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本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が
金銀連盟の前進体制

《昭和十六年》 戦局は次第に大きくなり、昭和十六年遂に大東亜戦争へと拡大していった。そのおかけで時計業界への打撃はすこぶる大きくなった。この頃、業界に存在する事業団体の種類は、金銀連盟という一体制に限られるようになって終った。だからこの連盟は、業者の手持商品を集めたものの、その処理という段階になって輸出会社を作ることにした。同時に並行して、一本化した全国的組織の組合作りの考え方が浮上してきた。別項参照)
業務の前進という点から考えたのであろう。日本美術工芸品輸出株式会社を創立しようと新しい構想が打出されるようになって来た。然しこうなって来ると、これまでやってきた連盟の事業は、時計貴金属商が持つストック品の処理という目的に重点がおかれていただけに、業者側としては時局性から考えて、新たに設立しようとする日本美術工芸品輸出KKという会社設立の目的は、金銀製品を更に一歩加重した範囲の完全なる新規の事業体になるものだという批判が投けられるようにもなって来た。
業界内部の意見がそのように傾いた状況を取上げたのは、当時の業界紙としては本社がただ一社。もっともこの頃は、既に一、二の業界紙しか存在しない時代でもあった。そんなような空気の中ではあったが、金銀連盟を作り上げたことで強気の波に乗っていた矢板玄審氏と、越村暁久氏の献策が進んでいった。日本美術工芸品輸出KKは、兎に角設立することになった。この会社の設立の記録を参考のため記すことにする。189右下:大蔵大臣から表彰状を授与される服部玄三氏と服部時計店社長

「日本美術工芸品輸出株式会社」の創立経過
全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じく

《昭和十六年》 聖戦既二四年ヲ閲シ我皇国ハ大東亜建設ノ理想実現ノ為メー高度ノ国防体制ノ確立ヲ婀シソノ国策ノ基調ハ声明セラレ各種産業ハ業種別二凡テ公益先ノ理念ノ下二統制アル団体ヲ整へ以テ新体制二順応シツツアリ。
我業界二於テモ構想ヲ新ニシテ激動ノ渦中ニアル業者ヲ扶ケ輸出事業二全力ヲ尽サシメテ海外新市場ノ開拓ヲ図り併圜外貨ノ得得ヲ期セントス。
日本美術工芸品輸出株式会社ハ上記ノ趣旨二基キ政府指導ノ下二社団人金銀製品商連盟ヲ母体トシ関係有志ニヨリ設立シタルモノニシテ洽ク之ヲ公開シテ業界ノ進展二資セン亊ヲ期ス。
以上の趣旨によって輸出会社が創設することになった。その議の起ったのは昭和十五年八月二十九日に役員会を開いた席上で、然も全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会の結成の時と同じくしている。

日本美術工芸品輸出社の創立発起人
会社の事業目論見書

《昭和十六年》 一、本会社(日本美術工芸品輸出株式会社卜称ス、ニ、本会社(資本金五万円(一株五抬円)壱千株トシ第壱回払込金壱万弐千五百円(一株拾弐円五拾銭)ヲ以テ事業二着手シ必要二応ジ第二回以後ノ払込ヲ行フモノトス(註=後二「資本金拾万円、第四回払込金弐万五予円」卜改ム)、三、本会社(公益優先ノ新体制二則シ組織アル統制ノ下二社団法人金銀製品商連盟ノ蒐集セル商品其他貴金属工芸品ヲ輸出スベク必要ナル事業ヲ行フモノトス(註=後ニ「コノ会社ハ国家ノ輸出統制ノ下二金製商品其他貴金属宝石及美術工芸品ノ製造売買及輸出並二此等二関シ必要ナル事業ヲ行フモノトス」卜改ム)
この会社設立発起入会が開催されるや、引続いて第一回払込を行うという超スピー度ぶりで、創立発起人には次の諸氏があげられた。
▽社団法人金銀製品商連盟=安藤善親、池田嘉吉、生駒権七、岩佐公崑、江藤順蔵、梶彦兵衛、梶田久治郎、亀山米義、久米武夫、越村暁久、小林伝次郎、坂本正造、武藤跌次郎、在間朋次郎、鈴木一郎、関屋延之助、田中淳一郎、東郷安、中里治三郎、中村善太郎、野村菊次郎、土方省吾、丸木真、外園盛吉、松田幸治邱、松山繁三郎、宮本英三、山崎亀吉、山岡清、矢板玄蕃、吉田庄五郎の各氏。
然しここまでは、一応進んでいたが上海及び南方に対する輸出状況と時局の急激な推移がからんで輸出会社の創設必要条件を見ることがなくなり、此の計画は一時留保の形となって越年した。然し、昭和十六年に入って再び此の計画の実行を促し、五月五日、商工省鉱山局、物価局、貿易局の課長級事務官等十数氏が連盟側代表と会談した。
この結果、商工省当局は急速且つ積極的に設立されるよう希望するところがあったので連盟でも一応同調に傾いたが、これに対して商工省当局としては、次の意見を持っていた。つまり、連盟が資材の配給及び業者の指導監督に当ることは結構であるが、輸出の事業目論見は既存商社の権益を阻害する結果ともなる憂いがあるとした。従って連盟としては、まず一商事会社を設立して置くことを良氏として、そうなれば其の業績の如何によっては、商工省公認とする事を考慮することあるべしという意見が述べられた。これによって設立機運は漸次促されたのである。
然し、反面業界の事情もこんがらかるようになって来たことから、結実の運びに到らずしてその侭持越しの形となっていた。そこへ又戦局のかれいさが加わって※だので、十八年七月に到って連盟解散の声があげられるようになり、状勢の変化と共に遂に流産の悲連に終っている。

郷安会長が、昭和十八年六月に連合会の会長を辞任する旨表明
金銀連盟の解散と清算

《昭和十六年》 理想と現実は、常にマッチし難いものであるという実態がここに現示されるようになった。即ち、金銀製品商連盟としての事業は、国策的見地から理想的に進められてきたが、それを基盤に一歩進めた全国組織の統一、日本美術工芸品輸出KKの設立問題などが生れて来た派生条項を中心に、業界方面からはいろいろな批判が投げられるようになってきたのである。このような雰囲気に堪え難い感情に包まれていた会長の東郷安氏は、昭和十八年六月の連盟役員会の席上で、連盟と共に連合会の会長を辞任する旨表明した。遂に十八年七月二十四日の役員会において連盟の解散が議決されるに及んで、連合会も自然消滅の運命を辿ることになった。
以上のような時の状勢から第五回目の上海出荷を最後に金銀連盟の事業は創設の使命に対して終止符を打つことになった。連盟は、ここに有終の美を遂ぐる如かすとの結論に到達したのである。解散に関する一切の処理は、八月二日解散許可申請書を大竹商工両大巨に提出、八月二十五日解散許可の指令に接し終幕となっている。解散時の管理と清算状況は次の通りである。
一、銀行預金=約 一、九〇七、〇〇〇円
二、見本商品その他の資産=三〇、〇〇〇円
三、借入金ナシ
江藤順蔵、梶田久治郎、久米武夫、原清、中里治三郎、▽窩柯暦造▽矢板玄蕃(▽印は代表清算人)の諸氏が決定せられ、当局より解散許可せられるや直ちに清算人の登記、解散の公告、基本金の返済委託商品の返品、推定債務の支払等予定通りに清算事務を進捗せしめ、十一月十八日解散公告期満了、期間中新規債権の申出もなく清算も滞りなく終了、その剰余財産の処理については、主管当局の指示に依り左の通り処分を了して竝に光輝ある終幕を告げたのである。
一、財団法入財政金融会へ寄付=五〇〇、〇〇〇、〇〇円
二、社団法人金銀運営会へ寄付=一、二〇五、〇〇〇、〇〇円
三、預金及現金以外の資産は一括して社団法人金銀運営会へ寄付
四、桐友会及桐花報国会へ 各一万円寄付
斯くして連盟の最後を飾る解散式は、諸般の準備を終り、九月二十一日麹町丸ノ内大東亜会館に於いて関係官民百数十名が列席して厳粛に挙行された。
足掛け五年、丸四年の極めて短い存在に過ぎない連盟ではあったが、その間、金に関する国策に順応して政府の施策に寄与し、支那事変に始まって大東亜戦争に到るまで前述の業績が示す如く、業者提供の金製品の活用によって、職域奉公の実を挙げ得たものである。解散時に際し、連盟は大蔵大臣より感謝状を授与せられた光栄に浴した。目的を果たして解散式

金銀製品の買入について全国布告を図る
各地からの売却申込処理に火の車のような苦闘の日が続けられた

《昭和十四年》金製商品の買入方法については、かねて全国道府県知事、総務部長、経済
部長、警察部長等に協力を求める一方、各商工会議所の会頭とも連繋して全国の業者数を調査していたのであるが、その数、実に一万三千余に上る事が判明し、これ等に対して一斉に供出方を呼びかけたのである。
刻々と集る各地からの売却申込処理に、火の車のような苦闘の日が続けられた。そして昭和十四年はその繁忙の裡に暮れ、この買入の受付は十五年の一月末日にまで及んでいる。
昭和十五年一月、静岡市の大火に際しては十九、二十日の両日役員会を開催し、同方面からの売却申込商品に対する緊急評価及び買入の件を決定した外、職員を特派して買入代金の現地払いを実施するなどの抛置をとったので罷災者の感銘を得た。
買入商品が殺到したのは十五年の十二月頃である。従事者の不馴れと処理の正確を期するためとに依る努力は実に涙ぐましいものがあった。時に微宵して、商品買入の決定を急いだことも屡次に及び、職員の執務はほとんど連日にわたり早朝より夜半に至るまでの奮闘振りを示すに到った。

昭和十七年で買い入れ事業を終了した
日本興業銀行からの借入金総額三百万円を十七年七月二十八日に以て完済した

《昭和十四年》 「社団法人金銀製品商連盟」の評価委員会は、爾来時宜に応じて、昭和十四年度には十二回、十五年度には二十五回、十六年度には十五回の会合を開催した。十七年度以降は、買入れを打切ったのでその開催を見なかった。
この買入資金は、専ら融資命令に依る日本興業銀行からの借入金を以て充当したものであるが、この借入金は、総額三百万円を限度として逐次必要額の融通を受けるべきことを条件とし、十四年十月十日付を以て、同銀行の宝来総裁へ借入の申込みをし、同年十二月十一日の金十万円の借入を最初に、昭和十六年二月十四日現在の三百万円を限度として、昭和十八年七月五日には全額の返済を完了した。
この間、昭和十六年十月三十一日には、金資金特別会計から三百九十万円の融資を受けたが、是も十七年七月二十八日を以て完済した。しかも是等の借入金返済は総て連盟の業務に依る剰余金を以て決済し得たのである。

金銀製品商連盟の基本財産三万円は創立と同時に日本興業銀行の定期預金に
資金の出資者氏名は

《昭和十四年》 社団法人金銀製品商連盟の基本財産三万円は、創立と同時に出資額を定めて取り纏め、昭和十五年一月十五日を以て日本興業銀行の定期預金に託し、保管したのであった。出資者と出資額は次の如くである。
▽服部時計店:1,000円、▽日本百貨店組合:七、五〇〇円、▽大阪貴金属商工組合:
三、五〇〇円、▽日本金地金株式会社:二、〇〇〇円、▽東京装美会:一、〇〇〇円、▽金森安平:五〇〇円、▽小林伝次郎:五〇〇円、▽大日本時計株式会社:五〇〇円、▽鶴巻栄松:五〇〇円、▽東京時計商工同業組合:五〇〇円、▽東京貴金属品製造同業組合:五〇〇円、▽御木本真珠店:五〇〇円、▽吉田庄五郎:五〇〇円、▽生駒権七:三七五円、▽江藤順蔵:三七五円、▽梶彦兵衛:三七五円、▽中里治三郎:三七五円の合計三万円。

第一回の買入が一段落すると同時に、早くも第二回の買入計画が樹立され、二月二十日の役員会において第二次買入商品の基準表作成の件を申合せている。かくして三月十二日には、山崎商店ほか三店から第二回買入商品の見本七十一点を蒐集するまでに進んでいた。
第二回買入商品の基準表作成と前後して、金時計側の供出を促進する目的から、定款の第四条第五項に基づき、代替時計側の配給斡旋を行う亊となり、東京時計側工業組合の協力を得て、その事業を開始したのである。当時、代替時計側払底の折柄だったので、この企てはまことに時宜に適した措置として歓迎されたのみならず、各府県に於ける金時計側の蒐集処理をも極めて簡易ならしむることを得たのであった。

同連盟が如何に頻繁に会議をしていたか
当時の記録 第二回買入と委員名で分かる

《昭和十五年》 ▽昭和十五年・一月十三日、評定員懇談会を開催、▽昭和十五年一月十九日、中央物価統制協力会議へ加盟、▽昭和十五年二月一日、金製品蒐集区域ヲ植民地域へ拡張スル件ヲ決定、▽昭和十五年二月三日、大蔵省ヨリ金地金売買業者指定証ヲ下附サル(本件ハ遂年期間ヲ更改シテ継続セラル)、昭和十五年二月五日、金鍍金液使用ノ件許可サル、昭和十五年二月二十日、役員会二於テ越村常務理事辞任ノ件ヲ承認。
此の第二回買入に関しては、一般事務の促進と共にその操作を容易ならしめるために、業界人の中から見識のある士を常任委員に委嘱して業務の担当に任せしめる事となり、昭和十五年四月十七日を以て荒木虎次郎、川名啓之、梶田久治郎、亀山末義、後藤清貞、長谷川恵章、外園盛吉、松山繁三郎、溝口万吉、森川浅次の十氏に夫々委嘱してその快諾を受けた。(長谷川氏は同年八月二十三日辞任、同年十月二十九日加藤清十郎氏を後任に推す)

常任委員会の使命
取扱商品買入基準表の原案ノ作成や商品処理二関スル宣伝、連絡等

《昭和十五年》 随時常任委員会ヲ開催シ左記事項ヲ委嘱シ実情二即スルコトヲ期ス
@ 第二回取扱商品買入基準表の原案ノ作成、A商品処理二関スル宣伝、連絡其他日常ノ事務事項ノ処理。
常任委員会において、五月一日、同二十一日の二回に亘って全国連合会長及び組合長宛の出荷勧奨状を発送して全国時計及貴金属業者の認識を促し、業界新聞に右に関する共同声明書を発表した外、東京においては各区の小売組合支部長会議に出席して、出荷勧奨に努めるなど、その労苦は筆舌に尽し難く、古品、新品の鑑別、業者よりの質疑応答等、しかもこの間、委員会並に小委員会を開催すること四月二十日を第一回として実に二十七回に及んでいる。
特に第二回の取扱商品買入に関しては、協議すること十数回にして六月二十六日、基準表を決定発表したのであった。
(イ)男子用提物(方針「虫付」メダル類)カフス釦、金貨枠、ネクタイ止、ネクタイピン、パイプ、ナイフ、シャープ、コ―トチェン、カラー止釦、カラー止鎖、横ピン、バックル其他金製品頽一切。
(口)婦人用帯止金具、頭髪用品、短鎖提、羽織紐、其他金製品一切(以上何レモ石ノ入ラザル無地物二限ル)。
(ハ)石ヲ主トシタル製品ノ空枠(指輪、帯留、カフス釦、頭髪用品、其他)
(二)主トシテ金ヲ以テ製作シタル商品一切。
業界への出荷勧奨については、一方ならぬ苦心を払っている。既にこの勧奨は二月中旬から開始せられ、常任委員会の結成と共に本格的に呼びかけられたのである。その結果は、五月、六月頃に入って、各地からの供出漸く旺盛を極めるに至った。従って各方回ともその供出者の便利に資すべき対策の考究を必要とするに至ったことは勿論、矢板専務理事は後藤常任委員と共に職員を引率し五月二十七、八の両日名古屋市に出張、同方面の業界代表者の熱心な協力を得て、業者から商品の受入を行なうと共に事業目的に関する懇談を遂げ、帰途静岡市にも立寄って同方面の業界代表者とも懇談する等の足跡がある。

東京と近畿で金製品の集荷と輸送
警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納した

《昭和十五年》 一方東京方面においては、新市内同業者のために六月中旬を期して左記四力所に商品の持込所と持込日を指定して、職員出張の上これらの受入を行ない、七月四日には、横浜市において神奈川県下業者のために、石田組合長以下幹部の斡旋を得て、またその月の中旬には、近畿地方業者のためにも同様施設を催した等、スピード行動を続けたものである。即ち
▽東京方面は渋谷・東横デパート(六月十八日)、浅草松屋デパート(六月十九日)、大塚白木屋デパート(六月二十日)、新宿伊勢丹デパート(六月二十一日)。
▽近畿方面では、大阪実業協会(七月十五日より二十日まで)、神戸・湊川勧業館(七月十八日)、京都商工会議所(七月十九日)。
近畿地方の蒐集商品は、矢板専務理事以下多くの教職員が同地に出張し、各地組合長その他幹部の非常な努力により予想以上の蒐荷を得、現品を数十個の行李に収めて東京へ愉送した等、連日に亘り酷熱炎暑の下に各地の蒐荷が行なわれたものである。
そこでこの荷物は、造幣局が蒐荷の保管を引受け、また輸送途中の沿線各府県警察部の協力を求め、移動警察の申送りによる護衛を受けて東京駅に到着するや、堀留、丸ノ内両警察署の警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納したなど、物々しい光景を呈したものであった。



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