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ミラノ、ベニスに遊ぶ
水の都べニスの交通整理は、水上で指揮をとっている

《昭和三十八年㉘》 ミラノへは午後十時を少し過ぎていたのでホテル「トーイック」に着いたのは遅かった。ここは一泊しか滞在が予定されていないので、荷物をホテルにおくとそのまま夜のミラノ観光に出かけて行った。
有名なドームを始め、いろんな物を見て回った挙句、最後にビールなど飲んでホテルへ帰ったのが朝の四時頃。我等の一行は強心、且つ健脚揃いだということになる。
ベニスに入ったのは、六日の日曜日である。ミラノは十時頃出発ということになっていたので、買物を希望する人達は、朝早くから何くれとなく飛歩いて、十二時三十分には機上の人となっていた。向かうところはベニスである。
べニスには、一時間足らずで着いた。空港の傍の海岸をモーターボートでホテルへ運ばれるというコースであるから、最初から遊楽コースのベニスなどが想像された。ここのホテルは水辺に添って建ててある「パーク」という名称である。
我等の一行と共にアメリカからの観光組も混っており、賑やかだった。べニスは水の都というだけあって、ここでの交通整理は、水上で指揮をとっている。船が右から左から交叉する場所には、 陸上における交通整理のポリスセンターがあって、日本の場合と同じように、赤、青の灯火で交通整理をしているのを見て、珍景の一つに見えた。
やがて夕刻ともなれば、川面を漕いでいくゴンドラの中で、奏でるベニスの船唄が流れてくる。想像にまさる情緒たっぷりなものが感じられたのである。
この情景に浴さんものと観光客は群れを成して集まってくるのは、またベニスならでは見られぬ光景でもある。
ベニスから海上少し離れた場所にドーモがある。このドーモのためにひっきりなしに乗合船がこのベニスから出ている。我等一行が、ここに着いたのは日曜日だったから、船は常に満員という盛況ぶりであった。それを押してドーモ行きを決行することにした。その満員の船の中でも若い入達は、同伴の女性にチュッチュッと音を立ててキスしている。その様はいかに馴れごとになっているからとはいうものの、余りいい図のものとは受け入れなく感じた。このキッスのことについて、その夜ホテルに帰ってから考えて
みたが、ヨーロッパという国では、永い間馴らされてきた伝統的な表現行事として、通常例のように扱かわれているが、このよう極端な行動の表われ方は、キスをする以外の場合でも、個人的な性格をむき出しにして、物ごどを押し進めるものであるという原則的の測定が出来たのである。
このドーモから更に、二時間ばかり行くと、ニースという歓楽郷があり、ここでは天国というような極楽の場でもあると聞かされたのだが、残念ながら行けなかった。写真は、古都ローマの古墳は、現在でも残っている。

事蹟の多いのに驚く古都ローマへ
ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院・広場など多彩な名所

《昭和三十八年㉙》 次の観光先はローマである。ローマヘは十二月七日の午後一時半ごろ、「マリンステランド」という指定のホテルに落ちついた。その日は、あいにくの雨の日であった。それでも観光はプラン通り進めることにした。
ローマは、二千七百年も前の紀元前七百五十三年に建国されたと伝えられ、古歴の都だけに空港から市街へ出るまでの沿道にさえ、既に史跡らしい様々なものが並べられているので、ローマそのものの古さが象徴されているのに先ず驚く。
ローマはイタリアの政治、文化の中心地だけでなく、カトリックの総本山であるバチカンの所在地として観光客を迎えるので有名である。
ここの通貨は「リラ」と称し、一ドルが六百二十五リラ、一リラは邦貨で約五十八円である。先ずドルとの両替はホテルの両替屋で交換したら、一万円が一万千五百リラで交換された。一行の中の一人が素早く買物をしたその時の円との交換計算は、邦貨一万円が一万四千リラの計算であった。従って、余りに違い過ぎるではないかということから、ローマのイタリア国立までいって交換をしようということになり、銀行で交換してみたら邦貨の一万円が一万二千リラになった。結局は、時間の無駄であったことと笑った仕末である。だがローマの人は、油断もスキもなりませんぞということを聞かされていたので、敢で経験のために自ら、実験してみたのである。
観光コースは、ローマ国立博物館ボルゲーゼ公園、人民広場、聖天使場、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院、サンピエトロ広場、カタコンベ、カラカラ浴場跡、バンデオン、エマヌエル記念塔、バリベテル広場、トレヴィの泉、スペイン広場、フォロマーノ等の順に回って見て回った。歴史は積っているだけに事蹟の多いのに驚くだけだった。
この中で特に古代歴史を持つ代表的なものでは、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院などがあげられる。即ちその内容は、ヴァチカン帝国は、ムッソリーニ政府の世代に法王庁との間にラテラーノ協約が妥結せられて以来、ヴァチカン帝国として独立主権国となったもの。国といっても領土はヴァチカン宮とサンピエトロ寺院とその付属地を含むわずか○・四四平方キロ、人口約千五百人である。だがこの中で貨幣、切手などを発行し、テレビ放送局も持ち、新聞も発行しているというのが特徴であり注目される。
サンピエトロ大寺院は、世界カトリック教会の最大、最豪華な教会で、ルネサンスからバロックにかけての芸術の総決算にも似た成果を誇っており、もとこの辺一帯はネロ皇帝の競技場であり、ここに教会が三百十九年に完成、三百二十六年に献堂式が行なわれたと言われている。十五世紀中頃になって崩壊の恐れが生じたので改築計画が立てられ、二百年近い歳月を費やして完成した。写真は、レストラントウキョウで乾杯する一行。

古都ローマの古墳は今でもこのように残されている
二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、無事帰国した

《昭和三十八年㉚》 現在の教会はこの再建された新教会で、直経四十二メートル、高さ百三十二メートルの威容を誇る大ドームはミケランジェロの設計に基くものである。内側の装飾はすべてモザイクで、堂内は大体近世諸法王の墓や記念像で飾られている。入口右の最初の祭壇にミケランジェロの大理石像「ピニタ」があり、中央祭壇のドームは、ベルニーニの一六三三年の傑作と言われている。
ローマ市中を観光する中で、一番注意したいのは、道の角点に気をつけることである。ローマの交通路は、中心点から放射的に出来ているのだから、歩いてゆけば五分位で行ける場所でも、車の場合は回り方によっては数十分を要するような構造になっている。
また、土産物などを買う場合でも、ガイドマンの案内する店はガイドへの謝礼額を含まれているものと見えて、相当高価になっているのに気がつく。彼らへの割戻し制があるからだという。我等一行を案内した場合の例でも、カメオなどの指輪、ペンダント類を買ってみてハキリした。ガイドマンがわざわざ案内してくれたその土産店で買求めた品物よりも、表通りの堂々としたショップでの価格の方が安い値段で正札されている現実にぶつかっだのだから、この点の事実が証明された感じだ。
このローマには三日間滞在したので、第二次世界大戦終戦時のころに、当時の伊太利国首相のムッソリーニが敗戦の責めにあって惨殺されたという人民広場を見たときには、ヨーロッパという古代歴史の中に埋まれゆく痛ましい時代の足跡を残したものだと感動させられるものが心中湧いた。それから且つてのオリンピ″ク競技場の跡など見て廻ったその晩は、特にローマの味に浸ろうではないかということで、特別晩餮会のプランを立てて貰った。ヨーロッパでの夕食時は、どこの場合でも大体午後八時頃からが通例になっているようであるが、われわれは馴れていないせいか、そう遅くまでは待てないので早くして貰った。それでも七時からということで案内されたローマのトーキョーというレストランに行って見た。ここではイタリア料理を出してくれた。食事をする部屋はワインの空ビンを積み重ねた廊下を通っていく奥まったレッガ作りの古風を型どった一室であった。料理の味は特に美味しいとは思はなかったが、それでもイタリア料理というだけに、そこにやって来ていたテーブルのメンバーたちは、何れも楽しそうに食卓を囲み歓談している光景に接することが出来たのでこれが何よりの御馳走だと思って昧わった。
かくして奏でるメロデーに合わせて室内の誰もが自由にステップを踏んで楽しそうに踊り始めたので、その情景をあとに、ローマそのものの印象を刻みながらこのレストランを辞去した。いよいよ明日はローマにお別れを告げることになるのだから、夜のローマを探究しようと語りながら歩いた。ローマでは、夜の十二時を過ぎた頃はまだ宵の囗であるようだ。何処の喫茶店でも、テラスにステージを突き出して、そこに集まっている沢山の客に歌と音楽などを奏でて聞かしていた。その情景は文字通りローマならではのリズム感に浸っている感じが持てた。
ローマの観光が終ってホテルのロビーで少憩しているときのことだが、そこで一人の日本人青年に会った。聞いてみたところ、南アのダイヤモンド鉱山で働いているのだそうだが、勤務のあとの保養休暇のためこのローマにやって来たのだといっていた。ローマは、欧州地方での保養地であるからだ。
我等TBS視察団の一行は、ローマの空港を飛立ってから途中カイロ、カルカッタ、バンコック等の各国の空港を中継したのである。どこもここも空港での休憩中の暑かったのには参った。
約七時間位を要して最後の地点香港に寄港したのである。香港は、世界三大景勝地の中に数えられるというのだけあって、空から見た香港は実に素晴らかった。
かくて一日を休息、この間、九竜、ビクトリヤ本島など観光、そのあとそれぞれ好みの土産品を買うために自由行動にした。香港の名物に取りあげられている宝石類は、安かった時代は過ぎ去っていたということに留意すべき時に来ていた。(注)香港の視察旅行は、前回の東南アジア視察として記してあるため省略する。二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、昭和三十八年十一日羽田空港に無事帰国した。写真は、霊峰富士山の姿を望む機内の筆者・藤井勇二。

創刊三十五周年記念事業として東南アジア宝飾業界視察団
アクシデントに見舞われながら羽田空港を総勢十九名が飛び立った

《昭和三十六年》 新聞という事業をやっていると、何となく団体事業をやらなければならないものだと考えるらしい。それがまた業者の側でも、そういう仕事をやること自体が、新聞社としてのサービスの一つであると考えているようだ。そんなことから昭和三十六年の三月二十五日、羽田空港から香港に向けて「東南アジア宝飾業界視察団」総勢十九名が飛び立った。
このツアーは、東南アジア宝飾業界視察旅行と題した十二日間に旦るプランで、本紙「時計美術宝飾新聞」の創刊三十五周年を記念した事業という題目で行ったのである。
当時は外国旅行については、貿易が自由化される前であったから旅券(パスポート)の申請の許可などいろいろと難関があったので、そう沢山の参加者はなかった。それでも総勢十九名という一団ができた。名鉄航空旅行社の斡旋によるものであったから、私は形式上の団長ということになり、旅行中の実質上の総ては、その旅行社から同伴して行くコンダクタが一切の世話をしてくれるのが通例になっていた。
かくて旅行申請から旅行日程についての打合せ会も済み、明後日出発するという時になって、旅行社から同伴を予定していた漆原というコンククターの旅券が降りなくなってしまったという報告に接したのである。正に困ったことになった次第である。国内旅行ならいざ知らず、こと外国語を使わなければ用がたりない国への案内役のことであったから何とも致し方ない。いっそのこと出発を視察団の延期を考えてみたが、十九名の申込み者は既に、旅行に関する各般の用意万端を整えてしまっていた。止めるにも止められない状態に追い込まれたので、最後の方法として通訳の人を他に探せないかと打ち合わせを繰り返してみたところ、特に通訳の世話だけを頼むことができることになったのである。
ただし、その代り私自身は事実上の団長ということになってしまった訳である。だからコンダクターに代って諸事面倒を見なければならなくなった。「なるようになれ。行くところまで行け」と心の中で思ってはみたが、内々は心細い感じがしない訳ではなかった。
しかし団員の中には、業界関係の知り合いばかりで、既に旅行馴れした人もいたので、いざという時には、という心強さもあり皆に協力を頼んでとにかく予定通り出発することに
した。
出発の時、羽田空港のロビーは見送りに来てくれた人達で大賑わいを呈した。待合室に入りきれないで廊下にまではみ出した程である。羽田空港ロビーの出発の場では、佐川久一全時連会長が大勢の見送り人の中で元気のいい声で万歳三唱をしてくれた。
かくして本社主催の「東南アジア宝飾業界視察団」の一行は、午前十時健やかに飛び立っていったのである。この時の旅行団に参加した一行のメンバーは次の通りである。
バンドメーカー・竹本商店:竹本茂次社長(東京・台東区浅草)、バンド卸:高島商店:高島倍社長(東京・台東区東上野)、中井梅商店:中井梅次郎社長(大阪・南)、バンド卸:影山鋼鎖製作所:影山元節専務(東京・台東区竹町)、眼鏡卸の三共社:北岡茂美社長(東京・文京区湯島)、メッキ業:大須賀メッキ工業:大須賀実専務(東京・墨田区・石原)、宝石卸:伊勢正商店:大平吉蔵社長(東京・神田・須田町)、時計卸:沢木時計店:沢木誠太郎専務(東京・新宿区百人町)、時計小売:審美堂:山岡猪之助社長(東京・銀座)、時計小売:伊勢伊時計店秦藤次社長(東京・銀座)、時計小売:野村時計店:野村康雄社長(東京・台東区)、時計小売:倉林時計店:倉林春男社長(東京・文京区竜岡町)、時計小売:まつ屋宝飾店:渡辺陽一(札幌市)、輸出業:東京商工・小関滝社長(東京・千代田区)、、輸出業:武藤工業兜嵩。与四郎社長(東京・丸の内)、輸出業:東洋信号通信梶E小島安幸社長(東京・港区)、山本昇神戸支店長(神戸市)、輸出業:富士電鎌倉製作所・堀江純一郎社長(鎌倉市)、時計美術宝飾新聞社・藤并勇二社長(東京・文京区湯島)の十九名。
写真は、勇躍飛び立って行く一行を歓送する光景。

六時間半を飛んでタイ国のバンコクに入国した
日本人はどこへ行っても大いにモテた

《昭和三十六年》 搭乗した飛行機は、スカンジナビア航空のジェット機であった。この頃、日本にはジェット機はまだなかったので、途中マニラ空港を中継してから一挙にタイの主都バンコクまで飛んだのである。だから計六時間半位を飛んだことになる。
かくて一行の眼に映ったものは、南国の赤色焼けたバンコク空港に着陸した光景であった。タイの主都バンコクというところの人口は百七十七万人。新聞を通じて知っている範囲では、親日性に富んだ君主制の国であると承知していただけに、税関の場で受ける税関係の態度についても、極めて注意深く見守ったのである。いろいろ所持品のことなど尋ねる点でも、親密さを示す態度が受取れたので、心易いような気持でそれからのバンコク視察に元気が出せたのである。
我々一行は、空港の外で待っていた旅行社差し回しのバスに便乗し、指定のホテルに到着した。ホテルの名は「アスター」といって、その近辺には航空会社などが散在している繁華街に面した賑やかなところである。ホテルの待遇は、ツーリストクラス旅行だから、大体月並のものだったが、困ったことは馴れない通貨の使い方についてであった。一応飛行機の中で聞かされてはいたが、ホテルに着いたトタン両替店が開いており、そこで所要すると思う程度のUSドルをタイのドルに交換したのであるが、これを持って行けば、どこへでも行けて、何んでも支払はOKということを聞いたのだから到着したその晩からバンコクの夜の景色などの見物に大いに羽を伸ばした。
一行に参加している年輩者の山岡、大平両氏などは、私よりも年上であったので、その連中が率先してハッスルし、飛び回つたのだからこの時の旅行はまだまだ元気旺盛という時代だったのである。
我々をホテルに運んでくれたガイドの中に、日本の学校で二年間ほど勉学に努め、日本語が少し判るスーピーさんという青年がいてくれたお陰で、夜中の遊び回りの場などでは、いとも楽しく、且つ行詰るようなこともなく東京の地を飛び回っているような環境にあったのではないかと思うほどだった。
もっとも、この頃バンコクで受けた日本人に対する印象は、どこへ行っても日本人は大いにモテたもんだ。それだけに夜のナイトクラブの場などでは、東京のドまん中のキャバレーで遊ぶのと少しも変わりがなかった。日本人経営の「二ユーシャトー」というナイトクラブは、支配人が日本人でもあり、また女性の中にも支配人的な立場の人と日本人のウエートレスなどがみられて安心できた。
ここのウエートレスが、我々一行のタイ国内の諸々を見物して歩く時、毎日そのバスに便乗して一緒について歩いてくれたのである。何年間かの約束に基づいてここまで送られて来た日本女性にしては、案外自由な行動をとるものだと考えたのだが、事実は旅券など持たなければ国外への行動の一切は不可能になっているのだから、外出したからといって不安がない訳である。その説明を女性ら本人から聞いて、なるほど外国の事情というものはこういうことになっているものかと思いうなずいたような次第である。
バンコクの滞在は三泊四日だったから、王宮のほか数多い寺院など見て回ったあとの夜ともなれば、このナイトクラブが一行のためには唯一、且つ毎晩の遊び場所ともなっていたのである。写真は、タイ国の水上生活の景色。

マガイもの(合成)ではないかと疑いたくなるほどの天然宝石がゾクゾク
目の効いた人は、相当量の宝石を買い求めたようだ

《昭和三十六年》 一行の日程の中で、商業視察などは日割したプランに従って宝石関係の業界状況を主にして見て回った。ニューロードの表通りから少し裏側に面した道を行くところあたりに宝石の加工所を設けてある宝石販売店があった。
一行はこの数軒で相当の買物をした。ヒスイ、スター、スタールビー、ジルコン、サファイアなどのほかにエメラもあった。特にスタールビーの多いのには驚いた。それだけに、そのスタールビーが何んとなくマガイもの(合成)ではないかとさえ疑いたくなるほどキレイに仕上っていたので、思い切って多量に買取ろうという勇気が出せなかったように見られた。
天然石ともなると石の価格が相当多額になるので、品物についての真疑の見分けに自信を持てない人は、このような場合に勇気を奮い立たせることができないのである。一行の中には、相当に所持金していた向もあったようだが、それだけに石に目のきいていた連中は、その人達から一時的に融通してもらってまで相当量を買い求めて来た者もあるなど、帰国してから東南アジア旅行の思い出の会合を開いた際に、儲けた話しをしていたものもいた。
バンコクには、このあとでシンガポール経由の場合に、もう一度この空港に降りたことがある。その際でも電話で連絡すれば前回の宝石業者はこの空港の控え室にまでわざわざ出向いて来て、取引に応ずるというほど商売上には熱心さをみせていた。もっともこの頃は、まだ日本人の旅行者が少ない頃であったのだろうし、それに宝石など買うという人には、売る方の相手側が懸命になっていた頃であった。写真は、右側に立って手に石を持っているのは山岡猪之助氏。

バンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった
日本製品の評判はよく、イタリー品は高く、ドイツ品は値が安い

《昭和三十六年》 バンコクに滞在中、日曜日に出会ったので、この日はバンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった。メコン川の下流に位置する大きなこの川の両岸に家が建てられていて、それらの冢の生活物資は水上を航行する商業船によって売られ歩くのである。だから水上生活者の実態を見て一つの異った感動を覚えない訳にはいかなかった。
商業状況の視察では、ニューロートの大南公司(斎藤氏)三角路の永利公司(陳家永)を訪問して、時計界の業態を中心にした時計関係の商取引の実態について説明してもらった。日本製品の評判はよく、イタリー品は高い、ドイツ品は値が安い、という条件のもとに、入り乱れて競争をしている現地での状況などについて知ことが出来た。
全般的にタイ国の施政は、総てがコミッション制度に終始しているので、やり難い国情だという説明はどこでもどんな場合でも共通しての訴えであったのには驚ろかされた。
そういう実態に接した為か、日曜日に、水上での彼らの生活ぶりを見て廻っていた時、日本の大使館要員がボートの上から手をあげて我らの船に愛嬌を振りまいてくれたのだが、お洒落な服装ぶりから推して、これらの人もコミッションによる収入などがそうさせているのか?など思わせられて不愉快な想いを感じた位である。

クアラルンプールとシンガポールを見る
「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」国

《昭和三十六年》 当今の海外旅行のほとんどは飛行機が利用されている。我々一行はバンコクからクアラルンプールに着いた。もちろん乗物は飛行機である。だから空から乗入れる旅行だけに、着陸間際になると機内の窓から飛行場の外景にまず目を止めるのが乗客としての常であるようだ。クアラルンプールの空港には、地元旅行社の代表者が迎えにやってきており、「TBS旅行団のミスター藤井」を連呼していた。そして指定のメルリンホテルヘ着くやいなや日本航空の出張員が私の傍にやって来て、日本航空を利用してくれないかという交渉をしにきた。そこへまた、三井物産の安田さんという人が、我ら一行に加わっていた武藤さんという人との取引関係のことで訪れて来た。
その安田さんという人は、当時のタカノ時計(今のリコーの前身)を東南アジア地方で身をもって売込むためにわざわざやって来でいる人であるということを聞かされたのである。そこでその晩は食後の時間を利用し、安田さんを囲んだパーティをすることにした。お陰でいろいろ現地の状況を聞くことができたので、その収穫にお互いが喜んだのである。翌日は、クアラルンプール一帯の視察旅行に出かけるコースをとり、この安田さんにガイドをしてもらうことにした。
地元の旅行社のガイドマンは、日本語が全然できなかったので大いに助かった。クアラルンプールという国の姿は、一口にいって「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」という格好である。だから日本のような狭隘な地面関係や、交通量に比較した場合のものとは異なって、正に夢の国か、オトギの国にでも来たのではないかとしか思えるほどの美しさである。
このあとのコースの途中で香港に立ち寄った際に、ヘラルドコーポレーシヨンのブロックさんという外国人に会ったとき、問はれたので、クアラルンプールのことを緑の楽園と思いましたと感想を述べたところ、そうでしよう、クアラルンプールは世界の楽園として建設途上にあるのですといわれたことを合せ考へ、そのとおりだと思えた次第である。
この国はゴムが主要生産物で、その輸出で年間の国の予算額の約七割方が収穫されるという恵まれた環境にあるのだという。だから他国との比較にならないものかある。
この地方に五本の足を持った奇牛が一頭おり、お金を払った特別参観に供してくれた。
写真はマラヤのゴム林を訪れた一行、右から、山岡.北岡、中井.野村、秦、ガイドマン・安田(三井物産)、倉林、藤井、竹本の諸氏。

シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会
金属製バンドのニューデザイン物に関心を見せたが価格の点では不成立

《昭和三十六年》 クアラルンプールという国は、そんなに大きな国ではない。だから見て歩くところもそう広範囲に亘るものではない。時計バンドの見本など持参した業者陣とともに、三井物産とは別の東京時計のクロックを特約販売している原地人(マラヤ)の時計卸商館を訪れ、その主人公のダンジョン・プリョタという人に会って話を聞いてみた。
会談の内容から、「日本の置時計は素晴らしい」という一点を述べただけで、その外は東京時計に感謝しているというだけ。これをこのように、というような具体的な改良や進歩という点についての意見は出なかったところは、日本人とは少し違っているようにみられた。だがシンガポールとの合併が伝えられているではないか、という私からの質問に対しては、「ノー」、宗教が異なっているからとハッキリした回答をしていた。
このような点から推しても、東南アジアの人達の民族的意識というものは根強いものがあるという判断が持てたのである。
シンガポールに行くのには、陸つづきであるのだから飛行機を用いる必要はなかった。バスでOK。シンガポールは英領の支配下にあったのだから、ここの港には米英両国の軍艦の姿など見られた。シンガポールの街は海岸に面したあたりが英領らしく、植民地的な風景を漂わせるものがあり、清潔な街の設計には目をそば立たせるものがあった。
ひとたび商店街に足を踏み入れてみると、そのほとんどが華嬌の群衆である。
私は東京時計の特約店をしている星東商会の紹介状を持っていたので、華商街の中にあるその商社を訪れたのである。この華商街の中のビルの階上に行くとき、支那人のボーイが案内してくれた。四階までエレベーターで行くのであるが、ここでチップを貰うのが案内人の狙いらしい。この案内人はクリーという種類のものであるらしく、華商のいうこと以外には立ち働くことさえ許されていないようだ。だから気狭な身振舞いをしていたのに気をつけて見た。
この後もう一軒の昌成公司という時計など各般の卸売りもしている時計専門の店を訪れてみた。昌成公司は、シンガポールでは目抜きのミットロード五番地に店舗を持ち、時計に
バンド類も扱っている小売店である。それだけに東京時計の置時計についてもマラヤにおける場合と同様聞いてみたが、それよりも日本製腕時計を東南アジア地方に売り込もうとする場合に、果たして現地人業者がどのような観察をしているであろうか、ということについて現地人の実際の声に親しく接してみたいというのがこのときのねらいであった。 この昌成公司の社長は、マラヤ語だけでイングリッシュは解せない。支配人の唐徳平という人が話せるということであったので、私が名刺を通じて会談したときは、この唐徳平さんが通訳してくれた。私の方は日商株式会社(シチズンの特約店)の所長、石橋斗さんという人が通訳してくれた。この会談で、昌成公司は東南ア地区の各方面に商売を拡大することができるが、それは品物の価格が拡売するに相当する利巾があるかどうかによって決ると説明していた。勿論その通りである。そして品物については、@時計は、大物では名古屋物と東京時計が入荷しており文句はないが、デザインの点で新らしものを期待する、A腕時計は、スイス物の方が銘柄がPRされており、需要者に提供するのが早い、B日本の腕時計を売り込もうとするにはPRを大いにすること、そして価格をスイス物に匹敵するように考えることができれば相当量を扱うようになる、C時計バンドについては、日本製品はいいものがあるが価格が高いという。私はこのとき、金属製バンドのニューデザイン物を提示して、見たいかと聞いてみたら、「是非見せてほしい」というので、ホテルでその日の夕刻五時に合うことにした。
その時間に支配人と共に昌成公司の主人公の二人がやって来た。ホテルの私の部屋で高島君が持参したサンプルを出して見せたら、“べリーナイス”を連発していたが、いざ値段の点になると、ナタ(半額)という。テンデ問題にならないといったのであるが、しかし昌成公司の立場としては、ナタ(半額)という差し値を出したので、日本側にとっては安くてダメだということになったのである。現実に取引をするための値段決めという場の切札としては、この時代の状況としては止むを得ないのではなかったかと静かに考察することができた。写真は、シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会。

シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる
ワニ製品を六、七十個も持ち帰ったが羽田税関ではたった二千七百円を課税

《昭和三十六年》 このS式バンドは、このあと香港に立寄った際の視察の場で、香港製の安価なバンドが作られつつある状況について、その現品を示し説明したことがあるのでその判断のための参考資料になったわけ。
このことが終ったその翌日、観光ということになり、その昔、薬問屋の千万長者・湖文虎という人が建設したという私設公園を見た。ここには、あらゆる動物を型どって作った型像物を見るのに二時間以上もかかった。このあと且ての大東亜戦争当時、山下将軍指揮で有名をとどろかせたジョホール水道について、当時の追跡を見て回った。ここで感動したのは、この水道塔の上部に当時の艦砲射撃のあとの穴が、今なおハッキリ残されているのに目を見張った。そしてまた、フォード自動車工場の中で降伏条件に調印を求めたという当時の遺跡についても説明されたが、ここだけはピンとこなかった。既にその付近が使用されていたからでもある。シンガポールを見て歩いた中で、特に気がついたのは、細い畔道のようなジョホール水道を境にして、シンガポールとは外国の国境になっているというところである。だから一歩足を跡み越すだけで、外国扱いになるのである。だから関税の関係で、ここでは週一回家庭用の日常品を展示販売することで有名である。
“税金がかからないのだから安いというのがねらいであろう。週に一度は、定期的に開かれることになっているという。だからこのジョホール水道際の定期市場は、その開市のたびに沢山の人出があり、賑わうので有名であるという。
私達一行が滞在していた三月一日のことだと思う。東南アジア方面では旧正月というので、この日は名物の爆竹が到るところで打鳴らされた。その日の晩餐会は、一行が宿泊していたキャセイホテルの二階の中華料理店で午後六時から晩餐会を開くことになった。
ところが一行が席をとったキャセイホテルの宴会場は、シンガポールでは一流のレストランであることから、この日は支那人の正月を祝う集りで大変な賑わいを呈していた。つまりシンガポールのお正月に出会ったのである。だから一同は、その珍らしい環境に親しむことができ、幸福なひときわ満足を抱いたものである。
シンガポールの観光の途次、ワニの養殖場を見学したのだが、ワニというものは目で見た格恰は物すごい様相をしている。児ワニの鳴き声などときたら、とてもかわいいものである。そのワニが製品になるので、シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる。値段は安いがデザインのよくないのが欠点であり、それが特長になっているから安いのだという向もある。われら一行の中でこのワニ製品を六、七十個も買い求めて持ち帰ったものがあったが、純正なる土産品ということで羽田税関ではたった二千七百円を課税されただけで済んだ。写真は、シンガポールの昌成公司の二人と日商の石橋さん。



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