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私が説明した通りに石渡局長が本議会で報告
本会議で提案、可決され「ダイヤの十割撤廃運動」は成功裏に終わった

《昭和十一年》 私は、孔雀荘で三人から頼まれたダイヤモンドの十割撤廃運動についての処理の腹が決ったので猛然奮起することにした。新聞の編集も伴ってのことであるから一際いそがしいことになる。そこでこのような政治関係についての推進は三木君では代議士になりたてのホヤホヤだからどうにもならないという勘案から、明大のクラスメート連中の六人を呼んで談合したものだ。ところがその中に、九州出身の某氏の口から上塚司先生の名が出て来た。上塚さんという人は、二二六事件による災禍で倒れた高橋是清大蔵大臣の懐刀といわれた位の智能明晰の方である。その人は九州出身の関係で知り合いの間柄であるというところに元気を得たので、その人を経由して陳情の成果を収めようと決意した。従って大蔵省の主税局長に行くまでの間に陳情する本旨の総ては上塚司先生に説明しておかなければならないことになったので、上塚先生の都合を計って正式に諒解を得るまでにかれこれ二週間ぐらいを要した。上塚先生は、当時は東拓ビルの三階にいて、私の説明を静かに聞いていた。
それ以外の陳情はしないでね、と念を押してから名刺に石渡主税局長宛の紹介状を認めてくれたのである。その日は衆院本会議にダイヤモンドの税率問題が上提されることになっていた時だったので、私は心の中ではとてもあせっていたのだったが仕方がないとあきらめながら、そしてその名刺を貰うと一目散に大蔵省に車を飛ばした。
電話をしてくれてあったと見えて石渡主税局長は、七、八人か控え室に待っている人より先に私を局長室に呼んでくれた。そしてダイヤモンドの十割という税率が過重であるのと、十割を一割に引下げれば、犯罪が減少する理由などについて細かく聞き取り、それをメモしていたようであった。それは二十分位の短かい時間であったのだが、この時局長さんがメモしながら言ったのは、「さっき、山崎亀吉という人が来て話を聞いていたが、話の意味が判らなくて困っていたのだ。これでいい、今日の議会で説明するよ」といい残して自室を出ていった。この時の時間は十二時を少しまわっていたと思う。かくてその日の午後の本会議で石渡主税局長が「ダイヤモンドの十割課税は悪税であり、犯罪予防の意味からも撤廃すべきだと思うが、とりあえず一割に引下げるに止めめたい」と案を説明し、その通りに可決されたのである。私はこの時のニュースを喫茶店のラジオを通じて聞いたのであるがこの頃私は、東京輸出雑貨組合などの組織変え後の仕事の運用上の関係もあって、非常に忙しい立場にあった。
その面の関する報酬的なことについては、格別求めておかなかった。だが然し、明大のクラスメートに頼み智恵を借りたおかげによる代償としての報酬は当然私の責任であるから、自腹で払った。その光景を見ていた同僚らは、大いに同情してくれたのだが、然し私はいい記録を残したことに大いに喜んだのである。
【注】ここでいっておきたいのは、世間で行なう場合の陳情ごとについての費用の問題は、事前に決済を明らかにしておかなければ終ったあとでは絶対に問題を起すことになるものであるということを私がこのとき経験したのでこの機会に明示しておく。このダイヤモンドの撤廃運動資金として集めた金額は、二百万円であったのだから、当時では大した金額だったわけ。その中から山崎氏に手渡したものは、二十万円だと幹部連の一人から後日この間の事情を聞いていたので、結局百八十万円がとこの巨額がこれらの間で消費したことになっている。

白金が安く愛国メダルを売ったころ
昭和十一年ごろ地金協会メンバーが率先して売り出す

《昭和十一年》 貴金属地金の中で白金は金の価格よる担当高額の地位におかれているのが常識のようになっている。その白金が余りにも安くなり、金の価格に比較して二、三割位しか高くなかった当時の昭和十一年ごろには、この白金の需要を大衆に向けようという企画を立てて、白金製愛国メダルと銘打って一個二十円で消費者への売出しを敢行したことがある。たしか山崎亀吉さんの企画で徳力本店、田中貴金属、石福貴金属などの地金協会メンバーが卒先して、これらの推進を計ったものだと記憶する。この白金が過ぐる昭和三十年ごろにも匁単位二千円近くに低落していったことがあった。この時も地金協会のメンバー連は、白金の将来性について慎重検討したところ、こんな安い値段で止まっている訳がないとの見解を示していた。ところがその翌日になったらトタン高騰し始めたという奇蹟的な変動があったことがある。
白金についての価格の変動は、えてしてソ連の投機性の結果による影響が大きいようである。因に、この白金地金の用途は常に工業用に要するものが多い。
それだけに軍需用に関することで需要を増した時には、その及ばすところが自然大きく且つ厳しい制限をうける例がある。わが国では、この白金が採鉱されないので、勢い輸入に頼るほかはない。従って、こと軍事用時代に入ったとなると、この白金の取扱いに関しては国の管理規定に違反するような事態に迫られる場合が案外多かった。従ってこの場合の処罰と来たら極めて厳重すぎるほどの厳罰をとられたもので、白金にからむ違反事件で且て命脈を断ったものは、前後三件に及んでおり、悲業な最後を遂げている。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
上海から上陸、両国民間人の心の交流を図りたいと祈念

《昭和十四年》 この頃私が構想していたのが、輸出金属工業組合の設立で真鍮製品の生産過程が呑み込めたので、この生産品を売り捌く為には戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。なぜならば日本は支那と好んで戦争をしたわけでなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから勃発したもので、日支両国民は心からの戦いを干していないが為に、家庭用品を通じて両国民間人の心の交流を図りたいと祈念したものである。
その方法には、組合員の手による軽金属製品を通じて両国国民の交流を図ることが第一と考えた。支那行きの下調べをした結果、最初の上陸地を上海に決め、そのには知人の宮沢洋行、服部洋行がいたのだ。また二年前に時計修理の就職を世話した人が上海に居て、第三艦隊の専属時計師として勤めていたことが分かり、利用することが出来た。更に明治大学の先輩たち中支那の新政府の要人となって渡支しているとの事活用させてもらった。

揚子江を巡り着いた四仙路ホテルでの第一夜
五十本入りのスリーキャッスルが五十銭で、旨かったこと

《昭和十四年》 初めて見る支那大陸は、我々一行の眼には鋭く映った。まず船は揚子江を巡りつつ進んでいったが、この頃から海水は黄色みを帯びているのに異様な注目を引いた。上海の埠頭に着くと、チャイニーズ達が船内にタバコ売りの為にどやどややってきた。確か一箱五銭だったと思う。五十本入りのスリーキャッスルが五十銭でこのたばこは旨かった。タバコを止めていた私だったが余りの旨さに、また吸い始めてしまった苦い経験がある。
宮沢氏と私は、先に世話をして上海に送っておいたM氏の出迎えを経て、四仙路の四仙路ホテルに案内してもらった。これから二十日間、上海の町で起こったエピソードは?
上海について思いついたのは、かって先に上海を訪れた千野善之助や大学教授の一行が、一人でヤンチャオ(人力車)に乗ったために、横道に引きずり込まれて半殺しの目に合い、ほうほうの体で逃げてきたことだった。半面、それだけに興味を深めた上海の第一夜に突入した。 

上海での一人歩きは危険であった
出かける時は必ず予約したタクシーに乗ること

《昭和十四年》 ウースンの波止場を歩き出した一行の眼には、初めて見る上海の空気が何となく深くより深く味わいたい気持ちだった。上海は異国ではあるが日本が戦争に勝ったお陰で街で見る日本人の姿は何となく強く感じられた。だが反対に戦争に敗れた支那人の気持ちを考えると、何となく複雑な気持ちだった。
支那人たちは、店先で表の道路に向かってうどんのようなものを食べていた。それは、自分は食事を取っているぞという事を誇ろかにしているポーズであることを知って納得した。
宮沢さんは、上海で時計組合と蓄音器組合の組合長を務めている傍ら居留民団副長もやっているので、実質的には団長格で上海には詳しい人。
二十年もの上海暮らしの宮沢さんが言う上海の町の歩き方とは。
つまり昭和十二年の春に上海戦争がはじまり、支那人は日本兵に大量虐殺されている。その恨みもあって、日本人が少数で街を歩いていると被害を被ることがあるという。単身人力車に乗って、横道に連れ込まれて金品を取られた事例もあったことから、街の一人歩きは厳禁されていた。夜出かける時は、流しのタクシーではなく、予約して素性のわかるタクシーを使うことを教わった。

到着一夜にして、はしゃぎ過ぎて大失敗の件
「酔いざめの水は、下戸知らず」大いに反省

《昭和十四年》 上海での夜食が終わった後、上海の夜の美しさは格別であった。外出時の注意を聞いた後だけに、外出をためらっていたが、興味を持った連中だけでホテルを抜け出した。
この四仙路辺りは、一応戦争は終わったという事になっていたが、上海の外廊には機銃野座が、当時も据え付けたまま相対峙していたのであった。それだけに夜ともなれば支那人の家の雨戸は垂れているので深刻な淋しさが想像できた。その不気味な支那の街を私と越光、加藤、溝口の四人で、一人の支那人に三円の手数料を払い、夜光潜航行動を実行した。当時は一人に一円づつ支払うと何でもやってくれる時代だった。スリルを味わい夜の十一時過ぎにホテルに帰った。おいしいお酒の後だけに、枕元にあった保温瓶から飲んだ水のおいしかったこと。今でも忘れない。外国旅行をしたことがなく、かつその土地の水についての知識がなかったため、第一夜にして大失敗をやらかしてしまった。上海はとてもきれいな水が沸いている都市だが、どんな水でも生で飲んではいけない性質のものだったことを後で聞かされた。「酔いざめの水は、下戸知らず」と言われていたが、この時ばかりは支那というところは、国が大きすぎる割合に、生きるための条件には恵まれていない国であると思った。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発

乗船した照国丸が上海滞在中に支那艦艇から撃沈されたことを知って驚いた

《昭和十四年》 五月十日、中支那経済視察団を編成して、神戸港を出発した。
参加メンバーは、私を含め、越光曉久、加藤清十郎、中川敏二、梶田久治郎、梶田善次郎、谷田賀良俱、高橋洋二郎、加藤悦三親子の十一名。神戸港では、大阪の研交会のメンバーに見送られて元気に出発した。
船は、昭和五年の第一次欧州大戦当時、日本が日英同盟の線で加担した時の戦利品の照国丸三万五千トンの船だった。一行は、外国航路は初めての経験であり、上海到着まで三日間を要した。この間船中では、同船していた京都大本願寺の大谷光瑞ゲイ下と会談、中支方面の状況を拝聴した。
中支那視察の目的は、中支那の経済視察の他、場合によっては、日支人間の国民交流を計ることを希望しているというと、称賛された。大谷光瑞ゲイ下は、上海にある西本願寺に出向くための船旅であった。しかし、この照国丸は、私たちを乗せたのを最後に支那艦艇から撃沈されたことを上海に滞在していたホテルの新聞で知り、お互いに顔を見合わせ無事を喜び合った。

中支那方面視察中のところどころ
中国人の神髄を見た

《昭和十四年》 中支派遣軍釜顯長山田乙三閣下の一行に加わっているが如き感じで閣下一行と同行していた私達一行の中支那方面経済視察団は、その視察の眼を各地区の都市の実情調査にも転ずることにした。その中に織り込まれた一コマ、蘇州寒山寺に詣でて感じた点を追想してみよう。
寒山寺に詣でる途中の沿道に立ち並んでいる商人から、一行中の越村氏が掛軸を求めるべく値段の交渉を始めたので、私と一行は興味を持ってその成行きを見守っていた。越村氏が指差した掛軸は、最初二百円(当時)と唱していたが、だんだん値切った結果、結局ただの五円で売買することになった。支那人という商人は、物に対して馬鹿げて吹っかけるものだという印象をこのときの状況から知ることを得た。

中支那への進出と経済開発を描いた視察行
経済視察団を編成、支那に渡る 

《昭和十四年》 私の構想は、輸出貴金属興業組合の設立で真鍮製品というものの生産過程が理解できるようになったので、この生産品を売り捌く為には、戦争の相手国である支那大陸に嘱望することが適切だと考えた。その要因は、日本は支那と好んで戦争をしているのではなく、米英諸国が連携して支那と繋がり、日本を経済封鎖したことから始まったわけで、日本と支那の両国民は、心からの戦いは願っていなかった。家庭用品を通じて心の交流を図りたいと念願したのである。その為には、貴金属組合員の手による軽金属製品を通じて両国民の交流を図ることが適当だと考えたのだ。
そして支那行きの調査をした結果、上陸部の上海には、知人である宮沢洋行氏、服部洋行氏がいる。更に二年前に、時計の修理の就職を世話して上海に送った某氏遠征しており、艦隊の専属時計師として還俗している主、知らせがあったので利用することにした。
また明治大学の先輩たちが支那の政府要人となって渡支しているのを活用することにした。
このようなことを確認してから中支那経済使節団を編成、昭和十四年の五月十日、神戸から出発することを決めて指令を出した。参加したメンバーは、私の外には、越村暁久、加藤清十郎、中川敏ニ、梶田久治郎、梶田善次郎、谷田賀良倶、高橋要ニ郎、加藤悦三と息子の計十一人。神戸港では、大阪研交会の見送りを受けて元気に出発した。
乗船した船は、昭和五年の第一次欧州大戦当時、日本が日英同盟で加担した時の戦利品の照国丸三万五千トンであった。一行は、越村氏を除き、外国航路は初めての経験だった。この船は、上海到着まで三日間を要したので長い旅になった。
船中では、京都・本願寺の大谷光瑞ゲイ下と会談、中支についての様々な問題を拝聴した。今回の目的は、中支経済の視察であり、国民の交流を図りたいとの希望を上げたら、称賛された。ゲイ下は、上海にある西本願寺に出向くための船旅であった。しかし、この照国丸は、佐多氏達を乗せたのを最後に支那艦船から撃沈されたことを上海滞在中に新聞報道で知らされ、深い感慨に至った。お互い無事で良かったことを喜びあった。

蘇州、江州を経て南京を見る
当時の軍の行動が手に取るように読みとることが出来てすこぶる愉快

《昭和十四年》 一行は蘇州、江州地区を視察してから南京を訪れ、更に、武漢地区に足
をのばす予定にしていた。上海から、半分に仕切った二等車の半分に私達の一行が乗り、他の半分の席には中支方面派遣参謀総長の山田乙三閣下以下、秦大佐らの幕僚連が随行していた。従って、各駅停車で然も停車のその節度、その地区内の治安状況の説明が地方自治会委員の代表者に依って行なわれていたので、軍隊の用件で行ったのではなかった私達の一行も、当時の軍の行動とその地域内の状況範囲が手に取るように読みとることが出来
てすこぶる愉快であった。お陰で私達一行は、山田閣下(日本大人)と同じように、日本人の誇りが鉄道を守備する支那兵からも捧げられていたので少しく、誇らしい気持で歩いたものだ。



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