| 私達一行は軍用自動車に載せてフートン地区の実状視察に案内してくれた
《昭和十四年》 第三日目の一行視察行動については、前夜に打合せを行なって十一人が 打揃って歩く必要のない所へはそれぞれ希望別に行勤しようではないかということに話がついた。結局、私と越村氏との二隊に分かれることになり、希望者は双方の何れへでも随行することにした。私の方は中支方面視察の真目的である市場調査を目的としての行動をとることにした。早朝出発して、在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問することにした。朝七時三十分にホテルを出発、そして埠頭に第三艦隊から差廻してもらった、且っでの独乙軍の占領艇でフートンに渡ることになった。(注・フートンとは丁度月島を本土と切離したかような感じのところ)ここに、第三艦隊の司令部があったのだ。私は紹介されて、且ては秩父宮の御前砠射を行なったことの栄誉を持つ服部という大尉に面会した。そして支那における市場支配の構想について説明を求められたので。格別資本金は大して必要としないが、経験者の派遣によって実際的に支配してみせる、その代替物として、日本で作った軽金属製品を与えて、日支人国民間の交流を計りたいというのが私の希望であると抱負の概要を説明した。 ところがその当時、すでに丸の内の安田保全株式会社から安田という人が、資本金二百万円を持って私の考えと同じように市場の支配権の獲得の交渉にやってきたという話をこのとき聞かされた。その結果、少佐に説明の要点を伝えてくれることになり、約一時間のあとで出てきた大尉が「君の勝ちとなったと私の肩をたたいで説明してくれた。 それは大隊長の矢地少佐殿が曰く、軍は国民的観念によって貽っでくれる人を選ぶことにするのだから資本金本位によって事業を企む安田保全KKより君の企画を取りあげることになったのであると説明してくれた。 だが、少佐殿は所用があるので、南京へ行って帰ってから再度合うことを約束して大隊本部を辞去した。そのあと服部大尉は、私達一行を軍用自動車を駆ってフートン地区の実状視察に案内してくれた。フートンにいる民間日本人は、私達の外には二・二六事件に連座した山岸中尉の姉さんが宣教師となって渡っていただけで、あとは皆無だと聞かされた。だから私達の乗る軍用車によって馳駆する道すがらは異様な感じをもって見ていたようでも あった。このフートン銀座を経由して、支那農民の総てが生鮮な野菜物を担いで対岸の仏祖界に売りに行くのである。この売込み物物資を一括資して取扱ってやること、そのものが市場性を持つものであると私と服部大尉は現状の動きを眼の前にして語りあい、既に市場開発の際の企画が立案されたような感じでながめたのである。 この間、交渉成立の実現を眼の前にして、私に同行した一同は喜びと驚きの眼をみはったのである。 |
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