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中支那への進出と経済開発を描いた視察行
上海から上陸、両国民間人の心の交流を図りたいと祈念

《昭和十四年》 この頃私が構想していたのが、輸出金属工業組合の設立で真鍮製品の生産過程が呑み込めたので、この生産品を売り捌く為には戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。なぜならば日本は支那と好んで戦争をしたわけでなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから勃発したもので、日支両国民は心からの戦いを干していないが為に、家庭用品を通じて両国民間人の心の交流を図りたいと祈念したものである。
その方法には、組合員の手による軽金属製品を通じて両国国民の交流を図ることが第一と考えた。支那行きの下調べをした結果、最初の上陸地を上海に決め、そのには知人の宮沢洋行、服部洋行がいたのだ。また二年前に時計修理の就職を世話した人が上海に居て、第三艦隊の専属時計師として勤めていたことが分かり、利用することが出来た。更に明治大学の先輩たち中支那の新政府の要人となって渡支しているとの事活用させてもらった。

昭和初期の国産腕時計の品種
価格形成の最終委員会は、第二回目も東京・銀座の服部時計店で

《昭和十五年》 時計に関する価格形成の最終委員会は、第二回目も東京・銀座の服部時計店楼上で行われた。当時の国産腕時計の品名は、
▽精工舎=セイコー、モラール、クラウン、ネーション、地球レース、ダリア。
▽東洋時計=ロックル。
▽第日本時計=シチズン、ゴールドスター、オペラ、サイレン、エリアン、ニュートン、ノーブル、レークランド、エクスラプリマ、カメラ、ナンコ―、ハンザ、シモンズ、ラッキー。
▽英工舎=アジア、センター、オルター。
▽村松時計=キーホード。

腕時計と懐中時計の販売価格が決まる
昭和十五年十一月六日、商工大臣によって発令された

《昭和十五年》 商工省告示第六九七号、価格統制令第七条の規定により、腕時計(輸入品を除く)および懐中時計の販売価格を左のとおりとする。昭和十五年十一月六日に、小林一三商工大臣によって発令された。
『10型(クローム側)』☆7石(製造)¥550、(卸)¥590、(小売)¥800、☆10石(製造)¥600、(卸)¥640、(小売)¥850、☆15石(製造)¥700、(卸)¥740、(小売)¥950。
『防水又は防塵二重側』☆7石(製造)¥720、(卸)¥760、(小売)¥970、☆10石(製造)¥770、(卸)¥810、(小売)¥1,020、☆15石(製造)¥670、(卸)¥910、(小売)¥1,120。『九型(リボン釻)』☆7石(製造)¥605、(卸)¥645、(小売)¥865、☆10石(製造)¥655、(卸)¥695、(小売)¥915、☆15石(製造)¥755、(卸)¥895、(小売)¥1,015。『八型(リボン釻)』☆7石(製造)¥675、(卸)¥720、(小売)¥965
☆10石(製造)¥715、(卸)¥770、(小売)¥1,115、☆15石(製造)¥825、(卸)¥870、(小売)¥1,115。『懐中時計』17型ミニスタークローム側パリス7石、(製造)¥800、(卸)¥870、(小売)¥1,160。
商工省が発令したこの価格表について
@ この価格表は、補正切天府に非ざるものの価格とする。A爪石および提石は、鋼を使用留守ことを得るものとする、B中古品はこの価格表の6割とする、C小売業者において販売後一年間の保証(買い主の責任に基づかざる損傷の場合は、無料で修繕する者の保証)をなす場合にありては、前各表小売業者販売価格に一円を加算することを得るものとする、D文字板及び剣に夜光塗料を施したものは、前各表価格の五十銭マシとする、E朝鮮、台湾、樺太、関東及び南洋群島向けのものにありては、前各表価格のI銭増、支那向けのものにありては、前各表価格二十五銭増とす、F製造業者、販売価格及び卸業者の販売価格は、買主の店先価格とし、小売業者販売価格は、売り主の店先価格とする。

大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任
東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」として結成した

《昭和十五年》 時計業界の情勢は、以上のような経過で、すこぶる観覧をきたしていた。時計の卸業界は、舶来時計の輸入禁止、置き、目覚時計の製造禁止によって品物は需要に反比例して払底をかこっていたからヤミ値段が高まるばかりの状況となっていた。
そこで時計の卸業者の中から、決起するものが現れ、卸商業組合の結成を図る動きが出始めた。東京側では、大手の参加する動きが少なく、惜しくもこの計画は頓挫した。
所が大阪では、大阪時計卸商業組合が設立され、冨尾清太郎氏が初代の理事長に就任した。頓挫した東京の卸組合が、大阪に尻を叩かれた形で、「五日会」との名称で遅ればせながら結成に漕ぎつけた。
服部時計店の別館でその準備会を開き、設立に関する取り決めを行った。この時、服部時計店からは服部玄三氏が代表として名を連ねている。役員として、中島与三郎、広瀬幸一、金森舛太郎、吉田庄五郎、鶴巻栄松、小林伝次郎の7人が発起人となり、資本金五万円、一口二百円、四分の一の払い込みで二百五十口を持って設立した。
このようにして戦争による業界の影響は、とみに激しさを加えて行ったが、当時小売価格の混乱を防止する意味で、協会価格の認定を申請したのは、神奈川県時連が最初であった。その結果、昭和十五年二月に認可を受けているが、しかしこれから業界は、暴利行為等の通り締まり規制の強化に従って、随所で違反事件が勃発した。

銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催
商工省物価局の呼びかけで

《昭和十四年》 商工省では、状況に対処するため、統制規則に基づいて、業界ごとに物価統制の小委員会を設けていった。時計界では、昭和十四年の四月ごろから商工省物価局の呼びかけに応じて、資料の収集に努めた。その上で七月三日、銀座服部時計店別館で一般機械器具価格形成委員会の時計小委員会を開催している。
当時の服部時計店の支配人は、故中川総支配人の後を継いだ土方省吾氏であり、その時のメンバーは下記の通り。
始関物価局第二課長と鈴木、上園両事務官、岡田、上田両東京事務官に、業界筋からは、服部時計店の土方、村松英三の両氏に加え、西尾光太郎(中央時計工久美理事)、東京小売組合の野村理事長、松屋の金子角太郎氏が主席している。
これに需要者側として通信省の購買第一課長を加えた12名で、公定価格を決定すべき、品目に関する政府諮問を行った。その結果、昭和十四年五月、奢侈品等の製造販売制限規則を公布、支那事変記念日たる七月七日施行で一個五十円を超える時計の販売が禁止されるに至った。この時には、芝支部から選出されていた梶山平三郎氏もこの委員メンバーに加えられていたと記憶している。

昭和十四年、値上がりを抑制する手段であった九・一八が発令
品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商ら

《昭和十四年》 昭和十四年には九・一八が発令されて物品販売価格についても制限搢置が採られることになった。これは資材使用制限による物品の僅少化から来るものへの値上がりを抑制する手段であった。
小売界の店頭価格も定価どおりに売っている店は少なく、品あさりをする時代となっていた。時計卸業界では、舶来時計の輸入禁止、置き時計、目覚まし時計の製造禁止に伴って、商品不足、その影響で需要インフレが旺盛となっていたので、商品界の動きは活発化していた。
その一方で打ち出したのは、九・一八であるが、事実はこの抑制策に反比例して物価が上昇していたのが事実だった。しかし反面、品不足の為に商売が思うようにいかない経営不振に陥る時計卸商らが散見された。

「九・一八令」当時の時計の卸価格は
支那事変が長期化するにつれて経済統制は、一段と強化

《昭和十四年》 支那事変が長期化するにつれて経済統制は、一段と強化されることになり、これに対する「九・一八令」による価格の厳守が各方面で要望されていた。
その当時の時計の卸価格は、次の如く示されていた。
ステンレス変形腕時計
ナルダン=180〜300円、ロンジン=150〜250円、オメガ=150〜250円、モバード=100〜200円、チソット=80〜180円、バルカン=80〜230円、エレクション=60〜100円、ロレックス=60〜80円、ウオルサム=50〜70円等。
以上のような状態で、舶来時計の輸入が禁止されてからすでに二年も経つのに、依然として値上がりが見られた。そのため国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出しなければならないのだったが、逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこという景況を見せ、値段が闇価格になった。そんな中、「物価統制令」が引かれて、更に「暴利行為などの取り締まり規制」が発令されるようになり、警察の取り締まり強化が始められ、各業界も協定価格の設定が要望されるようになった。
以上のような状態で、舶来時計の輸入が禁止されてからすでに二年も経つのに、依然として値上がりが見られた。そのため国産時計が外貨獲得の為に海外へ輸出しなければならないのだったが、逆に国内の需要を満たすために品物は引っ張りだこという景況を見せ、値段が闇価格になった。そんな中、「物価統制令」が引かれて、更に「暴利行為などの取り締まり規制」が発令されるようになり、警察の取り締まり強化が始められ、各業界も協定価格の設定が要望されるようになった。

時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった
輸出入に関する臨時措置の法律で白金地金の配給統制規則が制定された

《昭和十二年》 昭和十二年法律第920号で、輸出入に関する臨時措置の法律商工省第31号で白金地金の配給統制規則が制定された。このような発令は、戦争が拡大するにつれ、次々と発令され貴金属品や時計附属品を扱う生産業者は、私が作ったこの輸出業組合に入る以外に道はなかったと思う。そんな状況だから組合事業はスムースに進んだ。しかし、私は時計業界にも顔を出していたので、当時の国産時計メーカーは、すでに軍需工業への要求に片寄らざるを得なくなっていたようで、恐らく時計の生産面では思うようにはいかなかったようである。だから時計の価格は、品不足によりますます高騰していった。また輸入制限によりスイスからの輸入も途絶えていたようで、時計は戦時需要増のため値段が引き上がるだけだった。

輸出組合を退陣、金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集
東京都から助成金として二十五万円を受領

《昭和十二年》 私は輸出組合を作ってから商工省との関係も良好で、当時東京都から助成金として二十五万円を受領した。それを契機に昭和十三年四月の総会で組合事業から身を引き功労金として金一封を貰った。その金一封を資金に、中支那方面の経済視察団を募集して決行した。多くの人は私の退陣に慰留してくれたが、組織というものの新陳代謝と”姑“的立場から退くことで、諸般の事情が軽やかになる事を願って速やかに退陣した。

時計メーカーが初めての統合時代に
初めて組合というものを設立することに傾いた

《昭和十四年》 戦争が始まってから最も革新されたものは、時計界の面では、メーカー群の集散状態が取り上げられる。時計業界の英傑と言われる服部金太郎翁の経営する精工舎と雖も戦争という非常時代に於ては、唯我独尊的行動は許されなかったことになる。その現われは、組合というきずなの下に、諸般の統合が行なわれることになってしまった。群雄割拠した時計メーカー群は昭和十三年五月二十五日に、初めて組合というものを設立することに傾いた。当時の組合員十四名、出資口数一二八口、一口の出資金五〇〇円、第一回の払込金額一二五円、計、一六〇、〇〇円で組織された。当時の組合員と役員名は次
の如くである。
▽株式会社服部時計店工場精工舎、▽株式会社第二精工舎、▽株式会社吉田時計店、▽大日本時計株式会社、▽株式会社鶴巻時計店工場英工舎、▽芝浦マツダエ業株式会社大井工場、▽東京時計製造株式会社、▽東洋時計株式会社上尾工場、▽東京電気時計株式会社、▽沖電気時計株式会社芝浦工場、▽株式会社精工社、▽株式会社栄計社、▽合資会社鈴工舎林時計製造所、▽株式会社原口電気製作所。
○役員:理事長=篠原三千郎(精工舎)、理事=吉田庄五郎、鶴巻栄松、国安卯一、西尾光太郎、監事=鈴木良一、田代軍蔵、干葉辰次郎。
以上の組繊によって七月十九日に設立認可が降りてから生産上に必要な素材の配給が行われた。それによって生産数量が記録されるにいたって、初めて各メーカーの生産内容が公開される段階に立ち至ったのである。



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