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商標権譲受で雪の中旭川行き
東洋時計のマークである「TOYO」商標の譲受けの為

《昭和十二年》 話は少しズレるが、昭和十二年二月十二日のことである。北海道の旭川
市というところは全道を通じて北面に位するので、冬は酷寒の地ということになっているだけに寒さとたら頗る厳しい所だ。私はその酷冬の二月十二日に旭川市の明治屋本店に辿りついた。明台屋は人も知る北海道の時計界では最も古参に属する小売店であり、卸商店でもある。私が所用で辿りついた時は、当時のご主人は佐藤音次さんであり、すこぶる元気な人だった。その健康さと来たら、その寒い最中でも風呂に入ってからは、素肌に手拭を引っかけただけで堂々としていたほどであるから驚く。元気そのものであった。その音次さんの話だと、明店屋は、明冶六年に道庁吏員として開拓団のI人となり、旭川に渡来したもので、その機会に土地を得たものだとの説明である。
従って、それから延びた明冶屋のこと『土地は何所までが自分所有のものであるかは、終戦後の固定資産税調査が行われた結束で初めて判明した』というほどである。その明治屋の元当主音次さんが亡くなられてから現当主の門冶氏が引き継がれているのだが業務中現在は時計が大体主の商材のようである。
その明冶屋さんは、元来物ごとに明細をつくす型の人だけに、その商標類に関することでは、とてもではないが他の想像も訐さないほど沢山の所有権持っている。その中に東洋時計のマークである「TOYO」なるものが、日本文宇とローマ字の何れからでも他の食い込みは許さいないよう明細に登録権を所持しているのである。
私は昭和十一年の暮、押し詰まってから吉日時計店に呼ばれ、当時の支配人であった佐藤健三氏(現佐藤時計店社長)から、その権利の譲り受けの交渉役を頼まれたのである。それによって酷寒の二月十二日に旭川市の明治屋に辿りついたのであるが、始めて見た冬の旭川は雪に埋もれていた。そして道路の中央に雪で作った門を通り歩くように出米でいたのに驚いた。もっとも旭川まで到る函館からの汽車の中でもストーブがあって、それにマキや石炭を投げこんで室内を温めていたのを見て驚いたのである。そのような事情で、佐藤門治さんに対して、吉田時計店からトーヨーなる商標権の譲受けを頼まれた所以を話したのだが、一向に聞き入れてはくれなかった。明冶屋さんはこの外にも、自転車、お酒、時計など、いろいろな種類の商標権を持っていた。だがそれをお金に代えて喜ぶような性格の持ち主ではないのであるから、当然この場合の譲りうけの話について、断ったのは当然のことであったろうと思う。
終戦後に於いてもオリエント時計会社から、再度に亘りこの交渉のダメ押しをしたことがあるが失敗に終っている。

八紘一宇の限界を指した頃の勇猛ぶり
昭和十四年の頃の研交会の巻から

《昭和十四年》 昭和十四年の頃の一般世相は、既に戦争気運が高まりつつあった頃なので国民感情は次第に高まりつつあったときである。
業界状況にしても、金・銀地金の使用禁止、金属製品の使用制限等が打出されたその後だけに、勢い戦争そのものの行手についての見方について論ぜられるようになっていた。従って国民の気分も硬化しつつあったといっていい。
特に私は、兵隊籍を持たないが故にというところから、その年の春に中支那方面の産業視察のため十一人の貴金属業者と共に現地の状況視察を行って帰ってきたとこだ。その直後であっただけに、戦争に対する批判にも一段と気色ばんでいたころだった。
この頃の時世に、一段関心を持っていた東京研交会員は、戦争という刻下の状況判断の資料のためにというわけで、特に検討を行う方法を選んだものだ。昭和十四年六月の頃だと思う。その時の研交会の幹事は、天野君であり、天野君の友人の陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんと一緒に、十三年の二月頃、上海の空中戦で有名をとどろかせた野村名パイロット(大尉)を我々の席に招いたのである。そのときの会場は上野公園前にある山下という料亭であった。二階の広い日本座敷で全員と来賓の二人が紹介されて時局について話し合った。
この研交会というのは、会員間での研究と親睦を目的にして作られた二世団体で、毎月十一日を定例日として会合する規定が今でも実行されているのである。従って、この日の話題は上海戦闘の功労話しからいろいろ話題がはずんでゆき、私達青年層の戦争に対する所見はどうですかと鈴木さんから問われたものだ。そこで私が話題のトップにたって、意見を吐くため仮りに行き違いがあっても、ここだけで内密にして頂だくことができましょうか?
過般私、は上海を中心に中支の一部を実地に視察してまわって来た関係から意見の持ち合わせが少しくあり、しかも急激なところまで行きそうになることを恐れるからでありますと予め伺ったところ、その点絶対に保証するということであったので、これからの話には全員が緊張して相対することになった。その宿にいた鈴木さんは、当時陸軍糧秣厰の課長で少佐か中佐であったと記憶している。そして言論がこと軍関係におよぼうものなら、理
由の如何を問わず直ちに首がスッ飛んでしまう軍政時代であっだのだから、この点をとくに念をあしたのも無理はない。陸軍大臣は、東条英機中将の時代であったはず。
当時の戦闘状況は、中支を南下して南支を攻略中であり、最大の要衝重慶を目がけて猛烈に爆撃を続けながらもついに、戦線は八紘一宇を呼称して盗難アジアを席巻せんとして、太平洋領域まで併呑しようとする鋭い勢いを見せかけていた時であった。
私は、意見を極めて率直に吐き出して次のように述べた。「軍では八紘一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終焉さすべきだと信じている、と述べた。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は、自分の主張を次のように続けた。
私は、さきに幸い中支方面を視察して見てその広大な地域に驚いた。仮りに軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統禦するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。仮りにそうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陥るはいうまでもない。
国乱れて、忠巨出づの反対の、戦果が成って反乱が起るの懸念なしとはしない。だから、天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行うべきである。
従って目下進行中の支那大陸での攻略戦聚は、南支を將介石に委ねて、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州と共に属領として手中に帰す事にして、事態の平ていを計らなければ果てしない広域戦争のために国力の自信に問題が起って、来る危険性がある。これが私達青年層の見ている八紘一宇の定則であると思っていると語った。このときの鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従っていうだけはいったが、先様の結論がどういうふうに出て来るかに胯間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは囗を開いて、私も同感です、とこう答えて私の手を握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去ったので、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、これから盃を交わして上海戦争当時の名パイロットの野村さんの上海攻略の経験談など中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して、遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亞戰争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールで御終になるだろうと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め時計部主任を担任していた当時の私はいろいろの当時の計画がこの畤の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

「日本一最年少議員の三木武夫君の声を聞く」講演会を開く
私がその前座で、明治大帝が読んだ詩吟の一節を披露

《昭和十二年》 この序で、三木武夫君との関係について少し話してみる。昭和十二年四月の始めに最年少議員に当選した三木武夫君を東京駅のホームに出迎えしたのが私だ。三木武夫君とは、その年の十月ごろ、諏訪の片倉会館に同行して、一緒に処女演説を行った良い思い出がある。会場には千数百人が集っていた。集会の表題は、「日本一最年少議員の声を聞く」という講演会であった。私はその講演の前座に立つことに決まったのだ。雨の日の午前十時頃、京橋の路上で出会って、そのまま諏訪行となったのだから取分け演題というものがない。そこで三木武夫君が所持していたポケット帳の中から見出したのが、明治大帝が読んだ詩吟の一節である。「夜朦艟に駕して遠洲を過ぐ、満天明月思いゆうゆう、何日の日かわが志を遂けんや一躍雄飛五大州」。私がこの詩を読んで大喝采を浴びたいい思い出がある。

クロームという新しいメッキ処理法が登場
想いでのエピソード其の一「大阪の大藪商会」

《昭和初期の頃》 時計界は腕時計の流行から腕時計の側に対する魅力に注がれていた。この頃の時計側(ケース)は、主としてニッケルであり、ニッケルの仕上げメッキを施したものに一歩改良されたものがクロームという新しいメッキ処理法が登場したのである。だからクローム仕上げの良質なものは、デパート辺りで売られているものの多くは、舶来品ということになっていた。それだけに、この頃平野陸三郎氏を組長にしていた東京時計側組合では、クロームメッキの良質仕上げを中心問題にして、カンカンガクガクの論を交わしていたものである。それがいつになっても一向に改良されないままであったので、少しくあせり気味が持たれていた頃のことである。大阪・日本橋の堺筋通りに大藪商会という店が生れ、当時、この店がクロームメッキの一手引き受けを業務としていたので一時的ではあったが大いに鳴らしものである。大薮商会は、正不さんとの権利争いがあったが、そんなことは弁護士まかせということで、日本橋の家では真昼問から三味線をひかせて、酒盛りをやらかしているとの噂が四辺に広がった位であるから大した景気を見せていたようである。だが、その後その大薮商会は、日ならずして沈黙して終ったようであるが、この頃私達新聞社(当時は六社?)に対して大判一頁全段通しの広告を何度か出してもらったので大きく収入を得たものだ。
クロームメッキの発明者といった正不さんのほうは、それほど賑やかでなかったことの経過を見ると、商売というものはPRが必要であり、そのための広告など大きく打出すところに戦果があるということの現実をこの時証明されたような気がした。

白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」の始めの頃
統制が強化される時代に小森宮さんに紹介した

《昭和二年》 サンプラチナは、昭和初期の物資欠乏時代を当てこんで売込んだ白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」というものであり、昭和二年十一月に創立した「三金研究所」から発売された。社長の加藤信太郎氏は、その年に上京、私の社に朝昼となく訪問して、その宣伝技術に協力を求めてきた。
加藤さんのその頃の曰くに、「藤井社長、サンプラチナが成功した暁には、御社の社屋三階建てを本建築にして差上げます、ほんとうです、どうか面倒見て貰いたい」とい懇願ぶりであった。サンプラチナと名称はつけたものの、地金が堅くて金の代用どころか白金の代用にはなおのこと、なかなか利用の役には立て難いというものであった。然も貴金属業者には、一片の面識もないズブの素人であった加藤さん。然し、そうこうしている中に貴金属品に関する統制が一層強化される時代になり、業者側でも堅いのが難点ということで作業の点で芳しいものではなかったのだが、さりとて所用資材が欠乏する時代に変っていった頃からは、これを使うほかないということにもなり、漸次観念化された時代ともなったのである。統制が強化されたおかげである。それをチャンスに貴金属組合やその関係方面に使用方を説いて廻った中で、眼鏡方面への開拓にも一歩を進める必要から、サンプラ地金の取扱業者の選択について相談を持ちかけられた。
だが地金関係の事情では、堅いという特質があるだけに、積極的な協力ぶりをとるのに少しく逡巡していたのであった。ある晩、加藤さんが私の会社に押しかけて来て、狙いをつけている小森宮さんにその取扱い方を頼んでくれというのであった。勿論、小森宮さんは加藤さん自身には未知の人であったので、私が紹介したことによって始めて知ったという事である。
小森宮さんのお宅を訪問していろいろ懇願した結果、それでは、店のものがどういうか一
応相談してみようというところまで進展した。この頃は、現当主の小森宮さんは、大学に在学中で、専務の福ちゃんだけが残ったのだと思う。そうして漸く頼み込んだ緒果、小森宮、加藤さんご両所が既に亡くなられた現在でもサンプラ地金の発売元として永続しているという現況である。
このエピソードは、且て、大阪時計業界の某卸店が、密輸事件からの脱落を条件に金五万円の謝礼金を出す約束したのをホゴにしたのに次ぐ第二番目の話。

石福貴金属興業は、事業場拡張の為上海に次いで南京にも出張所を
政府が資材統制のため

《昭和十四年》 前にどこかで書いたように、支那事変開戦のために貴金属地金界にも一大異変がまき起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日、日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して、政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。そのために石福貴金属興業KKは、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく懐しいものである。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があるからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさという気持が手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが、別段これという危険な感じはうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学した夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクツ音でベンタツしながら程遠からぬ士官集会所に走らせたものだ。この集会所は街の情景とは趣を異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正などの日本酒、何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというごちそうである。一切が特務機関の計らいだけに、余人の想像もつかないものだった。
支那事情についての説明では、支那全土を掌どるものは少なくとも、中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点などが想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には、將介石四十七号嬢というのが加って私らに酌をしてくれたとい酒席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので一行は、急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という谺想の夢を肥に大きく描いたものもあったであろうが、翌朝私かホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰れない事となった。

寒山時で経験したこと
支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払う

《昭和十四年》 その次に寒山時に詣でて、物色した中で感じたことは、寒山時の駕監の中にある建物の力べには、何一つ落書されていないことに注目をひいた。然も支那では、到るところに沢山の子供がいて、日本人を見てはシーサン(先生)シーサンを連呼し、物乞いをしていたのである。だから、日本における場合なら極めて簡単に何か落書きをされて力べのキレイさなどは、見られたものではないのに比べれば、大変な相違であると感嘆した。
その次に、寒山寺の寺院の苑内で、いろいろの土産物を物色していた。そこの住職も手伝い、二、三の寺坊が手まめに応待していたが、格別日本人だからと言って特別の態度も見せてはいなかった。ところが、私が指さしだした南無阿弥陀仏の六字の称号を求める段になると、私を取巻いて見ていた支那人の大勢が突然、已の傍から遠のいて円陣を張った。そしてはるか離れた小屋で土産物の応待に努めていた住職を手招きで呼んでくれた。すると、その住職は手早くその場を処理して私のところへやって来た。私は六字の称号を求めて六十銭の代金を支払ったところ、住職は自分の名刺を取出して私に渡して合掌し敬意を表された。そこで、私も商品興信新聞社長名入りの名刺を出して交換し、そのあと住職は私を案内して本堂までの茄監を見せて廻って呉れた。この本堂には十三尺にも余るような大きな一枚の宝来山に千羽鶴の絵巻軸が掛けられていたので、これを指さして「売りますか」と聞くと、二百円と答えたので、先日路傍で経験した状況を思い出して、「値段は負かりますか」と反問して見た。するとこのとき物静かな足どりで案内していて呉れたその住職は、くびすを返すが如くに後についている私の姿を振り向きもせず、ツト彼方の寺坊に飛び去って離れて行って終ったのを覚えている。そこで直感したのだが。支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払うものだという、実感にうたれたのである。

石橋爆破事故とその時の恐怖感
匪賊のために爆破され、開通の見込みがない

《昭和十四年》 江州に蓿いたので、名勝地の西湖のほとりにホテルを求めてから附近の情況について聞いて見た。当時はこの西湖の対岸には、ときどき機銃の射声が聞えたという。だから遠くへ出て行けないことは勿論のこと、夜ともなれば、ホテルからの外出も禁じられていた程だった。そこで早朝の五時頃、西湖のほとりにやって来た三十才余の青年と筆談を行なって情勢判断の一つにもしたいものだと思い、越村氏と共に対談して見た。するとその青年は曰く、「将介石もグメ、日本の東条もダメ、東洋に人材乏しきを憂える」と書いて見せた。支那というところは地域も広いが人間の気持もすこぶる大きいスケールの大きなものだということを知って感嘆した。
その日は、午後一時の汽車で上海に戻ることになっていたので、一行は、早朝ホテルを出て加藤信太郎氏を除いた十人が西湖のほとりにある且ては宗美麗の別荘になっていたというギヤマン作りの綺麗なガラス張りの店でライスカレーの食事をしていたところ、そこへ顔色を変えて飛込んできたものがあった。それは早朝西湖の駅を出発した加藤信太郎氏であったので驚いた。バックして来た理由は、石橋の鉄橋が匪賊のために爆破され、開通の見込みがないという説明であった。これを聞いた一行は、「行くに道なし、帰る方法もなし」というのであった。心中は瞬間的ではあるが、正に暗黒そのものの観を呈したのだ、とその当時を思い出す。加藤氏の報告によって、一行は兎に角一刻も早く西湖を立って上海への引きあげ方向へ急行することに決めた。そこでヤンチャオ(人力車)を呼んで遮二無二駅まですべりこみを敢行したのだったが、このとき既に駅頭では日本人に限り随時列車への乗込みを許すという厳戒体勢がとられていた。その他の一般旅客の乗車は一切禁止されていた辺りから見て、“勝てば官軍”という言わざの通り、戦いには勝たなけれぱならないものだあと痛感させられた。然し爆破された石橋は、山田乙三閣下と再び同行することになったお陰で間もなく仮橋を作ることに成功したので、上海に無事安着することは出来たが、途中匪賊の襲撃などの不安予想もあって、一時は戦場的光景のおののきを感得させられたものである。

南京地区の状況視察のときの快味
市街の建物は爆破のキズあとがまだ生生しく残っていた

《昭和十四年》 南京にはその翌日上海を経て到着した。そして南京では当時第一級の飯
店とされていた南京ホテルに落着いた。ここを中心に中山陵とかの名勝地を見物したのだが、足便が乏しいので、軍の自動車に便乗する外なかった。
明大の先輩達がいる関係でこのときも利用することをできた。中山陵に詣でて始めて支那の始祖、宗民時代のことなどの一節も想いうかばされたものだ。南京の市街は、つい先だって日本軍が占領したというそのすぐあとのことだっただけに、市街の建物は爆破のキズあとがまだ生生しく残っていた。
だから街中で私達の一番眼を惹いたのは、印度巡警が警棒を振るってチャンピーやヤッチャオ連中に威厳を示し追っ払っていたことなどである。
私達がその夜宿った南京ホテルは一流のものであった。だから止宿人は相当なものだということが判断できる。そのせいなのかとにかく、どこからか支那服に身をまとった美人が一人の紳士に伴われてきたとしても、このホテルへは一切入所を許さない。そのために印度人の巡警が棒をふるって入所を妨害している光景が、私達の眼の前で展開されたので一面の興味をそそった。
またヤッチャオが客を求めてこのホテルの前に群がって来ようものなら印度人の巡査は警棒をふるって力の限りにその車のおおいをたたきこわすように振りまわしてもいたので、少しく敗戦者の哀れさを感じないではいられなかった。このような光景の南京の街に私達の眼を更にひきつけたものは、銀貨の買入れに進出していた石福貴金属興業KKの出張所であった。前にどこかで述べたように、支那事変の開戦のために貴金属地金界にも一大異変が巻き起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日(?)日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して、政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。
そのために石福貴金属工業は、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく、懷しいものであった。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。
それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があったからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさ、という気持ちが手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが別段これという危険は感じをうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学したその夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクッ音でベンタッしながら、程遠からぬ士官集会樂所に走らせたものだ。
この集会所は、街の情景とは趣きを異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正等等何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというご馳走である。一切が特務機関の計らいだけに、余人の想像もつかないものだった。支那事情についての説明では、支那全土を司るものは、少なくとも中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点など想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には將介石心十七号嬢というのが加って、私らに酌をしてくれたという一席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので、一行は急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という構想の夢を胸に大きく描いたものもあった。
翌朝私がホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰らない限り、帰れなくなるだろうという特急情報を受け取っているのを聞いたのである。私のこの報告に驚いた

あわただしい上海での動静
泊ったホテルの地下室には、戦争のため惨殺された四千に余る支那兵の屁が

《昭和十四年》 上海に急拠帰っては見たが、その時の上海の空気は何となくあわただししかった。一行が泊っていた四仙路ホテルの地下室には、今なお戦争のために惨殺された四千に余る支那兵の一群が屁となって埋められていて、それが夜ともなればうごめき出すという伝説がこのとき特に出廻っていたのでる。
一行の気持はサッパリしないばかりか、何となく落ちつかなかった。そこで宮沢氏にその事を聞いてみたところ、「そのとおりだ」ということで更におどろいた。もっともこの頃は既に宮沢氏自身が民団副長の肩書の手前、何事につけても民心の緊張感を求めようという気持があったからいったのであろうが、しかし上海の事情に疎い一行は、この情勢の変化で急に物さびしさが感じられた。
そこで思案の末、とにかく四仙路ホテルを抜け出すとでも思われたものなら逆手を用いられまいものでもないという思惑も手伝ったので、表面は何気なく他に転ずるということでホテルを出ようと申合わせた。そして一行は、日本人経営の「万歳館」という旅館に移ることが出来た。早速一行の打合せが行われて 帰国の段取りが進められたが、船の都合がつかないというので、またまた思案にふけった。
私はこのとき考えて見た。一層のこと、支那に居残って市場作りに精出すことがよいか、または帰国の上、改めて出直す方法もあるが、とも考えて見たのだがこの時、特に私の胸中にうかんだことは、一行十一人で仏租界内の夜の遊楽街を楽しんで歩いたことがある。そしてドックレースや投球競技の妙技をかけごとを通じて楽しんだこと等、その晩一行を打ちつれて仏租界内の“いろは”というスキヤキ屋に入ったとき、突つぴでもない怖い状況を目撃しながら聞いたことがある。
その時の怖い話だが、長崎出身のそこの女将が、「誰か一人居残っていて貰いたい」と哀願した言葉をこのとき思い出したのである。仏国の少将が保護してくれているのだから格別危険はない、ということを聞かされてはいたのだが、それでも余り気持ちのいい居残り組ではないとも考え直した。私も一行と共に帰国することに決意したのである。船は二日間を待って、ようやく次の便船に乗ることが出来た。この船は、沈没した照国丸より小さいので船足はおそく丸三日かかった。しかし、海原から見る日本は、緑につつまれて実にスガスガしく立派に消えたのである。外国から帰って来る日本人の眼には、日本の国は今でもこのときのように緑の国であり、立派な存在であると私らの心にㇵッキリと刻むことが出来た。
そんな気持でいた私達一行を乗せた船は、横浜港に安着するや、汽車で早速帰宅の途についたのであるが、車中で聞いたラジオ情報では、戦争のために資材統制令が又又強化され、各種の資材使用制限令が発令されたということであった。越村氏と共に、「やはり戦争になりましたねエ」と語り合ったが、その次には、お互いの心の中でこの統制時代に処して何事かなさねばならないであろうという心組を新たにしたのであった。



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