベルリンでヒットラーが自爆した丘に草が生えている遺跡。

西と東のベルリンの境界の壁
思想に関する批判など求めたい気持を持っているように想像された

《昭和三十八年M》 世界の人の注視の的となっているベルリンの壁は、西と東の交通を今なお斜断しているという。その状況を見学するために、世界中から観光客がここにやってくるのである。
我等一行のガイドは、ベルリンの技術大学の女性のハンターさんという人であった。バスの中でこの女性は、西と東の壁について見る人遠の感情がどう変わるであろうか、よく見て来てほしいと強調していた。人によっては、いろいろ違う見方もあるようだが、ドイツの人は心の中で、これらに関する何ものかを求めているらしいようだが、それを表面には出そうとしないように努めているのが判るように思えた。案外青年層の中には、この壁を通じて、思想に関する批判など求めたい気持を持っているように想像された。
この序で一つのエピソードを紹介しておこう。
ホテル「ロッキシー」に宿泊中、エレベーターのドアーを止めたままドイツ人の一青年が私に話しかけて来て困ったことがあった。「君はジャパニーズ、ビジネスマンだろう」と英語で聞いてきたのである。だが、この時私は外出する途中で、自室に用事があって帰って来たので、表には自動車が待っている時だった。私は単独では会話の点でも困るので、ただそれをさえぎるだけに努めたのだが、おそらく彼は、日本人は且ては旅人と共に防共の仲であったのではないか、という戦争時代の感慨などについて会話をしたかったのだろうと思えた。
そんなこともあっただけに、とにかくベルリンの壁については直視してみた。そう考えてくると、このベルリンの壁ということについては、何れの面からでも悲哀感をもって見守っているように見えたのである。写真は、ベルリンの壁を覗き見る観光客。

小高く土を盛った丘でヒットラーが自殺した
手前が米兵、先方側にはソ連兵が立って相互に警備している

《昭和三十八年N》 やがて走っていくうちに左側に小高く土を盛った丘の形をした方向を指さして、あの丘でヒットラーが自殺した場所であると説明してくれた。ヒットラーが死んだ所というその跡は、草が生えてこの世からは見捨てられているという格好を見せていたのである。それを過ぎると、かつては西ベルリンの主要官庁街であったという場所である。今は東側の官庁街に変わって使用されている光景がのぞかれる。
東側には、電車もあれば汽車の走る光景も見られた。我等一行の観光コースは、一定の線以外には外れていけないことになっているとみえて、東側の中央と思える交叉点に停車して、これが行止りですと説明された。ここでカメラをパチクリやりながら少憩のあと、再びバスは西側へ戻り、コースをとったのである。西側に近く境界の壁が間近に迫った頃になると、東側のビルの中から、そこに住む人々の手が振られて、我等西側に向って行く人々に何か合図する姿が見られる。西への希望があるようで想像が出来て何となく心を打たれるものを感じた。
バスの中でガイドさんは、特別な説明をしてくれなかったが、タバコのマッチを取り出すために手を差し出した途端、そのガイドの手の甲に角型の焼き印の跡があった。しかし、このことを表現するには危険だと思い、心の中にしまっておいた。
バスが西側に戻る際の壁側の検察は、さほど大げさなこともなかった。われらのバスの傍で検査を受けた小型のルノーの車に対する処置は、頗る厳重なものであった。かくて壁を越えて西側に戻って来た時、ガイドのハンターさんは、どこかに待機していたのであろうか、突如として飛び出してきて我々のバスの一員となった。
かくしてホテル「ロッキー」に着く前に、ベルリンの壁などを写したカラーのネガの買い手を求めて来たのでみんなでこれに応じた。
バスのガイドさんは、「私はここから先へは行けませんから、よく現実を見てきてください」という説明を残して彼女はバスから降りていった。東ベルリンに入ってからは、別のガイドマンが乗車してくれるというのだ。
この壁というのは、東西ベルリンの境界に立てられた完全な障壁で、手前が米兵、先方側にはソ連兵が立って相互に警備している姿が確然と見られる。その状況を見ようとして西側の境界の少し手前に少し高く物見台のようなものが設けられてあり(写真は当時のもの)見物人はその台の上に登ってその光景を眺めるのである。然し、最近は、コンクリート造りの完全な壁が出来ているという。
我々一行を乗せたバスは、東ベルリン(ソ連)側の係官の検査が済まないうちは入国出来ないので待機していた。この間、バスの運転手はソ連兵のいる頓所に連行されていった。何やら調べがあるのであろう。少し経った頃ソ連側の士官らしい人がやって来て、我々一行のパスポートを順次調べた。聞いていたよりも簡単な検査の仕方であり、これ位の手数は万止むをえないと思われたのである。
新しく我等のバスに乗って来た東側のガイドは、最初に乗って来た人は、これは違うといって降りていってしまった。その次には少し年輩の人が乗って来て、間もなくしてスタートした。写真は、東ベルリン市の繁華街地域。

出発を一日延期したために賭博場見物が出来た
チップ込みの一人当たり百五十マルクで入場することが出来た

《昭和三十八年O》 ベルリンからの出発が飛行機の都合で一日延期になったというので、どこかへ他の国へ行こうではないかと相談したのだが、西ベルリンというところは、東に囲まれたその中にあるのだから、飛行機以外では脱出が不可能ということを聞かされた。だからこの一日を有効に過ごすためのことを考えるのはなかなか骨が折れたのである。従って、いろいろと見る物や買物などについては、ゆっくり漁ることが出来た。
夜ともなれば前夜に考えていたナイトクラブ行きを考えたが、ヨーロッパというところは夜十一時半にならないとナイトクラブは開かない。でも時間待ちはくたびれるので、その間を利用してトバ入りを敢行しようと考えた。希望者を募って七人が参加することになった。メインストリートの中央に存在するクラブを訪ねたが、すげなく入場を断られた。
この交渉の様子を見ていた一行の中の一人が、手招きして呼んでくれて、一人頭チップ込みの一人当たり百五十マルクで入場することが出来た。場内の賭場は、案外小さいものだった。そこで二時間ぐらい遊んで帰った。
この賭場の同元であるスペイン人らしき人が「あなたは、インターナチョナルですか」と聞いてきた。何故かというと、私は「七」の一点張りで、最後までその張り方で終始し、結構儲かった。チャイニーズの印象もあったが、私は「ジャパニーズ」と答えたもので、国籍調べの言葉はなくなった。
次いで前日、馴染みとなっていた「ヘンリー」というナイトクラブに入った。頗る客筋は良い。ハイボールを飲んでいる我々の間に分け入って来たホステス連中の態度は、いと物柔らかさを感じた。東京のようにホステスがすれてはいない。
日本人相手のホステスは、英語が解る人でないと来ないようになっているらしい。私らの席に来ていたホステスは、カロリーナさんといいスエーデン生れ、もう一人のぺギーさんはオランダ生まれであるといっていた。日本と同様の線があると思ったのは、寒い国の人は肌が比較的しまっているという事である。写真は、シュワニンゲン時計博物館の一部。

フランスの首都、パリの魅惑
シャンゼリーゼで和服姿の三人の日本人女性に会った

《昭和三十八年P》 狭い地域のベルリンに三泊したのだから、一行は次の旅行地パリに向って飛んでいくのに期待をかけていた。パリのオルリー空港に着いてからホテル「ノルマンデ」に着いたのである。
パリはセーヌ河の真中にあるシテ島と呼ばれる小さな島の上に生れ、ノートルダム寺院がそびえ立つ市の心臓部である。人口五百万人を有し、世界で最も美しく、文化・芸術の伝統の都であると称されている。従って世界旅行の中でパリを忘れることは出来ないとされている。
この国の通貨の単位はフラン、一フランは十サンティーム、一ドルは約四、八五フランに当るので、パリに着いてからの両替は、誰しも頭を痛めていた。
パリにおける行動中二、三人が自由行動をとることになったので、その他のメンバーは観光に重点を置いた。
観光の第一歩はなんて言っても有名な凱旋門。ナポレオン軍の栄光を叶えて建てられただけに、エトアール広場と共に有名である。この門の屋上に上ると、パリ市内が一望に見える。門の下には無名戦士の墓がある。ここを中心に十二のアヴェニューが放射線状に伸びており、これに連なって有名なシャンゼリーゼがある。マロニエの並木道として知られるこの大通りは、エトアール広場からコンコルド広場を結ぶもので、世界で最も華やかで、且つ気品のある通りといわれている。
このシャンゼリーゼの沿道の両側に、パラソルの下にコーヒーをすすりながら眺めている風景はパリならではの味がする。我等一行がここで休息していたら、表の道を行く日本の和服姿の三人の女性が笑顔で手を挙げて会釈しながら通っていったのを忘れない。だからパリで見ている人の中には、日本人の数も相当いるのであると思えた。写真は、パリのルーヴル博物館前の一行。



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