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株式会社服部時計店
なし昭和四十年当時のウオッチのトップメーカー 

資本金=36億円、従業員=4,257名のビッグメーカー

本社=東京都中央区銀座四丁目二番地六号 電話=561−2111(代表)
創業=明治十四年、設立=大正六年
資本金=三十六億円、従業員=4,257名。
▽代表取締役社長=服部正二、▽専務取締役=大口右造、服部謙太郎、▽常務取締役=服部礼次郎、最上務、椿七十、浜野清、▽取締役=服部武三郎、鈴木康治、岩井光彦、片山俊三郎、▽監査役=浜口吉兵衛、川瀬雅男。
支店=大阪、札幌、仙台、東京営業所、名古屋、広島、福岡。"

シチズン時計株式会社
昭和四十年当時のウオッチのトップメーカー 

本社/東京都新宿区角筈2−74 永和ビル 電話342―1231
創立=昭和5年5月28日、資本金=30億円、
代表取締役社長山田栄一

シチズン商事、シチズン事務機を昭和二十四年六月二十八日、昭和三十九年十二月四日に各々設立。
シチズン商事では、@シチズン腕時計及びその時計部分品並びに付属品、A系列会社・関連会社製置時計・掛時計・電池時計・電気時計、Bシチズンレンズシャッター、カークロックおよびライトメーター、Cシチズン製工作機械・計測器・冶工具類、Dシチズン製ラジオタイマー、Eクライスラー製高級時計バンド、シチズン事務機では事務用機械を販売している。
事業の現況としては、昭和五年五月二十八日創立以来、設備機械を輸入し、あるいは自社生産して設備の近代化を計り、品質の向上と生産の増強に力を注ぎ、戦後は常に他社に魁けて新製品、新技術の開発に尽力して来た。
昭和二十四年六月、中三針を、二十六年六月、六型腕時計を発表、二十八年六月には、写真機用シャッターの生産に着手、昭和三十一年四月、国産初の耐震装置パラショックを発表、三十三年六月には国産唯一のベルが鳴る腕時計アラームと八月に当時超薄型デラックスを、三十九年四月には各機能完全装備の「オートデーターセブン」、四十年十二月には自動巻き、曜日、日付、防水の各機能装備のものでは世界一薄い腕時計クリスタルセブンを発売した。
また国産としては最初の電子腕時計「エックスエイト」を開発、四十一年三月に発売する運びになり、一躍ブランドレベルを世界のトップクラスの地位を固めるに至った。
翰出関係も、昭和三十三年一月の中共輸出を皮切りに、次々と新市場を開拓、三十五年三月には、米国ブローバ社と腕時計の長期輸出契約を結び、大量のムーヴメントを翰出している。
時を同じくしインド政府との間で腕時計の技術援助契約を締結、国立時計工場建設に協力するプラント輸出も完了している。次いで、三十七年二月、世界第三位の大市場といわれる東南アジア輸出が決定し、香港の一流商社ギルマン社との契約が成立。最近では、ドイツに販売会社、アメリカのバージン島とオーストラリアに組立工場を設立、これ等を足場に欧米各国にも強力な輸出を推進している。
三十九年十二月には、事務用機械の販売会社シチズン事務機を設立、手始めに電動加算機を発売、国内、国外共に好評を博し、欧米各地より大口の引合いがあり、内需の生産まで応じきれないのが現状で、事務機の発展と共に、シチズンが総合精密会社としての大きな飛躍が期待されるのである。(写真はシチズン時計の田無製造所)

東京時計製造株式会社
各種目覚時計、オルゴール時計、電池時計などのメーカー

本社工場=神奈川県川崎市
村田工場(輸出専門工場)=宮城県村田町相山公園一番地
創業=大正十年八月、再建創立=昭和二十六年二月
代表取締役=佐藤守彦
 
取り扱品目=各種目覚時計、オルゴール時計、大理石置き時計、トランジスター時計、電池時計、交流電池時計、電波時計、デジタルクロック、タイムスイッチ、ストップウオッチ、メーター等。これらの部品並びに付属品の製造。
東京と大阪に販売会社を持ち、サービス部として本社はじめ大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台に営業所を設けている。更に、電池時計専門の販売会社として、フラックス社を東京・銀座に設立している。

オリエント時計株式会社
歴代社長の努力と従業員の協力で発展を遂げた

本社=東京都千代田区外神田二丁目四番四号
電話(二五一)九二五六(代表)
取締役社長=山村徳冶

取扱品種=時計、電機器具、精密機器具、計量器の製造、修理、販売。
【東洋時計時代】オリエント時計の前身は旧東洋時計である。明治三十年に吉田時計店が発生し、大正中期に東洋時計製作所を設立、まず置時計、計器等の製造を始めた。昭和年代に入り、現在の日野工場が建設され、腕時計の製造が開始された。第二次世界大戦中はその特色を生かして軍需産業に転換したが、終戦と同時に再び腕時計の一貫生産工場に復帰した。然しながら日本労働運動史に一時期を画した上尾置時計工場の大争議のため、昭和二十四年十二月、東洋時計は解散し、傘下各工場は独立し夫々別会社として独自の途を歩むことになった。
【横山社長時代】昭和二十五年七月に旧東洋時計の従業員が結集し、資本金100一〇万円で多摩計器を設立、日野工場の施設一切を継承して腕時計の生産を再開し、翌二十六年四月にオリエント時計と社名を変更、初代社長に横山公雄氏が就任した。昭和二十八年四月には、本社を中央区京橋に移したが、その間、増資を重ね昭和二十九年資本金一億円となり株式を公開(現在の東京第二市場)、更に翌三十年には大阪、福岡に出張所を開設するなど、ようやく近代的な会社としての形態を整えるにいたった。
【山田鉄之助社長時代】昭和三十年後半、山田鉄之助氏が社長に就任するや本社を現在の千代区外神田に移し、経営の一新を図ると共に意欲的な設備投資を推進し、更に昭和三十三年には国内販売網確立の目的で、北は札幌から山形(現在では仙台)名古屋に営業所を新設、その後広島も加え従来の東京、大阪、福岡と併せて七営業所による総合的な販売網が完成し、小売店向け直接販売も開始、また国産腕時計の使命は単に国内需要を充すだけでなく、究極において海外市場の先進国スイス製品と堂々と渡り合うことにあり、それが乂自らの繁栄に到るべきことを予測し、常務取締役である西川忠一郎氏をアメリカに派遣して結果、他社に先駈けてアメリカ、カナダとの間に大量の輸出契約が成立、これに基いて西インド諸島バージンアイランドのセントクロイにオリエントの技術指導による腕時計組み立て工場が始めて建設された。又米大陸における前進基地として、ニューヨーク市の中心であるブロードウェイに事務所を設置し、駐在員を派遣した。かくして国産腕時計のパイオニアとしての役割を果した結果、海外需蓄に応じるには日野工場だけでは手狭となり、生産面の充実を図るため、長野県岡谷市長地に第二工場を新設し、婦人用腕時計部品の生産を始めた。
この輸出強化態勢促進の結果は、ますますその実をあげ、アメリカに次ぐ第二市場として昭和三十七年には台湾、タイ、フイリッピン、シンガポール等東南アジア全域に強大な勢力を持つ香港ラップヘン有限公司と長期契約を成立させ、更に英国エルコ社、パキスタンのフレンド社、韓国の永明産業等とも緊密に結びつく等、当初予期した以上の好結果を得ており、既に西ドイツを抜きスイスと互角に渡り合う基盤を築きあげることができた。
この間にも社内的には増資を続け、資本金八億円となり、現在のオリエント時代の基礎は名実共に固まったと言える。
【山村社長時代】昭和三十九年六月未に山田社長が急逝し、新社長に山村徳治氏が就圧したが、これより先四月には専務取郤役に金屋清次郎氏が迎えられており、この年を境にオリエント時計は新しい時代に入った。
当時の経済界は末曽有の不況に遭遇したこともあるが、今後の同社発展の原動力は堅実経営にありとして社内体制の整理をまず第一にとりあげ、同時に機構改革を行いオリエント商事を吸収して一本化したのである。

元オリエント時計の前身 株式会社吉田時計店
明冶三十四年上野元黒門町で時計の卸業を「吉田時計店」としてスタート

本店=東京都台東区上野二―十二―三
電話:八三二:二三二一代表
大阪営業所=大阪市南区塩区通り三―十四
名古屋営業所=名古屋市中区伊勢町三―九
札幌営業所=札幌市南二条西五丁目

業種=輸入及び国産時計の卸売り販売と貴金属類の販売
資本金=3千万円
代表取締役社長=高木勲、取締役会長=吉田壽太郎、専務取締役=岡田政人、常務取締役=高木孝、取締役=森川幹造、成瀬勝、高木克二、監査役=水野福徳、堀江賢三。
株主=百五十名、従業員=百五名。
沿革=明冶三十四年三月、吉田庄五郎が上野元黒門町で時計の卸業を「吉田時計店」としてスタート、大正九年に置き時計の製造に着手した。東洋時計製作所を設立、大正十二年、時計類の直輸入を開始、昭和六年大阪に支店を開設、昭和七年次いで東洋時計の上尾工場と日野工場を竣工、腕時計、タイマーなどの製造を開始した。これが元オリエント時計の前身で、昭和十八年、東洋兵器と商号を変更、腕時計の製造販売を再開する。昭和二十五年、事業の不振により各工場を独立させ、東洋時計は閉鎖、昭和二十六年四月、卸部門のみを再開、吉田時計店として吉田寿太郎氏を社長にして設立、昭和三十三年三月、高木勲社長に変更して現在に至る。

創業以来セイコー専門売り捌き所として発展を遂げている山田グループ
山田徳蔵氏をヘッドに四人兄弟が仲良く経営

沿革=現社長の山田徳蔵氏が個人営業にて山田時計店を創立、創業以来セイコー専門売り捌き所として発展を遂げている。昭和二十一年、株式会社に改組、三十五年に地上五階地下一階建ての現社屋を建設、同時に仙台に山田時計店を開設して東北地区を開拓した。
昭和三十八年、ロンジン、オリエント時計の卸商社として山五時計店を新設、四十年山田時計店より雑品類を移動させ、山田商会を設立した。

株式会社山田時計店(セイコー専門卸)

本社=東京都台東区上野五丁目十五番十四
電話:(八三二)五二八一(代)
取締役社長=山田徳蔵、取締役副社長=山田秀夫

株式会社仙台山田時計店(セイコー専門卸)

本社=仙台市東八番丁一〇七〜七六
電話*仙台(五七)二四六一(大)
取締役社長=山田徳蔵、取締役副社長=山田盛三


株式会社山五時計店(ロンジン、オリエント時計の卸)

本社=東京都台東区上野五丁目十八番九号
電話=八二二:六六五九
取締役社長=山田徳蔵、取締役副社長=五味邦友。

株式会社山田商会(貴金属、真珠、ブラウン、シックカミソリ等耐火宝庫卸)

本社=東京都台東区上野五丁目十五番九号
電話=八三四:〇九三一
取締役社長=山田徳蔵、取締役副社長=山田照雄

ピアジェはじめ高級ブランドの直輸入商社 平和堂貿易株式会社
明治時代に高木時計店を継承して昭和二十七年四月に時計卸業を再開

本社=東京都中央区銀座西八丁目七番地
 電話(五七二)四四六一代表
代表取締役=高木克二
業種=時計とダイヤモンドの輸入並び雑貨類の輸出入。

業歴=平和堂は、明治時代に創業した祖父高木庄兵衛氏による高木時計店を継承して昭和二十七年四月に時計卸業を再開した。この頃は物資の取揃え困難な時代であったので、この間難渋を重ね、昭和三十一年貿易部門強化のため資本金四百万円を以て平和堂貿易株式会社を設立した。
時計類の輸入部門では、テクノス、ローヤル、モンディア、ウォルサム、ピアジェの各種に及び日本総発売元として堅固な販売地盤を築いている。この間、昭和三十三年に吉田時計店(資本金九百五十万円)の経営を継承、続いて同三十四年にウォルサム、エレクトロニック株式会社を設立して輸入業務の拡大を図る。
輸入業務の関係では、昭和二十八年設立した「日本輸入時計懇和会」のメンバーに参加して、その後「社団法人日本時計輸入協会」の設立に際しては、率先して参加協力して、輸入時計業界の円滑なる進展に備え、諸般に渡り積極的に努めている。現在は、日本時計輸入協会の常任理事の要職にある。

《ダイヤモンド部門》 社会生活の平和な状態が進行すると人々のアクセサリー化も進んでくる。従ってダイヤモンドを主とした天然宝石類の需要が高まり、輸入統計部門を極度に膨張させている。この現況に対応する意味で、世界的に名声高いアムステルダムの超一流ダイヤモンドメーカー、アッシャーダイヤモンド社との特契に基き、同社ではプリンセス・ダイヤモンドの輸入販売を行なっている。このプリンセス・ダイヤモンドは、永遠に変ることのない世界的適貨に代る貴重な存在であると共に、このプリンセス・ダイヤモンドには独特の多面カットを施したまったく新しいカッ卜のダイヤモンドである。良品を求める希望のお店は同社で取扱っているこのプリンセス・ダイヤモンドを販売して、利益をあげてもらいたい、というのが平和堂の提言である。

スイス・ラドー腕時計日本輸入総代理店 酒田時計貿易株式会社
昭和三+九年度、舶来時計界宿願の市場占拠率第一位を占めた

本社=東京都台東区東上野一丁目十九の六。
ラドー東京オフィス=東京都台東区東上野一丁目十九の十。
サービスセンター=電話:(八三三)二八〇一代表。
支社=大阪市南区鰻谷仲之町四の一(二ュー長堀ビル)
資本金=三、六〇〇万円(四十一年二月一日現在)
代表取締役社長 酒田武敏

社歴=創業は、昭和二十三年二月、有限会社酒田時計店として発足。昭和三十年十二月株式会社に改組。昭和三十三年四月、予ねて折触中のシユラップ・アンド・カンパニーとスイス製ラドー腕時計に関し、日本総代理店契約を結ぶ。同年十月、初めて日本時計市場にラドー腕時計の真価を問い、そのユーニークな品質をもって市場にアピールした。以後同社は「王者の風格ラドー」腕時計の輸入卸の専門経営を志し、今日に至る。
概況=ラドー腕時計が一挙にその知名度をあげ得たのは、昭和三十七年に実施した広告キャンペーン「ラドー・ファミリー・コンサルタント」に負うところが大きい。当時ラドー腕時計は、その特異なデザインと、稀に見る高精度により高級スイス製腕時計としての評価はあったが、ユーザーにアピールするには至らなかった。しかしながら、商品モニターとして文字通り嚆矢を極めたこのキャンペーンの実施により、“王者の風格ラドー”の名声は全国に高まった。即ち昭和三十八年から三十九年に亘る両年度の平均伸び率(約五十%=消費者購入数量)は、その間の事情を如実に物語っている。とりわけラドーにとって記念すべきことは、昭和三+九年度に於いて、舶来時計界宿願の市場占拠率第一位を占めたことである。それは恰も新旧交替の厳しさにもたとえられよう輸入歴六年有余のラドーが堂々と戦前派を押え、四分の一の市場を占拠し得たことは、やはり特筆すべき事柄であろう。次いで四十年も更に躍進した。対流通作戦、対消費者作戦等の新戦略が、ことごとく寄与し、その市場占拠率は前年を上回り、三分の一強となった。しかしながら、ラドーに課せられた命題は、更に続く。より多くの消費者により、良いラドーを供給するという偉大なるテーマである。
経営理念=ラドーの顧客はつまるところ消費者である。したがって消費者に応えられざる経営はないと考える。そのためには、先ず精度の良いラドーを創ることであり、そして完全サービスを提供することである。もちろん現行のラドーパーフェクトサービス(品質保証、動産総合保険、交通事故傷害保険)が時代に応じて更に発展することは当然である。経営姿勢は、常にメーカーとしての思想に立ち、専門経営を旨とする。精力を分散することなく、力を集中することこそ大きな成果を得られるからである。しかしながら戦力の養成はエスカレーションしていた。日々の実績を積み重ね、一歩一歩慎重に歩をすすめる構えである。ここでは無理、無謀な経営はない。もちろん新しいものに対する追求は見逃さない。新手一生、先手必勝の信念の下、会得したアイデアは、販売、広告、人事、商品等あらゆる分野に応用する。それが経営の魅力であり、発展の礎であると信じる。

昭和四十年当時の日東貿易株式会社 川上一男社長
輸入実績は業界最上位にランクされている

東京都中央区銀座西五丁目三番(対鶴館ビル四階)
電話(五七二)三五四一 代表
取締役社長=川上一男
資本金二千万円
営業内容=時計の輸入及びダイヤモンドの輸入卸・販売

社歴=同社は、戦後輸入時計の外貨割当許可と同時に昭和二十九年九月十日、資本金二千万円をもって創立され時計類の輸入を主たる業務とした新鋭型の輸入商社である。
輸入時計の全盛期には、縦横に活躍したヘラルド・トレーデイングコーポレーションの当時の立役者であるジョ−ジ・ブロック氏やスイス時計界でも世界的に有名なレオ・ボッパー氏らとの親交深いだけにスイス時計業界における同社の信頼度は特筆すべきものがあり、加えて日本総代理店として同社が輸入している主なブランド名は、エニカをはじめ、シー
マ、グルエン、オレオール、ジュべニア、インビクタ、モリスなど各種に及んでおり、特にエニカ、シーマ等は業界を席巻した感があった。また最近の社会的情態の変化を予見してダイヤモンドなど天然石の輸入を自由化と同時にいち早く開始し、イスラエル、ベルギー及びアメリカを主力とし、ロンドン、イタリー等広範囲にわたり同社の特色を遺憾なく発揮し、その輸入実績は業界最上位にランクされている。
これらは、貿易自由化後の日本国内の情勢の変化に対応した措置であり、輸入商社の柔軟性を発揮したものとして注目された。
ダイヤモンド並びにその製品の販売は、従来の時計業界に新規開拓を求め、なお正札制度確立等新鮮な措置をとったところに新風を送っている。
加えて同社の専務取締役には、川上社長との戦友であった大森力明氏を置き、ために経営陣営においても信頼性に富み、川上社長と大森専務がひく強力な組織による運営は将来共に期待されている。

昭和四十年当時の小野金商店 小野正男社長
日本輸入時計卸商業協同組合理事長

東京都台東区上野二丁目十三番二号
電話(八三四)四三一一代表
取締役社長=小野正男
資本金=六百五十万円
略歴=明治の末年、先代小野金次郎が浅草で中古品を主体とした時計、貴金属、宝石の卸商を経営、事業も順調に発展して使用人も十数人になったが、昭和十五年戦争激化に伴い、一時休業のやむなきに立ちいたった。現社長は、先代の長男で慶大を卒業後一時家業に従事しましたが、店の休業と共に東宝映画株式会社に勤務中、外地に出征、昭和二十一年内地復員と共に、既に昭和二十年三一月の大空襲にて戦災死した父の道志を継いで家業を再興、昭和二十三年株式会社小野金商店として法人組織に改め、店舗も上野の現在地に移して今日に到っている。
取扱商品は舶米時計全般に及び、現在日本輸入時計卸商業協同組合理事長の要職にあり、又先代からの経験を生かして、ダイヤ、ヒスイ、オパール等宝石類及貴金属製品等の在庫を豊富に揃え、堅実な卸商として、業界にその名声知られている。此の問、昭和二十九年に約一ヶ月にわたり、遠く欧州、米国業界の実情視察に赴き、その見聞を広めて常に業界の第一線で活躍している卸商である。



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