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昭和四十年には時計の輸出額は736万個に
なし輸出金額は2,437万ドルで過去10年間に9倍に

時計の輸出推移(単位:1,000ドル)
年     ウオッチ  クロック  合計  増加率
昭和31年 1,026   1,670   2,696    100% 
昭和32年  106   1,326   1,432   53% 
昭和33年  121   1,147   1,268    47% 
昭和34年  303   1,634   1,937   72%
昭和35年  768   2,483   3,251   121%
昭和36年 2,013   2,744   4,757   176%
昭和37年 3,606   3,352   6,958   258%
昭和38年 7,143   3,532  10,675   396%
昭和39年11,508   4,324  15,832   587%
昭和40年18,495   5,874  24,369   904%"

昭和四十年当時の全国東京時計製造の特約卸商社
北海道地区から九州地区まで幅広い販売網

▽北海道地区=大沢商会札幌支店、湯尾時計札幌支店、井村商会札幌支店、井村商会釧路営業所、
▽東北地区=大沢商会仙台営業所、栄光時計秋田営業所、正光堂仙台店、正光堂青森店、正光堂郡山出張所、加賀屋商会盛岡出張所、
▽関東地区=磯村時計商会東京支店、今岡時計店東京営業所、日花、堀田時計店、東慶商会、東慶商会横浜営業所、東慶商会大宮営業所、東慶商会千葉営業所、富尾時計店東京支店、東京東邦時計、東京栄光時計、東宝貿易、大沢商会、涌井商会、加賀屋商会、(資)金森商店、中上時計店東京店、中礼時計、ノボル商会、富士屋時計店東京店、小泉時計店、越光商店、(名)東時計商会、湯尾時計、正光堂東京店、
▽中部北陸地区=磯村時計商会、堀田時計店名古屋店、東海時計商事、大沢商会名古屋支店、栄光時計名古屋営業所、篠田時計店、篠田時計店名古屋支店、湯尾時計名古屋出張所、東京東邦時計静岡出張所、冨士屋時計店、冨士屋時計店沼津出張所、冨士屋時計店浜松出張所、加藤時計店、加藤時計店新潟出張所、加藤時計店長野出張所、加藤時計店駒ヶ根出張所、日本堂北陸営業所、
▽西部地区=磯村時計商会大阪店、今岡時計店、日木堂、日本堂姫路営業所、堀田時計店大阪店、東邦時計、富尾時計店、大沢商会大阪支店、大沢商会京都営業所、岡時計、中上時計店、中上時計店京都店営業所、中礼時計大阪支店、栄光時計、湯尾時計大阪支店、正美堂
▽広島地区=日新商会、日新商会徳山営業所、日新商会松江営業所、日新、富尾時計店広島店、中上時計店広島支店、湯尾時計広島出張所、栄光時計広島営業所
▽九州地区=大沢商会福岡支店、栄光時計福岡支店、栄光時計熊本営業所、新栄商会熊本支店、新栄商会大分営業所、新栄商会鹿児島営業所、新栄商会長崎営業所、
正美堂福岡営業所、中礼時計北九州支店、中札時計熊本営業所
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昭和四十年当時の東京都時計卸商業協同組合メンバー(カッコ内は代表者)
関東、関西、中部

関東の役員
▽理事長=依田忠雄(東信商会)、▽専務理事=金森桝三郎((資)金森商店)、▽常任理事=藤井雅友(加賀屋商会)、荒木虎次郎(金栄社)、湯尾慶太郎(東慶商会)、
水谷義夫(フクヤ商店)、片柳隆二郎(村上時計店)、涌井増太郎(ワク井商会)、理事=堀田両平(堀田時計店東京店)、森拾三(日花)、佐々木壽男(マルエス商会)、湯尾富雄(ユオ時計)、請晶一(ユーエス商会)、▽監事=山田徳蔵(山田時計店)、中上礼三(中礼時計東京店)の諸氏。

(名)東時計商会(中川一郎)、磯村時計商会東京店(磯村正明)、今岡時計店東京営業所(今岡昌行)、(有)岩永時計店(岩永一郎)、沖時計商会(沖田岩吉)、尾崎時計商会東京営業所(栗原辰次郎)、大沢商会本店(大沢善夫)、加賀屋商会(藤井雅友)、勝巳屋商店(大能雅也)、(資)金森商店(金森桝三郎)、唐木田商店(唐木田高義)、金栄社(荒木虎次郎)、久津間商店(久津間幸雄)、小泉時計店(小泉勝)、弘全商会(熊木作憲)、佐藤時計商会(佐藤健三)、栄商会(湯尾吉之助)、沢木時計店(沢木誠一郎)、十二屋(大野緑四郎)、正光堂東京店(菊地英助)、シンワ時計(前田喜三郎)、大丸時計店(大矢恒治)、大和時計商会(藤本貞三郎)、東京栄光時計(小谷稔)、東京三光舍(松下保次)、東京東邦時計(河合周三)、東慶商会(湯尾慶太郎)、東信商会(依田忠雄)、東宝貿易(佐藤守彦)、富尾時計店東京店(富尾清太郎)、東和時計(大木厳)、中上時計店東京店(中山俊治)、中礼時計東京店(中上礼三)、夏目商店(夏目貞男)、西浦時計東京店(高橋健六)、日花(森拾三)、ノボル商会(湯尾昇)、フクヤ商店(水谷義夫)、富士屋時計店東京店(下島昭治)、堀田時計店東京店(堀田両平)、牧野商会(牧野栄吉)、マルエス商会(佐々木壽男)、三鈴商会(鈴木鮭一)、村上時計店(片柳隆二郎)、山五時計店(五味邦友)、山田時計店(山田徳蔵)、ユオ時計(湯尾富雄)、ユーエス商会(請晶一)、吉田時計店(高木勲)、リズム時計工業(谷碧)、ワク井商会(涌井増太郎)。

中部時計卸商業協同組合 

▽理事長=今津金之助(名)今津時計店)、▽理事=篠田利雄(篠田時計店)、堀田両平(堀田時計店、矢島悦五郎(矢島時計店)、野々部信次郎((有)野々部信商店)、▽監事=磯村甲(磯村時計店)。

浅井時計店(浅井善男)、磯村時計商会(磯村甲)、(名)今津商店(今津鉄夫)、(名)今津時計店(今津金之助)、大沢商会名古屋支店(岩田正造)、篠田時計店(篠田利雄)、
東海時計商事(石黒勇)、矢島時計店(矢島悦五郎)、松岡商店(松岡俊司)、福岡時計店(福岡呂久男)、北野時計店(北野賀壽生)、鈴木新栄堂(鈴木長蔵)、(資)野々部信商店(野々部信次郎)、藤森時計店(藤森徳郎)、堀田時計店(堀田両平)、吉田時計店名古屋出張所(成瀬勝)、田中時計店(田中ヒサエ)、服部時計店(中村智)、栄光時計名古屋営業所(篠崎鵬次郎)、ユオ時計名古屋出張所(若松延幸)、栄商会名古屋店(青塚栄治)、明和時計商事(川本次郎)、尾崎時計商会名古屋店。

昭和四十年当時の日本輸入時計卸商業協同組合
理事長は小野正男(小野金商店)

一新時計(西村隆之)、(抜)(有)伊膿時計店(伊藤金次郎)、原徳商店(原実樹)、
服部時計店(中村智)、東海時計商事(石黒勇)、(採)東神時計(田中恵三)、千代田時計(高橋良充)、小野金商店(小野正男)、大阪時計(久保田義則)、川村時計店(川村卓三)、河合時計店(河合周三)、大洋商会(山崎三男雄)、第一時計(福島利春)、大都商会(内田昇三)、中野商会(中野清八)、中村商会(中村康男)、柳屋時計店(山本連)、(有)越光商店(越光滋)、国際時計(下村キク)、東商事(小池周一郎)、協和時計宝飾(小黒勲)、銀座三和商会(林栄)、久松商会(久松藤吉)、日笠商店(日笠上)、日笠商店京橋店(日笠光輝)、大信商事(斎藤益男)。

明治二十年「東京眼鏡商組合」が組合員六十五名をもって発足
眼鏡の由来と眼鏡界

《明治二十年》 眼鏡とは、「眼前に使用し、頭の両側、鼻梁に固定して物を見る光学器具である」と定義づけられているほどだから眼鏡というものの歴史は相当古い時代から伝わってきているようである。ここにいう眼鏡業界とは、組合を作った頃をその始めとして振返ってみることにする。
東京眼鏡商組合は明治二十年一月十日、加藤菊太郎、杉若重右ェ門両氏が発起人となり、組長に田中栄太郎、副組合長に佐々木房太郎両氏を選任して、組合員六十五名をもって発足している。
明治四十年、小林清五郎氏が組長に就任したときから「重要物産同業組合法」への昇格運動を起し、同年十一月「東京眼鏡製造販売同業組合」を設立している。
大正十年、岩崎広松氏が組長となり、同十五年に鈴木定吉氏が組長になってから、この当時の組合員の発言はすこぶる活溌になってきており、常に賑やかな総会風景など呈したものである。

大震災を契機にした眼鏡界の賑やかさ
公認された組合としては、眼鏡組合の方がはるかに先輩

《大正十二年》 この間、大正十二年九月一日の関東大震災では業者の全部が被災し、死亡した組合員二十九名を出したという状態で、組合は被災救済金を借り込むという状態で振わなかった。
しかし、震災後の復興力が緒につくと次第に芽生えの時期が到来した。大正十二年の頃の眼鏡界は、組合の名称が示すように、製造・販売業者を一括して組織化されていた。従って眼鏡販売店がお客の立場になるという関係で、常に主位にあるように動いていた。
組合行政では神田の五味行長、小柳重憲、民野勇、鈴木金蔵、谷勇、村川嘉兵衛、亀山末義、加藤亀太郎ら小売業者の面々に、時計界から向島の水口茂美氏などが加わって賑やかな総会風景を展開したものだ。
メーカー畑では、小沢元重、佐野義雄、奥田平兵衛、卸界から井戸武義、吉田幸三郎、田中喜八の諸氏が役員陣営に参画していた。
当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙駁といえるものであり、一言一句が議事法に則るものでなければ許されなかったというほどだ。俗称神田組と称された五味、谷、鈴木の三氏は、必ず発言なしでは済まなかったものである。
平野組長によって時計関係では、同業組合への昇格は見たものの、公認された組合としては、この眼鏡組合の方がはるかに先輩というだけに、論議の場ともなれば、まことに物すさまじいばかりの光景など見られたものだ。
とにかく、神田組に神楽坂の民野勇氏(俗称コブ)を加えたら、次々に質疑が発せられ、議長はヘコたれるということであった。
従って、次代の組長たるものは、この猛者連を程よく制御出来うるものでなければ到底務まらないという定評さえつけられていたのである。

伊勢定眼鏡店の鈴木定吉氏は朗らかな性質の人であった
業種三部制(製造・卸・小売り)が実施されることになった

《大正十五年》 この頃、このような賑やかな眼鏡組合の状態ではあったが、また時としてこの光景をほくそえんでいる人もいたのである。
当時蔵前の交叉点角から二軒目に、「伊勢定眼鏡店」と称する眼鏡卸商があった。秘書役に辻さん、商売の方は古参店員に加藤六次郎氏がいて、堅城な布陣を布いていた。
伊勢定のおやじ曰く「俺が死んだらお通夜には三味を入れて賑やかに接待しろよ」と妻君に常に言いきかせていた位であっただけに、気性はまたとない強さを持っていたが、朗らかな性質の人であった。
私達が、「天下の形勢は如何ですか?」と立寄ると、トタンに眼鍠の光が横に光ってコップに一杯の酒がなみなみと出されたもんだ。カラシの入った柿のタネをつまみながら酒をあおるときの快味と来たら、またとなかったと、今でも当時のことが想い浮かんでなつかしさを思い出すことがある。伊勢定のおやじは、良きおやじであったことをこの機会に記しておきたい。
この伊勢定の主人公である鈴木定吉氏が、とうとう組長候補に出陣の用意が出来た。そうなると用意は周到だ。先ず諸方に手を差しのべて事前の了解工作が行なわれた。市会議員の選挙戦にも負けないような真剣な手配体制である。前述したように、神田組の五味行長氏等の猛者連を制御する術もすでに整えられた結果で、大正十五年一月の総会席上で組長当選の栄冠を担った。
この選挙の当日には、時計業界から、山岡、千野、千葉、水口、槙野の諸氏が、眼鏡組合員の資格で観戦していたので、賑やかさと来たら文字通り凄かった。
かくして鈴木組長は、昭和五年まで組長を歴任したが、当時小沢副組長の資格問題が取りあげられたことから、遂に辻書記長とともに辞任した。この間、常に私達を通じて業界の諸情勢に関する情報の蒐集には熱心に気を配られたものである。水も洩らさぬというための体制であったのであろう。
そのあとの組長は、昭和五年に秋元清次郎氏、同七年に田中喜八氏、同八年に加藤亀太郎氏、同十三年に安西俊冶氏、十四年に亀山末義氏らの順に組長に就任しているが、この頃は既に、戦時体制時代に移っていたので、組合会議も自然におだやかになるように変っていた。かくて組合事業の諸般がスムースに運ばれれば、同業組合永年の希望案件に上っていた業種三部制(製造・卸・小売り)が実施されることになったのである。

OM眼鏡と小沢SSの立正会
眼鏡界ではこの小沢さんを何よりの頼りにしていた

《昭和十六年》 鈴木組長の下にメーカー畑から出て副組長に任じていた小沢元重氏は、今も元気に組合事業の諸般に活躍を続けているが、この小沢氏を市川の自宅によく訪ねたものである。私の外に、竹雅、黒川、鳥越(故人)も時には加わっていた。
OM金張眼鏡伜を製造して有名なだけに、その信拠するところも常人と異っているところがあった。
小沢元重氏自宅の庭に立正会の祈祷所があり、日を決めて説法を行なっていた。小沢さんは信念の人である、と私たちは信じさせるように飲みながらよく語ってくれたものだ。
市川国府大台近くに、または真間の大松に、時としては江戸川を舟で逆上して川のぼりの茶亭に竹雅、黒川氏ら四人がたむろすることも時々あった。丁度、浦竹さんが私達を愛好してくれたように、眼鏡界ではこの小沢さんを何よりの頼りにしていたものだ。
だから市川行は、スポンサーの目的にしたときばかりではなかった。電話で打合せて午後四時という時間どきが多かった。信念に生きる小沢さんは、今でもOM眼鏡の主として活躍、業界の諸般に貢献されている勇姿を見るとき、当時を想いうかべて心中敬意を表すことがある。昭和17年当時の皇軍慰問団一行。

眼鏡界からの二人の洋行者
吉田眼鏡店の故吉田幸男氏と京橋の金鳳堂の小柳政重現社長

《昭和十六年》 眼鏡業界の歴史をひも解くと、レンズについては十三世紀頃のイタリアのヴェネチヤで創製されたということが記されてあり、日本には眼鏡が渡来したのは、後の奈良天皇の亨保二年に宣教師が大内義隆に望眼鏡とともに献じたという外、天文十二年にフランシスコザビエルが持って来たという記録がある。
また日本に眼鏡として始めて輸入されたのは、寛政五年に浜田弥兵衛という人が南蛮に渡って眼鏡の製造を習得し、長崎にいた生島藤吉という人に伝授したのが始まりだという記録もある。
そんな古歴に関することではあるまいが、欧米流の眼鏡検眼技術を習得する必要から、眼鏡界の青年の二人が大正の末期に洋行している。その人は、時計界の各所で眼鏡学の講師の経歴をもった吉田眼鏡店の主人公、故吉田幸男氏と、京橋の金鳳堂の現社長の小柳政重氏の二人である。
最近のように、誰でも行こうと思えば行ける時代になってからは、小売や卸に、メーカー連など相次いで、東南アジアから欧米各国にそれぞれ視察行をするようになったが、トップを切って外国に見参した眼鏡界でのこの面の先駆者は、前記の二人にのみ存するようだ。

井戸理事長時代の組合現勢
昭和十六年当時の眼鏡界の現況

《昭和十六年》 従って眼鏡界の現況は、眼鏡小売業組合、卸商組合、レンズ、枠等の各種団体がそれぞれ別動体をとることになったのである。しかし何れの時代も眼鏡に関する部門は、卸組合がその業界中の中心であることは否めない。
昭和十四年当時の部制実施について改められた卸組合は、四転して「東京眼鏡光学器卸商業組合」と決まった。
この頃、戦争はますますたけなわとなっており、組合関係では安西俊治氏が団長となり、北支那方面の皇軍慰問団を編成、一ヶ月余にわたって実働した時代であった。且つ、また統制令に関係した面では、公定価格の作成という仕事も生まれた程であったから、戦局はいよいよ思わせるものがあったのである。
かくて昭和十六年の十二月八日に到り、日本は開戦の機をとらえ、遂に大東亜戦へと突入することになったのである。従ってこれからは勤労幸仕に、軍需工業にと協力体形をとる以外に処置はなかったのである。
かくして昭和二十年八月十五日、悲しむべき敗戦の日を迎えたのである。万止むを得ない。だが一面平和が訪れたのである。かくして組合は戦災から復帰した同業者群を集めて、業界の再建に努めた小島秀海氏のあとをうけて、昭和二十四年八月、井戸武義氏が理事長の役を負い奮い立ったのである。その井戸氏は、理事長に選ばれること九回に及び、なお存続している。
同組合の役員陣営は次の通り。
▽理事長=井戸武義、▽常務理事=加藤六次郎、二橋健次郎、富田宗次、▽理事=花由松、須藤正四郎、北岡茂美、春木義男、▽監事=益山武雄、新井林造。



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