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各時計メーカー共に自主減産時代に入り、自ら需給の調整に
昭和四十一年からの時計業界の動き方

《昭和四十一年》 不景気の中で幕を開けた昭和四十一年の迎春は、官民それぞれに景気の回復を望んでいた。昭和四十一年度の政府の予算は、四兆三千億円を突破するものであり、今期最大の予算額である。これには、“世の中の不景気風を吹き飛ばそう”という苦心の施策に他ならない。このため他の施策として、批判されながら発行した国債などの例が挙げられる。時計業界などでは、政府が打ち出す新しい政策に期待を寄せていたが、それよりも現実の問題として、時計の消費力不足に苦しんでいた。その結果、昭和四十一年に入ってからは、各メーカー共に自主減産方式に踏み切り、自ら需給の調整に積極的に取り組み始めている。

東京時計会館建設の状況と組合陣営
組合員らの出資と時計卸商らの借入金で建設費を充当した

《昭和四十一年》 東京時計会館建設に要した資金は、組合員各自から一口五百円の出資劵を各支部に割当てて発行した。これによる資金が約千二百三十二万円と大展示会を催した収益金約干百十三万円を充当したほか、時計卸商社など対外借入金として三千四百九十二万円、合討六千三十六万円を当てたのであるが、会館建設資金獲得を唄い文句にして行った数回の展示会のうち一回の売上げが一億八千万円にも達したという盛況を示したので大いに助かった筈。地上六階建(六階簡易建物)二百四十五坪に亘るこの時計会館は、一、二階と三陪の一部を服部時計店のセイコー製品部品センターに貸し、三階の一部は各各種メーカーの製品部常設展示場に、四階をホールに当てて、ここで諸般の催し事を行っている。昭和四十一年一月に行われた時計修理工の技能検定実技試験にも応用され、極めて便益を得ている。総工費五千七百九十二万円(諸設備、備品を含む)で、昭和三十九年八月一日完成した。
昭和四十一年五月、改選結果の新役員メンバーは次の通り。
▽理事長=河内録幣、▽副理事長=高木信治、小竹信太郎、千野晴、▽常務理事=真々田義貞、千野保久、田沢三郎、梅田静一、中川昌美、千葉豊、沢誉司、山口二郎、井上重男、沖野政栄、一の瀬二重、▽理事=森田竹太郎、安匹秀雄、佐川久一、一ノ順二重、河合義太郎、高橋質成、森徳太郎、大沢善次郎、古川敏、吉成良正、佐藤義三郎、古屋徳次、野口益広、小吹栄、菅俣栄司、小林誠一郎、駒崎正男、佐山祐司、西沢定雄、板橋武造、古川武一、井上重男、園部武夫、斎藤伊代蔵、倉林春男、漆原延治、赤羽俊三、佐藤貢、笠原福三、山嬉隆吉、中山実、谷沢寅松、板橋武造、森脇章、日比野清一。▽監事=早藤盛一、増田清、藤田年一の各氏。
▽顧問=関誠平、金山重盛、山岡猪之助、木村信男.牧瀬幸、福田篤泰、▽支部長=森田竹太郎(麹町)、戸田武雄(神田)、古川清太郎(日本橋)、平井幸夫(京橋)、一ノ瀬二重(芝)、河合義太郎(麻布)、松田秀夫(四谷)、三宅義雄(牛込)、梅田静一(淀橋)、青柳喜三(小石川)、上田幸雄(本郷)、漆原延冶(下谷)、中川昌美(上野)、桜井実(浅草)、 高橋賢成(本所)、酒井留吉(向島)、竹田富士夫(深川)、)森徳太朗(城東)、武井正通(品川)、大久保利春(荏原)、三村晴太(目黒)、野口一三(大森)、太田拾二(東調布)、山田正則(鎌田)、佐藤義三郎(世田谷)、)古屋徳次(玉川)、榎本光人(渋谷)、近藤久雄(中野)、小竹信太郎(杉並)、増田清(豊島)、野口益広(滝野川)、浜村安宏(王子)、小吹栄(赤羽)、菅俣栄司(荒川)、(板根)百瀬清(板橋)、塩野谷利喜次(足立)、長野伝次郎(練馬)、大和田豊之助(葛飾)、中山求(江戸川)、春山米吉(武蔵野)、小林五郎(立川)、中江督松(調布)、田中五郎(府中)、川島悌二(西多摩)、)武藤文三(青梅)、千葉豊(八王子)、久布白儀助(町田)。写真は、昭和三十九年八月一日完成した「東京時計会館」。

全時連の事業の画期的な「技能士検定試験」が開幕
受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている

《昭和四十一年》 全時連の事業の中で、特に目覚ましい効用を示したものの最高峰は、昭和四十一年一月に全国で行われた時計修理技術者に対する技能検定制度の施行であろう。
これは一月中に全国各県別に行なわれた。東京では、この年の一月十日から二十日まで、東京時計会館で行なわれたのであり、時計業界としては正に世紀の画期的事業である。
その結果は、二月二十二日全国一斉に発表されたが、受験者の合格率は大体良の部にあげられよといわれている。学科テストは三月十九日に行なわれ、その結果は五月十日に発表されることになっており、実技と学科の双方に合格したものは、時計技能士としての最初の有資格証を受けることになるのである。だが事前に職業訓練指導員講習(35時間訓練)に出席したものは、一月中の技能試験の結果だけで技能士証が交付されることになっている。だから時計業界界としては、正に革命的な事業ということになる。次に技能検定に関する対応上の動きの一部を紹介する。

時計美術宝飾新聞社の「明治、大正、昭和三世代史」発刊を祝して
日本時計協会 服部正次会長

《昭和四十一年》 この度、株式会社時計美術宝飾新聞社が時計業界多年の宿願であった時計産業史「明治・大正・昭和の三世代史」を発刊することになりましましたことは、全業界にとってこの上ない喜びであります。かかる一大快挙の実現を見た陰には、時計美術宝飾新聞社・藤井勇二社長の業界育成の為の、多年のご心労とご努力があったればこそであります。まずもって満厚の祝意を表するものであります。御紙も昨年の昭和四十年をもって創刊満四十周年を迎えられました。この長い年月には、幾多の変遷があり波涛を乗り越えて業界の為尽力してこられたことで、その間培われた一大勇猛心によって、今回の難事業実行の決心を固められたことと存じ、誠に敬服の至りに存じます。これによって全業界が益するところ、誠に計り知れないものがあると思われます。
業界の過去の歴史は御社にお任せするとして、次に現在世界屈指の存在にまで発展したわが時計工業の現況を掲げて祝辞に代えたいと思います。昭和四十一年二月。

昭和四十年当時の栄光時計株式会社
米国、欧州、東南アジアの関連施設の調査をいち早くした商社

本社=大阪市東区博労町五丁目三十六番地
電話:大阪(二五二)二五五一〜五番
取締役会長=山岡光盛
取締役社長=小谷稔(写真)
創業=昭和二十一年十二月
取扱品目=セイコー製品を主力とする国産時計及びロレックス等の輸入時計卸。
取引銀行 富士銀行、三和銀行、神戸銀行
支店・営業所所在地=仙台、秋田、名古屋、広島、北九州、福岡、熊本
関連会社=東京栄光時計、香港栄光洋行、EIKO THE AILAND CO‘LTD、栄光美術、オリエンド販売、日本美術時計販売、近代時計商事、東栄食器、栄光交易公司等。
略歴=小谷稔社長は、明治四十一年十月二十五日兵庫県に生れ、兵庫県立神戸商業に学ぶ。大正十二年、服部時計店大阪支店入社。昭和八年服部時計店の姉妹会社である東栄商会大連支店長を拝命、同十三年、東栄商会天津支店を創設、支店長として赴任。同十八年北支那天において服部時計店傍系の華北精工眄を設立、取締役社長として現地軍指導の下に医療機器の製造を始める。同二十一年、終戦引揚者として帰国、同年八月に服部時計店本社了解の下に元服部時計店重役であった山岡光盛氏の支援を受け、日本国内各種機器卸販売業である栄光産業を設立、取締役社長に就任。同二十三年東京、二十八年福岡に各支店を開設、二十九年に社名を栄光時計に変更した。
その後仙台、広島等に営業所を開設、現在国内支店・営業員総数は四百名を数える。なお昭和三十七年、東京支店を分離、原喜一郎氏を専務として東京栄光時計株式会社を独立させ、取締役社長に兼任している。
更に、オリエント時計専門卸商としてオリエント販売株式会社を、また宝石のコストを下げるために、宝石の原産地に出張買い付け、輸入事務・国内小売部門の機能を一社で行う栄光美術を設立、一方で香港、バンコクに現地法人を設立している。
昭和三十一年には、中国本土の市場調査の為、社長自ら北京・天津・上海を視察、帰国後中共政府の認可を受けて友好商社栄光交易公司を設立している。
昭和四十年、北京で開かれた日本工業展覧会に参加、商談に成功。同Ξ十八年スイスを始めとするヨーロッパの時計・宝飾業界を視察、三十九年アメリカの時計工業を視祭、四十年インド・セイロン等東南アジア各地を訪ねる等、海外市場の近代化を始め、時計業界発展の為に特に意を用い、現在まで大阪時計卸組合の理事長を二期にわたり勤めている。

昭和四十年当時の株式会社富尾時計店
シチズン時計全般各種時計卸

本社=大阪市南区安堂寺橋通り四の一
電話:大阪(二五一)四七三四番(代表)
東京店=東京都台東区上野六丁目二番十二号
電話(八三一)八九七二番(八三二)八五三〇番
広島店=広島市堺町一丁目五―九
電話:広島(三一)三五八〇番
取締役社長=冨尾清太郎
取り扱品種=シチズン時計全般各種時計卸、リズム、栄計、愛工、アルテミス、手塚各製品、△電池時計=シチズン、ジェコー、光星舎、フラックス△置時計=東京時計、リズム

昭和四十年当時の共和時計宝飾株式会社
仲問連メンバーに籍を置いて発展した商社

本社=東京都台東区上野五丁目二十三番五号
電話(八三四)四八八一(代表)
取締役社長=小黒勲
業種=舶来時計貴金属宝石類卸
業歴=終戦後の時計界で活躍した共和時計商会当時の功績がしのばれる。銀座六丁目から現営業所に移ったのは昭和三十年、仲問連メンバーに籍を置いて発展したが、更に内容の充実を図るために資本の増加が必要となり、昭和三十八年共和時計宝飾株式会社に改称、役図陣を改めた。
取締役社長に小黒勲、取締役に山岸七平、百瀬正治、監査役に鹿島忠四郎、なお日本時計輸入卸組合にも加盟している。

昭和四十年当時の豊陽商事株式会社
時計や宝飾品の輸入商

本社=東京都中央区銀座東八―四番地
全国燃料会館ビル
電話=(五四二)七六五一番
沖縄支店=那覇市松尾一八三 金夢ビル
電話:那覇市(八)七四七七番
代表取締役=岩井健二
設立年月日=昭和三十年八月
主たる取扱品=《輸入》時計、ダイヤモンド、色石、貴金属、眼鏡枠、一般雑貨、《輸出》時計、光学機器、電子及び電気製品全般、自動車及びオートバイ
社員=二十三名
総代理店商品=《東京本社》時計ブランド:キャミ―、チュガリス(スイス)、ウーレンクリスト(ドイツ)、べッカーダイヤモンド、電気計量器(アメリカ)、ロングライフ貴金属製品
《沖繩支店》時計ブランド:オーディマピゲ、エテルナ、サーティナ、ジャガー・ルクルト(スイス)、東京時計、オリンパス光学器類、ペリカン万年筆、喫煙具:ダンヒル、ロンソンライター。

昭和四十年当時の株式会社光星舎
コーセー、デジター、テンプ式トランジスター時計各種

本社:東京都千代田区丸の内三の二
新東京ビル八〇三区
電話:(二一二)七八三一(代表)
営業所:大阪、名古屋、福岡、札幌、広島、山口、高松
代表者:取締役社長=溝部利治
創業:昭和二十五年一月十六日
取扱品目:〈針のない時計〉=コーセー、デジター、テンプ式トランジスター時計各種の他親子時計
取引銀行:東京銀行丸の内支店、住友銀行任原支店、日木勧業銀行東京駅前支店

昭和四十年当時の株式会社栄商会
繁栄を生んだのは湯尾吉之助社長の天恵的な努力によるところ大

本社:東京都文京区湯島三丁目四十番一号
電話:(八三三)四九一一番(代表)
代表者:取締役社長湯尾吉之助
業種:シチズン、リズム時計卸
大阪支店:大阪市南区安堂寺橋通四の六〇
電話:(二五)五一〇〇番(代表)
博多支店:福岡県博多市
略歴:湯尾社長は、新潟県の出身で、時計業界に入ったのは、英工舎の創始者であった鶴巻時計店に入ってから鶴巻栄松社長の薫陶をうけること十年余にして実兄繁氏と共に時計卸業を開設、内地は勿論、遠く朝鮮、満州方面にまで販路を拡張した。このあと第二次大戦のために諸般杜絶、昭和二十二年新時代を目がけて株式会社栄商会が出現したのである。
努力は実るという諺のとおり、栄商会は急角度に上昇成績を収めた。
昭和二十七年に福岡市に支店を開設、同三十二年九月に大阪支店を開設した。全国的に販売成績を伸ばしつつあるのは湯尾吉之助社長の天恵的な努力心によるところである。



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