※写真をクリックで拡大します。
Home

昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立
深い馴染みの中島与三郎氏が起業家の立場で起死回生

《昭和三年》 本社主催の業者大会が終ったある日、中島さんが私の社を訪れて二人で懇談した事あった。話題は、「時計とその製造」という話になった。「シチズン時計の製造機械の全てが埃に埋もれているのは惜しい」という話題に移った。しばらくしてから、再度中島さんが私の社を訪問した際に、私が「シチズンの再生を進めてはどうか」と中島さんに自分の意見を言った時、初めて中島さんが私に次のように意中をもらした。
私はその話合いに基づいて、当時銀座一丁目の山崎商店と共に尚工舎工場の管理の立場にあった田中地金店を訪れて故人となった田中一郎社長に尚工舎に埋もれている時計機械部品の全部の譲り受けについて下話しをしてみたところ、「あれが役に立つならいくらでもいいよ、私が安田銀行に話をしてやる」といってくれたので、それを中島さんに報告した。それは昭和三年の秋頃だと記憶している。
そのような経過をたどった後、中島さんはシチズンの起死回生についての相談を金森時計店、小林時計店(川村支配人)、京都の大沢商会(森田支配人)を訪れて、それに協力を求めるためにはるばる単身出張したことがある。その時、私は旅先で中島さんに会って聞いている。このとき大阪の富尾時計店の社長に一応意見を求めたようである(これは現社長の話)。
かくして、昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立、自ら初代社長の座に就任したが、会社設立直前、初代社長就任を回避するような気持を私にもらしたことがあった。私は、「それは絶対グメですよ」といったことを覚えている。シチズン機械の譲り受け価格は、安田銀行の担保計算の関係で、最初は二十万円がとこを主張していたものだが、結局は五万を割った四万七千円という金額になったというから中島のおとっつぁんも、如何すべきものかとあとで苦笑したことがあるのを思い出した。
それから二、三年を経て、一応時計の生産体制も順調になったように見られた昭和八、九年の頃のことかと思う。シチズン時計会社への入社、または販売会社の設立という案を私に提唱されたことがあった。中島さんは、シチズンの再生復活を図っただけでなく、生産即消費という企業者の立場についても常に、苦慮されていたその事実を身近に感じたその時には、再度感動せざるを得なかった。
[注]中島与三郎氏については、私は深い馴染みを感じていたので、常におとっつぁんと呼んでいた。中島さんには、私と同年輩の倅がいて、下落合で薬剤店を経営していたので親交を計ってくれといわれたことがある。働手の私はその機会を得ることが少なかったまま戦争へ突入してしまったというのがその後のコースである。
それから後の同社は、現社長の山田栄一氏の努力が奏功して、シチズンは、日本時計工業の一翼を担い、堂々世界に雄飛しつつあるのは慶賀すべきであるが、その基礎を作ったのは、故人の中島おとっつぁん(与三郎)の功績で、特筆絶賛するに価するものがある。同社の現況の主なるものをあげれば要項次の如し。
シチズン時計の生産能力は、月間四十五万個、資本金三十億円、本社:東京新宿区角筈二丁目七十三番地。取締役社長山田栄一氏。工場=淀橋工場:新宿区戸塚町四―八五六番地、田無工場=東京都北多摩郡田無町一六五〇、販売所シチズン商事株式会社(東京都台東区御徒町一―十二番地、取締役社長山田栄一氏、専務取締役太田敬一氏。写真は、在りし日の中島与三郎氏。

山田時計店が精工専門卸を開業した昭和五年の頃
時計卸業界の山田徳蔵社長の先見の名がもたらした

《昭和五年》 昭和五年当時の時計界に画期的な雰囲気を芽生えさせたのは山田時計店の「セイコー製品専門卸」といった独立したタイトルであった。しかしその他に散在する時計卸商群は、「ナル程、山田さんという人は一風変っているな」と真剣に思われたそうだ。この頃はそれ相当に山田時計店自体は売上げに自信があったのであろう。また同時に、この頃の時計業界は、価格競争により売り上げ面ではホトホト困惑していた時代でもあっただけに、同業者間の競争は非常なものであった。

昭和五年の五月頃だと思う。私が当時銀座二丁目にあった服部時計店の卸部で中川総支配人と対談していたとき、そこへ山田徳蔵社長が現われた。すると中川支配人は、早速私に山田社長を紹介して、「山田君も藤井君と同じく服部党になるというので社長に話をしたらよかろう」ということにった。その支配人の話にのって、当の山田徳蔵さんは即座に自社の経営方針を次のように鮮明にしたという。
「精工合製品専門」というのは、変り種のようですが、すでにいろいろ数多くの時計の卸商の存在する中に、同じような方法で新規開店をすると言ってもしょうがない。だから将来に向けて“精工舎製品専門卸”一本でやって行く決心をしたのです。
このとき中川支配人は、ニコニコ笑いながらも「シッカリおやりなさい」と山田さんの肩を叩いて激励されていました。このときの真剣な面持ちで対処していた山田徳蔵さんの顔が、今でもそのまま想い出され懐かしく思えた。
中川総支配人も偉傑ではあったが、山田時計店社長の山田徳蔵さんも当時の決意が人の意表外に出て、その心強さのそれを終始一貫したために、今日の大をなすに到ったものであると考えた。人間というものの至誠の偉大な効用ということを、後輩の若い人達に教えてやりたいような感激を覚えた時だった。
時計卸商団体の「五日会」が昭和八年十一月五日に三十名の会員で発足することになったときには、すでに山田時計店は、堂々そのメンバーに入っていた。もちろん精工舎製品専門卸として堂々たる経営ぶりで、独立当初の開店資金は、確か五万円だったという記憶がある。今ではなんと巨億の資産を有すると聞いている。

米国製のスタンダード時計を日本で製造して見ないか?
設備一式を譲渡するという話をある政治家が仲介した

《昭和初期の頃》 「スタンダード」という米国ブランドの時計は、アメリカにおける製品であり、余り日本には渡来した実績がものと見えて有名ではなかった。ただダラーウオッチの類に見られたような範疇のようウオッチであった。
このスタンダード時計の会社は、第一次世界大戦のあとで、倒産の憂き目に追い込まれたと聞いたことがある。そのスタンダード時計会社の製造機械設備の一切を捨値に見切るから買わないか、という話を持って来たのである。
話を持ってきた主は、明治末期の頃、時計修理技術者として単身米国に渡り、自己資金でロスアンゼルス市に「天賞堂」という商号で時計の小売業を営んでいた山口県出身の渡辺金次郎という人である。
この渡辺金次郎さんは、昭和の始めの頃、故郷の日本を想い出して帰国したことがある。その時私の新聞社に立ち寄ったことから爾来懇意になっていたのである。元来は、新聞をアメリカに送っていたので本紙(商品興信新聞)の購読者であったというわけだ。だから日本の時計業界のことはよく承知していた。そんな関係から、日本時計業界には、精工舎だけが存在しており、その他に小物時計メーカーが存在しない亊情も知っていたので、競争相手という意味から、成立つだろうと内心予想をしていたのであろう。
渡辺さんがこの話を持って来たのは、二度目に帰国したときのことだから昭和五、六年の頃かと思う。米国のスタンダード時計会社の既存設備用具一弍の譲渡品目表を持参して、私にその時計の製造について相談を持ちかけたのである。だが腕時計などの小物時計のメーカー企業を押進めるには、相当な資本と気力が必要であるということを、私はこれまでの時計業者関係を通じて経験したことから実情を承知していたので、渡辺氏の希望を聞いた上で、これに対してこと細かに反問をしたものだ。
それによると、渡辺氏自身は、当時二百万USドルを所持しており、その中の半分の百万USドルだけを出資して、その他の百万ドルは日本の時計業者から出資を求めてスタートしたいという構想であったのだ。そこで私は、この構想を断念させるよう積極的に努めた。そのときの説明要旨は次のようだったと思い出す。
時計企業というものを、他面から見ていると頗る割のいい事業のようにも見えるが、然しそれを成し遂げるまでの苦労と来たら、それこそ筆舌につくせない程の努力を要し、更に莫大な投資が必要となる。私の見聞している範囲でも、村松時計製作所の如きは、その苦労さを物語るのに十分役立つだろう。村松時計製作所で作っている「プリンス」というブランドの時計は、一応成功してはいるが、然し時計としての本来の品格である時間の合う精密な時計を作り出すまでには、まだまだ程遠いものがある。それなのに、現にその村松氏は時計作りのために懸命である。ダイヤモンドを売った店の売上げの利益を全部継ぎ込んでもなお足りない経営状態のようだ。だからそのためには、村松氏自らが油のついた作業服に身を包み、手を油に染めながらでも努力を続けていかなければならない破目になっている。然もなお、その村松製作所を今日の状態にまで伸ばして持ってくるには、創業当初の近藤男爵とかいう人が自分の資産を投入してもなお続かなかったという経歴があるのである。だから「それでもよしやってみよう」というのであれば、及ばずながら私も一肌脱がなければならないことになるが、その前に、先ずあなた自身の決意として、所持金の全部を投げ出す必要があるという位の追いつめた場合に処する心積もりがなければならないが、とダメ押しをしたのである。
そうすると彼は「そういうものか?」ということで、その場は一応思い切ることにしたようだったが、何とかスタンダード時計会社から預って来た譲渡する場合の品目表を他に譲っても意義ある結果を見たいものだという希望があったので、この話はそのまま当時の吉田時計店に持ち込まれたのである。だがこの話は簡単に葬られた。日本における精密時計工業としての現況は、余りにも繁栄をもたらしているのであるが、昭和五、六年当時の日本の時計界を見ては、とても腕時計の企業に手を染めるなど思いも寄らなかったものである。
だがこのスタンダード時計会社の設備一式を譲渡するという問題についは、その後ある政治家の仲介で再び吉田時計店に話が持込まれた経緯がある。奇しき因縁であると思われた場面もあったが、この時も護渡の話は締結されなかった。然しその後に到って、このスタンダード時計会社の一切はソ連の国営として譲渡されたと聞いているが、それは事実のようである。

フランス語の「時計修理書」を翻訳、初めての刊行
時計技術書の出版事業など敢行し、自分の意思を貫いた 

《昭和七年頃》 昭和七年頃の景気はさほど悪くなかったが、良いという特別の情勢も見られなかったので中ぐらいの経済情勢といった所か。従って、時計の業界事情も至極平穏という状態であったので、私は一つの出版事業を試みた。
私は昭和六年の春から明治大学法学部に学籍をおいていたので、毎日朝八時半までに新聞社としての仕事を終えたあとは、重い革カバンを提げてお茶の水まで通ったものだ。時には講義時間の都合で円タクを走らす場合もあったが、学校では級友から大いにモテた。五月にはクラス委員長になり、総務委員に選出された。明大はこの頃、学徒四千余名を数えていただけに、三科を牛耳る総務委員の地位は軽くなかった。然し全国の専門校から集まった猛者連の中から選出する総務委員は、四百数十名の中から選抜されるので、その選挙戦は民間の選挙とは異り、想像を超える激烈で真剣なものだった。この中間で、三尺の秋水も躍れば、ピストルも向けられる事例があった程。“学園の時治と自由”を叫びながらも、その当時から政界の動きがこの方面にも反映してかかなり激かったことを想いだす。
そのような経過から案出したものは、当時の日本の時計界には時計に関する書物が何一つとして存在しなかったことだ。然もその上、時計業者の後輩の進出に備えるための「時計の修理」という学術的関係書類も存在しなかったのを遺憾とし、痛嘆したのであった。
ところが、私がこのように痛感しているのと相反比例して発見されたのは、本郷区(今の文京区)駒込神明町に、その当時時計の材料商を営んでいた松本計材料店の息子が持ち帰った時計修理に関する書物だ。その店の令息に松本武司君が大正十三年に単身洋行、そのとき持って帰国したとするフランス語の「時計修理書」があった。それを基礎として時計技術書の和訳出版を考えたのである。この本を出版するのに、相当の費用と手間を要したことはいうまでもない。
その難題なことを何故やることを決意したかについては、私としての一つの別な決心があったからである。それは、「世の為、人の為」になることをやってのける必要性を考えたからである。学校の方でも、六大学学生代表会議で学生新聞作りを相談されたのだが、いろいろな面で同調が出来ずに終ったことから考えて、断行あるのみと考えた結果であったのだ。

フランス語の翻訳で日本の時計部品名が分からない
私の主張に賛同してくれた理解者に支えられて出版

《昭和七年頃》 そこで何はともあれ、時計の技術者を集める必要があった。業界の他にも根本某がタッチしていた「時計技術協会」という集団があったので、私の新聞社で「日本時計学技術研究会」という名称で団体を設立することにした。私の主張に賛同してくれた当時のメンバーは次の人達であった。
蔵前の酒井時計店主=酒井亀太郎、下谷練堀町にいた原田久治郎、仲御徒町の大比良技術研究所の大比良忠成、御徒町の根本氏、渋谷の千野善之助、豊島の長谷川、巣鴨のナポルツ商会のスイス人・O・R・アベック氏等を加えた陣容で、ともかく研究団を結成して直ちに第一事業として技術の編集に協力してもらうことになった。
フランス語の原書を和訳したのを基本にして、午後六時から毎日毎晩開設に努めた。
この解説を行うには、時計部品の名称が判らなければならないのである。だがフランス語では、その解釈についてわからないものの方が多かった。
つまり座金のことを日本語では、“だるま”と称している等、他の呼び名になっている。
それだから、その座金の意を日本語に翻訳するのは一体どうしたらいいかという壁にぶつかった。そこでアベック氏に指導を乞うて見たところ、「引っかけ」だとか、「ドテビン」だとかいう熟語が発見されてきたのである。兎に角、これが最初で、時計に関する初歩の良書のひも解きとなったわけである。時計の日本式熟語の発見には相当いろいろの問題があり、且つ難渋したものである。

昭和八年に三木武夫君を本社社員に仕立てて渡米させることにした
業界のためになる事なら何でも実行した

《昭和初期の頃》 大正十五年に「商品興信新聞」を創刊した私は、当時、住居は別にして東京の上野広小路に本社を置いていた。だが事業を伸ばすためには広く、且つ自由な活動体制を求めるために、住居を兼ねて地理的にも便利のいいところを選ぶ必要があると考えていた。昭和初年早早から、本社の現所在地である今の湯島三丁目に移ったのである。ここは都電、国電、地下鉄ともに交通至便であり、かりに夜遅くなって帰ってくる場合でも、広小路の照明灯もあって安全な場所である。
殊に自動車を呼ぶような点では、自家用車を置いておくよりも便利であり、離れられないまま今日に到っている。私は住居をここに移してから静かに考える機会が多かった。
それは、新聞を創刊して、そして精工舎見学という大事業を成功させ、卒先して業者大会も開いて大成功を収めた。そうなるとその次は何をなすべきか、ということになった。それが人間としての成長すべき途上の段階であるのだと。私は自分の境遇に従って成長してきたのであるから、伸びられるだけは伸びていくことに努めなければならないと考えていたのだ。
人間は生きている限り、その全てを働くことによって幸福が得られるものであると考え、且つ働くことの出来る健康な身体に感謝するのである。
そこで自分が働けることの幸福を味わうと共に、他の人が働きうるようなことにも興味を持っていいのではないかと考えるのであった。そういうことから時計業者全国大会の開催も一応軌道に乗せた昭和四、五年の頃からは、書生を自宅に寝どまりさせ、日中社用で働いた後は夜学に通学させたものである。昭和七、八年頃までにその数七、八人にも及んでいた。それは、私と出会った関係の人が世の中に伸びて行くことの機会を一人でも多く作ることが出来るからであるという望みがあったからである。
私はこのような人が成長するという観点から、特質を買って、昭和八年に三木武夫君を本社社員に仕立てて渡米させることにしたのである。
そうすることに備えて、予め精工舎やシチズン会社などの時計業界関係の視察をも訓練した結果、昭和八年の夏、横浜港から業者各方面の支援と歓送を受けて勇躍壮途に上った。その頃の実情を熟知している向が業界人の中には今なお存在している。
かくして三木武夫君は、昭和十年八月十二日の夜に日本に帰国した。当時の国政の乱れに痛憤していた私は、三木君をして清い政治作りの為に生き且つ伸びていくことが、この場合の代償であると下駄を預けたものだ。
その当時の事を思い出して自らを慰める場合があるがそれとは別に、時計業者大会を連続して五年間にわたり開催してきたその翌年の昭和八年、満州地方において「時計業者の大座談会」を開催した。それは満州から北支、中支方面にわたり、本社員として活動していた長山政夫君が同地方の実情視察行を望んだので、それに対応させるための措置であったのだ。このようにして人と事業、それぞれの面に巾広く関連する範囲を求めたその狙いは
何かの場合に、業界のために奉仕し得ることに役立つという外にはない。私が業界のために終生努力を惜しまない限り、こうした人生を通じての奉仕する気持ちは今後もなお変らないであろう。且つその継続を望んでいる次第である。

「日本一最年少議員の三木武夫君の声を聞く」講演会を開く
私がその前座で、明治大帝が読んだ詩吟の一節を披露

《昭和十二年》 この序で、三木武夫君との関係について少し話してみる。昭和十二年四月の始めに最年少議員に当選した三木武夫君を東京駅のホームに出迎えしたのが私だ。三木武夫君とは、その年の十月ごろ、諏訪の片倉会館に同行して、一緒に処女演説を行った良い思い出がある。会場には千数百人が集っていた。集会の表題は、「日本一最年少議員の声を聞く」という講演会であった。私はその講演の前座に立つことに決まったのだ。雨の日の午前十時頃、京橋の路上で出会って、そのまま諏訪行となったのだから取分け演題というものがない。そこで三木武夫君が所持していたポケット帳の中から見出したのが、明治大帝が読んだ詩吟の一節である。「夜朦艟に駕して遠洲を過ぐ、満天明月思いゆうゆう、何日の日かわが志を遂けんや一躍雄飛五大州」。私がこの詩を読んで大喝采を浴びたいい思い出がある。

東京市会議員の選挙に勇奮した頃の私のハッスルぶり
学友たちの卒業試験の障害になることを思い出馬を断念した

《昭和九年》 私は新聞事業が発展したそのあとの平常な状態が続いていた昭和九年の舂に東京市(都制施行の前)の市会議員の浄化選挙が行なわれることになったので、立候補への勇気を奮い起したことがある。その時は、明明治大学法科を終える年の春だったの言論戦の助けに望んでいた学友達は、積極的に応援してくれる約束をしてくれたのだが、卒業試験の障害になることを思うと、それが痛ましくて準備は完了していたのだが遂に断念した。その時の経験から推して選挙という場の侯補者の心中など十分洞察することが出来る。

昭和十二年、江東区亀戸に第二精工舎出来る
時計の需要が高まり、生産体制の充実を図るため

《昭和十二年》 このように各種時計製品の進歩と進捗により、工場範囲が手狭となった事から昭和十二年には、携帯時計の製作部門を東京・江東区亀戸町に移転し、株式会社第二精工舎として分離、太平町工場では掛置き時計類、写真機用シャッターの製造を行う専門工場とした。
然して昭和二十年三月の戦災禍により、同社工場設備の約三割を燒失するに至ったが、同年八月終戦のため一時工場を閉鎖、残存施設によって操業は続けていた。
戦後は、昭和二十年十二月、事業再開に着手するや、同二十一年一月に操業を開始、同年四月にはコロナ目覚まし時計、六月には八インチ振掛時計、七月にスリゲル掛時計と写真機用シヤッター、八月には毎日巻き時計を製造して、同年末には月産二万八千個を数える盛業を見るに至っている。
そして昭和二十一年四月に、戦後始めてシンガボールヘ目覚まし時計の三千六百個を輸出したのを始め、海外からの急激な注文増に備える生産体制と共に国内需要面にも供給増加方針を立てていった。そのためか昭和二十三年には従来のコロナを改良したニューコロナ及小型目覚まし時計コメット、八日巻掛時計等を製造、引続き新意匠による製品多種品目の市場供給を行なったのである。
然して昭和二十六年二月には、従米のスリゲル掛時計機械の構造を改めて打方に、自動調整装置を施した本打式掛時計の生産を開始するに到った等、その改良と技術上の進歩のあとは文字通り目まぐるしいばかりである。
如上のように、精工舎の時計類の生産体制は、亀戸の第二精工舎を主軸として、上諏訪精工舎、鎌ヶ谷精工舎等つぎつぎにその生産の場を増しつつあり、加えてこれに伴う技術上の改善結果は、遂に昭和三十九年十月、東京において開催されたオリンピック東京大会の場で、これまでその競技川に使用されていたスイスのオメガ時計に代ってセイコー製の計時用時計が活用されたこのことは日本の精工舎から出るセイコー時計が世界の時計としての覇罹を把握したことになり、世代を飾る輝やかしい事蹟である。

貴金属業界では第一人者的存在であった村松本店の巻き
湿情らしく持ちかけ品物を大たばに売り込むなどは決して油断がなりませんぞ

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰彼なしに潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。
このことは、業者全部に該当する言葉では、ないかもしれないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものをニ、三紹介しよう。
村松本店は、東京・日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であったもの。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は、何所へ出しても通りがよかった。
村松万三郎氏の下に青木という支配人いて、性格は温厚であったが一角の筋が通っていて格式を持っていた人だ。この青木さんが、他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があったのだ。話の内容から推測したところでは、支払いの期限についての亊のようだった。万が一にも、そんな筈はないのだが、と思ったのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだら驚いた。湿情らしく持ちかけて品物を大たばに売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞというのがここでの幕。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334353637383940
page:8