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連盟設立当初の協力者が役員に選ばれる
東郷安会長、矢田玄蕃専務理事、越村暁久常務理事らが誕生

《昭和十四年》 因にこの間、設立の機構及び定款事業計画案などに関して、数次の会合に参加した主たる人々は、
《東京》 東郷安、山崎亀吉、矢板玄蕃、関谷延之助(日本百貨店組合理事長)、土方省吾(服部時計店代表)、細沼浅次郎(東京貴金属品製造組合理事長)、野村菊次郎(東京時計商工業組合理事長)、亀山末義(東京眼鏡組合)、越村暁久、梶田久次郎、溝口万吉(東京装美会)、山本信助、水野伊三郎(日本金地金)、伊藤重次郎、土屋好重(日本百貨店組合書記長)。
《大阪》 中里治三郎、生駒権七、梶彦兵衛、辻田峰次、江藤順蔵(大阪貴金属商工組合)

かくして、この社団法人金銀製品商連盟は、昭和十四年八月二日、社団法人設立の願いを東京府を経由して大蔵省、商工省の両大臣に提出、八日には日本工業倶楽部において東京関係の業者組合代表を招き、懇談会を開くと共に、大阪、仙台、札幌、金沢、新潟、広島、福岡の各地においても業者懇談会を開いた。これは、全国の業界にこの事業を周知せしめることに努める一方で、矢板専務理事が機構、事業の遂行の段取りや当局との打ち合わせとその進行に画した。実に目まぐるしいまでの活躍の中、九月二十八日付を以って大蔵省、商工省の両大臣から設立認可の指令が下され、重大局面を担って生まれた晴の子に「社団法人金銀製品商連盟」の名札が付けられることになった。
そして十月五日、東京会館で盛大な設立披露会が行われた。次いで十月十六日には、設立登記も終了し、二十六日には神田・一橋の学士会館で臨時の社員総会を開催、業界紙を交えて業界に設立宣言をした。当時の役員は下記の通り。
▽会長=東郷安、▽専務理事=矢田玄蕃、▽常務理事=越村暁久、▽理事=生駒権七、江藤順蔵、梶田久次郎、亀山末義、梶彦兵衛、野村菊次郎、中里治三郎、▽監事=関屋延之助、土方省吾、▽顧問=山崎亀吉、服部玄三、御木本幸吉、大沢徳太郎。

金銀製品の買い入れ制度が実施される
買入れの価格設定と処分方法の評価委員会が結成された

《昭和十四年》 連盟の設立から三カ月がたち、連盟の活動もすくすくと育っていった。設立認可に先立つ九月中旬、独り立ちの仕事に就いた。「同業者が保有する金製品の買い入れについて」の諸般の手続きが着々と進められ、買い入れ商品に対する価格設定とその処分方法を決定すべき評価委員会が結成され、九月の二十二日に一橋の学士会館で結成式が行われた。

金製品の買い入れ評価とその基準
東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して

《昭和十四年》 昭和十四年から十六年まで続けられた金銀商品連盟の事業の中には、買い上げ評価委員会を設けて、連盟が買い入れた商品の選定とその買い入れ価格の決定審査が行われた。従ってこの審査委員会においては、この連盟が買い入れるべき商品を選定し、各々の価格表を作成したのである。買い入れ基準表原案の作成に当たっては、まず時計、貴金属、眼鏡の三部門に分けて、各展示会の調査検討を行い、適正価格を算出し、製造、卸、小売りの三種別に、高価な買い入れ価格を定めるなど、煩雑と苦心とを要したのである。第一回目の買い入れ基準は下記の通り決められた。
(イ) 時計側(機械ナキモノ菊座及びかん付、但シ七宝、宝石入ヲ除ク)
(ロ) 時計鎖(提鎖、腕鎖、コートチェーンヲ含ム)
(ハ) 指輪(甲丸、印台、高彫、但シ石ノ入ラザル無地物二限ル)
(ニ) 眼鏡枠(生地枠ニ限ル)

昭和十四年の十月いっぱい、あらゆる準備で忙殺された連盟は、各府県の代表的業者を地方委員に、また夥して買入商品のために東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して、事業の普及と集荷の促進を期する朧立を終った。
次いで、迫水金銀局長の特別の斡旋で日本銀行の倉庫借用願を提出し、君島文書局長と再三折衝の結果、ようやくにその許可を得て、十月十五日から受入を開始した。そして第一回の買入商品を最も安全に格納する事が出来たのである。民間としては、ほとんど前例のないことだといわれている。雄々しい第一歩はかくて踏み出されたのであった。

金銀製品の買入について全国布告を図る
各地からの売却申込処理に火の車のような苦闘の日が続けられた

《昭和十四年》金製商品の買入方法については、かねて全国道府県知事、総務部長、経済
部長、警察部長等に協力を求める一方、各商工会議所の会頭とも連繋して全国の業者数を調査していたのであるが、その数、実に一万三千余に上る事が判明し、これ等に対して一斉に供出方を呼びかけたのである。
刻々と集る各地からの売却申込処理に、火の車のような苦闘の日が続けられた。そして昭和十四年はその繁忙の裡に暮れ、この買入の受付は十五年の一月末日にまで及んでいる。
昭和十五年一月、静岡市の大火に際しては十九、二十日の両日役員会を開催し、同方面からの売却申込商品に対する緊急評価及び買入の件を決定した外、職員を特派して買入代金の現地払いを実施するなどの抛置をとったので罷災者の感銘を得た。
買入商品が殺到したのは十五年の十二月頃である。従事者の不馴れと処理の正確を期するためとに依る努力は実に涙ぐましいものがあった。時に微宵して、商品買入の決定を急いだことも屡次に及び、職員の執務はほとんど連日にわたり早朝より夜半に至るまでの奮闘振りを示すに到った。

昭和十七年で買い入れ事業を終了した
日本興業銀行からの借入金総額三百万円を十七年七月二十八日に以て完済した

《昭和十四年》 「社団法人金銀製品商連盟」の評価委員会は、爾来時宜に応じて、昭和十四年度には十二回、十五年度には二十五回、十六年度には十五回の会合を開催した。十七年度以降は、買入れを打切ったのでその開催を見なかった。
この買入資金は、専ら融資命令に依る日本興業銀行からの借入金を以て充当したものであるが、この借入金は、総額三百万円を限度として逐次必要額の融通を受けるべきことを条件とし、十四年十月十日付を以て、同銀行の宝来総裁へ借入の申込みをし、同年十二月十一日の金十万円の借入を最初に、昭和十六年二月十四日現在の三百万円を限度として、昭和十八年七月五日には全額の返済を完了した。
この間、昭和十六年十月三十一日には、金資金特別会計から三百九十万円の融資を受けたが、是も十七年七月二十八日を以て完済した。しかも是等の借入金返済は総て連盟の業務に依る剰余金を以て決済し得たのである。

金銀製品商連盟の基本財産三万円は創立と同時に日本興業銀行の定期預金に
資金の出資者氏名は

《昭和十四年》 社団法人金銀製品商連盟の基本財産三万円は、創立と同時に出資額を定めて取り纏め、昭和十五年一月十五日を以て日本興業銀行の定期預金に託し、保管したのであった。出資者と出資額は次の如くである。
▽服部時計店:1,000円、▽日本百貨店組合:七、五〇〇円、▽大阪貴金属商工組合:
三、五〇〇円、▽日本金地金株式会社:二、〇〇〇円、▽東京装美会:一、〇〇〇円、▽金森安平:五〇〇円、▽小林伝次郎:五〇〇円、▽大日本時計株式会社:五〇〇円、▽鶴巻栄松:五〇〇円、▽東京時計商工同業組合:五〇〇円、▽東京貴金属品製造同業組合:五〇〇円、▽御木本真珠店:五〇〇円、▽吉田庄五郎:五〇〇円、▽生駒権七:三七五円、▽江藤順蔵:三七五円、▽梶彦兵衛:三七五円、▽中里治三郎:三七五円の合計三万円。

第一回の買入が一段落すると同時に、早くも第二回の買入計画が樹立され、二月二十日の役員会において第二次買入商品の基準表作成の件を申合せている。かくして三月十二日には、山崎商店ほか三店から第二回買入商品の見本七十一点を蒐集するまでに進んでいた。
第二回買入商品の基準表作成と前後して、金時計側の供出を促進する目的から、定款の第四条第五項に基づき、代替時計側の配給斡旋を行う亊となり、東京時計側工業組合の協力を得て、その事業を開始したのである。当時、代替時計側払底の折柄だったので、この企てはまことに時宜に適した措置として歓迎されたのみならず、各府県に於ける金時計側の蒐集処理をも極めて簡易ならしむることを得たのであった。

供出量の府県別比率
東京、大阪、愛知、兵庫、福岡、京都の順

《昭和十五年》 この当時の全国に亘る供出量を百分比として、これを府県別に見ると次の如くなっている。
▽東京:二四・三、▽群馬:〇・六、▽千葉:〇・七、▽長野:一・一、▽山形:〇・三、▽大阪:一七・三、▽静岡:一・八、▽和歌山:一・六、▽福井:一・九、▽広島:二・九、▽新潟:一・四、▽島根:〇・三、▽愛媛:〇・六、▽大分:一・二、▽熊本:〇・九、▽沖縄:〇・一、▽朝鮮:〇・三、▽神奈川:三・七、▽栃木:一・二、▽岩手:一・〇、▽福島::〇・六、▽京都:四・〇、▽青森:〇・一、▽奈良:〇・九、▽岐阜:〇・七、▽滋賀::〇・七、▽富山:〇・九、▽山口:一・四、▽徳島:四・〇、▽ 高知:〇・三、▽佐賀:一・一、▽宮崎:一・二、▽北海道:二・三、▽台湾:〇・一、▽埼玉:〇・九、▽茨城:〇・六、▽宮城:〇・三、▽山梨:〇・四、▽秋田:〇・二、▽兵庫:四・九、▽愛知:五・四、▽三重:一・三、▽石川:〇・九、▽岡山:〇・九、▽鳥取:〇・八、▽香川:〇・九、▽福岡:四・二、▽長崎:一・八、▽鹿児島:〇・四、▽樺太:〇・一計100となっている
かくて商品の供出者へは、感謝状を送付し、当局へも十二月三十日付で買入終止を報告した。

蒐集金製品の輸出事業の展開とその終結
事業着手の第一歩としてブラジル輸出品展示会を計画

《昭和十五年》 金銀連盟が当時の貴金属業者からその保有する金製商品を蒐集した事業
は、連盟設立の主眼であり、政府の時局策に順応したものである亭はいうまでもない。しかし、この蒐集のために一定の機構を整え、多数の人員を配し、且つその減り工料を加算した商品代金を支払った等の細かい点にまで及んだ事業を行ったことで連盟としては相当の金額を損失したということから、その損失を補填する意味と、また、一つには、国内物資不足の対応策として輸入物資の引当のために連盟が集めた金製商品を輸出品資材に当てはめることがよいとして、輸出向に転用したことが注目された。このため昭和十五年三月十九日にブラジル同輸出品展示会を学士会館で開いたのが連盟として、この種事業着手の第一歩であり、四月十三日にはブラジル向輸出品の見本写真の携行方を外務省の三浦事務官に依頼した。
輸出に関する記録としては、昭和十五年五月七日の第一回輸出相談会において討議された結果、中南米方面ならびに印度南洋方面に対して具体的な運行策を講ずることを申し合せた。第二回相談会開催の折には、輸出向商品の選定について、各出席者から専門的な意見を徴されたが、こうなってくると時計、貴金属界との因縁関係は漸次薄らいでいくことになった。しかし、当局としては時局下、輸出振興の国策にも一助するという状況下であったので、この面の事業に服部時計店、御木本真珠店などが事業面を通してタイアップしていた記録がある。
しかし、この中、直接巡連盟が輸出面に手を下したのは、上海と広東とであり、当時この連盟がこの両方面への進出を企図した所以は、一:金銀、宝石類が軍需又(生活物資二非ズシテ高価ナル外貨獲得資材ナルコト、ニ:未開地ナル共栄圏、特二南方諸地方二於テ(金製品ノ需要旺盛ナルニヨリ商品トシテ有利二売却シ得ルト同時二、従来ノ手段二依リテハ蒐集シ得ザリシ物資吸収、従ッテ華僑工作ノー端二資スルコトヲ得ルコト、三:軍需対策トシテ(関係当局ニョリ物資交換所ノ如キモノヲ開設スル事ヲ得バ金(ソノ最高ノ効用タル使用の基礎トシテ活用セラレ通貨タル軍票ノ信用二好結果ヲ及ボシ得ルコト、四:国内的二ㇵ製造販売禁止セラレタル貴金属製品ニツキ特二我国伝来の特技トシテ尊重シ得ル象嵌高彫其ノ他ノ技術ヲ輸出二依り保持シ得ルコト。
という点に外ならなかったのである。

同連盟が如何に頻繁に会議をしていたか
当時の記録 第二回買入と委員名で分かる

《昭和十五年》 ▽昭和十五年・一月十三日、評定員懇談会を開催、▽昭和十五年一月十九日、中央物価統制協力会議へ加盟、▽昭和十五年二月一日、金製品蒐集区域ヲ植民地域へ拡張スル件ヲ決定、▽昭和十五年二月三日、大蔵省ヨリ金地金売買業者指定証ヲ下附サル(本件ハ遂年期間ヲ更改シテ継続セラル)、昭和十五年二月五日、金鍍金液使用ノ件許可サル、昭和十五年二月二十日、役員会二於テ越村常務理事辞任ノ件ヲ承認。
此の第二回買入に関しては、一般事務の促進と共にその操作を容易ならしめるために、業界人の中から見識のある士を常任委員に委嘱して業務の担当に任せしめる事となり、昭和十五年四月十七日を以て荒木虎次郎、川名啓之、梶田久治郎、亀山末義、後藤清貞、長谷川恵章、外園盛吉、松山繁三郎、溝口万吉、森川浅次の十氏に夫々委嘱してその快諾を受けた。(長谷川氏は同年八月二十三日辞任、同年十月二十九日加藤清十郎氏を後任に推す)

常任委員会の使命
取扱商品買入基準表の原案ノ作成や商品処理二関スル宣伝、連絡等

《昭和十五年》 随時常任委員会ヲ開催シ左記事項ヲ委嘱シ実情二即スルコトヲ期ス
@ 第二回取扱商品買入基準表の原案ノ作成、A商品処理二関スル宣伝、連絡其他日常ノ事務事項ノ処理。
常任委員会において、五月一日、同二十一日の二回に亘って全国連合会長及び組合長宛の出荷勧奨状を発送して全国時計及貴金属業者の認識を促し、業界新聞に右に関する共同声明書を発表した外、東京においては各区の小売組合支部長会議に出席して、出荷勧奨に努めるなど、その労苦は筆舌に尽し難く、古品、新品の鑑別、業者よりの質疑応答等、しかもこの間、委員会並に小委員会を開催すること四月二十日を第一回として実に二十七回に及んでいる。
特に第二回の取扱商品買入に関しては、協議すること十数回にして六月二十六日、基準表を決定発表したのであった。
(イ)男子用提物(方針「虫付」メダル類)カフス釦、金貨枠、ネクタイ止、ネクタイピン、パイプ、ナイフ、シャープ、コ―トチェン、カラー止釦、カラー止鎖、横ピン、バックル其他金製品頽一切。
(口)婦人用帯止金具、頭髪用品、短鎖提、羽織紐、其他金製品一切(以上何レモ石ノ入ラザル無地物二限ル)。
(ハ)石ヲ主トシタル製品ノ空枠(指輪、帯留、カフス釦、頭髪用品、其他)
(二)主トシテ金ヲ以テ製作シタル商品一切。
業界への出荷勧奨については、一方ならぬ苦心を払っている。既にこの勧奨は二月中旬から開始せられ、常任委員会の結成と共に本格的に呼びかけられたのである。その結果は、五月、六月頃に入って、各地からの供出漸く旺盛を極めるに至った。従って各方回ともその供出者の便利に資すべき対策の考究を必要とするに至ったことは勿論、矢板専務理事は後藤常任委員と共に職員を引率し五月二十七、八の両日名古屋市に出張、同方面の業界代表者の熱心な協力を得て、業者から商品の受入を行なうと共に事業目的に関する懇談を遂げ、帰途静岡市にも立寄って同方面の業界代表者とも懇談する等の足跡がある。



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