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長尾氏が残した『交換会の沿革大要』
会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートした

《明治四十年》 東京・芝高輪南町居住の今は故人となった長尾喜一氏が記録したその沿革史の概要は次の如くである。
明冶三十八年の日ロ戦争で大勝したあとのことで、当時ロシヤから分取った汽船ロゼッタ号という船が芝浦にあって料理屋を営んでいた。このロゼッタ号を会場に当てていた「京浜時計睦会」は、その発足当時から今尚続いている。
「オーイ、藤田君、日本は凄いな、とうとうロシヤをやっつけたからな」野島どうだ。「戦争も終って気分も落ちついたから、有志を集めて市場でも開こうではないか」と話し合ったのが明治四十年、野島、藤田の両氏が野島氏の自宅で茶花話から花が咲いたのをきっかけに持ち上がった話である。
そしてその結果、会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートしたと記してある。故人となった藤田栄吉氏は、当時二十八才、野島氏は三十三才の青壮年の二人であり、これが「京浜睦会」の発足当時の姿である。
この時集められた業者は、人形町の大場、銀座の平野、寺内、池の端の吉田庄五郎(先代)、紺良雄(三井号)、佐橋(道具)、沖田、小野嘉助、(小野金兄)、草深、中村時、川口徳蔵(質屋)、市岡の松本吉五節、金子福造、金子新蔵、上野の野村菊次郎の諸氏。
かくて「京浜時計睦会」開設一年が過ぎた頃、会場を神田雉子町の金清楼に移し、会員にタタミ町の諏訪喜之松、福井泰二の諸氏を加えて当時の睦会を続けた。戦後の経済情況による変化があって、再度の会場の変更となり、神田明神境内の「開華楼」に再び席を移すことになった。
この当時の商品交換市場というのは、この「京浜時計睦会」の他にはなく、京浜睦会こそが業界最大唯一の商品取引機関であったという。執筆中に、この頃の古い当時を想い出して、時計卸業者の金栄社の荒木虎次郎社長が自己の想い出の記録として寄せた記録があるので、次にこれを記して事実の裏づけに供しよう。

“開華の市”など市が盛んになった
商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は、温泉旅館で開催という“命の洗濯も

《明治四十年》 「京浜時計睦会」は、神田雉子町の金清楼で始まり、都合で神田明神境内の開華楼に移した。当時私が会の帳場を任されることになり、京浜時計睦会は「開華の市」と呼ばれていた。
開催日は、毎月八日と二十一日の二回、代金の決済は翌月勘定。歩合は、二歩(金潰しのものなどは一歩)。売買方法は、箱に一品づつ入れて入札する「箱回し方式」、椀に買値を書いて中盆に投げる「椀ぶ瀬方式」、そして形勢に依って増値をすることも出来るので、出席順で何点ずつかを売買するという規定もあった。
中盆というのは、売買の支配格で品ものにも明るく有力者でもあることで藤田栄吉さんが主として引請けていた。スケ(助)には、弟の藤田大蔵さん、後に故人となった長尾さんが引請けたこともある。
顔ぶれは、横浜方面として若松冶之助、三田彦作、野島清次郎、藤田栄吉の諸氏で、平野峯三、大場菊次郎、吉田庄五郎、福井泰二、松本吉五郎、鈴木卯吉、野村菊次郎、中村時蔵、草深喜之氏の諸氏などは古参の方で、外に村松(富)、金子(福)、寺内(孝)、佐野(権)、矢島(源)、上岡(市)、永井(平)、米井(仙)、紺(良)、藤田(大)、福田(荘)、岩田、金田さんなどで、明治四十三年の三百回記念の当時は、正会員は三十名たらずであった。
荷出しの都合で、特殊な売り物である場合は、特に有力な業者に案内状を出した。地方では、越後の鶴巻さんなどが出席したことがある。
この後で、金森、三直、小野金、長尾、諏訪、八森、田川、平沢、深野、伊藤(茂)、関根、熊田、講さんなどの入会があり、新陳代謝もあったが、相当なメンバー揃いで交換会の市としては「開華の市」が特別有力だった。この頃、開華楼への支払は、お仕着せ一本付でひとり金二円、お茶代と女中代として二十円。私(帳場)の手当は、二円で歩合の余りが入る。遠出一泊の開催も年に四、五回はありました。
この外に、蛎売町の「川五の市」というのもあり有力だった。これは川五(小倉)単独の市で、質屋から買出して集めたものを随時開催したものです。その内あちこちに市が出来、本郷の日の出時計店の階上でも月に二回ほど開催したものです。
「十二日会」は、その当時、時計商組合長の平野峯三氏が幹事長、槙町の森川さんが副幹事長で、会員はすべて京浜の有志、大賞堂の槙野、伊勢伊の秦、大西錦綾堂、中央堂の江川、八丁堀の鈴木と新橋の鈴木、大沢商会からは岡田、唐沢、溝口老さんなどが集り、会場は、築地の「てっきん楼」に決めて、毎月十二日開催した。商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は、温泉旅館で開催という“命の洗濯”も兼ねるということだった。私が受け持った「開華の市」の帳場は、震災前に阿川さんのせがれに代って貰い、勇退したが、「十二日会」の方は震災で解散するまでつとめていたのが記録として残っている。

精工舎の復興と高島さんが活躍した時代
時計界では最古参で人さばきとその手際の良かった人

《昭和二十三年》 戦争のため服部精工株式会社(服部時計店)に改称していた服部時計店の太平町工場は、昭和二十年三月九日の空襲で惜しくも焼失したが、その復興は昭和二十一年に操業を開始している。そして三月には、目覚ましコロナを売出した。引続いて、八インチの輻振掛時計「スリゲル掛時計」、シャッターに片側ビー置時計を生産し、昭和二十年の年末には、月産二万五千個に達していた。この年に服部玄三社長が退き、服部正次現社長が就任、新しい展開に入ったのである。
精工舎は、占領軍に賠償施設の指定をうけていたが、昭和二十三年には全面的に解除されたので、爾来「ニューコロナ」、「小型目覚コメット」等の生産を開始した。昭和二十四年には、「六尺定規時計」、「十三インチトーマス」の生産をも開始するようになった。
この間、昭和二十三年九月、台風による浸水騒ぎもあったが、太平町とは別に腕時計の生産は昭和二十一年から諏訪工場で生産品を出すことにこぎつけて、女持と男持の両種が売出されることになった。だが数量的には、まだまだ需要のほんの一部にだけ間に合う程度のものであった。従ってこの頃の時計のヤミ価格は、舶来品では無制限であると共に国産時計一個当り千円の価格が常識的につけられていたようである。つまり一般的な日常物資と等しく、時計の場合もヤミ値段でなければ買えないものとお客筋は考えていたようである。そのお陰で、メーカー筋への支払はとても潤沢であり、助かったというのがメーカー側のいう本音であったようだ。今でもこの当時の情況など思い出すことがある。従って、ヤミ時代が最も盛んであった昭和二十四、五、六年頃が、ヤミ品の頂上ではなかったかと思う。だから、この頃の服部時計店の卸部は、小売業者の来店でその接待に寧日追われていたという状況であった。
当時の卸部担当者は、時計界では最古参でお馴染みの高島勇三郎氏であり、人さばきに馴れており、その手際の良かったこの高島さんを通じて、服部時計店の人気は高まる一方であった。ただし、服部時計店と大沢商会だけは、この当時でもヤミ値による販売は絶対に採らなかったので有名であった。この時代に業界で活躍していた国産腕時計は、セイコーとシチズンの二ブランドだけ。

東洋時計が破産倒壊の悲運
軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁していた

《昭和二十五年》 精工舎に次いでシチズン時計などの国産時計メーカー陣が、終戦後の整理もついて伸展途上に向っている時、哀れ倒壊破産の悲運を見たものがある。それは、戦前、一時は服部時計店とは商敵の立場であった旧吉田時計店が経営していた工場の東洋時計のことである。
この東洋時計は、昭和十年頃から埼玉県の上尾に作った置き時計の向上が伸展して東京・日野市に腕時計工場を設立した。
従って、この会社の株式は全国の小売店から集めたものが多かった。私もこの会社の株式を四百株持っていたので、破産当時の状況など明白に覚えている。
戦時中は、軍の指定工場に管理されていたので、勢力は著大、三千余の従業員を擁したものである。終戦直後は、上野不忍池々畔で従業員大会を開き、壇上より大声をだした当時の吉田庄五郎社長の勇壮な当時の姿など、今なお彷彿たるものがある。昭和二十五年五月二十五日、上野・元黒門町の当時の吉田時計店の本社内において開いた株主総会の席上は、けんけんごうごうたる状景を呈し、遂に倒産を決定整理に追いこむことになって終ったが、総会の日の席上では、この間の会社事情の細かい説明むなしえず、終末を告げるに到ったのは哀れな一片である。
私は、昭和二十五年五月二十五日、上野元黒門町の同本社内で開いた株主総会には株主の資格で臨んだ。総会のこの日の状景は、社長の吉円庄五郎氏の顔が会場に見えたと思ったとたんにまた消えてしまった。そしてそのあとは、後任社長を選挙するという会議の順序であったのだが、集まっていた株主らしき面々は納まらない。「株式清算経過を説明しろ」と詰めよる声で会場内はけんけんごうごうたるもの。会場内には、弁当持参で頑張っている者も相当数いた位だからその内容は推して知るべし。資本金三千万円の東洋時計(吉田)が王者の夢も空しく終末を告げたのは哀れであった。
写真は池の端仲町にそびえていた当時の東洋時計の旧吉田時計店ビル。

時計のヤミとCIP警察の活動を丸く収めた
盗難品探しに協力する代わりに業者にも恩恵を

《昭和二十六年》 時計店のウインドに堂々と飾られるようになった昭和二十六年の秋頃からCID(占領軍警察)の活動が業界に向けられる様になった。上野の時計市場にもいろいろな情報が流れ込んで来た。「銀座の某店がCIDに踏み込まれ、又は某店のウインドの時計を調べられた」という情報が投げ込まれるたびに、業界では、困ったことになったものだと考えた。
そうこうする中に、このCID関係から警視庁内に外人係の刑事部(第三係)があることが分かった。そして、その中にいる一人が、私の明治大学時代のメンバーだったので、その人を頼りに連絡をとってみたところ、本庁内の第三係というのは、CIDの補助役を務める特殊機閼だということが判った。
そこで、この部の掛川さんという係長の人にコネをつけて、銀座辺りを調べて歩く少壮組刑事連中と取調上の協力関係について懇談会を開くことにこぎつけた。上野広小路際の「金時」という料理屋で一席を設けたものだ。これに当てた努力は、舶来時計を取扱う時計業者の安泰を守り抜くためには、極めて大きな効用をもたらしたものであり、その実績は後世に多大な功績となったのである。
この時の会談の一部を記すと次の如くである。
会談の要点は舶来時計の取扱いについてであった。既に公の状態になっており、だから「表面切って違反に問わないようなにして貰いたい」というのであった。これに対して、「それはダメだ」と中堅派の刑事たちが言い出したので話はまとまらなかった。
この時の席上、酒も回っていたが若手刑事たちが聞き入れる様子がなかったのである。そこで結論として、最終的な提案をした。警察側は、駐留部隊から指示された盗難品を探すのが目的であろう。そこで我々古物商が盗難品の発見に協力する代わりに、我々の努力も認めて、必要な場合は見ぬふりをしてほしいと説得したのである。その代わりに、盗難品を探すのに業界新聞を機関誌として、いろんな情報を流して業者にも協力を求めた。捜査にかかわる協力関係の内容についても詳しく説明した。その結果、両者間での了解が出来たので、提携内容について詳しく話し合った。そこで、私の発行する新聞が警視庁から操作連絡所となり、紙面に詳しく説明して盗難品が探し出せる結果となり、大いに役立ったのである。私が、この際一肌も二肌も脱いで、この妥協劇を収めた劇的な場面を作り上げたことになる。

警視庁管下の犯罪捜査協力会を設立した
三越はじめ全デパート時計貴金属売り場が加入、三百八十名の会員で設立

《昭和二十六年》 時計のヤミ時代に対処するため、業者を一本に纏めたいという空気は当時時計業界の全般に広がっていた。まずは、時計部門とダイヤモンド等の宝飾品部門を担当する部門を、二つの部門に分類することにした。当時、しゃばっ気が強かった高輪在住の長尾喜一氏という人が、団体組織の初めの頃の首謀者であった。そこで、警視庁管下に、@時計関係の主力メンバー、A輝石を始め、宝飾品を扱う業者を集めて「警視庁管下時計宝飾品犯罪捜査協力会」なるものを設立した。その発会式が、東京・芝の美術倶楽部で盛大に行われた。
その団体の会長には、長尾喜一氏が就任、常務理事には昔から兄弟分の関係にあった小倉和助氏と著者の藤井勇二本人が推されて就任している。この協力会がこうも簡単に協力会設立に漕ぎつけたのは、警視庁の最古参刑事であった石渡老刑事の存在があったからである。この石渡刑事は昔から時計業者との接触が多く、なんでも相談できる関係にあったからである。犯罪捜査協力会の会員には、時計と宝飾業界に携わる業者を含め、他に三越はじめ全デパートの時計貴金属売り場を加入させて、三百八十名の会員で設立した。しかも半年で五千円の会費も徴収した。
更に、小売店でも古物商の営業が行えるように、入会すれば古物商という会員証が発行され、ますます勢力を広めていった。その後、この組織が変じて現在の「時計宝飾品防犯協力会」になっている。当時の会長は、白石憲二氏である。私の新聞も、この防犯協力会に協力するために、紙面を割いて盗難品やヤミ時計の被害などの情報を伝えている。私の新聞の事務所が「時計宝飾品防犯協力会」の事務局になっていたから、かなりの発言権を持っていた。

昭和二十四年、関誠平、干葉豊氏らがハッスル
全時連団体結成初歩の頃

《昭和二十四年》 終戦後四年になる昭和二十四年の舂頃には、時計小売業者から全国的
団体の結成が叫ばれかけていた。このようなことは、当時の時計界の情勢が一応収まってきたからだということがいえる。この全時連の結成のそれを先躯主唱したのは名古屋に当時頑強の士としての呼名で高名を謡われていた恩田茂一氏である。それに東京の関誠平氏(関時連会長)と千葉豊氏が協力し、更にその呼びかけに答えて乗出した近畿連合会長であった大阪の尚美堂社長の江藤順蔵氏の四名の士である。
この当時の経過を聞いてみると、全時連は昭和二十四年五月九日、東京の時計会館で設立発足されているが、それよりー年前の二十三年の九月に、前記の四名がはるばる東海道線の油田駅前の引馬旅館に集って、第一回目の準備打合せ会を開いたのが、戦後におけるそもそも全時連発足のスタートであった。
次いで第二回目の準備会が、昭和二十四年の三月十三日、伊東の大和館で関時連会長の関誠平氏が主唱して開催されている。そして、この日集まった各地区ブロック代表連の意向によって全時連結成総会の準備工作が決った。昭和二十四年五月九日に東京・新富町の時計会館で堂々設立総会が行われたのである。かくて全時連が結成した最初の役員人事は次のようになっていた。▽会長=関誠平、▽副会長=千葉豊氏(東京)、江藤順蔵氏(近畿)、恩田茂一氏(東海)、▽常任理事=「東海」恩田、原、「近畿」江藤、川本、「九州」安倍等の諸氏。だが当時、関東近県の役員が未定となっており、まだ全体の調整が取れていなかったことが伺える。いずれにしても、時計の小売界情勢は、終戦後の混乱期から脱して正常化してきたことが伺える。
来よう。

ヤミ品オンリー時代、何時踏み込まれるか恐怖に慄いていた
全時連結成時の気運とその頃の時計界
   
《昭和二十四年》 以上のような経過で、時計小売業を統括する団体の「全時連」を設立するための動きは一応ついた。だが、小売業者の全部が、この団体の結成に賛意を表していたかどうかは、明確でなかったものだ。何故なら、この頃の全時連に対して協力していた地域は、東京、名古屋、大阪という範囲のものだけであり、然も、結成総会を開いた時でも、関東勢から選任されるべき常任理事者の決定がなされないままであった経過から推しても、この当時のこの間の業界情勢が読めるのである。
この機会に一寸断っておくが、関時連会長の関誠平さんという人は、非常に世話好きな人で何事にでもよく顔を出して動いていた人だった。
また全時連なる団体発足の最初に協力した千葉豊さんも、案外その意味では関誠平さんと似たような性格であった。更に、世話役の恩田氏が、この間設立について手伝ったので、関西時計業界を代表して、一も二もなく近畿一帯の小売業界をまとめている立場にあった江藤順三氏が、これに協力したのだから、全時連なる団体のスタートだけは出来ることになったのである。
だが然し、全時連というような全国的な業界の団体をその傘下に総て収める事業の完成は、一朝にして成るというものではない。従って全時連なる呼称の形だけは出来ることになったが、その完全なる団体結成の実現までには、なお時間的な余裕を必要としていたといっていいようだ。
だが、この頃の時計業界は、依然としてヤミ品オンリー時代であったのである。だから小売店の店頭には、眼もまばゆい程の金色燦然たる舶来時計が、金ピカのものや白色強いステンレス製の時計などのデザインをつくした豪華製品として諸店の陳列を飾っていたのである。これが総てヤミ品であるというところに、いつ警察の踏み込みがあるかとの恐れがないとは限らないという恐怖があった。
だから、それらへの対策の場合もそうだったが、既にこの頃は、協同組合としての政治的活動もそうだが、仮に、業界内の要望を聞いてみたが、業界の総てが一本化体制にまとまっているという必要性があった。即ち、業者側の意見は、その業界内の総意でなければ何事の陳情にも当局側では取上げてくれないことになっていた。然も、そのような傾向か極め顕著になっていた時代だったので、全時連なる団体の強化推進の意見は、漸次この頃から業界内に蔓延っていたといえる。所謂、民主主義的思想の現実化が政冶面を通じて具体化されようとしていた時代であると言っていいようだ。

四貫に余るダイヤモンドが入ったトランクが売りに出た
戦時中信州松代所在にあった大本営の資材物資に

《昭和二十四年》 昭和二十四、五年の頃、市場閼係にはとんでもない物が舞い込んできた時代があった。この中で貴重品など何処とはなしにとび出して来たものであった。勿論、持ってくるネタそのものが、総て正真正銘のものだとは受けとり難いものもある。とにかく湧き出た珍談には、一応耳をかたむけるのが商売上の常道になっていたので、先ずは竹内武一君が持ち込んで来た話から書くことにした。
その話は、信州長野市の在で、現に地震騒ぎで慄いている松代町にある旧大本営についての話である。そこは戦時中の避難用に建てられた大本営であり、そこへはいろいろな軍作戦上必要であり、かつ貴重な資材物資が持ち込まれていたという。その中にダイヤモンドが入ったトランクがあるから、それを持ち出して処分することになったというのである。品質は工業用ダイヤモンドということであり、量は四貫目に余る程のものだから買おうじやないかという相談であった。
価格は、四十二万円という触れ込みであった。そこで、この品物の持ち込みを待ったのであったが何日になっても持って来なかった。然し、この品物とおぼしき部類のものが、その後、陸続とある市場のセリ場台に現われ、投売されるとの報告があった。本当のことであるかどうかは別として、このダイヤモンドが入ったトランクの実在をめぐって、当時業者間では大騒ぎだった。これも戦時中に残した業界関係品の面白いエピソードの一つである。

舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった
ヤミ時計の旺盛な時代

《昭和二十四年》 時計の需要は、昭和二十四年の頃には頂天的に伸びていったと思える。時計は、時間的な関係からでも必要だという需要性に合せて、人の生活上の好みということからも急激に伸びて来たようだ。これと並んでもう一つの特長がある。それは永い間植えつけられていた舶来品珍重主義への現われでもある。
酒、タバコ、ライター、洋服類に次いで時計への愛好心は特に強かったようである。だから舶来時計は具合がよい、時間が正確であるという印象から、国産品では何となく物足りなさを感じた時代でもあった。愛好の第一に挙げられたものはデザインである。白、又は金色を配したもののエトーの艶やかさに加えて、タイプが十二型以上、十三型、十四型の薄手に見えるすばらしさが誰の頭にも欲しい、という感じを抱かせたものらしい。又その青金色が何ともいえぬアメリカ製張りの良さを見せていたのだからだ。
大体、日本人の金色欲求感は純金のいわゆるヤマブキ色にあるようである。新時代の好色感は、アメリカが生んだ青金式金張色がまた別に市場の欲求を満たしていたともいえる。そのような角度の感じが寄せ合ってきていたので舶来品に対する愛好心は否応なしに高まるばかりであった。
然し、時計小売店でのこの時代の売れ行きは国産、舶来を問わず何でも売れていた。時計自体が依然足りない一点張りの時代であった。精工舎で生産される腕時計の数量は、昭和三十六年頃には月産約四十万個に達する量産を見るようになっていた。それでも不足していた時代だけにその不足感を補うには勢いヤミ時代を生み、かつ業者自身がそれに慣らされていかなければならない時代でもあった。従って、この頃がヤミ時代として、その価格の点では最盛時代ではなかったかと思う。



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