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昭和十年に政府発注の満州事変従軍徽章の製造作業を民間に請け負わせる
組合員出資は七千五百円、都の助成金十五万円を収受、機械設備フレクション七台

《昭和十年》 昭和十年に政府発注の満州事変従軍徽章の製造作業を民間に請け負わせることになった際は、大阪造幣局に私が主導者となって出張入札を行なったものだ。その時の落札単価は一個につき二円という最低価格で、大阪の正美堂始め全国有数の大手業者を相手に落札にまで持っていったその時の努力は、商敵の如何を問わず立会った人々から激賞されたものだ。その時の第一回受注量四十二万個は、造幣局東京出張所の検査の下に完納された。
この時の業界状況について特記しておきたいことは、この頃は、満州事変が終ったあとの北支事変から姿を変えて支那事変にまで戦局は拡大進展していた時代である。従って昭和九年の工業組合令、物資統制令、これに次ぐ昭和十一年の七・七禁止令などの連続発令により、国内の産業状態は巌に緊縮されていた時だっただけに、政府の発注仕事というものは、資材供給等の関係事情も手伝って、受注の場における競争状態ときたらとてもではないが、激しい光景が展開されたものである。
それだけに、この時の受注に関する諸設備上の完璧性を進める必要を考えたので、昭和九年商工省令による工業組合設立の手続きをとる方針を立てた。そのため、家内工業組織の下で働いている既存の徴章、メダル業者群の説き伏せ役に私自身が飛廻ったものだ。
かくして「東京徽章工業組合」を設立するに至ったのである。引続き、工業組合制度の助成を仰ぐ方法と手順を進め、東京都側の許可を得たので、東京・板橋区成増町に二千余坪の敷地を求め、これにフレクションなどの工作設備機械七台を取入れた共同作業場の完成を見ることになった次第である。この時の組合員出資は七千五百円、都の助成金十五万円を収受、機械設備フレクション七台とその他付属工具類を含めた許可により、榎本製作所に依頼して完成したのである。この初代理事長に青木了氏が就任したが、終戦後株式会社に組織を変えたのを機会に大半の株式を買い取って青木氏の個人的経営に変貌している「東京徽章株式会社」というのがその全貌である。

精工舎製品と吉田時計店が角逐していた頃
吉田時計店の抽選券付き「歳末仕入れ展示会」の企画の勝利

《昭和初期》 当時の時計界は、精工舎から腕時計が売出されたといっても量的にはまだまだ需要関係には何等の影響をもたらされなかった時代である。それだけに、なお舶来品に限られたような時代でもあったので、小売界は依然舶来一本ということでお客筋には奨めていたようである。それだけに大物時計の類での良品は、舶来品が第一にあげられウエストミンスター、キンッレ、Jマーク等々、置時計ではこれに食い込んで精工舎の石伜物と目覚ましがなんといっても幅をきかせていた。その頃の商況を販売面から見たとき、同業者間では、心中穏やかならぬものがあったであうか。時計については、セイコー対東洋時計という色彩がだんだん濃くなっていった。
最も服部時計店対吉田時計店という勢力の中には、商品の種類を通じて、この頃、対立的状況が漸次追い込んでいたからでもあろう。従って、当時の吉田時計店のサービスぶりはよかった。毎年一月十五日には東京所内の一流小売店を招いて、暮を目指して催した「歳末セール」では抽選会を行って、上野精養軒で宴会を開くのが例になっていた。
この当時、時計の問屋の招待会というのは、この吉田時計店以外には見当らなかっただけに、吉田時計店の小売界における評判はたいしたものだった。それがだんだん、服部対吉田という構図になった。そしてまたこのことが、吉田時計店をしてオリエント時計工場の発祥ということの気運にも継がれるものであったともいえる。
なおこの他置き時計の種類では、東京時計の石枠物がこの頃だんだん販売上に勢力を増して来た。その結果、服部時計対東洋時計の競り合う中に登場してきたのが、足固めを計ったことになったのが、この両社の間に食い入ることは、既存の販売力を持つものと持たないものの格差がㇵッキリ現われていたのであったから大いに苦心讃嘆したもののようである。東京時計の佐藤現社長の当時の苦心と努力は、日本時計界の奮闘史の中に一頁を飾るにふさわしい貴重な資料である。写真は、昭和初期のイノシシが印刷された10円紙幣。

二世たちで作った「東京研交会」設立の頃
二世の平野君が何くれと無く協力してくれた

《昭和五年》 大正十五年という年は、景気は余りよくなかった。そこへ日本国王の大正天皇がご病気ということと、その十一月になって崩御が伝えられたことから、一国の元主が亡くなったという気分も手伝ってか景気が良い筈がない。一般的には、ぼやけていたような空気に思えた。従って、昭和二年を迎えるための新年号というものは、黒枠つきの大正天皇御崩御という見出しが躍っていた。新闘と共に広告そのものの全体が派手に飾れない状態の時代だった。
私はそのような経過の中で考えてみた。世の中というものはその一代限りのものではない。大正天皇が亡くなられたそのあとは、直ちに皇太子がお世継ぎされることになったように、
各業者間関係における場合でも、それに準じた用意さがなければならないものだと。
そこで銀座の平野時計店のご主人、峰三さんに意見を聞いてみたところが、それはいい思いつきだ、早速、自分の息子(昌之)も慶応大学を出ただけのことで商売面にはまだうといからその二世団体の仲間に入れてもらいたいということだったので、これによって私は大いに勇気づけられた。「東京研交会」なるもののプラン作りの時には、二世の平野君が何くれと無く協力してくれた。写真は、昭和5年大阪の天六に集合した東西の研交会の集まり。

大阪における「大阪研交会」の誕生は、富尾時計店社長の肝入りで
現在は十四名のメンバーに及んでいるようである

《昭和五年》 その頃、大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するのが常だった。その都度平野時計店に寄っていたので、東京研交会の設立準備についても冨尾さんに話しておいた。
かくして研交会は参加メンバーを整えて、翌年二月十一日紀元節の日に帝国ホテルにおいて発会式をあげた。その時のメンバーは平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(時小)、小柳政重(眼小)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(蓄卸)、小西孝信(小西光沢堂)、古川清太郎(時小)、大場孝三(時小)、秦伊兵衛(時小)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、藤井勇二(本社社長)を加えて現在は十名になっている。
発会以来、昭和四十一年で満四十周年になる。この間、会員同志は毎月十一日を例会日として定め爾来一回も欠かさず和やかな例会を続けている。なお東京の例に倣って大阪における二世「大阪研交会」の誕生は、富尾時計店社長の肝入りで、私が飛び歩いた結果で翌年に創立された。現在は十四名に及んでいるようである。新規加入者は、秦藤次、山岡保之助、岡田政人の三氏。写真は、昭和26年京都の史跡めぐりをした東西研交会。

精工舎は、大正十二年の関東大震災の災害復旧を翌年に復興
服部時計店から売り出された九型、十型の腕時計にスイス勢が深い関心を

《大正十二年》 服部時計店の工場である「精工舎」は、大正十二年の関東大震災の災害復旧を俟って翌年の十三年に至り復興作業が緒につき、腕時計の製造にも本腰を入れる段階になった。
腕時計が生産された最初は、大正十四年で初めに九型を発売した。よく十五年には十型腕時計を発売したが、この頃から精工舎の腕時計製作部門については、外部から注目が集まっていた。特に、スイス勢からの関心が高く、服部時計店から売り出された九型、十型の腕時計を手に入れ、動き具合をテストしているほどで、このような状況からして日本の腕時計工業の将来性にスイスの時計業界では深い関心を寄せていたものである。写真は、明治時代の精工舎工場。

精工舎では大正十五年、十六型堤時計を完成している
昭和二十年の八月十五日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行

《大正十五年》 精工舎では大正十五年、震災当時の災害から立ち直ることが出来たのを契機に、その年に十六型堤時計を完成している。続いて昭和二年に八型腕時計の製造を開始し、同年三年には、腕時計の生産に備えるために二千三百坪の工場を増築、五年間という歳月をかけて完成させた。
昭和七年には、腕時計の最小小型の五型を発売する域にまで伸展した。かくして昭和十二年に日華事変が始まったことから、軍需品の受注関係が生じて腕・懐中時計の工場を分離して第二精工舎を資本金五百万円で東京・亀戸に設立した。
しかしこの間、服部金太郎翁は昭和九年三月一日、確たる業績を残し、惜しまれながら他界した。
続いて戦時状態の拡大により、昭和二十年までは軍需面の生産が中心となり、時計の製造は、作業継続という範囲に縮小せざるを得なかった。昭和二十年の八月十五日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行していく。
当時の精工舎の生産状況は次の通り。▽昭和35年=3,690個、▽昭和36年=4,740個、▽昭和37年=5,700個、▽昭和38年=6,080個、▽昭和9年=7,442個(単位千個)。

大戦前の国産時計メーカー群の状況
精工舎とシチズン時計が群を抜いていた

《大正15年》 日本における時計工業は、掛時計に次いで懐中時計、腕時計の順に開発されてきた。精密を要する懐中時計または腕時計メーカーの存立は、精工舎の事業企画が発展して懐中時計に次いで、大正15年に腕時計を発売した。同社は大正14年に腕時計を作り始め、同15年に懐中時計とともに腕時計10型を発売している。
シチズン時計は大正7年に山崎亀吉氏が経営していた尚工舎製作所内に時計研究所を設立、時計の製造を目論み、懐中時計を発売している。そのあと昭和5年、中島与三郎氏の英断でシチズン時計を再建、ミドーとスターを模倣した腕時計の製作を開始した。
このほかに、時計の卸を経営していた鶴巻栄松氏が設立した栄工舎が、大正13年に発足、昭和2年から目覚まし時計に次いで、「スリゲル」、電気時計などの製造を開始、腕時計は昭和10年に着手し、昭和12年、「センター」、「オルター」のブランドで市販を開始している。

昭和5年、再建して復活したシチズン時計
資本金三十億円、時計の月産三十五万個の生産能力を持っていた

《昭和5年》 シチズン時計の現況は、セイコー時計と並んで日本製時計の中野キリン児的存在として広く海外にまでその性能を誇っていた。その発祥は、昭和五年、再建して復活したシチズン時計鰍フ初代役員には、日本の貴金属業界で横綱格であった東京・日本橋の山崎商店(旧清水商店)社長であった山崎亀吉氏を取締役会長にして、中島与三郎氏が取締役社長に就任していた。
しかしこの会社の設立にあたっては、中島さんが、かねてエル・シュミット工場時代の取引先であった小林時計店、金森時計店、大沢商会、澤本時計店、大阪の富尾時計店などに相談を求め、その間の働きぶりは、すこぶる活発であったようだ。
当時のシチズン時計の現勢力は、山田栄一社長、大田敬一専務を業務の主軸に置き、大きく羽ばたいていた。資本金三十億円、時計の月産三十五万個の生産能力を持っていた。

大正十一年当時、月産三万個を生産したプリンス時計
池袋に所在した村松時計製作所が近藤康平男爵との共同経営で発足した

《大正十一年》 プリンス時計は、東京・豊島区池袋に所在した村松時計製作所が大正十一年五月、合資組織による村松恵一氏の経営に始まり、大正三年、中野某と近藤康平男爵との共同経営で発足した。当初は、堤時計を作っていたが昭和15年末には、九、十型の腕時計のキーボードを市販、月産三万個を生産した記録がある。

オリエント時計は昭和25年7月、一億円の資本で生まれ変わった
東洋時計と浦田時計製作所が共同で工場を設けて置き時計の製造を開始

《大正九年》 オリエント時計は、東京・黒門町の時計卸・吉田時計店の直轄工場の東洋時計と大正九年、東京・小石川に設立してあった時計側工場の浦田時計製作所と共同で巣鴨に工場を設けて置き時計の製造を開始、昭和八年、埼玉県上尾に同工場の移転拡張を図り、腕時計の製造を昭和十八年、南多摩郡日野町に鉄筋コンクリート三階建て工場を完成したまま軍需品工場に転換する状況をたどっている。オリエント時計は昭和二十五年七月、一億円の資本で生まれ変わった。



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