| 結局は純銀一貫匁づつを無償提供されて、これで泣き寝入り
《昭和二十三、四年頃》 金に続いて銀の取引についての一つのエピソードを記してみよう。市場管理をやっている中には、いろいろ取引上の売込話もあった。その中の竹内武一君の持込み話である。当時信州中野に中野無線という軍関係工場の処理品として、ササ銀二屯の売物があるという話が出たのであった。この話に一口乗ったのは、私と竹内君の外に香取、今田の両氏を加えた四人であった。そこで、竹内君を除いた三人が出資しあって荷物の受取りに出かけさせたことがある。昭和二十一年の二月頃のことだったから、中野行きのトラックの動きには、頗る難路の頃だったと思う。ところが出発後五日を過ぎてもトラックが帰って来ないので、情況偵察をして見たところ、銀価格が値上がりしたため契約価格では出さなくなったということなのである。 そのために遅れているのだという経過がハッキリした。まるでキツネにつままされたような話であったが、この当時は万事がそんな状態であったようである。結局は純銀一貫匁づっを無償提供されて、これで泣き寝入りしたというのが実情である。 銀の問題では終戦間際の取引物で、銀塊半トンを電話命令で某所の庭に埋めさせておいたことがある。このことはとんと忘れていたのが最近この原稿を書くことになったことから想い出して終戦当時のその頃の状況を振返って考えたことがある。これなどはとんでもないエピソードであり、終戦直行の頃の語り草の一つでもある。 |
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