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享保以前の悪貨鋳造が如何なる世相を現出したか
翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行

《元禄九年》 丁度、其頃のことであった。松平薩摩守網貴候が或る日、松平隠岐守の邸に招かれ、色々と悪貨改鋳の話が出た時に、薩摩守の曰く、「此頃頻々として処刑される贋金運びこそ不愍な者どもである。真実の大贋金運びは柳沢出羽守(保明)と萩原近江守(重秀)の両人である。見られよ、此頃の金は金にして金に非ず、銀もまた銀にして銀に非ず、夫れを金なり銀なりと強いられて御同様に拝領し、下民も渋々適用せねばならぬ。然るに、小民の贋造は罰せられ、大名、御旗本の贋金造りは結局上の気受け善く、私腹も肥やす次第でござる」と言放っ阿々大笑したので、隠岐守初め並び居る諳大名等は、色を失って恐れたと云うことである。
而かも家宣は、元禄小判の改鋳を以て満足せず、翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行した。次の年代の宝永元年には、更に、悪質の乾字金、宝永銀(俗に宝銀)を改鋳して。百二十余万両を儲けた。乾字金は、元禄小判に対してすら百両に就き百二両二分乃至三分の悪貨であった。而かも翌二年から三年、四年と毎年より以上の悪貨を濫鋳濫発して、米価、物価を釣上げ、万民を塗炭の苦しみに陥らせた。即ち、第一年の宝銀はまだしも純銀五分を含有して居たのに、第二年の二宝は純銀四分、第三年の三宝は純銀三分二厘、第四年の四宝は純銀一分二厘と云う風に限り無く品位を下げていった。
翌五年には宝永五年銭なる銅銭を新鋳し、一枚十文の価格を強制して通用せしめた。之又頗る悪貨、世に大銭と云ふて嫌圧措く能わざるものである。
慶長以釆、此の年までに、支那貿易及び琉球貿易等の為、公然と外国へ流出せる黄金六百十九万二千八百両、銀百十二万二千六百八十七貫目、錮二億二万二千八百九十九万七百斤、密貿易の為の金銀流出は、これ以外であるが、此の内の大半は元禄以後約二十年間の流出である。而かも国民の購売力は増すばかりで悪貨の価は益々低く、従って鋳造すれば従って欠乏を告げる。採出高には限りがある、従って、良貨の隠匿、入質、鋳潰し等が盛んに行われた。この頃から当局者が、専ら地金商に目をつけるようになったのは必然のことである。
其他「之を(新貨)上に差上侯では御趣意に相背き、且は手摺れ、目減りの分は新に吹替へ、世問通用らくに相成るべき御趣意に付、古金銀にて差上げ申すべく」云々。
「似せ金銀使う者あらば訴え出づべし、仮令同類たりと云ふとも其の科を許し、岐度御褒美下され、仇を為さざるやう申付くべし」云々。など類似の布令を統発して、鋳貨原料の収集と、私鋳の防遏に腐心した。

悪貨を追放した新井白石の所論通る
過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語る

《享保十三年》 元禄、宝永の悪貨は、幕府の財政を紊乱せしめたのみならず、我国を殆んど経済的に破産者たらしめんとした。幸に、正徳二年家宣死して七代将軍家継立つに及び、新井君美(白石)は、萩原重秀の悪貨制を斥け、正徳四年従来の悪貨を改鋳して一切を慶長金と同様の品質重量に復する策を建てた。慶長小判の一両は、四匁四里、此内純金重量四匁七分、純銀重量○匁五分七厘、其他の混合物○匁○分、又慶長丁銀の成分は一百匁中、純銀八十匁
慶長一分金は小判一両の四分の一の品位を有っていた。之に倣って正徳二年乃至享保元年まで、都合五年間に造られた良貨は、武蔵判(金貨)八百四十九万三千五百両、享保銀三億三千百四十万貫に達した。此良貨鋳造は、我が商業界を復活せしめ、物価の乱高下を平調に整へ、しかも長夜の暗が明けた心境で、市民泰平を謳歌した。之に要する純金銀の収集に於いては、地金商が大に貢献するところがあった。政治全体からいえば、次の八代将軍吉宗の治世を推称せねばならぬが、単に幣制上から云えば、正徳二年乃至享保元年までの五年間を以て黄金時代と云はなければならぬ。吉宗時代に地金商が暫く頭をもたぐるに至った原因は、正徳改鋳の政策に貢献した為である。正徳時代に地金業者祖先が、詳しく云うなら、元禄八年以来宝永年度に至りて永い間悪貨の濫発、貴金属の請求、探偵政治の圧迫に悩み抜いた地金商業者等が、額手して新井君美の新政策を歓迎し、専心誠意を以て鋳貨原料の収集を扶けた時に蒔いた種が、次の時代に芽を出して更に大岡越前守に依りて日当りの良い苗床へ移されたという結果になったのである。これから勘定して今日まで約二百年、其間雨に打たれ、風に採まれ、または幹を折られ根を枯らした同業者も尠くはあるまい。只だ僅かに徳力家に残れるこの頃の地金業者組合の記録数冊が、過去二百年に旦る貴金属地金業者の歴史を物語るのみである。
さて、前述の如く享保十二年に地金商、屑金吹の同業組合が成立した頃の営業取締り規則は、大略次の通りであった。
写し
  御触之趣
一、下金買、屑金吹共先達て組合申付候得共、猶又此度相改左之通り申付候。町々にて右商売仕候者は、紛失物当番名主へ相届け可申事。
但し、組合へも入り不申、内々にて商売致候者有之に於ては、急度(此度)申付くべく候(鐡重処分すべしとのこと)
一、下下金吹共、下金銀、迦金銀何に不寄買取候は、名主押切帳書に載せ、形ち有之分は其品帳面に相記し、形ち無之き潰金銀も金目等入念記し置き、紛失物吟味之節、紛らわしくは、舞之様可仕事。
但、帳面吟味之儀は、去卯年相触候、趣味相箔組合町内行事立合可申候。
一、下金銀、屑金買取候儀、売主証人両判(連署のこと)、取り其上宿等見届可申候事。
但、同商より買取候儀は、先づ両判にて買取候之儀に有之候間、只今迄一判にて取引可致、最も帳面入念留置可候。
一、御紋附(葵紋章のこと)御道具類一切買取申間敷候。万一無拠儀有之候間は、月番之番所へ訴出で、差図次第に仕るべく候事。
右之趣相守るべく、若組合中に不埒之筋も有之、組合へも入り不申告商売仕候者有之に於ては、仲間より申出づべく候、若し外より相知れ候は、吟味之上当人は勿論、組合行事共まで急度可申付候条、此旨相触れべき者也。

享保十三年申四月

併し是は鋳貨原料の散逸を防ぐ目的よりも、贋物捜査の便を計る目的の方が主であった。勿論その事は、間接的に貴金属の散逸を防ぐことにもなるのではあるが。大岡越前守の着眼は矢張り犯罪捜査の点に向けられた。
享保年間のすぐ次の元文元年に名君吉宗は、新井白石が折角復活せし、正徳、享保の良貨制度を根本から隠して再び元禄、宝永の悪貨時代を現出せしめた。之れ何事に依らず、白石の立案せし法制に反対せんとせし、吉宗自身の感情と、国用の欠乏とに因るものではあるが、ー面には当時の鴻儒たる荻生狙狹が、「幕府は地金を有せさるに、辛苦して貨幣を改良するは策の得たるものに非ず。小数の良貨よりは、悪幣の豊富なるに若かず」との建策を容れた結果である。
徳川は既に家康以来貨鋳権を確立し、家光に至りては完全にこれを納めしと雖も、如何にせん地金の供給は、さすがは幕府の権力を以てするも思うやうにならなかった。加ぐるに直営の縁山は、官営の通幣として年々荒廃に帰しつつある。ここに於て、只だ頼むところは当時の地金商ばかりである。陽に法令と罰則とを振りかざしつつ、陰に地金商の鼻息を伺はねばならなかったのは無理も無いことで、殊に悪貨鋳造の際には良貨の流れを憐れみ、之を警戒する必要から威圧と懐柔との両刀は、盛んに地金同業者の頭上に閃めいたのである。其都度、同業者の主脳として一方では、当局者と折衝の任に当り、一方同業者を統卒せねばならなかった徳力屋藤七其他二、三の有力者のこの時代の苦心は、今日の同業者が時代の恩恵に依りて立憲的に営業し得るような安昜なものでは無かったのであり、想像に余りある。
吉宗の善政に一つの汚点を印する此の悪貨改鋳は、又々財界を惑乱し商業を委縮せしめた。その時出来た悪貨は、俗に文字金と称して、正徳、享保及び慶長の金百圖に対し、文字金百六十五両、正徳、享保、慶長の銀一貫目に対し、文字銀一貫五百目と云う低劣な品質であった。即ち其の粗悪なる点に於ては、乾文金と正に相対するものであった。
悪貨監鋳の結果は、良金属の追窮となり、地金商に対しても猜疑羅繖とならざるを得なかった。併し地金商同業者は、享保十二年に団結して以来、この日に至るまで能く隠忍して国法を守り、最も着実なる営業方針の下に貴金属集散の難事業に当った。文字金の鋳造以来、明和、文政、安政、万延と頻々悪貨を新鋳して、徳川末期の経済的運命を弥縫又弥縫せし、度毎にこの幕府は益々地金商に向って例の両刀を閃めかしていたことは徳力家の史料にもよく現われている。

他人の世話を見た徳力家の史跡
百年間は、本家分家とも一体を成して光栄ある徳力屋号を残している

《寛延二年》 文字金の鋳造後六年を経過した寛延二年八月には、次の如き布達を出した。(徳力家の史料に拠る)
 写し
灰吹銀並びに潰銀、銀座の外他所にて商売之儀古来より停止之事に候。右之趣去る亥年(寛保三年のこと)相触候所、当時銀座へ集り方少なく相成侯由、畢竜内々にて商売致候儀と相聞え不埒に候。且又江戸並諸国寺院には檀家より納め侯銀貨類無拠く貯置侯も可有之侯。檀家へ対し遠慮の品は格別、其外は銀座へ差出し通用銀(通貨のこと)に引換え俟は修造等の手当にも可相成事に侯。内々にて売払候儀は致す間敷候。此旨急度可相守者也。
右之趣町御奉行所より被仰渡候間、町中不残入念可被相触候、以上。
 巳九月三日
                   町年寄三人
とある。即ち鋳貨原料の請求は地金商を鞭撻して寺院の什器物にまで及ばんとしたのである。寛政四子年五月十七日に徳力屋藤七と年行事平兵衛と連盟で、其筋へ差出せる答申書には、寛保三年以来銀の売買を一役に禁止されたが、我々地金業同業組合のみは依然営業を許され、銀買方のみの権利を与えられたのに、其の買集め方が鈍いと云う廉で、宝歴二年申十二月鑑札を銀座へ没収されたということを認めている。夫れから後も鑑札を下附したり没収したりして、幕府が同業者の原料収集を刺激したことは度々である。右の如き答申書に年行事以外、徳力屋藤七が只一人連署しているわけは、別に肩書も記して無いから判然と其資格を知り知り難いけれども、各組の月行事を代表して年行事と肩を並べたものであらう。年行事は誰に限らず、この年の当番が名を書すのである。月行事総代は十数名の役員中から徳望技術の聚に拔んでたる者を選抜したのである。斯る場合多くは徳力屋藤七が其任に当っていた。
翌寛政五年六月四日、当局者は何の心算であったか、当然同業者の戸籍と営業状況を明日まで答申せよと厳命して来た。同業者は、其意を計り兼ねて大いに恐慌し、年行事以下徳力屋藤七を筆頭に八行事の連盟で二日間の延期を乞ひ、同七日当局の要求通り各同業者の業態を復申に及んだ。其時之に添へた嘆願書に曰く
 写し
(前略)下金売買高、亥子ニケ年(霓政三年同四年)凡そ相調べ書上候様被仰付に付則別紙に奉行所侯。勿論私共儀、古来より下金家業に在り親妻子を養育仕罷在候儀に御座候間、何卒御慈悲を以て、此上仲間一統渡世に罷成候様偏に奉願上候以上。
之には矢張り七行事の筆頭に徳力屋藤七の名を署し、御勘定御奉行様宛に出してある。幕府翌六年、申寅正月晦日に次の如き厳命を出した。
 写し
一、 灰吹銀の外、潰銀札は銀座並に下買之者へ売渡し、又道具下金銀入用の節は銀座にて買い請け他所にて売買到間旨、安永中三年も相触れ所、近年銀座へ差出侯者少き
趣相聞え侯。類焼く等の場所には通用銀二朱判並びに銀具等の熄損じも可有之侯間。銀座へ差出し引替え俣儀弥々心得違ひ無之様急度可相守候。
地金への追窮は、斯くして遂に焼け跡の貴金属にまで及んだのである。
その頃から徳力屋の名声は事業と共に挙り、独り松下町組のみならず山ノ手組の方へも分家を建てるようになった。寛政十二年申七月の記録には徳力屋清兵衛、徳力屋半兵衛の名が同時に現われている。徳力屋藤七と併せて徳力屋の一門が尠くともこの時代には三、四軒まで殖えて、夫れが悉く同じ家業に従事していたことがわかる。営業上の勢力と個人的徳望とが相俟って、徳力屋の光輝を益々囍々たらしめたのはこの頃であろう。現にそれから数年後の文化三年に、銅仲買野田屋太兵衛の件に付、不図した問題が起ったときに、其問題は無事解決したが、今後の心得のことにつきて布達があった。それを同業者へ通達する役員が三名、連署せるうち、徳力屋藤七と徳力屋清兵衛の二名まで徳力屋の名が列ねられている。爾来徳力家は一年毎に栄えて、文化、文政、天保各年度における重なる布達及び同業規約には、徳力家の当主が殆んど関係せざるは無き有様を示している。其間に金座、銀座役所に対する答申もあれば、又同業者間の悶着和解に関する調停もある。同業組合新加入者の届出でもあれば、徳力家一門の戸籍登録、営業許可の如き願書もある。商売上の外でも、また普通の同業組合役員以外の代々の徳力家が個人的信望の為めに、どれほど多くの人の為に面倒を見て来たかと云うことが諸般の記録を通じて覗はれている。
又営業上に於ても、単に自家の計を為すのみならず、同業者の苦痛を救うて失脚せざらしむるように努めた跡が録記に明記されている。文政十年亥四月十一日、徳力屋藤七の単独名儀で答申せる文書の一節に曰く
 写し
(前略)私儀は是迄出精仕り下金買集め、相納め候処、去年より当年に至り、下金出方宜しからず、此上出精仕り買集め相納め可候。仲間相納め呉候やう頼候に買い集め、候もの西川屋吉兵衛(以下八名の同業者姓名と其の所沢組の名を列挙し)右之者私方より買集め相納め申候。
 右之通り被仰波侯に付恐れながらご返答申上侯。
   文政十年亥四月十一日
               行事 徳力屋藤七
之と同時に同業者から提出せる答申書には、同様地金の収集困難の為め徳力屋から供給を受けて僅かに納付し来りし由をも認めてある。之れ云うまでも無く、この頃の徳力屋の営業状態が、既に同業者中で、一頭地を抜きんで盛大なりし状況であったことが示される。反面に於て、次代の徳力屋が同業者に対する態度の懇切周至なりしことを物語るものである。この頃の文書によれば、徳力屋は湯島組の内へ又一軒の分家を増した。次兵衛という者が当主であったことがわかっている。
斯く家門と営業と信望とが相まって栄えつつ縁戚知巳互に和楽なる交際を続け、本家より出でて分家を樹てた者の娘が、再び本家に戻って其血統を伝へるといふ風に、かれこれ錯綜して愈々根幹を太らし、以て現在の徳力家を形成したのである。現当主喜兵衛氏は、伝統の名を享け喜兵衛としての二代目、その前は先代喜兵衛、清兵衛、藤七というやうに遡るのであるが、殊に最近の百年間は、本家分家とも渾然一体を成して光栄ある徳力屋号を
伝え来っているのが実態である。

徳力屋喜兵衛の人格が一族を光被せる結果であった
徳力家、中興の祖

漸次発展し来れる徳力家の家運は、先代鈴木喜兵衛の代に至りて、明治維新の時運に際会して又更に勃興した。
抑も徳力なる姓が我国の歴史に初めで現われたのは、佐々木行定の後商の良安という者の代からである。今少し詳しく詮策すれば、人皇第五十九代宇多天皇の第七皇子にして醍醐天皇の末弟たる敦実親王の三王子が降って武家を立て、宇多源氏の祖となった佐々木行定は其第一王子の源雅信から扶義に伝わり、扶義から五世にして秀義となり、秀義から又数世にして行定に至ったのである。行定の後商から徳力良安の姓が産れ、其の門流は、近畿を中心として各地方に散在した。讃岐の人で幕府の儒官となった有名な徳力竜澗も、其の系統であるが、竜澗の家から徳力屋藤七が出て徳力を屋号としたわけでは無い。徳力屋は恐らく江戸移住者としては、竜澗の家よりも遥かに旧家であろう。其故は、竜澗の父にして矢張り江戸の儒者たりし良顕(素崕)は、元文三年五月十日に没し、日暮里・南泉寺に葬られているが、其年は享保十二年に地金商同業組合が成立してから十二年目に当る。
即ち徳力屋の祖先は、良明竜澗とは交渉なしに、江戸に移住せる宇多源氏の一人が、武士階級から町人の群に下って、父祖の姓を屋号としたと見るのが妥当である。
斯くて、先代喜兵衛の世代となりて、益々祖先の遣業を顕揚したが、此人は同業者と円満に交際せるばかりでなく、家族、奉公人に向っても常に、懇切なる情誼を尽した。家運が隆々として興る間に在りても身を持すること頗る簡素で、誚服を繻ひ居宅食物に奢ること無く、他に対しては謙抑を主とした。一家の主長として、又商人として伝うべき逸話は数々あるが、一、二の例を挙ぐれば、彼は決して上下の隔てを設けず、長上を参つ如くに、また目下の者をも敬った。如何なるか僧が使いに来ても、必ず自から送迎の言葉を述べ、殊に帰り去る時は「有難うございます」というように丁重に挨拶した。又家業の発展に連れて、家屋の狭隘を感ずるに到りて、初めて新宅を普請した時がおるけれども、自分は昔を忘れない為の旧い方の居間に起居し、常に「私は是で沢山だ」と云って飽くまでも質実な生活に甘んじた。組合の寄合などがあっても、酒の席が終ると直ぐに外して帰宅した。
それは決して費用を惜しむ意味では無く、費用は平等に負担しても必ず帰って来た。家族に対する徳義上か、多数の奉公人に対する取締りの為めか、兎も角自分の一身を制御することは、非常に厳重な人であった。
併し其の通りの生活を人や家奉公人に強うることは無かった。寧ろ自分の身を約めて(家人や奉公人にはより多くいつくしみを加へると云う風であったから、彼の周囲の人々は少しも窮已な感を抱かずして春風の如き其の徳になついた。其時代から引続き二代相恩の店員として忠勤を励んだ者は、石福鉱太郎氏(故人)を筆頭にそのほかにも沢山いる。是籌の人々は相より扶けて当主を擁護し、着々時世に適応せる方針の下に、徳力家の勃興を謀っている。之れ先代徳力屋喜兵衛の人格が一族を光被せる結果であって、今日の徳力家の勃興せるは、物質的にも精神面でも彼に負ふところ実に尠く無い。明治四十一年十一月十三日、神田区松田町四番地の屋敷に没し、芝金杉浜町安楽寺に葬る。享年八十一歳。

「松葉」といったレストランが飲み助達で賑わった
下谷村での酔興の場

《大正八年》 当時の時計卸界には、この下谷村の外に「山田時計店」、浅草並木町の「見沢時計店」、「山崎商店」、日本橋通り二丁目の「大西時計店」等があったが、元気のいいのは下谷村にそそがれていた。そこで、この下谷村に時おり集合する度合が多かった。
今の「栄商会」のある隣に、当時「松葉」といったレストランがあり、その二階でカクテルが飲めるので、飲み助達で賑わった。
銀座・天賞堂の鈴木支配人がやって来ると、早速酒盛りが始まった。鈴木さんはこの座中の中では酒が一番強かったようで、特に洋酒が強かった。それだけに、この二階のカクテルパ‐ティは、待合行きの下地になる機会も多かったようだ。私も二、三回酒をすすめられたことを覚えている。お陰でカクテルの味はこのときに覚えたといえよう。だから新聞に関するスポンサーの交渉などは、極めて楽チンであったということにもなる。

当時の時計卸商群の支配人連の顔ぶれ
信頼のおける人達ばかり

《大正八年》 当時の時計卸業界を背負って立っていた各店の支配人で有名だったその頃からの人名を拾ってみると
▽服部時計店=中川章司、土方省吾、大口右造
▽吉田時計店=木島、天笠、佐藤
▽加賀屋商会=金子礼次郎
▽鶴巻時計店=鶴巻社長舎弟
▽矢島時計店=相沢支配人
▽天賞堂=鈴木栄一、関卸部次席
▽山崎商店=田中謙三
▽天野時計宝飾品KK=長尾某
▽エルシュミットエ場=中島与三郎
▽小林時計店=川村義一

この中で健在をしているのは、土方省吾氏、大口右造氏、佐藤健三氏と木島さんの四人だけのようである。爾後、独立しているのは佐藤時計店社長がそれであり、佐藤氏は賢明型の紳士として、その当時より信頼を博している。

下谷村時代の勢力争いのことなど
時計の安売り合戦

《大正八年》 以上のような関係で、下谷村の勢力図という当時の時計卸業者連の内容は分れていた。まず吉田時計店を@として、加賀屋商店がAとして、大正五年に上京開店した鶴巻時計店をBとしたような形である。この三店中、特に頭角を争ったのは、Aの加賀屋とBの鶴巻時計店が勢力上で競っていた。従って、販売上の問題では、カタログに表われる価格の点が競争の焦点となった。それだけに印刷所を通じてのスパイ合戦が行なわれたこともある。そしてその結果は安売り競争となった。
当時、腕時計の輸入品の安物は、ムーブメントの単価が何と最低九十五銭といえるものもあった。関税は重量税で一個二十五銭という時代であった。当時でも関税の脱税事件など
時々起ったものである。そのような状況にあっただけに時計卸界の競争は激しかった。
この他、矢島時計店が仲御徒町駅前に出店して、当時は激しい価格競争の渦巻きにけん制される業者も多かった。
この激しさは、加賀屋の支配人金子礼次郎氏の鼻っ柱の強さから、勢い時計界の動きに大きく湧いたものだった。

時計卸団体の「東京五日会」とその輪廓
「販売価格の協定」に主眼が置かれていた

《大正八年》 東京の唯一の時計卸団体である「五日会」は大正八年に発足している。その年の十一月五日、当時の野尻雄三、吉田庄五郎(初代)、小林伝次郎、鶴巻栄松氏等の提唱により、これに山崎亀吉、田中謙三、矢島源次、竹内元次郎、森茂樹、江沢金五郎、松田啓太郎、今村三郎、見沢万吉の合計十四名の同意によって「五日会」が発足している。
この日が五日であり、しかも大安であったので、名付けて「五日会」と称名することになったという。
設立した五日会の目的は、当時は通信販売が旺んな時代であったので、カタログ発行から、勢い目茶苦茶な価格競争をやらかしていたものだ。そこでなんとかしなければならないと考えた野尻氏の提唱が実を結んで設立したものである。
初代幹事長に八富町の小林伝次郎氏を推したが、運営の実権は野尻氏にあったようである。その後、金森、若松の横浜組と銀座の平野、小石川の井上氏も参加することになり、だんだん盛んになったが、会の主目的が「販売価格の協定」に主眼が置かれていたので、例会の席上などでは、時により取っ組み合いの光景さえ展開する場面もあったようである。その後、価格の協定を尊守確保するために、「大阪の共益会」、「名古屋の同志会」と連繋して、春秋二回の売立人会「三部時計卸商大会」を行なったことが記録されている。
この当時、東京時計卸界としての状況は、結局派閥的要素を含んでいたようであり、内面ではいろいろのアツレキがあったようである。これらの場合も服部時計店だけは別格であった。しかし時計の卸店という立場は、資金力によって品物の荷捌き具合が影響するものだけに、資金面に自信を持てるものは強かった。
その頃時計の卸売り業界で、資金力にものを言わせたのが須田町の「金森時計店」がまずあげられる。八官町の「小林時計店」は永代支配人の川村さんが当面の支柱となっていたものである。だから、金融面では常に金森さんということになっていた。
この金森さんと信用上で話合っていたのが、大阪の沢本平四郎氏であったようだ。沢本平四郎という人は、岡伝商店の出身だが在店中に信用を陪し、独立後はダイヤと時計の両面業者の仲間にタッチして信用を得ており、碓実と見込む向にだけ取引きしたものである。従って、穏やかな人だが「眼は口ほどに物をいう」という式で、初対面の人とは殆ど囗をきかない特質を持っていた。それだけに、何かの機会に信頼を得たならトコトン面倒を見てくれる人でもあった。総じて賢明型といえる性格の人は、そのようなコースを採っていたものであろう。今尚この当時の動き方を中心に物事に対する観察上の度合いを考えることがある。
須田町の金森時計店のレジスターの前に箱座を据えている金森さんと話しあったら最後、何でもできるという程、信頼されていたようであった。金森さんは、持駒を持っている実勢力者と言われていた。
沢本さんの方は、自己資金もあるにはあっただろうが、それよりも、銀行面では岡伝商店の信用が物をいっていたのか、バックの支援力があっただけに、いざという段階になると、世間に知れ渡らないうちに資金面の操作は、迅速に運ばれたようである。だから整理関係の仕事という事については、常に沢本さんの名が上げられ、そしてまた万事がスムース且つ迅速に行なわれるということで定評されていた。
そのようなバックが力となっていたので、下谷村の時計卸界には、時には風雲を招いたことがあったようだが、表面的には静まっていたのである。そういう内部関係の動きがあったがために、勢力上それらの人の動きが常にハッキリしていた。つまり沢本平四郎さんという人は、時計の卸界の資金的バックミラーということになっていたのである。だから資金面を要する関係事には必ずといっていい程、陰に名を連ねていたものだ。この面では、業績の繋がる貴金属業界にも関係があったようだ。
この頃、資金的勢力を持ち上野町にあった金田屋の金田徳治、池の端の三輪屋商店の三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓直吉、大阪の角谷栄蔵という豪商的な人達とは親交が深かった。しかし人間というものは、物質面を通じての行動が主として中心となり、活用されるものであるが、この中にも、もっと尊い頑固な意志というものついて、彼等は充分味わいたかったようであり、寧ろ焦った感さえ思われていた。その金田徳蔵氏や沢本平四郎さんが、あとで私の社を何度となく訪れて述懐されたことであるが、死を招く少し前のことだが、特に私に心の中を開いて見せた時の口く、「世の中の尊さは金ではない、人そのものの偉さである」と述懐していた。そして何度か訪問した中のことだが、家庭的内容の秘密を含んだことまでも相談相手になったことがある。

タバンの橋元さんが代議士選へ出馬した頃の状況
大正末期の時計業界

《大正年代》 金のペコ側時計が登場して賑わった大正末期の頃の時計界は、依然として舶来時計が王様格だった。スイス時計の輸入商館筋の人達は、この頃は頗る幅を利かせていたものである。当時の輸入時計のブランドで有名だったものと、その頃の取扱店の名をあげると次の通りである。
ゼニット、ナルダン=天賞堂:江沢金五郎氏経営
ロンジン、モリス、レビュー=服部時計店
エリダ=金森時計店
タバン、シーマ=神戸のウイントコスキー商会
J・マーク、シーホル(スタイン商会:三宅氏
ウイラー=端西時計輸入商会
フレコ、エル(エデイキン商会
モバード=大沢商会
ハイフス=天野時計宝飾KK
ランコ=加賀屋商会
マービン=鶴巻時計店
チソット=吉田時計店
オメガ=シーべル・ヘグナー
ロレックス=リーベルマン商会
この外に、日瑞貿易KK(河野氏)が大阪にあり、スイス時計の約二十七種にわたり取り扱っていたのを本紙(当時商品興信新聞)に全ページ広告で二回にわたり掲載している。

米国製のウォルサム時計は、東京・丸の内の三菱街仲三号館に東京出張所があり、赤松孫一という人が出張所の責任者として業界を漫歩して名を高めていた。もっとも、この頃のウォルサムブランドで売る時計は、この代理店から小売業者に対し直売コースをとっていた。それに部品材料の類まで直接販売されていたのだから材料商との連繋はもちろん、小売業者とも大いにつながりをもっていたのである。
この外、エルジンは銀座の伊勢伊時計店がサービス店としての肩書を持っていたのだが、業者仲間に供給するというほど売れてはいなかったようである。
この頃、これら輸入商館群の中で、案外幅をきかせていたのが「橋元文治」というウィトコスキーの人であった。だから俗称、“タバンの橋元さん”はいうなれば大型式の性格者であったから、やることなすこと総てが何でも大きいということになっていた。その橋元さんが、大正年代の最後の頃の衆議選挙に神奈川県下から出馬したことがある。私も当時その応援に出かけていったことを覚えている。体格が堂々とした橋元さんが演壇に立って、「京都の大本願寺お西の大谷光瑞ゲイ下のご推挙により、今回の出馬を決意した次第であります」と演述したのであったが、これに対する批評は曰く、つぶすのは財産だけだと酷評していたのを忘れない。その選挙の結果、山崎商店にも影響したようで、日本橋辺り三丁目に当時清水商店の看板で貴金属商の老舗を誇っていた同店は、借しくも倒産の憂き目を見ることになり、日刊紙上にも大きく書かれたものである。山崎商店が倒産した結果、シチズン時計研究所に当てられていた尚工舎は勿論、終焉、安田銀行の手中に担保物件として押えられることになった。その結果、銀座一丁目に出来た山崎商店は、日本橋の本店が整理倒産の憂き目を見ることになったことから、それに代って昭和六年に設営されたものである。

粗悪な金側時計を排除した時代
各地の組合員が団結して「安売り合戦」に対処した 

《大正年代》 もの事について万が一、絶好のチャンスという場に出合ったり、ぶつかったりした場合は、それを捕えて生かすことにベストをつくさなければならないという気持は、これから伸びていこうという気概に富んでいる人であれば誰でも考えていることであろう。その意味では本紙が大正十五年に創刊してから、それらチャンスの場にぶっかった場合に十分生かすことが出来た例がある。
大正年代における時計業界は、引読いた下景気風に慣らされて来ていたものだ。それに大正十二年の大震災という不測の災禍の場に遭遇したのだから業者の中には何らかのチャンス到れば、という気概を持って待機の姿勢でいたものも多かったように見受けられた。従ってこの頃の時計界の状況は、懐中時計の利用時代から転じて腕時計を利用するように大衆の眼が次第に移り変りつつあったころだけに、金側そのものに対する品質上の選択の場でも頗る的に批判が高かったものである。そこへ突如として十八金製のぺコ側が登場してきたのである。それが安いからというので、これをオトリ的商品として他店との競争上の安売りの目玉商品として扱うようになって来たのだから困ったものだということになり、ついにペコ則に対して租悪品の排除という情勢さえ生むようになったのである。 このようなことは、時計業系内部として処理し得ても、消費者に向けた宣伝や売り出しをやった場合、公然たる安売り合戦になってしまうので、時計店としてはやり難い事であった。   
このような情勢に合せて業考側では、進んでペコ側を求めようとしない空気が漂い始めたので、ペコ側の売行きにも勢い影響し、時には品溜りという場面も出来るように変ったようである。そのような関係からか、常日頃から通信販売の戦略に妙味を持っていた日本貴金属時計新聞社の福田正風社長の所に新本氏本人がやって来て話し合った結果、このペコ側をつけた金側の腕時計の大安売りデーを実施することになった。場所は、新聞社の真ん前にあった日米ビル南側軒下の空地二十間余りの広さを借り、これに紅白の帳幕を張りめぐらしての大廉売所を作り上げたのである。時事、毎日、報知などの当時の日刊一流紙に大大的に広告を打ち出したので、安売りデーのその日は早朝からお客が押しかけ大変な賑わいを見せていた。ところがその場の写真を、それらの広告を掲載した日刊新聞の紙上にニュースとして掲載することに裏工策が行なわれ、しかもこの状況を新聞があおった関係で、それからのこの廉売場では大いに売れたものである。
そこでこのような状況の続くものを見て地元の京橋、日本橋の時計業者は、大いに憤慨した。その結果、槙野、秦、大西、石井、森川、川名の地元組合代表と、日本橋の古川支部長らが打揃って日本貴金属紙社を訪れて業者側に与える裏切り行為をなじって即時停止するよう厳重に抗議を申し入れたのである。その上組合側では、その夜に緊急会議を開いて同紙に対する不読決議まで行った情報がもたらされた。このような業界情勢が現われてきたので、東京市内とその近郊での安売り合戦は、しばらくの間停止せざるを得なくなったようだが、大正十五年の夏以後は、地方への進出を企画して、郡山、福島、仙台、青森地方を経て、ついには北海道目掛けて廉売団の繰込みを策した情勢が入手されたのである。従って、この方面に対する活動は、業界の声援をバックアップに、頗る活発なものが見られるようになった。
安売り隊の動きは、大正十五年夏頃から始まっていた。そしてその安売りの戦法は、その土地の地方新聞に広告を掲載してから、安い金時計をと煽った挙句に、お客がその時計を買う姿を写真に写し、これを新聞の社会面に掲載するという寸法だからたまらない。これがこの頃の素人衆を射落すもっとも効果的な処法であったようである。私が発行していた新聞の趣旨は、「新聞は業界の公器であるから業界を毒するが如き行為者には断乎排除の方途を執る」という建前をとっていたので、業者者側の味方になって、これらに対して大反発の姿勢をとることとした。廉売団のコースは、既に仙台地方を終わっていたので、このあとの進入コ‐スとして函館、室蘭、小樽、札幌、釧路、旭川等等の主要都市をねらっているような情報がもたらされた。それに対処するためということから、私は東北地方の仙台において行なったペコ則廉売団の暴れ方などの状況を調べながら、青森から函館市に渡って、先ず、函館の時計界を訪れ、対策第一歩の相談をしてみた。
函館の組合長は、金久商店の主人加藤さんであった。この函館というところは、この頃も組合が二派に分れていて、一つにまとまるということが至難な情勢にあったものだ。止むなくその次は室蘭に飛んで大賞堂の藤兼さんに話したところ、藤兼さんは大いにハッスルしたものだ。寺島、西村の幹部連を呼んでこの間の情況報告に基づいて早速廉売団の防価対策を講ずることになり、土地の新聞社側に急いで連絡して、その場合の防衛処置などについての方法をとった。そして一段と対策を強化する意味から「全北海道地方の団結を固めてはどうか」ということに意見が合意した。早遲対策推進のため札幌市に出向き、緊急会議を召集することにしたのである。私は一足先に札幌に向い、相良さんを通して梅沢、小阿瀬、吉永、高木氏らの組合幹部と会談したものだ。札幌では当時、中野時計店の職場長であった佐佐木源助氏が組合側のタクトをとっていたので、佐佐木氏の自宅に各地の代表が集まって協議した。
然る上で、市内の料亭「元東」に於て発起会を開催する段取りまでに急進展を見たのである。この頃の各地区代表の活躍ぶりは実に涙ぐましいばかりであった。この当時札幌に集まった各地代表の主なる顔ぶれは、次のようなメンバーであったと覚えている。
【札幌】佐佐木、高木、小阿瀬、本田、吉永、相良、【小樽】岩永、保坂、【釧路】 梶浦、金安、早川、【室蘭】寺島、藤兼、西村、【旭川】 星野、大滝、芥川、成沢、【岩見沢】堀、【根室】 三浦以上二十名。

かくて北海道時計商工組合連合会なる名称のもとで、越えて翌昭和二年の五月に創立総会を挙行したのである。このような結果で一大廉売の侵入は、その当時全道の何れにも姿を見せないままで経過したようだったが、 そのあと形を変えて地方の日刊新聞の事業部という名をつけた新しい方法で八型、十型の腕時計の安売りを始めて来た。この場合にも第二次的対策が立てられた。そうしてその対策に必要な国産腕時計の仕入れのために、連合会長の岩永氏と共に、旭川の星野、大滝、札幌の鹿島、釧路の梶浦氏らが上京して私と協議したように覚えている。
その結果、服部時計店を訪れて当時の高島さんの配慮のおかけで腕時計の供給を受けたことがあり、団体配給という建前であったことなど、今でもその当時のことが思いだされる。



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