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全国の業者を一丸とする「全日本眼鏡商工組合連合会」を結成
官界と医学会、業者間の連絡協調を図る等大いに活躍した

《昭和十六年》 なおこの間、井戸理事長らの発奮により全国の業者を一丸とする「全日本眼鏡商工組合連合会」なるものを結成、官界と医学会、業者間の連絡協調を図る等大いに活躍した。
更に、視力衛生問題に絡めて眼鏡販売に対する認可制の問題に対処するなど、文字通りの活躍が見られた。
同組合は、先に日本眼鏡卸組合の名において眼鏡の歴史本を編纂、刊行したが、昭和四十年十一月三日には、同組合の設立二十周年を祝して盛大な式典を文京区の椿山荘で挙行し、華やかな式典となり、大いに気を吐いていた。
東京には、この卸組合の外に、東京眼鏡小売商協同組合(理事長=佐野義雄氏)があり、メーカー団体では、東京レンズ協同組合、東京眼鏡枠工業組合の各種団休が存在している。

「社団法人日本眼鏡技術者協会、高岡徳次郎会長」が大阪で発足
全眼商工連とその他の組織関係

《昭和四十一年》 一方、眼鏡業界の全国中枢機関である「全眼商工連(全日本眼鏡商工組合連合会)」の現況と下部組織を見ると、めがね専門販売店、時計めがね兼業店、めがね卸商、レンズ製造業、めがね枠製造業らを各全国連合体傘下に治めており、その五団体の各会長が年交代を原則として輪番制で全眼商工連の会長に就くことになっている。
歴代の商工連会長には、小沢元重氏(枠)、井戸武義氏(卸)、白山鎮博氏(小売)、加藤栄氏(枠)、佐川久一氏(時計めがね兼業小売)が担当、昭和四十一年三月現在、鳥越静助氏(専門小売)が在任中である。                       
傘下五団体には、更にそれぞれの下部組織があって眼鏡専門小売の全眼小売連(全日本眼鏡小売商組合連合会、鳥越静助会長)、の場合、全国都市の任意組合や地域連合団体の会員千三百余を擁している。
また、時計眼鏡小売の全時連(全日本時計貴金属眼鏡商組合連合会、佐川久一会長)も都道府県単位に全国津々浦の業者三万軒を会員としているが、その中の眼鏡取扱店は、約一万九千軒。
これに対して全眼卸連(日本眼鏡卸組合連合会、井戸武義会長)は、東京組合(井戸武義会長)、大阪組合(中尾兵司会長)、福井県連(村井勇松会長)、京都府組合(土岡勝次郎会長)、名古屋組合の五団体で、総計百七十名の会員を要している。
日レ連(日本レンズ工業組合連合会、池谷良平会長)の場合も卸連と同様に、参加団体数は少なく、東京レンズ工業協同組合(池谷良平会長)の他、大阪眼鏡レンズ製造工業協同組合(石井喜蔵会長)、大阪府光学レンズ協同組合(村田吉美会長)、名古屋レンズ協同組合(清水与右衛門会長)、西部眼鏡工業協組(金森精会長)の会員は二百名余り。
全枠連(日本眼鏡工業組合連合会、加藤栄会長)は、東京眼鏡工業協組(北村会長)と福井県眼鏡工業組合(加藤会長)の二団体で約六百名になっている。
このように全眼商工連は、眼鏡に携わるあらゆる企業体二万数千軒を統括する全業組織だが、これとは別に昭和四十年春に、「社団法人日本眼鏡技術者協会、高岡徳次郎会長」が大阪で誕生した。
この団体は企業団体ではなく、眼鏡の調整などに従事するいわゆる眼鏡技術者を会員として、技術の向上に努める目的のものであり、各都道府県に支部組織を拡大しているが、協会の前身は「眼鏡士協会」と称し、任意の眼鏡士試験を行っていた。
然し、公的な裏付けのない「眼鏡士」という呼称には異論が出ていた。薬事法の改正と「まぼろしの眼鏡調整法案騒ぎ」以来、全眼商工連でも、眼鏡士に準じた法的な業者の身分の裏付けを保持しようとの希望を持ち続け、医師会関係との検眼紛争と同様に、眼鏡業界に大きな課題となっている。
身分確立への前提として「教育法の制定」を促進する意味から、手始めに眼鏡講習会用のテキストを全国一本化に統一、厚生省監修の名において、技術の向上の一本化を図ろうとの方向に進み、現在に至っている。
尚大阪では、大阪府内の全国眼鏡業者を会員とする大阪眼鏡商工業連合会(中尾兵司会長)を組織、情報の交換など相互の交流を図っており、傘下には眼鏡製造、卸、小売り、貿易、学術の各関係十一団体が所属している。
他面、レンズ、フレームなどの諸外国製品の国内への進出が目覚ましく、零細メーカーの頭痛の種となっている。しかし、業者団体には直接加盟していない大手筋が日本製品の優秀性を海外にまで浸透させており、福井の大手メーカーと共に、眼鏡製品の主柱となっていることは見逃せない。

昭和三年「東京時計附属品研究会」が時計附属品団体の草分け
腕時計バンド業界の由来

次いで昭和五年、「東京腕時計バンド商工組合」が設立された

《昭和三年》 日本の時計附属品業者の団体作りの始まりは、昭和三年五月に浅草寿町の「吹上」で発会した「東京時計附属品研究会」と称したものの発足がこの部門での草分けであった。その初代会長には、合月商店系の外園盛吉氏が推挙されている。
この研究会というのは、当時時計付属品と貴金属品の販売で一大勢力を張っていた合月商店(前川案山子代表)出身者の一統が親睦を図る一面、商品の仕入もという狙いから設立されたものである。それだけにこの当時は、業界からは公共性に乏しいものだとの批判があったほどである。
然し、研究会そのものを牛耳っていた合月商店の相談役兼顧問の坂口甚作氏や中野新助氏は、時計附属品業者組合の結成意欲に燃えており、昭和四年には、折から時計バンドメーカーがだんだん殖えて来たので、これを機会に団体作りを進めることになり、十六名の発起人を立て、翌年の昭和五年二月、大塚の料亭で「東京腕時計バンド商工組合」を設立、発会式を挙行した。初代組合長は小宮増太郎氏が就任している。

当時のバンド業界は、華やかであり、他業界からも注目されていた
ブランドとしては「谷口のホマレバンド」がトップを占めている

《昭和三年》 時計用バンドとして利用された品物の順位は、この頃時計のケースがパリス側に作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられており、このリボン銑にも一つのパテントが考えられていた。つまり、意匠と構造から来たものであろう。
昭和の時代になって初めて、皮バンドというものが使用されるようになったので、流行はこの頃から追うようになっている。
皮革バンドの製造者で最古参は、「池上影冶氏」が古い方だ。だが皮革バンドの皮質は、最初は低級品を使っていたが、需要が高まるに従って高級品が喜ばれるようになり、コ−ドバンが出現したのは、「谷口のホマレバンド」がトップではなかったかと思う。
かくしてバンドの需要が高まるようになった頃のバンド界の概況は、次のようにつづれる。本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、下谷の木村大資、浅草・烏越の井村松五郎、浅草・山谷の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、寿町の合月商店と中野新助、宮田伊太郎、栃木勲、本所の石田国三郎、石田碁吉、赤坂・新町の平岩商店等があげられる。
この中でブランド物として、宣伝に努めたものでは、「ヤナギバンドの山福」、「ホマレバンドの谷口」、「軍人バンドの大熊」、「矢印の丹羽地球印の平岩」等で、銘柄についての宣伝活動が高まり、競争が激しかったものだ。
お陰で毎号全ぺージの新聞広告を出してくれて、業界を賑わしたこともあった。特に谷口と山崎、大熊氏らの対立は激甚であって、組合の会議の席上などでは、囗角あわを飛ばして大激論をしたものだった。
この当時、時計のバンド業界の組合の会議は、一番華やかで活発であり、他の業界からも注目されていたようだ。そこへ意匠や構造上のパテント問題が飛び出してきたのだから、問題はいやが上にも大きくなる性格を帯びてきた。

私がパテント問題の調停役を引き受け、円満に解決した
「ヤナギバンド」に関する三折バンド

《昭和三年》 この頃、バンドに関する権利を主張する問題が多くなり、特に宣伝に努めていた「ヤナギバンド」に関するものが多かったようだ。
このヤナギバンドの権利は、知能的な才覚者である高橋米吉氏が常に権利者となっていた。
従って新案物がつぎつぎに打出されたところから問題を常にはらんでいた。
この外にも、当時の皮革又はセルロイド材をつなぎ合せて作られる腕バンドに、絶対に必要なものとなっていた「三折式バンド」があり、この権利を持つ旭川から出て来た山本庄吉氏の発明権利になっていたことから、問題は意外に紛糾し、業界稀に見る大事件を呼び有名になった。山本氏は当時、旭川から出てきて間もない時で、浅草・三筋町に仮住居していたころのことである。
この山本氏が発明権利の三折式バンドは、この頃、全国で使用されていたので、その影響は大きかった。そこで山本氏側では、弁理士の手を経て、内容証明を各方面に送りつけていた。これは、「権利を侵害することのないように」という注意書であった。
これにより東西のバンド業界は、大騒ぎとなった。内心は、「北海道くんだりから出て来て」という気分も手伝っていたのであろうが、大勢の勢力をバックにしていた業者側では、強い意気込みを見せていたのである。
「なんだ、田舎出のくせに」というような鼻息の荒い対抗気分も見せていたのであるが、然し、三折バンドとしての権利の範囲は、明確で、厳然たるものであった。従ってこの権利を使用しない限り、三折式バンドの製作は絶対に出来なかったわけである。山本氏は、旭川の某時計店主の関係から私とは北時連との関係も手伝って知己の間柄となっていた。
私は問題が起こった時から、内心「困ったことになったものだ」と思っていた。ところが、私と意気相通じ、親交の間柄であった中野新助氏から使いがやって来て、私に「三折式権利問題の調停に立ってくれ」というのであった。然し相手のあることでもあるので、熟考して、翌日になって居中調停の役を引き受けることを通告した。
但し、私が調停を引き受けたその日までの間に、両者間の話合いがつかなければ、権利者の山本氏側からは最終手段として、権利保護の執行方法が採られることを通告されていたので、事件解決の歩みは時間的な関係にも追い込まれており、正に緊迫していた。
昭和初めの頃だと思う。私は、ある日の午後三時ごろ、社員の中沢氏を連れだって中野新助宅を訪れて「完全解決した旨」を告げた。
中野新助氏は「まさか」という顔で暫くはホン気にしなかったようだったが、結論として「白紙一任」という山本氏からの私宛の委任状を呈示したので、組合側ではビックリ仰天、驚き、且つ大変喜んだのである。

手打式の席上で藤井を賞め讃えた
係争の解決は、人それぞれの信頼性によるところのものである

《昭和初期》 これは、山本氏個人が持つ権利のために、日本国中の時計バンドの扱い業者全体が侵すことになる問題であった。然も、その結果の困難を予期していたからだけに、そう簡単に解決するものではないと考えたからである。強気であった中野新助氏も、この時だけは、しばし呆然とした態度から立ち帰って、私に向って、「本当なのか」と念を押したほどだった。
私は、「男が一旦、口を切ったからには二の句はない」とはっきり言いきったので、ようやく安心した中野氏は、早速、并村、小森宮等幹部連を始め、谷口、大熊、山崎、平岩、丹羽、富田、若林等の幹部連を急遽集めて、善は急げと手打式への運びとなり、相談を進めた。
このとき、バンド関係者には、直接関係のない人ではあったが、時計の附属組合ということでは何かにかこつけて世話役を引き受けてくれた東洋時計工場長の浦田竹次郎氏の顔も見えた。無論、相談役という立場であったからである。
山本氏との和解条件については、中野氏の自宅で、中野新助、并村松五郎に小森宮由太郎、浦田竹次郎の諸氏の間で明確に取り決めた。もちろん表面は白紙委任、和解というのであった。が然し、実際の内容は、弁護士依託の分として金一封、その外は、和解する代りに山本氏も業者の仲間に交えて将来とも仲よく取引を行い、利用者は一定の使用権を支払うことという条件を私から出した。これを聞いた一同は、大変喜んだ。そこで、翌日の午後四時から浅草公園の料理屋で盛大な手打式が挙行されたのである。一切は、中野、浦田の両氏の間で準備が進められた会合であった。
この日の席上の光景は、合月の道齊氏の司会で浦竹さんが事件解決の経過報告をした。すると主席の座近くにいた私の名前を引合いに出して、「白紙無条件居中調停の労をとったのは、興信新聞の藤井勇二社長であり、業界のためには大功労者である」と報告をした。実はこんな大きな騒動の結果であったので、藤井の名を隠すようにと私から要請していたのだが、その場の状況でつい名前が呼ばれてしまったようである。
このように「三折バンド事件」は、バンド業界始まって以来の大事件であったのである。今においても時計バンドに関する権利問題の係争が絶えないのは、バンドそのものが、時計の附属品ではあるが、品物の性格が実用新案権を持つところにこのような利害が相反する問題が生まれるのであろう。
その後、係争を続けていたエバースタイルの権利などについても言えることだが、係争の問題解決は、理屈ではなく、人それぞれの信頼性によるところのものが多いようである。やはり白紙委任というような解決条件がなくては、平和的な打開などは永久に望めないということがこのような事件の経過から見て深く感じられた。かくして腕時計バンド業界は、ときの情勢に応じて進展、戦時下に入ってから次のような団体を生むに至っている。
写真は、昭和五年、大塚の料亭で開催した「東京腕時計バンド商工組合」創立総会。

「東京時計付属装身具工業協同組合」(俗称:美装組合)
昭和五年二月、理事長は今田正雄氏で発足

《昭和十三年》 「東京皮革時計バンド工業組合」は、昭和十三年十一月二十八日に設立、出資総額二万五千円、組合事務所を浅草・北富坂町十九の金時ビルに置き、組合員百五十三名で発足している。当時の役員は次の諸氏。
▽理事長=若林善治、▽専務理事=春山錦造、▽理事=谷口誉四郎、岡部太郎、山崎福太郎、富田伊太郎、越村暁久、藤巻勝範、原徳太郎、▽監事=長島長次郎、大熊喜佐雄、平岩徳三郎。
組合の沿革は、昭和五年二月、小宮増太郎氏外十六名の発起人により、腕時計用皮革及びリボンの製造販売業者並にその付属品販売業者八十五名で結成した「東京腕時計付属品商工組合」が開祖で、そののち戦時体制に移るに従って次第に発展したものである。
「東京時計付属装身具工業協同組合」(俗称:美装組合)理事長は今田正雄氏。
写真は、「東京時計付属装身具工業協同組合」(俗称:美装組合)の新年会。

「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」
理事長は遠藤僖一氏

《昭和二十二年》 時計の腕バンド業者を集めた卸業組合は、二団体が存続している。
即ち、「東京時計付属装身具工業協同組合」(俗称:美装組合)は、いうなれば時計バンドの大卸商団体という事になり、「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」は、時計の小売店に向けたメンバーによる卸業者団体である。よってこの二団体のメンバーが相寄り一本化していた時代の当時は、昭和二十二年に涌井増太郎氏の発意で組合の復興を図り、初代理事長に増井増太郎氏が就任している。
以来、村井寅吉、安藤喜男、長谷川恵章、遠藤僖一、村井寅吉、今田正雄氏の順で理事長に就任している。
所が、組合員の中には、商品を供給するものの「睦会」側と、これを受け入れる卸側の立場の者の二派があり、時により利害が相反する場合が往々に生じてきた。これらの利害関係を調整する意味合いから、昭和三十一年に至り、ついに両者それぞれに分かれて、独立した組織となった。
かくて東京時計バンド卸業界の団体別組織なるや、「東京時計バンド装身具卸商業組合」では、全国業者の一本化を計ることになり、東京組合を主体として、名古屋、大阪の同業卸団体に合流を呼びかけ、「全国時計付属品卸組合連合会」を設立、業界の諸般の指導改善に寄与するに努めている。
この外、同組合では組合員の相互便利機関として、毎月一日を定例日として商品展示会を開催し、業績をあげている。
この頃の時計腕バンド業界の商況は、戦争中は自国製品オンリーの時代だったので、リボン類に次いで皮革品が主力、終戦後はアメリカ製金属バンド(S式)の流入により、取引は旺盛を極めた。それが影響してか、国内産の「S式バンド」が流行し始めた結果、伸縮自由なパーフェクトバンドのパテント問題が起り、ドイツのロジ社との間に、係争を続けていたが、エバー式パテントを以て、これに受けて立った東京時計付属装身具商工協同組合の勝訴に帰して平静化した。
この間、時計バンドの販売戦線では、生産即小売りの直販スタイルのマルマンが出現するなど、業界内は少しく波乱めいた動きもみせていたが、それでもなお平穏な業績を収めていたところ、昭和三十七、八年頃から金融界の新措置による影響で、業者側が受けた打撃は大きく、不健全な組織体による業者筋では、一部整理倒産等の憂き目を見た企業があり、現状は堅実な店舗のみが残存しているというのが実情である。
写真は、平岩徳三郎組合長時代に行った組合員の表彰式。

近常時代の東京の材料界
昭和初期の頃、銀座天賞堂や服部時計店でも扱っていた

《昭和初期の頃》 東京の時計材料業界は、明治の時代からの材料界の元勲である三十間堀の近常が輸入商の王座としての誇りを持っていた。この外、銀座天賞堂(江沢)と服部時計店でも時計の材料品を扱っていた。
横浜の商館京浜では、ファーブルブランド、コロン、オロンジバーク、アイゼッキ、ハーレンス、二十八番館(米)、二四二番館(仏)などがあり、シュミットも武者印の看板を出して居留地に存在していた。ここから出荷したものは、東京市内の時計の材料商によって小売されたものである。
昭和初期時代、東京市内にあった時計の材料商で活躍したのは、小川静、山内材料店、榊原材料店、小島商店、小峰材料店、五味材料店、大田材料店、馬場喜一郎、八田商店、松下商店、伊藤材料店、吉田昌一、上岡実、櫚不徳次郎、海野幸保、松本吉五郎、中対徳松、高橋丑五郎、小松沢国之助、足立治郎・荒木虎次郎、笹又菊次郎、木村健吉、水谷平吉、南岡正躯、宮島伊三郎、清水幸、岩永商店などの諸店があげられる。

大正から昭和にかけての時計材料界
金栄社の荒木虎次郎社長が八十歳の最長老者

《昭和初期》 大正十二年の関東大震災は、世の中の画期時代を生んだことになるので世は一変したといっていいだろう。東京方面の時計材料業界は、小売店が増えなけれ消費が起らないので復興は多少おくれていたようだが、それでも昭和十三年頃からは、小売店が復興するのにつれて暫時活発化していった。
取扱う時計の種類は、大物類は別として、誰でも彼でも身近に必要な腕時計または懐中時計の類が多かった。材料部品の関係でも、それに準じた用意がなされていたようだった。この頃の時計の材料店では、小売店からの注文が主として一個合せというものが多かった。震災によって、特に時計の修理という必要性が起ってきたからであろう。
ところが、この頃は腕時計、懐中時計の場合でも舶来品種の取扱量が多かっただけに、修理品の場合でも舶来品に対するものが主力であったのだ。だが舶来品についての部品を完全に揃えられるわけにいかない場合もあったので、天真のホゾまたは、真というような合せものの仕事になると特別な製作技術の備えがなければ注文の合せ物に応ずることが出来ない。
つまり他の専門工の手に委ねねばならないということになるのである。だから材料店でこのような一個合せの特殊の注文に応ずることが出来るような巧妙な技術の備えのある店は、常に大入り満員というほど人気を博したものである。
この頃、東京方面で時計材料店として明らかな存在を示していたものといえば、日本橋の伊藤材料店、神田の神原、須田町の山内精、下谷では五味、小峰といったようなところだったと思う。だからこの頃は横浜、静岡という遠隔地方の業者筋からも、合せ物の注文は飛脚便の手を経てまで持参されたような状況であり、繁昌していたものだ。
この材料店の中で小峰材料店は特に合せ物という点で人気があった。小峰という店は、兄の久太郎という人が合せ物技術にすこぶる堪能であったから収入面でも過大というほどの盛況を極めていた。弟の甚蔵というのが地方廻りを担当していた関係で、勢い品物を売るという値段の競争についてはなかなかの手腕を発揮していたものだ。そのような関係のため東黒門町の小峰と御徒町の五味商店の関係は、いうなればつい目先の同業者という事になる。お客に対するサービスの点でも、自然に競争気分が湧いてきたのである。
その結果、お互いに競争が過剰となり、双方ともに悪口の言い合いになり、遂には聞くに絶えないほどののしりあったこともあったようだ。
こうした“犬猿ならぬ両者の仲”に新聞社の一団が割って入り、一方的におだて始めたのだから溜まらない。事態は思わぬ方向に発展した。
ある日、小峰兄弟と飲みに行った当時の新聞社の一人が、兄弟を料理屋に誘って仲たがいの原因を聞いて、「仲直りをさせた」というめでたい話となっている。
この頃時計の側合わせが流行っていた。時計に関する側合わせ、側直しの営業は、日本橋の馬喰町にあった「高木メッキ工場」と大井町にあった「吉原工業所」でメッキと側の修理を行っていた。それに加え、幡ヶ谷に工場を持っていた「金栄社」も同じようにこれらの仕事に強かった。金栄社は、側の凹直し、側の一個合わせを看板にして、業界でも直しで有名な話だった。
今なお、御徒町の交差点脇で盛業を続けているが、加えてセイコー、シチズン時計の卸売りも行っており、同社の発展は著しい。社長の荒木虎次郎氏は今年(昭和四十一年)八十歳で頗る健在。時計業界では最長老の一人である。



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