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石福貴金属興業は、事業場拡張の為上海に次いで南京にも出張所を
政府が資材統制のため

《昭和十四年》 前にどこかで書いたように、支那事変開戦のために貴金属地金界にも一大異変がまき起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日、日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して、政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。そのために石福貴金属興業KKは、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく懐しいものである。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があるからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさという気持が手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが、別段これという危険な感じはうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学した夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクツ音でベンタツしながら程遠からぬ士官集会所に走らせたものだ。この集会所は街の情景とは趣を異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正などの日本酒、何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというごちそうである。一切が特務機関の計らいだけに、余人の想像もつかないものだった。
支那事情についての説明では、支那全土を掌どるものは少なくとも、中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点などが想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には、將介石四十七号嬢というのが加って私らに酌をしてくれたとい酒席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので一行は、急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という谺想の夢を肥に大きく描いたものもあったであろうが、翌朝私かホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰れない事となった。

一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任した
陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんに話を聞く

《昭和十四年》 「軍では八絃一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終息さすべきだと信じている」と。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は主張を次のように続けた。
「私は先に幸い中支方面を視察して見て、その広大な地域に驚いた。仮りに、軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統繝するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。そうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陷るはいうまでもない。国乱れて忠巨出づの反対の戦果が成って反乱が起こる懸念なしとはしない。だから天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行なうべきである。従って目下進行中の支那大陸での攻略戦果は、南支を將介石に委ね、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州に属領として手中に帰す事にして、事態の平定を計らなければ果てしない広域戦争のために、国力の自信に問題か起きて来る危険性がある。これは私たち青年層が見ている「八絃一宇の定則」であると思っていると語った。
この時の鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従って言うだけはいったが先様の結論がどういうふうに出て来るかに瞬間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは口を開いて、「私も同感です」とこう答えて私の手を固く握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去り、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、盃を交わして上海戦争当時の名パイロット野村さんの上海攻略の経験談などを中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亜戦争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールでお終いになるはずだと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計部主任を担任していた当時の私はいろいろな計画がこの時の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催した
日米親善国民大会を開いた時の情景

《昭和十四年》 第二次世界大戦を起した日本の立場そのものの発端は、満鉄沿線の鉄路約一尺を切断したことから国際間の紛争へ、そして戦争へとかり立てられたのである。元来、戦争というものは偶発的に起るものではないということがその間の現実を見て判る。“小人が閑居して不善をなす”などということとは違って、国と国との闘いになるのだから、そう容易に行えるものではない。然し戦争という事実は、計画に基いて行われるものであり、その源は思想的企画の予定行動に基くものであるようだ。
日本が事変を起して行ったその動機は、この狹い日本本土に六千万人とも七千万人もの国民が生きられる訳がないではないかという一筋の観点から来た心理関係の侵略思想が発生せしめたものであるというのが明らかな事実となっているらしい。それが支那事変に拡大して行ったと米英両国の連合外交が相携えて、日本を経済封鎖という戦略により押えつけようとした行動の現実性が、ひいては大戦争を誘発せしめたものである。
戦争当初からこの問題は、表立って話題にされていたし、又その事実が公然と認められてもいた。しかし、当時は国民皆兵式の一大戦争にかり立てられていたので、さして気に止める事もなかったようである。そこで私と三木武夫君と話合った結果、国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催したらどうかということを話合ったものだ。これに参加したのは何れも明治大学の友人ばかりたった。当時の社会情勢は米国に対しては、直接抗戦的な行動をしている訳ではないのだが、然し英米両国の経済封鎖そのものを緩和させることが日本の戦略的行動の範囲としては必要であるという見地から、この日米親善国民大会の開催プランが組まれたのである。

帝国ホテルを本部に前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使った
巡洋艦の艦長以下乗組員千ハ百人に対する記念品の選定等

《昭和十四年》 このときの所要日数は、帝国ホテルを本部にして前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使っていた。その経費も一切の支出の費用も三木武夫君一人が采配をふっていたのだから大分利益になった筈である。
私がこの場合少しく手を染めたのは、巡洋艦アストロヤ号の艦長以下乗組員千ハ百人に対する記念品の選定という役を引うけた事だ。そこで一儲けしょうということで梶田久冶郎氏と合月商店から出て独立していた道斎浅四郎氏にも相談して、記念品作りの見積り一切を完了した。ところが先方から記念品等の贈答品は一切辞退するという事になってしまったのだ。金儲けということには案外運のない私であったが、この時ばかりはかなりがっかりした。
一個八百円だったから、何十万円かの注文になるので相当の利益になる計算だったから惜しい限りであった。この時の状況が、当時米本国に報告されていたので、三木武夫君が終戦後の軍事省参与官という閼係議員の立場でパージにかけられることになったときの難を免がれたという大きな恩典に浴しているのが特記される。

八紘一宇の限界を指した頃の勇猛ぶり
昭和十四年の頃の研交会の巻から

《昭和十四年》 昭和十四年の頃の一般世相は、既に戦争気運が高まりつつあった頃なので国民感情は次第に高まりつつあったときである。
業界状況にしても、金・銀地金の使用禁止、金属製品の使用制限等が打出されたその後だけに、勢い戦争そのものの行手についての見方について論ぜられるようになっていた。従って国民の気分も硬化しつつあったといっていい。
特に私は、兵隊籍を持たないが故にというところから、その年の春に中支那方面の産業視察のため十一人の貴金属業者と共に現地の状況視察を行って帰ってきたとこだ。その直後であっただけに、戦争に対する批判にも一段と気色ばんでいたころだった。
この頃の時世に、一段関心を持っていた東京研交会員は、戦争という刻下の状況判断の資料のためにというわけで、特に検討を行う方法を選んだものだ。昭和十四年六月の頃だと思う。その時の研交会の幹事は、天野君であり、天野君の友人の陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんと一緒に、十三年の二月頃、上海の空中戦で有名をとどろかせた野村名パイロット(大尉)を我々の席に招いたのである。そのときの会場は上野公園前にある山下という料亭であった。二階の広い日本座敷で全員と来賓の二人が紹介されて時局について話し合った。
この研交会というのは、会員間での研究と親睦を目的にして作られた二世団体で、毎月十一日を定例日として会合する規定が今でも実行されているのである。従って、この日の話題は上海戦闘の功労話しからいろいろ話題がはずんでゆき、私達青年層の戦争に対する所見はどうですかと鈴木さんから問われたものだ。そこで私が話題のトップにたって、意見を吐くため仮りに行き違いがあっても、ここだけで内密にして頂だくことができましょうか?
過般私、は上海を中心に中支の一部を実地に視察してまわって来た関係から意見の持ち合わせが少しくあり、しかも急激なところまで行きそうになることを恐れるからでありますと予め伺ったところ、その点絶対に保証するということであったので、これからの話には全員が緊張して相対することになった。その宿にいた鈴木さんは、当時陸軍糧秣厰の課長で少佐か中佐であったと記憶している。そして言論がこと軍関係におよぼうものなら、理
由の如何を問わず直ちに首がスッ飛んでしまう軍政時代であっだのだから、この点をとくに念をあしたのも無理はない。陸軍大臣は、東条英機中将の時代であったはず。
当時の戦闘状況は、中支を南下して南支を攻略中であり、最大の要衝重慶を目がけて猛烈に爆撃を続けながらもついに、戦線は八紘一宇を呼称して盗難アジアを席巻せんとして、太平洋領域まで併呑しようとする鋭い勢いを見せかけていた時であった。
私は、意見を極めて率直に吐き出して次のように述べた。「軍では八紘一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終焉さすべきだと信じている、と述べた。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は、自分の主張を次のように続けた。
私は、さきに幸い中支方面を視察して見てその広大な地域に驚いた。仮りに軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統禦するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。仮りにそうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陥るはいうまでもない。
国乱れて、忠巨出づの反対の、戦果が成って反乱が起るの懸念なしとはしない。だから、天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行うべきである。
従って目下進行中の支那大陸での攻略戦聚は、南支を將介石に委ねて、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州と共に属領として手中に帰す事にして、事態の平ていを計らなければ果てしない広域戦争のために国力の自信に問題が起って、来る危険性がある。これが私達青年層の見ている八紘一宇の定則であると思っていると語った。このときの鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従っていうだけはいったが、先様の結論がどういうふうに出て来るかに胯間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは囗を開いて、私も同感です、とこう答えて私の手を握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去ったので、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、これから盃を交わして上海戦争当時の名パイロットの野村さんの上海攻略の経験談など中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して、遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亞戰争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールで御終になるだろうと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め時計部主任を担任していた当時の私はいろいろの当時の計画がこの畤の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

白金事件と代償の一万円
想い出のエピソード三題

《昭和二十年》 これは、終戦の年、昭和二十年五月頃のことだと記憶しているが、私の社が二十年の三月十日の帝都大空襲の災害で丸焼けになったので群馬県の鬼石町にあった日本ニッケル会社社宅に疎開した時のことである。隣りに寄居していた人から金田屋の主人金田某が死んだという悲報を聞かされた。その金田氏は、駒込警察署を通じて東京地検で取調べを受けていた戦時中の物資統制令に違反した事件である。その時の証拠物に提出したのは、戦時中に買い上げたダイヤモンドを輸出することによって外貨獲得という線を打出したいから許可して貰いたいという業界の陳情運動をしたときの関係書類を一括風呂敷包みにしてあったものを参考上必要だから届けてほしいという頼みであった。それによって私は元富士前町の金田氏の居宅に届けたのである。但しこの代償に金一万円也の予約報鴟金を支払う件を約束されたのである。これを実行されないまま彼は捕われの身となり悲報に接したという経過である。つまりこの場合の報奨金流れが第三番目になる話。

戦時体制下、社団法人金銀製品商連盟設立の時の足取り
会長の選定には男爵の東郷安氏を起用することに決めた

《昭和十四年》 時計とその附属品、貴金属宝石類の総てが販売を禁止された昭和十四年
頃の業界は、戦争のための対策ということでただあわてふためいていただけで、これといってまとまるものは何一つとして見られなかった。聖戦の趣旨に応えて一億民衆は、ただ奉公の至誠に燃ゆるのみという態度であった。
この時、貴金具業界を代表して貴族院議員に籍を置いていた山崎亀吉氏が考案して、大蔵省の銀行畑の古手役員であった矢板氏という人を活用、埋れた貴金属品の処理について相談した。その結果、会長の選定という件について、男爵の東郷安氏を起用する案が出来上ったのである。これによって、「金銀製本商連盟」なる団体を設立しようということになったのである。この話は、私が梶田、越村氏などと一緒に中支那方面の経済視察から帰
ったばかりの夏の頃で、山崎氏から梶田氏に相談があり、それから越村氏が私に対して意見を求めたもので、その結果、発足へのコースをとったのである。かくて、その年の十月五日に東京会館で設立認可の披露会が催されている。
従って、戦時下におけるこの当時の業界体制は、この団体一本の息吹きに絞られたといっていいようである。「社団法人金銀製品商連盟」設立の時の足取を辿ってみると次のような概要となる。

昭和十四年七月二十九日「社団法人金銀製品商連盟」が発足した
大蔵省の肝いりで連盟の設立趣意書などが決まる

連盟の設立趣意書
《昭和十四年》 「金二関スル国策ハ現理事変進展ニツレ益々其重要性ヲ増加シツツアリ我等金銀製品販売ヲ業トスル者ハサキニ政府ノ国策二順応シテ金地金蒐集二当り多大ノ国家的貢献ヲナシ得タルハ銃後ノ国民トシテ密カ二本懐トスル所ナルモ今ヤ全国策ノ遂行ニツレ更二業者保有ニカカル金銀製品ヲモ挙ゲテ之ヲ中央二蒐集シ、独り国家財政ノ根本ヲ培養スルニ努ムルノミナラズ、進ンデ其ノー部ヲ海外二輸出シ仍テ以テ外貨ノ獲得二資スルコ卜ハI属国策二順応スル所以ナリト謂ハザルペカラズ」。
この計画は、昭和十四年の六月十日大蔵省迫水金融課長、西原事務官臨席の下に、山崎首長を主唱者として細沼浅四郎ほか九氏の業界代表者が設立協議会を開いたのに始まり、以来数次の準備委員会を開催して着々と結成の歩が進められたのである。
この間、政府側からと関西業者の代表者を網羅し、全国の団体としたい希望もあったので、第一回設立協議会には大阪から辻田峰次氏ほか、中里、生駒、梶、江藤の四氏の賛同を得て、かつ業界外からは、男爵の東郷安、矢板玄蕃の両氏が参加した。かくして七月二十九日の設立委員会となり、社団法人金銀製品商連盟の発足を見ることになった。
この委員会には、東郷男爵を会長に、矢板氏を専務理事、越村暁久氏を常務理事に推挙、創立委員長に山崎亀吉氏を顧問に推戴し、兼ねて評価委員長を委嘱し、滋に機構の大綱が完成することとなった。
紆余曲折を経て設立までに漕ぎつけた亊は欣快に堪えない。役所(大蔵省の調)としてはこの連盟に対し全幅の支持を為すものであり、各位は一体となって、この事業の完遂に当られん事を切望する……というのが、席上における大蔵省の迫水課長の激励の辞であった。

社団法人金銀製品商連盟の事業計画書
政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする

一、 本社団法人は、「社団法人金銀製品商連盟」と称す。
二、 本社団は、国策に順応し貴金属製造卸業者及小売業者より商品たる金銀製品及び宝石類その他を蒐集して、政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする。
三、 本社団は、この目的を達成するために、定款第四条に則り、以下の事業を行うもの
とする。
(イ) 同業者が保有する金製品の買い入れ及びその処分。
(ロ)同業者が保有する銀製品の買い入れ及びその処分。但し、本項(イ)と必ずしも同時に行うものに非ずして時局の推移により必要と認められる場合において行うものとする。
(ㇵ)同業者が保有する製品たる貴石類の買い入れ及びその処分。
(二)金銀白金に代用すべき地金の配給斡旋。
(ホ)この他この社団法人の目的達成に必要なる諸事業。

連盟設立当初の協力者が役員に選ばれる
東郷安会長、矢田玄蕃専務理事、越村暁久常務理事らが誕生

《昭和十四年》 因にこの間、設立の機構及び定款事業計画案などに関して、数次の会合に参加した主たる人々は、
《東京》 東郷安、山崎亀吉、矢板玄蕃、関谷延之助(日本百貨店組合理事長)、土方省吾(服部時計店代表)、細沼浅次郎(東京貴金属品製造組合理事長)、野村菊次郎(東京時計商工業組合理事長)、亀山末義(東京眼鏡組合)、越村暁久、梶田久次郎、溝口万吉(東京装美会)、山本信助、水野伊三郎(日本金地金)、伊藤重次郎、土屋好重(日本百貨店組合書記長)。
《大阪》 中里治三郎、生駒権七、梶彦兵衛、辻田峰次、江藤順蔵(大阪貴金属商工組合)

かくして、この社団法人金銀製品商連盟は、昭和十四年八月二日、社団法人設立の願いを東京府を経由して大蔵省、商工省の両大臣に提出、八日には日本工業倶楽部において東京関係の業者組合代表を招き、懇談会を開くと共に、大阪、仙台、札幌、金沢、新潟、広島、福岡の各地においても業者懇談会を開いた。これは、全国の業界にこの事業を周知せしめることに努める一方で、矢板専務理事が機構、事業の遂行の段取りや当局との打ち合わせとその進行に画した。実に目まぐるしいまでの活躍の中、九月二十八日付を以って大蔵省、商工省の両大臣から設立認可の指令が下され、重大局面を担って生まれた晴の子に「社団法人金銀製品商連盟」の名札が付けられることになった。
そして十月五日、東京会館で盛大な設立披露会が行われた。次いで十月十六日には、設立登記も終了し、二十六日には神田・一橋の学士会館で臨時の社員総会を開催、業界紙を交えて業界に設立宣言をした。当時の役員は下記の通り。
▽会長=東郷安、▽専務理事=矢田玄蕃、▽常務理事=越村暁久、▽理事=生駒権七、江藤順蔵、梶田久次郎、亀山末義、梶彦兵衛、野村菊次郎、中里治三郎、▽監事=関屋延之助、土方省吾、▽顧問=山崎亀吉、服部玄三、御木本幸吉、大沢徳太郎。



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