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東京時計商工業組合員数(明治四十年当時の記載順位のまま)
全国の時計扱い業者

《明治四十年》 ▽東京=日本橋:六十三、浅草:四十六、京橋:四十八、下谷:三十一、深川:十三、麹町:十三、神田:三十一、芝:三十一、本所:二十、本郷:二十三、小石川:十八、麻布:十五、四谷:十三、赤坂:十二、牛込:十七、▽京都府=京都市:八十二、郡部・福知山町:八、郡部・舞鶴町:四、郡部・新舞鶴町:四、郡部・余部町:二、郡部・官沢町:三、
▽大阪市=東区:一四一、南区:一〇九、北区:六ニ、▽堺市:一一、▽郡部:六、▽横浜市:七五、横須賀市:一三、小田原市:一六、▽神戸市:五三、▽姫路市=一一、郡部:二一、▽長崎県=三三、佐世保市=一一、郡部:一〇、▽新潟県=新潟市:一三、長岡市:一五、高田市:二一、新発田市:七、柏崎市:一〇、村上町:六、直江津町:新井町:五、
三条町:六、中条町:四、加茂町:四、五泉町:四、郡部:五三、▽埼玉県=熊谷町:六、
川越町:五、大宮町:四、郡部(伊勢崎含む)三、郡部(入間川含む):ニー、▽千葉県=
佐原町:四、銚市町:五、古河町:五、北条町:四、郡部(茂原含む)四八、茨城県=水戸市:八、土浦町:五、流山町:四、郡部:一九、▽群馬県=高崎市:一四、前橋市:八、
桐生町:五、富岡町:三、館林町:四、栃木県=宇都宮市:八、栃木町:六、足利町:四、
佐野町:六、日光町:三、矢板町:五、他区:八、▽奈良県=奈良市:七、郡部:二一、
▽三重県=津市:一四、四日市市:一〇、山田市:一ニ、郡部、松坂町四、亀山町三、神戸町三、一身田町三、上野町七。
名古屋時計組合:▽愛知県=名古屋:九三、非組合員:一六、豊橋:一〇、岡崎市:八、西尾町:五、半田町:六、瀬戸町:五、他地方:七五、▽静岡県=浜松町:八、掛川町:六、三島町:七、沼津町:六、藤枝町:三、小山町:三、江尻町:四、大宮町:四、中泉町:四、二俣町:三、笠井町:三、袋井町:四、他:三〇、▽山梨県=甲府市:一五、郡部:七、▽滋賀県=一〇、彦根市:五、八日市町:四、八幡町:三、他:一七、▽岐阜県
=岐阜市:一六、大垣町:一ニ、岩村町:六、中津町:四、高山町:五、他:五六、▽長野県=長野市:一〇、松本市:一ニ、飯田町:四、上田町:五、小諸町:四、稲荷山町:四、中野町:五、上諏訪町:六、他郡部:四三、▽宮城県=仙台市:二六、白石町:五、他地方:一九、▽福島県=福島市:九、若松市:八、若松市:八、郡山町:九、須賀川町:七、三春町:四、他地方:三七、▽岩手県=盛岡市:五、一ノ関町:四、釜石町:四、他地方:一ニ、▽青森県=青森市:六、弘前市:一三、八戸町:四、他地方:八、▽山形県=山形市:一ニ、半沢市:八、鶴岡町:一〇、新庄町:五、他地方:二ニ、▽秋田県=秋田市:一四、大館町:五、湯沢町:四、酒田港:三、能代港:六、横手町:五、本荘町:三、他地方:一三、▽福井県=福井市:一九、敦賀町:四、武生町:四、鯖訌町:五、他地方:一三、▽石川県=金沢市:三七、小松町:五、他地方:一四、▽富山県=富山市:一一、高岡市:七、放生聿町:五、他地方:二〇、▽鳥取県=鳥取市:一七、倉吉町:七、
米子町:七、他地方:六、▽島根県=松江市:六、郡部:一三、▽岡山県=岡山市:二四、
郡部:三五、▽広島県=広烏市:四〇、呉市:五、尾の道市:一〇、福山市:七、他地方:一九、▽山口県=下の関市:一四、山口町:八、柳井町:五、他地方:二〇、▽和歌山県=和歌山市:一八、郡部:六、徳島県=徳島市:一四、郡部:一五、▽愛姫県=松山市:一三、新居浜町:五、他地方:九、▽香川県=高松市:一六、丸亀市:一〇、善通寺町:八、他地方:六、▽高知県=高知市:一禄、他地方:一〇、▽福岡県=福岡市:二ニ、小倉市:八、久留米市:一一、門司市:一一、八幡町:六、直方町:七、若松町:四、飯塚町:六、大牟田町:七、柳川町:四、他地方:三三、▽大分県=大分市:一一、▽佐賀県=佐賀市:四、郡部:七、▽熊本県=熊本市:三六、他地方:二、▽宮崎県=宮崎市:四、
▽鹿児島県=鹿児島市:二一、郡部:一ニ、▽沖縄:五、▽北海道=函館区:二八、小樽区:一三、札幌区:八、旭川町:六、根室港:五、他地方:四三、▽樺太:四、▽台湾=台北庁:七、台南庁:六、基隆庁:六、他:四、▽韓国=京城:二二、釜山港:一ニ、仁川港:一二、平譲:五、他:二七、▽清国=大連市:八、天津、上海、安東他:計三〇。
但し書本文の末尾に本調査中営業を取消したもの一ニ件ありと記す。

明治時代の全国時計業者分布状況
明治四十年当時の記録から‥‥

《明治四十年》 明治四十一年十一月十日付で名古屋市東区呉服町三十七番戸、名古屋時計商報社の発行になる印行「全国時計商工全書」は、この当時の全日本国領地域内に存在した時計業者の現況を実測により表したものである、業者数約三、四○四に及んでいるが、この他にも発達途上の未開発地区(時計店存茫の実在数を指す)などのものを取入れていないので、これらは概数二〇〇余件に及ぶものと想像される。
以下、表示の時計組合員数はいずれもその知に時計組合が存在し、しかも現実に組合の本目に則り平和的に運行している地区の部分だけをピックアップして整理されたものが記されている。
(例)千葉県庁の所在地である千葉市の業者名が記載されていないが如くである。

享保二年、鍛冶屋だった時計師が尺時計を製造したのが初めてか?
本邦時計業界の草創時代

《明治十六、七年頃》 我が国の時計業界としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)の創業になる氏が時計の鍛冶屋として時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して、江戸の文化に貢献したのが時計界の濫觴であるといわれている。爾来、小林氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内冶右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平などがいた。
小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたのである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式時計が横浜・山下町に渡来した。ファブルブランド、コロン、ワーゲンなどの輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々によって暫時時計の翫味は広められて行き、貴金属袋物商人の部門に割りこむようになってきた。
明治十六、七年頃には、既に東京では、大小業者を取り交ぜて、取混ぜて三百になんとしていた。本邦の時計業界は、この頃から急激な発展を想わせている。
次に紹介する「東京時計商繁昌鏡」は当時の業界事情を知るに充分であろう。

明治時代の『東京時計商繁昌鏡』  番付表

《明治十七年》 これは、明治十七年九月十七日の御届書として作られた木版刷による当時の東京時計商の全貌を現わしたものである。出版人は、当時、浅草・阿部川町百五番地の広瀬光太郎氏と署名されている。これによると時計業界の最古老舗として伝統を輝やかしていた八官町の小林時計店が、その勧進元の王格であるのが知られ、番付中では、時計王の服部金太郎の名が最下位にあるは、今昔の感甚だ深きものがある。この番付表は、東京・上野図書館の所蔵する帝都時計界の昔を偲ぶ貴重な資料である。
(註)時計業者に関する解説=本邦時計界創始時代に亘る古代の記録については、八官町の小林伝次郎氏の生立ちを最古のものとし、明冶初代に入ってからの金田市兵衛、竹内冶右衛門、京屋伊和造、新居常七、小野太一、大野徳三郎、小島房次郎、吉沼又右衛門、それに服部金太郎諸氏につながる古記録を追って、いろいろ書き綴られた書物を見るが、その中で、各種の文献から拾い集めたものを以て記録した「柬京時計産業功労者たち」と題して出版した平野光雄氏のまとめたものが、この種頽では最も精緻に作られている。写真は、明治時代の『東京時計商繁昌鏡』番付表。

享保二年、鍛冶屋だった時計師が尺時計を製造したのが初めてか?
なし本邦時計業界の草創時代

《明治十六、七年頃》 我が国の時計業界としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)の創業になる氏が時計の鍛冶屋として時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して、江戸の文化に貢献したのが時計界の濫觴であるといわれている。爾来、小林氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内冶右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平などがいた。
小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたのである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式時計が横浜・山下町に渡来した。ファブルブランド、コロン、ワーゲンなどの輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々によって暫時時計の翫味は広められて行き、貴金属袋物商人の部門に割りこむようになってきた。
明治十六、七年頃には、既に東京では、大小業者を取り交ぜて、取混ぜて三百になんとしていた。本邦の時計業界は、この頃から急激な発展を想わせている。
次に紹介する「東京時計商繁昌鏡」は当時の業界事情を知るに充分であろう。

明治時代の『東京時計商繁昌鏡』  番付表

《明治十七年》 これは、明治十七年九月十七日の御届書として作られた木版刷による当時の東京時計商の全貌を現わしたものである。出版人は、当時、浅草・阿部川町百五番地の広瀬光太郎氏と署名されている。これによると時計業界の最古老舗として伝統を輝やかしていた八官町の小林時計店が、その勧進元の王格であるのが知られ、番付中では、時計王の服部金太郎の名が最下位にあるは、今昔の感甚だ深きものがある。この番付表は、東京・上野図書館の所蔵する帝都時計界の昔を偲ぶ貴重な資料である。
(註)時計業者に関する解説=本邦時計界創始時代に亘る古代の記録については、八官町の小林伝次郎氏の生立ちを最古のものとし、明冶初代に入ってからの金田市兵衛、竹内冶右衛門、京屋伊和造、新居常七、小野太一、大野徳三郎、小島房次郎、吉沼又右衛門、それに服部金太郎諸氏につながる古記録を追って、いろいろ書き綴られた書物を見るが、その中で、各種の文献から拾い集めたものを以て記録した「柬京時計産業功労者たち」と題して出版した平野光雄氏のまとめたものが、この種頽では最も精緻に作られている。

服部金太郎翁が明治十四年、個人で経営した事業の一切を承け縋いだもの
精工舎の偉業

《明治十四年》 日本の時計工業界の今日の礎石を築いた服部時計店と精工舎の創設者は、故服部金太郎翁である。翁が成したその問の歴史を紐解けば、株式会社服部時計店は故服部金太郎翁が明治十四年以来、個人で経営して来ていた事業の一切を承け縋いで大正六年株式会社に改めたもので、精工舎は同社の工場である。精工合は明治二十五年五月に設立、東京市本所区石原町に仮工場を設けて始めて掛時計の製造に着手、吉川鶴彦氏を工場長に招聘して十五名の従業員で発足した。同年掛時計の製造を完成したのに力を得たので動力用機関を設置すべく監督官庁に許可届けを出したが人家の関係で不許可となり、翌二十七年現在の本所啓示町(旧柳孫町)に移転、七馬力の蒸気動力を使用して操業を続けた。
かくて、明治二十八年に中華民国へ掛時計を送荷したのが輸出の嚆矢となっている。二十九年に二十二型シリン式懐中時計の製造に着手、完成してから同三十二、三年に服部金太郎氏は欧米視察に赴いた。帰国後工場の設備を一新して、ニッケル製目覚し時計類の製造を開始、同三十五年に角型提・置時計の製造開始、引続いて金属製枠つき置時計の製造を始めた結果、三十二年頃から旺盛を極めていた舶来掛時計の駆遂に役立った。
三十五年九月に到り、十四サイズ、メリケン式懐中時計を完成、続いて十ニサイズ提時計の製作を進めた結果、完成したのでこれをエキセレントと称し、明治四十年以来帝国大学の卒業生に恩賜時計として授与された光栄の品であり、有名を高めた。明冶三十七年の日露戦争の際は、軍需品の製作に努め、三十九年服部社長は、吉川技師者と吉沌支配人を伴って欧米の著名工場の視察を行った。帰朝してから工場内の施設改善を行い、新型十六型懐中時計の製作に着手、四十二年に完成した。これをエンパイヤと称し、優秀品として面目を施した。その後、明治四十三年に座敷時計、大正三年に十二型女持懐中時計を製作したが、その頃、第一次欧州大戦勃発するに及んでドイツ国からの時計の謝絶をチャンスに、東洋諸国はいうにおよばず豪州、印度・南米・南ア・欧州職に向かって、大量輸出を決行したのである。かくして工場内諸設備の完備と相まって、生産高はさらに増し、生産品の種類も時計に加えて蓄音器、扇風機などの製造を開始するに至っている。
ところがたまたま大正十二年九月一日の関東大震災擺災に遭遇、恒常の全ては灰に帰したが、直ちに復旧に着手し、翌十三年三月には掛時計の製造を開始、同八月には目覚時計続いて各種時計類の製造を開始することになり、早くも災害後二年にして旧態に復すというスピード的努力の結果が示された。さらに業績は進化、そのあと続いて、丸型、十型、八型等の腕時計に、十七型懐中時計に合せて、昭和七年に到っては、最小型の五型腕時計を完成するに到った等のコースである。写真は服部金太郎翁が議員だったころの雄姿。

明治二十四年、精工舎工場としての本格的なスタートを切った
服部時計店の創生時代

《明治十四年》 時計王の服部金太郎翁の若かりし頃の活躍記録は、前述の秘録により一部明かしたので、服部時計店の生い立ちの頃の状況を文献から拾って簡単に紹介してみる。
服部金太郎翁の父喜三郎氏は、名古屋の生まれで、維新前に出京、京橋・采女町に住み、古道具屋を営んでいた。かって、借家したことがないというから生活上、困窮したというような事例はないようだ。金太郎少年は、十三歳から十五歳まで八官町の辻屋という唐物屋に奉公して、信用を得ていた。時計業を志して日本橋・上槙町の亀田時計店に奉公し、時計の修理技術を習おうと努めたがチャンスが得られず、転じて十七歳から十九歳まで下谷の坂田時計店に奉公を続け、修理技術の習得に努めた。
この頃は物資がことのほか貴重扱いされていた時代時代であったので、修繕に努める夜半の灯油代にも神経を使ったものであった。この坂田時計店は、経営に失敗して金太郎翁が十九歳の時、閉店した。その時、金太郎翁は、主人の困窮に同情して二年間貯めた七円のお金をそのまま主人に提供して感激されたという逸話がある。
それから時計類の買取をやりながら、それを修繕して売るという、腕に覚えのある商売を続けた。自然と資金も溜まり、京橋の采女町に小さな時計店を開業したのが始まりである。時は明治十四年。
従ってこの後金太郎翁は昼夜なく、不眠不休で文字通り縦横無尽の活躍で、前記遺書に盛られた若かりし頃の金太郎翁の活躍ぶりが記された。たまたま銀座に進出する好機を得たで業務は隆盛、ついに明治二十三年、時計製造の第一歩を染めることになり、同二十四年に至っては、精工舎工場としての本格的なスタートを切ったのである。これが、服部金太郎翁が歩んできた経路であり、日本の時計界を代表する時計メーカーが生まれた概要である。画像は、現在の銀座四丁目角にある和光のところにあった当時の服部時計店。

時計、袋物、小間物の三業者を集めて明治十年に時計組合を作った
なし明治初期時代の時計商組合員名(明治三年以降)

《明治十年》 時計商=若松治助、小島房太郎、金森桝吉、小笠原文三郎、河北直次郎、渡辺兼次郎、伊勢梅、▽東京=小林伝次郎、京屋伊和造、宮田藤左衛門、金田市兵衛、高野周吉、高木大次郎、関岡由兵衛、玉屋菊次郎、大野徳三郎、金田友七、村井友七、小笠原近友、伊勢半、近常商店、竹内洽右衛門、京屋支店、小林支店、小島房次郎、吉沢又右衛門、田中仁吉、
若松支店、天賞堂江沢金五郎、服部時計店、伊勢惣、熊谷惣太郎、有賀利助、松浦玉甫、
松田啓太郎、橋都万吉、精工舎、東京モリ時計工場、中江幾次郎、吉川時計店、吉田庄五郎、直江房吉、中村芳方、島村寛方、島村助治、米川工冶郎、福田藤吉、亀田平郎、梅      屋、鈴木源治郎、亀田平吉、中山直正。

前述したように当時は、時計を取扱う専門業者というものが少なかったので。時計類を取扱う範囲の時計、袋物、小間物の三業者を集めて明治十年に時計組合を作ったのがそもそもの始めであるようだ。
組合設立の最初は三十五、六名位だと記しているが、故人池内氏の控え帳に記されているメンバーは五十一名に増えているのを見ればその後に増えたものを含めたメンバーではないかとの想像が出来る。【註】池内さんはこの当時から時計組合の事務的処理に当っておられ、故人の遺書により明冶時代の情況を説明してくれたその人で、立正堂若松時計店に在って大正十二年の関東大震災当時は、当主若松治之助氏と共に関西方面から修理品の工具材料を鉄道と徒歩で持ち帰り、これを多方面の時計業者に提供した一人である。従ってこの当時もなお横浜時計商組合の復興に精出して努めていた事実を私は熟知している。

交換市場の開設

かくして時計組合というものが出来てからは毎月二回の時計の交換市場が開かれることになった。その一つは「弘時会」といって、日本橋・西仲通りの事務所で開市した。この外に「開時会」というのがあり、これはその都度貸席の亀尾で開くことになっており、神田・明神境内の開花という貸席で催していた「開花の市」なるものは、その当時の流れである。但し、このころから商業人の種類には、市場取引を通して売買するものと、また別に、商館畑からの仕入品だけに限った売買取引を常としていたものに分れていたようである。次に故池内の遺書から転記した若松冶之助によるその写しを記載し、明治初期時代の業界状況を知る一片の資料に供しよう。

日本に初めて貿易商館が出来たのは文久二年の頃だった
なし日本の時計業創世時代

《明治十年》 明治、大正、昭和の三世代にまたがる時計界の史跡を集録しようと思い、そもそもその時計が日本に波来したのは一体何時の頃であったのか。その由来を知るため、あらゆる文献をひも解くのであるが明らかに記されたものは見当らない。
享保二年に小林伝次郎氏が時計を扱ったのを本邦での始祖といっているところから推して、案外古い時代に時計というものが波来しているのだということだけは想像出来る。日本に始めて貿易商館が出来たのは文久二年頃で、その頃、日本で時計を扱った最百の商館だというファブルブラント商会を嚆矢とし、次いでコロン商会が開館したと伝えるものもある。また慶応三年に横浜町通りに時計台が建設されているというのが明治四年版の「新版異人双六」の時計の絵に出ていることから見て、時計は古くから輪入されたものだという印象が持てる。本編では横浜港が開港したのは、安政六年六月であるから、この頃、百一戸の閑村であった横浜町に出来た貿易商館が、生糸やお茶、機械類に交じって時計を輪入するようになったもの。その頃からの記録に止めたい。
別頃、池内氏の遺書の中に記されていた明治初期頃の業者の動きの関係から当時の時計界というものの片燐が明らかにされたことになる。それによると、明治十年に横浜の区長であった島田豊寛という人の命により明治三年から大田町に時計業を始めていた若松治助氏が始めて時計商組合というのを作っている。この頃、横浜港の貿易商館を通じて時計の取引をしたものは合わせて三十余名であったと記されており、その業者の中には東京居住者の名もあげられているのから推して、時計組合というものの発祥はこの時であるのかも知れないと思える。

明治八年水車で時計の製造を始めた金元時計製作所が時計を企業化した最初
なし日本時計工業の始めの頃

《明治八年》 日本において時計工業を始まった頃の経路は、時計商館の手を経て、外国製の時計が輪入され始めてからのことであるのはいろいろの文献にも示されている。明治八年に東京・麻布に水車を使って時計の製造を始めた金元時計製作所というのが時計を企業化した最初であると伝えられているが、(金石時計商編)その後、模倣したものがもう一軒出来たがこれも共共失敗に帰している。次いで明治十年に、名古屋の林時計(林市兵ヱ氏)が生れており、これに続いて、大阪に石原系の大阪時計製造会社が明冶二十二年に出現しているのが本邦時計工業としての草創時代であろう。
このあと明治二十五年に、今の精工舎を生んだ服部金太郎翁が隆隆苦労して東京本所・石原町に掛時計工場を造って発足したのが偉大な日本の時計工業史発達の初歩である。

それ以後は次の各経営者の名があげられる。
明冶十八年以降、(岡崎)水谷駒次郎、明治二十年、名古屋時盛舎(林市兵術)、明冶二十二年、大阪時計製造株式会社、明冶二十二年、(姫路)播陽時計会社、明治二十四年、京都時計製造会社(大沢善助)、明治二十五年、水野時計製作所(名古屋・現在の愛知時計の前身)、 明治二十五年、(大阪)渋谷時計製作所、 明治二十五年、(東京)精工舎(服部金太郎)、明治二十六年、名古屋時計製造合資会社、明治二十六年、名古屋山田鉄次郎、明治二十六年、(大阪)江久保時計製造所。

関西方面における時計製造の初期を記録した大阪時計製造会社は、明治二十二年十二月、当時の大阪時計業者中二十一名の出資者で設立された資本金二十万円の有限会社で、同社は大阪市の桃谷に時計工場を設け高木市兵衛氏により発足されたものである。同社の製品を当時明治大帝に献上した記録がある。大阪時計製造会社は社長に土生正泰氏を推し石炭は大阪高麗橋通三丁目に置き、翌明治二十三年に西成郡川崎村ニー七へ本社を移転した。
この時の使用職工数は、三十五名で掛時計の製造を開始、七月に株式会社に組織を改めている。当時の同社の役員陣は次の通り。

▽社長=土生正泰、▽取締役=石原久之助、生駒権七、ダブリュー・オーキン、ピー・アールー・チャンキー、エルジュー・シィルグィスター、イー・ヴィ・グートマン。
かくして同社は明治三十年に到り技師長のピーエッチーウイラー氏のみを残して外人連の全部が退職することになった。田村金太郎氏が技師長を引受けてから、明治三十三年に資本金を十五万円に減額、三十五年に同社を解政するに至っている。
石原製作所は、この時、什器一切すべてで、十万円で引き受け、懐中時計の製造に踏み切ることになった。

愛知県時計製造企業組合員(明治四〇年九月現在)

《明治四〇年》 ▽組長=愛知県時計製造株式会社、▽副組長=林市兵衛、▽評議員=尾張時計、明治時計、高野小太郎、山田鉄次郎、小野信次郎、水谷次郎、神谷鶴次郎、安井角左衛門、長谷川与吉、佐藤信太郎、佐藤時計合資組合、水野光太郎、渡辺国太郎、広瀬朝照、青山勝三郎、吉田耕三。

明治元年頃の貿易商館の所在名
なし横浜居留地時代の素描

《明治元年》 横浜居留地、海岸通りや大田町で英国人やフランス人、ドイツ人などが、生糸、茶、英国製時計類の取扱いをしていた。さらには、鉄砲、ピストル、時計、宝石類、高級品を扱っていた。時計卸の若松治助氏を呼んで時計商組合の設立を奨めたものである

横浜居留地時代の素描

下田港のお吉の話題ではないが、日本の港が外国人に開港するようになってからの国内取引の貿易は、急展開を見たようである。それを裏づけるものに前記のような横浜港の居留地には早くも外国商館が立ち並んでいた。その数、十余軒に及んで居り、これらの商館を通じて時計、宝石等の商品取引が活発に行われていたようだ。
懐中時計の輸入物もカギ巻時代から転じて、竜頭巻き式のものに改められているなどの経路が示されている事実についてもこのころの業界情況がのぞかれるというものである。
明治初期時代の時計商というものは、扱い品は時計だけでなく、横浜居留地の商館が扱っていた商品を売買している。
特に、これは面白いというものは誰彼なしに仕入れていた。従って、時針、袋物、小問物の業者は、皆同一の商品を扱っていたと見ていいだろう。それを証明する例をいえば、宝石を取扱う業者の中には、袋物の取扱業者が現在でも引続いているなどは明治時代からの流れをそのまま取継いでいるものであるということが明らかに証されるものである。
そうこうしている中に、時計に対する需要が日を追うにつれて、だんだん多くなって来たことから、当時盗難品などの行方を追う警察の関係もあってか、業者数の多いものから組合なるものを作るよう司直の方から支持があったようである。そのような経路は正鴻をえているかどうかの点は別として、当時の横浜港の区長である島田豊寛という人が(故島田三郎氏養父)横浜居留地の太田町四丁目に時計卸の営業をしていた若松治助氏を直接呼んで時計商組合の設立を奨めたものである。



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