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白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」の始めの頃
統制が強化される時代に小森宮さんに紹介した

《昭和二年》 サンプラチナは、昭和初期の物資欠乏時代を当てこんで売込んだ白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」というものであり、昭和二年十一月に創立した「三金研究所」から発売された。社長の加藤信太郎氏は、その年に上京、私の社に朝昼となく訪問して、その宣伝技術に協力を求めてきた。
加藤さんのその頃の曰くに、「藤井社長、サンプラチナが成功した暁には、御社の社屋三階建てを本建築にして差上げます、ほんとうです、どうか面倒見て貰いたい」とい懇願ぶりであった。サンプラチナと名称はつけたものの、地金が堅くて金の代用どころか白金の代用にはなおのこと、なかなか利用の役には立て難いというものであった。然も貴金属業者には、一片の面識もないズブの素人であった加藤さん。然し、そうこうしている中に貴金属品に関する統制が一層強化される時代になり、業者側でも堅いのが難点ということで作業の点で芳しいものではなかったのだが、さりとて所用資材が欠乏する時代に変っていった頃からは、これを使うほかないということにもなり、漸次観念化された時代ともなったのである。統制が強化されたおかげである。それをチャンスに貴金属組合やその関係方面に使用方を説いて廻った中で、眼鏡方面への開拓にも一歩を進める必要から、サンプラ地金の取扱業者の選択について相談を持ちかけられた。
だが地金関係の事情では、堅いという特質があるだけに、積極的な協力ぶりをとるのに少しく逡巡していたのであった。ある晩、加藤さんが私の会社に押しかけて来て、狙いをつけている小森宮さんにその取扱い方を頼んでくれというのであった。勿論、小森宮さんは加藤さん自身には未知の人であったので、私が紹介したことによって始めて知ったという事である。
小森宮さんのお宅を訪問していろいろ懇願した結果、それでは、店のものがどういうか一
応相談してみようというところまで進展した。この頃は、現当主の小森宮さんは、大学に在学中で、専務の福ちゃんだけが残ったのだと思う。そうして漸く頼み込んだ緒果、小森宮、加藤さんご両所が既に亡くなられた現在でもサンプラ地金の発売元として永続しているという現況である。
このエピソードは、且て、大阪時計業界の某卸店が、密輸事件からの脱落を条件に金五万円の謝礼金を出す約束したのをホゴにしたのに次ぐ第二番目の話。

石福貴金属興業は、事業場拡張の為上海に次いで南京にも出張所を
政府が資材統制のため

《昭和十四年》 前にどこかで書いたように、支那事変開戦のために貴金属地金界にも一大異変がまき起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日、日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して、政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。そのために石福貴金属興業KKは、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく懐しいものである。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があるからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさという気持が手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが、別段これという危険な感じはうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学した夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクツ音でベンタツしながら程遠からぬ士官集会所に走らせたものだ。この集会所は街の情景とは趣を異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正などの日本酒、何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというごちそうである。一切が特務機関の計らいだけに、余人の想像もつかないものだった。
支那事情についての説明では、支那全土を掌どるものは少なくとも、中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点などが想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には、將介石四十七号嬢というのが加って私らに酌をしてくれたとい酒席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので一行は、急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という谺想の夢を肥に大きく描いたものもあったであろうが、翌朝私かホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰れない事となった。

寒山時で経験したこと
支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払う

《昭和十四年》 その次に寒山時に詣でて、物色した中で感じたことは、寒山時の駕監の中にある建物の力べには、何一つ落書されていないことに注目をひいた。然も支那では、到るところに沢山の子供がいて、日本人を見てはシーサン(先生)シーサンを連呼し、物乞いをしていたのである。だから、日本における場合なら極めて簡単に何か落書きをされて力べのキレイさなどは、見られたものではないのに比べれば、大変な相違であると感嘆した。
その次に、寒山寺の寺院の苑内で、いろいろの土産物を物色していた。そこの住職も手伝い、二、三の寺坊が手まめに応待していたが、格別日本人だからと言って特別の態度も見せてはいなかった。ところが、私が指さしだした南無阿弥陀仏の六字の称号を求める段になると、私を取巻いて見ていた支那人の大勢が突然、已の傍から遠のいて円陣を張った。そしてはるか離れた小屋で土産物の応待に努めていた住職を手招きで呼んでくれた。すると、その住職は手早くその場を処理して私のところへやって来た。私は六字の称号を求めて六十銭の代金を支払ったところ、住職は自分の名刺を取出して私に渡して合掌し敬意を表された。そこで、私も商品興信新聞社長名入りの名刺を出して交換し、そのあと住職は私を案内して本堂までの茄監を見せて廻って呉れた。この本堂には十三尺にも余るような大きな一枚の宝来山に千羽鶴の絵巻軸が掛けられていたので、これを指さして「売りますか」と聞くと、二百円と答えたので、先日路傍で経験した状況を思い出して、「値段は負かりますか」と反問して見た。するとこのとき物静かな足どりで案内していて呉れたその住職は、くびすを返すが如くに後についている私の姿を振り向きもせず、ツト彼方の寺坊に飛び去って離れて行って終ったのを覚えている。そこで直感したのだが。支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払うものだという、実感にうたれたのである。

石橋爆破事故とその時の恐怖感
匪賊のために爆破され、開通の見込みがない

《昭和十四年》 江州に蓿いたので、名勝地の西湖のほとりにホテルを求めてから附近の情況について聞いて見た。当時はこの西湖の対岸には、ときどき機銃の射声が聞えたという。だから遠くへ出て行けないことは勿論のこと、夜ともなれば、ホテルからの外出も禁じられていた程だった。そこで早朝の五時頃、西湖のほとりにやって来た三十才余の青年と筆談を行なって情勢判断の一つにもしたいものだと思い、越村氏と共に対談して見た。するとその青年は曰く、「将介石もグメ、日本の東条もダメ、東洋に人材乏しきを憂える」と書いて見せた。支那というところは地域も広いが人間の気持もすこぶる大きいスケールの大きなものだということを知って感嘆した。
その日は、午後一時の汽車で上海に戻ることになっていたので、一行は、早朝ホテルを出て加藤信太郎氏を除いた十人が西湖のほとりにある且ては宗美麗の別荘になっていたというギヤマン作りの綺麗なガラス張りの店でライスカレーの食事をしていたところ、そこへ顔色を変えて飛込んできたものがあった。それは早朝西湖の駅を出発した加藤信太郎氏であったので驚いた。バックして来た理由は、石橋の鉄橋が匪賊のために爆破され、開通の見込みがないという説明であった。これを聞いた一行は、「行くに道なし、帰る方法もなし」というのであった。心中は瞬間的ではあるが、正に暗黒そのものの観を呈したのだ、とその当時を思い出す。加藤氏の報告によって、一行は兎に角一刻も早く西湖を立って上海への引きあげ方向へ急行することに決めた。そこでヤンチャオ(人力車)を呼んで遮二無二駅まですべりこみを敢行したのだったが、このとき既に駅頭では日本人に限り随時列車への乗込みを許すという厳戒体勢がとられていた。その他の一般旅客の乗車は一切禁止されていた辺りから見て、“勝てば官軍”という言わざの通り、戦いには勝たなけれぱならないものだあと痛感させられた。然し爆破された石橋は、山田乙三閣下と再び同行することになったお陰で間もなく仮橋を作ることに成功したので、上海に無事安着することは出来たが、途中匪賊の襲撃などの不安予想もあって、一時は戦場的光景のおののきを感得させられたものである。

南京地区の状況視察のときの快味
市街の建物は爆破のキズあとがまだ生生しく残っていた

《昭和十四年》 南京にはその翌日上海を経て到着した。そして南京では当時第一級の飯
店とされていた南京ホテルに落着いた。ここを中心に中山陵とかの名勝地を見物したのだが、足便が乏しいので、軍の自動車に便乗する外なかった。
明大の先輩達がいる関係でこのときも利用することをできた。中山陵に詣でて始めて支那の始祖、宗民時代のことなどの一節も想いうかばされたものだ。南京の市街は、つい先だって日本軍が占領したというそのすぐあとのことだっただけに、市街の建物は爆破のキズあとがまだ生生しく残っていた。
だから街中で私達の一番眼を惹いたのは、印度巡警が警棒を振るってチャンピーやヤッチャオ連中に威厳を示し追っ払っていたことなどである。
私達がその夜宿った南京ホテルは一流のものであった。だから止宿人は相当なものだということが判断できる。そのせいなのかとにかく、どこからか支那服に身をまとった美人が一人の紳士に伴われてきたとしても、このホテルへは一切入所を許さない。そのために印度人の巡警が棒をふるって入所を妨害している光景が、私達の眼の前で展開されたので一面の興味をそそった。
またヤッチャオが客を求めてこのホテルの前に群がって来ようものなら印度人の巡査は警棒をふるって力の限りにその車のおおいをたたきこわすように振りまわしてもいたので、少しく敗戦者の哀れさを感じないではいられなかった。このような光景の南京の街に私達の眼を更にひきつけたものは、銀貨の買入れに進出していた石福貴金属興業KKの出張所であった。前にどこかで述べたように、支那事変の開戦のために貴金属地金界にも一大異変が巻き起っていたのだ。統制という画期的時代の現象が政府の資材統制のために余儀なくされた。そして昭和十二年の十二月二十八日(?)日本貴金属株式会社が設立されて、東京、大阪、名古屋の地金業者が一括加盟して、政府が指令する統制資材の集荷の役を負うことになったものである。
そのために石福貴金属工業は、その事業場のことから上海に次いで南京にも出張所を出したのであろうことなど読めてはいたが、外地で見る知人の名や姿の実際にぶつかると何となく、懷しいものであった。そのように市街の状況を視察して歩いたが、ある一定以外の地域への出入りはここでも厳禁されていた。
それは、支那人の一部がスキをねらって日本人を襲う危険があったからだと説明されたのである。しかし恐いもの見たさ、という気持ちが手伝ってか、私はその翌朝早く、その禁足地区に単身立入って見て廻ったが別段これという危険は感じをうけなかった。
中山陵地区の史跡を見学したその夜、私の友人である明大の先輩達の好意で士官集会所に案内されることになった。ヤンチャオに乗ってグズつく車夫をクッ音でベンタッしながら、程遠からぬ士官集会樂所に走らせたものだ。
この集会所は、街の情景とは趣きを異にしていた。特級酒の白鹿、月桂冠、菊正等等何でも、それにカシワ料理をふんだんに出してくれた上に、銀めしというご馳走である。一切が特務機関の計らいだけに、余人の想像もつかないものだった。支那事情についての説明では、支那全土を司るものは、少なくとも中支の勢力を掌握するために、揚子江経済という支那の特有事情を知る必要があるという一巻について、新政府の経済部門の某要人から聴くことができた。従って揚子江を通じての経済力が大きい代りに、また揚子江を中心にした戦争経過という面も大きくかつ永びくものであるという点など想像されたのである。こんなことについて語ってくれたそのあと、更に南京第二飯店に一行を招待してくれた。その席には將介石心十七号嬢というのが加って、私らに酌をしてくれたという一席もあって一同をヤンヤといわせたものである。以上のような経過を辿ったので、一行は急に偉くなったような気持ちになって支那大陸への進出という構想の夢を胸に大きく描いたものもあった。
翌朝私がホテルのカウンターをのぞいて見ると、朝日新聞の記者が連絡電話で上海における日本艦隊の矢地第三艦隊長と英国艦隊の間にチャンバラ事件が突発したので飛行機ででも帰らない限り、帰れなくなるだろうという特急情報を受け取っているのを聞いたのである。私のこの報告に驚いた

あわただしい上海での動静
泊ったホテルの地下室には、戦争のため惨殺された四千に余る支那兵の屁が

《昭和十四年》 上海に急拠帰っては見たが、その時の上海の空気は何となくあわただししかった。一行が泊っていた四仙路ホテルの地下室には、今なお戦争のために惨殺された四千に余る支那兵の一群が屁となって埋められていて、それが夜ともなればうごめき出すという伝説がこのとき特に出廻っていたのでる。
一行の気持はサッパリしないばかりか、何となく落ちつかなかった。そこで宮沢氏にその事を聞いてみたところ、「そのとおりだ」ということで更におどろいた。もっともこの頃は既に宮沢氏自身が民団副長の肩書の手前、何事につけても民心の緊張感を求めようという気持があったからいったのであろうが、しかし上海の事情に疎い一行は、この情勢の変化で急に物さびしさが感じられた。
そこで思案の末、とにかく四仙路ホテルを抜け出すとでも思われたものなら逆手を用いられまいものでもないという思惑も手伝ったので、表面は何気なく他に転ずるということでホテルを出ようと申合わせた。そして一行は、日本人経営の「万歳館」という旅館に移ることが出来た。早速一行の打合せが行われて 帰国の段取りが進められたが、船の都合がつかないというので、またまた思案にふけった。
私はこのとき考えて見た。一層のこと、支那に居残って市場作りに精出すことがよいか、または帰国の上、改めて出直す方法もあるが、とも考えて見たのだがこの時、特に私の胸中にうかんだことは、一行十一人で仏租界内の夜の遊楽街を楽しんで歩いたことがある。そしてドックレースや投球競技の妙技をかけごとを通じて楽しんだこと等、その晩一行を打ちつれて仏租界内の“いろは”というスキヤキ屋に入ったとき、突つぴでもない怖い状況を目撃しながら聞いたことがある。
その時の怖い話だが、長崎出身のそこの女将が、「誰か一人居残っていて貰いたい」と哀願した言葉をこのとき思い出したのである。仏国の少将が保護してくれているのだから格別危険はない、ということを聞かされてはいたのだが、それでも余り気持ちのいい居残り組ではないとも考え直した。私も一行と共に帰国することに決意したのである。船は二日間を待って、ようやく次の便船に乗ることが出来た。この船は、沈没した照国丸より小さいので船足はおそく丸三日かかった。しかし、海原から見る日本は、緑につつまれて実にスガスガしく立派に消えたのである。外国から帰って来る日本人の眼には、日本の国は今でもこのときのように緑の国であり、立派な存在であると私らの心にㇵッキリと刻むことが出来た。
そんな気持でいた私達一行を乗せた船は、横浜港に安着するや、汽車で早速帰宅の途についたのであるが、車中で聞いたラジオ情報では、戦争のために資材統制令が又又強化され、各種の資材使用制限令が発令されたということであった。越村氏と共に、「やはり戦争になりましたねエ」と語り合ったが、その次には、お互いの心の中でこの統制時代に処して何事かなさねばならないであろうという心組を新たにしたのであった。

中支那方面視察中のところどころ
最初二百円と唱していた掛け軸が結局ただの五円で売買することになった

《昭和十四年》 中支派遣軍参謀総長山田乙三閣下の一行に加わっているが如き感じで、閣下一行と同行していた私達の中支那方面経済視察団は、その視察の眼を各地区の都市の実情調査にも転ずることにした。その中に織り込まれた一コマ、蘇州寒山寺に詣でて感じた点を追想してみよう。
寒山寺に詣でる途中の沿道に立ち並んでいる商人から一行中の越村氏が掛軸を求めるべく値段の交渉を始めたので私と一行は興味を持ってその成行きを見守っていた。越村氏が指差した掛軸は最初二百円(当時)と唱していたが、だんだん値切って結局ただの五円で売買することになった。支那人という商人は物に対して馬鹿げて吹っかけるものだという印象をこのときの状況から知ることが出来た。

支那の市場支配権の獲得交渉へ
在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問する

《昭和十四年》 上海三日目の一行の視察行動については、前夜に打合せで「十一人が揃って歩く必要のない所へはそれぞれ希望のところに行こうではないか」という話になり、希望者は双方の何れへでも随行することにした。私は中支方面の市場調査を目的としての行動をとることにしたので、早朝出発して、在上海日本軍第三艦隊上海派遣軍駐屯部隊本部を訪問することにした。
朝七時三十分にホテルを出て埠頭に第三艦隊から差廻してもらった、且っての独乙軍の占領艇でフートンに渡ることになった。(注・フートンとは丁度月島を本土と切離したような感じのところ)。ここに第三艦隊の司令部があったのだ。私は、秩父宮の御前砲射を行なったことの栄誉を持つ服部大尉に面会した。そして支那における市場支配の構想について説明を求められたので、格別資本金は大して必要としないが経験者の派遣によって実際的に支配してみせる、その代替物として日本で作った軽金属製品を与えて日支人国民間の交流を計りたいというのが私の希望であると抱負の概要を説明した。

安田保全株式会社が市場の支配権の獲得の交渉にやってきていた
資本金によって事業を企む安田保全より君の企画を取りあげることになった

《昭和十四年》 ところがその当時すでに丸の内の安田保全株式会社から安田という人が資本金二百万円を持って私の考えと同じように市場の支配権の獲得の交渉にやってきたという話をこのとき聞かされた。その結果ともかく、少佐に説明の要点を伝えてくれることになり約一時間のあと出てきた大尉が興奮して、「君の勝だった」と私の肩をたたいで説明してくれた。
それは大隊長の矢地少佐がいわく、「軍は国民的な観念によって、賄ってくれる人を選ぶことにするのだから資本金によって事業を企む安田保全KKより君の企画を取りあげることになった」と説明してくれた。
だが、少佐殿が所用のため南京へ行って帰ってからまた合うことを約束して大隊本部を辞去した。そのあと服部大尉は私たち一行を軍用自動車を駆っでフートン地区の実状視察に案内してくれた。フートンにいる民間日本人は、私達の外には二・二六事件に連座した山岸中尉の姉さんが宣教師となって渡っていただけで、あとは皆無だと聞かされた。だから私達の乗る軍用車によって馳駆する道すがらは異様な感じをもって見ていたようでもあった。
このフートン銀座を経由して支那農民の総てが生鮮な野菜物をかついで対岸の仏祖界に売りに行くのである。この売込み物資を一括して取扱ってやることそのものが市場性を持つものであると私と服部大尉は現状の動きを眼の前にして語りあい、既に市場開発の際の企画が立案されたような感じでながめたのである。この間、交渉成立の実現を眼の前にして私に同行した一同は喜びと驚きの眼をみはったのである。

上海の市街を見学、中国の知恵を学んだ
電車もバスも車掌が私腹を肥やす

《昭和十四年》 上海二日目の朝、一行はそろって上海の市内見学を行った。宮沢さんの案内で電車やバスにも乗って見た。電車の切符は、12枚切るので、六枚で足りさせて3枚を車掌に払い、それでOKとなる。つまり車掌が三枚分を私腹してお客が三名分安く乗ったことになる。この説明をして代金を与えるとその車掌は納得するのである。それを実践して見せてくれたのがバスであった。バスの場合も同様だが、このバスは英国系の会社経営になっていたので、監督が時々乗車して切符の点検をやるそうだ。その時、自分の儲けた分も、客からも不足分を無造作に徴発して補うことをやる。それでその場は通るのだった。英国人の監督は、支那人のそれらの行為が通有性であることを知っているせいか、訳もなく徴発を行っていた。



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