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三十七年の総生産量は二千万個台にのぼり、生産過剰傾向が目立ち始めた
中でもウオッチ類は前年比五十%の著増をみせる

《三十七年》 中でもウオッチ類は前年比五十%の著増をみせるなど、実質的な内需向け数量は減少傾向にあって過剩生産による陰路も打開されつつある。
暫時、需給調整の実効が現れてくるとの期待を寄せた昭和四十一年を迎え現在に至っている。
ひるがえって戦前戦後の生産数量をみると、日本時計協会および通算省大臣官房調査統計部の調べによれば、昭和初期(五、六年ごろ)は腕時計の生産が五十万前後で、懐中時計十四、五万個、目覚時計七、八万個、置き時計二万個、掛時計その他四万個前後で合計しても二百万個やっと、という状態であり、現在の十分の一以下の数量である。 
その後昭和十二、三年ごろになると、腕時計の年産が百万個台に増え、目覚まし時計も一時期百万個台に著増したものの、腕時計中心の生産傾向となった。
この当時の時計の総生産数は、四、五万個に伸びている。しかし、第二次世界大戦突入と同時に一挙に低落、腕時計の生産量をみても昭和十六年に百二十七万四千個だったのが、昭和十七年にはわずか三十七万個に減った。そして終戦の年の昭和二十年には、二万六千個まで落ち、懐中時計八千個、掛時計五万個が作られたほかは置き時計、目覚まし時計とも生産ゼロで総計九万七千個となった。この年の生産は、昭和時代の最低記録である。
翌昭和二十一年には、腕時計十一万個と多少持ち直したが、低迷は続き、昭和二十六年に
至ってようやく九十万個台を記録、二十七年に百万個の大台にのせた。この時代から懐中時計の生産は腕時計に反比例して漸減、掛・置、目覚まし時計が漸増するとともに電気時計やタイムスイッチ類がわずかながら位置を占めていた。
その後、腕時計の生産は年々増加、三十六年は九百万個、そして三十七年には一千万個台にのせた。そのあとも生産増は続いているわけだが、三十七年の総生産量は二千万個台にのぼり、生産過剰傾向が目立ち始めたのはこのころからである。写真は、戦前時代における近代化された生産システム。

日本時計の生産実績 昭和五年から昭和四十年まで
日本時計協会・通産省大臣官房調査統計部調べ(単位:千個)

昭和5年=腕時計450、懐中時計150、目覚時計867、置き時計289、掛時計482、電気時計12、合計2,250個。
昭和6年=腕時計512、懐中時計124、目覚時計745、置時計248、掛時計362、電気時計12、合計2,003個。
昭和7年=腕時計623、懐中時計171、目覚時計787、置時計263、掛時計437、電気時計6、合計2,287個。
昭和8年=腕時計593、懐中時計197、目覚時計952、置時計318、掛時計315、電気時計8、合計2,383個。
昭和9年=腕時計783、懐中時計231、目覚時計1,298、置時計431、掛時計877、電気時計51、合計3,671個。
昭和10年=腕時計947、懐中時計283、目覚時計1,448、置時計482、掛時計943、電気時計80、合計4,183個。
昭和11年=腕時計1,242、懐中時計316、目覚時計1,615、置時計541、掛時計1,057、電気時計93、合計4,864個。
昭和12年=腕時計1,182、懐中時計348、目覚時計1,684、置時計566、掛時計892、電気時計441、合計5,113個。
昭和13年=腕時計1,172、懐中時計391、目覚時計1,094、置時計371、掛時計616、電気時計170、合計3,814個。
昭和14年=腕時計1,226、懐中時計409、目覚時計698、置時計232、掛時計609、電気時計210、合計3,384個。
昭和15年=腕時計1,311、懐中時計436、目覚時計712、置時計238、掛時計627、電気時計100、合計3,424個。
昭和16年=腕時計1,274、懐中時計425、目覚時計450、置時計150、掛時計563、電気時計73、合計2,935個。
昭和17年=腕時計371、懐中時計279、目覚時計-----、置時計------、掛時計390、電気時計41、合計1,081個。
昭和18年=腕時計433、懐中時計148、目覚時計-----、置時計-----掛時計165、電気時計--- 、合計808個。
昭和19年=腕時計186、懐中時計62、目覚時計-----、置時計-----掛時計227、電気時計--- 、合計413個。
昭和20年=腕時計26、懐中時計25、目覚時計-----、置時計-----掛時計51、電気時計12 、合計97個。
昭和21年=腕時計115、懐中時計25、目覚時計211、置時計213,-掛時計114、電気時計36 、合計714個。
昭和22年=腕時計280、懐中時計52、目覚時計666、置時計280,-掛時計300、電気時計20 、合計1,598個。
昭和23年=腕時計489、懐中時計103、目覚時計988、置時計262,-掛時計558、電気時計5、合計2,405個。
昭和24年=腕時計713、懐中時計44、目覚時計1,269、置時計322,掛時計697、電気時計10 、合計3,055個。
昭和25年=腕時計686、懐中時計8、目覚時計999、置時計171,-掛時計457、電気時計8 、合計2,329個。
昭和26年=腕時計917、懐中時計8、目覚時計1,210、置時計233,-掛時計663、電気時計29 、合計3,716個。
昭和27年=腕時計1,195、懐中時計22、目覚時計1,297、置時計344,掛時計851、電気時計82、タイマースイッチ5,合計3,716個。
昭和28年=腕時計1,585、懐中時計32、目覚時計1,470、置時計517,掛時計923、電気時計10、タイマースイッチ3,合計4.540個。
昭和29年=腕時計1,966、懐中時計36、目覚時計1,839、置時計443,掛時計986、電気時計13、タイマースイッチ5,合計5,288個。
昭和30年=腕時計2,200、懐中時計39、目覚時計1,903、置時計504,掛時計1,006、電気時計42、タイマースイッチ5,合計5,699個。
昭和31年=腕時計2,644、懐中時計42、目覚時計2,365、置時計512,掛時計1,102、電気時計146、タイマースイッチ5,合計6,816個。
昭和32年=腕時計3,372、懐中時計47、目覚時計2,799、置時計573,掛時計1,143、電気時計306、タイマースイッチ6,合計8,246個。
昭和33年=腕時計4,263、懐中時計47、目覚時計2,347、置時計509,掛時計975、電気時計329、タイマースイッチ24,合計8,246個。
昭和34年=腕時計5,401、懐中時計46、目覚時計2,624、置時計604,掛時計944、電気時計569、タイマースイッチ458,合計10,646個。
昭和35年=腕時計7,093、懐中時計54、目覚時計4,021、置時計703,掛時計1,019、電気時計757、タイマースイッチ566,合計14,213個。
昭和36年=腕時計9,158、懐中時計73、目覚時計4,943、置時計641,掛時計1,088、電気時計949、タイマースイッチ791,合計17,643個。
昭和37年=腕時計10,695、懐中時計84、目覚時計5,954、置時計562,掛時計1,364、電気時計1,139、タイマースイッチ793,合計20,591個。
昭和38年=腕時計11,597、懐中時計103、目覚時計6,371、置時計578,掛時計1,184、電気時計1,180、タイマースイッチ5907,合計21,920個。
昭和39年=腕時計13,214、懐中時計--- 、目覚時計7,381、置時計603,掛時計1,124、電気時計1,707、タイマースイッチ836,合計24,865個。
昭和40年=腕時計13,610、懐中時計--- 、目覚時計-----、置時計-----,掛時計-----、電気時計----、タイマースイッチ----,合計26,400個。
写真は、和服で日本髪の女工さんの姿も見られる工場内。

東京時計会館建設の状況と組合陣営
組合員らの出資と時計卸商らの借入金で建設費を充当した

《昭和四十一年》 東京時計会館建設に要した資金は、組合員各自から一口五百円の出資劵を各支部に割当てて発行した。これによる資金が約千二百三十二万円と大展示会を催した収益金約干百十三万円を充当したほか、時計卸商社など対外借入金として三千四百九十二万円、合討六千三十六万円を当てたのであるが、会館建設資金獲得を唄い文句にして行った数回の展示会のうち一回の売上げが一億八千万円にも達したという盛況を示したので大いに助かった筈。地上六階建(六階簡易建物)二百四十五坪に亘るこの時計会館は、一、二階と三陪の一部を服部時計店のセイコー製品部品センターに貸し、三階の一部は各各種メーカーの製品部常設展示場に、四階をホールに当てて、ここで諸般の催し事を行っている。昭和四十一年一月に行われた時計修理工の技能検定実技試験にも応用され、極めて便益を得ている。総工費五千七百九十二万円(諸設備、備品を含む)で、昭和三十九年八月一日完成した。
昭和四十一年五月、改選結果の新役員メンバーは次の通り。
▽理事長=河内録幣、▽副理事長=高木信治、小竹信太郎、千野晴、▽常務理事=真々田義貞、千野保久、田沢三郎、梅田静一、中川昌美、千葉豊、沢誉司、山口二郎、井上重男、沖野政栄、一の瀬二重、▽理事=森田竹太郎、安匹秀雄、佐川久一、一ノ順二重、河合義太郎、高橋質成、森徳太郎、大沢善次郎、古川敏、吉成良正、佐藤義三郎、古屋徳次、野口益広、小吹栄、菅俣栄司、小林誠一郎、駒崎正男、佐山祐司、西沢定雄、板橋武造、古川武一、井上重男、園部武夫、斎藤伊代蔵、倉林春男、漆原延治、赤羽俊三、佐藤貢、笠原福三、山嬉隆吉、中山実、谷沢寅松、板橋武造、森脇章、日比野清一。▽監事=早藤盛一、増田清、藤田年一の各氏。
▽顧問=関誠平、金山重盛、山岡猪之助、木村信男.牧瀬幸、福田篤泰、▽支部長=森田竹太郎(麹町)、戸田武雄(神田)、古川清太郎(日本橋)、平井幸夫(京橋)、一ノ瀬二重(芝)、河合義太郎(麻布)、松田秀夫(四谷)、三宅義雄(牛込)、梅田静一(淀橋)、青柳喜三(小石川)、上田幸雄(本郷)、漆原延冶(下谷)、中川昌美(上野)、桜井実(浅草)、 高橋賢成(本所)、酒井留吉(向島)、竹田富士夫(深川)、)森徳太朗(城東)、武井正通(品川)、大久保利春(荏原)、三村晴太(目黒)、野口一三(大森)、太田拾二(東調布)、山田正則(鎌田)、佐藤義三郎(世田谷)、)古屋徳次(玉川)、榎本光人(渋谷)、近藤久雄(中野)、小竹信太郎(杉並)、増田清(豊島)、野口益広(滝野川)、浜村安宏(王子)、小吹栄(赤羽)、菅俣栄司(荒川)、(板根)百瀬清(板橋)、塩野谷利喜次(足立)、長野伝次郎(練馬)、大和田豊之助(葛飾)、中山求(江戸川)、春山米吉(武蔵野)、小林五郎(立川)、中江督松(調布)、田中五郎(府中)、川島悌二(西多摩)、)武藤文三(青梅)、千葉豊(八王子)、久布白儀助(町田)。写真は、昭和三十九年八月一日完成した「東京時計会館」。

全時連の事業の画期的な「技能士検定試験」が開幕
受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている

《昭和四十一年》 全時連の事業の中で、特に目覚ましい効用を示したものの最高峰は、昭和四十一年一月に全国で行われた時計修理技術者に対する技能検定制度の施行であろう。
これは一月中に全国各県別に行なわれた。東京では、この年の一月十日から二十日まで、東京時計会館で行なわれたのであり、時計業界としては正に世紀の画期的事業である。
その結果は、二月二十二日全国一斉に発表されたが、受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている。学科テストは三月十九日に行なわれ、その結果は五月十日に発表されることになっており、実技と学科の双方に合格したものは、時計技能士としての最初の有資格証を受けることになるのである。だが事前に職業訓練指導員講習(35時間訓練)に出席したものは、一月中の技能試験の結果だけで技能士証が交付されることになっている。だから時計業界界としては、正に革命的な事業ということになる。次に技能検定に関する対応上の動きの一部を紹介する。

全時連の日誌が示す技能制への動き
自昭和三十九年四月一日至昭和四十年三旦二十一日

《昭和三十九年》 昭和三十九年四月十八日技能検定の概要と経過報告を各県連会長あてに送付した。
三十九年四月二十一日、技能検定(時計修理工)の第一回専門調査委員会を労働省で、佐川久一会長、長谷川、河内副会長、小南、高木常務理事(全時連)、大阪時計組合の塩田理事、真々田、近藤、太田(東京組合)、関技研の小倉、調時師協会の角野、学者の小林、岩沢、久保田、井上、藤田(時計メーカー)の各氏が出席、時計修理工の国家検定試験実施について協議した。
★昭和三十九年五月十五日=技能検定の小委員会(専門調査委員中、検定試験基準について細目に検討する委員)を労働省において開催、学科、機械要素検討。
★昭和三十九年六月九日=技能検定小委員会を労働省において開催、実技課題について。
★昭和三十九年七月十日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。
★昭和三十九年九月十五日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。
★昭和四十年一月十一日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の施行技能検定採点結果にについて協議した。
★昭和四十年二月二十二日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の検定試験基準技能及びその細目について協議した。
★昭和四十年三月十六日=時計修理工の技能検定の小委員会を労働省で開催する。時計修理工の技能検定基準及びその細目について協議した。写真は、昭和四十年一月十日から始まった東京時計組合の技能士テストの受験光景。

昭和三十五年 ライターが輸出に登場、生産量が増えた
喫煙具業界の概況

《昭和三十五年》 喫煙具業界は戦後にめざましい発展を遂げている。特に輸出面にライターが登場したことである。昭和三十四年度のライターの生産実績を検基によってみると、五十億七千七百万円をピークに、昭和三十五年度は四十四億二千八百万円、三十六年度は二十七億八千万円。三十七年度は、前年の三十四億三千四百万円、三十八年は三十三億八千六百万円で、この年に初めてガスライター(通関実績)が約十五億円輸出され、オイルライターの半分近くをガスライターで占め、三十九年度は三十億七千五百万円で、ガスライター(通関実績)が約二十三億円で合計約五十四億円の輸出である。ガスライターが金額において半分以上を占め、喫煙具類の輸出全盛当時の昭和三十四年と五年度の成績を上回った。
四十年度は、およそ六十三億円(オイルとガスライターおよび喫煙具用具)が達成される見通しである。一方、喫煙具類は販売店の店頭に陳列されているライターのほとんど(百%)といっていいほどガスライターである。
それだけに品質精度においても外国品に劣らない優秀なものが打出され、世界的なレベルに達したのはメー力―の努力によるものだ。
日本でガスライターが発売されたのは昭和三十五、六年にかけて数社にのぼり、昭和三十七年には国内にガスライターブームを巻き起した。このため喫煙具業界は、国内でガスライターの普及と将来を考え、品質の同上と健全な発展を図るために同年八月二日、日本ガスライター振興会を設立した。
事業として、@ガスライターおよびボンベの規格統一をはかる、Aガスライター工業所有権問題については、四団体(日ホガスライター振興会、東京都喫煙具商業協組、日本シガレットライター工組、東京都喫煙具工業協同組合)で意義の申し立てを行なう。Bアダプターボンベについ、C高圧ガスの取り扱いの改正、Dボンベの耐圧検査などを推進してきた。そして翌年八月八日に社団法人の認可かおり、十二月にはガスライターおよびボンベの検定所を開所、三十九年一月十六日から、ボンベを、また同年十二月一日からはガスライターの自主検定を実施したという進展ぶりである。

昭和三十三年、日本シガレットライター協同組合として発足
初代理亊長に在間朋次郎氏が選ばれた

《昭和三十三年》 現在の日本シガレットライター工業組合は昭和三十三年、日本シガレットライター協同組合として発足、初代理亊長に在間朋次郎氏が選ばれた。
設立された目的は、@ライターの出荷数量の制限、A販売価格の制限、B販売方法の制限、C品質・意匠または品種に関する制限、Dこれらの制限を確保するための製品の検査、E生産、経営の合理化に関する指導、斡旋、F組合員に対する生産調整および経営の合理化のための資金の斡旋、G経営的地位の改善のためにする団体協約の締結、Hこれらの事業を行なうために必要な調査研究その他の事業を行なうというもの。
創立総会は三十二年九月十八日、喫煙具会館で開催、理事長以下の専務理事に望月宗一氏、理事に梶田久冶郎氏ほか十八名、監事二名を選出した。
かくして三十三年四月には、「日本シガレットライター工業組合」に名称を変えた。
次いで四十年度の総会で、在間三博氏が革新の意味で新理事長に選任され嘱望されている。関係団体種別次の通り。
「東京都喫煙具商業協同組合」、「日本喫煙具輸出振興会」、東京都台東区寿三丁目十九番五号、代表者=金丸文郎氏
「日本ガスライター振興会」東京都台東区寿三丁目十九番地五号、代表者=深代守三郎氏
「日本シガレットライター工業組合」、東京都台東区蔗二丁目十九番五号、代表者=在間三博氏。
「東京都喫煙具工業協同組合」、東京都台東区寿三丁目十九番五号、代表者=石黒重三郎氏。

昭和三十一年「社団法人日本時計輸入協会」設立
各ブランドをもとに集録した総合カタログの発行にも力を入れる

《昭和三十一年》 時計の中の腕時計がどの位売れるものか、という商品流通上の判断をつけるのは難しいことだが、そのポイントとしては、日本の選挙制度に示されている実例をとって考察することも一考ではないかといわれる。
参議院議員の選挙の場合、有権者はザッ卜六千万人を算えている。実数は少し出ているようだが、その選挙権を有するものの中でも、六十歳を出た年令層では、時計を使う需要が大したものではないという見方をとっているようである。だからこの面にプラスするものとしては、選挙権を持たない学生層の中の需要をこの面に振向けることなども考えられる。
そういうことになると大体のアンバランスがとれることになる。
こんな観測に基いて、ではそれらの年齢別に分類した中で、どの年齢層のものがどのような好みを示しているかについては、各ブランドのそれぞれが特秘録であり、寧ろ観察点を異にしているであろうとも思う。最近における傾向は、漸次高級品への需要という形を示しているようにも見られるものがあるとあって、輸入商社筋では、神経をこの方面に使っていたようだ。
輸入時計を取り扱う商社筋を傘下に取りまとめている「社団法人日本時計輸入協会」は、
東京都港区西久保明舟町二七の六信和ビル四階に事務所を構えている。
始関伊平氏(衆議員議員)が理事長に任じている。氏はこの協会が設立した昭和三十一年の当初から引続いている。協会の事業は、会員の輸入業務に閼する政府当局などへの連絡に必要な処置をする外、最近では、毎年一回行う産業見本品に出品するための総合的取扱事務やまた各ブランドをもとに集録した総合カタログの発行にも力を入れるなど、有効な方法が編まれている。
この輸入時計の総合カタログは発行してから既に三、四回を経過しており、その成績を認められてスイス時計協会(FH)では、その事業支援のために印刷費用の一部を提供している。昨年度は、二百万円、一九六六年度後の製作費用として、二百二十五万円が今年の二月十日に寄贈された。
また、同協会が通産省当局とタイアップして実行することになった商標法第三十条基づく、専用使用権者の登録規定は、協会加入者の権益を確立するものであり、将来の発展に備え、期待が持たれている。その第一回として昭和四十年八月十三日付、通産省公報に掲載され規定に基づき保護されたブランド名は、エニカ、ラドー、インターナショナル、オメガの四種である。
因に同協会の役員陣営は、次の通り。(昭和四十一年三月末現在)
★理事長=始関伊平、★専務理事=白石健次、★常務理事=河合周三(東邦時計)、川上一男(日東貿易)、川瀬善博(スイス交易)、増田●(大沢商会)、西村隆之(一新時計)、坂田武敏(坂田時計貿易)、鈴木康治(服部貿易)、高木克二(平和堂貿易)、★理事=堀田良平(堀田時計店)、小谷稔(栄光時計)、ジョンリード(リーベルマン・ウエルシー・カンパニー)、岡清(岡時計)、湯尾富雄(湯尾時計店)、★監事=磯村甲(磯村時計商会)、伊藤広司(天賞堂:伊藤時計店)、ハンス・メトラー(日本デスコ)他会員四十二名。

昭和二十三年 東京時計卸商業協同組合を設立
昭和三十六年、東京・湯島に「柬京時計卸会館」を建設

《昭和二十三年》 全国時計卸業界の中で東京の卸組合が中心的存在となるのは当然であるが、この東京時計卸商業協同組合は、昭和二十三年当時、協同組合法の機構改革が行なわれたのを機会に発展を策したもので、再建最初の理事長は藤井雅友氏、二代目理事長は村上一蔵氏、三代目、湯尾富雄氏、四代目は湯尾吉之助氏の順序を経て、現在の依田理事長が継承し、今日に到っている。
組合員の資格は、製造業者から直接取引している卸業者に限定するというところに基本点があり、資金面では出資金の外、積立金ともに組合事業に定められている。文京区湯島二丁目七番五号に建設された本建築四階建ての「柬京時計卸会館」は昭和三十六年、湯尾富雄理事長時代に完成したもので、会議の場などに広く利用され便益を供与している。
写真は、昭和三十六年、東京・湯島に建設した「柬京時計卸会館」。

昭和三十八年「日本輸入時計卸商業協同組合」を設立
当時の組合員二十五社

《昭和三十二年》 昭和三十二年七月、東京在住の舶来時計を取扱卸商約二十社にて任意団体の「東京輸入時計卸商業協同組合」を設立、越光商店社長の越光保氏が理事長となりとなり爾来四年、昭和三十六年四月、小野金商店社長の小野正男氏が理事長を継承、昭和
三十八年二月大阪、名古屋方面の希望加入者を加えて協同組合に改組、名称も「日本輸入時計卸商業協同組合」と改称した。当時の組合員二十五社、共同仕入、組合貸出し等の事業を主体に、組合員相互の親睦と他同業種組合との調和と親睦を計り現在に至っている。



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