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日本橋大伝馬町に所在した村松本店の卷
貴金属業界秘話その一

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰かれなしに何か潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。このことは業者全部に該当する言葉ではないかも知れないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものを二、三紹介してみよう。
☆村松本店の卷=日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和の時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であった。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は何所へ出しても通りが良かった。
村松万三郎代表の下に青木という支配人がおり、性格温厚であったが一角の筋が通っていて格式を重んじた人だった。この青木さんが他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があった。話から推測したところでは、支払いの期限についての事のようだった。万が一にもそんな筈はないのだが、と思っだのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだから驚いた。温情らしく持ち掛けて品物を大束に売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞ、というのがここでの第一幕。

一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任した
陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんに話を聞く

《昭和十四年》 「軍では八絃一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終息さすべきだと信じている」と。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は主張を次のように続けた。
「私は先に幸い中支方面を視察して見て、その広大な地域に驚いた。仮りに、軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統繝するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。そうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陷るはいうまでもない。国乱れて忠巨出づの反対の戦果が成って反乱が起こる懸念なしとはしない。だから天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行なうべきである。従って目下進行中の支那大陸での攻略戦果は、南支を將介石に委ね、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州に属領として手中に帰す事にして、事態の平定を計らなければ果てしない広域戦争のために、国力の自信に問題か起きて来る危険性がある。これは私たち青年層が見ている「八絃一宇の定則」であると思っていると語った。
この時の鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従って言うだけはいったが先様の結論がどういうふうに出て来るかに瞬間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは口を開いて、「私も同感です」とこう答えて私の手を固く握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去り、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、盃を交わして上海戦争当時の名パイロット野村さんの上海攻略の経験談などを中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亜戦争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールでお終いになるはずだと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計部主任を担任していた当時の私はいろいろな計画がこの時の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催した
日米親善国民大会を開いた時の情景

《昭和十四年》 第二次世界大戦を起した日本の立場そのものの発端は、満鉄沿線の鉄路約一尺を切断したことから国際間の紛争へ、そして戦争へとかり立てられたのである。元来、戦争というものは偶発的に起るものではないということがその間の現実を見て判る。“小人が閑居して不善をなす”などということとは違って、国と国との闘いになるのだから、そう容易に行えるものではない。然し戦争という事実は、計画に基いて行われるものであり、その源は思想的企画の予定行動に基くものであるようだ。
日本が事変を起して行ったその動機は、この狹い日本本土に六千万人とも七千万人もの国民が生きられる訳がないではないかという一筋の観点から来た心理関係の侵略思想が発生せしめたものであるというのが明らかな事実となっているらしい。それが支那事変に拡大して行ったと米英両国の連合外交が相携えて、日本を経済封鎖という戦略により押えつけようとした行動の現実性が、ひいては大戦争を誘発せしめたものである。
戦争当初からこの問題は、表立って話題にされていたし、又その事実が公然と認められてもいた。しかし、当時は国民皆兵式の一大戦争にかり立てられていたので、さして気に止める事もなかったようである。そこで私と三木武夫君と話合った結果、国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催したらどうかということを話合ったものだ。これに参加したのは何れも明治大学の友人ばかりたった。当時の社会情勢は米国に対しては、直接抗戦的な行動をしている訳ではないのだが、然し英米両国の経済封鎖そのものを緩和させることが日本の戦略的行動の範囲としては必要であるという見地から、この日米親善国民大会の開催プランが組まれたのである。

金一万円也の報償金を受け取る件がボツに
ダイヤ輸出関係書類を風呂敷包み持っていったのに

《昭和二十年》 これは、終戦の年の昭和二十年五月頃のことだと覚えているが、私の社が二十年の三月十日の帝都大空襲の災害で丸焼けになり、群馬県の鬼石町にあった日本ニッケル会社社宅に疎開した時代のことである。
その隣りに寄居していた人から、金田屋の主人金田某が死んだという悲報を聞かされた。その金田氏は、駒込警察署を通じて、東京地検で取調べを受けていた戦時中の物資統制令に違反した事件である。その時の証拠物として提出したのは、戦時中に買上げたダイヤモンドを輸出することによって外貨獲得という線を打出したいから許可して貰いたいという業界の陳情運動をしたときの関係書類を一括、風呂敷包みにしてあったものを参考上必要だから届けてほしいという頼みであったもの。それによって私は、元富士前町の金田氏の居宅に届けたのである。但し、この代償に金一万円也の報償金を支払う件を約束されたのである。これを実行されないまま、彼氏は捕われの身となり、悲報に接したという経過である。つまりこの場合の報奨金一万円流れが第三番目になる話。

帝国ホテルを本部に前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使った
巡洋艦の艦長以下乗組員千ハ百人に対する記念品の選定等

《昭和十四年》 このときの所要日数は、帝国ホテルを本部にして前後八ヵ月間に亘ってホテルの部屋を使っていた。その経費も一切の支出の費用も三木武夫君一人が采配をふっていたのだから大分利益になった筈である。
私がこの場合少しく手を染めたのは、巡洋艦アストロヤ号の艦長以下乗組員千ハ百人に対する記念品の選定という役を引うけた事だ。そこで一儲けしょうということで梶田久冶郎氏と合月商店から出て独立していた道斎浅四郎氏にも相談して、記念品作りの見積り一切を完了した。ところが先方から記念品等の贈答品は一切辞退するという事になってしまったのだ。金儲けということには案外運のない私であったが、この時ばかりはかなりがっかりした。
一個八百円だったから、何十万円かの注文になるので相当の利益になる計算だったから惜しい限りであった。この時の状況が、当時米本国に報告されていたので、三木武夫君が終戦後の軍事省参与官という閼係議員の立場でパージにかけられることになったときの難を免がれたという大きな恩典に浴しているのが特記される。

貴金属業界では第一人者的存在であった村松本店の巻き
湿情らしく持ちかけ品物を大たばに売り込むなどは決して油断がなりませんぞ

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰彼なしに潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。
このことは、業者全部に該当する言葉では、ないかもしれないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものをニ、三紹介しよう。
村松本店は、東京・日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であったもの。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は、何所へ出しても通りがよかった。
村松万三郎氏の下に青木という支配人いて、性格は温厚であったが一角の筋が通っていて格式を持っていた人だ。この青木さんが、他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があったのだ。話の内容から推測したところでは、支払いの期限についての亊のようだった。万が一にも、そんな筈はないのだが、と思ったのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだら驚いた。湿情らしく持ちかけて品物を大たばに売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞというのがここでの幕。

商標権譲受で雪の中旭川行き
東洋時計のマークである「TOYO」商標の譲受けの為

《昭和十二年》 話は少しズレるが、昭和十二年二月十二日のことである。北海道の旭川
市というところは全道を通じて北面に位するので、冬は酷寒の地ということになっているだけに寒さとたら頗る厳しい所だ。私はその酷冬の二月十二日に旭川市の明治屋本店に辿りついた。明台屋は人も知る北海道の時計界では最も古参に属する小売店であり、卸商店でもある。私が所用で辿りついた時は、当時のご主人は佐藤音次さんであり、すこぶる元気な人だった。その健康さと来たら、その寒い最中でも風呂に入ってからは、素肌に手拭を引っかけただけで堂々としていたほどであるから驚く。元気そのものであった。その音次さんの話だと、明店屋は、明冶六年に道庁吏員として開拓団のI人となり、旭川に渡来したもので、その機会に土地を得たものだとの説明である。
従って、それから延びた明冶屋のこと『土地は何所までが自分所有のものであるかは、終戦後の固定資産税調査が行われた結束で初めて判明した』というほどである。その明治屋の元当主音次さんが亡くなられてから現当主の門冶氏が引き継がれているのだが業務中現在は時計が大体主の商材のようである。
その明冶屋さんは、元来物ごとに明細をつくす型の人だけに、その商標類に関することでは、とてもではないが他の想像も訐さないほど沢山の所有権持っている。その中に東洋時計のマークである「TOYO」なるものが、日本文宇とローマ字の何れからでも他の食い込みは許さいないよう明細に登録権を所持しているのである。
私は昭和十一年の暮、押し詰まってから吉日時計店に呼ばれ、当時の支配人であった佐藤健三氏(現佐藤時計店社長)から、その権利の譲り受けの交渉役を頼まれたのである。それによって酷寒の二月十二日に旭川市の明治屋に辿りついたのであるが、始めて見た冬の旭川は雪に埋もれていた。そして道路の中央に雪で作った門を通り歩くように出米でいたのに驚いた。もっとも旭川まで到る函館からの汽車の中でもストーブがあって、それにマキや石炭を投げこんで室内を温めていたのを見て驚いたのである。そのような事情で、佐藤門治さんに対して、吉田時計店からトーヨーなる商標権の譲受けを頼まれた所以を話したのだが、一向に聞き入れてはくれなかった。明冶屋さんはこの外にも、自転車、お酒、時計など、いろいろな種類の商標権を持っていた。だがそれをお金に代えて喜ぶような性格の持ち主ではないのであるから、当然この場合の譲りうけの話について、断ったのは当然のことであったろうと思う。
終戦後に於いてもオリエント時計会社から、再度に亘りこの交渉のダメ押しをしたことがあるが失敗に終っている。

八紘一宇の限界を指した頃の勇猛ぶり
昭和十四年の頃の研交会の巻から

《昭和十四年》 昭和十四年の頃の一般世相は、既に戦争気運が高まりつつあった頃なので国民感情は次第に高まりつつあったときである。
業界状況にしても、金・銀地金の使用禁止、金属製品の使用制限等が打出されたその後だけに、勢い戦争そのものの行手についての見方について論ぜられるようになっていた。従って国民の気分も硬化しつつあったといっていい。
特に私は、兵隊籍を持たないが故にというところから、その年の春に中支那方面の産業視察のため十一人の貴金属業者と共に現地の状況視察を行って帰ってきたとこだ。その直後であっただけに、戦争に対する批判にも一段と気色ばんでいたころだった。
この頃の時世に、一段関心を持っていた東京研交会員は、戦争という刻下の状況判断の資料のためにというわけで、特に検討を行う方法を選んだものだ。昭和十四年六月の頃だと思う。その時の研交会の幹事は、天野君であり、天野君の友人の陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんと一緒に、十三年の二月頃、上海の空中戦で有名をとどろかせた野村名パイロット(大尉)を我々の席に招いたのである。そのときの会場は上野公園前にある山下という料亭であった。二階の広い日本座敷で全員と来賓の二人が紹介されて時局について話し合った。
この研交会というのは、会員間での研究と親睦を目的にして作られた二世団体で、毎月十一日を定例日として会合する規定が今でも実行されているのである。従って、この日の話題は上海戦闘の功労話しからいろいろ話題がはずんでゆき、私達青年層の戦争に対する所見はどうですかと鈴木さんから問われたものだ。そこで私が話題のトップにたって、意見を吐くため仮りに行き違いがあっても、ここだけで内密にして頂だくことができましょうか?
過般私、は上海を中心に中支の一部を実地に視察してまわって来た関係から意見の持ち合わせが少しくあり、しかも急激なところまで行きそうになることを恐れるからでありますと予め伺ったところ、その点絶対に保証するということであったので、これからの話には全員が緊張して相対することになった。その宿にいた鈴木さんは、当時陸軍糧秣厰の課長で少佐か中佐であったと記憶している。そして言論がこと軍関係におよぼうものなら、理
由の如何を問わず直ちに首がスッ飛んでしまう軍政時代であっだのだから、この点をとくに念をあしたのも無理はない。陸軍大臣は、東条英機中将の時代であったはず。
当時の戦闘状況は、中支を南下して南支を攻略中であり、最大の要衝重慶を目がけて猛烈に爆撃を続けながらもついに、戦線は八紘一宇を呼称して盗難アジアを席巻せんとして、太平洋領域まで併呑しようとする鋭い勢いを見せかけていた時であった。
私は、意見を極めて率直に吐き出して次のように述べた。「軍では八紘一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終焉さすべきだと信じている、と述べた。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は、自分の主張を次のように続けた。
私は、さきに幸い中支方面を視察して見てその広大な地域に驚いた。仮りに軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統禦するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。仮りにそうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陥るはいうまでもない。
国乱れて、忠巨出づの反対の、戦果が成って反乱が起るの懸念なしとはしない。だから、天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行うべきである。
従って目下進行中の支那大陸での攻略戦聚は、南支を將介石に委ねて、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州と共に属領として手中に帰す事にして、事態の平ていを計らなければ果てしない広域戦争のために国力の自信に問題が起って、来る危険性がある。これが私達青年層の見ている八紘一宇の定則であると思っていると語った。このときの鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従っていうだけはいったが、先様の結論がどういうふうに出て来るかに胯間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは囗を開いて、私も同感です、とこう答えて私の手を握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去ったので、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、これから盃を交わして上海戦争当時の名パイロットの野村さんの上海攻略の経験談など中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して、遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亞戰争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールで御終になるだろうと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め時計部主任を担任していた当時の私はいろいろの当時の計画がこの畤の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

「日本一最年少議員の三木武夫君の声を聞く」講演会を開く
私がその前座で、明治大帝が読んだ詩吟の一節を披露

《昭和十二年》 この序で、三木武夫君との関係について少し話してみる。昭和十二年四月の始めに最年少議員に当選した三木武夫君を東京駅のホームに出迎えしたのが私だ。三木武夫君とは、その年の十月ごろ、諏訪の片倉会館に同行して、一緒に処女演説を行った良い思い出がある。会場には千数百人が集っていた。集会の表題は、「日本一最年少議員の声を聞く」という講演会であった。私はその講演の前座に立つことに決まったのだ。雨の日の午前十時頃、京橋の路上で出会って、そのまま諏訪行となったのだから取分け演題というものがない。そこで三木武夫君が所持していたポケット帳の中から見出したのが、明治大帝が読んだ詩吟の一節である。「夜朦艟に駕して遠洲を過ぐ、満天明月思いゆうゆう、何日の日かわが志を遂けんや一躍雄飛五大州」。私がこの詩を読んで大喝采を浴びたいい思い出がある。

クロームという新しいメッキ処理法が登場
想いでのエピソード其の一「大阪の大藪商会」

《昭和初期の頃》 時計界は腕時計の流行から腕時計の側に対する魅力に注がれていた。この頃の時計側(ケース)は、主としてニッケルであり、ニッケルの仕上げメッキを施したものに一歩改良されたものがクロームという新しいメッキ処理法が登場したのである。だからクローム仕上げの良質なものは、デパート辺りで売られているものの多くは、舶来品ということになっていた。それだけに、この頃平野陸三郎氏を組長にしていた東京時計側組合では、クロームメッキの良質仕上げを中心問題にして、カンカンガクガクの論を交わしていたものである。それがいつになっても一向に改良されないままであったので、少しくあせり気味が持たれていた頃のことである。大阪・日本橋の堺筋通りに大藪商会という店が生れ、当時、この店がクロームメッキの一手引き受けを業務としていたので一時的ではあったが大いに鳴らしものである。大薮商会は、正不さんとの権利争いがあったが、そんなことは弁護士まかせということで、日本橋の家では真昼問から三味線をひかせて、酒盛りをやらかしているとの噂が四辺に広がった位であるから大した景気を見せていたようである。だが、その後その大薮商会は、日ならずして沈黙して終ったようであるが、この頃私達新聞社(当時は六社?)に対して大判一頁全段通しの広告を何度か出してもらったので大きく収入を得たものだ。
クロームメッキの発明者といった正不さんのほうは、それほど賑やかでなかったことの経過を見ると、商売というものはPRが必要であり、そのための広告など大きく打出すところに戦果があるということの現実をこの時証明されたような気がした。



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