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銀塊二屯を信州中野まで引取りに行った時の経緯
結局は純銀一貫匁づつを無償提供されて、これで泣き寝入り

《昭和二十三、四年頃》 金に続いて銀の取引についての一つのエピソードを記してみよう。市場管理をやっている中には、いろいろ取引上の売込話もあった。その中の竹内武一君の持込み話である。当時信州中野に中野無線という軍関係工場の処理品として、ササ銀二屯の売物があるという話が出たのであった。この話に一口乗ったのは、私と竹内君の外に香取、今田の両氏を加えた四人であった。そこで、竹内君を除いた三人が出資しあって荷物の受取りに出かけさせたことがある。昭和二十一年の二月頃のことだったから、中野行きのトラックの動きには、頗る難路の頃だったと思う。ところが出発後五日を過ぎてもトラックが帰って来ないので、情況偵察をして見たところ、銀価格が値上がりしたため契約価格では出さなくなったということなのである。
そのために遅れているのだという経過がハッキリした。まるでキツネにつままされたような話であったが、この当時は万事がそんな状態であったようである。結局は純銀一貫匁づっを無償提供されて、これで泣き寝入りしたというのが実情である。
銀の問題では終戦間際の取引物で、銀塊半トンを電話命令で某所の庭に埋めさせておいたことがある。このことはとんと忘れていたのが最近この原稿を書くことになったことから想い出して終戦当時のその頃の状況を振返って考えたことがある。これなどはとんでもないエピソードであり、終戦直行の頃の語り草の一つでもある。

物品税撤廃や養殖真珠業界を救済するための融資運動など
当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、大きく業界に貢献した

《昭和二十三年》 私は、その時三木君を虎ノ門脇にある国民協同党本部を訪ねて、何回も懇談を重ねた。三木君から国策について意見を聞かれた私は「敗戦した日本の社会は、資本主義でもなければ社会主義でもない。上下、左右にとらわれない為の方策といえば、“協同経済方式”を取らねばならない事になろうから、この点を考慮して新しい日本の国作りを考えるべきではなかろうか」と一つのポイントを提示した。
果せるかな、芦田内閣が生まれた時の経済的国策は、協同経済主義の下に協同組合方式を奉持する旨を明言した。以後、日本の組合性格は現状のごとく、協同組合時代が続いているのである。
その時の芦田内閣は、“昭和電工疑獄事件”のため昭和二十三年七月に総辞職した。この時にも、三木武夫君を通してこの業界の為になった事が様々ある。その一つは時計・宝飾業界あげて推進を図っていた「物品税問題」に対する陳情運動の場である。当時、全国時計宝飾眼鏡商連盟の佐川久一会長を伴って当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、いろいろな工作を図ったことがある。
更には、日本の養殖真珠業界を救済するための融資運動の陳情についても今は故人となった三輪豊照社長や真珠界の大御所的存在の高島吉郎氏らと共に三木武夫氏を通じて、業界に大きな貢献をしたことを思い出す。このように裏面工作をした思い出が沢山あるが、私的な関係を利して業界の諸事にわたって貢献しえたという事になる。

商品の仕入れは、市場を通じての時代
各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった

《昭和二十三年》 市場での取引が盛んになってきたころ、この状況が地方の業者の間でも知れ渡り近県の人は勿論、遠くは北海道からもやってくるようになった。そんな関係で市内の小売業者は、この市場に出入りして取引が成立する場が見られるようになった。
そんなことから昭和二十三年になって、各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった。
その結果、上野公園内の東照宮前にある貸席である「梅川亭」に交渉して、定期的にここを会場にして開催することにした。この会場に決めたのは、ただ規模を大きくするだけでなく、この頃警察の取り締まりも厳しくなっており、市場会場を整備管理しなければならないことになっていたからでもある。
管理体制をしっかりするという警察からの要請もあり、その為に「古物組合」を設立した。その組合によって運営するコースがとられた。兎に角会場を上野の森に移すことにした。このとき市場関係に主として当っていたのが、古物商仲間の永井平保武氏、飛田新吉氏、越光保氏、赤沢幸吉氏、白石憲二氏、竹内武一氏に私(藤井)を含め、計七人で立ち上げた。そこで呼称を「七福会」と名称した。この会場に決めた梅川亭というのは、名を横井さんといって、その昔は徳力本店に勤めており、その当所私は少しく顔見知りがあったのだが、今はそのあとの当主である。三百五、六十年も昔から存在している由緒ある茶店である。この梅川亭に会場を移してからは、来場者の数が増え出し、商品もグンと増えた。
その筈である。市中はアメリカ兵気風が交ってくるので商品の交流は激しくなる一方、それだから本職の質屋買出人も登場するようになったのだから、市場はそれに応じて盛んになるばかりであった。
そこヘアメリカ兵方面からのPX用の舶来時計なども出始めて来た。この新品のアメリカ兵が持ち込む時計は、最初の中はアメリカ兵が自分ではめていたものを物々交換したりしたものが、業者の手を経て市場へ出て来たというコースを辿ったものであったのだが、この頃のものは真正真明の古物品であったわけである。

精工舎の復興と高島さんが活躍した時代
時計界では最古参で人さばきとその手際の良かった人

《昭和二十三年》 戦争のため服部精工株式会社(服部時計店)に改称していた服部時計店の太平町工場は、昭和二十年三月九日の空襲で惜しくも焼失したが、その復興は昭和二十一年に操業を開始している。そして三月には、目覚ましコロナを売出した。引続いて、八インチの輻振掛時計「スリゲル掛時計」、シャッターに片側ビー置時計を生産し、昭和二十年の年末には、月産二万五千個に達していた。この年に服部玄三社長が退き、服部正次現社長が就任、新しい展開に入ったのである。
精工舎は、占領軍に賠償施設の指定をうけていたが、昭和二十三年には全面的に解除されたので、爾来「ニューコロナ」、「小型目覚コメット」等の生産を開始した。昭和二十四年には、「六尺定規時計」、「十三インチトーマス」の生産をも開始するようになった。
この間、昭和二十三年九月、台風による浸水騒ぎもあったが、太平町とは別に腕時計の生産は昭和二十一年から諏訪工場で生産品を出すことにこぎつけて、女持と男持の両種が売出されることになった。だが数量的には、まだまだ需要のほんの一部にだけ間に合う程度のものであった。従ってこの頃の時計のヤミ価格は、舶来品では無制限であると共に国産時計一個当り千円の価格が常識的につけられていたようである。つまり一般的な日常物資と等しく、時計の場合もヤミ値段でなければ買えないものとお客筋は考えていたようである。そのお陰で、メーカー筋への支払はとても潤沢であり、助かったというのがメーカー側のいう本音であったようだ。今でもこの当時の情況など思い出すことがある。従って、ヤミ時代が最も盛んであった昭和二十四、五、六年頃が、ヤミ品の頂上ではなかったかと思う。だから、この頃の服部時計店の卸部は、小売業者の来店でその接待に寧日追われていたという状況であった。
当時の卸部担当者は、時計界では最古参でお馴染みの高島勇三郎氏であり、人さばきに馴れており、その手際の良かったこの高島さんを通じて、服部時計店の人気は高まる一方であった。ただし、服部時計店と大沢商会だけは、この当時でもヤミ値による販売は絶対に採らなかったので有名であった。この時代に業界で活躍していた国産腕時計は、セイコーとシチズンの二ブランドだけ。

「関東時計宝飾眼鏡商連盟(以降:関時連)」団体の設立とその経過
関誠平氏が主導した「中央時計宝飾品商業協同組合」が基に

《昭和二十三年》 「関東時計宝飾眼鏡商連盟(以降:関時連)」という団体は、関東地区内に所在し、東京を中心にしてこれに連なる隣接県を持って組織している時計業者団体。その傘下には東京の外に、神奈川県時連、千葉県時連、埼玉県時連、栃木県時連、
茨城県時連、群馬県時連、山梨県時連、それに長野県も業務上の連絡関係で傘下の一部に加えてある。東京組合は、昭和二十七年の山岡猪之助理事長時代に到るまでは、関時連の中核的存在として重き立場におかれていたのだが、山岡氏が主張する東京組合としては、関時連の操作上から昭和二十九年の春、湯ヶ原温泉の翆明館で開いた総会当日の議事録における感情上の対立をキッカケにして、以後別れ、東京組合は単独で全時連傘下に所属するということになった。その後は、この東京組合に所属している京橋方面の業者が設立し、関氏がタクトをとっている「中央時計宝飾品商業協同組合」がこの関時連として残り、東京時計組合としての名をなさしめている。
関時連が発祥した概要は、関時連という団体はもともと独立して発足したものでなく、時計業界の中の小売部門を統一するためには、全国的組織が必要であるという観点から戦時中の統制時代に対処した貴重な体験に鑑みて終戦の昭和二十三年、関誠平氏が東京組合の理事長に就任していた頃卒先して全時連なる全国的業者の結成を呼かけたことに始まっている。
全時連結成についての第一回の会合は、昭和二十三年秋、東海道線の愛知県蒲郡の御油田駅前の引馬旅館において、東西業者の初会合が行なわれた。この時の出席メンバーは△東京=関誠平、千葉豊、△大阪=江藤、須藤、△名古屋=恩田茂一の諸氏であり、この時の会合で全時連の結成を申し合せ、翌二十四年五月九日に東京・新富町所在の時計会館において全時連なる団体の発会式が挙行されている。それに基いて、全時連の中核的組織体ともなる東京及関東地区業者団体の統一を計り、協力を求めようと呼びかけたのであるが関誠平氏の努力にもかかわらず、業者側からは案外同調する気配が見られ
なかったのである。
この時代は、まだ小売業者自体の政冶的自覚心が乏しかったのだといえるかも知れない。そのため超えて昭和二十四年五月に結成した全時連設立後の役員陣営には、関時連から選び出すべき常任理事者の登録さえ行えなかった事実に徴してもこの関の状況判断がつくわけである。
それにまた関誠平氏が就任していた東京組合の理事長は、昭和二十五年の役員選挙の際に金山氏にバトンタッチを行っているというようなこの間の情況など織りこまれていただけに、東京組合と関時連との関係の繋がり作りにも一つの欠陥が生じていたともいえる。然し関誠平氏による関時連初代会長の努力によって、兎も角関時連なる団体を生ませることが出来た。そして昭和二十六月、関時連の総会が千葉県の船形に於て開催された結果、関誠平会長に代って金山会長の就任を見るに到ったが、この当時は、この間必要を痛感された物品税の改正運動の機会などを通じて漸次業者側の団体的感動を呼び起すことに努めたので、関時連はいよいよ伸びていくようになったのである。昭和四十一年三月現在の関時連傘下の会員は、三千六百余名で全時運傘下では強大勢力の一つにあげられている。
△関時連の役員事蹟
昭和二十三年、関誠平初代会長時代の役員は、副会長=千葉豊、中山文次郎、
戸村秋朔、監事=中川仁左衛門、浜中正、組合員=二千余名。
昭和二十六年、関誠平会長に代り金山重盛氏が会長に就任、副会長=千葉豊、梶野光
秋、河内録幣、監事=永井万吉、坂本幸吉の諸氏。
この時代に貴金属製品に対する店頭課税、時計類の物品税悪税撤廃の呼びをあげ陳情に努めた。

昭和二十三年 東京時計卸商業協同組合を設立
昭和三十六年、東京・湯島に「柬京時計卸会館」を建設

《昭和二十三年》 全国時計卸業界の中で東京の卸組合が中心的存在となるのは当然であるが、この東京時計卸商業協同組合は、昭和二十三年当時、協同組合法の機構改革が行なわれたのを機会に発展を策したもので、再建最初の理事長は藤井雅友氏、二代目理事長は村上一蔵氏、三代目、湯尾富雄氏、四代目は湯尾吉之助氏の順序を経て、現在の依田理事長が継承し、今日に到っている。
組合員の資格は、製造業者から直接取引している卸業者に限定するというところに基本点があり、資金面では出資金の外、積立金ともに組合事業に定められている。文京区湯島二丁目七番五号に建設された本建築四階建ての「柬京時計卸会館」は昭和三十六年、湯尾富雄理事長時代に完成したもので、会議の場などに広く利用され便益を供与している。
写真は、昭和三十六年、東京・湯島に建設した「柬京時計卸会館」。

ヤミ時計が出廻った昭和二十四年の頃
南京虫が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した

《昭和二十四年》 ところが、駐屯部隊の落ち着き具合が進んだものと見えて、それ以来引き続いて新品の舶来時計が市場に出品されるようになった。たしか昭和二十四年の頃が最初ではなかったかと思う。但し、これらの時計も最初は銀座辺りでズベ公辺りを相手に売買していた程度のもののようだったが、よく売れるようになって来てからは、品物の量が極端に増えて来た。だから一個や二個での取引では捌き切れなくなったのである。
この頃、PXの場に登場した外人の名はいろいろ雑多だったが、その中でもバンドと時計を大量に持込んで来た外国人は、ジェームス・ベーカーという名の人だと聞いていた。ハワイ生れの商館出の人で、日本に来てからは、オフィスを芝のマソーフクというビルにおいて常連を相手に取引をしていたのだという。
品物は米国製の時計が主だったが、ウォルサム、グルエン、べンラス、ブローバ、エルヂン、それにスイスもののロンジン、ナルダンも時には入っていた。この外にパーカー万年筆、キーストン製腕バンドなどが供給されるようになってからは、市場における取引と来たら正に目まぐるしいほどの光景を呈したものだ。就中、婦人用の俗称、南京虫(五型と四型)が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した感があった。
その代り、このヤミ時計のことで事件化した場合もないではない。ある時には、ヤミ時計を持って逃げる輩もある程であったが、それは商売上に伴う当然の結果として大した問題ではなかったようであった。
矢張り何れの場合でもそうだが、完全に無事故であるという状態のものはありえないようであった。兎に角、この頃のヤミ時計は男ものと、また女物の時計(南京虫)も何れともよく売れたものである。そのよく売れたという実例でこういうことがあった。
ある日、市場にやって来たヤミ時計持参の特定の人が会場に着くと、いきなりカバンを開いてアメリカ兵が持ってきた時計の取引が始まったものだ。それが十人も二十人もの人だかりとなって取あっているので、市場の方は商売にならないということで管理人が怒った。そこで市場では、雨後「一切個買い取引は禁止する」という規定を出したほどであった。このような光景からしても、このヤミ時計の売れた程度が想像出来ようというものだ。
また、これは過ぎた時代の事蹟ともいう範囲のことだが、この当時、ヤミ時計専門に扱っていた仲間取引業者が相当数あった。そこへやってきた連中は、荷物の来るのを待って一梱りごっそり持帰るという状態であった。それらがそのまま、大阪、名古屋、そして九州、札幌へと飛んで行ったのだから売れた筈である。
この当時の売れ方を考えてみると、戦争中に腕時計を失くしたり、また持っていなかった人達の腕にするための活動用に供したのだから売れたのも当然という感じである。

腕時計のバンド業界も活況を呈し出した
時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げた

《昭和二十四年》 社会状態が活発化して来たのにつれて業界の各関係筋でもだんだんと勢いを盛返していった。ヤミ物資の商品に混ざってきた舶来バンドの出現について、腕バンド業界では大いに注目し、且つ反省され始めた。この頃、腕バンド組合は、昭和二十二年の頃、涌井商会の社長涌井増太郎氏の発奮によって復活することになった。当時の時計バンド組合の書記長だった藤松氏がその先駆になり、活躍したという記録がある。
従って、これからの時計バンド業界は、時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げたものである。その結果、到るところで札束が乱れ飛んだというエピソードなども披露されたことがある。
時計バンド業界の最古参株の宮田伊太郎氏らは、この頃遊興にふけり過ぎた結果、遂に財を失くして終ったという悲劇的話題などを残している。そのような経過の中で奮起した時計バンド業者は、この頃から品質の改良に積極的に努め、堂々世界的水準の優良商品に比して独歩的地位を占め、且つ高めつつある美装組合の掌中に権利を収めるに到ったエバー式バンドのそれは、技術的にもその優秀性を実証されうるもので、且つ日本製品の権威を世界に広めるという点で誇るべき商品といえる。

終戦後における業界紙群の復活
更に知っておきたいことが残っていたので復刊を諦めた

《昭和二十四年》 時計バンド業界が活溌になったからというのではあるまいが、この頃業界紙の復活について私のところへ相談に来たものがあった。昭和十年に廃刊して転業していた早川平助君と蓄音機畑の堀恒夫君の二人である。勿論私に、復刊についての協力方を申入れて来たのであったが、その頃私は、まだまだ商売上のコツについて更に知っておきたいことが残っていたのである。例えば、ダイヤモンドについても、時計の価格の点についても、もう一歩精細をつくしておきたいと思ったからである。そうすることが業界新聞としての本旨をつくす場合に役立つ条件ともなるからだと考えたのである。そのような意味から、「諸君は先にやり給え」といって分れたのである。従ってこれから戦後の業界新聞群が徐々に復活の兆しに就いたというケースになる。

市場に出廻ったヤミ物資時代
面白いほどに儲かった時代でもあった

《昭和二十四年》 物の交換市場というものの利用度は、そこに出入りする業者の人々によって、他の店子(小売店)へ流れうるものでなければならない。商売上当然の理屈である。そのような環境から終戦後二、三年を過ぎた頃の市場における売買状況は変った。国内物では、華ちゅう界方面から流れ出て来たのであろう。ご紋章入りのデコレーション的な物などの珍品がぞくぞく出品されたのである。
この外には、エメラルドカットのダイヤモンド、または五キャラ、七キャラもあるダイヤモンドなどが出品されるというような状況となった。それらは全て生活資金のために現金に交換するためのものと読み取れた。
然しながら、この頃はまだアメリカ兵がそう沢山やってきた時代ではなかった。そうこうするうちに、昭和二十四年ごろからアメリカ兵が持ってきた物資の中に高級品が持ちこまれるようになって来た。即ち時計類である。アメリカ兵の駐屯しているPXからのものもあれば、ヤミ物資の中には、直接米国から輸送して来たものも出廻るという時代になっていたので、交換市場は勿論のこと市内の小売店辺りでも到って商況は活発になっていた時代である。
一方、時計の小売店界の売行き状況の中で、呉、横須賀等の軍需港地内の時計の売買商況と来たら、また活発すぎるほど繁栄を果していた。だがそれらに供給する品物は。凡そ、東京または大阪方面の業者から供給されていたものであろう。然し、この頃、東京方面では、アメリカ兵が好むような宝石入りの指輪やその他の製品が作れるところは少なかった。作業する飾り職人屋も、またこれを商う貴金属卸商というような業種のものも、戦後のことだけに、そうあくせく仕事をするものもいなければ、またやろうと意欲を深める人も見当らなかったものである。ところが私の方は、物品交換の市場を開いていたのだから品物の動きは活溌であった。これを聞いてか三輪屋関係のカザリ屋連中がやって来た。そして「貢金属品を作らせて呉れ」というのである。商売などやったことのない私ではあったが、この頃クシ、甲がい、かんざしなどの売物を買って、これを時代性に向くようなブローチ、ペンダントに作り替えたのが飛ぶように売れたのである。売れるだろうと予測して、その道中の希望に応じて作らせることにした。
作ったのは、カメオの原石を取入れたブローチ、それに銀台枠に真珠を取込んだ高彫り指輪等である。これがアメリカ兵向けに飛ぶように売れたのである。だから横須賀方面向けの卸商には、特によく売れた。当時扱っていたものは、それら指輪類は総て一個売りしないで一束毎に、二十本差こんだ一束売りである。“寝ていて儲かった時代”というのは、この頃の事をいうのかも知れない。このような情景であったから、仕入れる側の卸商もこの頃は、頗る熱心であった。商売が盛んになり、利益が思うように上ってくると、面白いものと見えて、私が寝ている朝の寝込みを襲って出来上りの製品を先取りに来たのである。その頃、飛び廻って儲けた某々商社主などは、現在では大きな卸商として堂々たる存在となっている。それらの商号と氏名はここでは略すが、兎に角儲かり過ぎて笑いが止まらなかった時代であった。品物の取引はするが、その代金の現金をいちいち数えて取扱うというのが寧ろ面倒くさいという考え方を持ったほどの時代であったのだから愉快な話である。



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