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前橋市における時計の廉売対策の闘争劇
前橋市の安売りをうまく収め、群馬時計貴金属組合連合会の顧問に
 
《大正年代》 時計の廉売行為などというものは、突飛でもない気分でないとやれないものらしい。つまりバナナの叩き売り式のやり方であるからである。金のペコ側をオトリにしたのだから、たしか大正十四年の頃のことだと思う。その頃、東京・上野にあった某時計店の肝いりで前橋市の中央で突然時計の安売りを始めるという情報が入った。この安売りが始まると大変なことになると予想された。 
当時、それに対処する前橋市の時計業者らは、明治時代から残っている上州の脇差姿そのままといういで立ちで騒いだ。現存する深沢時計店の五郎平さんなどは、その頃の丸山組合長のデチに従って、文字通り赤鞘の三尺を小脇に差し込んだスゴイいでたちで安売り現場への切込み、用意の仕度を整えていた。その時の勇壮な姿は今でも私の眼に彷彿している。私はその情報に接して前橋に急行し、安売りの現場をのぞいて見た。
すると私とは顔馴染みである売場担当者の某が主となって懸命に売場作りの準備をしていたのである。私は、これは大変な事になると直感したので、今晩中にでも安売り団側が手を引くように手配するのが肝要だと思い、その足で東京に引返した。そして野尻、吉田、鶴巻の五日会主脳陣を案内して、事態収集のため前橋に急行したのである。ところが両者間の条件が案外に大きく且つ隔たっており、然も廉売停止の調停条件に商品の供給根絶の戦を厳重に打出して来ていたのでこれを活用して、その場をことなく収める事に成功した。この時の手打式が、前橋市内の赤城館で催された。その席上には、緊急招集に応じて馳せ参じた群馬県時連各地区代表の面面がズラリー列となっており、その席上で、私がこの安売りを上手に収めたことを称えてくれて大いに面目を施した。
この事をきっかけとして、以来群馬県時計貴金属組合連合会は、ますます連合会の結束を固めることになった。私はその当時から同連合会の顧問という名誉ある役職を仰せつけられ、光栄に浴している。

金のペコ側出現時代 大正年代
新本秀吉商店から金側のペコ側極安物が新製品として登場

《大正年代》 大正年代における一般的な景気は、あまり芳しい状況のものではなかったように覚えている。特に、日独戦争後の不景気とそれに関東大震災が続いた悪い材料を背負った時代であるから景気の良かろうはずがない。しかし、世の中というものは、“世が乱れて忠臣出ず、家貧うして孝心現わる”例えの如くで、商業陣営の中でも日進月歩常に新しい物の出現があるものである。いうなれば、それらは進歩の類に列することにもなるものであるかも知れない。
時計業業界においてもこの頃、その例に洩れないものがあった。それは大正時代の不景気ということと大震災という惨苦をなめたあとだけに、商業陣営を張っている面では、何とかして新型の商品がないものかと、それを期待していた時代であった。そのころ突如として打出したのが、単価の極めて低い金の腕時計側の発売であった。
発売元は、東京・京橋の小田原町にカザリ工場を営なんでいた「新本秀吉商店」という店であった。その新本商店というのは、元来がカザリ職で細工物には妙手の店であるといわれていただけに新規の物作りには特殊の器用さがあったと噂されていたのである。俗にいって頭が良いという一言につきるのであろう。
新本秀吉商店から金側のペコ側極安物が新製品として登場したのである。終戦後の発明の実現という研究課題がもたらしたことになる。このころの業界の状況は、腕時計が流行している時代でもあり、特に金側という品質については、金そのものが東洋人の趣味的最高愛好品として重く扱われていた時代であったのだから、金側というものが時計そのものを保護する役目を司るという立場の点で、ある程度の厚味を持たさなければならないものとされていたのである。従って当時、金そのもので社会的にも信用を持っていた服部時計店製の「ツバメ印」製品や、山崎商店の「ホシS印」を始め、その他有名商標入りの金側製市販品の対象に上されていたのである。
だから腕時計側用の金の付目方としては、十型の場合は一個につき少なくとも七分から八分、目付の多いのになると一匁を上回るものなどがあり、注文品の常としていたような状況であった。そこへ突如として進出した薄い金のペコ側は、何と一個の付目方がせいぜい四分五厘位という低い目付のために業界筋では驚いた。そうしてすばらしい技巧品だと最初の中は褒めたたえていたのだが、その市販価格が目付の少ない関係で売り易いというのが魅力となった。そうしたことからその品物は、何処でも引っぱりでに繁昌した。
この頃私の肝入れで設立した東京都内所在の時計貴金属卸店のセールスマンから成る「東交会」という会が既存していた。その柬交会員中に新本商店のセールスマンで清水某という人がいた。清水君の売場は、常に高級品を持ち歩いていたので銀座の一流店以外は足を踏み入れなかった。
人気のある金ペコ側は、如何に安いからと言って銀座の一流店には持って行けず、また注文もなかったという。しかし流行というのは恐ろしいもので、その金のペコ側の取り扱いが日を追って激しくなり、一流の銀座の店でも扱わざるを得なくなった時代だ。それが売り出してからたったの二週間か三週間がたったころの事である。
当の清水君は、連日このペコ側を専門に取扱うようになったので、持ち廻って歩くための提カバンの中味はペコ側物だけ。しかも朝九時からの仕事始めから一、二時間を経ただけで全部売切れという好調ぶりを見世でいた。それが毎日連続というのだから売れたのも当然で、その売行と言ったら特別という有様である。こんな状況でペコ側に対する人気は全  
国的に広かっていった。東京の時計の卸業者でも次第にこの金のペコ側の供給が行なわれるようになった。ところがこの金のぺコ側の出現について、一つの間題が台頭して来た。それは、金側時計そのものの商品的価値は、時計の機械を測るそのものが保護する役目を持つものであるのに、ペコ側を取り付けた場合、側そのものがペコペコしているために、機械を保護する役目はおろか、側それ自体が側そのものを完全に保持していくことさえ危険であるという事から、これらの劣悪品の出現は時計業界にとって不利益な物であり、防止すべきであるとの声が高まって来た。これ以来、安くて売りやすいペコ側時計を扱う店と信用を重んじて高級品以外は扱わないという業者が相対立する傾向となった。ここで時計界の情勢は、ようやくそれらの議論を中心に混沌たる空気を醸し出してきた。

六月十日「時の記念日」と宣伝活動の始めの頃
ビラ三十万枚を印刷して東京全市に撒布することにした

《大正九年》 天智天皇の御代が、六月十日に水時計というものを作り、これを使って時を計ったのが時計というものの始めだという。日本では、この日を「時の記念日」と定めているが、時の記念日活動を起した最初は、大正九年、当時の内務大臣伊藤博文公が、西欧文化の進巡に倣って日本国民の生活改善を計り進めることにしたのがそもそもの始めである。
そしてこの生活改善という具体的な進め方のために、「時」というもの貴重性を社会的にも強調することが必要だということから、その方法を街頭における宣伝活動を以て活用することにしたのである。この街頭宣伝活動についての具体的なコースは、大正十三年当時、時計業界紙の一つであった日本貴金属新聞の大阪支局長になっていた中川というひげの老人が、大正十三年の四月頃わざわざ上京して公共的な性質の面が多くて収益性が乏しいと見てとったのか、福田社長自身は余り乗り気ではないようだった。従って大正十三年五月に入ってから神田の一ツ橋会館で社団法人中央生活改善同盟会主催の「時の記念日事業活動に関する執行方法の打合せ会」が開かれた。
その席には、私藤井勇二が代って出席したものである。会議の席には吉屋の                             のぶ子女史始め社会的にも有名な十二、三人が集って、その年の事業執行種目につき協議を行なった。街頭宣伝についての具体化案については、私が社に帰ってから相談した上で返事をすることに約束して帰った。かくて社内における相談の結果、六月十日の時の記念日における街頭宣伝事業を敢行することに決めたのである。そしてビラ三十万枚を印刷して東京全市に撒布することにした。
但し市内での撒布方法については当時、東京地区には服部時計店の社長が頭取(組合長の意味)をしていた日本橋、京橋地区内の時計業者に神田地区の一部を含めた範囲で出来ていた「俗称・日京組合」という団体の「東京時計商工業組合」というのがあり、また別に、山の手地区内業者の団体をまとめて設立されていた「山の手八組合連合会」という二つの団体が存在していたので、この方面への交渉ほか一切の連絡は私が責任を持つことになった。そこで「俗称日京時計組合」側には、組合の事の一切を代表する立場にあった槙野さん(大勝堂)に先ず話をした。そのあと秦利三郎氏(伊勢伊)と大西五郎平氏(錦綾堂)にも連絡をとって話を進めたところ、別に悪い事ではないのでいいだろうという事になり、
組合名の利用の承諾を得ることになった。
次いで山の手連合会側に対する交渉は当時、新宿二丁目にあった紺野時計店を訪問、組合名の使用する交渉をしたところ、「それは良いことだから当日の宣伝ビラ撒布の活動に全支部員が総動員して協力しようではないか」ということに話がはずんで決まった。その結果、六月十日当日の撒布ビラは三十万枚ということに内約した。このような話合いの最終的決定をするために紺野連合会長は、副の近藤抬蔵氏(肴町の富士時計店)と会計の鈴木卯八氏(四谷三丁目)を即刻呼んで合議してからこれを決定したのである。
かくて十日当日は、生活改善同盟会主催の時の記念日宣伝本部なる小旗を立てて、日本貴金属新聞社を本部とする宣伝ビラの撒布活動は、その日の午前八時から私が陣頭に立って全地区を馳けまわり敢行したのだが俄然開題が起った。それは約束による数量のチラシが配布されるというので配布する数量に割当てて人員の出動を手配してあったのに届けられたビラの数量が余りにも少なく足りなさ過ぎるという点の不満の訴えであった。
山の手組合の混合会側の主将、紺野さんは電話で約束の数量が足りないではないか、早速不足分の配給をするようにと強い催促が電話で送られてきた。新聞社側では、社長の福田氏はそれ以上の刷増しをしようとはせず、そのままにしてしまおうではないかという体で表面を装っていたが、組合側の態度が強いので急ぎ印刷場を督励し、正午頃までに全部の
数量ではなかったが兎に角一応増加配給を行ったことで事態を沈静の場に持込むことが出来た。
京橋地区では、森川時計店主(茂次氏)が宣伝隊の主将株で、これに八丁堀の川名、銀座一丁目の石丼氏ら各時計店主ら十数名がズラリ顏をそろえて、この日の宣伝活動のためのビラ撒きに努めたのである。かくて宣伝日当日の夜は夕刻から料亭で慰労会が開かれることになり、その席に私は特別接待を受けて出席した記憶がある。写真は十四年当時の時の記念日街頭活動。ビラを撒くのは大妻女子高生。

大震災直後の横浜の時計業者救援活動
歩いて持ち帰った修理用部品と工具の一式を横浜地区居住の時計組合員に無償で提供

《大正十三年》 横浜の立正堂時計店若松治之助さんの店にあって横浜時計商組合の書記長努めていた山田さんが、その当時(大正十三年)私に説明してくれた大震災直後の救援活動状況は、次のような光景であったという。
大正十二年九月一日正午近く、突如関東地方の全域が大震災のために壊滅して終った。横浜地方と東京の時計業者は何れも復興力を失ったと見る外はなかった。仮りに立ち上がることが出来たとしても、時計商としての最初に必要な時計の修理活動に欠くことの出来ない工具と時計部品の備えがない限り営業することはできなかった。それを補うために主人の若松洽之助さんは、決意を新たにして被災から免かれた名古屋地方への買い出しに出かけることにした。
もちろん、山田さんその人も若松治之助さんと同行した。然し、災害のために汽車が走っていないので鉄道線路上を歩行する以外に持ちはこぶ方法がなかった。二人は三日もかかって線路上を歩いたのだという。そして修理用部品と工具の一式をそろえたのを背に負って持帰った。それをそのまま横浜地区居住の時計組合員に無償で提供したというからその義侠心には驚かされたようである。この話は若松さんと、買い出しに同行した山田さん本人の口からも賞めたたえた状況を聞いた。大正十四年の正月に関内の料亭「いろは」で開催した横浜時計商組合の総会でも、この頃の状況を当時伊勢佐木町通りに開業していた石田時計店の主人石田修介氏(副組長)からも報告されて、若松さん(組合長)に感謝状を贈ったこと記録がある。それほど震災当時には、いろいろの義侠的美談が生まれ賞讃されたものである。
【注】この話題の山田さんが亡父の遺言の中から抜書きしたものが前記明治十三年頃の日本の時計界関東の巻があり、これにより当時の資料が得られ、感謝している。

大正年代の業界と関東大震災前後の状況
復興の速さに目を見張るものがあった

《大正十二年》 前項までに記した時計業界にまつわる古記事というべきものの資料は、大正十五年五月の創刊になる本紙の「商品興信新聞」時代を通じて入手したものであり、このほかにも、それらの事実を裏づけるに足る重要かつ沢山の資料が東京・湯島天神時代の本社内に山積みされていたのであったが、過ぐる昭和二十年三月十日の帝都大空襲の災禍のために全てを烏有に帰しめたのは甚だ残念である。
従ってこれからは、大正十二年九月一日に起った不測の災渦関東大震災という突如として急変した当時の時計業界事情を中心にしたものの資料を主に、またその他からの資料を補って集録することにする。
大正十二年九月一日に起った大震災当時の日本の姿について概述すると、大正年代というものは、明治時代の自然的延長の姿そのままであるという外に格別いうことがないようである。明治時代の間に日清、日露の両役を通じて大きな経済的国力の消耗を来している。それだけにその当時、日英両国間で結んだ同盟条約により、大正五年の第一次世界大戦の際に真珠湾で独乙に対する戦争をしなければならなくなったのである。
この時の戦争で日本は大勝したが、戦争という結果の経済的損害はこれから続いたのである。従って、それからの日本国内における国民生活の上にはいろいろと恐慌が襲って来たのである。それらによる不景気風は、大正九年頃を絶頂時として嫣来漸亊立直って来たかに見られていた時だったので、大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如として襲った関東地方の大震災は余りにも大きい痛手を与えたことはいうまでもない。震災によって受けた被害の結果は、東京始め横浜はもちろん、関東地方の全土が全滅されて終った。その復興は予想外に早かった感じがした。
九月一日の被害で右往左往していた市中の焼け跡は、三日目を過ぎたころからは立退き、先の立札が立ち始めて来ると、そのあと数日するころには焼跡へ復帰するバラック建の工事が諸々に見え始めた。大工さん達のツチ音が焼跡の諸所に響くようになったその年の十一月には、銀座二丁目に服部時計店の仮営業所が出来た。
東北方面のお得意先に便利な「吉田時計店」は、上野の不忍池の池畔に面した大通りにバラック建の仮営業所を設けて商売を始めることになった等。
またその翌年の春頃には、池之端の仲町にあった「加賀屋商会」、広小路の「鶴巻時計店」、浅草の並木町の「見沢万吉商店」、浅草橋の「今津時計店」、日本橋通三丁目の「大西時計店」など市内の時計卸商群が続続と軒を並べて商売を始めかけたので、時計界はこのころでも他業界に卒先して明るさを見せるような状況だった。
このころ、バラック建の仮営業所での商況でも、焼けて無くなっお陰というか、目覚時計などが飛ぶように売れたものだ。このためどこの時計の卸商店でも「新入荷即売り切れ」という光景を続けていたので、業界の景気は一際上向いた傾向を見せていた。今でもその頃を想い出して当時の光景を彷彿させるものがある。
かくて時計界はバラック建ながらも、アチコチに建てられ始めた小売店の数の増えるのに伴って復興が緒についた。そのころ、時計業界を根城にしていた業界紙の種類は次の如きであった。
名古屋時計商報社(名古屋)(雑誌体)=主宰:吉田弓氏
日本宝飾時報社 (大阪)(タブロイド版)主宰:岩出喜一氏
日本貴金属時計新聞社(東京)(新聞体)=主宰:福田正風氏
時計タイムス社(東京)(雑誌体)主宰:水上社長

【注】この外、「東京時計卸商報」と名称した時計卸組合五日会卸団体の月報をその五日会の書記役を勤めて浅草花川戸に所在し東京履物商報社を経営していた飯田剣山氏という人が担当しており、月刊の綜合月報なるタブロイド形式のものを出していた。藤井さんよく活動しますね、と鶴巻時計店であった際に、当の飯田剣山氏から私にジカに吐かれた言葉など思い出せるのだから、おそらく東京時計商報と名称して時計の業界畑に喰い入って来たのは、昭和年代に入ってからの事だと記憶している。
だが時計界の空気は、大震災の年の翌年の大正三年の正月明けは、街頭のバラック建のツチ音と共に活気に満ちて来ていた。それは、街の復興景気に伴って時計界は時計の売行がよすぎる位に売れていたので何処もここも好景気に押されて明るい気分が展開されていたからである。そうなって来ると品物の売り出し広告の掲載申込みもあるし、店舗新設の案内広告の申込みもあるといった具合に新聞広告の利用が漸次高まっていった。
私は大正十二年の大震災の年の暮から日本貴金属時計新聞社に入籍していたので、大正十三年の舂からは外務畑を飛び歩くようになっていた。この当時の同僚社員はというと、先輩の桜井潤一氏がただ一人という状態であったのだから桜井君の社の内外におけるその頃の勢力は大したものだった。屋内にいた社員では、編集の高橋、発行名儀人の寺尾一十、財務の大竹老というところへ私が飛び込んでいったのだから、働く余地は十分にあったわけである。ところが私の歩きまわった場所は、他の社員活動の範囲を侵すことにならない、新規のスポンサー開拓という面が多かった。それだけに横浜のようにスポンサーになってくれる面の少ないところは専門的領分として分けて貰うことになったので、この方面の業界事情には案外精通するようになっていった。
この当時、横浜には時計組合といった既存の歴史を持つものとして、日本最古のものがあり、その頃の組合長だった若松時計店の御主人の若松治之助さんは、あらゆる人に対してとても親切に世話をしてくれたものである。その若松さんの店に山田某という時計組合の事務的な面倒を見ていた書記役の人がその店に起居しておられたので、横浜にある外人居留地のことなどについて古い時代からの話などよく話してくれたので新聞の資料集めの為に大いに役立ったものである。

大正年代に生れた時計工業の径路
昭和五年当時、時計の工場が続々と誕生した

《大正五年》 大正五年に「東京製作所」が生れて電気時計の製作を開始、大正七年に「隆工社」がマルテー置時計を発売、同年「尚工舎時計研究所」を設立、大正九年に吉田時計店が「東洋時計製作所」を興して置時計の製造を開始した。
大正十年、「雄工社」が掛時計の製造を開始、同年八月、「東京時計製造株式会社」が五十万円の資本金を投じ、目黒に本拠をおいて置時計の製造を開始した。大正十四年、鶴巻時計店が経する「英工社」が誕生、掛時計の製造を開始した。大正十五年、「村松時計製造所」が池袋に設立された。このように続出経路を辿った結果、昭和五年当時の時計工場黻は次のような状況を示した。 
懷中時計(二社)、電気時計(七社)、置時計(十九社)、掛時計(二十社)、部品製作工場(三十五社)この中、小物時計メーカー数は、昭和十五年当時は精工舎、シチズン、東洋時計、村松時計製造所の四社を算え、昭和四十年の現況はセイコー、シチズン、オリエント、リコーの四社であった。

私が中島さんと知り合った経路
下谷村でも顔であった中島さん

《大正十三年の春頃》 当時私が下谷村と呼んでいた時計卸畑を廻っていた頃、巣鴨にあるナポルツの時計工場(ヱルーシュミットエ場)の本間さんという人に出会った。本間さんは、時計の商売をするため卸屋巡りをしていたのである。本間さんが、「シュミットさんに会って広告でも貰いなさいよ」といってくれたので、それから巣鴨の同工場へ足を運ぶようになった。巣鴨の工場へ行った時、私は最初鈴木良一さんに会って広告を頼んだのだが、「中島さんの許可を得ないとダメ」ということだったので、それ以来、中島さんに会う機会待った。そしてまた、スイス人のシーネフさんにも会うことになった。それから二、三度行く内に、横浜山下町の居留地に震災直後の昭和十三年頃、バラック建てのナポルツ商会を訪問したことがある。その時、中島さんに会い、少しく顔見知りになった。その頃の思い出を尋ねたことから、わがままな頼みも聞いてくれるようになった。それ以降ここだけは私にとっては親身のように懐かしさが湧いて来たところである。
外人では、シーネフさんの外にアベックという人がいて、日本人では中島さんの外は鈴木良一さん、本間さん、加藤さん、桜井さん、安西さんという方々に会う機会があり、今でも顔なじみである。それらが二、二年続いているうちに時計界の情勢にもいろいろの変化が生じてきた。中島さんは、下谷村にも時々足を運ぶようになってきた。しかも輸入時計についてはうるさい税関上のことなども湧き上がってきていた。
中島さんは、欧州に行ってから事業の都合で時計業界に入る事になって二十五年間も時計一筋に専門的に働いてきた。「人間というものは、生命に限度がある。だから私は出来ることなら生きている中に、何かの事業を残して死んでいきたいと思っていた。その意味でシチズンを回生出来るなら、終生の事業にしたい」と思っていたと漏らした。「それは立派ですね」と語り合ったものだ。

時計バンドが作り出された最初の頃
布製のリボン式腕バンドから革製のバンドの登場

《大正十三年》 日本の時計付属業界というものの概況を辿ってみると、明治時代から永い間使い慣れてきている時計は、懐中時計位だけだったので、明治から大正にかけて市販用に供された時計の付属品は、「ヒモ」、「クサリ」、「メダル(磁石つき)」など特殊提げ物、提げ時計用外側サックの類に止まっていた。だからこの頃は、時計の附属品と総称していた。それが大正年代に入ってから、腕時計が市販されるようになったので、ニッケル側やクローム側などに用いる腕リボンが出現し、それから皮バンドの登場という順序になっている。
だから、ヒモ(提げ用)やリボン(腕用)などが市販されていた時代に到っても、腕時計のバンド界という名称はつけられず、時計付属品としての部門の中で商品の取り扱いが行われていたのである。それがやがて布製のリボン式腕バンドのごときが登場、この面の改良に拍車がかかり、ついには革製のバンドが登場することになった。
皮革バンドのメーカーとして当時有名だったのが、たしか堀切辺りにあった「小幡製作所」などは古く、且つ組織立っていた方だ。小規模ながら本所・石原町にあった「池上彰治氏」なども、この道の職人として古参株に次ぐものであるようだ。
皮製バンドの需要が旺盛になった頃の池上氏は、毎日朝から酒びたりで有名であった。私が業界入りして間近い大正十三年の頃、皮革製腕バンド専門製作所としで信用を博していたこの小幡製作所に広告を出してもらう為に足繁く通っていた。
ところが当主の小幡さんはなかなか会ってくれなかった。そして会った場合でも、おいそれと広告を出してはくれなかったのである。もっともこの頃は時計の付属バンド業界に古く顔を売っていた桜井潤一君が同僚におり、どこでも顔をきかしているその桜井君が、案外持てあましていたようだったので、終局私に訪問のスキを与えてくれたという関係でもあった。
だから簡単にスポンサーねらいのための返事は与えないというのが本来であったのかも知れない。然し他人の眼で見た結果の点数がどうであろうと、私が推測したところでは大丈夫広告を出してくれる性格の店であると見てとった。
私もこの店を訪問する際には、はっきりと断わられる前に、次の約束を取り付けておく努力をしていた。十三回目ぐらいの訪問した時、当の小幡さんが私に向って曰く、「君の精魂つくした努力には負けたよ。ご希望通り広告を出してあげよう」ということになり、快く承諾してくれたのである。私は心の中で喜び且つほんとうに嬉しく思った。自分の望みが自分の努力によってかなえることが出来たということである。それは相手の仕事を邪魔することなく自分の努力を評価してくれ、望みがかなったことへの喜びであった。
私は誰に対する場合でも同じように、この場のことを取上げて言うのであるが、人間の活動力というものには、各人それぞれが自由に伸ばしうるようにして与えてやることである。それにしてもなお成果を収めえないのであれば、それに対してはその場で点数をつけることである。だがそのような方法と措置を与えておかざるままで、その人に対して行動の批判をしたり、また減点方式をとるようなことがあってはならない。私は今日に於ても、なおその趣旨の説明に変るところがない。これは人間的性能を生かす点では、活動上の本則であると思っている。私は以上のような観点からも小幡さんから快諾を得たこの時の成果には、自ら感激したのである。人間は矢張り働かなければ得られないものだという事実を以て学んだ次第である。
この時の行動に関する話題は、この小幡さんからバンド業界の各方面に流されたので、この当時から私の活動について業者側では特別好意的に迎えてくれるようになった。そんなこんなが因縁となって、付属業界ではいろいろと私に対して好意的に処遇してくれるようになった。特に東海道方面に取引先を持っていた貴金属装身具卸の「原徳商店」が、以来親戚的な付き合いをしてくれ感謝している。
そして、その延長が当時のバンド界では王座格の地位にあった「若林善治氏」にも及び、特格別好意的に処遇されたなど、今更ながら業界記録の中にも残しておきたい。かくしてバンド業界の体形は、業務上の伸長性と共に暫時伸展し昭和時代に移ってからも急速度に発展したのである。写真は日本橋の大沼時計店。

大正十五年に本紙「商品興信新聞」が創刊した当時の業界の状況
大阪支局を開設し、発行部数の実数一万五千部を発行していた

《大正十五年》 私は“愛される新聞”を目標に、時計と貴金属業界を母体にした専門新聞作りについて施策をめぐらした。@業界新聞というものの在り方についての正しい判断、A現存する業界新聞そのものが業者側との正しい密接感が保たれているかどうか、B私が発行する新聞の在り方についてであった。それらを検討した結果、必らずしも時計、貴金属の文字を使用しない場合でも、時計・貴金属業界に存在し、業界の中で有効に活動するのであるから、むしろ異名の題号を用いることの方が、既存する業界紙とのまぎらわしい点から分離することが出来て、寧ろ明確さを増すであろうとも考えたのである。
その理由は、この当時の日本貴金属紙社では人権圧制手段が採られていた。つまり、社員活動に制限を加えたり、社員が自らの努力により培かったスポンサー畑を働らきすぎている、という理由で剥奪して終うという悪どい手段が採られ、それがたび重なって行われたので、この点から考えても当然独立自営のコースを採る以外に術なしという結果に考え到っていたのである。
そんな関係だったので創刊することを画然としたいという気持から「商品興信新聞」という題字に決めたのである。それを決めた埋由には、かっての考え方があった業界の状態は商品取引をするのが常であり、その場合、その取引についての良否善悪が取引上のポイントになるのであるから、それらの改善を願う為に行動が起こせる新聞になること。何れにしても題号が決まり、創刊の日取りなどの細部にわたり決定を見たのは、大正十五三月の中頃であった。この間の手配は、すべてスムースに運んだのである。
取り分け、スポンサー関係を飛び回ったときの情況たるや、人気は上々であり、どこの訪問先でも、「発刊するなら何んでも相談に乗るから来いよ」という温情あふれる激励を受けて帰社するのが連日続いた。今でも静かにこのころの情景を考えてみることがある。
人情というものは、立身出世の志を立てて、社会人としてのスタートをする場で、しかもいざ自力発揮という場に臨んだときに、それを引き立ててくれたその人の恩情こもったゼスチュアなんぞと来たら、それこそ終生忘れられるものではない。正に感激そのものである。私はそれからまる四十年過ぎた今日でも、時としてその当時の光景を思い出して、人間の社会的行動の慎重さということについて、つくづく考えて見ることがある。だから、若い世代に立身を志すものは、その時その場合に処する冷静かつ沈着な考え方を持っていなければならないことだと痛感し、それを必要な場合に若い人達のためになることなら参考に供したく努めているのである。
そのような環境の中から作り出された「商品興信新聞」の第一号は、大正十五年五月八日を期して堂々と発刊された。この当時、下谷地区には、時計の卸商群が多数あり、それに次いで、中央区の銀座方面には時計小売業を代表する店舗群と、服部、玉屋、御木本、天野などのスポンサー群が林立していたので、私の発刊した第一号は、今の新聞大判三十四頁を印刷、実数一万五千部を発行、好評を博した。これを大型トラックに積み込んで運ぶ以外に処置はなかった。
この当時、「東京時計卸商組合五日会」の代表であった池の端仲町通りの加賀屋商店社長の野尻雄三氏を始め、吉田時計店などの店先にトラックを止めて事実の点検を求めたものだ。そのような勢いが新聞発行のすべりだしだったのだから、この頃の業界紙群を圧倒したことはいうまでもない。従って発行当初は月二回(八日、二十一日)の定期刊行にしていたが、その後、社内の整備を待って旬刊発行にして、次いで週刊発行にまで伸展していった。
第三種郵便物認可は、大正十三年八月二十七日、代表社員は藤井勇二、発行兼編集人の届は最初、社長名儀にしておいたが、この時代は発行人に限り他の名儀人を利用する慣習だったので、後になって寺沼精三名儀に変えた。大阪支局は、大阪市北区福島北四丁目十九(電話土佐堀二三三八番)今の十三地区から電車の乗降をしたものだ。

【註】私か発刊したのを追うように、日本時計商工新聞という題号が続いた島川観水(久一郎)氏は、芝区の松本町四三に事務所を構え、大正十五年九月二十八日に第三種の認可を受けているから、これらが業界紙としては最古参になるものであり、これ以外のもので大正年代に発刊した実績者は一つだに存在していない。

「商品興信新聞」創刊当時の業者からの支援状況
広小路のビクター専属の「十字堂」蓄音機業界の応援も大きかった

《大正十五年》 前述したような経路を辿って創刊するに到り、私と業者間の環境は案外に密接感を持っていてくれたものである。時計畑では、下谷村が第一で、加賀屋の野尻社長、吉田時計店の天笠、佐藤、鶴巻時計の栄松社長、矢島源次社長、それに御徒町にあった手島製作所社長等。これにこの当時は、蓄音機というものが時計店の副業的商品の形をとっていたので、時計店と蓄音機業界は切っても切れない関係にあった。従って新聞記者としての取材圏の外廻りの場でも、時計の部門より蓄音機業界の二ユースの方が多かった時代である。
そんな関係で広小路に当時本建築をしていた十字堂(故橋倉五郎氏)の社長さんには特に
色々と面倒を見てもらった。
私が発刊を決意した頃からこの橋倉さんには良く相談していた。十字堂はビクター総代理店として君臨していたレコード店で、東京地区の蓄音機業界の組合長を歴任した後、蓄音機業界の組合の顧問に就任している。蓄音機業界というのは、レコードが毎月発売されるので、それを定価販売することになっており、組合では、その定価販売をするレコードの乱売者の取締り規制が主軸として設けられていた。レコード業界内の物議も、この乱売問題をして時としてケンケンゴウゴウたる場面などが感じられたものである。
十字堂からは、犬印商標の蓄音機、畜針等の発売品があり、それに新譜などの発売品があり、それに新譜発売を含めた月報発行のための編集上の手順をつけるに必要なところから、時計卸の金栄社社長の荒木虎次郎氏がこの面の相談役をしていた。
私が橋倉さんに相談した場合の決め手となる最後のでは、荒木さんがそれに対していろいろ端的に意見を吐露された。だが然し、橋倉さんは私に対して積極的に好意を寄せでくれた。その結果、新聞事業をやってのけるための資金源は、以来この橋倉さんの一声を通じて、常に安田銀行の窓口に運ばれたのである。橋倉さんは堅実主義で、人柄は良く、温厚の方だった。また財もあり、信頼も厚かった関係もあり、自他ともに斯界のゼントルマンに推されていた人であったが、不幸にして子息に恵まれなかった為、今ではその一族ともどもバラバラに散り去っているのを残念に思った。写真は、京橋組合が日枝神社で組合旗の新調奉告祭を行ったときのスナップ。



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