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28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催
輸入時計の団体発足

《昭和二十二年》 昭和二十七年六月七日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌二十八年六月六日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

三団体が統合し「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立
戦時中の組合法の改正が行われ「小売組合」の概史

《昭和二十二年》 東京時計組合は、戦時中の統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の三団体(東京時計商工業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)が統合し、「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立した。同組合の会員数は千四百四名、総出資口数は千六百八十五口となっている。理事長=野村菊次郎、理事=山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、監事=中山文次郎、関口鹿十郎、内田亀楽の各氏。
昭和二十二年協同組合法に基づき「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。その時の組合員は、千百二十名、関誠平氏を理事長に、常任理事(千葉豊、金山重盛、中山文次郎)の他、理事十一名、監事三名。昭和二十四年五月に東京中央区新富町に時計会館を建設、組合事務所とした。
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大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている 
昭和初期の貴金属界

《大正三年》 大正三年九月、「東京貴金属品製造工業組合」が設立されている。このころ貴金属に対する関心と、特にダイヤモンドや金に対する関心は高かったようだ。そこで金の品位についての問題が発生した。
そこで登場したのが、製品に刻印するマークである。服部時計店のツバメマーク、溝口万吉商店の三つ柏、三輪屋、タツミ商店等、続々と刻印マークが台頭してきた。
この頃から宝飾品の卸業者が小売店を回るようになってきて、小売店の仕入れに供する展示会が流行り始めた。
当時の大手宝石商の三輪屋さんが初めてデザインコンテストをするなど、新しいスタイルの展示会が流行り始めた。この頃ダイヤモンド製品には10割の課税がかけられた。この頃から組合組織が充実して、ダイヤモンド課税に対する撤廃運動の声が上がり始めた。
昭和11年頃、貴金属地金の白金の相場価格が安かった。当時は地金協会のメンバー(徳力、田中、石福)は、白金の将来性について「こんな安い価格で止まっているわけはない」と公言していた。白金の用途は、工業用で、特に軍事用での扱いが多かった。
大正12年、当時の浜口内閣当時、ダイヤモンドに10割課税が決められた。

今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった人
関西での顔なじみ

《大正15年》 今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった勇敢な人として知られていた。主としてセイコーの時計を販売していた今岡さんは、上京するたびに服部時計店の服部正次翁と会談し、商魂たくましく取引面でも直接交渉したという。それだけに服部正次翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度に服部正次翁の墓参りに精を出したそうだ。時計の他に、古い銀貨を扱い事件に巻き込まれたこともあるが、戦争がさせた物資不足に絡む事件だった。
あるとき今岡社長が時計業界の大手セイコーの時計部品メーカー蒲ム精機製作所の林市太郎社長と一緒に日宗右衛町の料亭に招待してくれた時のことである。しこたま料亭で御酒を飲み、大阪・南場のキャバレーに芸奴十余人を伴って遊んだ時、裏面に粋な図柄のある芸奴の羽織をもって踊った今岡社長が大喝采を受けたことを今でも忘れられない光景だった。
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2世たちで作った東京と大阪の研交会
《大正15年》 大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正十六年二月十一日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立されている。
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明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらい
時計付属業界

《大正年代》 日本の時計付属業界は、明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらいで、堤時計の外側サック類に止まっていた。それが大正年代に入ってから腕時計が市販されるようになり、ニッケルやクローム側の腕リボンが出現、それ以来革バンドの時計ベルトが登場、皮革製品改良に拍車がかけられた。
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野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足
大正八年十一月五日、東京の唯一の時計卸団体である「五日会」

《大正八年》 東京の唯一の時計卸団体である「五日会」は、大正八年十一月五日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足した。発足の目的は、販売価格協定を主眼に、大阪や名古屋などが連携して、春秋二回の売り立て会が行われたという記録がある。
そのころ資金力があったのが須田町の金森時計店。西の横綱は大阪の沢本平四郎氏であった。同氏は岡伝商店に在籍し、独立してダイヤと時計の卸業を営んでいた。
貴金属業界での資金力は、上野の金田屋・金田徳治、池之端の三輪屋・三輪三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓商店・水渓直吉、大阪の角谷栄蔵などが名を連ねていた。
当時の時計卸業の勢力図は、御徒町の吉田時計店、加賀屋商店、大正5年に上京して開店した鶴巻時計店の三店が激しく争っていた。この他に、服部時計店、矢島時計店、天賞堂、山崎商店、天野時計宝飾店、エルシュミット工場、小林時計店などがあった。
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天智天皇の御代、六月十日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」
「六月十日」時の記念日と宣伝活動

《大正九年》 天智天皇の御代、六月十日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」と制定した。以来日本では時の記念日活動を起こしたのは大正九年、当時の伊藤博文公が、西欧文化の進展に伴って日本国民の生活改善を計り進めることが始まりであったという。
大正十三年五月、神田・一橋会館で社団法人中央生活改善同盟会が主催する「時の記念日事業活動に関する打ち合わせ会」が開かれた。会議には、社会的にも著名な吉屋のぶ子氏はじめ十二,十三名が集まり、協議の結果、六月十日の時の記念日に街頭宣伝事業を敢行することを決め、ビラ三十万枚を東京全市に配布することに決めた。
当時は、日本橋、京橋、神田地区の業者で「東京時計商工組合(日京組合)」と「山の手八組合連合会」の二つの団体が存在した。当時、組合の代表として大勝堂の槙野さん、伊勢伊の秦さん、錦綾堂の大西さん、紺野時計店・紺野さん、富士屋時計店・近藤さん、京橋の森川時計店、八丁堀の川名さん、銀座の石井さんらが結束して、ビラ巻きに努め、大成功をおさめた記録がある。
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大正五年、東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始
大正九年、吉田時計店が東洋時計製作所を興し置時計の製造を開始

《大正五年》 大正五年東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始、大正七年隆工社がマルテー置時計を発売、同年尚工社が時計研究所を設立、大正九年吉田時計店が東洋時計製作所を興し置き時計の製作を開始している。
更に、十年雄工社が、同年八月東京時計製造鰍ェ五十万円を投じて目黒に工場を建設、十四年には鶴巻時計店経営の英工社、十五年には村松時計店が池袋に工場を建てた。

関東大震災の時計業界

大正十二年九月一日午前十一時五十八分、突如襲った関東地方の大地震。関東地区のほとんどの地域が壊滅状態。だがその復興は以外にも早かった。震災の被害で立ち往生をしていた市中の焼け跡は三日も過ぎた頃から立ち退き先の立て札が立ち始め、焼け跡へ復帰するバラック建ての工事が始まった。十一月には、銀座の服部時計店と上野・池の端の吉田時計店が仮営業所を開設、翌年の春には、池之端の加賀谷時計商会、広小路の鶴巻時計店、浅草の見沢万吉商店、浅草橋の今津時計店、日本橋の大西時計店などの卸商達が商売を始め、他業界に比べて明るさを見せた業界であった。   
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時計組合の設立は明治十年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作った
東京時計商工業組合

《明治十年》  日本において時計商組合が設立されたのは明治十年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作ったのが始まり。このころから毎月定期的に開催していた「開時会」は、明治二十三年九月に創立されている。初代の組合長は、八官町の小林伝次郎氏で、二代目は新居氏、三代目として服部金太郎氏が引き継いだ。
このころの東京地区の組合活動は、日本橋・京橋・神田の百名前後の業者と山の手八地区を含め設立した山の手組合は四百名程度であった。大正十四年頃、「関税問題」が浮上して服部金太郎氏は役員を辞退したが、大正十二年大震災が起き、大同団結が叫ばれるようになった。大正十四年ついに合同総会「東京時計商工業組合」が東京・日比谷の松本楼で開催、組合最初の創立時から三十年が経過していた。初代組合長は、神田の吉川仙太郎氏が就任した。その後昭和二年に銀座の平野峯三氏が二代目組合長に、正式組合として認可された。三代目は、上野の野村時計店の野村菊次郎氏が就任している。
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