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明治時代の全国の時計業者の分布状況(明治四十年当時)
業者数約三千四十四人、この他発展途上の未開発地区の数は入れてない
                
《明治四十一年》 明治四十一年十一月十日付で名古屋市東区呉服町三十七番戸、「名古屋時計商報社」の発行した印行「全国時計商工全書」は、この当時の全日本国領地域内に存在した時計業者の現況を実測により表したものである。
業者数約三千四十四人に及んでいるが、この他にも発展途上の未開発地区(時計店存在の実在数を指す)などのものを取り入れていないので、これらは概数で二百余件に及ぶものと想定される。
以下表示の時計組合貝数は何れもその地に時計組合が存在し、しかも現実に組合の本旨則り平和的に運行している地区の部分だけをピックアッブして整理された意味が記されているので予め了されたい。
(例)千葉県庁の所在地である千葉市の業者名が記載されていない如くである。

東京時計商工業組合員数(明治四十年当時の記載順位のまま)
明治四十年当時 都内から北海道、樺太、台湾、韓国なども

【都内】
▽日本橋:六十三、▽浅草:四十六、▽京橋:四十八、▽下谷:三十一、▽深川:十三、▽麹町:十三、▽神田:三十一、▽芝:三十一、▽本所:二十、▽本郷:二十三、▽小石川:十八、▽麻布:十五、▽四谷:十三、▽赤坂:十二、▽牛込:十七、▽郡部(八王子以外):十九。
【京都府】
▽京都市:八十一、▽福知山町:八、▽舞鶴町:四、▽新舞鶴町:四、▽余部町:二、▽宮沢町:三、
【大阪市】
▽東区:百四十一、▽南区:百九、▽北区:六十二、▽堺市:十一、▽郡部:六。
【横浜市】
▽横浜市:七十五、▽横須賀市:十三、▽小田原市:十六、
【神戸市】
▽神戸市:五十三
【姫路市】
▽姫路市:十一、▽郡部:二十一
【長崎県】
▽長崎県:三十三、▽佐世保市:十一、▽郡部:十
「新潟県」
▽新潟市:十三、▽長岡市:十五、▽高田市:二十一、▽新発田市:七、▽柏崎市:十、▽ッ村松町:五、▽直江津町:ウオン、▽新井町:五、▽三条町:六、▽中条町:四、▽加茂町:四、▽五泉町:四、▽郡部:五十三
【埼玉県】
▽熊谷町:六、▽川越町:五、▽大宮町:四、▽郡部(伊勢崎含む):三 ▽郡部(入間川含む):二十一、
【千葉県】
▽佐原町:四、▽銚子町:五、▽古河町:五、▽北条町:四、▽郡部(茂原含む):四十八
【茨城県】
▽水戸市:八、▽土浦市:五、▽流山市:四、▽郡部:十九
【群馬県】
▽高崎市:十四、▽前橋市:八、▽桐生町:五、▽富岡町:三、館林町:四、
【栃木県】
▽宇都宮市:八、▽栃木町:六、▽足利町:四、▽佐野町:六、▽日光町:三、▽矢板町:五、▽他区:八
【奈良県】
▽奈良市:七、▽郡部:二十一
【三重県】
▽津市:十四、▽四日市市:十、▽山田市:十二、▽郡部:十九
【愛知県】
▽名古屋市:九十三、▽豊橋:十、岡崎市:八、▽西尾町:五、▽半田町:六、▽瀬戸町:五、▽他地方:七十五、▽非組合員:十六
【静岡県】
▽浜松町:八、▽掛川町:六、▽三島町:七、▽沼津町:六、▽藤枝町:三、▽小山町:三、▽江尻町:四、大宮町:四、▽中泉町:四、▽二俣町:三、▽笠井町:三、▽見附町:三、▽他:三十
【山梨県】
▽甲府市:十五、▽郡部:七
【滋賀県】
▽大津市:十、▽彦根市:五、▽八日市町:四、▽八幡町:三、▽他:十七
【岐阜県】
▽岐阜市:十六、大垣町:十三、岩村町:四、▽中津町:四、▽高山町:五、▽その他:五十八
【長野県】 
▽長岡市:十、▽松本市:十二、▽飯田町:四、▽上田町:五、▽小諸町:四、▽稲荷山町:四、▽中野町:五、▽上諏訪町:六、▽他郡部:四十三
【宮城県】
▽仙台市:二十六、▽白石町:五、▽他:十九
【福島県】
▽福島市:九、▽若松市:八、▽郡山町:九、▽須賀川町:七、▽三春町:四、▽他地方:三十七
【岩手県】
▽盛岡市:五、▽一関町:四、▽釜石町:四、▽他地方:十三
【青森県】
▽青森市:六、▽弘前市:十サン、▽八戸町:四、▽他地方:八
【山形県】
▽山形市:十二、▽半沢市:八、▽鶴岡町:十、▽新庄町:五、▽他地方:二十三
【秋田県】
▽秋田市:十四、▽大鶴町:五、▽湯沢町:四、▽酒田町:三、▽能代港:六、▽横手町:五▽本荘町:三、▽他郡部:十三
【福井県】
▽福井市:十九、▽敦賀町:四、
▽武生町:四、▽鯖江町:五、▽他地方:十三
【石川県】
▽金沢市:三十七、▽小松町:五、▽他地方:十四
【富山県】
▽富山市:十一、▽高岡市:七、▽放生津町:五、▽他地方:二十
【鳥取県】
▽鳥取市:十七、▽倉吉町:七、▽米子町:七、▽他地方:六
【鳥取県】
▽松江市:六、▽他郡部:十三
【岡山県】
▽岡山市:二十四、▽郡部:三十五
【広島県】
▽広島市:四十、▽呉市:五、▽尾道市:十、▽福山市:七、▽他郡部:十九
【山口県】
▽下関市:十四、▽山口市:八、▽柳井町:五、▽他地方:二十
【和歌山県】
▽和歌山市:十八、▽郡部:六
【徳島県】
▽徳島市:十四、▽郡部:十五
【愛媛県】
▽松山市:十サン、▽新居浜町:五、▽他地方:九
【香川県】
▽高松市:九、▽丸亀市:十、▽善通寺町:八、▽他地方:六
【高知県】
▽高知市:十六、▽他地方:十
【福岡県】
▽福岡市:二十二、▽小倉市:八、▽久留米市:十一、▽門司市:十一、▽八幡町:六、▽直方待ち:七、▽若松町:四、▽飯塚町:六、▽大牟田町:七、▽柳川町:四、▽他地方:三十三
【大分県】
▽大分市:十一、
【佐賀県】
▽佐賀市:四、▽郡部:七、
【熊本県】
▽熊本市:三十六、▽郡部:二
【宮崎県】
▽宮崎市:四、
【鹿児島県】
▽鹿児島市:二十一、▽郡部:十二
【沖縄】
▽沖縄:五
【北海道】
▽函館区:二十八、▽小樽区:十三、▽札幌区:八、▽旭川町:六、▽根室港:五、▽他地方:四十三、
【樺太】
▽:樺太:四
【台湾】
▽台北町:七、▽台南町:六、▽其隆庁:六、▽他地方:四
【韓国】
▽京城:二十二、▽釜山港:十二、▽仁川港:十二、▽平譲:五、▽他:二十七
【清国】
▽大連市:八、▽天津・上海・安東等:三十
#但し、本文中の末尾にこの調査中に営業が取り消された店が十二軒ありと記す。

長尾氏が残した『交換会の沿革大要』
会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートした

《明治四十年》 東京・芝高輪南町居住の今は故人となった長尾喜一氏が記録したその沿革史の概要は次の如くである。
明冶三十八年の日ロ戦争で大勝したあとのことで、当時ロシヤから分取った汽船ロゼッタ号という船が芝浦にあって料理屋を営んでいた。このロゼッタ号を会場に当てていた「京浜時計睦会」は、その発足当時から今尚続いている。
「オーイ、藤田君、日本は凄いな、とうとうロシヤをやっつけたからな」野島どうだ。「戦争も終って気分も落ちついたから、有志を集めて市場でも開こうではないか」と話し合ったのが明治四十年。野島、藤田の両氏が野島氏の自宅で茶花話から花が咲いたのをきっかけに持ち上がった話である。
そしてその結果、会場をそのロゼッタ号に決めて「京浜時計睦会」がスタートしたと記してある。故人となった藤田栄吉氏は、当時二十八才、野島氏は三十三才の青壮年の二人であり、これが「京浜睦会」の発足当時の姿である。
この時集められた業者は、人形町の大場、銀座の平野、寺内、池の端の吉田庄五郎(先代)、紺良雄(三井号)、佐橋(道具)、沖田、小野嘉助、(小野金兄)、草深、中村時、川口徳蔵(質屋)、市岡の松本吉五節、金子福造、金子新蔵、上野の野村菊次郎の諸氏。
かくて「京浜時計睦会」開設一年が過ぎた頃、会場を神田雉子町の金清楼に移し、会員にタタミ町の諏訪喜之松、福井泰二の諸氏を加えて当時の睦会を続けた。戦後の経済情況による変化があって、再度の会場の変更となり、神田明神境内の「開華楼」に再び席を移すことになった。
この当時の商品交換市場というのは、この「京浜時計睦会」の他にはなく、京浜時計睦会こそが業界最大唯一の商品取引機関であったという。執筆中に、この頃の古い当時を想い出して、時計卸業者の金栄社の荒木虎次郎社長が自己の想い出の記録として寄せた記録があるので、次にこれを記して事実の裏づけに供しよう。

“開華の市”など市が盛んになった
商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は温泉旅館で開催という“命の洗濯も

《明治四十年》 「京浜時計睦会」は、神田雉子町の金清楼で始まり、都合で神田明神境内の開華楼に移した。当時私が会の帳場を任されることになり、京浜時計睦会は「開華の市」と呼ばれていた。
開催日は、毎月八日と二十一日の二回、代金の決済は翌月勘定。歩合は、二歩(金潰しのものなどは一歩)。売買方法は、箱に一品づつ入れて入札する「箱回し方式」、椀に買値を書いて中盆に投げる「椀ぶ瀬方式」、そして形勢に依って増値をすることも出来るので、出席順で何点ずつかを売買するという規定もあった。
中盆というのは、売買の支配格で品ものにも明るく有力者でもあることで藤田栄吉さんが主として引請けていた。スケ(助)には、弟の藤田大蔵さん、後に故人となった長尾さんが引請けたこともある。
顔ぶれは、横浜方面として若松冶之助、三田彦作、野島清次郎、藤田栄吉の諸氏で、平野峯三、大場菊次郎、吉田庄五郎、福井泰二、松本吉五郎、鈴木卯吉、野村菊次郎、中村時蔵、草深喜之氏の諸氏などは古参の方で、外に村松(富)、金子(福)、寺内(孝)、佐野(権)、矢島(源)、上岡(市)、永井(平)、米井(仙)、紺(良)、藤田(大)、福田(荘)、岩田、金田さんなどで、明治四十三年の三百回記念の当時は、正会員は三十名たらずであった。
荷出しの都合で、特殊な売り物である場合は、特に有力な業者に案内状を出した。地方では、越後の鶴巻さんなどが出席したことがある。
この後で、金森、三直、小野金、長尾、諏訪、八森、田川、平沢、深野、伊藤(茂)、関根、熊田、講さんなどの入会があり、新陳代謝もあったが、相当なメンバー揃いで交換会の市としては「開華の市」が特別有力だった。この頃、開華楼への支払は、お仕着せ一本付でひとり金二円、お茶代と女中代として二十円。私(帳場)の手当は、二円で歩合の余りが入る。遠出一泊の開催も年に四、五回はありました。
この外に、蛎売町の「川五の市」というのもあり、それも有力だった。これは川五(小倉)単独の市で、質屋から買出して集めたものを随時開催したもの。その内あちこちに市が出来、本郷の日の出時計店の階上でも月に二回ほど開催したものです。
「十二日会」は、その当時、時計商組合長の平野峯三氏が幹事長、槙町の森川さんが副幹事長で、会員はすべて京浜の有志、大賞堂の槙野、伊勢伊の秦、大西錦綾堂、中央堂の江川、八丁堀の鈴木と新橋の鈴木、大沢商会からは岡田、唐沢、溝口老さんなどが集り、会場は、築地の「てっきん楼」に決めて、毎月十二日に開催した。商売よりは、懇親が目的で、三回に一回は、温泉旅館で開催という“命の洗濯”も兼ねるということだった。私が受け持った「開華の市」の帳場は、震災前に阿川さんのせがれに代って貰い、勇退したが、「十二日会」の方は震災で解散するまでつとめていたのが記録として残っている。

明治四十年当時の「東京時計商工業組合員」名簿
明治四十年当時の記録から

明治四十一年十一月十日付で名古屋市東区呉服町三十七番地、「名古屋時計商報社」の発行した印行「全国時計商工全書」は、この当時の全日本国領地域内に存在した時計業者の現況を実測により表しわたものである。業者数は約三千四百四人に及んでいるが、この他にも発達途上の未開発地区(時計店存在の実在数を指す)などのものを取入れていないので、これらは概数二百余件に及ぶものと推察される。
以下の表示の時計組合員数は、何れもその地に時計組合が存在し、しかも現実に組合の本旨に則り、平和的に運行している地区の部分だけをピックアップして整理したものが記されているので予め了されたい。        ”
(例)千葉県庁の所在地である千葉市の業者名が同載されてないが如くである。

各地区から大勢の組合員名

【日本橋地区】六十三名
岡野事二、村井友七、松田啓太郎、福井政吉、江川親松、村松合資会社、岩戸商店、山田東京山張所、鈴木銀次郎、清水商店、大島時計店、宮本庄七、高木新次郎、高木大次郎、松田亀七、田中栄次郎、横川直蔵、青山捨次郎、西村時計店、高木六三郎、金田市兵衛、高野周吉、館林恒太郎、大場菊次郎、山本時計店、秋谷時計店、久保田商店、関岡由兵衛、岩下清、清水鎗次郎、大沼時計店、古川時計店、小島時計店、中村時蔵、福田藤吉、佐藤利三郎、小林善兵衛、小林源次郎、池田忠兵衛、小沢金平、中島長太郎、守福蔵、玉屋時計店、久我伝三郎、別所平七、森川時計店、大沼定次郎、川合四郎作、森村時計店、吉岡伊三郎、辻九兵衛、山浦干伊、岸上由造、金子時計店、重田時計店、山本時計店、鳥海時計店、丸岡時計店、金鳳堂、三直時計店、村井時計店、小森時計店、深井時計店。

【浅草地区】四十六名
小林芳太郎、見沢万吉、小菅喜太郎、中田吉之助、岩崎宗吉、草深与五郎、
栗田房二、朝日商店、吉沢喜代蔵、稲垣繁次郎、坪田時計店、吉原時計店、入江時計店、
中川時計店、町田松五郎、中川時計店、佐々木時計店、佐野金太郎、明治堂時計店、井田  竜夫、和泉田祐太郎、田中義一、大隅時計店、渥美時計店、中川米吉、沢杉鐺次郎、永田時計店、鈴木時計店、沖田時計店、倉田時計店、寺島時計店、坂本時計店、棚橋時計店、新井時計店、伊勢本亀太郎、中村時計店、大松時計店、坂田時計店、小西時計店、河合時計店、進藤時計店、山田時計店、鈴木時計店、島岡春吉、茅野静吉。

【京橋地区】四十八名
石川米太郎、美術工芸品株式会社、服部金太郎、伊勢伊時計店、新井常七、長栄堂時計店、
三光堂本店、竹内治右衛門、秦猪之助、玉屋商店、清水惣太郎、京屋時計店、瑞穂商会、伊勢惣時計店、江沢金五郎、大西錦綾堂、槙野辰蔵、青木時計店、栗山藤吉、戸叶時計店、
佐久間時計店、宇都木時計店、浅井喜三郎、エ‐クラウス商会、野尻雄三、梅本文治郎、大塚時計店、金子直吉、吉川作太郎、小林伝次郎、平野峰三、高木時計店、和田時計店、小西光沢堂東京支店、川名時計店、江水時計店、上田時計店、遠山喜三郎、森川真次郎、鈴木セイ、小山時計店、奈須時計店、小浪時計、小泉時計店、伊藤時計店、石井時計店、森田時計店。

【下谷地区】三十一名
奥野福太郎、横田時計店、村松時計店、松本時計店、石栗時計店、手塚時計店、奥野佐吉、
松本時計店、吉田庄五郎、鈴木茂八、南条時計店、会田時計店、横井時計店、野村清太郎、
飯塚伊兵衛、小山時計店、岡部時計店、田中亀吉、水島利助、横田時計店、川井久吉、山内時計店、伊藤時計店、富山治郎、岸福太郎、三田時計店、大橋時計店、満岡時計店、長谷川時計店、橋本時計店、小林清五郎。

【深川地区】十三名
五十嵐房吉、楠山仁兵衛、高橋時計店、御正信友、小川時計店、上岡時計店、安西時計店、
杉田時計店、平沢時計店、茂野時計店、小林時計店、南雲時計店、高橋時計店。

【麹町地区】十三名
松山時計店、山本久太郎、玉井時計店、小林時計店、西山忠三郎、島田善孝、河野時計店、
小杉時計店、佐藤六太郎、小林時計店、鈴木時計店、岡野時計店、中江時計店。

【神田地区】三十一名
松本常次郎、足立次郎吉、伊藤佐太郎、金子時計店、吉川仙太郎、新島清、戸田時計店、
中山幸三郎、小川時計店、鈴木藤兵衛、松浦玉圃、早川時計店、井上時計店、伊勢藤時計店、京屋時計店、田畑鶴吉、中村金次郎、清水孝太郎、須田時計店、梅本文次郎、金光堂時計店、佐野竹次郎、鈴木卯吉、殿上時計店、滝野時計店、天賞堂支店、山崎孝之劭、平山時計店、神谷針之助、桜井時計店、長尾時計店、佐佐木時計店、小川時計店、元木時計店、福吉時計店、中田時計店、荒船時計店、菊岡時計店、八森時計店、大久保時計店、中村善吉、堀井時計店、井上時計店、谷藤時計店、宇都木時計店、高橋時計店。

【芝地区】三十一名
グロウス商会、雨宮時計店、長栄堂分店、岡本菊三郎、永井鉄次郎、吉村仙之助、寺内時計店、吉田時計店、井上時計店、村田時計店、水谷時計店、渡辺時計店、中村健太郎、小林時計店、村田与吉、遠藤兼吉、綱中啓次郎、酒本千代助、山本清七、高木時計店、吉川 時計店、木村時計店、吉野時計店、三五堂時計店、新井時計店、谷川時計店、中根時計店、清水時計店、竹本時計店、中川時計店、亀谷時計店。

【本所地区】二十名
宇田川清吉、谷口時計店、西沢時計店、前川寅次、亀田平次郎、中村房吉、精工合、斎藤時計店、中根時計店、福地時計店、中里時計店、山本時計店、尾崎時計店、宝玉堂時計店、
小峰時計店、関戸時計店、松田時計店、稲村時計店、野田時計店、伊藤時計店。

【本郷地区】二十三名
中山直正、竹内元次郎、伊藤幸作、大滝亀太郎、奥田時計店、小川八百蔵、小西富之助、笹間翁、河原時計店、牧野時計店、佐藤時計店中岡時計店、齊藤時計店、新島時計店、関屋時計店、楢谷時計店、澄川時計店、梶川時計店、黒巣時計店、大野時計店、大野時計店、
川崎時計店、松下時計店。

【小石川地区】十八名
中島春太郎、遠山時計店、伴市五郎、桜井時計店、岩井健蔵、高野時計店、宮原時計店、大沢時計店、野秋時計店、花沢時計店、賞栄堂、小西時計店、鈴木時計店、野呂瀬時計店、
中井時計店、竹田時計店、井上時計店。

【麻布地区】十五名
田島伊助、村松時計材料店、大野外茂男、野ロサト、須藤時計店、石川時計店、佐藤時計店、柴田時計店、三坂時計店、中谷時計店、高橋時計店、堀田支店、堀田本店、島田時計店。

【四谷地区】十三名
原田松次郎、中村積善、山田時計店、吉田屋時計店、田中時計店、原時計店、小山時計店、
岩上時計店、原達時計店、高野時計店、住田時計店、合原時計店、福田時計店。

【赤坂地区】十二名
中田米松、秋元吉次郎、松井定次郎、小林久次郎、横田時計店、千野時計店、伊藤時計店、
伊藤時計店、佐籐時計店、山田時計店、鈴木時計店、神田時計店。

【牛込地区】十七名
大川兵四郎、国可時計店、飯岡時計店、金子時計店、桜井鎌三郎、清水淳、小浜寅之充、丸山時計店、二六堂時計店、菊岡福次郎、藤田時計店、大塚時計店、本多時計店、米持時計店、佐藤時計店、白倉時計店、内山時計店。

【郡部地区】十九名
井上丑五郎、千葉豊、加藤正之、中村直一、木島安五郎、井田治平、中島万吉、細川健治、
樋口平莵、植村時計店、吉沢舂太郎、紺野九明治郎、藤武時計店、今井時計店、加藤寅之助、吉永時計店、小峰時計店、桑田時計店。

数百年に遡る貴金属地金商の由来
日本の最古歴を誇る「徳力屋伝記」‥‥‥‥

この書は、標題したように明治、大正、昭和、三世代に跨る宝飾業界歴史について紐解こうと努めたのであるから、勢い業界の古い事蹟についてはその悉くに及びたい気持で努力してみた。
そこで、宝飾業界の中で最も古歴を有する業者はという点について考察してみたところ、貴金属宝飾業界の歩みの中で貴金属地金商の事蹟の古いことに気がついた。私が大正年代の末頃に地金商であった神田・鍛治町の徳力本店を訪れた当時、徳力本店の大番頭であった石福鉱太郎さんについて、その頃の社会状況などについていろいろの説明を聞かせて貰った。
石福鉱太郎さんという人は、政治性にも富んでおり、なかなか識見豊かな人だっただけに、政治家も、また文豪の士も続々この徳力本店を目がけてやって来たものである。
従って、この当時の石福鉱太郎さんは、“徳力本店の石福さん”としてばかりでなく、社会的にも名声を高めていた人格高潔な士であった。
冬の頃の徳力本店は、店の表の庭にあづま式の茶屋小屋があって、そこに囲炉裏が切られており、大きな釡がかかっていて湯を汲んで茶をたててくれるようになっていた。その茶をすすりながら石福支配人は、次のように語ってくれた。
「徳力屋の発詳は、実に古い歴史があるのだが、果してその説明に足る記録が残されているかどうか、とにかく蔵の中に蔵されてある歴代の資料によって、“徳力屋伝記”を残して貰うよう著述家の矢田挿雲先生に頼んである」と説明された。この話は、今から四十余年前のことである。その当時のことを思い出して、今の徳力本店社長の鈴木喜兵衛氏に徳力本店小史なるものの公開を所望した結果、本編にまとめることになった次第である。
矢田擇雲先生が苦心してまとめられた「徳力屋伝記」なるものを、ひも解いてみると、数百年にも遡った大昔の頃の徳力屋伝記時代の発祥の伝記の状況が、なお細やかにされていないほど、徳力屋の歴史は古いものである。それだけに大昔の御代に行われた貨幣制度開始と共に、その鋳造時代にからむ金座、銀座または、下金、屑金吹きなどの地金商を営んでいたころからの徳力屋の状況などが推測される。
これらの動きが、当今の貴金属業界の草創時代の在り方であったわけであるから、金地金取扱業者の歴史は、日本最古のものと言われたわけである。
以下は、東京都千代田区神田鍛治町所在の徳力本店の前記徳力小史に基づいて、同店に伝わり来った史跡を綴り、我が国の宝飾貴金属地金業者としての元祖時代についての経路など、紐解くことにした次第である。
【註】 貴金属に用いる金、銀等の地金素材は、一面貨幣用の素材でもあったので、貴金属地金商の発祥の頃の足跡などについて調べてみると、勢いこの時代の貨幣制度とその改変状況などについて解明していかなければ、その間の明分に役立たないことになるという特殊事情が存していることを諒されたい。

通貨制定の最初の頃と地金商混沌の時代
我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである

我国建国以来およそ一千五百年の間は、米綿蚕糸の類を以て物品交換の具としていた。日本の歴史に鐚銭司の役名が現われたのは、人皇第十一代持統天皇の御代であるが、帝の御代に実際鋳銭したか否かは、諸説紛々として判然としない。恐らく、鋳銭司なる官制が創設され、直広肆大麻呂という者が其の長官に任命されたのみで、作業上の設備が整わないため、其まま立消えとなったものらしい。
最もこの頃、伊予の国司、田中の法麻呂が宇和郡御馬山を発堀して、銀を採取したことが正史に見ゆるところから、一方農田の開拓、布綿、絹等の生産増加と相俟って、市場に於ける交換媒介の具として夫れるまで、通用せし三韓貨幣、唐貨幣以外に、我国固有の新貨幣を時代が要求したことは明らかである。
人皇第四十二代、文武天皇の御即位第三年に再び鋳銭司の役を興し、直大肆中巨朝臣意味麻呂を以て其の長官としたが、これまた実際に鋳銭せりとの証跡か無い。尠くとも、今日に伝わる和銭のうちで、「和銅開珍」以上に、古いものは見当らない。
「和銅開珍」は、人皇第四十三代元明天皇の御即位第一年に鋳造されたもので、この事は当時の一大事件であり、我国文明史上の一時期を画する現象でもあった。そのため慶雲四年の年号を「和銅」と改元して、此の一大事件を記念されたほどである。
「和銅開珍」の原料たる銅の地金は、今の埼玉県秩父山中から発堀されたものであるが、発掘者が、之を朝廷に献じたので、ここに始めて鋳銭司の機関が実際に開発するに至ったものだといわれている。其時、朝廷で鋳造された通貨は、独り銅銭のみならず銀貨もあった。これ等の新貨幣は、市場の勃興と並行して其旺盛なる要求を満たすほど豊富では無かったので、僅かに、韓、唐の貨幣と錯綜参差して通用した程度のものであったようだ。
かくの如き有様であったから、金銀は当時早くも社会の各階級から尊ばれ、其の便利と威力とが辺陣の地方まで知れ渡るに至るや、暫く貨幤そのものに憧れるものが強く、遂には密造するものが出来たほどであったから、朝廷は之を厳禁し、犯す者を重罪に処罰したけれど容易に跡を絶たなかった。
其時代に於ける貨幣鋳造取締法として。地金を取り扱う者にまで注意が行届いたか否かは疑問であり、鉱山から採堀した銀鉱、銅鉱が鋳造者の手に渡るまでの経路と、地金商なる職業とが、どれほど密接な関係を保っていたかといふことについても、記録に残すべきものが見当らない。だが、この頃貴金属地金を取り扱う業者が存在しただろうとの推測は出来る。
和銅年間に鋳造された「和銅開珍」以来、人皇第四十七代淳仁天皇の天平宝字四年までの六十一年間に、銭貨の鋳造されたもの十三回、銀貨の鋳造されたもの和銅年間の「和銅開珍」と天平宝字四年の[天平元宝]と二回。金貨は同年の「開基勝宝」が一回あるのみで、即ち、我国の鋳貨史は初め和銅に起り、天平宝字に栄えているのである。
天平宝字の鋳貨以後、数百年間は殆んど打絶えて群雄割拠の時代となった。足利義満の豪奢な生活に要した通貨も、多くは支那貿易振興の結果、支那から流入した銅銭であって、国内に生ずる砂金も銀塊もそのままの形状で交易媒介の用を為した。斯くて、群雄割拠時代となるや諸侯は量目、品位それぞれ思い思いの通貨を鋳造して、これを其の領内に発行通用させた。
其頃から徳川時代初期の慶長年間まで鋳造された通貨の重なるものは、山城国の山城子判銀、摂津国の多田紋形小判を初めとし、相模国大磯、小田原、上総国東金、千葉、土浦などに於ける金・銀小判であった。然しこれ等の通貨は一種の私鋳であって、日本国中を通じての幣制が確立したのではなかったのであった。仮りに、この頃地金商が所により見られたとしても、それは普遍的な国法により、統一された所存であるということはできない。
徳川氏が天下を平定して幣制を布き、量目、形状等を画一せる前に、やはり此点に着眼して同様の計画を樹てた者が二人いた。一人は織田信長で、もう一人は豊臣秀吉である。
信長は、人皇第百五代正親町天皇の天正年間に大判小判を鋳造し、秀吉は相ついで半両判、一分判、銀貨の五両判、丁判を鎔造した。共に紀元二千二百三十年代のことである。
惜しむらくは、此両雄は、共に長く天下を保つ能はず、従って幣制統一の大事業も僅かに其黎明を見たばかりで消滅した。又従って地金商の歴史もまだ混沌たる時代を出づること
ができなかった。
本当の意味で我国に統一的幣制を普遍せしめたのは、徳川氏の功である。徳川氏が幣制を確定して、順次官銭を公鋳するに及んでここに初めて地金商は、国法の上で明白に存在を認められ、営業上の権利を保護せられることになったのと同時に、不条理千万な圧迫や干渉をも受けることとなったのである。その状況は後に記述するが、其前に、徳川二百六十年間に於ける、通貨鋳造の歴史をひもといて、通貨政策に現われたる徳川氏の苦心及び失敗の跡を一瞥することとしょう。

幕府二百六十年間の幣制と地金商
幕府時代に鋳造された通貨は、慶長、元禄、宝永等、各年度を通して十一回に及んだ

《享保十二年》 徳力屋に伝わる旧幕時代の、地金商同業者の記録に拠れば、徳川八代将軍吉宗公が享保中興の政治として、幕政二百六十余年間に於ける最善最良の政治を行った時代に、而かも吉宗自身の鑑識を以て、山田町奉行から抜擢して江戸町奉行に登用し、大岡越前守の名に於て、地金商の営業は初めて安らかに保証させられるようになったのである。其の控え書に曰く「抄出の文書は努めて原文、原字、原形を存ずることを期した。しかし明らかに誤字であり、或は文体から見て余りに難解であったりする箇所だけは、巳むを得ず、平易に書下し、且また字句は読めても意義のわかりにくいような箇所には、私註を施した。これ本篇に在りては、史料そのものの紹介を目的とするのでなく、専ら事実の闡明を目的としたからである」とすべてに之倣ふとしている。
写しに名を残したものは徳力屋:藤七、水戸屋:源左衛門、西川屋:藤七、信濃屋:孫八、日本橋組=亀田屋:惣兵衛、日本橋組=露木又兵衛。
右之者共、今十一日、樽谷与左衛門様御役所へ召出し、下金商売古来之儀御尋ねに、享保年中之控帳写抜き、年中行事浅草組床次郎其の外、六組月行事連印にて差上げ侯。
                              寛政三亥年五月十一日

即ち、此の時、同業者の年番役員たる浅草組床次郎から当局に差出した控帳の写しと云うのは、
写し
         定
一、大岡越前守様  御内寄にて
一、諏訪美濃守様
樽谷藤左衛門様、私共一統召させられ、御吟味之上、下金、屑金吹仲間組合仰付けられ、灘有奉存候。最も其節名主中相添はず罷出で侯。向後隨分入念に判形を取り、下金銀売買可仕事
享保十二年未九月とあり、これで見ると享保十二年の九月、初めて地金商、屑金吹売が一つの組合団体として認められて、同時に組合の組織を命ぜられ営業に関する注意をも言渡されているが、それには幕政時代唯一の名奉行たる大岡越前守が諏訪濃守と共に立合ったのである。恰も、この事があった前年の享保十一年午九月十日には、当局と同業者との問に左の如き交渉があった。
写し
      以書附申上候
一、 ー昨年、十日町中下金屋並に屑金吹、下金買出し之者共に御尋之趣、具に御知らせ
奉り侯事
一、 此度、下金問屋御願申上侯者御座侯に付、我々共商売へ相障り、不申越之趣御尋被遊、難有奉存御亊。
一、 古来より潰金銀買集め、金は金座、銀は銀座へ売払い、並に小売等迄仕上り侯所に宝永五年子ノ三月箔座被仰付、則箔座二軒にて買取小売迄仕侯に、殊の外差支へ下金商売は不及申、諸職人まで難儀至極仕侯に付、御訴訟申上侯得ば、聞召し別けさせられ、翌年丑の三月早速箔座御停止被仰付、古来之通り拙者共商売可仕旨、松野壱収守御番所に於て被為仰付候。
一、 三御番所様御帳面に附置候で商売仕来候。最もこの度の儀は御運上無御座候得共、下金問屋一人に御定披遊侯上は、右箔座同事に下金商売之者この外諸職人商売之障りに罷成候で、渡世仕り難く大勢之者共難儀至極仕候。最も只今迄も下金銀買集候儀、金座銀座に相違無く売払ひ申上侯へば、外に少しも金銀捨て申候は曽で無御座候間、右之段聞召し別けさせられ、何分にも御慈悲を以て唯今まで通り家業仕候やうに奉願上候
  享保十一年午ノ九月十二日
           本銀町三丁目 作 兵 衛  印
           同所四丁目 庄左衛門  印
           繪 物 町 孫 兵 衛  印
           新 石 町 久   七  印
  榑 屋 御役所
とあるから、享保十一年までは同業者に対する、幕府取締の政策が動揺していたことがわかる。右の嘆願書が大岡江戸町奉行の判断材料となって、前掲享保十二年の承認となったのである。
兎も角、享保十二年は、同業者に取りて特筆すべき年である。然らば同乗取締の基礎を為せる徳川時代の通貨鋳造及び通貨制度は如何であったか。
幕府時代に鋳造されし通貨は、慶長、元禄、宝永、正徳、享保、天文、明和、文政、天保、安政、万延の各年度を通して、十一回に及んでいる。
其の額の全部は判明しないが、慶長六年から元禄八年に至る九十余年間に鋳造されし金貨は、小判及び一分金一千四百七十二万七千五十五両、銀貨は丁銀、豆板銀百二十万量目、之を金に換算して二億九千八百二十二万二千余円に当る。外に銅銭も鋳造された。銅銭は四貫文を以て、金貨小判一両と交換され、金貨小判一両は、明治年間の旧金十円六銭に当るのに、銅貨四貫文は四円内外にしか当らなかった。
以上十一回に旦る新貨鋳造の書面に於て、地金同業者に対し、如何なる功罪が行はれたかを調べて見よう。

幕府の幣制と地金商を活用した頃
分銅は悉く軍用金として城内に保存し、「行軍守城用、莫為尋常費」と刻印した

初め豊臣秀吉が、幣制、度量衡制の一大改革を計画するや、一方には盛んに採掘地金の術を奨励して、通貨鋳造の原料を集めることに苦心した。
その結果、沢山の黄金が大阪に蓄積され、元和元年大阪落城の折、徳川家の没収せる黄金が二万八千六十枚、銀が二万四千枚、其外に名高い竹流し分銅の金の方が五十八枚、銀が四百枚あった。一枚の金分銅は、長さ一尺一寸、厚さ七寸、幅九寸八分、重量四十一貫、之を小判の値に換算する時は、一本の金分銅が、凡そ一万三千六百両余に当った。
家康は之を納めて、其内の金分銅一本づつを戦功者たる井伊直孝、藤堂高虎の両名に与え、残る分銅は悉く軍用金として城内に保存し、「行軍守城用、莫為尋常費」と刻印した。
併して、通貨の方だけを改鋳して発行したが、其時の形状は秀吉時代の小判金を四載分せる一歩判であった。これは京都の彫工で金銀改め役(鑑定役)を命ぜられた後藤庄三郎光次が、秀吉時代の通貨の過大にして、通用上、甚だ不便なることを進言せし結果である。
右の改鋳は、慶長六年六月、伏見に設けし銀座と、元禄四年、京都、武蔵、駿河の三ヶ所に設けし金座として作業させた。鋳造所の頭役を大津代官末吉勘兵衛に、下役を後藤光次に命じ、殊に光次をして金質の検定を司らせ、其子孫代々幕府の造幣事務を担当することとなった。末吉勘兵衛は、銀貨不定の為物価の混乱を生じ、又足利時代の切り銀、銀即ち秤量貨幣の品質一定ざるため、市場取引の困難一方ならざる民情を説いて、家康をして幣制統一を決心せしめた功労者である。既に鋳造所成りへ適任者を之に配して、盛んに新貨を発行した。之れ、幕府最初の鋳貨たる慶長小判である。
慶長小判が造られても、足利時代の輸入銭たる永楽銭は毫も信用を失墜せずに取行はれていた。慶長九年ノ水楽銭一体に付、ビタ銭四銭と定めたが、同十三年冬、関東に於ける永楽銭の使用を禁じ、其代り、薄銭を用ふることを命じた。その引替に就て、幕府は何の方法も講じてやらなかったから永楽銭を貯蔵せる町人は大打撃を受けた。
翌十四年、金一両と永楽一貫文との両替を命じ、越えて家光時代に寛永通宝が新鋳されて、是が天下の標準貨幣となる頃までに永楽銭を順次回収して、事実上幣制統一の基礎を簗き上げた。
秀吉時代に産出量の激増する金銀は、家康時代に入りて更に其生産額を増やした。石見国の住人安原伝兵衛なるものが、石見に国に銀山を発見し、幕府の奉行大久保長安をして採堀に当らしめたのも其頃である。
千余人の工夫を雇い、一年に千貫乃至三千六百貫の銀を上納したことがこの頃の書物に見える。大久保長安は、又慶長九年八月、佐渡の金山を視察して前途大に有望なる趣を家康に復命した。家康は石見銀山を毛利氏から、佐渡金山を上杉氏から没収して之を官営とし、盛んに通貨の原料を堀出させた。石見銀山の如きは、毛利家の経営せし時代には僅少の砂銀を出したのみであったが、官営(御料調べ)に帰して後は毎年四千貫の産額を見るようになった。(慶長見聞録から)の著者曰く。幼時の頃、金三十五枚を所持せる者は世に稀な長者として、近隣から羨望されたものであるが、昨今(慶長の晩年)は金五十六両持てる町人も珍らしくないといって驚嘆している。以て通貨の膨張と生活程度の向上とが、如何に急激であったかを知るに足る。
家光の造った「寛永通宝」は、良貨であった為、通用も早かったが、官営怠慢の結果、採算が合わなくなり、漸次減少したので元禄八年に「各国金銀山あらは憚りなく掘らしむべし金銀を掘ることを悼る由聞こゆれば、かく令せらるるなり」との布令を出して、家康以来の私掘禁止を解いた。斯くて貨幣の流通は漸次順調に趣きつつあったが、六代将軍家宣の元禄八年に、時の勘定頭萩原重秀の建策で、改鋳せる元禄鎭は座長金百両に対し、百三両、百十両、遂には百二十両を出しても替ゆるものなきほどの悪貨であった。
慶長金は益々深く隠れて市場に姿を現はさざるにも拘はらず、幕府は論税其他に新鋳貨を以て納るる亊を拒み、強いて旧貨幣を回収し以て五百万両を利した。是れ我国悪貨の魁であると同時に、善良なる地金を駆遂し、良民を駆りて贋造を犯さしめるの風を助長した。前記大阪城に貯蔵せる軍用金も此時通貨の原料に供されて、空しく官民騧奢の資となった。新鋳貨即ち元禄小判の質は純金五分、純銀四分、銅一分、之を旧慶長金、寛永金に比すれば純金四分弱を減じ、其不足を銀及び銅で補へるものであった。悪貨が脈々として良貨を駆遂し、物価を混乱せしめたのみならず、罪人頻出、法令益々悛厳を極め、良質の貯蔵者を物色すること苛酷になって来た。地金商と幕府の幣制とは、此頃がら漸く緊密な関係を保つようになったのである。

元禄八年から大岡越前守に地金商組合が認定された
貨幣贋造者は、無慮五百四十一人を算する時代に

《元禄八年》 元禄悪貨の改鋳された元禄八年から地金商同業組合が初めて大岡越前守に依いて、その存立を保証された享保十二年までは、僅々三十二、三年を経たに過ぎぬ。併し一年前の享保十一年には、猶はまだ地金商業者団体に対する幕府の政策が不安定であった所を見ると、比の三十一、二年の間に同業者が個々に追窮されたり疑はれたり、或いは束縛されたり困窮困惑の状など想察に余りある。元禄十一年から享保の直ぐ前の年号の正徳元年まで、都合十三年の短期間に、江戸、京都、大阪、奈良、堺、伏見、山田、新潟、長崎等の幕府料所で捕らえて磔殺の極刑に処せられた貨幣贋造者は、無慮五百四十一人を算するに至った。この中には、日頃から最も深く注意を払はれていた地金商も必ず有ったであろう。勿論、少しばかりのことで嫌疑を受けた者が乱暴な裁判にかけられて死刑の宣告を受けた者もあったろう。いわば享保以前元禄までの三十余年間は、幕府幣制の暗黒時代であり、造幣関係者と一般良民や就中商人にとっては、恐慌時代であったわけ。
其時代に同業組合としての記録が無いのは、以上のような情況から云うまでも無いが個人としての歴史も何一つ伝えられて居ないのはおかしい。
即ち徳力の祖先は、更にこれ以上に遡って居るのであらうことは読めるが、歴史として語るべきものは享保十二年に同業組合が成立して以来の系統であって、徳力屋藤七の名をもって嚆矢とする。ただここに享保以前の悪貨鋳造が如何なる世相を現出せしたかを知るべき一つの面白い史談が残っている。



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