| 享保二年(約百五十年前)創業の小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高めた
《明冶十六、七年頃》 我国時計業としての草分けは、江戸時代の八官町に居を据えた小林伝次郎氏に出るものはあるまい。享保二年(約百五十年前)創業になる小林伝次郎氏が時計鍛冶屋として御時計師の名を高め、西欧文化鎖国の夢を破り、江戸が東京と変る頃、尺時計を製造して江戸文化に貢献したのが時計界の始めであろうと言われている。 爾来、小林伝次郎氏の師弟の門を出する者、人形町に小島、銀座に竹内治右衛門(銀座一丁目七)、牛込の菊岡(肴町七)、鉄砲町に小沢金平、小川町の中江幾次郎、浅草の永田新次郎、本町の金田一平等があり、小林の一門を以て総て当時の時計業界は形作られていたものである。其の頃、明冶初年、既に紅毛時計として機械式が横浜の山下町に渡来した。 ファーブル・ブラント、コロン、ワーゲン等の輸入商館の手に依って売られ、小林一門の人々に依って、斯次時計の翫味は広められて行き、貴金属と袋物商人がこの部門に割って入り込むようになってきた。明冶十六、七年頃には、既に東京では大小業者取混ぜてΞ百人に無んとしていた。本邦時計界は、其の頃より急激な発展を想わせている。 次に表わした「東京時計繁盛鏡」は、当時の業界情況を知るに充分であろう。 |
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