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当時は異色の時計メーカー 株式会社コパル
時計及びカメラ用シャッター、他精密機器の製作販売

時計事業部=東京都豊島区池袋東一丁目
代表取締役=笠井正人
電話:984-2561
資本金=六億円

取扱品種=時計及びカメラ用シャッター、他精密機器の製作販売。
略歴=昭和二十三年、カメラ用シャッターおよびセルフタイマーの製造を開始。昭和二十四年五月、資本金六十万円の株式会社に改組。生産販売の増加にともない数次にわたる増資を重ね、昭和二十九年、板橋区志村に地下一階、地上三階の木社工場を完成。昭和三十六年、関係会社コロナ工業株式会社を発足。昭和三十七年、郡山市に敷地五万坪を購入して郡山工場を設立。昭和三十九年、資本金を六億円に増資。昭和四十年二月、長年にわたる研究開発の結果、国産で初めての文字時計、「キャスロン101」を発表。漸新なデザインと標準時計なみの時刻の正確さは、業界から注目をあびた。続いて九月に「キャスロン301」を、十月には生産の合理化により「キャスロン201」を破格的な値段にて発表。明けて昭和四十一年二月、チーク材に北欧風のオイル仕上げをほどこした「キャスロン501」を発表、その豪華な風格とデザインは、時計愛好家から驚嘆の目で迎えられた。
このようにコパルは、カメラ用シャッターを作る精密技術を基礎として次々と流行の卜ップをゆくグッドデザインの文字時計、キャスロンシーズを発表した。

昭和四十年当時の株式会社日笠商店 日笠上社長
各種舶来時計、貴金属ダイヤモンド卸
 
東京都台東区東上野一丁目二十番一号
電話(八三四)三五一一〜四番
取締役社長=日笠上
業種=各種舶来時計、貴金属ダイヤモンド卸

略歴=戦前、千束町の小野金商店に務めてから昭和十二年に独立、兵隊としてシベリヤに転戦、二十二年復員と同時に、文京区の下谷光月町に業務を再開、続いて現在地に移り、発展している。京橋店は次弟その次弟大氏は当社の専務の任にある。

日笠商店京橋店 日笠光輝社長

東京都中央区八重洲五丁目三番
電話=(二八一)三三八九・〇四〇八・八三二四番
取締役社長=日笠光輝

業種=各種舶来時計、貴金属指輪ダイヤモンド卸
略歴=日笠商店の本店にあって兄の業務を手助けしていたあと、昭和三十年七月に独立、現在盛業中である。

ジェコー株式会社
独創的な製品を生み出しました時計メーカー

本社=東京都中央区日本橋室町二―四
電話(270)0631代表
目黒研究所、玉川工場、行田工場、大阪支店、名古屋営業所、福岡営業所
創業=昭和二十二年二月、資木金二億六千万円
営業品目=音さ時計(掛、置、目覚まし)、自動巻、電池時計(掛、置)、RC時計、自動車時計、小型直流モーター、テープレコーダー、シェバー、その他各種計器。
会社概況=昭和二十二年創立以米、常に新しいものに取り組み、時流に合った、市場性のある製品の開発を志して来た当社は、そのたゆみない研究により、数々の独創的な製品を生み出しました。
昭和二十七年には、モーターの常識を破る独創的な特殊小型モーターの開発に成功し、時計の歴史をゼンマイからモーター式電池時計へと変え、簡便精巧な大衆時計の推進力としました。
更に、昭和二十九年には自動車時計の生産、販売を開始し、性能と完備したアフターサービスにより市場を独占した。
昭型二十三年には、行田工場、三十六年には玉川工場を開設、六千万円に増額、東京第二市場に株式を公開した。そして昭和三十八年には、時計の革命といわれながら実現することの出来なかった音さ時計時を磁気脱進機構との結合により製品化し、この企業化に成功、時計界の夢を実現した。
当社の製品は、ことごとく文字通り独創的なアイデアと独自の研究により生み出されたものであり、その保有する特許実案は国内外を合せ百数十種類に及んでいる点、技術に生きる会社として常に若々しい創造と躍進を志している。

有限会社 黒木計器製作所
電池時計、親子時計、べルタイマー、交流時計専門製作所

代表取締役 黒木久義
本社=東京都品川区二葉一丁目三番二七号
電話(七八二)二二六八番

業種=電池時計、親子時計、べルタイマー、交流時計専門製作所
沿革=大正十五年、雄工社在に入社、電池時計の製造と研究を始めた。昭和十二年に独立、気象台用地震時計を製造、昭和十六年、(有)緑明測器製作所設立、地震計、落下傘時限時計、操縦適正試験器、プラニメーター、パントグラフを製造している。
二十四年、光星舎設立に協力、電池時計の製造と研究を進め、特許発明二十点余。昭和三十五年七月、(有)黒木製作所を設立現在に到る。画期的な時計として回転式子時計(特許出願)及交流リモコン大型時計など(特許出願)を発明、生産販売をしている」。
製品種目 親時計、子時計、秒子時計、報時子時計、塔時計、世界時計、ベルタイマー、チャイムブザー、サイレン報時装置、大型交流リモコン時計、特殊タイマー、各種電源装置、配電盤、その他時計機構利用の特殊装置の製作に応ず。

三愛貿易株式会社
スイス製時計、チタス日本総代理店

本社=東京都台東区上野三−十八−十一号
電話=八三二−五七七七番
代表取締役=田村正雄
資本金=二百万円

業種=スイス製時計、チタス日本総代理店、輸入業務の他、雑貨類の輸出業務。
「チタス」の沿革=一八九二年設立したチタス・エ・ソルビル会社の製品。「チタス」というスイス腕時計の名は、日本市場ではそう有名ではありません。然し歴史の示す通り、欧米市場では、確固たる名声を保持しており、日本でも戦前帝国海軍の軍繿に不可欠の備品として使用された「ソルビル」クロノメーターは、この会社の製品でした。同様にこの標準時計は、日本の三鷹にある天文台にも常備されており、古い伝統と精密時計界の過去の栄光に安住しておるのみでなく、一九五九年、バーゼルの時計見木市においては「チタス」の完全電子時計「ソル卜ロニック」は、機械式機構、歯車、文字板、剣を時計から取除いた画期的電子時計として、原子時計に次ぐ精度を有し、廿一世紀時代の時計として業界に話題を提供したのであります。この時計は、目下、置き時計段階ですが、時計の段閼です
がこれを今後小型化して行き、そして腕時計化して行くことを「チタス」工場では、研究をしております。然し通常の自動巻きカレンダー付腕時計においても「チタス」は紳士用、婦人用共にヨーロッパの洗練されたデザインを採り入れ、品質の良い時計として定評があります。総括的にスイス時計工業と日本時計工業の差異を大きく述べれば、国産品メーカーが、企業の形態上マスプロに走らざるを得ないのに反して、スイスのそれは嗜好的にメーカーの好みと伝統に生きて少量生産をしているのが好みに合った選択というべきでありましょう。

株式会社べンラス商会(旧上原商店)
ベンラス」「ナルダン」を軸として、輸入時計に一段の飛躍を期していく

代表取締役 上原不二夫
東京都中央区銀座西八の九 第五秀和ビル
電話:五七一 三三五八番

略歴=弊社は、「ベンラス」時計の日本総代理店として「上原商事株式会社」を発展的に解消し、「べンラス」本社の要請に基づき設立された会社。
主取扱品は勿諭「べンラス」であるが、これは新日本時計を発売元として販路を設けており、併し「べンラス」以外に弊社代表取締役である上原個人が代理権者である「ナルダン」、「エベル」、「チトニー」をも取り扱っており、更に時計付属品の輸出、宝石、装身具類などの輸入、販売を行っている。
「ベンラス」に関しては「三年問無条件保証」を謳っており、そのアフターサ―ビスの完璧を期しており、画期的なサービスとして業界の絶賛を博している。
有名ぶらんどである「ナルダン」は、創業百二十五年の歴史を持つ伝統に輝く時計であり、その高度な精密技術、歴史の積み重ねから生まれたイブシ銀のような渋いデザインは、高級時計愛好者が最も愛するものである。而も「ナルダン」は自らに古きを良しとせず、技術的にもデザイン的にも古き者のみが持つ良さに、絶えず新しい息吹きを加え、独特の重厚な近代性を持つ風格のある時計となっている。戦前から「ナルダン」といえば、高級時計の代名詞のように歌われていたが、今や一層その感が深くなっている。当社は「ベンラス」「ナルダン」を軸として、輸入時計に一段の飛躍を期していく。

昭和四十一年度の物品税改訂に尽力した株式会社日本堂時計店佐川久一社長
全時連会長に就任して以来の佐川久一氏の活動は極めて多大なものがある

東京都中央区銀座五丁目
電話(五七一)五五一一
取締役社長=佐川久一

略歴=時計貴金属小売業の佐川社長は、秋田県の出身、幼少期に秋田の時計店に見習いに出て精励、その後日本堂名をもって開業している。上京してから目黒、大森地区を経て昭和二十年の戦災のあと現在の銀座に進出することになったのである。ことに処して果敢実践の性格を持つ佐川社長は、それからフルに勇気を奮い、諸般の進運に努めた。その現われは、先ず自店の敷地を裏通りにまで貫通させることを願った。そのためには想像もつかない高額な代価を払って、この間の障害など一挙に取除いた。
かくて店舗の形体思うようになるや、次には業界への一大飛躍を期して突貫した。昭和二十七年の頃の東京組合理事長に対する奮闘は、正に業界歴史に残るものがある。
更にまた昭和三十四年に全時連会長に就任して以来の氏の活動は極めて顕著、業者達を全国連そのものに魅力を持たせるための大集会を実行した。その結果は、全国地区の巡回大会開催を規制して遂に全時連の名を天下に知らしめたのである。
全時連傘下業者の総数は、三万軒を超えて、衆議院議員が各地方選出代議士連をも魅了し、業界の秩序を保持是正し、更に貴金属宝石に関する物品税の改訂を目がけて奮起し、一大業者運動の展開は正に業界史中特筆すべきであり、昭和四十一年度実施の物品税改訂は、貴金属と宝石類オール一万五千円まで免税する実効をあげたのである。
特に、また、昭和四十一年一月から実施した時計修理技術者に対する国家試験の施行については、画期的な現況を生み、全時連なくてはならない時代を顕現せしめ等、時代の変遷と共に佐川全時連会長の名声はいよいよ盤石な体制へと固まっていったのである。
然して日木堂の業績は、総敷地百六十坪の上に四階建店舗を築き、宛ら時計資金属品のデパートの観を呈しており、日本はおろか世界的にも堂々たる名声を輝かしている。
佐川社長と共に長男も相前後して欧州各国の業界視察を行い、営業上にかかる見聞を広くしている。公職は全時連会長の外、全宝連、全眼商工連会長の地位にあり、性格は常に明朗活達である。

各時計メーカー共に自主減産時代に入り、自ら需給の調整に
昭和四十一年からの時計業界の動き方

《昭和四十一年》 不景気の中で幕を開けた昭和四十一年の迎春は、官民それぞれに景気の回復を望んでいた。昭和四十一年度の政府の予算は、四兆三千億円を突破するものであり、今期最大の予算額である。これには、“世の中の不景気風を吹き飛ばそう”という苦心の施策に他ならない。このため他の施策として、批判されながら発行した国債などの例が挙げられる。時計業界などでは、政府が打ち出す新しい政策に期待を寄せていたが、それよりも現実の問題として、時計の消費力不足に苦しんでいた。その結果、昭和四十一年に入ってからは、各メーカー共に自主減産方式に踏み切り、自ら需給の調整に積極的に取り組み始めている。

東京時計会館建設の状況と組合陣営
組合員らの出資と時計卸商らの借入金で建設費を充当した

《昭和四十一年》 東京時計会館建設に要した資金は、組合員各自から一口五百円の出資劵を各支部に割当てて発行した。これによる資金が約千二百三十二万円と大展示会を催した収益金約干百十三万円を充当したほか、時計卸商社など対外借入金として三千四百九十二万円、合討六千三十六万円を当てたのであるが、会館建設資金獲得を唄い文句にして行った数回の展示会のうち一回の売上げが一億八千万円にも達したという盛況を示したので大いに助かった筈。地上六階建(六階簡易建物)二百四十五坪に亘るこの時計会館は、一、二階と三陪の一部を服部時計店のセイコー製品部品センターに貸し、三階の一部は各各種メーカーの製品部常設展示場に、四階をホールに当てて、ここで諸般の催し事を行っている。昭和四十一年一月に行われた時計修理工の技能検定実技試験にも応用され、極めて便益を得ている。総工費五千七百九十二万円(諸設備、備品を含む)で、昭和三十九年八月一日完成した。
昭和四十一年五月、改選結果の新役員メンバーは次の通り。
▽理事長=河内録幣、▽副理事長=高木信治、小竹信太郎、千野晴、▽常務理事=真々田義貞、千野保久、田沢三郎、梅田静一、中川昌美、千葉豊、沢誉司、山口二郎、井上重男、沖野政栄、一の瀬二重、▽理事=森田竹太郎、安匹秀雄、佐川久一、一ノ順二重、河合義太郎、高橋質成、森徳太郎、大沢善次郎、古川敏、吉成良正、佐藤義三郎、古屋徳次、野口益広、小吹栄、菅俣栄司、小林誠一郎、駒崎正男、佐山祐司、西沢定雄、板橋武造、古川武一、井上重男、園部武夫、斎藤伊代蔵、倉林春男、漆原延治、赤羽俊三、佐藤貢、笠原福三、山嬉隆吉、中山実、谷沢寅松、板橋武造、森脇章、日比野清一。▽監事=早藤盛一、増田清、藤田年一の各氏。
▽顧問=関誠平、金山重盛、山岡猪之助、木村信男.牧瀬幸、福田篤泰、▽支部長=森田竹太郎(麹町)、戸田武雄(神田)、古川清太郎(日本橋)、平井幸夫(京橋)、一ノ瀬二重(芝)、河合義太郎(麻布)、松田秀夫(四谷)、三宅義雄(牛込)、梅田静一(淀橋)、青柳喜三(小石川)、上田幸雄(本郷)、漆原延冶(下谷)、中川昌美(上野)、桜井実(浅草)、 高橋賢成(本所)、酒井留吉(向島)、竹田富士夫(深川)、)森徳太朗(城東)、武井正通(品川)、大久保利春(荏原)、三村晴太(目黒)、野口一三(大森)、太田拾二(東調布)、山田正則(鎌田)、佐藤義三郎(世田谷)、)古屋徳次(玉川)、榎本光人(渋谷)、近藤久雄(中野)、小竹信太郎(杉並)、増田清(豊島)、野口益広(滝野川)、浜村安宏(王子)、小吹栄(赤羽)、菅俣栄司(荒川)、(板根)百瀬清(板橋)、塩野谷利喜次(足立)、長野伝次郎(練馬)、大和田豊之助(葛飾)、中山求(江戸川)、春山米吉(武蔵野)、小林五郎(立川)、中江督松(調布)、田中五郎(府中)、川島悌二(西多摩)、)武藤文三(青梅)、千葉豊(八王子)、久布白儀助(町田)。写真は、昭和三十九年八月一日完成した「東京時計会館」。

全時連の事業の画期的な「技能士検定試験」が開幕
受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている

《昭和四十一年》 全時連の事業の中で、特に目覚ましい効用を示したものの最高峰は、昭和四十一年一月に全国で行われた時計修理技術者に対する技能検定制度の施行であろう。
これは一月中に全国各県別に行なわれた。東京では、この年の一月十日から二十日まで、東京時計会館で行なわれたのであり、時計業界としては正に世紀の画期的事業である。
その結果は、二月二十二日全国一斉に発表されたが、受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている。学科テストは三月十九日に行なわれ、その結果は五月十日に発表されることになっており、実技と学科の双方に合格したものは、時計技能士としての最初の有資格証を受けることになるのである。だが事前に職業訓練指導員講習(35時間訓練)に出席したものは、一月中の技能試験の結果だけで技能士証が交付されることになっている。だから時計業界界としては、正に革命的な事業ということになる。次に技能検定に関する対応上の動きの一部を紹介する。



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