※写真をクリックで拡大します。
Home

西と東のベルリンの境界の壁
思想に関する批判など求めたい気持を持っているように想像された

《昭和三十八年M》 世界の人の注視の的となっているベルリンの壁は、西と東の交通を今なお斜断しているという。その状況を見学するために、世界中から観光客がここにやってくるのである。
我等一行のガイドは、ベルリンの技術大学の女性のハンターさんという人であった。バスの中でこの女性は、西と東の壁について見る人遠の感情がどう変わるであろうか、よく見て来てほしいと強調していた。人によっては、いろいろ違う見方もあるようだが、ドイツの人は心の中で、これらに関する何ものかを求めているらしいようだが、それを表面には出そうとしないように努めているのが判るように思えた。案外青年層の中には、この壁を通じて、思想に関する批判など求めたい気持を持っているように想像された。
この序で一つのエピソードを紹介しておこう。
ホテル「ロッキシー」に宿泊中、エレベーターのドアーを止めたままドイツ人の一青年が私に話しかけて来て困ったことがあった。「君はジャパニーズ、ビジネスマンだろう」と英語で聞いてきたのである。だが、この時私は外出する途中で、自室に用事があって帰って来たので、表には自動車が待っている時だった。私は単独では会話の点でも困るので、ただそれをさえぎるだけに努めたのだが、おそらく彼は、日本人は且ては旅人と共に防共の仲であったのではないか、という戦争時代の感慨などについて会話をしたかったのだろうと思えた。
そんなこともあっただけに、とにかくベルリンの壁については直視してみた。そう考えてくると、このベルリンの壁ということについては、何れの面からでも悲哀感をもって見守っているように見えたのである。写真は、ベルリンの壁を覗き見る観光客。

小高く土を盛った丘でヒットラーが自殺した
手前が米兵、先方側にはソ連兵が立って相互に警備している

《昭和三十八年N》 やがて走っていくうちに左側に小高く土を盛った丘の形をした方向を指さして、あの丘でヒットラーが自殺した場所であると説明してくれた。ヒットラーが死んだ所というその跡は、草が生えてこの世からは見捨てられているという格好を見せていたのである。それを過ぎると、かつては西ベルリンの主要官庁街であったという場所である。今は東側の官庁街に変わって使用されている光景がのぞかれる。
東側には、電車もあれば汽車の走る光景も見られた。我等一行の観光コースは、一定の線以外には外れていけないことになっているとみえて、東側の中央と思える交叉点に停車して、これが行止りですと説明された。ここでカメラをパチクリやりながら少憩のあと、再びバスは西側へ戻り、コースをとったのである。西側に近く境界の壁が間近に迫った頃になると、東側のビルの中から、そこに住む人々の手が振られて、我等西側に向って行く人々に何か合図する姿が見られる。西への希望があるようで想像が出来て何となく心を打たれるものを感じた。
バスの中でガイドさんは、特別な説明をしてくれなかったが、タバコのマッチを取り出すために手を差し出した途端、そのガイドの手の甲に角型の焼き印の跡があった。しかし、このことを表現するには危険だと思い、心の中にしまっておいた。
バスが西側に戻る際の壁側の検察は、さほど大げさなこともなかった。われらのバスの傍で検査を受けた小型のルノーの車に対する処置は、頗る厳重なものであった。かくて壁を越えて西側に戻って来た時、ガイドのハンターさんは、どこかに待機していたのであろうか、突如として飛び出してきて我々のバスの一員となった。
かくしてホテル「ロッキー」に着く前に、ベルリンの壁などを写したカラーのネガの買い手を求めて来たのでみんなでこれに応じた。
バスのガイドさんは、「私はここから先へは行けませんから、よく現実を見てきてください」という説明を残して彼女はバスから降りていった。東ベルリンに入ってからは、別のガイドマンが乗車してくれるというのだ。
この壁というのは、東西ベルリンの境界に立てられた完全な障壁で、手前が米兵、先方側にはソ連兵が立って相互に警備している姿が確然と見られる。その状況を見ようとして西側の境界の少し手前に少し高く物見台のようなものが設けられてあり(写真は当時のもの)見物人はその台の上に登ってその光景を眺めるのである。然し、最近は、コンクリート造りの完全な壁が出来ているという。
我々一行を乗せたバスは、東ベルリン(ソ連)側の係官の検査が済まないうちは入国出来ないので待機していた。この間、バスの運転手はソ連兵のいる頓所に連行されていった。何やら調べがあるのであろう。少し経った頃ソ連側の士官らしい人がやって来て、我々一行のパスポートを順次調べた。聞いていたよりも簡単な検査の仕方であり、これ位の手数は万止むをえないと思われたのである。
新しく我等のバスに乗って来た東側のガイドは、最初に乗って来た人は、これは違うといって降りていってしまった。その次には少し年輩の人が乗って来て、間もなくしてスタートした。写真は、東ベルリン市の繁華街地域。

出発を一日延期したために賭博場見物が出来た
チップ込みの一人当たり百五十マルクで入場することが出来た

《昭和三十八年O》 ベルリンからの出発が飛行機の都合で一日延期になったというので、どこかへ他の国へ行こうではないかと相談したのだが、西ベルリンというところは、東に囲まれたその中にあるのだから、飛行機以外では脱出が不可能ということを聞かされた。だからこの一日を有効に過ごすためのことを考えるのはなかなか骨が折れたのである。従って、いろいろと見る物や買物などについては、ゆっくり漁ることが出来た。
夜ともなれば前夜に考えていたナイトクラブ行きを考えたが、ヨーロッパというところは夜十一時半にならないとナイトクラブは開かない。でも時間待ちはくたびれるので、その間を利用してトバ入りを敢行しようと考えた。希望者を募って七人が参加することになった。メインストリートの中央に存在するクラブを訪ねたが、すげなく入場を断られた。
この交渉の様子を見ていた一行の中の一人が、手招きして呼んでくれて、一人頭チップ込みの一人当たり百五十マルクで入場することが出来た。場内の賭場は、案外小さいものだった。そこで二時間ぐらい遊んで帰った。
この賭場の同元であるスペイン人らしき人が「あなたは、インターナチョナルですか」と聞いてきた。何故かというと、私は「七」の一点張りで、最後までその張り方で終始し、結構儲かった。チャイニーズの印象もあったが、私は「ジャパニーズ」と答えたもので、国籍調べの言葉はなくなった。
次いで前日、馴染みとなっていた「ヘンリー」というナイトクラブに入った。頗る客筋は良い。ハイボールを飲んでいる我々の間に分け入って来たホステス連中の態度は、いと物柔らかさを感じた。東京のようにホステスがすれてはいない。
日本人相手のホステスは、英語が解る人でないと来ないようになっているらしい。私らの席に来ていたホステスは、カロリーナさんといいスエーデン生れ、もう一人のぺギーさんはオランダ生まれであるといっていた。日本と同様の線があると思ったのは、寒い国の人は肌が比較的しまっているという事である。写真は、シュワニンゲン時計博物館の一部。

フランスの首都、パリの魅惑
シャンゼリーゼで和服姿の三人の日本人女性に会った

《昭和三十八年P》 狭い地域のベルリンに三泊したのだから、一行は次の旅行地パリに向って飛んでいくのに期待をかけていた。パリのオルリー空港に着いてからホテル「ノルマンデ」に着いたのである。
パリはセーヌ河の真中にあるシテ島と呼ばれる小さな島の上に生れ、ノートルダム寺院がそびえ立つ市の心臓部である。人口五百万人を有し、世界で最も美しく、文化・芸術の伝統の都であると称されている。従って世界旅行の中でパリを忘れることは出来ないとされている。
この国の通貨の単位はフラン、一フランは十サンティーム、一ドルは約四、八五フランに当るので、パリに着いてからの両替は、誰しも頭を痛めていた。
パリにおける行動中二、三人が自由行動をとることになったので、その他のメンバーは観光に重点を置いた。
観光の第一歩はなんて言っても有名な凱旋門。ナポレオン軍の栄光を叶えて建てられただけに、エトアール広場と共に有名である。この門の屋上に上ると、パリ市内が一望に見える。門の下には無名戦士の墓がある。ここを中心に十二のアヴェニューが放射線状に伸びており、これに連なって有名なシャンゼリーゼがある。マロニエの並木道として知られるこの大通りは、エトアール広場からコンコルド広場を結ぶもので、世界で最も華やかで、且つ気品のある通りといわれている。
このシャンゼリーゼの沿道の両側に、パラソルの下にコーヒーをすすりながら眺めている風景はパリならではの味がする。我等一行がここで休息していたら、表の道を行く日本の和服姿の三人の女性が笑顔で手を挙げて会釈しながら通っていったのを忘れない。だからパリで見ている人の中には、日本人の数も相当いるのであると思えた。写真は、パリのルーヴル博物館前の一行。

有名なルーヴル宮殿が現在は博物館となっている
ミロのヴィーナスやダ・ヴィンチのモナリザ等が飾られており有名

《昭和三十八年Q》 セーヌ川に面したコンコルド広場は世界でも有名である。大体パリという街は、このセーヌ川を中心に総てが形作られているようである。
「アントワネットがギロチンの刑に処されたのはここです」とバスガイドの説明が続く。
それから、ルーブル宮殿に到る間をセーヌ河に沿ってつないでいるテュイルリー庭園として知られ、自然美を見せているのには恍惚たる感じがする。
有名なルーヴル宮殿は、今は博物館となっており、ミロのヴィーナスやダ・ヴィンチのモナリザ等が飾られており有名だ。ここの観覧者は、世界中からの観光客が集まってくるので頗る賑わっている。だから我等の一行について説明してくれたガイドは、日本人だった。このガイドはその仲間の中でもパリでは有名人の一人に数えられているらしく、混雑している人ごみの中を優雅に歩きまわる機敏な行動に感服した。
従ってパリに関する逸話や日本人の所在や行動にいろいろ雑多な話などしてくれたので助かった。パリにあこがれでやって来た日本人で埋もれている人の数は、何百にも及んでいるように聞かされた。次いでヴァンドーム広場、オペラ劇場、シャイヨー宮殿、サクレー・クール寺院、ヴォージュ広場を車窓より眺めてセーヌ川左岸にある有名なエッフェル塔を眺望することにしてここで休憩した。写真は凱旋門。

ナイトクラブ「リド」に遊ぶ一行
パリの夜を楽しむための観光コース

《昭和三十八年R》 このエッフェル塔は、世界一の名物であったが日本の東京・芝
に誕生したテレビ塔の方がやや高くなっている。エッフェル塔は、午前十時から五時半までの展望が許されている。だが我等一行のバスは、時間外になっており、外観から眺望するのにとどめた。
次いでソルボンヌ大学、学生街のラテン地区にあるユネスコ本部で説明を聞いた後、モンパルナスの丘で少憩してみた。ここは芸術家達の集まる場所だそうだ。
その日の夕食の後は、パリの夜を楽しむための観光コースがとられてあった。八時、十
時、十二時の三回に分けて入場できるようになっていたナイトクラブ「リド」を中心に組まれたコースである。「リド」の前に見たのは「ムーランルージュ」というところだと思う。凄く豪華な設備の中で、軽やかに踊るダンサーと共に運ぶ足の動きに思わず身をちぢめるような感じを持った。
それから「リド」に移ったのだが、カメラ撮影は一切禁物ということでカメラを預けられた。場内にはシルクハットに身を正したパリッ子のダブル組もいて、そこへ我等の団体がドヤドヤと入り込んできたのだから、何だか悪いような気がして少しひけ目を感じた。それでも次ぎ次ぎに展開するショーの妙技に思わず興奮してしまったのである。
ショーを見ながら大きな声を上げてみんなが楽しんだ。ホテルに帰ったのは確か一時半頃だと思った。
それから乗客をホテル順に送り届けてくれるのだから、この時間がザット四、五十分ちかくかったような気がする。でもパリではこんな時間でも十分遊んでくれる相手があるのである。
パリでの日本料理店は「たから」「きょうと」「やまと」の三軒があった。私等は「たから」と「きょうと」の二軒で久しぶりに日本食を味わって見た。とうふとおしたしがうまかった。日本酒は甘ったるく感じるようになっていたので余り飲まなかった。然し、この日本料理店をさまよう頃は、地下鉄を利用してパリの雰囲気を知るように努めようというコースをとることにしたのであった。ただ異国という感じを強くしたのは、若い人たちが、所も場所もわきまえずに行うキッスのことである。地下鉄に乗った若い男女が臆面もなく、チュッチと音を立てて堂々とキスをしているのは、さすがに顔負けの体。
それはパリに住んでいるその土地の人達も、この時だけは顔をそむけているのだから、神ならぬ身は皆同じであるように感じた。エッフェル塔を背に少憩中の筆者。

ユンハンスやキンツレの両工場がある西独のスツットガルトヘ
今までとは異なるというような田舎の高級クラブ

《昭和三十八年S》 九月三十日、身体を柔軟に動かして味わってみたパリをあとにして、オランダ航空機で西独のストックガルトに赴いた。パリからはこのストックガルト
を選ばずに貴金属製品の本拠地ともいわれているフランクフルトに回った人達もあった。
貴金属製品の本場というところに何か新しいものを見つけてみたいという気持ちで、訪ねてみた。私もフランクフルトとは思ったが、三分の二はストックガルト行きとなっていたので、団長である立場からは本隊への同行ということになったのである。
ここのホテルは、駅の中にある「REICHSBAHN」というハウスホテルに落ち着くとその付近を回って見たが、特別取りあげるところもなかった。
クロックのユンハンスやキンツレの両工場が西独領のシュワニングンというところに
あり、そこへ見学コースをとるための紹介状を持っていたので、その方面の手順を先ず整えた。でもその晩は、十一時三十分から開けるというナイトクラブに潜り込んでみた。
とても素敵な美人ホステスがいたが英語しか通じないので、他の店に入った。
ベルリンとは違い、またパリとも違った感じの店で、今までとは異なるというような田舎の高級クラブといった感じの店だった。
このストックガルトで始めて路上から「ジャパン」とドイツの人から声がかけられた。然し道路上であり、且つ相手が洒に酔っていた時の掛声だったから、こっちから避けようという行動を取った。彼等は三人位であり、一応は元気にあとを追っていたように見受けられた。
翌日のキンツレ、ユーハンス工場の見学には、通訳としてアルバイトの男の子を雇ったのである。大学生だといっていたが、ビールが大の好物だといっていた。二百キロにも到る里程だったからユーハンスの工場を訪ねたあと路傍にあった「トラーベル」というレストランに入って食事をとった。その時、彼はビールを三杯も飲んだ。食堂の老婦人(ホステス)が差出してくれたポップスが甘かったので、これは美味しいと賞美したところとても喜んだものと見えて、更に山盛りになるほど置いていってくれたのには気をよくした。
相手の老婦人も気をよくしたからであろうが、ドイツのこの辺りはそうした気風があるのだと、この時の紳士が笑いながら説明してくれた。
ユーハンスの工場では、陳列品を見せてくれただけで工場には案内してくれなかった。キンツレの工場では、重役三人が出て懇切に応待してくれた。ただここでも工場の内部は見せずに、出来上った製品を陳列してあるところを見せたただけ。そのあと、コレクションの飾ってある博物館を特別に開放してくれた。キンツレ社で会談した時の内容は、時計市場についていろいろ話し合ったが、ドイツ国内の特長は、ドイツの時計小売店は、ドイツで生産される時計は優先的に販売するという申し合わせが出来ており、実行している点を説明してくれた。ジャーマン式愛国心というのであろう。
それから日本のセイコーとキンツレの関係に及んだので、セイコーの腕時計はこのように進化していると私の腕に着けていたセイコーファイブの腕時計を外して見せた。勿論服部時計店とキンツレ社の特約関係があることを説明した。私の見た眼では、ドイツの置き時計の将来性については、特に悲観的な考慮を払っていたように感じられたのである。ここにはマウテ時計の工場もある。もともと同一系のメーカー筋であると説明してくれた。写真は、スツッガルド駅で記者を待つ一行。

十月二日の朝、国際列車でチューリッヒに
駅前にはラドー、エニカなどの時計の広告塔が先ず眼に映った

《昭和三十八年㉑》 十月二日午前八時三十分、スツットガルト駅発の国際列車でいよいよスイスのチューリッヒに赴くことにした。それは飛行機の都合で出発が夜になるということだったので、それではヨーロッパにおける汽車の旅も味わってみてはどうかということで、急遽飛行機プランを汽車のプランに変更することにしたのである。
だから汽車の乗車賃は、各自別に負担しなければならないことになったのである。このようなことは、今回の旅行社の誠意のなさすぎであると感じた。
国際列車は、ハンブルグ始発の列車であるが予定時間にはなかなか到着しない。凡そ五十分も遅れて到着した。聞いてみると、ヨーロッパでは何処でも何日でも、予定通りの時間に汽車が着くなどということはないのだそうである。それが通例であるのだと聞いて驚いた次第だ。
やがて列車は、汽笛を鳴らして出発した。車内は日本の寝台車のような格好をしていて八人乗りになっている。中央に紐長いテーブルがあって、読書などの便に供するようになっている。バックの棚上には手荷物など保管される場所に当てられていて、ドアーの外に廊下があって車掌はこのドアーを開けて応対するのである。
我等一行の乗った汽車がスツットガルト駅を出てから車掌が検札にやって来た。ただ鉄を入れるだけ、そしてドイツ領とスイス領の境界点に来た時、また別の車掌がやって来た。ここいらが国際列車らしい感覚が湧いたという次第。汽車の速度は、そう大して早くはない。日本の列車の方がはるかに進歩しているような感じが持てた。
この列車の箱に一緒に並んで乗り合わせた二十二歳位のドイツの青年と会話したのであるが、何としても言葉上の解釈がつかない、そのままチューリッヒに着いてしまった。
飛行機で飛んで行ったときは、荷物のことなど別に心配したこともなかったのだが、汽車ともなれば荷物は各目それぞれが各自で持ち歩かなければならないことになるので新しい困難が湧いた。
ともあれチューリッヒの駅前の光景を眺めるとラドー、エニカなどの時計の広告塔が先ず眼に映った。やっぱり時計の生産地だという感じがしてきたのである。
ここのホテルは「ワルドフ」という名称で、ひと先ず落ち着いてから市内の目抜き通りを散策して歩いた。やっぱり時計生産の本拠地であるというような感じが持てた。
テクノス工場を訪問、輸入元の高木克二社長が出迎えてくれた。写真は、チュウリツのマイスター商会の女性セールスマンと右は有名になっている日本人女性。

平和堂貿易の高木克二社長と小野常務が出迎えてくれた
日本で行っているテクノスの広告と全く同じ写真が

《昭和三十八年㉒》 このチューリッヒには、オメガ、チソットの発売元であるシーべル・ヘグナー社の本社があり、また市中のメイーツストリートに所在するマイスターというショップのウインドーには、オメガとその一連の商品以外は並べてない。いうなれば自画自賛店舗である。俗にいう、オメガポリシーに属する専門店というのである。その他の時計宝飾店のウインドーもそれぞれ時計国らしい並べ方が見られるといった感じだった。
ここでのウインドーは、日本の近代性を持つ店舗のウインドーなどにも似合うのではないかと思いながら観察して回ったのである。このマイスター商会には日本女性がいて、日本人のお客相手には相互に便利になっているので名高い。
我等一行が食事をしている時、シーべル・ヘグナー社から二入の社員が私を訪ねて来てくれた。そして明日に迫るビエンヌのオメガ時計工場見学のための案内役にやって来たという挨拶であった。従って、明日三日は、ジュネーブ行というプランになっていたので、オメガ工場見学の同行者はバスでビエンヌ行というコースをとることにした。従って翌日は朝早くチューリッヒのホテルを出発し、バスによる時計工場回りということになったのであるから、早く起床して準備を整えた。
コースの順序で途中先ずテクノス工場を訪問した。同社で出迎えてくれたのが重役の外に平和堂貿易の高木克二社長と小野常務にマックス、プリゲルの現地人二人か車を持って迎えにやって来てくれたのである。高木克二社長は、米国経由でスイスに回り、我等が一行と落ち会う方法を予め取ってくれたのであり、その厚意には感謝した。
テクノス時計会社では、沢山の従業員に迎えられたあと、階上の会議室で我等TBS視察団に対する歓迎の式典が催された。
社長代理の重役から丁重な歓迎の挨拶があり、これに対し藤井勇二団長から感謝の辞が述べられた。かくして交歓が終わった後、工場内の操業状態を見て回ったのであるが、眼に映ったのは百個を単位にして、同時同種の調整方式をとっているアッセンブル方式というのであり注目された。
スイスでは、さすが最新式の方法を採っているという感覚が第一に我等の頭脳を交叉したのである。それよりもなお我等の頭に強く響いたのは、テクノス時計会社の全景が日本の輸入元などでPRの場で使う写真のそれと、その前景が少しも異っていないというところに感服した次第である。
誇大さや誇張性がないという真実を裏付けるためには、この点を取上げただけで十分だと考えた次第である。
次には、あの有名を謡われているエニカ時計会社を訪れた。生憎ラシーン社長は豪州方面に旅立たれたあとだとあって、代理の重役が応対してくれた。エニカ時計会社としては、世界にも稀と思われる程の豪華に出来ている貴賓室の間で、エニカの出来るまでという八ミリ映画の披露に預かった。そして工場内の組立の一部を見学してからいよいよこの日のメーンコースであるビエンヌのオメガ工場見学という段階に移ることになったのである。オメガ社はビエンヌ市の中央部に位置しており、ここの屋上から市中を展望すると四方に市街状況が展開するという美観を持っている。写真は、オメガ会社を訪問した時のスナップ。

立派なオメガ時計工場を見学した
オメガ、チソットの発売元であるシーべル・ヘグナー社を訪れた

《昭和三十八年㉓》 オメガ工場では会議室においてJ.PHOTTER重役から我等一行の視察団に対する歓迎の挨拶があった後、工場案内係に引率されて一階から六階に到る各階を工程順に従って見て回ったのである。
時計工場の見学では、精工舎、シチズン、オリエント、リコー等国内時計工場の状況を見学しているだけに、オメガ工場の設備のいかんはこの眼で見ただけでも十分に知り尽しうるものである。だがオメガ工場を見て新しい味わいを感じたのは、メッキ方法とその設備、更にオメガ時計を水圧テストにより合格品の検査を厳重にしている点などの特長が公開され、眼前に於て展開されていた点が強く感受されたのである。
見学は午後二時から六時すぎた頃までの四時間半以上にも及び、然も廊下が大理石を敷き詰めた高級なものであるだけにとてもくたびれた。そしてまた、この後に待っているFH本部での会談の予定もあるので急いでオメガ社を辞去したいとの気持で少しあせっていた。ところがこの時オメガ社では、ミスター藤井に関する限り、今日は時間をかまわず待っている事になっているから心配はいらないという説明をしてくれたので先ずはホッとした次第。
外国における場の時間という問題には、特に気をもんでいた私にとって、この時の言葉が何ものにもまさる慰めとなったのはいうまでもない。
FHというのはスイスの時計製造業者連盟という意味の団体の略称である。このFH本部に対しては、予め日本の出先機関を通じて連絡してあったので、これに基いてこの日の会談プランが作られていたのである。
会談の要旨は、スイスの時計が世界的に進出している中で、日本市場に対する方法と合せて、今後の処置について要望してみたいという意図から会見を求めたものである。
FH本部のこの日の会談の場に参加したのは、団長の私の外には、日本堂の佐川専務(社長令息)、黒田時計店社長、北岡茂美三共社々長、平和堂貿易の高木克二社長、同小野常務など、FH側からは極東本部長のレトナル氏以下各班の重役陣十余名が列席した。
席上には、日瑞両国の国旗を立てて歓迎の意をつくしてくれた。そして会談が進められたその時の要点を要約すると、その頃は電池時計の出現に特に期待をもち、且つ注目されていた時代であったので、先ず@時計の進歩性についての見込、A腕時計についての電化傾向とその実現に対する可能性、Bスイスの生産現況と将来性、C日本時計市場に対するスイス時計としての観察と具体的方法、などの諸点について意見を交換したのであったが、この中でスイス時計の生産状況は、年四、五百万個に及んでいる点から
悲観的な材料など持っていない。
ニレクトロニックスの研究・開発にはより努力を続けている等、慎重に検討が行なわれている内容を明示された。その後の締めくくりとして、時計の世界的品評会を開催したいと提唱して会談を終えた。この点には積極的な意思表示は見られなかった。かくて、この日の会談は午後八時頃から始めて十二時を過ぎていた頃まで及んでいたのだから頗る長時間を要した訳でその場の厚遇に特別感謝して辞去した。そのあと私たちが泊る
ことになっているホテルエリットのレストランに移して、こんごはオメガ時計会社招待の晩餐会がここで引続いて開催されて大いに歓待を受けた。
それからブランデーなど飲みながら、どうだオメガの日本における将来性について等の質問を受け、大いに歓待されたものだ。 時に二時四十分を過ぎていたにもかかわらず階上のルームに戻った所、部屋には依然約束していたオメガ会社に会社に特派されていた日本人技術者ら二人が待っていてくれたのには深く感激した。
写真は、FH本部代表で極東本部長のレトナル氏と藤井勇二団長を中心にした会談のスナップ(三十八年九月二十八日ビエンヌ市で)



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334353637383940
page:28