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昭和初め頃に誕生した業界の各種団体とその頃の状況
大正十五年に大正天皇が崩御され、昭和元年が誕生したのである

《昭和初期》 新聞発刊を始めてから四十年も経ったこの間の出来事を思い出してみると、
いろいろのことが浮んでくる。四十年間といっても普通の人が歩んで来た四十年間というような単調なものではなく、新聞というものの活動が、仕事の性格上俗に、手八丁口八丁というような多面的にわたり、しかもタフな体を持たなければ生きていけない職業である。四十年間というものの過程は永い期間であり、その間いろいろの事を書き起していくのだから、その想いでは種種複雑、多岐にわたることになる。以下は私が創刊した大正十五年からの私の活動範囲を通じて誕生した団体の主なるもの、又は直接関係したものの範囲のものを拾いあげることにした。大正十五年十一月には、大正天皇が崩御されているので、その月には昭和元年が誕生したのである。
写真は、昭和五年に大阪に出向いての「東西研交会」当時のスナップ。

二世達で作った二世団体「東京研交会」設立の頃
昭和五年二月十一日、紀元節の日に帝国ホテルで発会式をあげた

《昭和初期》 大正十五年という年は景気が余り良くなかった。そこへ国王の大正天皇がご病気ということと、その十一月になって崩御が伝えられたことから一国の元主が亡くなられたという気分も手伝って景気のいいはずはない。一般的には、社会全体がぼやけていたような空気にも思えた。
従って、昭和二年を迎えるための本紙の新年号というものは、黒枠つきの「大正天皇御崩御」といった見出しを打出したものだったので、新聞と共に広告そのものの全体が派手には飾り得なかったように覚えている。
私はそのような経過の中で考えてみた。世の中というものはその一代限りのものではない。大正天皇が亡くなられたそのあとは、直ちに皇太子がお世継ぎされることになったように、各業者間の関係における場合でも、それに準じた用意さがなければならないものだと。
そこで銀座の平野時計店のご主人である平野峰三さんに意見を聞いてみたところが、「それはいい思いつきだ。早速、うちの息子(昌之)も慶応大学を出ただけのことで商売面にはまだうといから、その二世団体の仲間に入れてもらいたいということだったので、この言葉によって私は大いに勇気づけられた。
そこで「東京研交会」なる二世団体なるもののプラン作りが出来、二世の平野君が何くれとなく協力してくれた。
その頃は、大阪の時計材料界で主導的存在の地位にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用のため上京するのが例になっており、その都度平野時計店に足を止めていたので、もちろん東京研交会の設立経過についてもその富尾さんに話をしておいた。
かくして東京研交会は参加メンバーを整えて、昭和五年二月十一日紀元節の日に帝国ホテルにおいて発会式をあげた。その時のメンバーは平野昌之(時計小売)、吉田庄五郎(時計卸)、天野国三郎(宝飾卸)、野村康雄(時計小売)、小柳政重(眼鏡小売)、吉田幸男(眼鏡卸)、松本武司(材料卸)、橋倉利平(蓄音器卸)、小西孝信(眼鏡小売)、古川清太郎(時計小売)、大場幸三(時計小売)、秦伊兵衛(時計小売)、村松鉄三(貴金属卸)、石橋幸太郎(宝飾卸)、藤井勇二(新聞)。
因に、この中で脱退したもの、または物故したものもあるので次の三氏を加えて現在は十名になっている。発会以来、昭和四十一年で満四十周年になる。この間、会員同志は毎月十一日を例会日として定め、爾来一回も欠かさず和やかな交流を続けている。
なお東京の例に倣って大阪における二世団体「大阪研交会」の誕生は、富尾時計店社長の肝入りで私が飛び歩いた結果、翌年創立された。現在は十四名に及んでいるようである。
以後の加入者、秦縢次、山岡保之助、岡田政人の三氏である。
写真は、終戦後の昭和二十六年、京都の史跡めぐりの時の東西研交会の交流、前列右から、藤井、小柳、冨尾、秦、天野、大場、山岡、古川、吉田幸(故人)、江藤、柴田、朝倉、乾、今岡、野村、岡、窪田、松本の諸氏。

「東京徽章メタル商組合」の設立当時
徽章組合事務所を文京区の本社内に置き、指導に及んだ

《昭和初期》 時計店が副業的に販売品として取扱っていた徽章、メタル、バックル類は、古くから貴金属業者が七宝製品などを取扱う関係で営業品目の中に入れていたが、大正時代に入ってからは徽章、バッチ類を専門業とする傾向が増え、販売の伸びも増して徴章業界の存在も時計界の関連傘下に吸収される状勢を見せていた。そのような状況で徽章業界は、注文・発注の場を通じての競争が激しさを増してきた。
そこでこの徽章業界にも組合の設立の話が沸いてきた。この頃の徽章界は、飯田町三丁目にあった「帝岡徴章商会」の鈴木梅吉氏の門下のものがほとんどだったが、時勢が然らしめたというか、この鈴木氏の門を出た同業者間の勢力争いも一際旺盛を極めていた時代であった。
その昭和二年の頃私は、出井、小林氏らの徽章業者間の希望を入れて「東京徽章メダル商組合」を設立することに努めて成功した。そんな関係で爾来、徽章組合事務所を文京区湯島にある当新聞社の本社内におき、事務その他の面を指導していた。
初代組合長には、同業者を輩出している組合設立労功者の鈴木梅吉氏を堆し(長男の鈴木周三郎氏代理)で発足した。二代目には、小山久好氏、三代目坂入寛一氏、四代目:出井篤三氏の順に交替していっている。
昭和十年、政府発注の満州事変従軍徽章の製造作業を民間に請負わせることになった際、大阪造幣局に私が主導者となって出張入札を行なったものだ。その時の落札した単価は、一個につき二円という最低価格で、大阪の正美堂始め全国有数の大手業者を相手に堂堂落札にまで持っていったその時の努力は物事の如何を問わず、落札に立会った人々から激賞されたものだ。その時の第一回受注量の四十二万個は、造幣局東京出張所の検査の下に完納された。
この時の徽章業界の状況について特記しておきたいことは当時、満州事変が終ったあとの北支事変から姿を変えて支那事変にまで戦局は拡大進展していた時代である。従って昭和九年の工業組合令、物資統制令、これに次ぐ昭和十一年の七・七禁止令などの連続発令により、国内の産業は戡に緊縮されていた時だっただけに、政府の発注仕事というものは、資材供給等の関係事情も手伝って、受注の場における競争状態ときたらとてもではないが
徼しい光景が展開されたものである。
それだけに、この時の受注に関する諸設備上の完壁性を進める必要を考え、昭和九年商工省令による工業組合設立の手続きをとる方針を立てた。そのため家内工業組織の下で働いている既存の徽章、メダル業者群の説き伏せ役に私自身が飛廻ったものだ。かくして、「東京徽章工業組合」を設立するに至ったのである。
引き続き工業組合制度の助成を仰ぐ方法と手順を進め、東京都側の許可を得たので東京都板橋区成増町に二千余坪の敷地を求め、これにフレクションなどの工作設備機械七台を取入れた共同作業場の完成を見るに至った次第である。
この時の組合員の出資は、七千五百円、都の助成金十五万円を収受、機械設備フレクション七台とその他付属工具類を含めた許可により、榎本製作所に依頼して完成したのであるが、この初代理事長に青木了氏が就任したが、終戦後株式会社に組織を変えたのを機会に大半の株式を買い取って青木氏の個人的経営に変貌している東京徽章株式会社というのがその全貌である。

服部時計店(セイコー)対吉田時計店(東洋時計)が角逐していた頃
東洋時計の佐藤社長の苦心と努力は日本時計界の奮闘史の中に一頁を飾る

《昭和初期》 昭和始め当時の時計業界は、精工舎から腕時計が売出されたといっても量的にはまだまだ需要関係には何等の影響をももたらされなかった時代である。
それだけに、なお舶来品に頼らざるを得なかった時代でもあった。時計の小売業界は依然として舶来時計を消費者には奨めていたようである。それだけに大物時計としての良品は、舶来ブランドが第一にあげられ、ウエストミンスター、キンツレ、Jマーク等々、置時計では、これに続いて精工舎の石伜物と目覚時計がなんといっても幅をきかせていた。
その頃の商況を販売面から見た時、同業者間では心中穏やかではなかったようだが、置き時計については、「セイコー」対「東洋時計」という色彩が段々濃くなっていったようだ。
もっとも服部時計店対吉田時計店という勢力の中には、商品の種類を通じてこのころの対立状況が漸次追い込んでいたからでもあろう。
従って、当時の吉田時計店のサービスぶりは凄かった。毎年一月十五日には、東京都内の一流時計販売店を招いて、暮れを目指して催した歳末セールについての抽選会を行って、上野精養軒でパーティを開くのが例になっていた。この当時、時計卸問屋の招待会というのは、この吉田時計店以外には見当らなかっただけに、吉田時計店の小売業界における評判はたいしたものであった。
それがだんだん、服部時計店(セイコー)対東洋時計(吉田時計)といったような商品の対抗を生ませていったことになる。そしてまたこのことが吉田時計店をしてオリエント時計工場の発祥ということの気運にも継がれるものであったともいえる。
なおこの他、置き時計の種類では、服部時計の石伜物がこの頃徐々に販売上に勢力を増して来ており、その結果、服部時計店(セイコー)対吉田時計店(東洋時計)の競り合う中に喰入ることは、既存の販売力を持つものと持たないものの格差がハッキリ現われていたのであった。東洋時計の佐藤現社長の当時の苦心と努力は、日本時計界の奮闘史の中に一頁を飾る貴重な資料である。

株式会社東信商会(セイコー舎製品専門卸販売)
東京都時計卸商業協同組合の五代目理事長に就任した=依田忠雄社長

取締役社長=依田忠雄
本社=東京都豊島区池袋東一丁目三十八番地
電話(九八四)○五七一 代表

業種= セイコー舎製品専門卸販売
業歴=長野県小諸市出身の依田社長は、長野県小諸高等学校を卒業後、当時の下谷時計業界では有名で大御所といわれていた鶴巻時計店に入店した。ここの店主である鶴巻栄松氏は類なれな努力家であった。その恩師の教育により販売方面に努めて精励格勤しつつ、終戦の昭和二十年まで続き、その勤勉ぶりは最高を記録したほどの努力家であった為、認められて鶴巻社長から特別の寵愛をうけたことは自他共に認めている。
かくして十五年間を勤め上げた鶴巻時計店は、同店の工場である栄工舎時計製造所と共に終戦後は閉鎖する運命に遭遇したのである。この時を契機に依田社長の独立の決意が固まり、昭和二十一年四月池袋の現所に於て時計卸業を開設した。然しこの当時は、国産も舶来品も共に時計さえあれば売上げは面白いように伸展していった時代ではあったが、然し時計業が今日ほどの隆盛を見るとは誰しも予想することは出来なかった時代である。だが然し、この頃は何といっても精工舎製品の売行きに一つの望みがかけられていた。
従ってセイコー時計の取扱いについては同業者の誰もが望んでおり、しもその好機を得られなかった折柄、幸にして依田社長は戦前における小売業界から受けた人格的好評が結局買われることになり、服部時計店の業勢拡張当時の視線に登場したことから服部時計との取引を開始、今日の著大勢力を持つようになったのである。
東信商会としての販路は、主として東京都内、関東、東北、北陸地方を中心にしており、取引先は何れも堅実精選本位に行われているようである。かくて時計卸界に重きをおいていた依田社長は、「東京都時計卸商業協同組合」に所属し、昭和三十四年の総会で東京都時計卸商業協同組合の五代目理事長に就任した。以来、組合事業を中心にして、業者間の連絡と協調によく努め、小売業関係の諸般の交渉に当ってはたゆまない努力を払っており、常に卓越した円満策が発揮され好評を博している。従って組合においても信認が厚く、理事長に就任してから既に四選目を経過しても信任が厚く、引続きその重真を果たすことになっている。
一面、この依田社長の店員諸君に対する訓育が注目される。仕事に対しては情熱を傾けて打当り、手をつけた仕事はあくまで、どのような障害があろうとも、まとめあげて終うことだ。という自己性を強く発揮するところに人としての伸長性があると説いている。寛永年間時代から信州小諸の庄屋の旧家に生を受け、筋がねの通った家訓、そして信州人特有の勤勉、風雪に耐え貫くという気概はよく善良な店員の育成に役立っているようである。だから、このことは組合内でも共通して用いられ店員諸君に対するゼミナールなどの場に際しては、チームワークのとれた業績を、という点にしぼって平和を保ちながら発展隆昌に導くという貴重な氏の体験を施す場合があり、感激をものにしている。明治四十五年一月十一日生れ。業歴は服部時計店の特約系列卸店として特級の地位にあり、繁栄している。

昭和四十年当時の東邦時計株式会社 河合周三社長
時計関連団体の常任理事を務めている

本社=大阪市東区博労町三丁目十九番
電話=大阪(二五一)○四九四〜七番
取締役社長=河合周三
資本金=一千二百万円
株主=四十二名、年商=十億八千万円
設立=昭和二十五年十一月
取扱品種=セイコー、シチズン、掛置時計、リズム、東京時計、明冶時計、フラックス、ジェコー、光星舎、西日本時計、名巧−卸収売及び舶来時計直輸入並びに国産時計の卸販売。

業歴沿革=河合周三社長は、昭和十年大阪で二葉商会の名称で時計バンド、時計ケースの卸業を個人経営で開始、西日本の販売網を拡大して、朝鮮、満州等にまで伸長した。
昭和十六年大阪時計バンド商会を設立、時計バンド、時計ケース、時計付属品の製造販売を開始、百名の従業員を従えて大阪と東京に延長、支店出張所を設置し、生産高日本一を誇るに到った。
昭和二十一年、国産時計の卸売を開始、昭和二十五年、東邦時計株式会社に組織を変更して内容の充実を図り、販売網を全国的に拡大した。昭和二十八年、東京地方に出張所を開設、三十四年有限会社三洋時計商会を吸収して東京東邦時計株式会社に改組、同時に現在社屋の東邦ビル(地下一階地上五階)に移り、関東地区全域に及ぶ販売網を確立した。
同時に静岡市に出張所を開設、東海地区に販路の確立を求めた。
一方、輸入時計関連では、昭和二十九年の輸入時計の許可成るのに佯って、有名商社とエージェント契約を結び、三十一年、輸入時計部門を独立、株式会社河合商店を設立した。輸入高級時計と貴金属宝飾品の卸業務は日と共に進展し、三十六年東邦ビル完成に伴い、三階に東京営業所を開設、関東地域に及ぶ販売網を確立した。また、昭和三十六年十二月に到って時計バンド等の付属品部門を分離、独立、せしめ、創業当時の意義を持つ株式会社二葉商会の名称で、時計付属品と宝石、貴金属類の卸業として再発足、情熱を燃やして一路発展に努めている。
その結果、昭和四十年六月通産省産業構造審議会提唱によるボランタリーチエーンの結成に踏み切り、「クロバーズクラブ」を発足せしめ、初代会長に大阪の尚美堂社長の江藤順蔵氏が就任、以下時計小売界第一人者のほとんどを網羅、権威あるクラブ活動を開始している。河合周三社長の役職次の通り。
☆大阪時計卸協同組合理事、全国時計卸商組合理事、財団法人日本時計輸入協会常任理事兼大阪支部長、日本輸入時計卸商業協同組合理事、大阪税関密輸防犯協力委員、なお傍系会社の大要次の如し。

東京東邦時計株式会社 河合周三社長

取引先=東京都内、関東一円、神奈川、静岡の有力販売店及び百貨店   

本社=東京都台東区台東四丁目三十一の八
電話=(八三二)○四八九(代表)
取締役社長=河合周三
取締役店長=高橋陸司
静岡出張所=静岡市鷹匠町二丁目三九
電話=静岡(五四)○○三六〜七
資本金=四百万円、株主=二十四名
設立年月日=昭和三十四年三月
従業員=男子:四十一名、女子:十七名
取扱商品=セイコー、シチズン等国産時計と国産掛置き時計(セイコー、シチズン、リズム、東京時計、明治時計、フラックス、光星舎製品の国難販売
取引先=東京都内、関東一円、神奈川、静岡の有力販売店及び百貨店

株式会社河合時計店 河合周三社長

年商=二千四百万円の総合輸入商社

本社=大阪市南区須磨町三丁目五十一(島の内ビル内)
電話:大阪(二七一)五四五一番
役員=取締役社長:河合周三、外五名
東京店=東京都台東区台東四丁目三十一番八号
電話:東京(八三二)八三二七番
資木金=九百万円、株主=四十五名
設立年月日=昭和三十二年三月
年商=二千四百万円
取扱商品=(舶来腕時計)ゼ二ッ卜、ドクサ、サッカー、バテック、ロレックス、エニカ、シーマ、ジュベニヤ、(舶来掛、置、目覚時計)スイザ、ドークサ、アトランタ、ケルン、テレノーマ、エリオッ卜、ワルミング・シュナイダー、ウールラビニュー及貴金属・宝飾品の国内卸売販売
取引先=近畿一円、山陽、山陰、四国、九州地方及び関東地区(静岡県を含む)の全域の有名時計小売店(三百店)及有力百貨店

株式会社二葉商会 河合周三社長

各種貴金属並びに宝飾品全般、舶来時計バンドを扱う

本社=大阪市南区順慶町Ξ丁目五十一(島の内ビル内)
電話:大阪(二五一)七五七六(代表)
取締役社長=河合周三

取扱商品=有名時計バンド、各種貴金属並びに宝飾品全般、舶来時計バンド、グラナエップ、レインフイルス、クライスラー、レノックス。

東邦商事株式会社 河合周三社長

不動産賃貸業など多彩な業務で年商千五百万円を

木社=大阪市東区博労町三丁目十九
電話:大阪(二五一)〇四九四〜七番
代表取締役=河合周三
資本金=千二百万円
設立年月日=昭和三十六年三月
従業員=男子九名、女子五名計 十四名
年商=千五百万円
業務内容=舶来時計輸入並びに舶来腕時計、掛、置き時計、国内仲間卸販売及び不動産賃貸業。
日本総代理店=《スイス》ゼ二ッ卜社、ドクサ社、サッカー社、スイザー社(置き時計)、レーンフィル社(時計バンド)、ゴレーブッシェル社(金属バンド自動切断機)、《ドイツ》ケルンゾンネ社(四百日巻置き時計)、リチャードロー社(アトランタ掛時計)、グラナーエップ社(高級時計バンド)、《フランス》ウールラビニュー社(置き時計)、シュナイダー社(クリスタルガラス製品)、《イギリス》エリオット社(マントルクロック)、ワーミング社(掛・置き時計)。
取引先=全国の有力時計卸店

昭和四十一年 物品税改正の時には一率免税点一万五千円を勝ち取った
なし物品税の税率引き下げ運動が意気盛んな時

《昭和四十一年》 政治的運動には、地域団体との結びつきが重要な力となるわけだが、全時連の組織を地域別にみると、まず全国を北海道、東北六県、関東七県、東京、東海四県、北陸三県(新潟は単独加盟)、近畿六府県、中国四県(うち広島は復権保留中)、四国四県、九州五県(北九州は単独加盟)の各ブロックに分れ、ブロック会長が全時連の副会長に就任している。
ブロック会員は、▽北時連(北海道)=徳永茂雄(札幌)、▽東北六県連(東北)=三原庄太(宮城)、▽関時連(関東)=会沢義二(茨城)、▽東海ブロック(東海)=長谷川宗義(愛知)、▽東京時眼小売協組=河内録幤(東京)、▽北陸ブロック=蓮玲司(石川)、▽近畿連=薮内正信(大阪)、▽四国時連=川村増洽(高知)、▽九時連=牧野次一(熊本)の諸氏氏。

このブロック別編成の中で、特に強固な地域連合として固まっているのは、北時連、東北六県、関時連、近畿連、九州連、四国時連などがあげられる。
全時連傘下会員の総数は、一口に三万軒といわれているが、実数はそれよりいくぶん少ない。とくに地方都市の会員数の変動は日々に変っているといってもよいほどであり、地域事情によっては、町村ごとの小グループが一地域ぐるみで入会や退会する場合もあるとされるので、全国の時計小売業者の正確な実数は現在でも把握できないのが実情である。
しかし全時連本部は、毎年一回ずつ開催する全国大会の会場を、できるだけ地方都市で持ち回るという仕組みをとってきたため、オリンピック開催国の場合と同じように設営を担当する地域が大会を通じて全時連への理解を深めるという効果もあげてきた。
特筆されるのは北海道大会(昭和三十八年)、四国大会(昭和三十九年)、東京大会(昭和四十年)に示した参加者の動員数で、三つの大会はいずれも千名を越える来場者で会場を埋めた。千名以上の同業者が一堂に参集するという例は、これまで全く例のないことであっただけにこれらの大会を境として、全時連の存在価値が関係諸団体をはじめ、あらゆる関係業者の注目を集めたことは言うまでもない。このような未曽有の集会を経て地域ごとの会員数も定着、ゆるぎない“きずな”で同業者が結ばれることになったと言える。
なお各都道府県ごとの時計小売組合連合団体名、代表者名、所在地を列記すると次のとおりである。
《北海道》▽札幌=徳永茂雄会長、《東北六県》▽宮城=三原庄太会長、▽福島=樋口虎二郎会長、▽山形=蜂屋五郎兵衛会長、▽秋田=村越俊夫会長、▽岩手=小井田新一会長、▽青森=横島豊一理事長、《関東》▽長野=田中勘一会長、▽千葉=小原理一郎会長、▽茨城=会沢義二理事長、▽群馬=渡辺明康会長、▽山梨=天野寿太郎理事長、▽埼玉=海老原恒吉会長、▽神奈川=村田国雄会長、▽栃木=河合健冶会長、《東海》▽名古屋=長谷川宗義会長、▽岐阜=岩田時男会長、▽三重=三木隆男会長、▽静岡=
新貝保太郎会長、《関東》▽東京=河内録幣理事長、《北陸》▽富山=碓井弥平会長、▽石川=蓮玲司会長、▽福井=白崎圭太郎会長、《近畿》▽大阪=薮内正信理事長、▽兵庫=美田真治理事長、▽京都=岡本福重理事長、▽滋賀=今堀勘右衛門理事長、▽奈良=玉井武治郎理事長、▽和歌山=土橋美一理事長、▽《中国》▽広島=昭和四十年に広島県連の下村会長から全時連へ退会届が提出され、翌四十一年二月末、現在も復帰届は提出されていない。このため中国ブロックとしての代表者名も記録されていない。▽岡山=服部太郎会長、▽島根=原田雅生会長、▽鳥取=清水喜市会長、▽山口=藤井朝夫会長、《四国》▽神奈川=森田信之助会長、▽愛媛=新田礼一会長、▽高知=川村増治会長、▽徳島=佐藤徳夫会長、《九州》▽佐賀=伊藤二七会長、▽長崎=永橋末八郎会長、▽熊本=牧野次一会長、▽鹿児島県時連=池田恵蔵会長、▽宮崎=堀場清会長、▽大分=牧晋会長、《新潟》▽新潟=大矢庄一会長、《北九州》▽北九州=石津勇会長。

全国都道府県ごとの時計小売業者連合団体とその代表者名は以上の通りだが、全時連本部は、これらの県別団体を事業推進の最端母体として各県連会長を常任役員としているほか、政治、経済の中心地である東京地区など、限られた地区からからは、事業運営上の便宜のため常任級役員の複数選任を行なっている。
従って会長の佐川久一氏を頂上に各ブロック会長を副会長とし、全国都道府県連会長を幹部役員として諸事推進しているわけだが、実質的には東京など大都市の地域団体の幹部級が実質上の亊業運営にたずさわることも多い。しかし、あくまでも全時連の組織は都道府県単位の集合体であるとの見地から佐川会長は問題があるごとに東奔西走して県単位地区を歴訪、地方団体の声を直接全時連施政へ反映させるよう努力した結唄全時連の基礎をなす地区団体の、全時連本部に対する結束は一層固まっていた。
なお全時連本部は、事業を進める上での合理的処理のため事業委員会制を設置、物品税関係を関東の会沢氏、価格問題については、東京の河内氏、技能検定関係を東海の長谷川氏、全時連機構強化を近畿の薮内氏に、それぞれを委員長として常任役員以上の幹部をこの四部門にふりあて、業界の問題ごとに直接折衝や問題解決への任に当るシステムをとっており、漸次運営面でも進歩改善されつつあった。
だが、会費など賦課金を集める段になると各県ごとの地域的な諸条件も重なる場合もあるので必ずしも円滑に進むとは限っていないようであった。なお全時連団体は政冶的運動の場合に備えて、衆議員関係では田中伊三次、津雲国利の両議員を顧問にしていた。
因に業界人として顧問には次の諸氏が名を連ねている。
関誠氏(東京都中央区新富町一ノ六)、山岡猪之助氏(東京都中央区銀座八−二)、江藤順蔵氏(大阪市東区大川町一九)、今野徳一氏(横浜市中区伊勢佐木町一ノニ六)

次に物品税に関する陳情書を当局に提出した最初の頃の一項を次に示す。

請願書(物品税第一種に関するお願い)
一、課税範囲の整備
  第一種甲類は一号貴石及び三号貴金属製品とする事
二、免税点の引き上げ
  現行二千五百円を一万円に引き上げること
三、税率の引き下げ
  現行二十%を三%に引き下げること

標記の件について左の通り御審議御決定を御願い申上げます。

戦後十五年を経てその経済的発展のため、生活水準の向上と、国民生活の安定は旧来のあらゆる生活様式から完全に脱皮し得る結果に至り、就中宝石、貴金属製品のたぐいは既にその用途からして奢侈的と言うより、むしろ財産の蓄積的要素を多分に含み、消費生活に充分浸透するまでに至りました。戦前より宝石、貴金属製品類は、ややもすればその装飾的、奢侈的意義のみ強調され、消費税の面においても特別扱いを受ける状態だったが、昭和十二年戦争の開始と共に政府は我々業者に対し手持商品にまで及ぶ強制買い上げという法律の下に、協力を求め、我々三万軒の業者をして精神的、肉体的な苦痛を背負わせ、生活を侵害するなど多大なる犠牲を払わしめたものであります。しかも戦争協力に尽くした我々業者の功績は認められることなく戦後も未だに過酷な冷遇に耐えているのであります。
ここに我々業者は、物品税第一種に関し、現在の経済安定の基盤の上に立ってその再考を促す次第であります。

先ず第一に第一種甲類の課税範囲を、一号貴石及び三号貴金属製品とのみ限定し、その免税店は、現行二千五百円より一万円に引き上げ、且つその税率を二十%より三%に引き下げをお願いする次第であります。
税率三%については、政府の社会保障及び減税政策に率先協力する我々業者として、是非ともこの際物品税の撤廃に踏み切っていただきたい熱望する折柄、いささかなりとも協力の意思表示として三%とお願いする者であります。
昭和三十五年八月、全日本時計貴金属眼鏡小売組合連合会。

以上の運動の成果で、貴金属製品については五千円、宝石または宝石を取り入れたものは一万円に、免税額を引き上げたのである。だがしかし、これだけでは業者は不満足であり、引き続いてこの陳情は続けられた。
その結果、四十一年一月十一日の税制調査会の決定というコースを辿ったのであるが、この年の運動は、前回の場合の運動方法とは異って、宝石業者と全貴連の業者たちが一括行動をとった所に新鮮味を帯びて、協力性が感じられたので好結果を生んだものと言われている。
第一回:東京大会 昭和三十四年(東京会館)、第二回:熱海大会 昭和三十五年(大月ホテル)、第三回:近畿大会 昭和三十六年(京都市)、第四回:東北大会昭和三十六年(国際ホテル)、第五回:名古屋大会昭和三十七年(仙台市)、第六回:物税大会 昭和三十七年(東京サンケイホール)、第七回:札幌大会 昭和三十七年(札幌市)、第八回:四国大会 昭和三十九年(高知市)、第九回:東京大会 昭和四十年(東京教育会館)、第十回:九州大会 昭和四十一年(熊本.市)。
写真は昭和三十八年、札幌に1,200名が参集して行われた全時連札幌大会。"

明治十二年創業の時計宝石貴金属の製造、販売、輸出入商 株式会社堀田時計店
昭和三十年には優良問屋として中小企業庁長官表彰を受く

本社=東京都台東区上野五ー二十三―十二
電話:八三三―一二三四
名古屋店=名古屋市中区錦三丁目十九〜二十九
電話(〇五二)代表九七一-五五六六
大阪店 大阪市南区順慶町三 −五十一
電話(〇六)代表二五二-〇九九一

取締役会長=堀田六造、取締役社長=堀田両平、常務取締役=小田切長、二木武一、鈴木八郎、取締役=春日井孝一、新葉一郎、監査役=片岡健彦
創業=明治十二年、昭和二十三年二月十七日会社設立、資本金六千万円(授権二千四百万円)。

沿革=当社は明治十二年に現社長祖父堀田良助が名古屋に於て創業、昭和二十三年二月現社長が資本金十五万円の株式会社を設立し、数次の増資を経て三十八年十一月六千万円となり、又近く増資計画中である。昭和二十三年東京支店開設、二十五年貿易部新設、三十五年明豊時計を吸収合併して大阪店を開設、三十七年宝石貴金属部を新設し、翌三十八年傍系会社パプリカ足立を設立した。この間三十年には優良問屋として中小企業庁長官表彰を受く。現在、東京都時計卸、中部時計卸、仲問連、全国時計卸、日本時計輸入協会各理事。現社屋は東京店三十七年、名古屋店三十一年、大阪店三十九年に完成 (四十一年二月記)
傍系会社=パブリカ足立株式会社
本社=東京都足立区保木間町二三六五―二
電話(〇三)代表八八七―六五一一

明治二十三年、京都で柱時計製造業として創業した総合商社 株式会社大沢商会
オメガやブルーリバーダイヤなど常に一流ブランドの扱い業者

創業=明治三十三年、株式設立=大正八年四月十日、資本金=五億円、決算期=六月、十二月、の年二回、従業員数=八百六十二名。(昭和四十年六月現在)
役員:取締役会長及び社長=大沢善夫、専務取締役=木原道雄、大沢善朗、常務取締役=浜本正勝、高橋三郎、取締役=増田驚、斎藤義雄、鳥井康一、加藤二郎、大倉治一、白洲次郎、川喜多長政、監査役=田中尚義、倉石治七郎。
○支店及営業所=札幌支店、名古屋支店、大阪支店、福岡支店、仙台支店、京都支店、米国大沢商会。
【営業品目】各種時計、精密機械、光学機械及感光材料、自動車用品、スポーツ用品、産業機械、事務用機械、宝石及貴金属等の製造販売並びに輸出入
【会社のあゆみ】明治二十三年年、京都で柱時計製造業として創業。明治二十七年、京都三条に当社の店舗を設け、時計卸小売業を開始。同時に神戸に支店を設け絹製品、綿製品及び雑貨品の輸出を開始した。明治三十ニ年、濠洲にシドニー支店を開設すると共に、上海・香港・広東などに支店及び出張所を開設し、東南アジア、濠洲への輸出貿易を拡大する一方、スイスより懐中時計、イギリスより自転車工業用ベルト、アメリカより石油ランプ等、当時の我国にとって漸新的な欧米商品を輸入して、国内に卸販売をした。明治三十五年大阪支店。 明治四十一年、東京支店設置。
大正六年 京城支店設置。大正八年 従来の個人経営を変更して三〇〇万円の株式会社に改組。昭和二年 この時期に至ってからは、外国関係が悪化し、貿易が次第に困難をきわめ、海外の支店、出張所を漸次閉鎖し、貿易部門を縮小したが、新たにゼネラルーモークースの自動車を取扱うと同時に、映画機械製造会社であるベルー・アンド・ハウエル社の日本総代理店となって、映画機械の輸入、販売を開始した。
昭和七年、京都にJOスタジオ(昭和十二年PCLと合併、東宝株式会社となる)設立、映画への道を開く。
昭和12年第一次世界大戦に入り、海外の取引が暫時減少したので、輸入に代って国産品の取扱いに転向した。
昭和十八年 株式会社満州大沢商会を設立。昭和二十年 我国産業界が復興するにつれて、国産時計、国産カメラ及び感光材料、自動車用品等の国内卸販売を一層充実拡大した。
昭和二十四年、福岡支店を設立、八月に資本金六百万円に増資、更に十二月には一千万円に増資している。海外取引か再開されると同時に戦前の海外取引先との関係を復活し、従来の取引商品の外に、新たに映画並びにTV関係機械設備、その他、事務機械、精密機械、産業機械等の輸入を開始した。
昭和二十六年、資本金を二千万円に増資(十一月)、昭和二十九年、名古屋支店を設置。資本金を六千万円に増資(四月)、更にニューヨークに現地法人大沢商会を開設、アメリカ、中南米、カナダへ国産カメラ及び附属品の販売に従事した。
昭和三十年、資木金を八千万円に増資。昭和三十一年、資本金一億円に増資(二月)、更には十二月には、資本金を一億一千万円に増資している。
昭和三十二年、 札幌支店設置、虎の門に営業所を設置した。昭和三十三年、米国ベル・アンド・ハウェル社と資本並びに技術提携により日本映画機械株式会社を設立して、べル・ハウェルカメラの国産化を計り、これを世界に輸出することにより、当社も国際分業の重要な役割を果たした。
昭和三十四年、仙台営業所を開設。資本金を二億二千万円に増資(三月)。小倉
業所を設置。昭和三十六年二月、資本金を三億三千万円に増資。昭和三十七年、本社を京都から東京に移した。昭和三十九年一月、資本金を五億円に増資、株式第二市場に上場した。同時に本社ビルを東京・港区の虎ノ門に建設、五月に移転現在に至る。
【時計部歴】当社の時計類の扱いは、明治二十三年創立以来であり、当社掛時計の製造から始まり、その後輸入時計並びに国産時計を中心に全国に卸販売を拡大し、確固たる地位を形成している。
昭和三十七年フランス、クロック界の名門ジャズ社と東京時計との技術提携の仲介により、フランス生れのおしゃれな高級トランジスタクロックを開発、広く国内販売を行っており、更に昭和三十九年2月、オメガ時計の日本総販売元を取得し次で同四十年十一月にオメガ、チソット、バセロン時計直販の新会社「オメガ時計株式会社」をジーベル・ヘグナーとの共同事業として設立、会長に大沢善夫会長が就任している。
其の後、着々と成果を上げ、近年の新分野開発事業として世界のダイヤモンドの中心地であるベルギー・アントワープのダイヤモンド研磨工場と契約を提携し、ブルーリバーのブランドで斯界に卓越せる優秀なダイヤモンドを日本市場に紹介、今迄の宝石業界に新風を吹き込んだ。
今後の当社時計部の方針は、新たに貴金属品の取扱いと、当社独自の開発商品に力を入れることによって競争条件の排除につとめ、長期安定性ある発展に努める。

昭和四十年当時の上野広小路角の好立地店 村松時計店主の漆原延治氏
銀座村松時計店に入社、支配人を経て昭和十三年に円満退社

東京都台東区上野二丁目一番
電話(八三四)○三八一
代表者=漆原延治
資本金=一千万円
略歴=大正十二年、銀座村松時計店に入社、支配人を経て昭和十三年に円満退社、昭和十五年に現在地、上野広小路角に村松時計店を設立、その間、兵役招集、戦災等を受け小売専門に経営、地道に手堅く一歩一歩積み重ね式の経営で財を成している。



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