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中古時計の販売も禁止に
「七・七禁令第二条」の規定によって

《昭和十五年》 ところが以上の販売禁止措置は新品の場合であったのだが、政府は「七・七禁令第二条」の規定によって、中古品でも主務大臣の指定した期日(十月七日)以後は販売を禁止すると発令されたので、これによって受ける打撃は大きかった。
それは新品の時計は、国産品の外は輸入品が杜絶されているので、総ての時計が中古品という名目で要領を使えるという見込みであったからである。その中古品の販売も禁止されるということになったのでは手も足も出ないということになったわけである。
このときの政府命令を見て、国民の大多数は、戦争へのかり立ての激しさを予想していたが、ガッカリしたような面持を見せていたものだ。既に軍隊への徴用令も出ていた時だけに、業者の年輩者も場合によっては、いよいよ国民皆兵の域に突入せざるを得ないのか?という気持を内心秘めていたようであり、元気など誰からも見られない頃だった。

専門新聞業界もいよいよ断首時代へ
業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た

《昭和十五年》 戦争は拡大する一方である。従って国内の経済統制令は、次ぎ次ぎに無雑作に打出されて来る。街には知人友人を問わず、軍隊への送り込みのため歓送会が毎日街頭風景を呈していた。それが毎日課題のごとくだから、その忙しいこと。毎日の日刊紙の紙上には、戦線の状況が報ぜられているので、なおさら戦禍に巻込まれる気分が深められていた。そのためか、このころから業界新聞に対する断圧もまたひとしきり激しくなった。
支那事変に移ってから警視庁にある検閲係の呼び出しで、新聞紙法に低触するものはドシドシ断首の処置を執られていた。それだけに経済統制令の強化に伴なって新聞への断首措置が強くなったので、時計業界でもだんだんに廃刊の運命を辿っていった。しかしこの断首措置の裏をかいて同僚の勢力と運命を断とうとした悪辣な手段をとろうことを画策し、これをウラで描いていたのがある穏のことから暴露されるに到った事件があった。
警視庁検閲鰥の漸首係は田中杲という巡査査部長、それが業界の杲メーカーの畑の中にあって、今は故人となった某氏と新聞人の二人が共謀して画策した陰謀遂行のために密会した事実が暴露されるに到ったということである。
陰謀事件の本体は、昭和十四年十一月一日、武州御嶽山の山ごりに出かけた時の陰謀計画の際にも含まれていたものである。この事実を知って私に密告して呉れたその人は、それらの悪業を痛烈に攻めた。正義は強かった。警視庁で不当の断圧に責められていたとき、私の知人で親交の深い少しく力を持つ某が検閲、特高課長に直接会ってその是正を要求したことがある。そんな事情から悪くどい断首計画は中止して、今度は新聞に対する組織制を新たに打出すことになった。それは業界新聞の真実の貫録をみる手段でもあったようである。つまり業界の新聞である限り業者も加わった組織でなければならない。それを証明するためには、株式会社を設立して来ることだという、新たな命令を打出して来たのである。この新しい条件について行けるものは少なかった。業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た。私はレコード新聞の堀某氏と話合って設立した。新聞の新題号は「時計蓄音器興信新聞」というのであった。私の社の外には、山本、竹雅の両氏が主軸となり、浦竹を参謀にして吉田庄五郎氏の助力を得て、五社を併合した光学新聞が出来上った。その他は、このとき既に自然に消滅していったようである。

新聞陣営へのきびしい株式組織命令
光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない

《昭和十五年》 光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない。両社の中に板ばさみとなったのは、東京時計商工同業組合組長の野村菊次郎氏である。
その野村さんとは、私的なことでもいろいろと懇意にしてもらっていたので、当時の情況についても仲介に立って苦心してもらっていたこともある。対相手側には、故浦田竹次郎とその指図によって吉田庄五郎氏が助力者となっていろいろの面で暗躍していた。バカ臭くて、面白くないと思う面のことまでもタッチしていた情報が入った位だから、その間の心底のほどが計り知れたものだ。
吉田庄五郎氏と私との関係は、吉田氏の個人的所用なことまでも頼まれ、いろいろの相談相手になっていたほどであったのだが、急に態度を変えて相手側の立場に廻るようになった。そのねらいは、結局は、聞屋関係者におどらされたようだ。今でも当時の彼の行動の裹判断には苦しむほどである。結局は、吉田氏が気が弱かったがために浦田氏に引ずられた結果であろうというほかはないと思っている。
あの巨大なまでに一時は伸ばした東洋時計を遂に倒産にまで追い込んだなどのことを思い出すと、今さらながら当時の同社のウラ事情など考えて、おかしな意味で惜しいような気がする。

七・七禁令(販売禁止)の品目は
利益のために所蔵または取扱ったものに対しては国賊としての処置を

《昭和十五年》 昭和十五年七月七日以後の製造を禁止した七・七禁令当時の禁止品目は
次の如くである。
禁止品物は、十月七日以降その販売を禁止された(新品も中古品も販売を禁止)指輪、腕輪、耳かざり、首かざり、ネクタイピン、身辺装飾品たるペンダント、ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、アレキサンドライト、ヒスイ、アクアマリン、トルマリン、ジルコン、ガーネット、クリン、ペリール、トパーズ、スピネル、オパール、メノー、猫目石、虎目石、孔雀石、上耳古石、旦長石、青金石、クンフアイト、プラットストーン、又はへマクイトの人造品及模造品。
銀製品にして飲食用器具、厨房用器具、家具什器、美術装飾品、喫煙用器具、身辺用品、装身具、牌盃、被服附属金具など。
販売を禁止した品目(中古品を含む)
時計:一個五十円を超ゆるもの、帯止:一個三十円を超えるもの、バックル:ー個十円を超ゆるもの、眼鏡縁:一個又は一組十五円を超ゆるもの、写真機:一個五百円を超ゆるもの。

第二条第一項第二章による禁制品

銅製品の製造制限に関する件による指定品(シガレットケース、ライター、置時計、蓄音機及び針、万年筆、煙草セット)、銅使用制限規則第四条による指定品(腕時計バンド、腕輪、置時計、オペラグラス、楽譜台、喫煙用器具、蓄音竃ネクタイピン、ネクタイ止よ諮、耳かざり。
▽白金使用規則第一条による指定品装飾用品(装身具、身廻品、什器)、▽亜鉛、錮等使用制限規則第三条による指定品(置物、花器、賞盃、函物。その他美術装飾品、煙草セッ卜、シガレトケース、灰皿、その他喫煙具セット、髪飾、帯止、ブローチ、その他の装身具又は被服附属金具。▽ゴムの使用制限に関する件による指定品(ゴムバンド)、▽皮革使用制限規則第一条に(時計腕革、眼鏡サック、写真ケース)以上の各種目の製造と販売禁止は時計宝飾品界に大打撃を与えたことはいうまでもない。その結果は違反事件が随所に起り摘発されるまでに到ったなど、当時有名な事件である。昭和十六年の五月頃、警視庁の渡辺刑事が中心となって大がかりな摘発事件を起した。これによって時計宝飾品のそうそうたるメンバーが留置された。然しその事件は、裁判にかけられた結果、無罪を言い渡されている。
だがこの事件と同様な性質のもので、白金地金の違反に間われたものには“国賊の汚名”の下に死罪に相当する最大の処遇をうけたものもあり、逐に死を招いた被告もあったなど痛ましい限りである。
当時の白金は、戦争のための重要資材であったので、利益のために所蔵または取扱ったものに対しては特に国賊としての処置をとったものである。然し、この事件の裏街道に仕組まれたものがあったのではないか?という説もあるが。

「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」を設立して団体を統合一本化
全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任

《昭和十五年》 この当時は、業界の救済的団体として人気を高めていた金銀製品商連盟は、その事業とする金銀製品の買入が第一回に次いで第二回に亘り行われた昭和十五年六月の頃、突如として時計、眼鏡、装身具業界全般を統一した団体の結成を提唱して来た。これは金銀製品の買入れ事業を通じて業者側の便利さを眼の辺りにしたことから起った必然的な声であった。そこで、金銀製品商連盟では、業者側の要望に応えて次のような設立趣意書を配布した。

「結成ノ趣意書」

政府が所謂七・七禁止令ヲ以テ奢侈品ノ全面的管理ヲ断行セヨトスル時二当り、全国ノ時計、装身具業者モ亦進ンデ現時局二対処スル充分ナル認識ヲ以テ国家ノ新体制二順応スべク且ツ斯業経営ノ将来ノタメニモ全国関係業者が一大団結ヲナスベキコト(当然考慮セラルベキ問題デアル。
当時の業界世論に応じて金銀連盟は右の趣意書を配布すると共に六月十日右団体の設立小委員会をまず開催した。この日集った団体は、連盟関係の外からは、次の十団体名があげられ、その代表者が列席した。

△東京貴金属品製造同業組合(久米武夫、松山繁三郎、溝口万吉)、▽大阪時計貴金属商工組合(中里治三郎)、△神戸明石時計貴金属小売商組合(柴崎安雄)、△東京時計側工業組合(在間朋次郎)、△神奈川県時計眼鏡商組合連盟(石田修一)、△全京都時計貴金属商組合(小西一郎)、△名古屋時計商業組合(水渓直吉)、△東京輸出金属雑貨工業組合(梶田久冶郎)、△東京装美会(越村暁久)、△東京腕時計バンド卸商業組合(外園盛吉)。

この委員会では、満場一致で全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任することに決定した。而して、この決議に基き、連盟側では急速に推進を計り六月二十九日、十六の関係団体の代表二十八名の参集により、全国を統一する団体の結成は時宜を得たものであるという意見で一致し、その結果七月五日、東京・神田・一ッ橋の学士会館において設立委員会を開催する運びとなった。新団体の名称は、「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に決った。かくて連合会は同年十月二十四日盛大に開催した。

団体名は「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に
設立の趣意としては

《昭和十五年》 今ヤ我等業界ハ政府ノ金国策二即応シ生業報告ノ実ヲ示シツツアルコトハ銃後国民トシテ本懐トスル所ナリ、而シテ国際情勢ノ発展ニヨリ愈愈緊迫セル国家ノ現勢二鑑ミ我等業界二於テモ新タナル指導原理ノ下二新体制ヲ確立シ以テ国策二順応スルト共二、業者生活ノ安定ヲ期シ併而将来ノ国際経済戦二寄与セザルベカラズ、玆二業界ノ有志相図り社団法人金銀製品商連盟ノ斡旋ヲ得テ全国組合連合会ヲ組織シ政府ノ指導ノ下二別二定ムル所ノ綱領ニヨリ叙上ノ目的ヲ達成センコトヲ期ス。

綱 領
@ 全国業者ヲソノ職能技術二応ジテ製造、卸、小売ノ業態二従ヒ新体制二帰属セシムベキ限界ヲ定ムルコ卜
A 日常生活二必要ナル工芸資材ニツキ適当ナル限度ヲ定ムルコト
B 生産資材ノ配給斡旋機関ノ統一ヲ図ル事
C 商品ノ適正円滑ナル配給ヲ図ルコト
D 政府ノ低物価政策二順応スル価格ノ規正ヲ図ル事
E 我国ノ特能タル美術工芸ノ技術保存二務ムル事
F 現存スル製作技術、設備、資材及販売機構ヲ以テ努メテ輸出振興ヲルコト

選任された役員
▽会長=東郷安、▽副会長=宮村暦造、▽常務理事=川名啓之、亀山末義、越村暁久、五味行長、外園盛吉、松山繁三郎、森川浅次、▽顧問=矢板玄蕃(その他省略)。
(注)連合会の称号は、眼鏡業界の要請を容れて「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」と改められた。
かくて連合会の結成を見るや、商工省からは逸早く業界事情の調査方を要望し来り、特に七・七禁止令により販売を禁止せられたる手持商品の実態に関しての諮問があったので連合会では直ちに全国の加盟団体にこれらの申告を手配した。連合会がその使命の前に活動したのはこの調査が第一歩である。

連合会が企図した手持ち商品の展示会を東京美術倶楽部で開く
商工省、大蔵省、警視庁、東京府市市長ら大勢を招いて

《昭和十六年》 商工省からの調査、即ち七・七禁止令による業者手持の巨額な商品の届出に伴い、これを如何に処置すべきかの根本的対策を考究すべき必要が起って来たのは当然である。その一つの方法として連合会が企図したものは業界商品の展示会であった。販売を禁ぜられたあらゆる商品を一個所に陳列、商工省、大蔵省、その他の当局者を招請し、処理に関する適当な指示を仰ぐというのがねらいだった。昭和十六年、一月二十四日、東京美術倶楽部でその展示会を開催した。そしてその席に招請した人達は次の如くである。
(商工省)商工大臣以下二十七名、(大蔵省)大蔵大臣以下十七名、(警視庁)経済保安課長以下八名、(東京府市)府知事以下八名、(その他)東京商工会議所会頭以下十九名、(業界関係者)二十四名。
かくして商品展示会における実情に基づき、昭和十五年二月一日を期して禁止商品処理対策のための協議会が開催された。
商品展示会ノ目的ハ官民相互ノ認識ヲ具体化シテ新進路ヲ見出スコトニアリ。連合会ハ此ノ機ヲ逸セズ加盟団体代表宅ノ手二依り商品別二一貫シタ参考資料ヲ作図シ関係官庁二示シテ処理解決ノ途ヲ見出スベキデアリソレニ向ツテ努力スル。
という東郷連合会長の主張に依って、新たに禁止商品処理対策部会なるものが設けられることになった。その部会の組織に就いては、所属組合関係から委員を選出して小委員会を作る事とし、三十四名の委員が指名された。
また対策部会の活動は、逐次その目的達成の緒に就き、全国業者にとっても大きな期待の的となった。然し、その後において刻々と変化する時局の流れは、余りに慌ただしく、連合会というものの活躍を促がすべき機会にあわずして、年を閲みすことになったので、その間、東郷会長は連盟会長の辞任と共に連合会々長をも辞せられることになった。遂に昭和十八年六月の連盟役委員会において連合会の存否が議題に供せられた結果、当分は存続せしめるということになった。189上:近畿地方の集荷品を日銀に格納する時のスナップ

本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が
金銀連盟の前進体制

《昭和十六年》 戦局は次第に大きくなり、昭和十六年遂に大東亜戦争へと拡大していった。そのおかけで時計業界への打撃はすこぶる大きくなった。この頃、業界に存在する事業団体の種類は、金銀連盟という一体制に限られるようになって終った。だからこの連盟は、業者の手持商品を集めたものの、その処理という段階になって輸出会社を作ることにした。同時に並行して、一本化した全国的組織の組合作りの考え方が浮上してきた。別項参照)
業務の前進という点から考えたのであろう。日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が打出されるようになって来た。然しこうなって来ると、これまでやってきた連盟の事業は、時計貴金属商が持つストック品の処理という目的に重点がおかれていただけに、業者側としては時局性から考えて、新たに設立しようとする日本美術工芸品輸出KKという会社設立の目的は、金銀製品を更に一歩加重した範囲の完全なる新規の事業体になるものだという批判が投けられるようにもなって来た。
業界内部の意見がそのように傾いた状況を取上げたのは、当時の業界紙としては本社がただ一社。もっともこの頃は、既に一、二の業界紙しか存在しない時代でもあった。そんなような空気の中ではあったが、金銀連盟を作り上げたことで強気の波に乗っていた矢板玄審氏と、越村暁久氏の献策が進んでいった。日本美術工芸品輸出KKは、兎に角設立することになった。この会社の設立の記録を参考のため記すことにする。189右下:大蔵大臣から表彰状を授与される服部玄三氏と服部時計店社長

「日本美術工芸品輸出株式会社」の創立経過
全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じく

《昭和十六年》 聖戦既二四年ヲ閲シ我皇国ハ大東亜建設ノ理想実現ノ為メー高度ノ国防体制ノ確立ヲ婀シソノ国策ノ基調ハ声明セラレ各種産業ハ業種別二凡テ公益先ノ理念ノ下二統制アル団体ヲ整へ以テ新体制二順応シツツアリ。
我業界二於テモ構想ヲ新ニシテ激動ノ渦中ニアル業者ヲ扶ケ輸出事業二全力ヲ尽サシメテ海外新市場ノ開拓ヲ図り併圜外貨ノ得得ヲ期セントス。
日本美術工芸品輸出株式会社ハ上記ノ趣旨二基キ政府指導ノ下二社団人金銀製品商連盟ヲ母体トシ関係有志ニヨリ設立シタルモノニシテ洽ク之ヲ公開シテ業界ノ進展二資セン亊ヲ期ス。
以上の趣旨によって輸出会社が創設することになった。その議の起ったのは昭和十五年八月二十九日に役員会を開いた席上で、然も全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じくしている。

日本美術工芸品輸出社の創立発起人
会社の事業目論見書

《昭和十六年》 一、本会社(日本美術工芸品輸出株式会社卜称ス、ニ、本会社(資本金五万円(一株五抬円)壱千株トシ第壱回払込金壱万弐千五百円(一株拾弐円五拾銭)ヲ以テ事業二着手シ必要二応ジ第二回以後ノ払込ヲ行フモノトス(註=後二「資本金拾万円、第四回払込金弐万五予円」卜改ム)、三、本会社(公益優先ノ新体制二則シ組織アル統制ノ下二社団法人金銀製品商連盟ノ蒐集セル商品其他貴金属工芸品ヲ輸出スベク必要ナル事業ヲ行フモノトス(註=後ニ「コノ会社ハ国家ノ輸出統制ノ下二金製商品其他貴金属宝石及美術工芸品ノ製造売買及輸出並二此等二関シ必要ナル事業ヲ行フモノトス」卜改ム)
この会社設立発起入会が開催されるや、引続いて第一回払込を行うという超スピー度ぶりで、創立発起人には次の諸氏があげられた。
▽社団法人金銀製品商連盟=安藤善親、池田嘉吉、生駒権七、岩佐公崑、江藤順蔵、梶彦兵衛、梶田久治郎、亀山米義、久米武夫、越村暁久、小林伝次郎、坂本正造、武藤跌次郎、在間朋次郎、鈴木一郎、関屋延之助、田中淳一郎、東郷安、中里治三郎、中村善太郎、野村菊次郎、土方省吾、丸木真、外園盛吉、松田幸治邱、松山繁三郎、宮本英三、山崎亀吉、山岡清、矢板玄蕃、吉田庄五郎の各氏。
然しここまでは、一応進んでいたが上海及び南方に対する輸出状況と時局の急激な推移がからんで輸出会社の創設必要条件を見ることがなくなり、此の計画は一時留保の形となって越年した。然し、昭和十六年に入って再び此の計画の実行を促し、五月五日、商工省鉱山局、物価局、貿易局の課長級事務官等十数氏が連盟側代表と会談した。
この結果、商工省当局は急速且つ積極的に設立されるよう希望するところがあったので連盟でも一応同調に傾いたが、これに対して商工省当局としては、次の意見を持っていた。つまり、連盟が資材の配給及び業者の指導監督に当ることは結構であるが、輸出の事業目論見は既存商社の権益を阻害する結果ともなる憂いがあるとした。従って連盟としては、まず一商事会社を設立して置くことを良氏として、そうなれば其の業績の如何によっては、商工省公認とする事を考慮することあるべしという意見が述べられた。これによって設立機運は漸次促されたのである。
然し、反面業界の事情もこんがらかるようになって来たことから、結実の運びに到らずしてその侭持越しの形となっていた。そこへ又戦局のかれいさが加わって※だので、十八年七月に到って連盟解散の声があげられるようになり、状勢の変化と共に遂に流産の悲連に終っている。



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