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金田氏は、「金一万円は私が払うから書類を渡してくれ」と哀訴嘆願された
私はその書類を文京区の金田氏宅に届けた

《昭和十八年》 ちょつと横道に外れるが、このあとでこの当時の陳情運動に使った書類の利用性が起きて来た。東京地検における問題についてである。
そこで私に、陳情した当時の書類の一括提供を求めてきたものがあった。このとき私は、ハッキリと断った。何故なら、このときのダイヤモンド問題に関する陳情か成功した暁には、その報酬として私に金一万円を与える約束が日本橋倶楽部で、然も大勢の人の面前で約束されていたのである。それが前述のような具合で横流れ式のようにされてしまったのだから、腹くそ悪いということになったのは当然のことである。その時、私に電話をかけた金田氏は、「約束のその金一万円は私か責任を持って払うから一件書類を渡してくれ」と哀訴嘆願されたのである。真実のこもったその声に答えて、私はその書類を文京区の上富士前町の金田氏宅に要求された通りに手渡したのである。東京地検での効用が見られなかったようであり同情する。だが戦時中、白金に絡む事件は、国賊の汚名によって裁かれるものであるから、甚だしい不名誉な結末に終ったわけである。

総動員法が発令された頃の業界
軍の計器精密修理班という企画を申請することに

《昭和十八年》 昭和十八年に到ってからの戦局は急速度に進展したので、国家総動員法
がついに発令されるに到った。こういう時代になってきては、もうあれもこれもあったものではないという時代となった。生きのびてきた業界内の新聞の二つについても廃刊命令が打出された。日刊新聞は、五大新聞を残してあとは総てのものが廃刊、そして総動員法の命ずるところに従って、勤労奉仕をするもの、まは徴用命令に従うものなどで時計屋のおやじも番頭も何もかも若いものから姿を消してしまった時代となったのである。
前述したダイヤモンドの買上げも輸出の促進運動のその後の動きも何もかも処置なしという時代に入ったのである。
私は一考した。それは修理班を編成して南方や北支、中支の軍方面慰問に進出企画を計ったのとは逆に、私の社屋を活用して、軍の計器精密修理班という企画を申請することが、良策だと考えた。その結果、私の社の近くに開設していた中沢某という修理所に、時折訪れたことのある関係で顔見知りになった野口某という人の協力を得て、軍需省航空兵器総局入りの手続きをとったのである。
たしか昭和十九年の春早々の頃だったと思う。願書の届先は、軍需省航空兵器総局官房長官宛だった。照会者は、日省主計課の某中佐であった。この申請に対して即日出頭するようにとの通達に接したので出頭してみると、逐一の質問があったあとで任官辞令が渡された。当時の房長官は田中という少佐だったと覚えている。

私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になった
日本計器工業KKに衣変えして

《昭和十八年》 私がこの時計修理塾を企図して軍需省の嘱託になるのには、一つの望みがある。事情の概略は、戦局がだんだんたけなわになって人々が徴用命令に応じて行くようになり、時計修理をする数が極めて少なくなっていった時だから。(昭和十六年以降、十七、八年には極度に減少した)。そのため勢い修理資材が配給されなくなった。
時計修理のためには欠くことができないベンジンの如きは、血の一滴とまで称された時代である。日本は島国であり、その島を米、英、支の連合国軍が海上を包囲して経済封鎖を行なっていた時代であるから無理はない。
そこで業界新聞というものが廃刊命令を受けたことを知って、私の社へ修理業の開始を頼みこんで来た人がいる。先に故人となった熊谷忠治という人が一番だった。熊谷君は、俗称熊忠といったものだ。この熊忠さんの手直し技術ときたらスゴイもので、特に名人的技巧の点をあげると、セイコーの十半をロンジンか才メガに作り替えるのが巧妙であったという。私の眼の前でこの特技をやって見せたことがある。実にこの偽作時計の点では、日本一の称を冠せられると思う。但しその技巧のお陰で大分もうけさせてもらったといっている人が関西辺りにいた筈だ。

徴用免れの手段としてサビ取り液も造り売った
塩素を水で割り、鉄の粉を入れて沸騰させるだけ 

《昭和十八年》 その熊忠さんは、話術についても特別に長じていた。その翌日、私の社
ヘー人の友人を同伴してきた。早速直し仕事を始めて終ったのである。私も器用な手際の程を見て驚いた。今度は、サビ取液の簡易発売を持出してきた。塩素を水で割り、これを一方のビンにつめてある鉄の粉を入れて沸騰させれば、たちまちにして鉄分の赤サビは落ちるのである。この理に基づいて作り、当時発売したことがある。大いに売れたものだ。このようなことで、時計の修理ということに縁が付き、又別には理論と実際に即した時計修理技術という出版物を刊行した経験からも考えた結果で、かくは修理業務という点に着眼したものであった。
そして徴用免れの手段にもなるということであれば、時計店の店主も倅も望むことは総じて集まってくるであろうと考えたからである。

「軍需省航空兵器総局指定工場」の金看板を掲げた頃の転業状況
ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども

《昭和十八年》 以上のような経過で「日本計器工業株式会社」という立場から私は判任官ということに決り、修理勤務をする人は雇員ということで、当局との間はOKになった。社に帰ってから業務の開始を宣言した。社の表看板の金文字は「軍需省航空兵器総局指定工場日本計器工業株式会社」と鮮やかに記されたので、当時としては、時めく軍の事業だけに人々は驚いたようである。
電灯会社を呼んで電線をクモの巣の如くに張りめぐらせるのも軍当局の指令書に基いてのことだけに、なかなか光彩を放ったものだ。
日本計器工業株式会社と名称を替えた本社内は、時計修理工場に必要な設備を整えることになった。それだからといって、修理だけのことだから、大した設備というものもない。机を修理台に利用する程度で足りていた。この頃は、何事につけても物資不足の折柄でもあり、且つ足りなくても済まされていた時代であっただけに、物ごとに理想的という案件などは考えられない時でもあったので、先ず直しの道具は各人が手持ということにしてあった。そこで会社で整える必備品は、ベンジンが何よりも大切であったのだ。
然し、このベンジンは軍の御用仕事ということになっていたから軍需省からの供給が約束されて、そこに時計の修理事業が成立ったということになる。工場の作業員は時計店の経営者を当てることにした。
この頃は、軍の徴用令によって米屋のおやじも酒屋のおやじも誰も彼も徴用されていた時代だけに時計屋自身の各人にもこの徴用令状が舞い込んで来た時である。だからこの徴用令状を免れるために、軍需省航空兵器総局指定修理工場の設立が目指されたのである。
従って作業上の組織は時計店の関係者ということになり、工場長には越水保氏(現越水商店社長)を選定することに約束がなって以下十七人の時計店主らを作業員に集めたものだ。集まった者の中には、中野の浜田秀(故)、小岩の浜田、根岸の本田、三輪の佐藤、有楽町の竹本、村田等々、私は会社の代表取締役であるということで判任官の辞令を受けたが、その他の者は雇員ということで諒解をとった。
仕事の順序は、女事務員一人を伴れて毎日虎の門の庁舎まで通ったものだ。ゲートルを足に巻きつけての戦時体制の姿である。庁舎内の時計部で受けつける時計の修理個数は一日五十個ということに決めてあったのだが、時計部の窓際まで延々たる注文者の列が続いて打切りようもない。それが毎日続くのである。戦争が漸次激烈化して来てからは、諸外国に派遣されていた外交官連中が家族ぐるみ引揚げて来たその影響で、時計部に籍を置く者
の大半は高級階層の部類が多かった。それだけに修理に出す時計も、名柄は上等なものば
かりだったといいたいほど多かったものだ。ナルダン、ハミルトンのような高級品の女持用又はロンジンの薄い提時計なども海軍畑の将校連中から注文されたのが多かった。
修理料金は職場から伝票がついて廻って来たものに何割かの手数料を添付して注文者に渡したものである。この修理の外に、ときどき品物の注文があった。時計やバンドの類も。然し私は修理工場という建前で軍需省入りの認可をうけたのだからということで、品物を売ることには一切応じなかった。そこで今度来た時計屋はヒゲをはやしていてなかなか頑固な奴だという批評をしているという噂が私の耳に入って来たので、バンドだけは売ってやるということで取扱うことにした。
この頃のバンドは、男用はカーキ色の軍ハバンド、女持は丹羽さんか何かで作ったオペラだったと思う。バンド組合に話をして五十打ほど仕入れた。配給制になっていたので公定価格だから安かった。たしか藤松君が組合の書記長をしていた頃だと思う。

全国時計小売り組合が統制経済下の修理料金統一協定を作る
共に配給を許可された修理用ガソリンも

《昭和十七年》 組合活動のことで参考のため特記しておくことがある。それは戦時下に
おける時計業者の最大唯一の収入源であった時計修理料金の統一協定ということである。昭和十七年の頃、時計界は大東亜戦争へ突入した直後のことでもあり、営業上の総てが禁制措置をうけていた。そこで残る収入源は時計の修理という一項だけであるので業者の誰もがこの点に望みをかけていた時である。だから修理という仕事とそれによる収入は時計業者の命脈ともなっていたといっていいだろう。
この修理料金の協定基礎資料の提出について監督官庁である商工省当局から指令が出されたのである。その為、時計組合としては、当然当局のこの指令に応じなければならないのみか、一歩進んで修理用に欠くべからざるガソリンの配給という問題の解決にも特段の腐
心をしなければならなかったのである。そのため東京と名古屋、大阪地区の業界代表者会議を問くことになり、その中間地である愛知県蒲郡の常盤館を会場に定めて開催した。
東京時計組合長の野村菊次郎氏などは私的のことでも余り遠出などしたことのない人であったが、この会議にはわざわざ出向いて行ったのだからその重要性を思わせる。この時の会議に出席したメンバーは次の如く記録されている。(昭和四十年山岡氏回顧録から)。
▲東京組合:野村菊次郎、山岡猪之助、後藤安平、▲横浜組合:五味組合長、▲名古屋組合:恩田茂一、水谷、岡田の三氏、▲大阪組合:生駒氏以下数氏、▲神戸組合:美田組合長らの諸氏。かくしてこの会議で協議した結果の価格表を監督官庁たる商工省商工課に答申したのであるが合せてガソリンの配給方の陳情をも行った。この当時の係官は現在日本時計輸入協会の理事長になっている始関伊平氏(自民党代議士)であり、鏑木事務官邸その幕下に配属され業者側の申請に答えて統制経済下における時計の修理料金についての決定を見たのである。
最近では、この当時の行動を回顧して当の始関さんと会談する機会があるが思い出して苦笑するほどである。これらは正世紀の一大記録といえるものであろう。この修理料金表の決定と共に配給を許可された修理用ガソリンについては、戦時下だっただけに、血の一滴として貴重扱いされていたのはいうまでもない。

東京時計組合が皇軍慰問に、時計修理班を特派
職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた

《昭和十七年》 さらにこの頃、東京時計組合の役員内には、職域奉公の精神を発揮するための推進気運か強まっていた。たしかの梶山平三郎副組長の提唱だったと記憶するが、当時の組合事務所になっていた台東区東黒門町十九番地(現小峰材料店のところで野村組長の家屋)の事務所の楼上で役員会を開かれた時だった。この提案の結果によって、当時の三十六支部の、支部長からそれぞれ希望者を募集することになった。その結果、北支派遣軍慰問班と中支派遣軍慰問班が陸軍省関係の軍属となり、十人が班の編成人頭に指定されたと思う。これに続いて、海軍省の南方派遣軍慰問団も作られることになった。
これの編成には、当時芝支部長の任にあった金山重盛氏が当たった。牛込支部長の金子房太郎氏との接衙ということになったが、金子支部長の代役に奔走した高橋勝吉氏(練馬支部)が活躍した。かくて北支、中支派遣軍時計修理班慰問団の一行は、業者からの見送りをうけて勇躍奉公の任務に就いた後、金山氏を隊長とする南方派遣軍時計修理班の慰問団一行が次の十氏で編成、昭和十七年の九月八日に横須賀港を出発した。
◇隊長:金山重盛(中央支部)、◇副隊長:石川好雄(芝支部)、福田勉、市川彦左衛門、加藤(三田支部)、平塚専夫、清野豊吉(調布支部)、高橋勝治、野沢久次郎(三越修理部長)、熊谷。
一行は昭和十七年九月八日、横須賀港を運送船で出発した。慰問地は、サイパン、ラバール、トラック島を中心に活動した。サイパンまでは七日を要して到着したが、このサイパンの船中で演芸会を開演中、平塚氏は惜しくも病死した。この遺骨を持って一行は、修理班の奉仕に努め回ったものである。
ラバールには昭和十七年十月二十一日、当時猛烈な空襲にあったとき到着した。転じてトラック島には、その月の二十五日に到着したが、この頃は南方面は空中戦で華々しい戦局が報じられていた頃だったので、人心は少しくおじけづいていたようだったと班中の高橋氏は当時を追憶している。
この頃、テニヤン島のクエゼリン環礁の特派員から四十人乗りの潜行艇を持って修理班の転属を要請してきた。そこで、このクエゼリン島に出向くかどうかについて班員の意見がまとまらなかったので、遂に出向くように要望された金山隊長に高橋班員が強い抗議を行なったことになり、遂にケンカ騒動を起したことがある。然しそのクエゼリン島は間もなく全員玉砕したという報告を受け、胸を撫でおろしたそうだ。かくして、一行は昭和十七年十一月二十八日に、横浜港に無事帰港した。

民間所有のダイヤモンド買上品につき陳情したときの経過
輸出に向け外貨獲得の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動を

《昭和十七年》 昭和十八年ともなった頃は、戦争は益々たけなわとなり、大本営の報道官発表で東条英機陸相が内閣総理大臣になった直後であったから更に戦争への熱度が高まったように思えた。
この頃の業界関係は、廃品回収事業も各方面の努力で最高潮を過ぎたようにも思えた時である。組合としての陳情行も、既にこの頃の戦局を眼の前にしては、何がどうなるうと最早進むべき道は一つしかないといったように思えた状勢下であったようである。いうなれば業界関係は総じて「私しや川原の枯れススキ」とでもいった流行歌風調の時代ともなっていたのである。もっとも、この頃は業界の新聞陣営もご多分に漏れずというところ、当局命令で株式組織に改めた時計光学新聞(この頃山木君は退社)と私の社(時計蓄音器興信新聞)の二つだけしか存在していないという淋しい状況であった。
だが、状況をたぐって見ると、この頃関連業界中特に一沫の寂しさを感じていたのはダイヤモンドの取扱い業者であった。昭和十二年当時から、表同きの商取引はやれなくなっていた。その上、戦争状況がだんだんたけなわという状勢に転化して来たので、ダイヤモンドに関する限りは手も足も出ないという状況である。そこで、この頃二、三の有志者間で相談した結果打出したのは、ダイヤモンドの民間所有量の買上げ品を外貨獲得の面へ振向けようという案である。たしか昭和十七年の秋頃のことだと思う。
ある時、三輪真珠工業の三輪豊照社長から私の社に電話があり、ダイヤモンドの買い上げ運動について相談したいから協力してくれというのであった。私の新聞社は、昭和十五年に当局命令によって資本金三万円の株式会社に組織替えをしており、その株主七十五人程の中の一人に三輪さんが加盟していたのだから、それの返事には一も二もなかったのである。勿論、業界のためになることでもあるからということもあり、進んで協力することに決めたのである。
この時の運動方針取決めた会場は、当時日本橋浜町河岸にあった日本橋倶楽部であったと思う。この日の会議に出席していたメンバーは、京都、大阪、名古屋方面からの一流店の顔も見えていたので、全国的な集りだという感じが持てたのだ。
議長には故人となった古川伊三郎氏が就任、正式に陳情運動に対する決議を行ったのである。その席上で私は全員に紹介され、この陳情運動の主軸に活躍する旨依嘱されたのである。それから、その後の対策進行協議のため、当時、日本橋村松町に事業所をおいてあった松本商店の松本松之助社長店の三階に陣取り、連日に亘り、根気よく陳情書作りなどいろいろと協礒したものである。
この時集ったメンバーで覚えているのは、三輪豊照(故人)巽忠春、中島栄一(故人)、伊藤繁(故人)、松本松之助、西川杲(故人)、古川伊三郎(故人)、亀田基一(故人)、水渓直吉(故人)、金田徳治(故人)諸氏であるが、この運動に対する大役を特に私に嘱託したのは、過ぐる昭和十二年の当時、ダイヤモンドの十割課税を悪税として一気に一割までに引き下げに成功した実績を買われてのことだと思う。
その時よりも今回の陳情運動の方がはるかに困難性を帯びていたのである。だが兎に角、民間所有のダイヤモンドの買上げに関する陳情書の仕上げが出来たので、これを商工省の当局側に提出すると共に、更に、買い上げたダイヤモンドの一部と、白金など高級貴金属品を含めたものをまとめて輸出に向け、外貨獲得という線の国策型へ積極的に推進工作をとるための運動をこれと合せて企画したのである。
これらを吸功させるために、暮も押し詰まった昭和十八年十二月二十八日付で湯島所在の本社内に積まれた一万八千余部に上る陳情書を全国の販売業者に向けて発送、それに調印協力方を求めたのである。暮の二十八日ともいえば誰もかも忘中忘という時であったので、止むなく日頃懇意にしていた梶田久冶郎、谷田賀良俱、荒木虎次郎氏ら業界の各界代表連に立合いを請うて、その実況を写真に撮っておいたのである。これがその時のスナップ。

大東亜戦争へ突入した頃の業界
時計、貴金属、眼鏡など資材がなく、すべてが生産中止に

《昭和十六年》 昭和十六年十二月八日に大東亜戦争への突入が宣せられた。それから戦
争が拡大されるや国内の諸事全般が政府の統制命令に絶対的に服さなければならなくなった。この結果、時計、貴金属、付属品、眼鏡等の関連業界は、ともに時局対策につき腐心していたことはいうまでもない。
この頃の業界状況を大別すると、ザットと次のようなものであったといえよう。
@ 時計業界では、メーカーは戦時体制に入っているので生産関係では、資材が割当配給による制限時代であっただけに思うように時計の生産も供給も出来ない。時計の輸入品は既に全面的にストップされ、その上五十円以上の時計は販売禁止という極端な統制令によらねばらない時代となって終っていた。
従って、品物をヤミ売りするにも現品が見つからないという時代になっていたのであるから、召集によって出征する者のために贈る、銭別代りの時計の入手などは特別の方法で品を発見に努めなければならなかった。勿論、値段はヤミ値に決っている。だが品物はそうざらにはなかったものだ。
だから、この頃は古物方面の業者が案外巾をきかせていたということになる。
A 貴金属品は全面的に販売禁止。そのため、時局処理方法として昭和十四年に早くも金銀製品商運盟なるものが設立して活躍している現状である。しかし、それもある程度目的品の回収が進んで来たので、更にその収荷品の処理方法にまで及んで、一部は輸出へ、そして外貨獲得という国策的指線に向って進んだほどである。この頃、代用地金にサンプラチナが利用されていた。
B 時計バンド関係では、全く原料資材使用禁止のために営業は自然的に皆無。ただ、軍需向け受注品として許可された範囲のものだけが、製作且つ配給の線に上っていたという状況であるから、従って組合活動の如きものもなくなっていた。
C 眼鏡業界での関係も資材に関係するものはその如く禁止であった。だからこの頃から白金代用地金として貴金属界に登場してきたニッケルを素材にしたサンプラチナが活用される時代に変っていたのである。
そこでこの頃は、時局対応策に動いていた東京時計同業組合の活躍に期待されていたわけ
である。だが一面、金銀製品商連盟肝いりで設立を進めた「全国時計装身具眼鏡組合連合
会」に対する期待も持たれていたわけである。
だから事業活動はというと、軍需品製作関係以外の部門は存在皆無という状態になっていたのだから、平常時に新聞陣営の活躍などを交えた業界間の活動というものも解消されたことになる。

「九・一八事件」当時の統制違反騒ぎ
品物が点々と売買された物品に関係した総ての業者連が総検挙された

《昭和十六年》 人間というものは、自由を求めることではどういう風に決め事をしよ
うと自由であるが、余り厳格すぎるとそう何日までも永く続けられるものではない。それらを証するに足る「九・一八事件」というのは、当時の業界人の耳目をそば立てたものである。以下その頃の騒ぎを紹介しよう。
この事件は昭和十五年七月三十日に起きている。当時の事件経過を概述すると、九・一八令によって物品の販売は釘づけされていた。しかし業者側では、品薄のために古物関係のものは売り込みがあれば商人である建前上買い取ることになる。本当は、それがこの頃の統制令に違反することになっていたのである。
この当時の事件の発端は、ある人から買取った白金の古物時計を、また仲間の連中と交換した。つまり、一つの品物が転々と仲間の間を通っていたというわけのものである。この「物資統制令違反」の罪で取締りの網にかかった中に、業者が紛失した白金側の提げ時計があった。それを発見した警視庁の渡辺清刑事の眼に映り、その品物が点々と売買されたものであるかどうかは別として、物品に関係した総ての業者連が別個に違反しているのである、という解釈に立って関係者の総検挙に踏み切ったのである。
この事件は、当時の日刊紙上にも大々的に記載されたので、時計業者間では俄然大騒ぎとなり、その対策本部を当時の時計組合(台東区東黒門町十九)の楼上において、随時取調べ関係の報告にもとづいて協議対策を練ったものである。結果は、東京地裁で数年間を要して解決したべこの白金時計そのものの取扱は、当時の価格釘づけという条項に照せば違反しているということになるのであるが、業者が落したというものを買売したものであるという立証が明らかにされた以上、違反に問われることはないと主張した被告側の弁論が勝利を制し、無罪という結論になったのである。
しかしそれ以来、業者間では自粛が強められたようであったからせめても幸いであったと結論付けた。このことで当時、昼夜を問わず努めた東京時計商工同業組合の職員は、池内直治氏が書記長で、丸太氏が次席、そのあとへ現書記長の青山君が昭和十七年頃入籟したのだ。



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