なし | 物品税の税率引き下げ運動が意気盛んな時
《昭和四十一年》 政治的運動には、地域団体との結びつきが重要な力となるわけだが、全時連の組織を地域別にみると、まず全国を北海道、東北六県、関東七県、東京、東海四県、北陸三県(新潟は単独加盟)、近畿六府県、中国四県(うち広島は復権保留中)、四国四県、九州五県(北九州は単独加盟)の各ブロックに分れ、ブロック会長が全時連の副会長に就任している。 ブロック会員は、▽北時連(北海道)=徳永茂雄(札幌)、▽東北六県連(東北)=三原庄太(宮城)、▽関時連(関東)=会沢義二(茨城)、▽東海ブロック(東海)=長谷川宗義(愛知)、▽東京時眼小売協組=河内録幤(東京)、▽北陸ブロック=蓮玲司(石川)、▽近畿連=薮内正信(大阪)、▽四国時連=川村増洽(高知)、▽九時連=牧野次一(熊本)の諸氏氏。
このブロック別編成の中で、特に強固な地域連合として固まっているのは、北時連、東北六県、関時連、近畿連、九州連、四国時連などがあげられる。 全時連傘下会員の総数は、一口に三万軒といわれているが、実数はそれよりいくぶん少ない。とくに地方都市の会員数の変動は日々に変っているといってもよいほどであり、地域事情によっては、町村ごとの小グループが一地域ぐるみで入会や退会する場合もあるとされるので、全国の時計小売業者の正確な実数は現在でも把握できないのが実情である。 しかし全時連本部は、毎年一回ずつ開催する全国大会の会場を、できるだけ地方都市で持ち回るという仕組みをとってきたため、オリンピック開催国の場合と同じように設営を担当する地域が大会を通じて全時連への理解を深めるという効果もあげてきた。 特筆されるのは北海道大会(昭和三十八年)、四国大会(昭和三十九年)、東京大会(昭和四十年)に示した参加者の動員数で、三つの大会はいずれも千名を越える来場者で会場を埋めた。千名以上の同業者が一堂に参集するという例は、これまで全く例のないことであっただけにこれらの大会を境として、全時連の存在価値が関係諸団体をはじめ、あらゆる関係業者の注目を集めたことは言うまでもない。このような未曽有の集会を経て地域ごとの会員数も定着、ゆるぎない“きずな”で同業者が結ばれることになったと言える。 なお各都道府県ごとの時計小売組合連合団体名、代表者名、所在地を列記すると次のとおりである。 《北海道》▽札幌=徳永茂雄会長、《東北六県》▽宮城=三原庄太会長、▽福島=樋口虎二郎会長、▽山形=蜂屋五郎兵衛会長、▽秋田=村越俊夫会長、▽岩手=小井田新一会長、▽青森=横島豊一理事長、《関東》▽長野=田中勘一会長、▽千葉=小原理一郎会長、▽茨城=会沢義二理事長、▽群馬=渡辺明康会長、▽山梨=天野寿太郎理事長、▽埼玉=海老原恒吉会長、▽神奈川=村田国雄会長、▽栃木=河合健冶会長、《東海》▽名古屋=長谷川宗義会長、▽岐阜=岩田時男会長、▽三重=三木隆男会長、▽静岡= 新貝保太郎会長、《関東》▽東京=河内録幣理事長、《北陸》▽富山=碓井弥平会長、▽石川=蓮玲司会長、▽福井=白崎圭太郎会長、《近畿》▽大阪=薮内正信理事長、▽兵庫=美田真治理事長、▽京都=岡本福重理事長、▽滋賀=今堀勘右衛門理事長、▽奈良=玉井武治郎理事長、▽和歌山=土橋美一理事長、▽《中国》▽広島=昭和四十年に広島県連の下村会長から全時連へ退会届が提出され、翌四十一年二月末、現在も復帰届は提出されていない。このため中国ブロックとしての代表者名も記録されていない。▽岡山=服部太郎会長、▽島根=原田雅生会長、▽鳥取=清水喜市会長、▽山口=藤井朝夫会長、《四国》▽神奈川=森田信之助会長、▽愛媛=新田礼一会長、▽高知=川村増治会長、▽徳島=佐藤徳夫会長、《九州》▽佐賀=伊藤二七会長、▽長崎=永橋末八郎会長、▽熊本=牧野次一会長、▽鹿児島県時連=池田恵蔵会長、▽宮崎=堀場清会長、▽大分=牧晋会長、《新潟》▽新潟=大矢庄一会長、《北九州》▽北九州=石津勇会長。
全国都道府県ごとの時計小売業者連合団体とその代表者名は以上の通りだが、全時連本部は、これらの県別団体を事業推進の最端母体として各県連会長を常任役員としているほか、政治、経済の中心地である東京地区など、限られた地区からからは、事業運営上の便宜のため常任級役員の複数選任を行なっている。 従って会長の佐川久一氏を頂上に各ブロック会長を副会長とし、全国都道府県連会長を幹部役員として諸事推進しているわけだが、実質的には東京など大都市の地域団体の幹部級が実質上の亊業運営にたずさわることも多い。しかし、あくまでも全時連の組織は都道府県単位の集合体であるとの見地から佐川会長は問題があるごとに東奔西走して県単位地区を歴訪、地方団体の声を直接全時連施政へ反映させるよう努力した結唄全時連の基礎をなす地区団体の、全時連本部に対する結束は一層固まっていた。 なお全時連本部は、事業を進める上での合理的処理のため事業委員会制を設置、物品税関係を関東の会沢氏、価格問題については、東京の河内氏、技能検定関係を東海の長谷川氏、全時連機構強化を近畿の薮内氏に、それぞれを委員長として常任役員以上の幹部をこの四部門にふりあて、業界の問題ごとに直接折衝や問題解決への任に当るシステムをとっており、漸次運営面でも進歩改善されつつあった。 だが、会費など賦課金を集める段になると各県ごとの地域的な諸条件も重なる場合もあるので必ずしも円滑に進むとは限っていないようであった。なお全時連団体は政冶的運動の場合に備えて、衆議員関係では田中伊三次、津雲国利の両議員を顧問にしていた。 因に業界人として顧問には次の諸氏が名を連ねている。 関誠氏(東京都中央区新富町一ノ六)、山岡猪之助氏(東京都中央区銀座八−二)、江藤順蔵氏(大阪市東区大川町一九)、今野徳一氏(横浜市中区伊勢佐木町一ノニ六)
次に物品税に関する陳情書を当局に提出した最初の頃の一項を次に示す。
請願書(物品税第一種に関するお願い) 一、課税範囲の整備 第一種甲類は一号貴石及び三号貴金属製品とする事 二、免税点の引き上げ 現行二千五百円を一万円に引き上げること 三、税率の引き下げ 現行二十%を三%に引き下げること
標記の件について左の通り御審議御決定を御願い申上げます。
戦後十五年を経てその経済的発展のため、生活水準の向上と、国民生活の安定は旧来のあらゆる生活様式から完全に脱皮し得る結果に至り、就中宝石、貴金属製品のたぐいは既にその用途からして奢侈的と言うより、むしろ財産の蓄積的要素を多分に含み、消費生活に充分浸透するまでに至りました。戦前より宝石、貴金属製品類は、ややもすればその装飾的、奢侈的意義のみ強調され、消費税の面においても特別扱いを受ける状態だったが、昭和十二年戦争の開始と共に政府は我々業者に対し手持商品にまで及ぶ強制買い上げという法律の下に、協力を求め、我々三万軒の業者をして精神的、肉体的な苦痛を背負わせ、生活を侵害するなど多大なる犠牲を払わしめたものであります。しかも戦争協力に尽くした我々業者の功績は認められることなく戦後も未だに過酷な冷遇に耐えているのであります。 ここに我々業者は、物品税第一種に関し、現在の経済安定の基盤の上に立ってその再考を促す次第であります。
先ず第一に第一種甲類の課税範囲を、一号貴石及び三号貴金属製品とのみ限定し、その免税店は、現行二千五百円より一万円に引き上げ、且つその税率を二十%より三%に引き下げをお願いする次第であります。 税率三%については、政府の社会保障及び減税政策に率先協力する我々業者として、是非ともこの際物品税の撤廃に踏み切っていただきたい熱望する折柄、いささかなりとも協力の意思表示として三%とお願いする者であります。 昭和三十五年八月、全日本時計貴金属眼鏡小売組合連合会。
以上の運動の成果で、貴金属製品については五千円、宝石または宝石を取り入れたものは一万円に、免税額を引き上げたのである。だがしかし、これだけでは業者は不満足であり、引き続いてこの陳情は続けられた。 その結果、四十一年一月十一日の税制調査会の決定というコースを辿ったのであるが、この年の運動は、前回の場合の運動方法とは異って、宝石業者と全貴連の業者たちが一括行動をとった所に新鮮味を帯びて、協力性が感じられたので好結果を生んだものと言われている。 第一回:東京大会 昭和三十四年(東京会館)、第二回:熱海大会 昭和三十五年(大月ホテル)、第三回:近畿大会 昭和三十六年(京都市)、第四回:東北大会昭和三十六年(国際ホテル)、第五回:名古屋大会昭和三十七年(仙台市)、第六回:物税大会 昭和三十七年(東京サンケイホール)、第七回:札幌大会 昭和三十七年(札幌市)、第八回:四国大会 昭和三十九年(高知市)、第九回:東京大会 昭和四十年(東京教育会館)、第十回:九州大会 昭和四十一年(熊本.市)。 写真は昭和三十八年、札幌に1,200名が参集して行われた全時連札幌大会。" |
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