| 前橋市の安売りをうまく収め、群馬時計貴金属組合連合会の顧問に 《大正年代》 時計の廉売行為などというものは、突飛でもない気分でないとやれないものらしい。つまりバナナの叩き売り式のやり方であるからである。金のペコ側をオトリにしたのだから、たしか大正十四年の頃のことだと思う。その頃、東京・上野にあった某時計店の肝いりで前橋市の中央で突然時計の安売りを始めるという情報が入った。この安売りが始まると大変なことになると予想された。 当時、それに対処する前橋市の時計業者らは、明治時代から残っている上州の脇差姿そのままといういで立ちで騒いだ。現存する深沢時計店の五郎平さんなどは、その頃の丸山組合長のデチに従って、文字通り赤鞘の三尺を小脇に差し込んだスゴイいでたちで安売り現場への切込み、用意の仕度を整えていた。その時の勇壮な姿は今でも私の眼に彷彿している。私はその情報に接して前橋に急行し、安売りの現場をのぞいて見た。 すると私とは顔馴染みである売場担当者の某が主となって懸命に売場作りの準備をしていたのである。私は、これは大変な事になると直感したので、今晩中にでも安売り団側が手を引くように手配するのが肝要だと思い、その足で東京に引返した。そして野尻、吉田、鶴巻の五日会主脳陣を案内して、事態収集のため前橋に急行したのである。ところが両者間の条件が案外に大きく且つ隔たっており、然も廉売停止の調停条件に商品の供給根絶の戦を厳重に打出して来ていたのでこれを活用して、その場をことなく収める事に成功した。この時の手打式が、前橋市内の赤城館で催された。その席上には、緊急招集に応じて馳せ参じた群馬県時連各地区代表の面面がズラリー列となっており、その席上で、私がこの安売りを上手に収めたことを称えてくれて大いに面目を施した。 この事をきっかけとして、以来群馬県時計貴金属組合連合会は、ますます連合会の結束を固めることになった。私はその当時から同連合会の顧問という名誉ある役職を仰せつけられ、光栄に浴している。 |
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