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廉売を抑えた頃の時計材料界と三都連合会の決議
東京の五味商店と小峰時計材料店の廉売合戦

《昭和七年》 東京の五味商店と小峰時計材料店の対抗意識は、他の地域の同業者間でも噂に上っていた。昭和五年以降の時計材料界における廉売合戦と、その混乱ぶりは想像に絶するものがあった。そんな関係から「東京時計原料組合」と「関西時計材料組合」の時盛会、「名古屋時計材料商組合」の各代表が相まって時局の収拾に乗り出し、話し合った結果、三都連合会の名において業界損失防止案なる決議書を作成し、実行に移すことで話し合いがついた。昭和七年七月の事であった。
これは、世の不景気風に寄って来る影響の締めくくりを付けたものである。

業界損失防止条項決議規定

当時は、為替の変動が著しく、かつ財界の極度な不況の結果、同業者の競争が激しく、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑千番ならず、これを放置すれば、ついに救うべからざる結果を見るに至るべく、三都時計原料商組合は緊急会議を開き、下記の事項を決議した。会員は勿論、会員外の賛同を求めて根本的に業界の健全なる発展を期すものである。
1、 定価表を発行するのは、一般的普及せられたる商品及び再低価格品の価格を時の相場により、本会において協定したる建値以下を以って販売することを得ず。本会員は、商道徳を重んじ、なお他人に迷惑を及ぼす如き、挑戦的な宣伝をなすか、または虚偽の広告をなすが如き不徳行為をなすことを得ず。
2、 本会又は第三者を問わず、業界を攪乱するが如き不当廉売を為す者及び、これを援助し、商品を供給するものに対しては、全会員の決議の上、売買取引を停止する事あるべし。
3、 以上三項に対し、万一違反する者ある時は、諸会において警告を為し、なお改めざる者、ある時は連合会の決議により売買取引を停止する。以上。

上は昭和七年七月七日、愛知県蒲郡の常盤館に於て決議し、三通作成記名調印の上、各一通を所持するものなり。
昭和七年七月七日
                      関西時計材料「時盛会」
                      東京時計原料商組合
                      名古屋時計材料商組合

上之通り、三都時計原料商組合に於て決議実行可仕候間、貴殿に於ても御賛同被成下度侯

以上、三都時計原料卸商連合会の趣旨に賛成仕侯(次第不同)
服部時計店(東京市京橋区銀座)、服部時計店大阪支店(大阪市東区博労町)、ケーエヌ材料店(東京市下谷区西黒門町一九)、岩永新太郎(東京市浅草区瓦町二八)、スター時計商会(東京府豊多摩郡戸塚町大字戸塚八五六)、シチズン時計、ヱルーシュミット時計工場  オーバーシーートレーディング会社、金森商店東京支店、中島夏雄、坂口勝冶、水谷勝福天賞堂、山中清堂、石川文一、加藤佐吉、谷文一商店、中島商店、池上商店、山内厳商店、西川時計店、エルーエデイキン商会、植村商店神戸支店、村上金左右、友沢真工舎、瀬山信三、村上徳太郎、寺谷忠雄、松下商店、池田商店、小西光沢堂本店、黒田時計舗。

追加決議事項
@ 取引先に於て不払又は不法行為のある場合は、各所属組合長に通告し、組合長は組合員に承認を求め、組合員は自己の取引円満なるも他の不払行為の有る事を認めたる場合は即取引先に警告を発する事。
A 連合会の費用として一ヵ月一人当り金拾銭宛各所属組合にて徴収の上、積立する事。
B 会員の発行する商報は、発行する毎に各組合長ヘー部宛送附する事。
C 総ての寄附行為は、所属組合の決議を経るにあらざれば、一切なす事を得ず。
D 鯨印油及び孔雀印の針先は、製造元へ交渉の上値段協定する事を得ず。

昭和七年七月七日
関西時計材料「時盛会」代表:富尾清太郎
東京時計材料商組合代表  :小川  静
名古屋時計材料商組合代表 :水谷才次郎

「時計側について」最長老の金栄社・荒木虎次郎社長が語る
本紙への寄稿文の中から

《昭和七年》 今では時計業界の最古参に属する金栄社社長の荒木虎次郎さんは、昔の状況について次のように語るっている。(本紙への寄稿文の中から)

大正五年の第一次世界大戦後の好景気を受けた頃の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、パリス形片硝子時代に移りました。
この頃の材質は、金、銀、洋白、赤銅を使用しており、精工舎では、斜子無双側を製作、赤銅側には、花鳥や富士山などの彫刻色とりどり、象嵌などは、骨董価値のあるものでありました。
その頃、精工舎の兜印、桜印、月輪に雁(三雁印)など、絵画のマークは武者印だとか、犬印、月星印などは、アルミ側と鉄側の舶来品にありましたが、日本では作っておりませんでした。
その頃の側工場は専属工場が多く、吉田の浦田工場、加賀屋の白石工場、大沢商会の脇工場、天野の尚工舎、平野(精工舎の元治金部長)工場、金栄社は金森、藤田の専属、新本の齊藤工場、鶴巻の竹内工場等。
またこの頃は、主として金側の提側時代でしたが、追々腕時計用となりました。金栄社では、銀側の十六型レナー用を作り、二円で土橋の宝商会へ納めたのが最終の思い出であります。
この頃、白金の価格が純金の二、三割高だという安値の時代だったので、山崎亀吉翁は白金製の愛国メダル(昭和十一年)を売出しましたがこの頃は白金側でナルダンの十二サイズ物、タバンのプレーヤード、ロンジンなどが製造されました。側には、純白金だけでは不適当なので純金を少量まぜて硬度を調整したものです。
その頃の時計の輸入税は、重量税であり、完成品は二円四十銭、ムーブメントは九十銭というわけ。
またこの頃の製造工賃は、十八金男用提、専売側パリス側とも五円から六円五十銭、豌は三円五十銭前後で、十八金はヘリ付共で三百八十円という値段でした。
景気の方は震災後復興勢力のお陰でキワキワと来たときもありましたが、だんだん景気が悪くなり、競争も激しくなったので、時としては卸商側に乗ぜられることもありました。腕パリス側の工賃が一個一円となり、次に八十銭と下り、後には五十銭、三十銭というのも出て来たため、少しく騒々しくなり、遂には金ろうを用うべきところ真輸を用いるもの、または金性を溶したためのノーマーク物さえ出現するようになり騒がしくなりました。景気の影響は、時計側だけではありませんでしたが、悪かったです。
昭和五年八月号の金栄社の月報に出ていた小売向け側の値段表は次のようでありました。
K18八型パリス腕並側:三円二十銭
K18八型パリス 厚側:四円七十銭
K18十型パリス極厚側:六円六十銭
K18十六型エンバ  :十五円
K18十ニサイズ   :ニ十一円五十銭
腕パリス並側英字電気彫り:三十五銭
K18十六型エンバ  :八十銭
K18十ニサイズ四羽巻真付:一円五十銭

服部時計店も安売り合戦時代の波に乗る
昭和五年三大都市の時計業界代表が集い「業界損失防止策」を

《昭和五年》 商売というものは景気の良い時ばかりではない。悪い時もあるだけに、そのような場に備えるための用意が必要なのだが、そのことを行ないうるかどうかで、その店の繁栄をもたらすかどうかということにもなる。
昭和五年頃を過ぎてからの時計業界は、余り芳しい景気とはいえない時代であった。
勢い、販売競争も非常に激化した時代であった。昭和五年の春、東京、大阪、名古屋の三大都市の時計業界の代表が集まって、乱売防止のための業界損失防止策なるプランの下で、
雨後の安売りを防ぐ決議を行なったことがある。
その時のねらいは、時計材料だけの問題ではなく、それに時計の分野も当然含まれていたのである。そのようにこの頃から、時計の乱売戦は続いていたのであった。
昭和の初め頃の乱売戦法というものは、毎月定期的に発行する「商報カタログ」に販売する値段を発表することになっていたので、このカタログの発表する値段の如何によって競争状態にかかっていた。
当時、時計の通信販売について勢力を争っていたのは、東京の「加賀屋」(野尻雄三社長)、名古屋の「小菅時計店」、奈良から転居してきた大阪の「保険堂」という店であった。
加賀屋では、金子という支配人がこの編集には携わっており、特に妙を得ていて有名を謳われていた。名古屋の小菅時計店の小菅甚右ェ門氏自身も、性格的には野尻さんに似たような性来らいらくな性格の持主であったようである。私が訪ねた時の応対ぶりでも、ジャーナリストだからといって何一つ遠慮するようなことはしなかった。従って眼から鼻へ抜けているといわれたほどの保険堂の今久保さんの三者の性格は正に好一対というような対照に思われたもの。
だから加賀屋の月報(週刊誌体)が発行されると、その中の値段表を見てから下谷村では時によっては大騒ぎが起きたこともある。その中に鶴巻時計店もこのカタログ騒動の渦中に突入し、乱戦状態を描いたことがあった。
当時のカタログ騒動といった価格記載の値段発表は、時計業界に大きな影響をもたらしたものである。つまり世の不景気対策のために、かくは通信販売戦が旺盛を極めたということになる。そんなような経過をたどって来た加賀屋商店は、その後但しくも整理という悲運に出会うことになった。従って時計界の景気はよくなかったということになるわけである。
景気がよくなかったということを例記すると、昭和八年の秋に、服部時計店もついに「大物の景品付特売」を始めることになった。この頃の不景気風からしても、“服部だけはやるまい”といろいろな噂をしていた時であっただけに、この突如として行った服部の特売発表に業界は「矢張りそうか」と大きく驚いたようであった。
その頃の特売内容は次のようなものであった。
期間は七月一日から十一月末日まで。
売出し本数は、一万本(二千本一組)、景品総額は二万円、種類は一等二百円:十本、二等百円、三等五十円、四等十円、六等五十銭。
今時の金額に皮革するとおかしな数字になるが、しかしその当時としては大した金額であったもの。だが服部時計店の売り出しは、何時でもそれが全部見事に完売するから驚きだ。
この頃も業界では褒めたたえる噂で持ち切っていた。
このような時代であっただけに、輸入時計を扱う一般の卸屋の面でも、ご多聞に洩れないという状況で、輸入時計の銘柄をわざと不明なものに変えて売っていたものもあったほどだ。この銘柄を変えるということは、業界間に価格の協定が施されてあったので、その業界損失防止という申合せに基づき、販売価格を一定の線に押えておかなければならない義務が追わされていたからの逃げ道であったからでもある。
つまり、三都の業者連合の名において、声明してあった業界損失防止なるものの決議に違背しない措置であったのはいうまでもない。
この頃腕時計のムーヴメントで最低なものは、裸の場合一個九十五銭といったものも出たほどであり、本当に安値に驚いていた時代である。

時計材料卸商組合設立の頃
昭和二年に「東京時計材料卸商組合」を創立、小川氏自らが初代組合長に

《昭和二年》 時計材料業界というのは、時計そのものが輸入品だった時代が多かったので、この頃の時計の材料は必然的に舶来品オンリーという時代であった。
それだけに時計部品の国内の製造は、国産時計の生産が伸びてきた昭和の時代の、しかも戦後に属するといった方が間違いないようだ。
それだけに業者間の統一性に欠けていたこの頃の情勢を一本にまとめたいという観点から、小川静氏が組合作りに率先して動いたものだ。
その結果、昭和二年に「東京時計材料卸商組合」を創立、小川氏自らが初代組合長に就任、爾来今日に到ったという経過である。戦時中の統制令に従って、昭和十五年七月十日、東京一円の材料関係業者を糾合して「東京時計材料卸商業組合」を組織している。事務所は東京市深川区清澄の小川静商店方においた。賦課金は、月額一級二円、二級一円五十銭、三級一円となっている。
組合史の概要は、昭和二年創立した東京時計材料卸商組合は、同業者間の親睦を図ったもので、発起人には次の諸氏が当った。小川静、八田林吉、山内精、木村伝吉、松本吉五郎、榊原虎吉、大平徳二、足立次郎吉、五味和一、小峰甚蔵諸氏。
役員には、神奈川県の業者も含めて四十一名、理事長=小川静、常務理事=五味和一、理事山内精、小峰甚蔵、中村徳松、陌岡国躬、藤本武
事=荒木虎次郎、榊原虎治、平田正次郎。

日本の腕時計メーカーの伸びてきた経路
服部時計店のセイコー、シチズン、オリエント、リコーの四社

《大正十四年》 時計界の動きの中で腕時計については、現に市場で活躍しているものは、大別して服部時計店のセイコーから、シチズン、オリエント、リコーの四社であった。
以下に日本製腕時計のあらましをまとめておこう。

日本における時計産業というものは、掛時計に次いで懐中時計、腕時計の順に発展してきている。精密を要する懐中時計または腕時計メーカーの存立は、精工舎の事業企画が発展して懐中時計に至り、次いで大正十五年に腕時計を発売した当時がこの面の嚆矢とする。精工舎は大正十四年に腕時計を作り始め、大正十五年に懐中時計と共に腕時計の十型を発売している。
シチズン時計は大正七年、山崎亀吉氏が経営していた尚工舎製作所内に「尚工舎時計研究所」を設立して、時計の製造を目論み、懐中時計をシチズンの銘柄で発売したが、発売を停止することとなった。
そのあと昭和五年に至り、中島与三郎氏の英断により「シチズン時計会社」を再建、ミドーとスターの両種を模倣した腕時計の製作を開始した。この外に、時計卸商を経営していた鶴巻栄松氏が設立した「英工舎」が大正十三年に発足、昭和二年から目覚時計に次いで、スリゲル、電気時計等の製造を開始、腕時計は昭和十年に着手、昭和十二年にセンター、オルターの銘柄で市販している。
東京の豊島区池袋に所在した村松時計製作所は、大正十一年五月に合資会社として村松恵一氏が「プリンス時計」として立ち上げた。大正三年には、プリンス時計として提時計を作り、昭和十年末には九、十型の腕時計「キーボ−ド」を市販、月産三万個を生産した記録がある。
オリエント時計は、東京・下谷区元黒門町の時計卸商である吉田時計店の直轄工場の「東洋時計株式会社」の製品で、同所は大正九年三月、小石川丸山町で設立してあった時計側工場の「浦田時計製作所」と共同で巣鴨に工場を設けて置時計の製造を開始した。
昭和八年、埼玉県上尾に同工場の移転拡張を計り、腕時計の製造は昭和十年、府下南多摩郡日野町に鉄筋コンクリート三階建工場を完成したまま、軍事工場に転換する状況を辿っている。オリエント時計株式会社は昭和二十五年七月、一億円の株式資本で生れ変わった。

腕時計が生産された最切は大正十四年で、初めに九型を発売
精工舎 昭和三年、二千三百坪の工場の増築、生産体制を整える

《大正十四年》 服部時計店工場の精工舎の経緯は、大正十二年の関東大震災の災害復旧を俟って、翌十三年に到り復興作業が緒に就いたので、これから腕時計の製造にも本腰を入れる段階になった。
腕時計が生産された最切は大正十四年で、初めに九型を発売した。翌十五年に十型腕時計を発売したが、この頃から精工舎の腕時計製作部門については、他からの注目が極めて深かったものである。特にスイス方面の関心は、特別深く、更に日本の市場に直接眼を転じていたスイス人の間では、服部時計店から売出された九型、十型の腕時計を手にはめてみて、運行中の実際についていろいろなテストを行っていたほど。このような状況から日本の腕時計工業の将来性について、スイス時計界では深い関心を示していたといっていい。
私は月に三回、必ずといっていいほど定期的に大阪地方を廻っていたのだが、その都度セイコー時計に関する質問と意見を求めることを怠らなかったことから推しても、その頃の外国人間の注目状態が想像出来た。かくして精工合では、大正十五年に到り、震災当時の災害から完全に立直ることが出来たのを契機に、その年に十六型提時計も完成している。続いて昭和二年、八型腕時計の製作を開始、同三年には腕時計作業に備えるための二千三
百坪の工場の増築が五年間という才月を経て完成を見るに到ったので、その年の十一月に業者二千数百人を招待して、盛大な祝賀会を催している。
続いて昭和七年には、腕時計の最小型五型を発売する域にまで伸展した。かくして昭和十二年に日華事変が伸展したことから、軍需品の受注閼係が生じたので腕、懐中時計の精密工場を分離して、亀戸町に第二精工舎を資本金五百万円で設立した。然しこの間、服部金太郎翁は昭和九年の三月一日、かくかくたる業績を残して惜しまれながら他界した。
それから続いた戦時状態の拡大により、昭和二十年までは、軍需面の生産が中心となり、時計は作業継続というだけの範囲に縮小せざるを得なくなっていた。八月十五日の終戦で爾後いよいよ時計産業への本格化と生産の伸展に鋭意努力される状況に転化している。
セイコー時計の生産概況は次の通り。
三十五年:三千六百九十個、昭和三十六年:四千七百四十個、昭和三十七年:五千七百個、昭和三十八年:六千八十個、昭和三十九年:七千四百四十二個(単位千個)。写真は、明治時代の精工舎工場。

昭和五年シチズン時計が復活、初代会長に山崎亀吉氏、中島与三郎氏は社長
シチズン時計復活の動きとその時代の経過

《昭和五年》 シチズン時計鰍フ現況は、服部時計店と並んで日本製時計の中のキリン児的存在として広く海外にまでその名を轟かせている。
その発祥は、昭和五年に発奮し再建復活に努めた初代社長に就任した中島与三郎氏の至大な努力に俟つものである。
シチズン時計そのものの発祥の起源を回顧すれば次のような経過を辿っている。
シチズン時計そもそもの始まりは、日本の貴金属界にその頃の王様的存在を示していた東京・日本橋通り二丁目にあった山崎商店(旧称:清水商店)社長の山崎亀吉氏が貴族院議員になった当時、労働者代表として渡欧したときの土産物として持ち帰った時計製造機械のそれに起因している。
当時、山崎商店の貴金属工場として設立されていた尚工舎は大正七年、東京・新宿区淀橋区戸塚町に設立されており、その工場の一部に土産として持帰った時計製造機械を据えて、時計の製造を始めたのである。時計の生産を始める一歩前の段階として、「尚工舎時計研究所」と名称して時計に関する研究を始めたものである。
そしてシチズン時計のブランドで提時計の発売が開始されたが、もう一歩高度な精度を求める腕時計の研究という点では、それほど技術面への練磨が積んでいなかったように見える。それと資金面においても打続いて尚工舎は、昭和初年頃から続いた不景気風に押されて惜しくも総ての操業活動を停止するに至っている。かくしてシチズン時計そのものを手がけた尚工舎工場は、壊滅的な状況となり、更に昭和三年頃の不景気風に拍車がかかって爾来、シチズン時計の名称さえも忘れさせられた状況を呈していた。
当時の安田銀行も担保金額四十二万円というので、その措置に手も足も出なかったようであり、完全に地に埋もれた。
ところが大正十五年から、精工舎ではセイコー腕時計の発売を堂々と発表したのである。これに刺激された時計業界の一部では、精神的にも頑張ろうという気持ちが沸いてきた。当時、東京・巣鴨にあった「エル・シュミット時計工場」の名称とナポルツ時計工場の看板で活発に動いていた同工場では、待別強い関心を持っていたようだ。ここの工場はスイスから送って来た時計部品を組立てて、日本製の側に入れて市場に供給するコースをとっていた。そこの日本人の代表者であった中島与三郎さんという人が精工舎から売出した腕時計の販売状態をみて、シチズン時計の復活について発奮したものである。
中島さんとは巣鴨のエル・シュミット時計工場に所用で行った場合は勿論だが、東京の下谷辺りの時計卸商などへ所用で廻って来たときは必ずといっていいほど私の社に立寄り、いろいろと話をしたものである。業界の話題を中心に種種話したのだが、昭和三年頃からは、一途に日本の時計工業の将来についての話題に重点がおかれるようになった。
そして中島さんは自分の過去を私に語ってくれた。「若い時、自分が渡欧しスイスの時計関係に従事して二十五年になる。そして日本に帰って来てからもシュミットを通じて現に時計業務に関係しているのだから、私の人生は時計に始まって時計に終ることになる。そう決まれば生存中の事業として、日本の時計工業の将来というものに関心を持つ必要がある」と述懐された。そして、その上で尚工舎内にうずもれているシチズン時計の製造機械の状態を問い訊された。そのあと、田中商店を通じて債権者の安田銀行側に譲りうけについての交渉の段階となり、私が田中社長に話したのである。
シチズン時計の製造機械は、文字通り工場内に引続きほったらかしにしてあり、埋もれていたのであったようだ。それだけに中島さんの譲受交渉には、易易として受諾したようである。四十二万円の債権を二十万円にまで格下げするという話は、それ以前から業界の一部に流れていた話である。そのことを予め知っていた中島さんの交渉は、結論では五万円を切って四万七千円かで手を打ったと聞いている。
シチズン時計の復活を期して、卒先して関係先を説いて廻った中島与三郎さんのこのときの勇断には、日本の時計業界に関係する誰もが敬意を表していいことだと思い、この機会に尊敬の念を表しておく。
かくして、シチズン時計は、昭和五年六月二十八日を期して設立された。その復活初代役員には、当の山崎亀吉氏を取締役会長にし、中島与三郎氏が取締役社長に就任した。然しこの会社設立に当って中島さんは、かねてエル・シュミット工場時代の取引先関係にあった小林時計店(川村義一氏)、金森時計店、大沢商会(森田支配人)を中心に、その他沢本平四郎、大阪の富尾時計店にも予め相談して協力を求めたもようであり、その間の働きぶりはすこぶる活発であった。
かくして、育まれてきたシチズンの現勢力は、山田栄一社長と太田敬一専務取締役を業務の主軸において、今や大きく羽ばたいている。資本金三十億円、時計の月産三十五万個の能力を誇っている。

中島与三郎さんから入社の誘いが
シチズン時計にまつわるエピソード

《昭和五年》 昭和五年にシチズン時計鰍フ再建と復活が成ってから中島さんは依然として、そのたびごとに私の社に立寄ってくれた。そしてメーカーという立場は物を作るもので、生産されてくる消費の場に当る販売面の処理問題などは、別に考慮しなければならないものがある。
そんな折、「そこでどうだ 藤井君、一つ当社に来ないか」という誘いが猪突に中島さんの口から吐き出されたのだ。新聞の出版ををこのままにしてはならないという私の意見を妨げないようにと思ったのか、「新聞は新聞として誰かに託して」という話にまで行ったのだが、その時シチズン時計の会社には、中島さんを扶ける重役陣にシュミット時代から移って来た鈴木良一さんという人がいるので、鈴木さんとの仲合いの点にもふれたあとで、終局販売会社の設立という件に及んだのである。
このような狙いは、セイコーは服部時計店という直系の販売推進機関があり、さらに山田時計店のようなセイコー専門卸販売店というような流通システムの陣営がシチズン時計にも欲しかったらしい。その時中島さんは私にこう言った。「販売会社の設立に要する資本金の五万円也は無償で供与する」と言ったのだったが、五万円という大金をただで頂こうというのが、余りにも男らしさを欠くことになるような気に捉われたので、この時の返事は私は積極性を持てなくなり、そのままにして終ったという経過がある。
このようなことは、メーカー側が常に抱く生産即消費という場に立っての苦渋の面を表わしたものであり、生きた教訓の一つであると今なお当時を思いうかべて感嘆することがある。

リコーカメラの名声と共にリコー時計が時計業界に登場
生産能力は月産十万個

リコー時計は、前身のタカノ時計を改称したものであるが、カメラ業界で有名を謳われているリコーカメラの名声と共に、大衆に対するその宣伝は大きい。社長の市村清氏の構想は一際大きく、リコー時計株式会社の勢力倍増のために必要な新工場の建設は、岐阜県恵那町に建設されており、完成の暁には、月産三十万個を生産するという構想を発表している。ハミルトン社との提携により針のいらない時計ハミルトンの発売もあり人気を高めている。同社の生産能力は月産十万個と称されている。

昭和初期時代に交換市場の開設を試みた
疎開先などに散っていた時計・貴金属業者を一堂に集めることに成功

《昭和初期》 私は時計・宝飾業界の各方面から好意的に処遇されていたので、普通ジャーナリストには入れない場であっても特別に参観させて貰うことの機会をたびたび与えられた。
明治十年頃、横浜で時計の組合が始めて出来た頃から「開時会」と称する時計とか宝飾などの交換市場が東京市内の貸席を会場にして毎月定期的に開かれていた。
たしか昭和二、三年の頃のことだと思うが、京橋の時計組合時代の知りあった、神戸税関当時の関係を通じて深くつきあっている間柄の松林丑一さんという人がこの頃、京橋の樽町にいた。その松林さんが「私を市場に連れて行ってあげよう」と誘ってくれたので、興味に引かれてついて行ったのである。
その交換市場の「開時会」の取引状態を見ていると、時計その他、諸々の交換物の取引が終ってから、松林さんの出品するダイヤモンドのセリ場にかかった。その場には、原清、古川、伊藤、若松、三輪、西川、牧野、構さん(牛込)等の交換市場では名の知れたそうそうたる諸氏の顔が見られた。
松林さんの手から離れたダイヤは、出品者の思う値段に届かないままに叩かれてしまうのが多く、その都度テッポー代と称して「金五円也」を払わなくてはならない。それが六、七回も続いただろうか、その揚句に最後の一つのダイヤをセリ価格で売ることにしたのであったが、その場の値段では出品者たる松林さんの原価を切ることになるとコボしていたことを今でも覚えている。
後でこの時の様子について松林さんに間いてみたところ、「市場取引というものは、いうなれば生馬の眼を抜くようなものでその出品者の如何によって、品物に対する値段のつけ方とその場の空気が変わることになるものだ。だが然し、商売をしている以上、一度その場に臨んだからには一品も売らずに帰るのは何んとなく付き合いが悪くなるので、損を覚悟で売ることにした」と説明してくれた。交換市場といったものの性格がこの説明で分かるような気がした。
私はこれを現実に生かしてみることが出来る機会を得た。それは昭和二十年八月十五日の正午を期して、大東亜戦争終結の大昭が渙発されたその年の十月に到ってのことである。当時、私は戦争のために新聞の発行を中断せざるを得ない関係から、昭和十九年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤める立場となっており、時計修理を専業とする日本計器工業株式会社の代表取締役として連日役所の時計部に詰め切っていた。
この経験から商品扱いの面では、訓練されていた。そこで交換市場の開設を企画した。下谷南稲荷町の美津和屋の三階の広間を会場に十月から交換市場を開催した。
この交換市開催により疎開先などにバラバラになっていた時計・貴金属業者を一堂に集めることが出来た。これが後々大きく業界に貢献したと言われる所以である。
この時の企画の意図は、前述したように昭和初期時代における物品交換市場のそれを実地に見た経験に基づいたからである。人間というものは、「成せば成るものであり、成さねば
ならないもの」であるという、そのための研究に常日頃から努力していた効果がこの時実現したのだと痛感した次第である。



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