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昭和二十七年頃の時計の需要状況
漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである

《昭和二十七年》 この頃時計に対する日本人の愛好心はすこぶる強められていた。戦争のために死んだ人の数もあるにはあるが、それでもなお八千万人は降らない人間が、この限られた日本の狭隘な地域に生き長らえていかなければならないのであるだけに、働かなければ喰えない時代であるという観念からか、人間的活動上に必需品となって来た時計は、誰の眼から見ても欲しがられていたものである。だからヤミであろうが、正規であろうが構わない。人々は自分の許すサイフの力の限度において、買い求めたいものと願っていたのであった。
ところが時計の供給力はどうか?というと、吾国ナンバーワンの世評にある精工舎製品が何と月産六、七万個という時代であったのだから、大約月産量六十万個位の消化を欲求していたこの頃の需要力には、ほど遠いものであったのだ。
ヤミの時計のルートに関係を持つ業者筋では、この状況を見たためか特別非常にこの時計の面に力を入れたものであるようだ。
この二十六年頃から二十七、八年ごろに及んだこの間のヤミ実績を衙かれて東京税関につかまえられた某輸入商社の罰金額が、なんと三百七十八万円にも達したというのだから、この間の輸入量の程度が想像出来たであろうと思う。
だが然し、日本の時計界でも何日までもこのヤミ事情が続くわけには行かなかった。昭和二十七年ごろには、世情が段々平静の状態に回復していった。
時計関係の部門でもこの頃は、OSSの払下げに続いて、私の新聞社が主催して出来た輸入業者による懇和会という団体の設立などを機会に、漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである。それはヤミ物資を取り扱うことによって利益する反面、そのヤミ行為により罰せられる場合の事件代を算定したときは、利害相反する結果ともなり、一面では、未だにヤミ物資を取扱っているという非難を避けようという気持になって来たからでもある。だから旺盛を極めていた時計関係のヤミ時代は昭和二十七年の頃をもってス。キリした時代への転換期に移ったといえるのである。

「日本時計輸入協会」の設立と大蔵省関税部の活動
正式に輸入許可を認めて貰った数量は二百万個位

《昭和二十八年》 日本の国内事情が漸次整備されてきた関係で、治安方面の取締りも前進してきた。ヤミ物資の取扱高についても、当局の活動が見られるようになって来た。
昭和二十八年に入ってから、遂に社団法人組織による「日本時計輸入協会」が設立されることになった。理事長には、戦時中、商工省の物資局長官を任じていた千葉県出身の衆議院議員の始関伊平氏を招聘してスタートした。この日本時計輸入協会の発会式には、輸入時計懇話会設立者の関係もあって私も列席した。
この協会のメンバーに連なったものは、時計輸入協会というハッキリした団体が出来たことによって、明るく開かれた時代への再スタートを切ったような輝きに満ちていたのである。
然し、この当時この時計輸入協会に加入したメンバーは、俗にいって、猫も妁子もという程度で、確か七十余名という多数に及んでいたようである。この頃の大蔵省側でもやっと諸物資の取扱状況について特に注視するようになり、関税部の中の審理課というのを監督して、ヤミ物資の摘発に乗出した。勿論、時計とダイヤモンドの関係についても、当然輸入してくるルートについて細かい調査などを進めたものである。
そこで、この調査によって当面の問題に取り上げられたのは、輸入時計の古物品についての処理ということであった。勿論大蔵省側では、古物品なる時計の関係についても、事前に調査をしていたようである。
そこで、小売店頭に現に列べて販売に供している時計については、どう取扱うか等の点で東京時計小売組合側の代表などとも打合せた結果、兎に角、進駐軍将兵からの横流れ的な処分という特例の下に処理することにして貰い、それを組合が一括処理する方式をとったので、昭和二十八年から働きかけた、この処理事項は昭和三十年にまで及んだので大した騒ぎを演じたものである。それでも、表面上は当然違反事項に取上げられるべき問題であったものを特別処理ということで、ケリつけることになったことは甚だ仰幸であった訳であり、この当時が終戦後のヤミ時代から絶縁することになった最大のヤマ場であったのである。
但し、このような画期的な騒ぎを演じつつあった中で、一方では日本時計輸入協会としての立場で、正式に輸入許可を認めて貰った。その数量は二百万個位になっていたようである。従って時計の輸入許可量が僅少ということから、輸入許可証書だけでも、相当にプレミアがついたという時代であった。業者間では、この輸入許可証をめぐってプレミアつき取引時代が展開されており、賑やかな風景であった。この頃、輸入時計を専門に取り扱っていた商社と当時のブランドは大体次のようにあげられる。
△日本シーべルヘグナー梶iオメガ、チソット)、△リーベルマン・ウエルシュリー商会(ロレックス)、△シュリロ貿易梶iインターナショナル他)、△ヘラルド・エンド・カンパニー梶iエニカ、シーマ、グルエン、ジュべニャ、オレオール、あとで日東貿易が継承)、
△日本デコスシユルテス商会(エチル六サーテイ六才Iデマピケ)
△椛蜻商会(モバード、ジャズ)、△兜桾博梃v店輸入部(ロンジン、ジラード外)、一新時計梶iブローバ)、△平和堂貿昜梶iテクノス、モンディア、ローヤル、ピアジェ、ウオルサム)、△潟Xイス時計輸入商会(ウイラー、ナルダン、エキセルシャパーク)、△瑞穂商事梶iビュ1‐レン、レビュー、ユーハンス)、△竃x田時計店(エレクション)、△村木時計梶iプレシマックス、ユニバーサル)、△東邦時計梶iゼニット、ドクサー、ニバダ)、△洒田時計貿昜梶iラドー)、△豊陽商事梶iキャミー)、△潟Gデイキン商会(フレコ)、△活髑コ時計商会(リップ、グリシン)、梶「大洋商会(モットー)、△新日本時計梶iべンラス、イメージ)、△シチズン時計梶iミドー、エンベ)、△リコー時計梶iハミルトン)。

落ち着いてきた古物品旺盛時代の業界
物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった

《昭和二十五年》 いろいろな変貌を見せて来た時計業界も昭和二十五年を過ぎて二十六年頃からは、何れともなく所次落ち着きを見せて来たようだ。だが、物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった。この当時の業界は次のような状況をみせていた。
時計が表面切って入荷を証明出来るものは、腕時計では国産のセイコー、シチズン、オリエントだけである(オリエントは昭和二十五年に再組織して発足した高野時計だった)。
この他に舶来時計はあるにはあったが、何れ正統に入荷された筋合のものではなかったのである。それだけに、しいてあるとすれば、外国から持ち帰ったものか、又は進駐軍からの横流れのモノであった。
従って、舶来時計は仮に、その品物が店頭に列べられていたとしても、それを統一した価格はつけられなかった性質のものだ。だから客筋は舶来時計の陳列品があれば、その店の中に入って行って、時計の値段を聞いてから買ったものだった。だから店内における客との応対ぶりは、その客が素人であるか、または玄人筋かを一応警戒しながら取引に応じなければならなかった。
だから陳列時計の殆んどは、古物品として取扱われていたのである。この頃の古物業者への供給筋では、案外小売業者の側からは、人気を博し、珍重がられた存在であったのである。

古物時計の取引上の標準相場を新聞紙上に掲載した
流通史上に革命的所産を示したことになった

《昭和二十五年》 そのような当時の時計業界の状況に対処するため、私はこの頃から古物時計の取引上の標準相場を私の新聞紙上に掲載することにした。つまり、新品同様の品物を一として、二位は、古さが二番手、機械がキレイで側替えを要する程度のもの等、内訳して中庸の値段を出したものだ。それを実行したことによって、地方の小売店や時計卸の仲間業者からは、特別な称賛を博した。
ところが、仲間の業者の中には、自分らの取引している現品の取引値段がそのまま新聞紙上に発表されるのでは、具合が明らかになってしまうから取引上うま昧がないと言った考え方を持った向もチラホラあったようである。
然して、日ならずしてこの雰囲気も解消して、この標準相場表そのものが取引上に大いに役立つようになり感謝されるようになった。これなどは、取引上一つの新しい型を打出したことになった。いうなれば、流通史上に革命的所産を示したことになる。この標準相場表は、時計の場合だけでなく、ダイヤモンドについての取引価格でも同じようなことがいえるのである。ダイヤモンドに対する価格を本紙上に掲載し、取引値段を公表することになったそれ自体が、何となく業者らの取引上の権益を侵すような感覚を持つ向もあったようである。現実には地方業者間では、本紙上の公表値段が大いに中値式の価格に役立つものだと喜ぶようになったのである。
このように、一つの改革とそれを断行するということは、当初はショックらしい感じを受けるが、それらが自然にならされるまでは、一種の錯覚を生みやすい。
だから、それから後の時計界は、古物時計に関する相場表の活用が強くなり、現在でも、それに馴れて利用している向が多くいる。

関時連の定時総会に東京時計組合役員が殴り込み
金山重盛氏以下、河内録幣、千野保氏等も同調して結局二十余名

《昭和二十六年》 時計界の団体の種類には、全国を統括する「全国時計宝石眼鏡小売連合会(全時連:略称)」があり、その外に地区ブロック団体に次いで、県単位の連合会が生れている。従って、東京を中心に近接してつながる関東地区の県連を集めたブロック団体が「関東時計宝飾眼鏡小売連合会(関時連)」という名称で営まれ、関誠平会長がここの主班に当っていた。
ところが昭和二十六年、千葉県の船形において関時連の定時総会が開かれることになった。このとき東京時計組合の理事長は金山重盛氏が就任していたので、東京時計組合首班即関時連会長という慣例から見て、東京時計組合の理事長を辞めた関誠平氏が依然として関時連の会長をやっているのはケシからんということになった。しかこの時の総会はお盆にならない前たったから、六月の下旬のように思える。
とにかく、関時連の会長は、東京時計組合の代表が兼任すべきものだから、役員の協力を求めたいとの希望が打出されたものだ。所謂、関時連会長のイスを奪取しようというのが狙いだったといえる。
一人分の費用として五百円を組合から支出したほかは、金山氏個人が全部負担するからということで役員に総会への出席を求めた。河内録幣、千野保氏等も同調して結局二十余名が大挙して千葉県の船形に押しかけ、さながら殴りこみをかけるようなその場の情景を想いうかべると笑いたくなる。
ところが関誠平氏を掲げる千葉県時連側では、特にこの日、館山地区の業者に出動を請い、強力な抵抗を張ったのであった。この事態に関心を深めた今野神奈川県連会長が立上って鋳を入れ、両者の激突を寸前で押えたのである。
つまり決戦の結果では、面白くないことになるということを見抜いたからである。そして今野氏は、その場で言明した。「もしも私のいうことを聞き入れないならば、神奈川県時連は、関時連を即時脱退する」と態度を明確にした。このことがあったので、席上の空気を一変させた。
その結果、「それでは次期首班の選任は今野神奈川県連会長にお預けしようではないか」ということになり、その場は無難に切り抜けた。しかし重荷を背負わされた今野氏は、それから約半年苦しんだ結果の挙句、ついに横浜市の野毛山公園の迎賓館に関誠平、金山重盛他数名の関係者を集め、懇談調整に努めた結果、金山重盛会長就任ということで一先づは業界の平静化を計ることになったのである。
こういう形がとり続けられたのを利用して、山岡猪之助氏の東京時計組合の理事長時代にも、関東時計宝飾眼鏡連合会の会長を以前把握したままであったなど、この間いろいろな感情の縺れが起こり、湯河原での総会を契機に決別することになった。
以来、東京時計組合は、関時連とは別に、東京単独のブロックを形成して、全時連傘下に入ったというのがこれまで辿ってきた団体間のコースである。

昭和二十五年頃の舶来時計の標準価格表
懐かしいブランドが並んでいる

O六型大虫並物級銘柄品K18金側:5,800円以上。
   同       K18金側:6,200円見当。
O六型大虫中級銘柄品 18金側:13,000円以上。
    同      18金側:15000円見当。
    同      18金側:20,000円以上。
(註)ロンジン、オメガ、ナルダン級の品物は30,000円以上となる。
    る
O十二型丸変中三針 ステン側:3,800円以上。
    同      同  :4,200円見当。
    同    トップ金BS:4,500円以上。
    同    トップ金BS:5,000円見当。
O男物角型変形オール金張 べンラス番品:4,500円以上。
    同        同      :5,000円見当。
    同        同      :6,500見当。
    同      べンラス新品同様 :9,000円以上。
    同      べンラス新品同様 :12,000円迄。
    同      グルエン二番品  :5,500円以上。
    同      グルエン二番品  :6,500円見当。
    同      グルエン二番品  :8,500円程度。
    同      グルエン二番品  :10,000円位。
    同      グルエン新品同様 :13,000円以上。
    同      グルエン新品同様 :15,000見当。
    同      エルジン二番品  :8,000円以上。
    同      エルジン二番品  :9.000円見当。
    同      エルジン二番品  :12,000円程度。
    同      エルジン新品同様 :15,000円以上。
    同      エルジン新品同様 :17,000円見当。
    同    ブローバ二番品17石 :5,500円以上。
    同    ブローバ二番品17石 :6,500円見当。
    同    ブローバ二番品17石 :7,500円程度。
    同    ブローバ二番品21石 :8,500円以上。
    同    ブローバ二番品21石 :10,000見当。
    同    ブローバ二番品21石 :12,000円程度。
    同 ブローバ二番品21石新品同様:15,000円以上。
    同 ブローバ二番品21石新品同様:18,000円以上。
    同      ウイットナー二番品:6,500円以上。
    同      ウイットナー二番品:7,500円見当。
    同      ウイットナー二番品:9,000円程度。
    同  ウイットナー二番品K18金側:10,000円以上。
    同  ウイットナー二番品K18金側:12,000円見当。
    同         エニカ古物品:2,500円以上。
    同         エニカ古物品:3,000円見当。
    同        エニカ新品同様:4,500円見当。
    同         モリス古物品:3,500円以上。
    同         モリス古物品:4,000円見当。
    同         モリス二番品:5,000円以上。
    同         モリス二番品:6,500円見当。
    同       ロンジン新型古物:8,000円以上。
    同        ロンジン二番品:10,000円見当。
    同        ロンジン二番品:13,000円程度。
    同       ロンジン新品同様:18,000円以上。
    同       ロンジン新品同様:20,000円見当。
    同    ロンジンK18金側二番品:12,000円以上。
    同    ロンジンK18金側二番品:15,000円見当。
    同    ロンジンK18金側二番品:20,000円程度。
    同          メツバ古物品:2,000円以上。
    同          メツバ古物品:2,500円見当。

輸入時計の取扱量をいかに増やすかの許可運動
本社から発信したアンケートが功を奏して

《昭和二十六年》 然し何といっても、この頃はまだまだ総てがヤミ時代であったのである。従って、もし一斎手入れでもあった場合は、時計界はおよそ倒産してしまうというほどの危険を感じないわけにはいかなかった。今の中に何とか手を打つ必要があるという考えから、この面に関して手を打ったのは前に述べた警視庁特別捜査第三係の外人係に接衝して、舶来時計の取扱を防犯面から捜査に協力するという建前を以て、漸定的に黙秘するという形をとって貰うことにしたものである。いわゆる協力に対するお土産。
その効果は、全国の時計業界に偉大な効用をつくしたことになった。その結果に鑑みて、昭和二十六年には舶来時計の輸入許可促進についての意見を、各地区の組合代表者から集めることにした。当時、本社から発信したアンケートの内容を明記すると。

@ 現在の時計扱量で満足しているか、
A 舶来時計の輸入許可を希望するか、
B これらの許可の陳情を行うことの可否、
C その他、当局に対する意見の具申。
というようなものであったが、何れも現状の時計量では足りないという意見が圧倒的に回答されて来た。そこで、私はこの意見書を取まとめて当局に陳情し、輸入時計は業界の必要量に応じて許可されるべきものであることを強調し、業界の利益のために大いに努めたのである。

舶来時計が正規なルートで市場に流入することになった
舶来時計OSSの払下げ入札で

《昭和二十六年》 前述のような時計界としての意向を盛った陳情書を当局に提出したからということでもあるまいが、昭和二十六年六月に、突如OSSの特設品全部を指名入札により公売する旨を発表した。そしてこの報告は、上野所在の古物防犯協力会にももたらされた。
そこで白石憲二防犯協力会長以下有志が、会場に当てられていた京橋の明治屋三階のOSSのオフィスにおいて実施された入札会に参加した。
私らも一割の入札保証書を担保して競落の仲間入りをしたのだ。このときの払下げの実現で舶来時計としては、始めて日本の時計業界に正式に入籍することになったものである。だから、この日の入札の事実は、それによる収入利益よりも、舶来時計が正規なルートで市場に流入するという事の方が、また一段と大きな収穫になった点が頷かれる。
かくして明治屋に展示されたOSSの払い下時計は、大体二千八百個位あったのではなかったかと思う。この時計が結局は小売店の望むところに配られて、それがヤミ事件の起る場合、どのようにカバーする役目に効用があったかは、当時を想い出して業界の利益事件として回顧することがある。
然も昭和二十六年から二十七年頃に至っては、ヤミ時計品に対する取締当局の検察眼は、ますます厳重になって来ており、時計界としても、この当時が最大のヤミ事件を生んだものではないかとこの当時のいろいろな事が想い出される。

ヤミ取引の内幕とヤミの経路
香港から一包み三千万円が一回分として来るのが原則的

《昭和二十六年》 一体、ヤミという形体はどのようにして作られていたのかについて、少しこの辺の状況など一片を記してみよう。
昭和二十六年頃における商況というのは、一切がヤミ取引であった。つまり、人が欲しがる生活用品が足りないのだから、結論としてはヤミ以外にないことになる。
価格は、自然的に釣りあげられることになる。だから、自然とヤミ値を生むことになる。従ってこの当時の生活状態は、そう安楽なものではなかったが、ヤミを作りうるような特需社会では、一応景気は良くなっていたようである。
ところで、この時代のヤミ品の流れ具合などを振り返って見ると、先ず最初は、空から横田空軍基地経由のものもあったが、ヤミ畑の面が盛んになって来た頃からは、自由港であった香港を経由するものの方が多かったようである。香港からの密輸品のルートについて、私のところへ持込んで来たある人(名は秘す)からの交渉の一片を記すと、
ヤミのルートは、香港から一包み三千万円とこが一回分として送られて来るのが原則的になっていたようだ。船の運送の関係であろうか、この当時は時計だけではなかったもので、薬品でも綿布類でも購買力のあると見込んだものは総てこのようなルートと方法によって持込まれたものである。
私のところへ持ち込んで来た人の話では、オメガ、インターナチョナル、ナルダン等の時計類。それに南京虫も混ぜて一梱価格三千万円也であった。取引の橋渡しをしただけで、その一割を報酬に呉れるということだったが、私は新聞を出版している関係で、その紹介を断然ことわった。考えて見れば、宛ら垂涎三千丈というような甘い話であったのである。だから、志を別にしたものは、この頃の状勢にのって、盛んにヤミ品の取扱いをやったものである。
一回の手数料三百万円だから、これが月に六回位は反復することになっていたので、一ヵ月も経てば、その間の手数料の収入だけで優にヤミの仕入資金に充当することが出来たものである。だから若しこの頃、そのヤミなるものに本格的に手を染めていたとせんか、今は何十億円かを貯めこんだ長者組の中に入れられていたかも知れないということになる。

ヤミ時計検挙事件当時の秋嘆場など
小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物数百個単位というものもあった程

《昭和二十六年》 ヤミ時計のもっとも盛んであった昭和二十六・七年頃の時計界は、何処でもここでもというほど盛んにヤミの取引が続けられていた。小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物(南京虫)を合せて一種類数百個単位というものもあった程だ。従って警察の眼も、この点に注がれたものである。
然し商人という性格は、例えそれが悪いことであると承知していても、自分以外の同業が儲けているのを見て見ぬふりは出来ないものと見える。よほどの成長人でない限り、昭和二十七年の秋頃、東京市内の大どころに警視庁第二課発の捜査網が突然布かれた。その状況が新聞に出て、その店は一応閉めるという騒ぎを演じたのだが。そして、「今後ヤミ品は一切取扱いません」という一筋の念書を当局に入れて済ませることにはなったものの、この調査中の数カ月間は、内心ビクビクの情況で押し通したものだったという。もちろん事件の表面だったその小売店の主人公は、雲がくれという寸法である。この事件の取調べに当った警視庁のN主任は、経済係のS某といってその後時計業者とはだいぶ馴染が交わされるようになったようである。
この時の事件に関連した供給者側には、東京在住の大手筋が殆ど加わっていたようである。
従って取調べが進むのにつれて、摘出された時計の数は、なんと数十万個にも及んだようだったから、ヤミ事件としては、大変大きく且つ珍らしいものであったようでもある。
結局、八ヵ月間を費して一件書類は検事局送りとなったのであるが、その以前に係刑事が検事局にこの事件の取調べ経過を内申したところ、係刑事連があべこべに脅されたとして憤慨していた光景があり、その事実を本人から聞かされて笑えない一幕を感じたことがあり、正に珍事であったようだ。
ヤミ事件を摘発して、そのヤミ品のアリバイが明確であるのにもかかわらず、検察当局からお叱りを受けたということそれ自体は、取調べの根本にミスがあったからだということになる。係主任刑事の告白によると、ヤミルートは一応明らかに摘出することが出来た。勿論、数量と金額も合い、又それによる利潤計算も明かに算出されたのではあるが、ヤミ品の供給者である杲氏が事件開始の直前に死亡していることにより、これによって事件の全体が見えなくなったというもの。つまりヤミ品であるかないか、又そのルートが如何なる方法によるものかどうかの点を明かにすべき立場の人(証言すべき人)が死という事実によって、総ては清算されなくなったのである。係刑事のN某は、顔を青ざめて怒つて見たが致し方なく、事件はそのまま白紙となり、その中の一部だけが送局されたに過ぎなかったようである。この問題は、戦後を通じてヤミ事件中最大のものであったようである。「泰山鳴動して鼠一匹」という結果になって終ったというもので、戦後のこの種事件では特記すべき一節である。



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