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貴金属品に対する魅力時代
銀ローを使った金性落ちの時計鎖が良く売れた

《昭和初期》 この頃の一般社会の貴金属品に対する魅力は大したものだった。ダイヤなどということになると、まるで別世界の人が持つような高価なものに見られていた。
従って貴金属製品という物は、一般の人々にとってはかなり魅力的な商品であり、欲しがるものであった。そこで貴金属の品質よりも技巧的なデザインなどで差別化した商品を作り、金儲けをした業者が目立ってきた時代でもあった。
指輪と金グサリのロー入りの取扱方や、金性の品位について兎角の問題を起こしたものである。
この金性問題は、時計側のベコ側を作った妙味から来たものであり、またペコ側に盛り込まれた金性落ちによる利用度なども計算に入れて作られるようになったようだ。この時代の時計は、掛時計が全盛時代だっただけに、時計の提げクサリ用には金の目付ものが多く用いられていたようだ。そこで作り手の技でクサリのコマ繋ぎの点にまで銀ローを使ったものが出るようになった。一本のクサリで何百円かの差益が出ることになるので、利益面が多いというこの商材は奪い合うように売れた。

平和博覧会と金性保証マーク
業界紙を活用して各店のマークを広告宣伝した時代

《昭和初期》 然し貴金属の品位を保つということは、勢いその店の信用を保持しうる基盤ともなるもので、貴金属の卸店では有名マークを堂々と宣伝したものだ。服部時計店のツバメ印のように、村松本店の犬印、天野宝飾品KKの日章マーク、松本常治郎商店の兎印、細沼貴金属工業KKの菱H印、溝口商店の三ツ柏、井村商田の重ね松葉に一の字印、タツミ商店の三階松、朝日商店、喜多村保太郎商店、三輪屋商店、中善商店等、合月の月に合の字印等々有名刻印八十有余に上っていた。だからこの有名マークがマスコミを活用したのである。
この有名マークのことで思い出すのは、昭和の始めの頃上野の不忍池畔で平和博覧会を開催したことがある。その折りに出品物の盗難事件が起ったことから警視庁の専門刑事らが、この有名刻印マ‐クを知らせることにより品割り捜査が成功するだろうと考えたもので、私らの業界紙を活用して各店のマークを広告掲載した。
当時の貴金属業界関係で名を知られていた刑事は、本庁の富田、大塚などの刑事連はこの頃大いに活躍したものである。

合月商店が活躍した頃の業界
坂口甚作師匠は店員の誰にも心の悟りを教え、説いていた高潔の士

《昭和初期》 またこの頃業界における合月商店の存在は販売実績などを含めて有名だった。合月商店のモットーは、全国足跡行脚そのものであった。浅草寿町に本店をおいて、店には前川案山子氏が帳場の前にデンと座っていた。中野新助氏が支配人で村井寅吉が会計係、合月一門から出た外園、長谷川等の現役組もこの店から得た努力の結晶で成っているようだ。
中野新助に代わって案外と頭脳を働かせたのは、故人となった道齊氏で、なかなかのものだった。然し合月商店とその一統に不滅の功徳をたたえられている人は、人間界の英傑、乃木さんを形どった坂口甚作氏である。私はこの人にもよく説いてもらった。
合月商店の二階は、この坂口甚作さんの講義場になっており、子供か朝夕親の説教を聞かされるように、坂口甚作師匠は店員の誰にも心の悟りを教え、説いていた高潔の士である。
私は昭和六年の一月だったと思う。並木クラブで合月一門により結成岾成されていた「東京貴金属附属研究会」の新年会に招かれ、そこで福引をひいたところ、当選した挙句、クシをもらった。これをきっかけに、爾来勉強を志し明大法科を目指すこととなった。
当時の合月商出の存在は文字通り貴金属業界に偉大な足跡を残す結果となった。

宝石の卸屋が新製品発表会などの展示会を開催し始めた頃
新製品には造りからデザインに移行する動きが始まった

《昭和初期》 貴金属業界というものの形態は、前述したような組合規約に盛られた内容のものが常であり、何時になっても余り変わりばえはしない。
昭和五年の春頃、突発した国際的に跨ったダイヤモンドの密輸大事件もようやく表面上片づいたようであり、それからは時代に即した技術上の改良などをしながら、練磨しながら進歩性の途を歩んだといっていいだろう。
従ってこの頃から、貴金属品の流行は年と共に旺盛を極めるようになって行った。それに対応する卸業者の販売方針は、卸商側か各小売店を歩き廻る外に春秋に亘り一堂に顧客を集めて展示即売会なるものを催したのである。
この種の展示会で有名となっていたのは、ヒスイ、サンゴの専門取扱店として有名であった依田忠商店が何といってもトップだった。日本橋浜町の浜町クラブで展示会を開いた。そこへ来るお客さんの顔ぶれは、デパートを始め銀座方面の服部時計店など一流どころが顔を揃えていたので豪勢なものだった。この外には、細沼商店や中村善太郎商店も新作の展示会を店内ではあったが催した。天野時計宝飾品KKは、堂々と開催した。
この頃業界に最高級の名声を馳せるようになった天野宝飾品KKは、スイス時計の輸入業務をやるようになってから銀座に営業所を移し発展した。天野宝飾は日章印とハフイス、ハロックス時計について特に宣伝をしたので、この頃の旺盛な状態などは、今なお業者の頭の中に残っているはずである。その天野時計宝飾品の金子さんは、現在余生を宝石関係に移し、趣味として扱っているようだ。
令弟の天野国三郎氏は、銀座の白牡丹の二階にオフィスを持ち、輸入宝石専門卸店を誇りつつ小売店その他の要望にも応じているのも平和な情景である。
天野時計宝飾品に続いて三輪豊照氏が経営する三輪屋商店もこの頃新しい方法でニューデザインもののかり集めに努めていた。智能をしぼった三輪さんは、当時一等に三千円という莫大な賞金をつけて技術者の競争心をあおったものだ。三輪屋商店主催のこのニューデザインコンクールに参加したメンバーは、多い時には八十名位にも達したことがある。方法は参加メンバーが各二、三点づつ新作の装身具を持ち寄り、審査員として列席した小売業者の代表者によって審査され、その採点により優勝者が決まったのである。
勿論、私は立案の当初から最後に到るまでの総てに亘って参画することになっていたので審査の立会も行った。
この頃の貴金属業界は、最新式のデザイン物がもてはやされ、宝飾業界としての進歩と向上に大いに役立ったようである。

昭和三年に精工舎の見学で「全国時計商工業者大会」を企画
全国から五百名を超える参加者が集い大成功を収める

《昭和三年》 昔から「石の上にも三年」という諺があり、それはよく世間で言い伝えられていた事である。私が主宰した「商品興信新聞」なる専門紙の存在も、その意味では曲りなりにも三年を迎えたのである。そこである日、事業的な面で考えてみた。私の事業がスクスクと伸びてゆくのを見て、同業者の中で妬む者がおり、また積極的に邪魔立てするものまでいた。それが世の中の壁であるのだから、一層それの上を行って、私の社の力というものを確然たらしめ手も足も出せないようにしておくことが現実に勢力を誇示することにもなる。それと同時に時計関係の専門紙の中では、業界のために奉仕するというような公益性に富んだ企だてをこれまで行ったことを聞いたことがない。ましてや、新聞というものは、ただ単にスポンサーの支持力だけによってのみ生きることに甘んじていてはならないとも考えてみたのだ。
それでは業者の意見を統一する意味からも、新しい事業として全国の時計業者が集う全国大会なるものを開催してみたいと考え、そのテーマを実現するための方法として、これまで一度として公開したことのない精工舎の時計の製造工程を開放して貰い、その工場見学を企画実施することとなった。
当時は、震災後の仮営業所が銀座二丁目にあった服部時計店を訪れて、中川豊吉支配人にお会いして、私が企図した精工舎の工場見学の許可について頼んでみた。中川豊吉支配人の体格は、当時二十貫もあっただろうか、温容な性格の人で、かねて土井さんの紹介で顔見知りであったので、心よく会って呉れた。そして中川支配人の口から「藤井さんの企画は素晴らしい。だが新しい企画だから服部金太郎社長がなんといわれるか一応聞いてみよう」と言ってくれ、内心わくわくしながらも、その回答に期待を持って帰社した。
その翌日、服部時計店から「私に精工舎に来てください」との電話があった。私は内心、昨日頼んだ精工舎工場の見学の許可についての件は駄目になったとでもいわれるのかとも思いなが、中川支配人に会いに行った。ところが「藤井さんの希望を早速服部社長にお伝えしたら、若いのによくやるなぁ。計画書を持ってくるように」と言われ、工場見学のお許しが出ることになった、と説明してくれた。そこで、大会当日のプランを書き留めていたものを持参していたので、それをその場で直ちに中川支配人に差し出した。
中川配人は、「なかなか用意がいいですね。服部金太郎社長も期待していますからね」といわれた。その時の言葉は今でも忘れない。このとき私は、心をはずませながら服部時計店を辞去したのである。今迄時計界の誰も見せて貰ったことのない精工舎の精密工場を初めて開放してくれることになったのである。世評でいう、鉄のカーテンをかなぐり捨てての公開ということになるのだから、その要請を聞き容れてくれた服部金太郎翁にこそ最大の敬意と尊敬を忘れない。そしてまた更に、この一枚看板を打ち立てることになった以上、業者大会そのものを極めて盛大に然も厳粛に行うよう努めなければならないことだと帰社する道すがら熟考したのであった。
私が再び中川支配人のところへ伺ってみると、ニッコリしながら現れた中川支配人は私に向って曰く、「藤井さんあなたは幸運児ですよ、社長がジカにお会いになるとおっしゃられましたので、今日の午後一時に当社へ来て下さい」という説明であった。
私はこのとき心の内ではあるが気も動転するばかりに喜んだ。そしてやがて待機する中に二階から服部金太郎社長が白髪の美しい姿で階上から降りてこられる場になった。階段下には、広告部長の大塚さんが頭の白雲よけのために巻いてあるガーゼ頭を心なしかうつむきかげんにして立っていた。その傍に、中川支配人も立たれていたので私も支配人の傍で
心なし上向き具合に階段上から降りてこられる服部社長の様子を拝見する姿勢をとったのである。やがて階段を降り切られる二段ばかり手前で足を止められてから、一且凝視したらしい。そのあと「よろしく」と一言いい残されて車上の人となったように、今でも当時のこの時の模様を記憶している。いまだにその時の光景が私の心の奥底深く映っているのだが、この時の感激は私の生涯を通じて消え難い光栄の時でもあったわけである。
このような状況の中で精工舎工場の見学が許可された以上、そのあとの準備を急がなければならないことになった。このあとは広告部長の大塚さんを経由して、太平町の精工舎の事務局と細かい打合せをしなさい、と指図してくれたので、それに従って、大会当日のメ
ンバー及び工場参観希望者のリストの提出など、精工舎の河田常務の手許まで急ぐことにした。
工場見学の日時は、昭和三年の五月五日ということにしてあり、午前八時参観開始で受付時間は八時からということになった。この日の参加者は、始めて見学出来る精工舎ということに希望をもってか、地元東京方面業者は勿論のこと、北は北海道から西は大阪、九州、それにわざわざ上海からの業者を代表して、上海時計商組合長の宮沢綱三氏までが参加するというのだから、大会会場内の賑わいは、想像を絶するほどだった。
この日の見学者は、五百余名、参観者のリストは、申込み順により、予め提出されてあったので、精工舎側では認可したもの以外の入場者の防止に厳しい監視がとられることになっていた。そしてまたこの日の見学コースは、総てが丁重に扱ってくれたので、工場見学に参加した人々は、特別な感激を覚えていたようであり、精工舎側から参観者に与えたこの日の接待ぶりには、一同異句同音に尊敬の念を抱いていたようだった。
かくして工場内の見学は、八時三十分キッカリに開始、二十名づつの集団に分けて編成、一班から腕章をつけた特定の案内者によって順序よく参観して廻ったのである。
工場内の見学コースの沿道は、紅白の垂れ幕が張りつめられるなどの歓迎ぶりで、文字通り特別の意を表していた。然も、休憩の場には、高級なお茶にお菓などが提供されたのはまだしも、早朝に到着した者のために、特に弁当まで用意された待遇のよさに、参加者側はビックリ、敬意を表したほどであった。これが“世界の時計”にまで発展したセイコー時計のとられた業者に対する最初の公開措置であったのだ。
精養軒の大会場では、設営班が首を長くして待っていた。開会時間が午後一時だというのに定刻どころか二時を過ぎても先着陣の到着がない。それもその筈だったといえるのは、二十人一組の見学班が五百人を越えたのだから計二十五組以上の編成になり、それが見学所要時間二時間以上に及んだのだから予定時間が狂うことになったのも当然だ。見学が終ったあとの輸送には大型バスを使ったのだが、それがまたスムースに行かなかったところもあり、結局会場での開会は二時三十分になってしまった。
この日の会場のプランは、開幕と同時に開会前の待時間の場で、金栄社の荒木社長ご令妲(長女)幹枝さんによる杵屋流の長唄などが披露され、一際和やかさを添えてから開幕した。
開会冒頭、本紙藤井勇二社長が若かりし頃の元気に満ちた姿で演壇上から挨拶をした。
これに続いて当時の商工省参与官の牧野良三先生が床次商工大臣に代って「国家経済と日本の時計工業」と題する大演説が行なわれ、会場は割れんばかりの大拍手をよんだ。
続いて業界状勢に関する討論の場では、向島時計組合の水口茂美代表、上海時計商組合長の宮沢綱三氏、小西光沢堂の福原述氏、大阪の時計卸界の雄者今岡時計店社長、金栄社社長荒木虎次郎氏、東京時計側界の代表在間朋次郎氏、時計附属界の山田乙二氏、千住支部代表の青山氏、本所支部の大須賀社長、それに松崎氏等によるその日の討論ぶりは、熱血を呼び、正に時計業界の議会場を彷彿した如く思わせるものがあり深く印象に刻まれた。そのような過程で本社主催の時計業者大会は、以来業界の年中行事の一つに算えられるようになり、定期大会の観を呈していた。
大会の経過は、昭和三年の第一回を上野精養軒で開いた後、第二回を帝国ホテル、第三回東京会館、第四回上野精養軒、第五回上野精養軒で毎年定期的に行い、時計業界にはっきりとした足跡を残したことになった。
引き続き翌年の昭和八年は、日満両国間で時計業界の大座談会を催した。それは過ぐる昭和六年に満州事変が突発したこともあって、日満両国の経済的なつながりを深めたいとの思惑から実施されたものである。業界ぐるみでこの種の大会が継続的に開催されるようになったのは、精工舎の工場見学が行われた結果であった。
昭和五年の五月に行われた今上天皇陛下の御即位式当時、この式典に参列するための当日の服部翁の晴れ姿を写し、後世に残さん為に京都・三条河原町の牛塚別邸に警戒厳重な非常線の第三線まで突破して、服部翁の写像に努めた当時の光景など、在りし日の報恩の一つにと思い浮かべることがある。写真は「全国時計商工業者大会」のスナップ。

関東、関西の時計業界を縦横に飛び廻った頃
二十歳代の若さであったが、大勢の業者から信頼を勝ち取っていた

《昭和三年》 「商品興信新聞」創刊以来当社の広告収入の業績はすこぶる良かった。それは、時計業界では未だ一度も開催したことのない精工舎の時計工場見学と「全国時計業者大会」という集いを成功させたことから、業界での評価はいやが上にも高まるばかりだった。
従って昭和三年頃からの私の「商品興信新聞」の業界活動はすこぶる軽やかなものであった。私はまだ二十歳代の青年であったので、どんなに骨の折れるような難関の場でも、元気にやり遂げていった。
先ず毎日出歩いているコースの中で、銀座方面の場合には、神田旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転していた金森商店に顔を出すのが最初であった。簿記台の奥に金森商店のご主人がいる時は、そっと外をのぞいて見る格好をしてその日の気分判断が出来るまでお馴染みになっていたので、時によっては呼びこまれ、業界の状況などについて話し合ったものだ。
金森商店は、この頃でも莫大な資金力を持っていた店だっただけに、集まってくる人の用件は、時計の取引の他は、自然に金融面の相談であると知られていた。
そのような関係だから金森さんは、時計の卸界ではすこぶる堅物な人で通っていた。時計卸界の五日会のメンバーは、誰もがこの金森商店にやってくるのが習慣のようになっていた。たまに横浜の商館側の人がふらりと立ち寄る場合は、時計をゴッソリ持こみ、商売していることもあったが、大阪の時計卸の沢本さん、ヱルシュミット(ナポルツ)の中島さん、エデイキンの清水さん、それに日端貿易の河野氏という具合に、この頃続続と押かけていたのである。だからこの金森時計店に来たために出会った人達の関係から新聞というものの業務上のつながりを持った場合なども、私にとっても利益面が持たれたものである。
それから京橋の小西光沢堂では、小西社長の発明論などを良く聞いた。八重洲通りの森川時計店に立寄る機会も多かった。ここは京橋組合の連絡上の本拠地でもあったので、本部組合の平野組長時代に森川さんが副組長になったこともあり、諸事に亘って連絡しておく方が便利であり、ここへ立寄ることにしていた。それにこの森川さんとは大正十五年の春、この店で始めて知り合いになったという経緯がある。
今は亡き真珠業界の逸物にまでのし上がり、先年他界されたみつわ真珠工業鰍フ三輪豊照社長と初対面した場所でもあったので、殊更因縁があったのである。ここから出て銀座通りに足を踏み込むと、石井時計店があり、並びに伊勢伊時計店に到るコースになるのだが話題はそう簡単には済まされない。石井時計店の場合は、故人となった主人公の石井広之助氏は、飲み仲間同士の立場で知り合っていたから、「どうだ一杯やるか」と声をかけながらの付き合いで簡単ではあったが、伊勢伊時計店の主人の秦さんということになると、メガネを拭きながら話はそれからそれへと続くのが通例であった。
そしてまた平野時計店とその次の玉屋、御木本真珠店(その頃は地田支配人の他に加藤、横浜、瀬尾さんという人がいて話がはずんだもの)などを通ってから銀座四丁目にあった中央堂を経て服部時計店に顔を見せる機会が多かった。ここでは中川支配人にお会いしていると小売店専門廻りの土井さんが傍にやってきて、いろいろ私のために役に立つ情報を持出してくれた。
服部時計店の人事関係でのお馴染は、光学部の望月さん、時計卸部の梶原さんと大口支配人(今の専務取締役)、名古屋支店に籍を置く河口さんなども事務所の奥の方から私の掛けている椅子席に来て、声をかけてくれたものだ。
その他、長い間特別懇意にして貰っていた高島さんは、この服部時計店についての所在歴史は最も古く、従って店関係についての事柄では先先代社長の頃からその身近のことなどにつき務めて来ていただけあって、諸般に通じていて貴重な存在とされている。
最近は、和光ビルの六階に陣取っていて不動産部の服部地所部長の重責におられるようだが、時計界のことでは今なお古狸の尊称など忘れられてはいないようである。
終戦後、私の新聞社が復刊してから時計界の情況につき語りあったとき、「関東セイコー会」なるものが存立しているのに、お膝元の東京だけを放置しておくのはよくないではないですかとの話しあった結果、「東京セイコー会」なるものを設立することになったのである。当時の東京セイコー会は、当初は二十七店で発足している。
このほか、服部時計店の元勲的功労者の一人である中川支配人は、昭和八年に他界されたが、その後任には今なお「世界の時計セイコー」を背負って盤石の地歩の上にある専務取締役大口右造氏の存在がまた大きく、さらに販売本部長の重責を担い指揮している販売本部長の椿常務の存在も古くして重き地位である。そのような偉大な人材を揃えている服部時計店に到るまでの銀座の巡回コースは、一日では足らない場合がほとんどだった。

銀座筋では、福原、岩沙、藤井の三人を指して、“時計業界での名コンビ”

この頃この銀座通りでよく出合う機会が多かったのは、大正から昭和へかけた時代では、大沢商会の外まわり役の岩沙兼松氏、天野貿易の樽見氏、小西光沢堂の福原氏らで、たまには神保町の三直商店から吉田時計店へ転籍し、今は故人となったその頃の村上一蔵氏(村上時計店社長)の面影などが偲ばれた。この頃、一流時計店の銀座筋では、福原、岩沙、藤井の三人を指して、“時計業界での名コンビ”と称していたほどで、奇才同志という意を指していたのかも知れないと思う。
京橋一丁目に現存する溝口万吉商店は、宝飾業界では最古参の卸商に算えられるが、この溝口万吉商店からは涌井商店、上野商店の代表者が出身者で、今では華やかな業績を上げており、業者間からも認められている両店である。
この外、蓄音器業界では、十字屋、山野楽器店、三光堂(松本)、日東、日蓄、ビクターなどの各営業所が附近に点在していたので、地廻りコースとしてはなかなか時間を要したものだ。以上のような関係で、私は京橋、日本橋や銀座の業者筋とは特別な関係で付き合って貰っていたので、他の同業者たちとは比較にならないほど優遇されていた。
京橋の時計組合が高尾山に秋の探勝旅行をしたことがある。その時、一行の中に私だけが参加して一向に加えられた。また組合旗の新調奉告を赤坂の日枝神社で行ったときも、私だけはジャーナリストの線から放れて特別に参列するなど特別待遇されていた実証がある。このようなことから平野窪三さんが銀座の同業者を代表して「東京時計商工同業組合」に昇格してからの事業面に協力したことで、当時の東京時計組合の機関紙として私の新聞が推薦を受け、毎月購読料を支払って貰ったことがある。特に選抜された私の「商品興信新聞」はそれを誇りとしていたのは勿論のことである。

昭和初期の頃、時計やダイヤモンドの密輸事件が勃発していた
外交面で全国を飛び廻り、信頼を高めていった

《昭和三年》 私は取材などの都合で東京を離れる場合があった。そのような場合には手っ取り早くという点では横浜地方に良く飛んだものだ。
新聞発行という職業柄、外交面はその日の朝の気分次第で急にコースを変更することがある。それらは今の時代に比べてもても、昔のそれと変わるところがない筈である。
だが然し、ただ単に足の向くままに変えるのではなく、事前に予め作られているプランによるのである。従って方向を変えることの激しい時には、直ぐその場から大阪までもすっ飛んでいくこともあった。いうなれば実際の飛脚的足取変更を選ぶことになる場合のものだ。私は元来身体が丈夫なためか、兎に角月に三度は、関西方面の業務視察のために出廻ることを日常としていた。
夜、八時過ぎに食事をしたあと東京駅からそのまま寝台車にもぐり込み、翌朝汽車が大阪に着くのを待ってすぐ、行動を起こすのが通常のコースだ。
時によっては、神戸までも直行することが多かった。神戸に案外足を運ぶことになったのは、昭和初期にかけての頃、時計やダイヤモンドに関する密輸事件が多かったことによるものだった。
そのため神戸税関では、監視課の係長から課長に昇格した矢島さんという係官と懇意になった。ある時、大阪の某時計卸店から頼まれて、この神戸税関にしげく通っていたことがある。そのときの狙いは、話の結果でその店が密輸事件の容疑から外されることに成功した場合は、金五万円を礼金として私にくれるという条件があったからでもあった。
その店の悩みとしたその事件は、結局容疑が晴れて無事にすんだが、然し約束した成功した時の謝礼金の五万円はもらえなかった。その店の第一支配人だった山本某は死に、第二支配人の松田氏は私の追及に窮したようだ。商人という立場のものには、何ごとによらず現実に即した現金取引以外のことは危険であるという印象をこの時ほど深刻に私の頭に刻んだことはない。そのような関係もあり大阪地方の卸商筋には、ヤミ時計に関する事件がこの頃相次いでいたものだ。そのような傾向は世の中が不景気であったことに、だんだん慣れて来た結果、結局そうした度合を多くしたことになったのであろう。
この頃は、時計の関係もそうだが、ダイヤモンドの密輸取引などに関係するものもあり、その方面に手を染めようとしていた業者が案外多かった。それだけに時計業界関係の情報探索を仕上げたあとは、ダイヤモンドの取引状況などにも一際深い注意を払い続けていたのであった。こうした活動状況をたどっていた頃、特に記憶に残っているのは大阪の今岡時計店の社長、今岡吉太郎氏のことである。
今岡さんは、昭和三年、私の新聞社が主催した「全国商工業者大会」に出席して、当面問題とされていた「時計の販売価格の維持」という点などを強調していたから、私とはこの大会を通じて、特別懇意になったのである。それだけに何時も愉快に話しあった。そして仕事の事になると、長男の亀冶君(現在の社長)を呼びつけて、活動力を訓育の資料にしたものだ。その今岡さんを通じて知りあってよかったと思ったのは、沢本平四郎さんと保険堂(今久清吉氏)、それに加納芳三郎さんに会えたことであった。沢本さんからは、外交的なマナーについて教わり、保険堂さんからは商売上の心理的作戦なるものの真髄について学ぶことが出来た。加納さんについては、そこへの出入りが可能であるようになってから、いろいろな人に会えるチャンスを作ってくれたことになり、取材の面でも大いに役立っていた。
昭和八年の十月、突如日刊新聞紙上を賑わしたのが、「ダイヤモンドの世界的な密輸事件の暴露」という見出しの記事であった。この事件を通じて驚いたのは、加納さんの家で会った顔見知りの業者の名前十七人がズラリと日刊紙の新聞紙上に掲載されていたからである。
事件の概要は次のように記されていた。満州及び大連、上海を起点として神戸、大阪に陸揚げされたダイヤモンドを東京方面の業者に密輸入の目的で売買したものであり、世界的な密輸事件として関係者の名が上げられていた。その氏名の中には、神戸のシャルホープ、ヌーレタクラという外人を含めて、その他国内の有数の宝石の扱い業者十数名に及ぶ名が記載されていたのである。
そしてこの事件は、東京に移され、結局はそれぞれ処罰されたが、ダイヤモンドの業界関係者たちが成り行きに注目していた一大関心事であった。
ある日、私がその被疑者である家族に頼まれ、懇意であった警視庁の鈴木刑事部長を訪ねた時の事である。被疑者の身柄の釈放を懇願したところ遅かった。昨夕、巣鴨刑務所に送った後だったという情報を入手した。
そのあと、密輸事件に関する最高捜査取り調べ書の重要資料を私に見せてくれたので、瞬きもせずにこの捜査資料の全貌を読み漁った。
その時、捜査図の中に記されていた一人だけは、その店の係員の某氏の名が鉛筆で書き変えられていたのをはっきり今でも覚えている。私が特に懇意にしていた人に関する被疑事件は、結局起訴されて一審、二審、三審と進み、最終回の大審院の場になった。この場の時に備えて弁護団側の陣営では、いろいろ整然たる陳弁に努めることの準備を怠らなかった。その際、当時の弁護士界では、第一人者として名声を高めていた秋山弁護士が鋭く衝いた。事件関係の周円形が、中間で一部を欠如している事実が存在する以上、密輸事件としての完成を防げることになる、と堂堂たる法律上の解釈を述べたものだ。
その事件の法廷は、昭和九年まで続き、最後の判決の場で無罪となったが、故売の罪だけは免れなかった。私はこのときの情景を眼の辺りにして痛感した。人間というものは真理を述べ、ベストを尽くした場合には、それに対する一方の主張がどうあろうとも勝者の側に采配がより得るものだということを。従って、人間そのものの人格を価値づけようとするためには、人そのものを、先ず作りあげて行かなければならないものだと悟ったのだ。
その結果、当時は極めて忙中の身であったが、法律そのものの原理を身につけておく必要があることを痛感したので、昭和六年の春から明治大学の夜学の法科に通うことにした。そして、新学期開講早早、クラス委員の場を通じて総務委員に抜擢され、延いて六大学法務連絡会の幹事に選ばれた他、大学関係専門コースを取る線にまで勉強に励んだのは無駄ではなかった。 

「東京輸出金属雑貨工業組合」を設立した
東洋伸銅所へ舶来玉(ロール)を斡旋

《昭和二年》 「東京徽章メダル商組合」の工場建設の事業が終ると今度は浦田さんが私を埼玉県の与野市に建設を進めていた新設中の伸銅所を見せてくれた。大きな煙突には何の字も書いてなかったが、二度目に行ったときは「東洋時計伸銅所」という文字がクッキリと書かれていた。そこで浦田さんから伸銅所になくてはならないロール(玉)の入手のことで私に注文を付けてきた。
勿論、既に伸銅作業は続けられていた。原料を火入れして、それをインゴットに型入れしたあとの伸銅仕上げの急所は、伸銅ロールの如何にかかっている。真鍮の地板が平たく、精密板に出来るか、出来ないかにかかっており、このロールの良否にあるのだと説明してくれた。
従ってこの地板仕上げの良否が、直接東洋時計の製品の精度の上にも影響をもたらすものだから重要なものであった。だからこそ、浦田さんは私に頼んだのだ。銀座六丁目にあった当時の天賞堂(江沢金五郎経営時代)の三田工場の一部にメタリコン工場があり、その工場で使っていたロールは江沢さんの令息が洋行した際に持帰った日本の工芸界には貴重な存在となっていた。それほど貴重なものだということは、私がこのあとで、「東京輸出金属雑貨工業組合」を設立し、東京中の伸銅事業を査察して廻った際の判断に大いに役立ったのである。
ロールの味については、故人となった金銀のロー引圧延をしている小森宮さんも、その真価について後日私に語ってくれた。そんなこんなで、浦田さんとの関係もだんだん深くなっていった。またその親元である吉田時計店との話し合いの場も多くなっていったのはいうまでもない。
写真は昭和二年の経済界の恐慌時代には銀行の取り付け騒ぎが起きている。当時の中野銀行の取り付け騒ぎの光景。

私は京都の老舗卸店の大沢商会に可愛がられていた
東西の各時計卸店の社長連との顔見知りに

《昭和二年》 私が時計業界を中心に新聞事業を通じて全国を飛び歩いていた中で、特に印象に残った事柄を拾いあげて紹介してみる。
私が大阪方面を飛び歩く場合には、大阪の一歩手前の京都で下車した事が多かった。下阪する時の序で立ち寄ってみたい鴨川べりで一杯やろうか、または昭和の初めの頃には大沢商会を始め二、三店を尋ねたものだ。京都では、京都駅で聞いても大沢商会といえばその名は良く通っていたもので、老舗を意味するものだった。大沢商会には森田支配人といって、名刺を通じて訪れた一には、その都度一円の金一封を与えてくれたものである。俗にいう“わらじ銭”という意味であったかも知れないと思っていた。それに京都は古い都であるだけに、大沢商会そのものも漏れず土地本来の古いしきたりというものになっていたであろう。大沢商会のこの頃の扱い品目としては自転車が主品であり、時計はそれ以下の範囲にあったようだ。時計の卸部に専門係の岡田さんという人がいて、大阪の卸店廻りなどの場で良く会ったものだ。
その反対に、この大沢商会は所要のない人の入門は許されず玄関で門前払いされるのが通例のようであった。それだけに殊更印象深いものがある。
野尻、沢本、中島、鈴木、鶴巻、天笠、富尾、今岡など東西の各時計卸店の社長連がここを訪れる機会があったので、その際に、ここで顔見知りの機会を得たものだ。従ってそのあとで、関西の各店を廻っていった場合に、「君は大沢商会へも行くのか」と聞かれた位であるから、自然にお馴染が深くなり、親しくしていたのは当然である。

大阪の富尾時計店と中上時計店の勢力
関東・関西・中部の「販売価格の協定」を両社が調停

《昭和の初期の頃》 昭和七年頃、時計の乱売問題が台頭、東京の時計卸業者の団体「五日会」と大阪の「共益会」、名石屋の「同志会」を含めて「販売価格の協定」を結ぼうとしたことがあり大騒ぎとなった。その頃は、大阪の冨尾時計店と中上時計店の両者は勢力上の威信で対立していた場にあった。だが難航した末に東京側の卸団体との協定が成り、地元の組合員をなだめる際の両者の力量は大したものだった。それだけに大阪の時計卸界では、両者を大物という貫録をもって示していたようだ。従って私らへのスポンサー的立場を作る場のことでも、双方は五分五分の格を汚すことのないよう厳に注意を怠らなかったものである。大阪の時計の卸畑界では、この外にも老舗としての貫録を持った店がある。その中で淡路町の岡伝蔵商店は古く、もっとも信望が高かった。この頃の信頼度というもののポイントは、支払い上の問題などが大きく影響していたようだ。
岡伝蔵商店は、その意味でも二とは下らなかった地位を持ち、常に上位を誇っていたようだ。
大阪の変り種といわれていた大阪時計材料店の山内岩戸という人は、この頃大いに注目された存在だった。時計材料を専門に取り扱っているのだから、時計油の取扱いが多かったのは言うまでもない。またその油の件でいろいろの話題をまいたものだ。
東京・神田の山内時計材料店の舎弟に当る人で、昭和の初めに私を自分の店の地下室に設けてあった倉庫へ案内して、他人の言ういろいろの噂話を打消すことに努めたのであろう。その当時の光景を今でも鮮明に記憶している。豪胆で鼻っ柱の強い人ではあったが、案外涙っぽいところに人としての良さがあったといえる。
今岡時計店の社長芳太郎さん(現社長の厳父)は、商人としては一風変った勇敢な人として知られていた。それだけに服部翁の現存中は上京すれば直ちに翁と会談、商魂たくましくも取引面などでも直接交渉をしたものだという。それだけに服部翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度、翁の墓参りをしてから、その次に藤井社長の訪問だよと時たま本社を訪れ放言されたことがあり忘れられない印象である。
時計の外に、古い銀貨も扱ったことで事件化したことがある。戦争がさせた物資不足にからむ事件だったのであろう。
その今岡社長とある日宗右衛町の料亭大和屋に一席設けて貰ったことがある。時計側界の林市太郎氏(今の林精機且ミ長の父)と一緒で、そのあげく芸子十余人を伴って南のキャバレー「オリエント」の二階ホールで大騒ぎをした想い出がある。そのあと、ダンスを踊る場ではこの芸子の羽織をとって裏面の緋縮緬を出して踊ったのだからヤンヤの喝采をあびた。この当時のことは、今でも忘れられないエピソードの一つである。
その今岡さんの紹介で沢本平四郎さんのお宅(鰻谷)に呼ばれたことがある。沢本さんから、「人間というものは、大地を踏みしめながら歩くようにすれば間違いは起さないものだ」という教訓をうけたことがある。その言葉が終生を通じて忘れ難いものの一つである。その沢本さんが大の酒豪家であったので、生命を早めたのは残念に思う。
神戸の商館まわりをしている時、スイス交易商会の当時の支配人だった川瀬善博さんは「物ごとは地味に堅く渡りたいものだ」といっていたが、その川瀬さんが、現在東京・銀座で、昔のスイス交易商会のそのままをうけ継いでいるが分かった。なお当時の堅実一本主義でやっているところに、人間というものの信用性が感じられている。それらも教訓の一つにつながろう。
岡山の時計小売店の是友さんが、昔、私の社の主義主張に共鳴されて、岡山時計組合からの定期購読料を毎年届けに来でくれたものだ。新聞は人と共に生き、そして品格常に高潔でなければならないものだと、雨釆痛感している。その気持は、今も変るところはない。
大阪の有名蓄音器卸店での当時の実話だが、
@ 接客した際十分に料理などでもてなしておいて、そのあとの会計の場になって、その際の割勘分を支払代金の中から差引いて仕切る。これ大阪商法の一として注目する。
A 一人の売子が偽マーク商品を売込みに来た。表面堂堂とそれを断ったあとで、店員の帰り道での路上取引を指示していたのを見て駑いた。大阪商法の第二例。
B ある協定違反事件がバレるのを防ぐための手段に、道頓堀で飲ましてその上女給を同伴宿屋に案内してまで取もった実例など数数ある。官僚たらしこみ以上にすごいことをやってのけるのが大阪商法の第三の例示(?)となるのだが、然し、大阪人の中にも、血もあり味を持てる人格高潔な人もいるのだから、それらが大阪人の全部の姿であると決めてしまうと大変な間違いを起す例もある。だから特に注意が肝要。



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