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腕時計のバンド業界も活況を呈し出した
時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げた

《昭和二十四年》 社会状態が活発化して来たのにつれて業界の各関係筋でもだんだんと勢いを盛返していった。ヤミ物資の商品に混ざってきた舶来バンドの出現について、腕バンド業界では大いに注目し、且つ反省され始めた。この頃、腕バンド組合は、昭和二十二年の頃、涌井商会の社長涌井増太郎氏の発奮によって復活することになった。当時の時計バンド組合の書記長だった藤松氏がその先駆になり、活躍したという記録がある。
従って、これからの時計バンド業界は、時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げたものである。その結果、到るところで札束が乱れ飛んだというエピソードなども披露されたことがある。
時計バンド業界の最古参株の宮田伊太郎氏らは、この頃遊興にふけり過ぎた結果、遂に財を失くして終ったという悲劇的話題などを残している。そのような経過の中で奮起した時計バンド業者は、この頃から品質の改良に積極的に努め、堂々世界的水準の優良商品に比して独歩的地位を占め、且つ高めつつある美装組合の掌中に権利を収めるに到ったエバー式バンドのそれは、技術的にもその優秀性を実証されうるもので、且つ日本製品の権威を世界に広めるという点で誇るべき商品といえる。

終戦後における業界紙群の復活
更に知っておきたいことが残っていたので復刊を諦めた

《昭和二十四年》 時計バンド業界が活溌になったからというのではあるまいが、この頃業界紙の復活について私のところへ相談に来たものがあった。昭和十年に廃刊して転業していた早川平助君と蓄音機畑の堀恒夫君の二人である。勿論私に、復刊についての協力方を申入れて来たのであったが、その頃私は、まだまだ商売上のコツについて更に知っておきたいことが残っていたのである。例えば、ダイヤモンドについても、時計の価格の点についても、もう一歩精細をつくしておきたいと思ったからである。そうすることが業界新聞としての本旨をつくす場合に役立つ条件ともなるからだと考えたのである。そのような意味から、「諸君は先にやり給え」といって分れたのである。従ってこれから戦後の業界新聞群が徐々に復活の兆しに就いたというケースになる。

終戦後の業界復興に交換市場を開設した
昭和二十年の十月五日戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけた

《昭和二十年》 昭和二十年八月十五日の正午を期して、敗戦の招書が渙発されたことによって国内の空気は俄然変わった。それは憲兵も、兵隊も、日本人に関する限り五分五分の権利を持つ同志であることに、各人の認識が改められることになったからである。
それでも、終戦の大詔に抗じて湘南地方、伊豆地方やその他の出先に立こもった一部の軍団と、南方支那方面に頑張った派遣軍団の中には降伏に応じないものがあるというので、特に使節を送って説得に努めるなど、それらに二、三日を要した結果で、国内の騒乱化は事なく済むことになったようである。
かくて終戦の三日目を経た八月十八日には、東京湾上におけるミズリー号の艦上で無条件降伏を条件にした終戦時の調印式が行われた。それも終ったので、これから米軍の一部が上陸、市中を襲い始めることになったというのである。然し別段に暴れ狂うような様子も見られず、むしろおびえているものに与えるかのようなやさしい態度など見られたので、それらに馴れてきたこの頃から、ヤミ物資の交換が行なわれ始めた。
私はその頃、南稲荷町にいた。そして理髪店を訪れたメリケン兵の手から煙草のスリーキャッスル、チョコレートなど持込まれたので交換してみた。最初はちっと横道に入ったところで取引が行なわれたものだが、それが無事に済むと、今度は一時間もたたない中に又ぞろ同じ品物を大包に入れて持ってきた。このような事実がヤミ物資取引の最初でもあり、又本質化した過程でもあったのである。
眼の色の変った敵兵相手のヤミ物資交換風景は次第に延びていったが、それだけで生活が出来るわけではない。そうこうするうちに、このヤミ物資を専門に取扱う日本人の部類も現われるようになって来た頃は、既に終戦時から一ヵ月も過ぎていたであろうか、私はこのとき考えてみた。
ただ焼け跡を廻ったり、その整理をしていたのではラチが明かない。結局、仕事というものをどのようにして押し進めていったらいいか、ということについて熟考したのである。ところが、この頃国内の隠匿物資がボツボツ出始めてきた。それが私がいた美津和材料店に持ってきたものだ。銀製の御紋章入りタバコ盆、または全巻絵つき皇族系所有の文庫といったような種類のものである。

一日の取引額は、三十万円にも達した

そこで、この分では、国内における物資交換を行うことが人集めになるだろうと考えついた。和田さんに私の企画を話してみたところ、「藤井さん、それは良い思いつきだ。東京が焼けても東京にいた人達は、地方に疎開しているのだから、物の交換市場が出来たと分かれば、次から次へと伝わって知れわたるものであるのでおやりなさい」と言われた。新聞に代る人集めの職業には持ってこいのチャンスであると言われたのである。
それに元気ずいて、昭和二十年の十月五日に人集めの第一回を始めることにした。勿論、和田さんにも諸々に声をかけて貰うとともに、私は自転車を使って竹内武一君のところやその他の仲間を通じて、それぞれ業者側へ伝言をするよう頼んだのである。
そうしてその十月五日に、終戦後始めての時計貴金属品の交換市場の蓋をあけたのである。この時集まった人で、記憶に残っているのは、秋石鶴、吉ノ水井平保武、越光保、赤沢幸吉、竹内武一、涌井増太郎、今田正雄、香取栄一、南雲(群馬)らの面々で、三十五、六名だった。
それでもこの日の取引額は、三十万円に達したので、この分で人が集ってくるようになれば売上高も上がってくると見込んだ。
そうこうする中に、毎月の五日、十五日、二十五日の三日間が市場開設の定例日になったのだから、だんだんこの市場の状況が知れ渡ったのだとみえて人も沢山集まるようになり、取引高も増えて来て、落ちつきを見せるようになって来た。その頃は、馴れないながらもたまにはセリ棒を手にしたこともあった。ハタシ仲間の一人歩きもヤヤ可能な域に変転して行ったのである。兎に角、この市場というものを始めたことで、時計と貴金属品関係の商取引状況がどうにか観測出来るようになってきたのである。それが私がこの市場なるものを始めた真の狙いであったのだから満足したのである。

色石の値段のハネ上がりで活況が続く
セリ市場の誕生で自然と色石の業界価格が決まった

《昭和二十年》 明けて二十一年の春は正月早々から市場を開いた。南稲荷町の美津和材料店の三階に開設していた市場は、「五の日」が例会日で、その年の三月ごろから始めた竹内武一君の家でやり始めたのは「三の日会」だった。この両方の市場は、当時の東京の時計界を牛耳った専門市場となっていたので地方からの人気もこの市場に集まっていた。
三津和屋の和田さんと私は、その市場の開設を通じて業界の発展を乞い願うという点で希望が合った。だから格別この市場勢力を独占しようなどという気構えは毛頭なかったので、竹内君の「三の日会」ができたのにも協力した。
その次には、車坂町の涌井氏宅で「八の日会」を始めるということについても相談があったので、会場間の交換性からということでお互いに出入りしたものだ。この「八の日会」に集まる人達は、合月出身の村井氏が共催していた関係もあってか、出し物の種類にも変り物が見られたものだ。小池さんとかいった人だと覚えているが、その人が持ってきたルビー、アレキの裸石を市場に出せとせがんだのだが、小池氏本人は「石の値段なんかどうせ出るものではないからダメですよ」と言っている間に誰かが突如この色石をセリ場台に上場したものだ。ところが俄然人気が沸騰して一カラットニ十円にもセリ上がったのを見て、小池氏本人がビックリ仰天したものだ。つまり、こんなに高値に売れるものかという驚きであったのだ。四、五円もした位のものだったからであろう。そのような約束で、その次に出したアレキは更に高騰して、一カラット四十円にもセリ上ってしまった。これらがその当時の相場ということになったのである。
ここで、一寸注意しておくが、市場という性格から見た取引相場というものは、その日のその場の雰囲気によって、取引値段に異なる場合もある。だからその時の市場値段を以て必ずしも全体を通じての相場価格とはならないものであるが、この当時の業界事情は、このほかに取引上の標準になるような決め方なかっただけに、この日の色石の取引価格を標準にして、以後完全な業界値ということに決まったようである。従って裸石に対する取引上の人気はこの頃から強まったといえる。

金銀の塊や製品の出廻り状況
南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった

《昭和二十年頃》 終戦後いち早く出回った物資は、アメリカ兵が持って来た舶来のタバ
コ、チヨコレート、ビスケット、それに砂糖、コーヒー、ウイスキー、その次には軍属用の衣料というようなものに変っていった。私は、この中の軍属用衣料を仲次ぎすることで大変な利益を得たことがある。確か一着千円ぐらいだったと思う。
当時(二十一年)車坂町にあった涌井さんの家で、「八の日会」の交換会を開催していたころ、そこへこの種の衣料を持っていったところ、文字通り飛ぶように売れたものだ。その次には、真珠の連で二十本が一巻になっている束になった真珠の連を持こんで見たのである。その真珠が、私が見ている眼の前で売り切れて終ったという状況を呈したのである。そんな盛んな売行きを示すパールの連ものに対する私の口銭が、一連につき五十円という低率であったのだから一巻(二十本)でタッタの千円ということであったのだ。だから市場景気の情況に合せて、その次から口銭を一挙五百円に引上げた。だから私の手数料は、一束(二十本)に付き三万円に引上げたというわけだ。それでも、真珠の連は依然羽が生えて飛ぶように売れたものである。
この頃、藤井が交換市場を始めたということが伝わっていたのだろう。だんだんに私達の手許へいろいろな物資が持込まれて来た。その中で一番多かったのは、金・銀製品で宝石類はすでに戦時中に買い上げてしまった関係で、出回り具合は鈍かった。それでも骨董品を扱う道具屋には、昔の中国方面からの五型ものの時計はその時代の最高位であったものであろう。
この頃の貴金属地金に対する取引値段は、銀一勿につき二〇金は四円から四円二十銭乃至は四円五十銭という価格であった。その金銀地金などがこの市場にまで出品されたものだ。商売上手な御徒町の竹内君の市場は大変に盛んになり、一日の売上げが何と二百万円にも上っており、最高に売れたときは、三百万円にも達した時があった。
もっともこの頃は時計にしろ貴金属の場合にしろ、これといって正規に取り扱う品物がなく、その大半はヤミ物資ということになっていたのだ。たまには、アメリカ兵の踏み込みの危険往などということも管理者としては頭の中に刻んでおかなければならなかった時代でもあったのである。従って、この頃になってからは、物資の流れ具合にも変化が見られるようになってきた。アメちゃんから流れこんできた時計やバンドが出品され始めたのは二十三、四年頃からのことだと思う。これが結局昭和三十年頃まで続いたのだから、新時代への切換え商品としての登場物としては忘れられない記録である。南京虫という四、五型ものの時計は、その時代最高に高かった。

金塊や銀塊の買取り事件騒ぎ
金塊を割ってみると中にはナマリがごっそり入っていた

《昭和二十三、四年頃》 市場取引がだんだん盛んになって行った昭和二十三、四年の頃は、金塊についての取引状況は特別激しかったものだ。この頃、この金塊の取引について一つのエピソードがあった。それは二十二年頃のある日の夕刻、私が家に帰って来ると待ち構えていた和田さん(美津和材料店の主人和田政次郎氏)が早速話を切出した。「藤井さん、インゴットがあるから買おうじゃないか」という。「それはいいが品物の中味は大丈夫ですか」と私が念を押すと、この通りハンマーもつけてある位だから間違いはない、というのであった。
そこで私は右手にそのインゴット約五百グラム目のものを持って重量の感を試して見ると、比重に少し軽い感じがしたので、「これはダメだ」と突っ返した。すると、そんなことはないよ、さっき先方の人が来てこのハンマーで割って見てもいいといっておいていった位だからというのであったので、では割って中味にアンコがなければ高いが匁四五〇円で買えばいいのだから、といい切ってから私がその場でハンマーを使って割って見た。すると、何と、大丈夫どころか、中にはナマリがごっそり入っていた。これを見た一物売買のベテランの和田さんもさすがに顔色を変えた。その物をして、儲けようというやましさがない限り物ごとに誤った解釈がないことになる、という実感をこのときハツキリ証明出来ることになったわけであり、この時の事実を通じて参考になったのを喜んだ次第である。

武田製薬の重役がヤクザ者から手付金十万円を受取ったという当時の実話
一千万円のダイヤモンドを取引したいから持って来て見せて呉れ

《昭和二十三、四年頃》 これと似た事件がもう一つあった。この金塊偽作事件があった当時の世の中は、金の取引事件があっちにもこっちにも相次いでいた。今その頃の当時を振返ってみると、事業そのものをカムバックさせるための資金が欠乏していたからであろう。その資金集めをするために、一つの悪策(詐欺?)を企んだのだということがいえる。その金塊取引の事で、当南稲荷町にいた白山某氏が、武田製薬の重役と売買するのだということで契約を結ぶことになり、その間に入ったヤクザ者の一人から手付金十万円を受取ったという当時の実話であった。結局、対照物にしていた金塊を約束の時までに提供することが出来なかったので、十万円の倍、二十万円をおどし取られたという事件があったのを覚えている。更に、またその武田製薬の当時の重役というのが、私の南稲荷町の居室にやって来て、ダイヤモンド約一千万円ほどを取引したいから持って来て見せて呉れという申入れを受けたことがある。もちろん、外へ持出してまで売らなくても、先客万来の時代であったから、私はその武田製薬から来た使者なるものに断った。それによって、そのあとやって来た現役と称する輩には、その場で眼のさめるようなキラビヤカな光モノをぞろり並べて見せてやった。驚いたらしい。現金を持たずにやって来たのだから、その品物を持出したとせんか、それが最後何所かで体よく詐欺または略奪という寸法をやらかす計画でもあったであうと思えた。その時、彼らの二人のものは、金塊ならば当社にあるからそれを買って貰ってもいいというゼスチュアを残したのである。果して事実か、というためしのためにという興味も手伝って、その約束した銀座西七丁目の河岸(当時の外豪)にあった日東紡なる会社の秘書課を訪ねて見たのだ。ー向にそれらしき人の存在すらも明確にしえないという情況であった。私の想像した通り頗る危険千万な策謀がこの間に及んでい
たことになるのである。正に暗黒の時代だったのである。

銀塊二屯を信州中野まで引取りに行った時の経緯
結局は純銀一貫匁づつを無償提供されて、これで泣き寝入り

《昭和二十三、四年頃》 金に続いて銀の取引についての一つのエピソードを記してみよう。市場管理をやっている中には、いろいろ取引上の売込話もあった。その中の竹内武一君の持込み話である。当時信州中野に中野無線という軍関係工場の処理品として、ササ銀二屯の売物があるという話が出たのであった。この話に一口乗ったのは、私と竹内君の外に香取、今田の両氏を加えた四人であった。そこで、竹内君を除いた三人が出資しあって荷物の受取りに出かけさせたことがある。昭和二十一年の二月頃のことだったから、中野行きのトラックの動きには、頗る難路の頃だったと思う。ところが出発後五日を過ぎてもトラックが帰って来ないので、情況偵察をして見たところ、銀価格が値上がりしたため契約価格では出さなくなったということなのである。
そのために遅れているのだという経過がハッキリした。まるでキツネにつままされたような話であったが、この当時は万事がそんな状態であったようである。結局は純銀一貫匁づっを無償提供されて、これで泣き寝入りしたというのが実情である。
銀の問題では終戦間際の取引物で、銀塊半トンを電話命令で某所の庭に埋めさせておいたことがある。このことはとんと忘れていたのが最近この原稿を書くことになったことから想い出して終戦当時のその頃の状況を振返って考えたことがある。これなどはとんでもないエピソードであり、終戦直行の頃の語り草の一つでもある。

陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座
ダイヤモンド買上げに関する陳情書を商工省当局に提出

《昭和十八年》 以上のような経過で、ダイヤモンド買上げに関する陳情書は、商工省当局に提出、買上げ実行についての情況見通しについての瀬踏は、私が一応説明したのであったが、この陳情の趣旨は一時局に適応しているのであり、採用可能な線もないではないが、陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座の形となって終った。これは市内の某料亭において話合った時の当局側の説明であったのだ。とに角ここまでは私の手で努めて来だのだが、これ以上に秘術を尽すということについては一考したのである。
それはこの当時、「東京貴金属品製造同業組合」なる組合は、久米武夫氏が代表であり、表面上は既に戦時体制時代に突入していたので、貴金属組合としてはなすべく方法もないということにしていた。だから事業というものに手をさし延べるであろうか、などとの予想など到底持てなかった時代であった。いうなれば有名無実という存在のものだったのである。そのような関係から久米さんの組合に交渉しようとは考えなかったのである。従って私としては、陳情書を出して実情具申をしたあとは、当局の呼出待ちといった程度に考えていたから、他のいろいろ起きてくる問題の処理に取り組んでいたのである。
ある日、私が国電の御徒町駅から降りて帰宅する途中で、亀田基一氏と路上で出会った。そのとき亀田さんは、私にズバリいった。「藤井さん、貴方の努力した陳情効果は、結局久米さんの組合の名に切換えて成功しました、トンビに油揚をさらわれた格好ですね」、と心
なしか、せせら笑われたように受けとれた。
だが然し、私の努力によって進めた民間ダイヤモンドの買上げ事業が、曲りなりにでも成功したのなら結構なことだと思った。それだけにまアーこの辺で諒解すべきものだと私自身は心の中で決めたのである。
ところがこのときの私を評して曰く、「正に正直者がバカを見る」といわれたことがある。たしかにそうであったのかも知れないとは思ったが、矢張り私はそのままあきらめた方がいいと思った。

ヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話も
昭和二十年春、帝都爆弾強襲のころ

《昭和二十年》 B29が帝都を襲来してから軍当局の行動は一層曖厳味を加えて来たようであった。然し、国民自体は敵B29が帝都初訪問した時の戦闘状況の実際を凝視することが出来たので、これからは軍側の報道などは問題にしていなかったように思えた。
つまり、戦局は日本側に不利になっているという活況の一部が判断出来たからである。総局の二階に軍需省参与官の職にあった三木武夫君がときどきやって※たので、その都度私は政府の方針と戦局の推移について語り合ったものである。戦争に勝味があるかないかという点で、心配する空気が案外強まっていた頃だったから、その情報を知りたいがためでもあったが、戦局の情報については、三木君よりも庁内の尉官左官の連中のほうがはるかに詳しかったし、適格性を持っていた事の判断も出来た。
それは戦局の進展に備えて、官位通達というものが出されていたからである。
私が三木君と会談することを誰かが田中という官房長官(少佐)に知らせたものがいて、ある時、長官室に呼ばれて、三木君とどんな話があったのかについて詳しく聞かれた。
しかし、明治大学の同輩ということで、その場を押し通した。この頃は、すでに敵機の帝都襲来が激しく、東京方面をめがけて段々激化してきた時代である。
既に昭和二十年代に移った頃で軍需省内の空気には少しくあわただしいものが見られていた。第一線から飛行機を送れ、飛べる飛行機を送って来いという注文なのである。之に反して国内の生産体制はというと、生産された飛行機の二割しかパスしていない。それなのに不良の八割方についても一応軍からの支払いが行われているというだらしなさである。一体これで戦争が出来るのか?と、涙を流さんばかりに強く訴えて来るのは下士官連中であった。
一塊の時計屋に過ぎない私にこのように軍の機密を明かして訴え、且つ嘆くのであった。こうなってからは少尉中尉の連中までが時計部の室に毎日のように入り込んできて、原子爆弾用の資源ウランを求めるための悲痛な訴えは、この頃特に激しかった。独逸の戦況と日本軍の南方戦局との小競り合いが、いろいろの面で日本の国内に影響していたのである。この頃の軍需省内は、大部分のものが受持つ仕事そのものに手がつかなかったようである。つまり、手が浮いているのである。かくしている中に、昭和二十年の五月十日に到り御前会議が開かれた。そして、戦争の継続可否について討議された事実も秘密裏に報告を受けた。独逸のヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話もあるなど、なかなか深刻なものが伝えられるようになり、この頃から戦局情報のきわどいものが刻々持込まれるようになったのである。



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