※写真をクリックで拡大します。
Home

大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任
東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」として結成した

《昭和十五年》 時計業界の情勢は、以上のような経過で、すこぶる観覧をきたしていた。時計の卸業界は、舶来時計の輸入禁止、置き、目覚時計の製造禁止によって品物は需要に反比例して払底をかこっていたからヤミ値段が高まるばかりの状況となっていた。
そこで時計の卸業者の中から、決起するものが現れ、卸商業組合の結成を図る動きが出始めた。東京側では、大手の参加する動きが少なく、惜しくもこの計画は頓挫した。
所が大阪では、大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任した。頓挫した東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」との名称で遅ればせながら結成に漕ぎつけた。
服部時計店の別館でその準備会を開き、設立に関する取り決めを行った。この時、服部時計店からは服部玄三氏が代表として名を連ねている。役員として、中島与三郎、広瀬幸一、金森舛太郎、吉田庄五郎、鶴巻栄松、小林伝次郎の7人が発起人となり、資本金五万円、一口二百円、四分の一の払い込みで二百五十口を持って設立した。
このようにして戦争による業界の影響は、とみに激しさを加えて行ったが、当時小売価格の混乱を防止する意味で、協会価格の認定を申請したのは、神奈川県時連が最初であった。その結果、昭和十五年二月に認可を受けているが、しかしこれから業界は、暴利行為等の通り締まり規制の強化に従って、随所で違反事件が勃発した。

銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催
商工省物価局の呼びかけで

《昭和十四年》 商工省では、状況に対処するため、統制規則に基づいて、業界ごとに物価統制の小委員会を設けていった。時計界では、昭和十四年の四月ごろから商工省物価局の呼びかけに応じて、資料の収集に努めた。その上で七月三日、銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催している。
当時の服部時計店の支配人は、故中川総支配人の後を継いだ土方省吾氏であり、その時のメンバーは下記の通り。
始関物価局第二課長と鈴木、上園両事務官、岡田、上田両東京事務官に、業界筋からは、服部時計店の土方、村松英三の両氏に加え、西尾光太郎(中央時計工久美理事)、東京小売組合の野村理事長、松屋の金子角太郎氏が主席している。
これに需要者側として通信省の購買第一課長を加えた12名で、公定価格を決定すべき、品目に関する政府諮問を行った。その結果、昭和十四年五月、奢侈品等の製造販売制限規則を公布、支那事変記念日たる七月七日施行で一個五十円を超える時計の販売が禁止されるに至った。この時には、芝支部から選出されていた梶山平三郎氏もこの委員メンバーに加えられていたと記憶している。

昭和十四年、値上がりを抑制する手段であった九・一八が発令
品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商ら

《昭和十四年》 昭和十四年には九・一八が発令されて物品販売価格についても制限搢置が採られることになった。これは資材使用制限による物品の僅少化から来るものへの値上がりを抑制する手段であった。
小売界の店頭価格も定価どおりに売っている店は少なく、品あさりをする時代となっていた。時計卸業界では、舶来時計の輸入禁止、置き時計、目覚まし時計の製造禁止に伴って、商品不足、その影響で需要インフレが旺盛となっていたので、商品界の動きは活発化していた。
その一方で打ち出したのは、九・一八であるが、事実はこの抑制策に反比例して物価が上昇していたのが事実だった。しかし反面、品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商らが散見された。

「九・一八令」当時の時計の卸価格は
支那事変が長期化するにつれて経済統制は、一段と強化

《昭和十四年》 支那事変が長期化するにつれて経済統制は、一段と強化されることになり、これに対する「九・一八令」による価格の厳守が各方面で要望されていた。
その当時の時計の卸価格は、次の如く示されていた。
ステンレス変形腕時計
ナルダン=180〜300円、ロンジン=150〜250円、オメガ=150〜250円、モバード=100〜200円、チソット=80〜180円、バルカン=80〜230円、エレクション=60〜100円、ロレックス=60〜80円、ウオルサム=50〜70円等。
以上のような状態で、舶来時計の輸入が禁止されてからすでに二年も経つのに、依然として値上がりが見られた。そのため国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出しなければならないのだったが、逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこという景況を見せ、値段が闇価格になった。そんな中、「物価統制令」が引かれて、更に「暴利行為などの取り締まり規制」が発令されるようになり、警察の取り締まり強化が始められ、各業界も協定価格の設定が要望されるようになった。
以上のような状態で、舶来時計の輸入が禁止されてからすでに二年も経つのに、依然として値上がりが見られた。そのため国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出しなければならないのだったが、逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこという景況を見せ、値段が闇価格になった。そんな中、「物価統制令」が引かれて、更に「暴利行為などの取り締まり規制」が発令されるようになり、警察の取り締まり強化が始められ、各業界も協定価格の設定が要望されるようになった。

時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった
輸出入に関する臨時措置の法律で白金地金の配給統制規則が制定された

《昭和十二年》 昭和十二年法律第920号で、輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された。このような発令は、戦争が拡大するにつれ、次々と発令され貴金属品や時計附属品を扱う生産業者は、私が作ったこの輸出業組合に入る以外に道はなかったと思う。そんな状況だから組合事業はスムースに進んだ。しかし、私は時計業界にも顔を出していたので、当時の国産時計メーカーは、すでに軍需工業への要求に片寄らざるを得なくなっていたようで、恐らく時計の生産面では思うようにはいかなかったようである。だから時計の価格は、品不足によりますます高騰していった。また輸入制限によりスイスからの輸入も途絶えていたようで、時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった。

輸出組合を退陣、金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集
東京都から助成金として二十五万円を受領

《昭和十二年》 私は輸出組合を作ってから商工省との関係も良好で、当時東京都から助成金として二十五万円を受領した。それを契機に昭和十三年四月の総会で組合事業から身を引き功労金として金一封を貰った。その金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集して決行した。多くの人は私の退陣に慰留してくれたが、組織というものの新陳代謝と”姑“的立場から退くことで、諸般の事情が軽やかになる事を願って速やかに退陣した。

時計メーカーが初めての統合時代に
初めて組合というものを設立することに傾いた

《昭和十四年》 戦争が始まってから最も革新されたものは、時計界の面では、メーカー群の集散状態が取り上げられる。時計業界の英傑と言われる服部金太郎翁の経営する精工舎と雖も戦争という非常時代に於ては、唯我独尊的行動は許されなかったことになる。その現われは、組合というきずなの下に、諸般の統合が行なわれることになってしまった。群雄割拠した時計メーカー群は昭和十三年五月二十五日に、初めて組合というものを設立することに傾いた。当時の組合員十四名、出資口数一二八口、一口の出資金五〇〇円、第一回の払込金額一二五円、計、一六〇、〇〇円で組織された。当時の組合員と役員名は次
の如くである。
▽株式会社服部時計店工場精工舎、▽株式会社第二精工舎、▽株式会社吉田時計店、▽大日本時計株式会社、▽株式会社鶴巻時計店工場英工舎、▽芝浦マツダエ業株式会社大井工場、▽東京時計製造株式会社、▽東洋時計株式会社上尾工場、▽東京電気時計株式会社、▽沖電気時計株式会社芝浦工場、▽株式会社精工社、▽株式会社栄計社、▽合資会社鈴工舎林時計製造所、▽株式会社原口電気製作所。
○役員:理事長=篠原三千郎(精工舎)、理事=吉田庄五郎、鶴巻栄松、国安卯一、西尾光太郎、監事=鈴木良一、田代軍蔵、干葉辰次郎。
以上の組繊によって七月十九日に設立認可が降りてから生産上に必要な素材の配給が行われた。それによって生産数量が記録されるにいたって、初めて各メーカーの生産内容が公開される段階に立ち至ったのである。

九・一八当時の時計界の状況
腕、懐中時計や掛・置時計の生産状況

《昭和十四年》 九・一八(昭和十四年九月十八日)発令というのは、戦争のために行われた国内の経済統制令であり、その目的は価格のクギ付けであったのだ。
即ち、昭和十四年の九月十八日現在の価格でストップ令が発令されたのである。
この統制令によって受ける影響は、その当時に生産されていた時計と関連商品の動きに関係があるので、以下それに関する項目を拾ってみよう。
腕、懐中時計の生産状況
昭和十年:一六五、九六二個、昭和十一年:二三五、六六一個、昭和十二年:一、一三一、九〇一個、昭和十三年:一、四四七、五二九個。
《掛時計の生産状況》昭和十年:五四三、〇六九個、昭和十一年:一〇、五七、五〇一個、昭和十二年:八九二、二ニ一個、昭和十三年:六〇九、六三九個。
《置時計の生産状況》昭和十年:一、九三〇、二三四個、昭和十一年:ニ、一五五、八二九個、昭和十二年:二、二四四、ニー○個、昭和十三年:一、四五七、五九九個。
《電気時計の生産状況》昭和十年:七九、六七五個、昭和十一年:九ニ、三五二個、、昭和十二年:四四一、四九三個、昭和十三年:一七〇、四五七、一五二個。
《輸入懐中時計》昭和十四年十月:一七九個、十一月:ニ〇五個、十二月:四九六個、昭和十五年一月:ニ一三個、二月:四四七個、三月:ニ五七個、四月:四四四個、五月:一六個、六月:一八個、七月:ニニ個。
《輸入懐中時計のムーブメント》昭和十四年十月:四四四個、十一月:四八ニ個、十二月:一、三二九個、昭和十五年一月:一、一六〇個、二月:一、三八八個、三月:一、四四六個、四月:六ニ九個、五月:九三二個、六月:六三〇個、七月:八六三個。

戦争行為と統制令
遂に方法の行き詰りを帰して、国家総動員法が発動される

《昭和十四年》 戦争に伴う諸般の政策を遂行するかたわら、低物価政策を敢て行ったの
である。遂に方法の行き詰りを帰して、国家総動員法が発動されることになった。これは十四年九月十八日の現状価格に釘付けするという意味なのである。従って、国内の各種業界は、一大混乱状態に陥ったことはいうまでもない。
時計業界の状況も御多分にもれず、昭和十三年以来、輸入禁止されていたので時計は国産の腕時計を主体として文字通りの引っ張りだこという情勢であった。従って、古物品といえども需要の目標となって来たので、ヤミ価格の問題は随所に台頭して来た。

物価統制による小委員会
一個五十円を超える時計の販売が禁止されるに至った

《昭和十四年》 商工省では、状況に対処するため統制規則に基いて、各業界ごとに物価抑制の為の小委員会を設けていった。時計界では、その年の四月頃から、商工省物価局の呼びかけに応じて資料の蒐集に努めた上で、七月三日に銀座の服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催している。
当時服部の支配人は、故中川総支配人のあとを絽いだ土方省吾氏であり、その時の委員には次のメンバーが名を連ねた。
始関物価局第二課長と鏑木、上薗両事務官、岡田、上田両東京都事務官に業界側からは土方(服部)、村松英三の両氏に西尾光太郎(中央時計工組理事)、野村東京小売組長と松屋の金子角太郎氏が出席している。これに需要者側として、逓信省の購買第一課長を加えた十二名で公定価格を決定すべき品目に関する件につき政府諮問を行なった。その結榮、その五月奢侈品等製造販売制限規則を公布、支那事変記念日たる七月七日施行で、一個五十円を超える時計の販売が禁止されるに至った。
このときには芝支部から選出されていた梶山平三郎氏もこの委員メンバーに加えられたと記憶している。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334
page:16