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眼鏡界に多くの名士が誕生した
大正十二年に起きた関東大震災の復興を契機に

《大正十二年》 この間、大正十二年九月一日の関東大震災では、業者の全部が被災し、死亡した組合員は二十九名を出した。組合は、労災救済金を借り込む状態で振わなかった。しかし、震災後の復興力が緒につくと次第に目芽える時期が到来した。この頃の眼鏡界は、組合の名称が示すように、製造と販売業者を一括して組織されていた。従って販売店がお客の立場になるという関係で常に有利に動いていたようだ。
組合行政では、神田の五味行長、小柳重憲、民野勇、鈴木金蔵、谷勇、村田嘉兵衛、亀山末義、加藤亀太郎ら小売の面々に、時計界から向島の水口茂美氏などが加わって賑やかな総会風景を展開したものだ。
メーカー畑では、小沢元重、佐野義雄、奥田平兵衛、卸界から井戸武義、吉田幸三郎、田中喜八の諸氏が役員陣営に参画していた。
当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙論といえるものであり、一言一句が議事法に則るものでなければ許されなかったというほどだ。俗称神田組と称された
五味、谷、鈴木の三氏は、必ず発言なしでは済まなかったものである。
平野組長によって、時計関係では同業組合への昇格は見たものの、公認制組合としては、この眼鏡組合の方がはるかに先輩というだけに、論議の場ともなれば、物すさまじいばかりの光景などが見られたものだ。
とにかく、神田組に神楽坂の民野勇氏(俗称コブ)を加えたら、つぎつぎに質疑が発せられ、議長はヘコたれるだろうということであったほど。
従って次代の組長たるものは、この猛者連を程よく統制出来るものでなければ到底務まらないものだという定評さえつけられていたのである。

伊勢定店主鈴木定吉さんの勇躍登場の巻
業種三部制(製造・卸・小売)が実施されることになった

《大正十五年》 この頃、このような賑やかな眼鏡組合の状態ではあったが、また時としてこの光景をほくそ笑んでいる人もいたようである。当時、蔵前の交叉点角から二軒目に伊勢定眼鏡店と称するメガネの卸店があった。秘書役に、辻さん、商売の方は、古参店員として加藤六次郎氏がいて、堅実な体制を布いていた。
伊勢定のおやじ曰く「俺が死んだら通夜には三味を入れて賑やかに接待しろよ」と妻君に常に言いきかせていた位であっただけに、気性はまたとない強さを持っていて、朗らかな性質の人であった。
私たちが、「天下の形勢はいかがですか?」と問いかけると、途端に眼鏡の奥の目が光り、コップに一杯の酒がなみなみと注がれたものだ。カラシの入った柿の種をつまみながら酒を飲むときの快感ときたら、大満足の体。
伊勞定のおやじは、いいおやじであったことをこの機会に言っておく。
この伊勢定の主人公鈴木定吉が、とうとう組長候補に出陣の用意が出来た。そうなると用意は周到だ。先ず諸方に手を差しのべて、事前の了解工作が行われた。
市会議員の選挙にも負けないくらい、真剣な体制を整えたのである。
前述したように、神田組の五味行長氏等の猛者連を制御する術もすでに整えられた結果で、大正十五年一月の総会席上で組長当選の栄冠を担った。この選挙の当日には、時計界から、山岡、千野、干葉、水口、槙野の諸氏が眼鏡組合の資格で観戦していたので賑やかさと来たら文字通りであった。
こうして鈴木組長は、昭和五年まで組長を歴任したが、当時小沢副組長の資格問題が取りあげられたことから遂に辻書記長とともに辞任する結果となった。この間、常に私達を通じて業界の諸情勢に関する情報の収集には熱心に気を配られたものである。水も洩らさぬという体制だったのであろう。
そのあとの組長は、昭和五年に秋元清次郎氏、同七年に田中喜八氏、同八年に加藤亀太郎氏、同十三年に安西俊治氏、十四年に亀山末義氏らの順に就任しているが、この頃は既に戦時体制時代に移っていたので、組合の会議も自然とおだやかに変っていた。かくて組合事業の諸般がスムースに運ばれたこの間、同業組合の永年の希望案件に上っていた業種三部制(製造・卸・小売)が実施されることになったのである。写真は、昭和十七年当時の慰問団一行のスナップ。

OM眼鏡と小沢SSの立正会
飲みながら説教をしてもらった良き想いで

《昭和五年頃》 鈴木組長の下にメーカー畑から出て副組長に任じていた小沢元重氏は、今も元気に組合事業の諸般に活躍を続けているが、この小沢氏を市川の自宅によく訪れたものである。私の外にも竹雅、黒川、鳥越(故人)らも時には加わっていた。
OM金張眼鏡伜を製造して有名なだけに、その信拠するところも常人と違っているところがあった。自宅の庭に立正会の祈祷所があり、日を決めて説法を行なっていた。小沢さんは信念の人であると私たちは信じさせるように、飮みながらよく語ってくれたものだ。市川の国府台近く、または真間の大松に、時としては江戸川を舟で逆上して川のほとりの茶亭に竹雅、黒川氏ら四人がたむろしたこともあった。丁度、浦竹さんが私達を愛好してくれたように、眼鏡界ではこの小沢さんを何より頼りにしていたものだ。だから市川行は、スポンサーの目的にしたときばかりではなかった。電話で打合せて午後四時という時間時か多かった。信念に生きる小沢さんは、今でもOM眼鏡の主として活曜、業界の諸般に貢献している雄姿を見る時、当時を思いうかべて心中敬意を表することがある。

吉田幸男氏と小柳政重氏の二人
大正の末期に眼鏡業界から二人の洋行者

《昭和五年頃》 眼鏡業界の歴史をひも解くと、レンズについては十三世紀頃のイタリアのヴェネチヤで創製されたといことが記されてある。日本には眼鏡が入ってきたのは、奈良天皇の亨保二年に宣教師が大内義隆に望遠鏡とともに献じたという外、天文十二年にフランシスコザビエルが持って来たという記録がある。また日本に眼鏡として始めて輸入されたのは、寛政五年に浜田弥兵衛という人が南蛮に渡って眼鏡の製造を習得し、長崎にいた生島藤吉という人に伝授したのがはじまりだという記録もある。そんな古歴に関することではあるまいが、欧米流の眼鏡検眼技術を習得する必要から、眼鏡界の青年二人が大正の末期に洋行している。その人は時計界の各所で眼鏡の講師の経歴をもった吉田眼鏡店の主人公、故吉田幸男氏と、京橋の金鳳堂の現社長小柳政重氏の二人である。
最近のように、誰でも行こうと思えば行ける時代になってからは、小売に卸に、メーカー連など相次いで、東南アジアから欧米各国にそれぞれ視察旅行をするようになったが、トップを切って外国に見参した眼鏡界でのこの二人の先駆者は前記の二人にのみ存するようだ。

井戸理事長時代の組合現勢
全国の業者を一丸とする「全日本眼鏡商工組合連合会」を結成

《昭和十六年》 従って現況は眼鏡小売業組合、卸商組合、レンズ、伜等の各種団体がそれぞれ別行動をとることになったのである。しかし何れの時代も眼鏡に関する部門は、卸組合が、その業界の主力であることは否めない。昭和十四年当時の部制実施について改められた卸組合は、四転して「東京眼鏡光学器卸商業組合」と決まった。この頃、戦争はますます酣わっており、組合関係では、安西俊治氏が団長となり、北支那方面の皇軍慰問団を編成、一カ月にわたり実働した。且つまた統制令に関係した面では、公定価格の作成という仕事も生まれたほどで、戦局はますます厳しいものになっていった。
かくて昭和十六年の十二月八日に到り、日本は開戦の機をとらえ、ついに大東和戦争へと突入していった。従ってこれからは勤労奉仕に、軍需工業にと協力体制をとる以外に措置がなかったのである。かくして昭和二十年八月十五日に悲しむべき敗戦の日を迎えたのである。万止むを得ない。だが一面、平和が訪れたのである。かくして組合は、戦災から復帰した同業者を集めて、業界の再編に努めた小島秀海氏のあとをうけて、昭和二十四年八月、井戸武義氏が理事長の役を負い震い立ったのである。その井尸氏は、理事長に選ばれること九回に及び、なお存続している。
なおこの間、井戸理事長らの発奮により全国の業者を一丸とする「全日本眼鏡商工組合連合会」を結成、官界と医師会との業者間の連絡協調を計る等、活躍俊敏で、更に視力衛生問題にからんで眼鏡販売に対する認可制問題も対処するなど文字通りの活躍が見られた。
同組合は、さきに「日本眼鏡卸組合」の名において眼鏡の歴史を編纂刊行したが昭和四十年十一月三日には、同組合設立二十周年を祝して盛大な式典を椿山荘で挙行し、堂々たる組合の歩みを編纂刊行、大いに気を吐いている。
東京には、この卸組合の外に、「東京眼鏡小売商協同組合(理事長、佐野義雄氏)」があり、メーカー団体では、「東京レンズ協同組合」、「東京眼鏡伜工業組合」の各種団体が存在している。
同組合の役員陣営は次の通り。
▽理事長=井戸武義、▽常務理事=加藤六次郎、二橋健次郎、富田宗次、▽理事=花山松、須勝正四郎、北岡茂美、舂木義男、▽監事=益山武司、新井林造。
写真は、昭和四十年、椿山荘でおこなった眼鏡卸組合創立二十周年記念式典。

眼鏡業界の全国中枢機関である全眼商工連とその他の組織関係
業者のソフトとハードが合い絡まって良い関係に

《昭和十六年》 一方、眼鏡業界の全国中枢機関である「全眼商工連(全国眼鏡商工組合連合会)」の現況と下部組織を見ると、めがね専門小売店、時計めがね兼業店、めがね卸商、レンズ製造業、めがね枠製造業の各全国連合体を傘下に納め、その五団体の各会長が一年交代を原則にして輪番制で全眼商工連の会長に就くことになっている。
歴代の全眼商工連には、小沢元重(枠)、井戸武義(卸)、白山鎮博(専門小売り)、加藤栄(枠)、佐川久一(兼業小売)が担当、昭和四十一年三月現在、鳥越静助(専門小売り)が会長に在任中である。
傘下五団体には、更にそれぞれの下部組繊があって、眼鏡専門小売の全眼小売連(全日本眼鏡小売商組合連合会:鳥越静助会長)の場合、全国都市の任意組合や地域連合団体の会員千三百余名を擁している。
また時計眼鏡小売の全時連(全日本時計貴金属眼鏡商組合連合会:佐川久一会長)には、都道府県単位に全国津々浦の業者通称三万軒を会員としているが、その中に眼鏡取扱店は約一万九千軒となっている。
これに対して全眼卸連(日本眼鏡卸連合会:井戸武義会長)は、東京組合(井戸武義会長)、大阪組合(中尾兵司会長)、福井県組合(村井勇松会長)、京都府組合(土岡勝次郎会長)、名古屋組合の五団体で計百七十余名の会員を有している。
日レ連(日本レンズ工業組合連合会:池谷良平会長)の場合も卸と同様に、傘下団体数は少なく、東京レンズ工業協同組合:池谷会長)の他、大阪眼鏡レンズ工業協同組合(石井喜蔵会長)、名古屋京都レンズ工業協同組合(清水与右衛門会長)、西部工業協同組合(金森精会長)で二百名余の組合員。
全枠連(日本眼鏡工業組合連合会(加藤栄会長)は、東京眼鏡工業協同組合(北村凂理事長)と福井県眼鏡工業協同組合(加藤会長)の二団体で約六百名になっている。
このように全眼商工連は、眼鏡に携わるあらゆる企業体二万数千軒を統括する組織だが、これとは別に昭和四十年の春、社団法人日本眼鏡技術者協会(高岡徳次郎会長)が大阪で発足した。この団体は企業団体ではなく、眼鏡の調整などに従事する、いわゆる技術者を会員として技術向上に努める目的の団体であり、各都道府県ごとの支部組織を拡大しているが、協会の前身は、“眼鏡士協会”と称して任意の“眼鏡士試験”を行っていた。しかし公的な裏付けのない「眼鏡士」という呼称に異論が出てきた。
薬事法の改正と「幻の眼鏡調整法案騒ぎ」以来、全眼商工連でも“眼鏡士”に準じた法的な業者の身分の裏づけを保持しようとの希望を持ち続け、医師会との検眼紛争と同様に業界の大きな課題とされてきた。身分確立への前提として“教育の法制化”を促進する意味合いから、手始めに眼鏡講習会用のテキストを全国一本に統一、厚生省監修の名において技術向上化を図ろうとの方向に進み、現在に至っている。
なお大阪では、大阪府内の全眼鏡業者を会員とする大阪眼鏡商工連合会(中尾兵司会長)を組織、情報交換など相互の交流を計り、傘下には製造、卸、小売り、貿易、学術の各関係十一団体が所属している。
他、レンズ、フレームなど諸外交製品の国内進出も目覚ましく、零細メーカーの頭痛の種になり始めた。しかし、業者団体には、直接加盟していない大手筋が、日本製品の優秀性を海外にまで浸透させており、福井の大手メーカーと共に、眼鏡製品の柱になっていることは見逃せない事実だ。

アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものが多い
御木本幸吉翁の養殖の研究結果

《明治二十年》御木本幸吉翁は、この時、何の貝の中にできる真珠が最も良質で、人工的にどうしたら創り出せるか、頭の中で考えた。その結果、長年の経験からアワビ貝から出来た真珠は大きいが、形が歪んでいて光も鈍い。アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものもあり、色合いの美しいものが多い結果となった。真珠の品質は、その母貝の如何により粗悪品と良質品が生まれることが判った。この判断は水産業的に見ても大きな前進となったといえる。更にこの養殖技術を推進していく事に決めた。
http://www.e-tkb.com/t_mts/tkb.cgi

昭和二十一年の全国水産品評会で二等賞を獲得した
この受賞は御木本幸吉翁が公の場で受賞した初めてのもの

《明治二十年》 明治二十年の頃、真珠は輸出商材としては極めて有望な製品であった。だが横浜や神戸では、外国人相手の取引となると、品質が良いものは羽が生えたように売れていた。最も良質な真珠は、数千個の真珠貝の中から僅かに二、三個程度しか採ることが出来なかった。そんな中、昭和21年6月、全国水産品評会が東京の京橋木挽町の厚生館で開催され、御木本幸吉翁がかねてから共同改良を重ねていたイリコとの真珠を出品、二等賞を獲得した。この受賞は御木本幸吉翁が公の場で受賞した初め手の物である。御木本幸吉翁はこの時の光栄に鑑みていよいよ真珠貝の培養試行を決意した。昭和二十一年九月の頃、御木本幸吉翁はアコヤ真珠貝を沢山集め、その飼育培養のスタートを切っている。
http://www.e-tkb.com/t_mts/tkb.cgi

世界的に誇る御木本パールと幸吉翁の生い立ちの頃
ドイツで90年前、人工養殖を行ったが不成功に終わっている

《明治二十三年》 たまたま明治二十三年、上野公園内で「第三回国内勧業博覧会」が開かれた際、翁は逸せず、自分が研究を進めている真珠貝の飼育培養を他の真珠製品と共に出展したのである。この時の博覧会水産部門に対する審査官の箕作博士は、御木本翁が出品した真珠及真珠貝について次のように説明している。
「真珠は、貝の中に入った異物が吐出されないで貝中に止まり、貝から分泌する真珠質がそれに巻つき幾年もかかって出来るものである。現に真珠を割ってみると、真珠の中には真珠でない微粒がある」と説明したのである。
箕作博士のこの説明に感嘆した幸吉翁は、博覧会が閉幕すると早速、神奈川県の三浦三崎にある東京大学附属臨海実験科に赴き、博士について専ら真珠の研究に師事したのである。博士は幸吉翁の熱心な研究心にほだされてか、大小幾つかの真珠を自ら割ったり砕いたりして化学実験を施し、且つ真珠の構造や成分についても説示されたのである。
そしてまた、この真珠の人工養殖ということについてはドイツのヘスリングという学者が、「約九十年位前に河水に具をつけて試みたことが不成功に終っている」語っている。
だからそれ以来、真珠は天然に出来るものであって人工的には出来ないものであるという説になっていた。若し、これが幸吉翁の念願により成功したとせんか、それこそ世界的発明として人類文化に大きく貢献するものだと説諭されたのである。性来気丈夫な幸吉翁は、箕作博士のこの激励が刺激となり、それから「人の出来ないことをやってのけるところに快味がある」とほくそ笑みながら決然とそれに向って突進することになったのである。かくして明治二十九年二十七日付けで第2670号により半円真珠の専売特許権が確立したのである。以来、研鑽を重ねて真珠の養殖に関する総ての研究が施されたのはいうまでもない。

法隆寺五重の塔を模写して作った時価七十万円と称された豪華な真珠搭
真珠併せて二十三万個、白金五十五匁、製作に五ヵ月を要した

《明治二十三年》 かくて翁が生んだ御木本パールが日本はおろか、世界的に飛躍したが、この間特許権をめぐって永年これに対する係争を続けたのは有名である。遂に御木本側の勝訴になってからは、御木本パールの名が燦として輝き世界的その名が高まりつつある所以である。
東京・銀座四丁目に在る御木本真珠店の東京営業所は、明治三十六年始まっており、大正三年から丸の内の内幸町に同店の貴金属工場があり、今なお業績をあけている。
私が御木本翁に直接お会いしたのは、大正の末期の頃、フィラデルフィアで開かれた万国博覧会への出品のために造られた奈良の法隆寺五重の塔を模写して作った豪華品を銀座の店で披露した時が最初であった。これに用いた真珠は、養殖真珠二十万一千二百七十個、天然真珠二万九千二百七十個、白金五十五匁、その製作に五ヵ月を要し、延べ七百五十人、搭身四尺で時価七十万円と称された豪華なものだった。第二回は、昭和時代に移ってからニュヨークにおける万国博に出品した平和の鐘であったが、時価百万ドルと称された豪華品である。それからあとも世界的に催しもののある機会は、その都度御木本パールの名において出品、世界的に有名をとどろかし輝いている。
なお昭和五年の頃、東京研交会の一行が鳥羽の養殖真珠場を見学した際には御木本翁がわざわざ一同を迎えてくれたほどの元気さであり、その時の在りし日の翁の面影が今でも偲ばれる。写真は、在りし日の御木本幸吉翁。



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