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中支那方面視察中のところどころ
最初二百円と唱していた掛け軸が結局ただの五円で売買することになった

《昭和十四年》 中支派遣軍参謀総長山田乙三閣下の一行に加わっているが如き感じで、閣下一行と同行していた私達の中支那方面経済視察団は、その視察の眼を各地区の都市の実情調査にも転ずることにした。その中に織り込まれた一コマ、蘇州寒山寺に詣でて感じた点を追想してみよう。
寒山寺に詣でる途中の沿道に立ち並んでいる商人から一行中の越村氏が掛軸を求めるべく値段の交渉を始めたので私と一行は興味を持ってその成行きを見守っていた。越村氏が指差した掛軸は最初二百円(当時)と唱していたが、だんだん値切って結局ただの五円で売買することになった。支那人という商人は物に対して馬鹿げて吹っかけるものだという印象をこのときの状況から知ることが出来た。

支那の市場支配権の獲得交渉へ
在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問する

《昭和十四年》 上海三日目の一行の視察行動については、前夜に打合せで「十一人が揃って歩く必要のない所へはそれぞれ希望のところに行こうではないか」という話になり、希望者は双方の何れへでも随行することにした。私は中支方面の市場調査を目的としての行動をとることにしたので、早朝出発して、在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問することにした。
朝七時三十分にホテルを出て埠頭に第三艦隊から差廻してもらった、且っての独乙軍の占領艇でフートンに渡ることになった。(注・フートンとは丁度月島を本土と切離したような感じのところ)。ここに第三艦隊の司令部があったのだ。私は、秩父宮の御前砲射を行なったことの栄誉を持つ服部大尉に面会した。そして支那における市場支配の構想について説明を求められたので、格別資本金は大して必要としないが経験者の派遣によって実際的に支配してみせる、その代替物として日本で作った軽金属製品を与えて日支人国民間の交流を計りたいというのが私の希望であると抱負の概要を説明した。

安田保全株式会社が市場の支配権の獲得の交渉にやってきていた
資本金によって事業を企む安田保全より君の企画を取りあげることになった

《昭和十四年》 ところがその当時すでに丸の内の安田保全株式会社から安田という人が資本金二百万円を持って私の考えと同じように市場の支配権の獲得の交渉にやってきたという話をこのとき聞かされた。その結果ともかく、少佐に説明の要点を伝えてくれることになり約一時間のあと出てきた大尉が興奮して、「君の勝だった」と私の肩をたたいで説明してくれた。
それは大隊長の矢地少佐がいわく、「軍は国民的な観念によって、賄ってくれる人を選ぶことにするのだから資本金によって事業を企む安田保全KKより君の企画を取りあげることになった」と説明してくれた。
だが、少佐殿が所用のため南京へ行って帰ってからまた合うことを約束して大隊本部を辞去した。そのあと服部大尉は私たち一行を軍用自動車を駆っでフートン地区の実状視察に案内してくれた。フートンにいる民間日本人は、私達の外には二・二六事件に連座した山岸中尉の姉さんが宣教師となって渡っていただけで、あとは皆無だと聞かされた。だから私達の乗る軍用車によって馳駆する道すがらは異様な感じをもって見ていたようでもあった。
このフートン銀座を経由して支那農民の総てが生鮮な野菜物をかついで対岸の仏祖界に売りに行くのである。この売込み物資を一括して取扱ってやることそのものが市場性を持つものであると私と服部大尉は現状の動きを眼の前にして語りあい、既に市場開発の際の企画が立案されたような感じでながめたのである。この間、交渉成立の実現を眼の前にして私に同行した一同は喜びと驚きの眼をみはったのである。

上海の市街を見学、中国の知恵を学んだ
電車もバスも車掌が私腹を肥やす

《昭和十四年》 上海二日目の朝、一行はそろって上海の市内見学を行った。宮沢さんの案内で電車やバスにも乗って見た。電車の切符は、12枚切るので、六枚で足りさせて3枚を車掌に払い、それでOKとなる。つまり車掌が三枚分を私腹してお客が三名分安く乗ったことになる。この説明をして代金を与えるとその車掌は納得するのである。それを実践して見せてくれたのがバスであった。バスの場合も同様だが、このバスは英国系の会社経営になっていたので、監督が時々乗車して切符の点検をやるそうだ。その時、自分の儲けた分も、客からも不足分を無造作に徴発して補うことをやる。それでその場は通るのだった。英国人の監督は、支那人のそれらの行為が通有性であることを知っているせいか、訳もなく徴発を行っていた。

上海のデパートの配置を見学
服部時計店の大田さんにご馳走になった

《昭和十四年》 上海のデパート上海公司、信信公司などの見学をした。上海のデパートは一、二階が百貨売場で、三階は喫茶と食堂、四、五階が娯楽場とキャバレー、六、七階以上がホテルという日本では考えられない建物となっていた。デパートを見た後、上海の競馬場前にあったモダンなエンパイヤホテルで昼食を取った。このホテルは英国型の経営スタイルで、まさに豪華そのもの。夜は、上海飯店で広東料理の珍味をご馳走になった。この飯店には、服部時計店の大田上海出張所長さんが招待してくれて、接待を受け一同は感謝した。当時の上海の状況は、上海の中央部を包囲して、四方に敵(支那側)の機銃座が据え付けられていた。何時でもチャンスがあれば、即時開戦という体制を物語るもののようであったので、何となく私たち一行の眼にも戦争というものの本質に、疑問視した上海見学であった。

上海の市街を見物
戦争というものの本質に、少しく疑問を持ちながらの見物                 
                                   
《昭和十四年》 第二日目の翌日は、一行揃って上海の市内見学を行なった。宮沢さんの案内で電車やバスにも乗ってみた。電車券は十二枚切るので六枚で足りさせて三枚を車掌に与えると済むことになっている。つまり車掌が三枚分を私腹して客側が三枚分を安く乗ったことになる。この説明をして代金を与えるとその車掌は納得するのである。それを実践して見せて呉れた。バスの場合も同様だ。このバスは英国系の会社経営になっていたの
で監督がときどき乗車して切符の点検をやる。そのときは自分の儲けた分も又客からも不足分を無雑作に徴発して補うことをやる。それでその場は通るのだった。英国人の監督は支部人のそれらの行為が通有性であることを知っているせいか、理由なく徴発を行なっていた。それからデパートの上海公司の信信公司等を見物して廻った。
上海のデパートは、一、二階が百貨売場で、三階は喫茶と食堂、四、五階が娯楽場とキャバレー、六、七階以上はホテルという日本では見られない黎楽的な状景に作られている。それを見て廻ってから、上海の競馬場の前にあったモダンなエンパイヤホテルで昼食をとった。ここは英国型の経営方式であり、正に豪華そのもの。
夜は、上海飯店で広東料理の珍味をごちそうになった。この飯店には、服部時計店の出張所長の太田さんも同席されて接待してくれたので一同は感謝した。
この当時の上海の状況は。上海の中央部を包囲して四方に敵(支那側)の機銃座が据えつけられてあった。それは何時でもチャンスが到れば即時開戦という体制を物語るもののようであったので、何となく私達一行の眼にも戦争というものの本質に、少しく疑問を持ちながら見物して廻っていたものである。

支那の市場支配権の獲得交渉へ
私達一行は軍用自動車に載せてフートン地区の実状視察に案内してくれた

《昭和十四年》 第三日目の一行視察行動については、前夜に打合せを行なって十一人が
打揃って歩く必要のない所へはそれぞれ希望別に行勤しようではないかということに話がついた。結局、私と越村氏との二隊に分かれることになり、希望者は双方の何れへでも随行することにした。私の方は中支方面視察の真目的である市場調査を目的としての行動をとることにした。早朝出発して、在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問することにした。朝七時三十分にホテルを出発、そして埠頭に第三艦隊から差廻してもらった、且っでの独乙軍の占領艇でフートンに渡ることになった。(注・フートンとは丁度月島を本土と切離したかような感じのところ)ここに、第三艦隊の司令部があったのだ。私は紹介されて、且ては秩父宮の御前砠射を行なったことの栄誉を持つ服部という大尉に面会した。そして支那における市場支配の構想について説明を求められたので。格別資本金は大して必要としないが、経験者の派遣によって実際的に支配してみせる、その代替物として、日本で作った軽金属製品を与えて、日支人国民間の交流を計りたいというのが私の希望であると抱負の概要を説明した。
ところがその当時、すでに丸の内の安田保全株式会社から安田という人が、資本金二百万円を持って私の考えと同じように市場の支配権の獲得の交渉にやってきたという話をこのとき聞かされた。その結果、少佐に説明の要点を伝えてくれることになり、約一時間のあとで出てきた大尉が「君の勝ちとなったと私の肩をたたいで説明してくれた。
それは大隊長の矢地少佐殿が曰く、軍は国民的観念によって貽っでくれる人を選ぶことにするのだから資本金本位によって事業を企む安田保全KKより君の企画を取りあげることになったのであると説明してくれた。
だが、少佐殿は所用があるので、南京へ行って帰ってから再度合うことを約束して大隊本部を辞去した。そのあと服部大尉は、私達一行を軍用自動車を駆ってフートン地区の実状視察に案内してくれた。フートンにいる民間日本人は、私達の外には二・二六事件に連座した山岸中尉の姉さんが宣教師となって渡っていただけで、あとは皆無だと聞かされた。だから私達の乗る軍用車によって馳駆する道すがらは異様な感じをもって見ていたようでも
あった。このフートン銀座を経由して、支那農民の総てが生鮮な野菜物を担いで対岸の仏祖界に売りに行くのである。この売込み物物資を一括資して取扱ってやること、そのものが市場性を持つものであると私と服部大尉は現状の動きを眼の前にして語りあい、既に市場開発の際の企画が立案されたような感じでながめたのである。
この間、交渉成立の実現を眼の前にして、私に同行した一同は喜びと驚きの眼をみはったのである。

蘇州、江州を経て南京を見る
当時の軍の行動が手に取るように読みとることが出来てすこぶる愉快

《昭和十四年》 一行は蘇州、江州地区を視察してから南京を訪れ、更に、武漢地区に足
をのばす予定にしていた。上海から、半分に仕切った二等車の半分に私達の一行が乗り、他の半分の席には中支方面派遣参謀総長の山田乙三閣下以下、秦大佐らの幕僚連が随行していた。従って、各駅停車で然も停車のその節度、その地区内の治安状況の説明が地方自治会委員の代表者に依って行なわれていたので、軍隊の用件で行ったのではなかった私達の一行も、当時の軍の行動とその地域内の状況範囲が手に取るように読みとることが出来
てすこぶる愉快であった。お陰で私達一行は、山田閣下(日本大人)と同じように、日本人の誇りが鉄道を守備する支那兵からも捧げられていたので少しく、誇らしい気持で歩いたものだ。

中支那方面視察中のところどころ
中国人の神髄を見た

《昭和十四年》 中支派遣軍釜顯長山田乙三閣下の一行に加わっているが如き感じで閣下一行と同行していた私達一行の中支那方面経済視察団は、その視察の眼を各地区の都市の実情調査にも転ずることにした。その中に織り込まれた一コマ、蘇州寒山寺に詣でて感じた点を追想してみよう。
寒山寺に詣でる途中の沿道に立ち並んでいる商人から、一行中の越村氏が掛軸を求めるべく値段の交渉を始めたので、私と一行は興味を持ってその成行きを見守っていた。越村氏が指差した掛軸は、最初二百円(当時)と唱していたが、だんだん値切った結果、結局ただの五円で売買することになった。支那人という商人は、物に対して馬鹿げて吹っかけるものだという印象をこのときの状況から知ることを得た。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
経済視察団を編成、支那に渡る 

《昭和十四年》 私の構想は、輸出貴金属興業組合の設立で真鍮製品というものの生産過程が理解できるようになったので、この生産品を売り捌く為には、戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。その要因は、日本は支那と好んで戦争をしているのではなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから始まったわけで、日本と支那の両国民は、心からの戦いは願っていなかった。家庭用品を通じて心の交流を図りたいと念願したのである。その為には、貴金属組合員の手による軽金属製品を通じて両国民の交流を図ることが適当だと考えたのだ。
そして支那行きの調査をした結果、上陸部の上海には、知人である宮沢洋行氏、服部洋行氏がいる。更に二年前に、時計の修理の就職を世話して上海に送った某氏遠征しており、艦隊の専属時計師として還俗している主、知らせがあったので利用することにした。
また明治大学の先輩たちが支那の政府要人となって渡支しているのを活用することにした。
このようなことを確認してから中支那経済使節団を編成、昭和十四年の五月十日、神戸から出発することを決めて指令を出した。参加したメンバーは、私の外には、越村暁久、加藤清十郎、中川敏ニ、梶田久治郎、梶田善次郎、谷田賀良倶、高橋要ニ郎、加藤悦三と息子の計十一人。神戸港では、大阪研交会の見送りを受けて元気に出発した。
乗船した船は、昭和五年の第一次欧州大戦当時、日本が日英同盟で加担した時の戦利品の照国丸三万五千トンであった。一行は、越村氏を除き、外国航路は初めての経験だった。この船は、上海到着まで三日間を要したので長い旅になった。
船中では、京都・本願寺の大谷光瑞ゲイ下と会談、中支についての様々な問題を拝聴した。今回の目的は、中支経済の視察であり、国民の交流を図りたいとの希望を上げたら、称賛された。ゲイ下は、上海にある西本願寺に出向くための船旅であった。しかし、この照国丸は、佐多氏達を乗せたのを最後に支那艦船から撃沈されたことを上海滞在中に新聞報道で知らされ、深い感慨に至った。お互い無事で良かったことを喜びあった。



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