| 翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行
《元禄九年》 丁度、其頃のことであった。松平薩摩守網貴候が或る日、松平隠岐守の邸に招かれ、色々と悪貨改鋳の話が出た時に、薩摩守の曰く、「此頃頻々として処刑される贋金運びこそ不愍な者どもである。真実の大贋金運びは柳沢出羽守(保明)と萩原近江守(重秀)の両人である。見られよ、此頃の金は金にして金に非ず、銀もまた銀にして銀に非ず、夫れを金なり銀なりと強いられて御同様に拝領し、下民も渋々適用せねばならぬ。然るに、小民の贋造は罰せられ、大名、御旗本の贋金造りは結局上の気受け善く、私腹も肥やす次第でござる」と言放っ阿々大笑したので、隠岐守初め並び居る諳大名等は、色を失って恐れたと云うことである。 而かも家宣は、元禄小判の改鋳を以て満足せず、翌元禄九年新に悪質の二朱判を鋳造発行した。次の年代の宝永元年には、更に、悪質の乾字金、宝永銀(俗に宝銀)を改鋳して。百二十余万両を儲けた。乾字金は、元禄小判に対してすら百両に就き百二両二分乃至三分の悪貨であった。而かも翌二年から三年、四年と毎年より以上の悪貨を濫鋳濫発して、米価、物価を釣上げ、万民を塗炭の苦しみに陥らせた。即ち、第一年の宝銀はまだしも純銀五分を含有して居たのに、第二年の二宝は純銀四分、第三年の三宝は純銀三分二厘、第四年の四宝は純銀一分二厘と云う風に限り無く品位を下げていった。 翌五年には宝永五年銭なる銅銭を新鋳し、一枚十文の価格を強制して通用せしめた。之又頗る悪貨、世に大銭と云ふて嫌圧措く能わざるものである。 慶長以釆、此の年までに、支那貿易及び琉球貿易等の為、公然と外国へ流出せる黄金六百十九万二千八百両、銀百十二万二千六百八十七貫目、錮二億二万二千八百九十九万七百斤、密貿易の為の金銀流出は、これ以外であるが、此の内の大半は元禄以後約二十年間の流出である。而かも国民の購売力は増すばかりで悪貨の価は益々低く、従って鋳造すれば従って欠乏を告げる。採出高には限りがある、従って、良貨の隠匿、入質、鋳潰し等が盛んに行われた。この頃から当局者が、専ら地金商に目をつけるようになったのは必然のことである。 其他「之を(新貨)上に差上侯では御趣意に相背き、且は手摺れ、目減りの分は新に吹替へ、世問通用らくに相成るべき御趣意に付、古金銀にて差上げ申すべく」云々。 「似せ金銀使う者あらば訴え出づべし、仮令同類たりと云ふとも其の科を許し、岐度御褒美下され、仇を為さざるやう申付くべし」云々。など類似の布令を統発して、鋳貨原料の収集と、私鋳の防遏に腐心した。 |
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