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立派なオメガ時計工場を見学した
オメガ、チソットの発売元であるシーべル・ヘグナー社を訪れた

《昭和三十八年㉓》 オメガ工場では会議室においてJ.PHOTTER重役から我等一行の視察団に対する歓迎の挨拶があった後、工場案内係に引率されて一階から六階に到る各階を工程順に従って見て回ったのである。
時計工場の見学では、精工舎、シチズン、オリエント、リコー等国内時計工場の状況を見学しているだけに、オメガ工場の設備のいかんはこの眼で見ただけでも十分に知り尽しうるものである。だがオメガ工場を見て新しい味わいを感じたのは、メッキ方法とその設備、更にオメガ時計を水圧テストにより合格品の検査を厳重にしている点などの特長が公開され、眼前に於て展開されていた点が強く感受されたのである。
見学は午後二時から六時すぎた頃までの四時間半以上にも及び、然も廊下が大理石を敷き詰めた高級なものであるだけにとてもくたびれた。そしてまた、この後に待っているFH本部での会談の予定もあるので急いでオメガ社を辞去したいとの気持で少しあせっていた。ところがこの時オメガ社では、ミスター藤井に関する限り、今日は時間をかまわず待っている事になっているから心配はいらないという説明をしてくれたので先ずはホッとした次第。
外国における場の時間という問題には、特に気をもんでいた私にとって、この時の言葉が何ものにもまさる慰めとなったのはいうまでもない。
FHというのはスイスの時計製造業者連盟という意味の団体の略称である。このFH本部に対しては、予め日本の出先機関を通じて連絡してあったので、これに基いてこの日の会談プランが作られていたのである。
会談の要旨は、スイスの時計が世界的に進出している中で、日本市場に対する方法と合せて、今後の処置について要望してみたいという意図から会見を求めたものである。
FH本部のこの日の会談の場に参加したのは、団長の私の外には、日本堂の佐川専務(社長令息)、黒田時計店社長、北岡茂美三共社々長、平和堂貿易の高木克二社長、同小野常務など、FH側からは極東本部長のレトナル氏以下各班の重役陣十余名が列席した。
席上には、日瑞両国の国旗を立てて歓迎の意をつくしてくれた。そして会談が進められたその時の要点を要約すると、その頃は電池時計の出現に特に期待をもち、且つ注目されていた時代であったので、先ず@時計の進歩性についての見込、A腕時計についての電化傾向とその実現に対する可能性、Bスイスの生産現況と将来性、C日本時計市場に対するスイス時計としての観察と具体的方法、などの諸点について意見を交換したのであったが、この中でスイス時計の生産状況は、年四、五百万個に及んでいる点から
悲観的な材料など持っていない。
ニレクトロニックスの研究・開発にはより努力を続けている等、慎重に検討が行なわれている内容を明示された。その後の締めくくりとして、時計の世界的品評会を開催したいと提唱して会談を終えた。この点には積極的な意思表示は見られなかった。かくて、この日の会談は午後八時頃から始めて十二時を過ぎていた頃まで及んでいたのだから頗る長時間を要した訳でその場の厚遇に特別感謝して辞去した。そのあと私たちが泊る
ことになっているホテルエリットのレストランに移して、こんごはオメガ時計会社招待の晩餐会がここで引続いて開催されて大いに歓待を受けた。
それからブランデーなど飲みながら、どうだオメガの日本における将来性について等の質問を受け、大いに歓待されたものだ。 時に二時四十分を過ぎていたにもかかわらず階上のルームに戻った所、部屋には依然約束していたオメガ会社に会社に特派されていた日本人技術者ら二人が待っていてくれたのには深く感激した。
写真は、FH本部代表で極東本部長のレトナル氏と藤井勇二団長を中心にした会談のスナップ(三十八年九月二十八日ビエンヌ市で)

超スピードの時計会社めぐり
モバード、ナルダン、ドクサ、チソット、シーマ、ゼニット、モンディアなど

《昭和三十八年㉔》 私が生存して以来、最大に努力した日であった。前日の疲労も一夜の熟睡によって翌朝七時半には起床することが出来た。手早に身支度をして八時にはホテルを出発した。そして時計の街ロックルとラーショード・ホン地方を順次訪問するプランが出来ていたのである。従って、あと一日位はこの地域に滞在を続けたい気持であった。
ー行の半数は、既にジュネーブに先行しているのを思うと団長という立場上では、万止りを得ないことになって終っこのである。従ってこの日のプランは、何もかも超スピーディにやり遂げなければならないことになっていたのである。
大型セダンの自動車に乗り平均時速百キロ以上で突走った。最初は、ラーショード・ホンの近くにあるロンジン時計会社を訪問した。ロンジン社の役員は、目下工場を直しており、それにオメガ工場を見た後では見学の要もあるまい、とハッキリ意表されたので階上のルームで挨拶したあと記念撮影をしただけで辞去した。
少しおかしな話だとは思っていたが、先を急ぐ必要のあった時だけに、先方の意のまま
引あげたのだ。スイスの時計会社は、オメガ以外は、こんな気持でいるのだろうと心の中で描いてみる気になった次第である。
その後、またも車はフルスピードですっ飛したのである。スイスは、時計と共に酪農の国でもあるので、道幅いっぱいに牛の群が列をなしてやってくるのには驚きの眼をもって見守ったのである。頸の下に大きな鈴をぶら下げているのだから、その鈴がじゃらじゃらんと鳴らしながら歩いて行くその光景は、正に農村らしいのどかな風景でもある。だから午が通っている間は、自動車は片すみに寄り添いながら静かにその通過を待って
いるという光景である。それらは酪農スイスのエピソード。
やがて自動車は、時計の街ロックルにやって来た。道路が少し高台になっているので、その上から見下ろしたロックルの街は、時計会社が軒並みに詰め切っているという感じである。
ここにはモバードはじめ、ナルダン、ドクサ、チソット、シーマ、ゼニット、モンディアなど、その他沢山の時計会社があり、インカブロックなどは街の中央にデンと大きなPR標が突き出してある。
時計材料店で古いのれんの国際商店があり、ここが松田商会の出張所になっているという話をハンドルマンのマックス氏から聞かされたのだが、この話は私自身も昔から聞いていたのでうなずくことが出来た。それから街中を一回りしてからモバード時計会社を訪問することにした。写真は、モバード時計を訪れた記事が新聞に掲載された。

平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問
各自に腕時計を一個づつお土産としてプレゼントされた

《昭和三十八年㉕》 モバード時計会社には、時々日本にやって来たことのある顔見知りのアルマンド・デデシャムという人がいて、心よく一行を迎え入れてくれた。食事をしていってくれと懇願されたが、一時間以上待たなければならないために、止む無く挨拶だけで辞去した。
その次には、平和堂貿易との特約店関係にあるモンディア時計会社を訪問した。この会社では、私達一行を迎えるための歓迎の用意が整っていて、同社の社長始め一族が顔を揃えて迎えてくれた。日本とスイスの国旗を交差して記念写真を撮影、シャンパンやブランディで歓談、友好を深めた。帰りのお土産として、各自に腕時計を一個づつ提供してもらった光栄に浴した。
その次は、管理関係が完備している時計の工場内の設備と組み立て方式の見学をして、次のロックル時計博物館の見学に入った。この博物館は、昔ドクサ時計会社の社長が個人的に所有していたものを寄贈してロックル博物館ということにしたのだという当時の話を、案内してくれた係の人の説明によって分ったのである。
この博物館に陳列されてあるコレクション(古い時代の時計)を見てみると、時計の発祥時代のものは、日本のものとも案外変るところがないものだという感じがした。写真は、モンディア時計会社で組立作業を見学する一行。

我等一行はスイス北端のブレビンへと急いだ
ピアジェ時計の真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業を見た

《昭和三十八年㉖》 ブレビンというところは、スイスの北端という場所にあり、とても寒さに厳しいところだと聞かされていた。現地に入ったら、なるほど本当に寒いとうなずくことが出来た。
一行の車は正午過ぎに着いた。ホテル「デュビール」で中食をとっていた時、隣の室では、シーマ時計の社長さんが食事しているところだと聞いた。それほどさようにこの町は、時計関係者がかなり多いときいた。
ブレビンは、海面千六百メートルの高台にある。寒さ対策としてブランディで寒さをしのいだ。
ここのホテルに迎えにやって来てくれたピアジェ時計会社の社長の自動車は素晴らしかった。丁度テレビの漫画で見るような二百七十キロの超スピードが出せるカッコいい車だった。日本の車なんか問題にならなかったほどかっこよかった。
その超スピードぶりをわれら一行の眼の前で見せてくれたのである。
更に四、五十分もしてからスイスのシベリヤと称するブレビッのピアジェ時計会社に着いた。ここの工場は、そう大きくないが工程としては、真鍮の型抜きから仕上げに至るまでの一貫作業が行なわれており、堂々とした時計工場組織である。そして出来上る製品は、超高級品の部類の時計である。
ピアジェ時計会社の製品をよく見ると時計というよりは、宝飾品と言った方がピッタとくるような気がするのである。
工場内の各部を回ってから、この会社の社歴について説明を聞いた。ピアジェの現社長は創業して六代目に当り、ここに勤めている従業員は、親代々がここの工場に勤めているそうだ。スイスというお国柄がよく表れているような気がした。
このピアジェ時計の作り方を見ても、その一面が知られるように、高級時計のつくり方は、統一性をもった作り方ではなく、個々の美点を生かした特長がある製品が大きな魅力となって作られるのが特長である。それら個々の製品が力となって伸びていってもいいのではないかと考えた位である。
このピアジェ工場を見学して辞去したのは夕刻の六時をすぎていたから、表は既に夕暮れになっていた。それからは、我等一行が待つジュネーブ入りを敢行することになったのである。
従って車は、百六十キロのハイスピードで疾走し、午後の九時すぎた頃には三百五十キロにも及ぶスイス縦断疾走を行って目的地のジュネーブに到着した。写真は、ジュネーブのセネバ湖畔で筆者。

湖の都、ジュネーブを見物
折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学

《昭和三十八年㉗》 ジュネーブに着いたのは、午後の九時を過ぎていた。早速、中華料理店で腹ごしらえをして、ホテル「アングレター」に入った。ジュネーブでは、ユニバーサルとロレックスなどの時計会社の見学を予定していたのであったが、翌日の五日は生憎と土曜日とあって、スイスでは土、日曜日の二日間は休日になっている。そのためここでの時計工場の見学は中止となった。その代わりに折から開催中の時計・宝飾品フェアの状況など見学することにした。
ユニバーサル時計会社のシェーラー社長とは、電話で連絡をとり、常設会場の宝飾品フェアで会見することにした。翌朝の食事をしたあと、この会場に集まったのである。ところがユニバーサル社のシェーラー社長が約束の時間より少しおくれたので、この間会場内でカメラ撮影をしたことから係の人達とトラブルを起した頃、シェーラー社長がやって来たのでことなく済んだ。ユニバーサルのシェーラー社長と会談した際に、スイスという国は仕事の面では案外のんびりしているものだという印象を持った。
かくしてこのあとジュネーブの各方面を散策して、湖畔の静かな姿にひたるなどして快適に過ごしたあとは、いよいよこれからあとのコースは、工場見学がなくなったので観光本位ということになった次第である。
ジュネーブは五日夕刻に出発、八時頃空港を飛立ったのだが、この空港で買ったブランディのナポレオンが一本七ドル九〇セントであったのだから、ヨーロッパの中では一番安かったことになる。(パリでは九ドル)。写真は、ベニスの海上交通機関。

ミラノ、ベニスに遊ぶ
水の都べニスの交通整理は、水上で指揮をとっている

《昭和三十八年㉘》 ミラノへは午後十時を少し過ぎていたのでホテル「トーイック」に着いたのは遅かった。ここは一泊しか滞在が予定されていないので、荷物をホテルにおくとそのまま夜のミラノ観光に出かけて行った。
有名なドームを始め、いろんな物を見て回った挙句、最後にビールなど飲んでホテルへ帰ったのが朝の四時頃。我等の一行は強心、且つ健脚揃いだということになる。
ベニスに入ったのは、六日の日曜日である。ミラノは十時頃出発ということになっていたので、買物を希望する人達は、朝早くから何くれとなく飛歩いて、十二時三十分には機上の人となっていた。向かうところはベニスである。
べニスには、一時間足らずで着いた。空港の傍の海岸をモーターボートでホテルへ運ばれるというコースであるから、最初から遊楽コースのベニスなどが想像された。ここのホテルは水辺に添って建ててある「パーク」という名称である。
我等の一行と共にアメリカからの観光組も混っており、賑やかだった。べニスは水の都というだけあって、ここでの交通整理は、水上で指揮をとっている。船が右から左から交叉する場所には、 陸上における交通整理のポリスセンターがあって、日本の場合と同じように、赤、青の灯火で交通整理をしているのを見て、珍景の一つに見えた。
やがて夕刻ともなれば、川面を漕いでいくゴンドラの中で、奏でるベニスの船唄が流れてくる。想像にまさる情緒たっぷりなものが感じられたのである。
この情景に浴さんものと観光客は群れを成して集まってくるのは、またベニスならでは見られぬ光景でもある。
ベニスから海上少し離れた場所にドーモがある。このドーモのためにひっきりなしに乗合船がこのベニスから出ている。我等一行が、ここに着いたのは日曜日だったから、船は常に満員という盛況ぶりであった。それを押してドーモ行きを決行することにした。その満員の船の中でも若い入達は、同伴の女性にチュッチュッと音を立ててキスしている。その様はいかに馴れごとになっているからとはいうものの、余りいい図のものとは受け入れなく感じた。このキッスのことについて、その夜ホテルに帰ってから考えて
みたが、ヨーロッパという国では、永い間馴らされてきた伝統的な表現行事として、通常例のように扱かわれているが、このよう極端な行動の表われ方は、キスをする以外の場合でも、個人的な性格をむき出しにして、物ごどを押し進めるものであるという原則的の測定が出来たのである。
このドーモから更に、二時間ばかり行くと、ニースという歓楽郷があり、ここでは天国というような極楽の場でもあると聞かされたのだが、残念ながら行けなかった。写真は、古都ローマの古墳は、現在でも残っている。

事蹟の多いのに驚く古都ローマへ
ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院・広場など多彩な名所

《昭和三十八年㉙》 次の観光先はローマである。ローマヘは十二月七日の午後一時半ごろ、「マリンステランド」という指定のホテルに落ちついた。その日は、あいにくの雨の日であった。それでも観光はプラン通り進めることにした。
ローマは、二千七百年も前の紀元前七百五十三年に建国されたと伝えられ、古歴の都だけに空港から市街へ出るまでの沿道にさえ、既に史跡らしい様々なものが並べられているので、ローマそのものの古さが象徴されているのに先ず驚く。
ローマはイタリアの政治、文化の中心地だけでなく、カトリックの総本山であるバチカンの所在地として観光客を迎えるので有名である。
ここの通貨は「リラ」と称し、一ドルが六百二十五リラ、一リラは邦貨で約五十八円である。先ずドルとの両替はホテルの両替屋で交換したら、一万円が一万千五百リラで交換された。一行の中の一人が素早く買物をしたその時の円との交換計算は、邦貨一万円が一万四千リラの計算であった。従って、余りに違い過ぎるではないかということから、ローマのイタリア国立までいって交換をしようということになり、銀行で交換してみたら邦貨の一万円が一万二千リラになった。結局は、時間の無駄であったことと笑った仕末である。だがローマの人は、油断もスキもなりませんぞということを聞かされていたので、敢で経験のために自ら、実験してみたのである。
観光コースは、ローマ国立博物館ボルゲーゼ公園、人民広場、聖天使場、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院、サンピエトロ広場、カタコンベ、カラカラ浴場跡、バンデオン、エマヌエル記念塔、バリベテル広場、トレヴィの泉、スペイン広場、フォロマーノ等の順に回って見て回った。歴史は積っているだけに事蹟の多いのに驚くだけだった。
この中で特に古代歴史を持つ代表的なものでは、ヴァチカン帝国、サンピエトロ大寺院などがあげられる。即ちその内容は、ヴァチカン帝国は、ムッソリーニ政府の世代に法王庁との間にラテラーノ協約が妥結せられて以来、ヴァチカン帝国として独立主権国となったもの。国といっても領土はヴァチカン宮とサンピエトロ寺院とその付属地を含むわずか○・四四平方キロ、人口約千五百人である。だがこの中で貨幣、切手などを発行し、テレビ放送局も持ち、新聞も発行しているというのが特徴であり注目される。
サンピエトロ大寺院は、世界カトリック教会の最大、最豪華な教会で、ルネサンスからバロックにかけての芸術の総決算にも似た成果を誇っており、もとこの辺一帯はネロ皇帝の競技場であり、ここに教会が三百十九年に完成、三百二十六年に献堂式が行なわれたと言われている。十五世紀中頃になって崩壊の恐れが生じたので改築計画が立てられ、二百年近い歳月を費やして完成した。写真は、レストラントウキョウで乾杯する一行。

古都ローマの古墳は今でもこのように残されている
二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、無事帰国した

《昭和三十八年㉚》 現在の教会はこの再建された新教会で、直経四十二メートル、高さ百三十二メートルの威容を誇る大ドームはミケランジェロの設計に基くものである。内側の装飾はすべてモザイクで、堂内は大体近世諸法王の墓や記念像で飾られている。入口右の最初の祭壇にミケランジェロの大理石像「ピニタ」があり、中央祭壇のドームは、ベルニーニの一六三三年の傑作と言われている。
ローマ市中を観光する中で、一番注意したいのは、道の角点に気をつけることである。ローマの交通路は、中心点から放射的に出来ているのだから、歩いてゆけば五分位で行ける場所でも、車の場合は回り方によっては数十分を要するような構造になっている。
また、土産物などを買う場合でも、ガイドマンの案内する店はガイドへの謝礼額を含まれているものと見えて、相当高価になっているのに気がつく。彼らへの割戻し制があるからだという。我等一行を案内した場合の例でも、カメオなどの指輪、ペンダント類を買ってみてハキリした。ガイドマンがわざわざ案内してくれたその土産店で買求めた品物よりも、表通りの堂々としたショップでの価格の方が安い値段で正札されている現実にぶつかっだのだから、この点の事実が証明された感じだ。
このローマには三日間滞在したので、第二次世界大戦終戦時のころに、当時の伊太利国首相のムッソリーニが敗戦の責めにあって惨殺されたという人民広場を見たときには、ヨーロッパという古代歴史の中に埋まれゆく痛ましい時代の足跡を残したものだと感動させられるものが心中湧いた。それから且つてのオリンピ″ク競技場の跡など見て廻ったその晩は、特にローマの味に浸ろうではないかということで、特別晩餮会のプランを立てて貰った。ヨーロッパでの夕食時は、どこの場合でも大体午後八時頃からが通例になっているようであるが、われわれは馴れていないせいか、そう遅くまでは待てないので早くして貰った。それでも七時からということで案内されたローマのトーキョーというレストランに行って見た。ここではイタリア料理を出してくれた。食事をする部屋はワインの空ビンを積み重ねた廊下を通っていく奥まったレッガ作りの古風を型どった一室であった。料理の味は特に美味しいとは思はなかったが、それでもイタリア料理というだけに、そこにやって来ていたテーブルのメンバーたちは、何れも楽しそうに食卓を囲み歓談している光景に接することが出来たのでこれが何よりの御馳走だと思って昧わった。
かくして奏でるメロデーに合わせて室内の誰もが自由にステップを踏んで楽しそうに踊り始めたので、その情景をあとに、ローマそのものの印象を刻みながらこのレストランを辞去した。いよいよ明日はローマにお別れを告げることになるのだから、夜のローマを探究しようと語りながら歩いた。ローマでは、夜の十二時を過ぎた頃はまだ宵の囗であるようだ。何処の喫茶店でも、テラスにステージを突き出して、そこに集まっている沢山の客に歌と音楽などを奏でて聞かしていた。その情景は文字通りローマならではのリズム感に浸っている感じが持てた。
ローマの観光が終ってホテルのロビーで少憩しているときのことだが、そこで一人の日本人青年に会った。聞いてみたところ、南アのダイヤモンド鉱山で働いているのだそうだが、勤務のあとの保養休暇のためこのローマにやって来たのだといっていた。ローマは、欧州地方での保養地であるからだ。
我等TBS視察団の一行は、ローマの空港を飛立ってから途中カイロ、カルカッタ、バンコック等の各国の空港を中継したのである。どこもここも空港での休憩中の暑かったのには参った。
約七時間位を要して最後の地点香港に寄港したのである。香港は、世界三大景勝地の中に数えられるというのだけあって、空から見た香港は実に素晴らかった。
かくて一日を休息、この間、九竜、ビクトリヤ本島など観光、そのあとそれぞれ好みの土産品を買うために自由行動にした。香港の名物に取りあげられている宝石類は、安かった時代は過ぎ去っていたということに留意すべき時に来ていた。(注)香港の視察旅行は、前回の東南アジア視察として記してあるため省略する。二十六日間のヨーロッパ旅行日程を終えて、昭和三十八年十一日羽田空港に無事帰国した。写真は、霊峰富士山の姿を望む機内の筆者・藤井勇二。

創刊三十五周年記念事業として東南アジア宝飾業界視察団
アクシデントに見舞われながら羽田空港を総勢十九名が飛び立った

《昭和三十六年》 新聞という事業をやっていると、何となく団体事業をやらなければならないものだと考えるらしい。それがまた業者の側でも、そういう仕事をやること自体が、新聞社としてのサービスの一つであると考えているようだ。そんなことから昭和三十六年の三月二十五日、羽田空港から香港に向けて「東南アジア宝飾業界視察団」総勢十九名が飛び立った。
このツアーは、東南アジア宝飾業界視察旅行と題した十二日間に旦るプランで、本紙「時計美術宝飾新聞」の創刊三十五周年を記念した事業という題目で行ったのである。
当時は外国旅行については、貿易が自由化される前であったから旅券(パスポート)の申請の許可などいろいろと難関があったので、そう沢山の参加者はなかった。それでも総勢十九名という一団ができた。名鉄航空旅行社の斡旋によるものであったから、私は形式上の団長ということになり、旅行中の実質上の総ては、その旅行社から同伴して行くコンダクタが一切の世話をしてくれるのが通例になっていた。
かくて旅行申請から旅行日程についての打合せ会も済み、明後日出発するという時になって、旅行社から同伴を予定していた漆原というコンククターの旅券が降りなくなってしまったという報告に接したのである。正に困ったことになった次第である。国内旅行ならいざ知らず、こと外国語を使わなければ用がたりない国への案内役のことであったから何とも致し方ない。いっそのこと出発を視察団の延期を考えてみたが、十九名の申込み者は既に、旅行に関する各般の用意万端を整えてしまっていた。止めるにも止められない状態に追い込まれたので、最後の方法として通訳の人を他に探せないかと打ち合わせを繰り返してみたところ、特に通訳の世話だけを頼むことができることになったのである。
ただし、その代り私自身は事実上の団長ということになってしまった訳である。だからコンダクターに代って諸事面倒を見なければならなくなった。「なるようになれ。行くところまで行け」と心の中で思ってはみたが、内々は心細い感じがしない訳ではなかった。
しかし団員の中には、業界関係の知り合いばかりで、既に旅行馴れした人もいたので、いざという時には、という心強さもあり皆に協力を頼んでとにかく予定通り出発することに
した。
出発の時、羽田空港のロビーは見送りに来てくれた人達で大賑わいを呈した。待合室に入りきれないで廊下にまではみ出した程である。羽田空港ロビーの出発の場では、佐川久一全時連会長が大勢の見送り人の中で元気のいい声で万歳三唱をしてくれた。
かくして本社主催の「東南アジア宝飾業界視察団」の一行は、午前十時健やかに飛び立っていったのである。この時の旅行団に参加した一行のメンバーは次の通りである。
バンドメーカー・竹本商店:竹本茂次社長(東京・台東区浅草)、バンド卸:高島商店:高島倍社長(東京・台東区東上野)、中井梅商店:中井梅次郎社長(大阪・南)、バンド卸:影山鋼鎖製作所:影山元節専務(東京・台東区竹町)、眼鏡卸の三共社:北岡茂美社長(東京・文京区湯島)、メッキ業:大須賀メッキ工業:大須賀実専務(東京・墨田区・石原)、宝石卸:伊勢正商店:大平吉蔵社長(東京・神田・須田町)、時計卸:沢木時計店:沢木誠太郎専務(東京・新宿区百人町)、時計小売:審美堂:山岡猪之助社長(東京・銀座)、時計小売:伊勢伊時計店秦藤次社長(東京・銀座)、時計小売:野村時計店:野村康雄社長(東京・台東区)、時計小売:倉林時計店:倉林春男社長(東京・文京区竜岡町)、時計小売:まつ屋宝飾店:渡辺陽一(札幌市)、輸出業:東京商工・小関滝社長(東京・千代田区)、、輸出業:武藤工業兜嵩。与四郎社長(東京・丸の内)、輸出業:東洋信号通信梶E小島安幸社長(東京・港区)、山本昇神戸支店長(神戸市)、輸出業:富士電鎌倉製作所・堀江純一郎社長(鎌倉市)、時計美術宝飾新聞社・藤并勇二社長(東京・文京区湯島)の十九名。
写真は、勇躍飛び立って行く一行を歓送する光景。

六時間半を飛んでタイ国のバンコクに入国した
日本人はどこへ行っても大いにモテた

《昭和三十六年》 搭乗した飛行機は、スカンジナビア航空のジェット機であった。この頃、日本にはジェット機はまだなかったので、途中マニラ空港を中継してから一挙にタイの主都バンコクまで飛んだのである。だから計六時間半位を飛んだことになる。
かくて一行の眼に映ったものは、南国の赤色焼けたバンコク空港に着陸した光景であった。タイの主都バンコクというところの人口は百七十七万人。新聞を通じて知っている範囲では、親日性に富んだ君主制の国であると承知していただけに、税関の場で受ける税関係の態度についても、極めて注意深く見守ったのである。いろいろ所持品のことなど尋ねる点でも、親密さを示す態度が受取れたので、心易いような気持でそれからのバンコク視察に元気が出せたのである。
我々一行は、空港の外で待っていた旅行社差し回しのバスに便乗し、指定のホテルに到着した。ホテルの名は「アスター」といって、その近辺には航空会社などが散在している繁華街に面した賑やかなところである。ホテルの待遇は、ツーリストクラス旅行だから、大体月並のものだったが、困ったことは馴れない通貨の使い方についてであった。一応飛行機の中で聞かされてはいたが、ホテルに着いたトタン両替店が開いており、そこで所要すると思う程度のUSドルをタイのドルに交換したのであるが、これを持って行けば、どこへでも行けて、何んでも支払はOKということを聞いたのだから到着したその晩からバンコクの夜の景色などの見物に大いに羽を伸ばした。
一行に参加している年輩者の山岡、大平両氏などは、私よりも年上であったので、その連中が率先してハッスルし、飛び回つたのだからこの時の旅行はまだまだ元気旺盛という時代だったのである。
我々をホテルに運んでくれたガイドの中に、日本の学校で二年間ほど勉学に努め、日本語が少し判るスーピーさんという青年がいてくれたお陰で、夜中の遊び回りの場などでは、いとも楽しく、且つ行詰るようなこともなく東京の地を飛び回っているような環境にあったのではないかと思うほどだった。
もっとも、この頃バンコクで受けた日本人に対する印象は、どこへ行っても日本人は大いにモテたもんだ。それだけに夜のナイトクラブの場などでは、東京のドまん中のキャバレーで遊ぶのと少しも変わりがなかった。日本人経営の「二ユーシャトー」というナイトクラブは、支配人が日本人でもあり、また女性の中にも支配人的な立場の人と日本人のウエートレスなどがみられて安心できた。
ここのウエートレスが、我々一行のタイ国内の諸々を見物して歩く時、毎日そのバスに便乗して一緒について歩いてくれたのである。何年間かの約束に基づいてここまで送られて来た日本女性にしては、案外自由な行動をとるものだと考えたのだが、事実は旅券など持たなければ国外への行動の一切は不可能になっているのだから、外出したからといって不安がない訳である。その説明を女性ら本人から聞いて、なるほど外国の事情というものはこういうことになっているものかと思いうなずいたような次第である。
バンコクの滞在は三泊四日だったから、王宮のほか数多い寺院など見て回ったあとの夜ともなれば、このナイトクラブが一行のためには唯一、且つ毎晩の遊び場所ともなっていたのである。写真は、タイ国の水上生活の景色。



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