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法律そのものの原理を身に着けておく必要がると感じて
明治大学法科に通い、新学期の開講早々、総務委員に抜擢された

《昭和八年》 その時、捜査線上に記されたたった一人の名前が、鉛筆で書き換えられていたことをハッキリと覚えている。懇意にしていた人に関する被疑事件は、結局起訴されて一審、二審、三審まで進み、大陪審にまで至った。弁護団の陣営では、整然と陳弁に努めることの準備は怠らなかった。当時弁護士界の第一人者と言われた秋山弁護士が鋭く突いた。事件関係の周円形が、中間で一部を欠如している事実が存在する以上、密輸事件としての完成を防げることになる、と堂々と法律上の解釈を述べていた。
その事件の法廷は、昭和九年まで続き、最終判決の場で無罪となったが、故買の罪は免れなかった。私はこの時の情景を目のあたりにして、痛感した。人間というものは、真実を述べ、ベストを尽くした場合、一歩の主張がどうであろうとも、勝者の側に軍配が上がるものだと痛感した。従って、人間そのものの人格を価値づけようとするためには、人そのものを創り上げていかなければならないことを悟った。その結果、当時は極めて忙しい身であったが、法律そのものの原理を身に着けておく必要がると感じて昭和六年の春から明治大学の法科に通うことにした。新学期の開講早々、総務委員に抜擢され、延いては六大学の連絡会幹事に抜擢され、勉学に励んだことが無駄ではなかったと思い出させる。

当初は二十七名で東京セイコー会を設立した
中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和三年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ20歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は二十七名で東京セイコー会を設立した。

時計業界には蓄音機業界も含まれていた
大正から昭和にかけた時代は、大沢商会の存在が大きかった

《昭和三年》 大正から昭和にかけた時代は、銀座にあった大沢商会の存在が大きかった。京都出身の大沢商会は、飛ぶ鳥を落とす勢いの商社だった。中でも岩沙兼松常務がすこぶる私と相性があった。近所には天野商店、小西光沢堂、たまには神保町の三直商店、上野の吉田時計店、村上時計店など懐かしい顔ぶればかり。京橋には業界では最古参と言われる溝口万吉商店があり、そこから出て成功を収めた涌井商店、上野商店の両店が華やかな業績を上げていた。
その他、蓄音機業界では、銀座十字堂、銀座ヤマノ楽器店、三光堂、日東貿易,日畜、ビクター等の各営業所が点在していた。

初めての精工舎の工場見学を企画、全国から五百余名が参加
全国の時計業者を集めて「第一回全国大会」を開く

《昭和三年》 昔から石の上にも3年という諺があり、私が主宰した「商品興信新聞」なる時計専門紙も曲がりなりにも三年を迎えた。そこで新しい事業として時計業者の意見統一を図るため、本紙主催の「精工舎の工場見学」という企画を考えた。
震災後、東京・中央区の銀座ニ丁目にあった服部時計店仮営業所の中川豊吉支配人を訪ね、私が企画した工場見学について頼んでみた。体重二十貫という巨体を揺らして会ってくれた中川支配人は「素晴らしい企画」と褒めてくれた。当時の服部金太郎社長に聞いてくれることになった。翌日、見学許可が下りて、その内容について説明することになった。
服部時計店の大塚宣伝部長を交えて太平町の精工舎事務局と綿密な打ち合わせをするように指示を受け、当日の参加メンバー及びのリストの提出など精工舎の河田常務に届けた。大会は五月五日、午前八時から見学できることになった。参加者は地元の東京は勿論のこと、北は北海道、西は大阪、九州、更には上海地区を代表して上海時計商組合長の宮沢網三氏までが参加したのだから、会場の賑わいときたら、想像を絶した。見学者は五百余名に達した。

全国大会の会場を上野・精養軒にして全国から五百名の業者が集う
成功裏に終了した全国大会

《昭和3年》 かくして工場見学は、八時三十分きっかりにスタート二十名を一団に分けて編成し、腕章を付けた案内人により順序よく参観した。工場内は、紅白の幕が張られ、その歓迎ぶりは大変なモノ。しかも休憩所にはお菓子とお茶が用意され、更にはお弁当までも用意してくれる待遇の良さ。これが、「世界の時計セイコー」が業者に施した善意であった。
会場を上野・精養軒にして設営人が首を長くして待っていたが、開会時間の十三時を過ぎても先着陣が到着しない。二十人を一組にして、見学する時間を見ると、参加者が五百人を超えているのだから、間に合うはずがない。ついには開会時間が十四時三十分を超えていた。
本紙の藤井勇二社長が開会宣言、ついで商工省の牧野良三参与官が床次商工大臣に代わって「国家経済と日本の時計工業」と題する講演が行われ、好評された。
続いて上海時計商組合長の宮沢網三氏はじめ、各地の組合長らが順次挨拶、盛大に終了した。

時計業界の全国大会が定着、五年間続いた見学事業
昭和三年に行った「精工舎の工場見学」によるもの

《昭和三年》 昭和三年の第一回の帝国ホテルを皮切りに、昭和四年の第二回同じく帝国ホテル、昭和五年の第三回は東京会館、昭和六年の第四回と昭和七年の第五回は上野精養軒と五年連続で全国大会を開催、定着した。翌年の昭和八年、日本と満州両国間の業者大座談会を開催、これも時計業界内では大きな出来事として後世に語り継がれた。過ぐる昭和六年に勃発した満州事変で日満の経済的に両国間のつながりが深まったことにあった。この時計業者による全国大会の成功は、昭和三年に行った「精工舎の工場見学」によるものであり、この企画を受けてくれた精工舎の服部金太郎社長に感謝する。
昭和五年の五月に行われた今上天皇陛下のご即位式当時、この式典に参袈するため、その日の服部翁の晴れ姿を写し、後生に残すために京都三条河原町の牛塚別邸に警戒厳重な非常線を突破して、翁の写真を撮るための光景は、在りし日の報恩の一つに思い浮かべている。

プロとしての目を肥やし、メンツで臨む交換会
昭和初期の交換会「セリ市」

《明治10年》 横浜で時計組合が初めて出来たころから開時会と評して、時計などの交換市場が東京市内の貸席を会場にして毎月定期的に開かれていた。
確か、昭和二,三年のころ、京橋の組合員時代の知り合いであり、神戸税関当時の関係で付き合っていた松林互三さんという人が、京橋の桶町にいた。その松林互三さんに連れていかれた交換市場の取引状態を見ていると、時計のほか、交換会が終わってから、松林さんが出品したダイヤモンドのセリが始まった。松林さんの手から離れたダイヤモンドは、出品者の思う値段には届かないまま叩かれてしまうのが多く、その都度テッポー代として金五円を払うことになる。それが六,七回続いただろうか、最後のダイヤモンド一つをセリで売ることにした。だが売り価格は原価を切ることになったとこぼしていた。交換市場とは、プロの目で出品した品物の値段をつける真剣勝負の場であり、一度場に臨んだからには一品も売らずに帰るのは、商売人として顔が立たない。そんな各具で場に臨んでいるのだと説明してくれた。

昭和19年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤め
時計の交換市場の開設を企画、時計・貴金属業者を一堂に集めることに成功

《昭和20年》 8月15日、大東亜戦争終結の大昭は発令されたその年の10月のことである。当時戦争の為、新聞の発行を中断せざるを得なかった関係から、昭和19年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計修理を専業とする日本計器工業鰍フ代表者として連日役所の時計部に詰めていた。この経験から時計の交換市場の開設を企画した。現在の稲荷町にあった三津和屋の三階広間を会場にして交換市場の開催に踏み切った。これで疎開先などバラバラになっていた時計・貴金属業者を一堂に集めることに成功した。

昭和初期時代の交換会
セリ場の光景などを見る

《昭和二十年》 私は業界の各方面から好意的にみられていた。ジャーナリストでは、到底入れない場所でも、特別に入れてもらうことがしばしばあった。明治十年頃、横浜で時計組合が始めて出来た頃から「開時会」なる時計などの交換市場が東京市内の貸席を会場にして、毎月定期的に開かれていたのである。たしか昭和二、三年の頃のことだと思うが、京橋組合時代からの知り合いであり、神戸税関当時の関係を通じてつきあっている間柄の松林丑三さんという人がこの頃京橋・桶町にいた。その松林さんが私を市場に連れて行ってやると誘ってくれたので、興味にひかされてついていったのである。その場の取引状態を見ていると、時計その他の交換物の取引が終ってから松林さんの出品するダイヤモンドのセリ場にかかった。その場には、原清、古川、伊藤、若松、三輪、西川、牧野、構(牛込)ら諸氏の顔が見られた。すると松林さんの手から離れたダイヤモンドは、出品者の思う値段に届かないままに叩かれて終のが多く、その都度テッポー代として金五円也を出さなければならない。それが六、七回も続いただろうか、その揚句に最後の一つのダイヤをセリ価格で売ることにしたのであったが、その場の値段では出品者たる松林さんの原価を切ることになるとコボしていたことを今でも覚えている。
あとでこのときの様子について松林さんに聞いてみたところ、市場取引というものは、いうなれば“生馬の眼玉を抜くようなもの”で、その出品者の如何によって、品物に対する値段のつけ方と、その場の空気が変わることになるものだ。だが然し、商売をしている以上、一度その場に臨んだからには一品も売らずに帰るのは何んとなくつき合い悪くなるので、損を覚悟で売ることにしたのだと説明してくれた。
交換市場というものの性格がこの説明によって少しく分かるようになった気がしたのである。私は、これを現実に生かしてみることが出来る機会を得た。それは昭和二十年八月十五日の正午を期して、大東亜戦争終結の大昭が渙発されたその年の十月に到ってのことである。
当時私は戦争のために新聞というものを中断せざるを得ない関係から昭和十九年から軍需省航空兵器総局に判任官として勤める立場を取っていた。時計修理を専業とする日本計器工業株式会社の代表取締役として連日役所の時計部に詰め切っていた。この経験から商品扱いの面では、少しは訓練されたことになっていた。そこで交換市場の開設を企画した
下谷・南稲荷町の美津和屋の三階の広場を会場にして、十月に開催することに踏み切った。
この会の開催は、疎開でバラバラになっていた時計・貴金属取扱業者を一堂に集めることに成功した。
この時の企画の意図は、前述したような昭和初期時代における物品交換市場のそれを実地に見た経験に基づいたからである。人間というものは、なせば成るものであり、なさねばならないものであるという、その為の研究に常日頃から努力していた効果が、この時実現したものと痛感した次第である。

「東京徽章メダル商業組合」の設立当時
初代組合長には、同業者を輩出している功労者の鈴木梅吉氏

《昭和二年》 時計店が副業的販売品として取扱っていた徽章、メタル、バックル類は古くから貴金属業者が七宝製品などを取扱っていた関係で営業品目の中に入れていたが、大正時代に入ってから徽章、バッチ類を専門業とする傾向が増えて案外の伸びを示すようになって来た。徽章業界の存在も時計界の関連傘下に吸収される状勢を見せていた。
そのような関係で徽章界の状況は、注文発注の場を通じての競争風景ときたら、とてつもない激しいほどの行動が見られたものだ。この頃の徽章界にも組合の設立が出来ないものかという機運が高まってきた。この頃の徽章界は飯田町三丁目にあった帝国徽章商会の鈴木梅吉氏の門下を出たものがほとんどだったが、時勢が然らしめたというのか、この鈴木氏の門を出た同業者間の勢力争いも一際旺盛を極めていた時代であった。その昭和二年の頃私は出井、小林氏ら業者間の希望を入れて、「東京徽章メタル商組合」を設立することに努め、成功していた。そんな関係で以来、組合の事務所を文京区・湯島の本社に置き、事務その他の面も指導していた。初代組合長には、同業者を輩出している功労者の鈴木梅吉氏を推し(長男の鈴木周三郎氏代理)で発足、二代目に小山久好氏、三代目は坂入寛一氏、四代目は、出井篤三氏の順番で交代している。



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