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時計・眼鏡・バンド・喫煙具など英文のカタログを発行した
戦時中の輸出推奨策として

《昭和十四年》 戦争が益々激化していった時代だから、この頃の企画としては、国産品を輸出に向けるための方策を推進することが重要であろうと考えた。
当時は、輸出金属雑貨工組を設立した直後でもあり、更に、中支那方面の外国市場の実地調査も行ったあとだったので、その面のタクトをとることに設計したのである。そこで光村原色版印刷会社と交渉して、全英文のカタログを発行することにした。スポーサン関係ではセイコー、シチズンの両社、それに真珠、時計バンド、眼鏡類、更にシガレット界方面では丸山清次郎商店などの協力を求められたと今でもその当時を思い出す。
そして、そのカタログは世界の主要国に発送した。従ってその結果の反響はあったが、この当時は、今のように、日本製品の人気が世界的に評価されている時代ではなかっただけに、そのカタログによって取引上の効果を直接収めたかどうか詳らかでないが、それでも新聞社としての活動効果の点では外国からの通報増加により認められたようである。

「東京装美会」の誕生と当時の業界
「東京貴金属品製造同業組合」の他には、団体という組織がなかった

《昭和十二年》 ダイヤモンドの十割課税を一挙に一割に引下げた成功のその間の努力と功績は当時昭和十二年の貴金属業界に大きく響いた。勿論、当時ダイヤモンドを取扱っていた店は、貴金属専門店というだけではなく、堂々たる時計店であれば恐らく扱っていたものである。だから時計貴金属業界に活躍していた私の活動は各方面から賞讃された。
最も当時「商品興信新聞」としては、号外を発行し陳情の経過を特報したものである。このような業界の空気が反映して、貴金属界の中にも一つの団体の息吹きの気配が見られてきた。既に十一月にもなった頃のことだった。当時、東都の貴金属業界には、浅沼浅四郎氏を組長にした「東京貴金属品製造同業組合」の他には、団体という組織がなく、僅かに時計小売組合があっただけである。然も、この貴金属組合という団体の活勁状況は、当時でも毎日シルクハットにモーニングという姿で自分の店に出社していた細沼社長が代表者であっただけに、余りこれといった仕事などしようとはしなかったようである。年に一度の総会をやることが精一杯といいたい程、仕亊はしなかったものである。
この組合の書記長には、大室乙弥という何処かの官吏上りがデンと納まっており、新倍の四丁目にに養女のてる子さんというのを育てるために、レディメードの洋服店を営んでいた。その片手間にやっていたのだから組合の事業たるや、何おか言わんである。私たちが組合に必要な話を持ち込むと、とんでもないと怒られたものである。
このような状態であったのに不満を感じていた少壮連は、他に別の団体を作ることに希望を持っていた。この奔走の第一人者は、越村耀暁久氏であった。仲よしの後藤清貞相談役や梶田久治郎氏等と話が出来ていたらしい。
そして私に電話があったので、当時越村氏は浅草三筋町に営業所を持っており、満州方面への出張、販売に専念しながらの硬骨漢の持味を見せたものである。越村氏が貴金属界入りした元は、今の御徒町の駅前に手島製作所という貴金属卸商があった。そこの債務整理をしたことから貴金属業界の事情を知ることとなり、チャンスを得たのである。
だから手島氏によく会っていた私達のことは、予め知っていた。そのような関係だったか
ら業界入りしてからは勿論じっこんにしていたので、団体作りの場で相談をかけられたのは当然ということになる。
兎に角、東京装美会の設立は、十二月十二日頃になって満州の出張から帰った越村氏との
間で決められた。発会式は翌年の一月六日、浅草・裏田浦の草津亭で挙行された。この時の写真には、当時の貴金属業界では、第一線の天野、山崎、御木本、金忠、溝口、藤田の各店に加え、伝統最古参の村松商店の一族が加わって、賑やかに行われた。当時の会員数は五十二名、事務所は三筋町の越村氏宅においた。役員としては、理事長=越村曉久、専務理事=溝口万吉、後藤清貞、理事=谷口賀良倶、梶田久治郎、藤田貞一、巽重雄、荒木虎次郎、在間朋次郎、長谷川恵章、外園盛吉、加藤清十郎の諸氏。

東京装美会は、誕生したもののこれといった目標もなかった
貴金属品への課税軽減運動に努めた頃

《昭和十二年》 かくして東京装美会は、誕生したもののこれといった目標もなかった。だが世の中は、満州事変を通じて戦時体制の色を濃くしていった時代であり、何かの場合には、団体活動が必要となるであろうと思われていた。それだけに装美会が生まれてからは、何かと越村氏に対して業界からの呼びかけがあったようである。
かくして時世の進展につれて支那事変特別税法というのが発令された。このころから貴金属品への課税軽減運動に努めたことなどがある。就中、目立つたのは、金及金製品の買上
げについて協力することになったということである。

統制時代への変遷と輸出組合の新設コース
輸出組合への組織替えの構想を図る

《昭和十二年》 ところがこの頃既に、支那事変は急速に進展していた。従って、いついつなる命令が出ないでもないと国民の誰もが考えていた当時である。私は良く論議をしたものである。それは戦争にまでなった原因についてである。
つまり英米の連合国が、日本の対満進出を阻止する手段として経済封鎖を断行したので、戦争の発端が余儀なくされたのである。その根源的性格を見極めているだけに、これらに関する戦争突入によって来る何らかの指令はあるものだと考えたものだ。だから徴兵制の強化による応召やその他の影響も国民の頭には予想されなかったのである。
ところが遂にその時代がやって来た。戦争によって金の必要度が高められたので、政府は産金奨励を行なったが、一面、消費規制の面でも抑制策を樹てた。昭和十二年八月に到り
産金法施行令が出たので、遂に金の使用は制限せざるを得なくなり、業界事情も勢い急変を来すことになった。貴金属業界は、この頃からいよいよ火の消えたような状態に変っていった。そこで業界を救済する道は何かということで、緊急会議が随所で開かれた。
当時の貴金属界の状勢は、同業組合では、無策すぎるという観点から、諸所の方面へ飛んで歩いては見たか、ことの本来が卸商という立場であって、原材料の供給がなくなっては処置なしということで術なく終ってしまった。
このとき、時計附属界でも対応策に奮い立とうとした。当時の井村同業組合長を筆頭に、顧問の小森宮、浦田竹次郎、梶田久治郎、谷田賀良倶、中野新助、青木房吉、山田乙二、
宮田伊太郎の諸氏が協議した結果、発案したものは輸出組合への組織替えの構想であっ
た。そこで、その準備工作の立案について私に呼出の電話か中野新助氏の自宅からあった。
「業界の危機を救うのには、輸出業務への切り替えしかない」として、現在の「東京時計附属品同業組合」の輸出実績を作って、輸出組合への設立替えをするという願いを実現してほしい旨懇願された。
気丈夫な中野新助氏や小森宮氏の願いでは否応なしに引き受けざるを得なかった。しかし、当局への書類の提出期限があと五日しかないと差し迫っていたので、徹夜での仕事となった。さて、その材料という段になって行き詰まった。この頃の中野氏の長男が中近東領への輸出を行っていたことを突き止め、統計に用いられるような書式形式のものを丸写しして輸出先の状況については、二日二晩徹夜して作成し、商工省の輸出振興課に向けて提出、認可の指令を待った。

昭和八年の夏、同窓生である三木武夫元総理を渡米させる
私の処生観

《昭和初年》 大正十五年に業界新聞を創刊した私は、当時住居を別にして上野広小路に本社オフィスを置いていた。だが事業を伸ばすためには、住居とオフィスを兼ね備えた立地を選ぶ必要がるとして昭和元年、本社の現住所である文京区湯島に移した。アクセスの良さもあり、現在の住所には満足している。
昭和四,五年から書生を事務所に住まわせ、昼間雑用をさせた後は、夜学に通わせていた。私の人生観は「若者を勉学にいそしませ、世の為になる人に育てること」を使命にしている。その使命感からか、昭和七,八年頃には、書生の数は七人になっていた。昭和八年に明治大学の同窓生である三木武夫君を本社の社員として籍を置き、渡米させることにした。昭和八年の夏、横浜港から三木武夫君は飛びたった。
かくして三木武夫君は昭和十年の夏、八月十二日の夜に帰国した。

昭和八年に「満州地方大座談会」を開催
業者大会を連続して五年連続して開催した

《昭和八年》 業者大会を連続して五年連続して開催してきたその翌年の昭和八年に「満州地方大座談会」を開催した。それは満州から北支、中支方面に亘り、本社社員として活動していた長山正夫君が同地方の実情視察を望んだので、それに対応させるための処置であったのだが、業界の為に奉仕し得ることに役立てればいいという望みの他にない。私が業界の為に努力を惜しまないという気持ちがある限り、人生を通じての奉仕活動は今後も何ら変わらないはずだ。

セイコー製品専門卸の山田時計店が開業
山田社長の決意と心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれる

《昭和五年頃》 当時、画期的なデビューを飾ったのがセイコー製品専門卸の山田時計店であった。それなりに売り上げを上げていた時計卸業界だけに、この“セイコー専門卸”というタイトルには驚いたようだった。時計業界は、競争による価格の低迷でほとほと困惑していた時期でもあっただけに、業者間の競争は卑劣を極めた。
昭和五年五月ごろ、銀座にあった服部時計店東京営業所の卸部で服部の中川総支配人と会っていた時、山田時計店の山田徳蔵社長が現れ、そこで山田社長に紹介された。その時、山田社長は「すでにいろいろ数多くの卸商が存在する中で、専門卸商の名前で開業するのは、将来に亘り精工舎一本でやっていく決意をしたからです」とその決意のほどを語っていた。中川総支配人は、「しっかりおやりなさい」と山田社長の肩をたたきながら激励していたのを思い出す。この時の山田社長の決意のほどが伺われ、その心強さと終始一貫した姿勢に心を打たれ、若い後輩の人達に伝えなければと思った。
時計卸商団体の「五日会」が誕生したのが昭和八年十一月五日、三十名の会員を有して発足した。勿論精工舎専門卸として堂々たる経営ぶりを見せていた山田時計店もメンバーの一員として名を連ねていた。山田時計店が独立、開業した当初の資本金は、確か五万円であったような気がする。いまでは何と巨億の資産と聞くが。

時計側の菊座専門メーカー・野口製作所は、すでに創業三十周年
忘れてはならないのが内助の功・内田専務さん

《昭和五年》 時計側の菊座専門メーカーの野口製作所の発展は素晴らしかった。その昔、隅田区の横川橋に居た時は、岸とかいうメッキ工場の片隅でコツコツとモーターを動かし作業を続けていたが、最近では業績が上昇して、現在の足立区に本社や作業所を本建設、全て理想的な会社作りを果たした。今では、代表や理事長など公的立場で社会に貢献している。
野口製作所の発展に忘れてはならないのが内田専務さん。昭和四年の十二月三日、野口製作所の創立三十周年記念祝賀会が盛大に開かれた。

東信商会の依田社長の強みは、「調和を大切にする人柄」
鶴巻時計店で修業したのが功を奏した

《昭和五年》 東京時計卸商業協同組合の理事長の重責を担っている東京・池袋の東信商会の依田社長は、現実主義者と評されていた人。その昔、鶴巻時計店で修業したのが功を奏し、商魂たくましいながらも、人と人との調和を大切にする人柄が、組合員の間からも伝わってきた。

スタンダード時計から製造開始に関する相談
「製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」

《昭和五年》 スタンダードというブランドの時計は、アメリカにおける製品であり、余り日本には輸入した実績が少ないものと見えて古来からも有名ではない。
ただダラーウオッチの類に少しく見られたような範囲のものであった。このスタンダードという時計の会社は第一次世界大戦のあとで、倒産の厄目にあったと聞いたことがある。「そのスタンダード時計会社の製造機械設備の一切を捨て値で買わないか」という話を持って来たのである。話を持ってきた主は、明治末期の頃、時計修技術者として単身米国に渡り、自己資金でロスアンゼルス市に天賞堂という商号で時計の小売店を営んでいた山口県出身の渡辺金次郎という人である。この渡辺さんは、昭和の始めの頃、故郷の日本を思い出して日本に帰って来た。その時私の社に立ち寄ったことから以来、懇意になっていたのである。元来は、本紙の購読者であった。だから日木の時計界のことはよく承知していた。そんな関係から、日本の時計業界には精工舎だけが存在しており、その他に小物時計のメーカーが存在しない事情を良く知っていた。
渡辺氏がこの話を持って帰って来たのは二度目に帰国したときのことだったから、昭和五、六年の頃であったかと思う。米国スタンダード時計会社既存設備用具一式の譲渡品目表を持参して、私にその時計の製造について相談をかけたてきたのである。だが腕時計等の小物時計のメーカー企業を押進めるには相当の資本と気力が必要であるということを、私はこれまで業者関係を通じて経験したことから事情を承知していたので渡辺氏の希望を聞いた上で、これに対してこと細かに反問をしたものだ。それによると、渡辺氏自身は当時二百万USドルを所持しており、その中の半分のI〇〇万ドルだけを出資して、その他の一〇〇万ドルは日本の時計業者から出資を求めてスタートしたいという構想であったのだ。そこで私は、この構想を断念させるよう積極的に務めた。そのときの説明要旨は次のようだったと思い出す。
時計企業というものを、他面から見ていると頗る割のいい事業のようにも見えるが、然しそれを成し遂げるまでの苦労と来たら、それこそ湿舌につくせない程の努力を要し、更に莫大な投資が必要となる。私の見聞している範疇でも、村松時計製作所の如きはその苦労さを物語るのに充分役立つだろう。村松製作所で作っているプリンスという時計は一応出来てはいるが、然し、時計としての本来の品格である時間の合う時計を作り出すまでにはまだまだ程遠いものがあろうことになる。それなのに、現にその村松氏は時計作りの為に懸命に努力をした。ダイヤモンドを売った店の利益を全部つぎ込んでも足りない経営状態である。だからその為には、村松氏自らが油の付いた作業服に身を包み、油に手を染めながら努力を続けたのである。
更に、その村松製作所を今日の状態にまで持ってくるには、創業当初の近藤男爵の資材をもってしても成しえなかったという経緯がある。
だからそれでもやってみようというのであれば、及ばずながら私も人肌脱がなければならないことになる。その前にまず、あなた自身の決意として、所持金全てを投げ出す覚悟があるかと聞いた。そこで何とかスタンダード会社から預かってきた譲渡の品目表を譲ってもいい結果が残せればという希望があったので、この話をそのまま吉田時計店に持ち込んだ。だがこの話は簡単に葬られた。日本における精密時計工業としての現況は、繁栄をもたらせていたのだが、昭和五年、六年当時の日本の時計界は、とても腕時計の企業に手を染めるなど思いもよらなかったのである。
だが、このスタンダード時計会社の設備一式を譲渡するという問題については、その後ある政治家の仲介で再び吉田時計店に持込まれたことがあり、奇しき因縁であるという思われたが、この時も譲渡の話は締結されなかった。
スタンダード時計会社の一切は、ソ連の国営として譲渡されたと聞いているが、それが事実のようである。



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